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姜尚中『ナショナリズム』―ナショナリズムと移民、国体(雑記)
山本七平『山本七平の日本の歴史(上)』(1)―夏目漱石『こころ』は「天皇制のパイロット・プラント」
イザヤ・ベンダサン(山本七平)『日本人と中国人』―「南京を総攻撃するも中国に土下座するも同じ」、他

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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

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2016年12月22日

姜尚中『ナショナリズム』―ナショナリズムと移民、国体(雑記)


ナショナリズム (思考のフロンティア)ナショナリズム (思考のフロンティア)
姜 尚中

岩波書店 2001-10-26

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 浅学の私ごときがナショナリズムについて何か特別な見解を持っているわけではないのだが、頑張って記事を書いてみる。まず、ナショナリズムがなぜ必要なのかを考えるにあたっては、国家がなぜ必要なのかに立ち戻らなければならない。国家起源の動態モデルの例としてカール・ドイッチュの説がある。ドイッチュは国家の起源を社会的コミュニケーションの連続性から説明する。彼によれば、国民(nation)とは次の2種類のコミュニケーションの積み重ねの産物である。第1に、財貨・資本・労働の移動に関するものである。第2に、情報に関するものである。

 資本主義の発展に伴って、交通や出版、通信の技術も発達し、これら2種類のコミュニケーションが進展し徐々に密度を増すと、財貨・資本・労働の結びつきが周辺と比較して強い地域が出現する。ドイッチュはこれを経済社会(society)と呼ぶ。また同時に、言語と文化(行動様式・思考様式の総体)における共通圏が成立するようになる。ドイッチュはこれを文化情報共同体(community)と呼ぶ。一定の地域である程度のコミュニケーション密度が長期間継続すると、そこは「くに」(country)となる。そして、そこに住む人たちが「民族」(people)と呼ばれるようになる。この「民族」(people)が自分たち独自の政府(government)つまり統治機構(state)を持ちたいと考えた瞬間に「民族」peopleは「国民」(nation)となる。こうした「民族」(nation)あるいは「国民」(nation)が実際に政府を樹立し成立するのが「国民国家」(nation-state)である。

 統治機構を持つということは、経済社会と文化情報共同体を管理・制御ないしは拡張・発展させるためのルールを策定することを意味する。そのルールに正解が1つしかないのであれば、地球上にはただ1つの国家が成立することとなる。いわゆる地球市民の誕生である。これに対して、そのルールが多様であるならば、その多様性の数だけ国家が生まれる。現代は多元国家社会であるから、後者の考え方に立脚していると言えるだろう。仮に人間が完全に合理的であれば、ただ1つのルールも成立しうるのかもしれない。しかし、人間は不完全な存在であるから、それゆえに多数の国家が導かれるのは自然の流れである。

 ナショナリズムは、統治のルールを策定した人々がこの世を去った後でも、国家が必要だと思わせるための動機である。あるいは、先代から引き継いだルールを現在の事情に合わせて調整する役割を担う覚悟である。いずれにしても、統治のルールが正統であると思わせるのがナショナリズムである。ただし、前述のように、ルールの正統性は客観的ではない。客観性があれば、ルールは結局1つに収斂し、単一国家が成立するはずだ。しかし、現実はこれと異なるので、正統性とは主観的である。主観的であるがゆえに、人によっては不自然さを覚える。不合理さを感じながらもなおそれが必要だと思わせるのは、国家に対する同情でも共感でもない。紛れもない愛である。我々は、愛する人に欠点を見出しても、それも含めて相手を愛することができる。

 国家はナショナリズムを高揚させるために、様々な手を打つ。典型的な手法は歴史教育である。ナショナリズムを重視する国家は、歴史教育において①建国の神話、②民族的優位性、③国家が過去に受けた傷を強調する傾向がある(以前の記事「鳥海靖『日・中・韓・露 歴史教科書はこんなに違う』―韓国の教科書は旧ソ連並みに社会主義的」を参照)。建国の神話は、統治のルールのプリミティブな源泉である。そのルールに基づいて創られた国家は、他の国家よりも優れていると刷り込む。そして、自国が優れているにもかかわらず、外部の国家から傷を受けたことを屈辱に思い、反骨心を燃やす。それがナショナリズムのエネルギー源となる。

 現在、グローバル化の進展に伴って移民が増加し、先進国のナショナリズムを脅かしていると言われる。先進国にとって、移民はナショナリズムを傷つける存在であるから、移民が増えれば増えるほど、ナショナリズムは否応なしに燃え上がる。そこで、移民を自国のナショナリズムに統合することはできないかと考えるようになる。例えば、ドイツは移民に対して日常生活で必要なドイツ語の教育を行い、ドイツのコミュニティに融合できるよう様々な支援を施している。

 ただ、個人的には、移民のナショナリズムを変えることは不可能に近いと考える。元々ヨーロッパ諸国は、国民国家が人為的に形成された国家である。まだ国家が脆弱で、ナショナリズムなるものがほとんど意識されていなかった時代には、一から国民国家を創造することもできただろう。しかし、現代は国民国家が成熟し、ナショナリズムを持つヨーロッパ諸国に、それとは別のナショナリズムを持つ移民が流入している。こうなると、いくら人為的に国民国家を創出した過去を持つヨーロッパと言えども、ナショナリズムの統合は困難を伴う。

 企業の合併においてさえ、双方の組織文化を統合することは難しい。よって、近年は合併せずに、経営統合によって持株会社を作り、その下に既存の企業をぶら下げるという手法が取られることが多い。こうすれば、組織文化の統合をあまり気にしなくても済む。企業ですらこんな具合なのだから、国家レベルでナショナリズムを統合するのは至難の業である。企業の場合、仮に組織統合に失敗しても、社員には企業を辞めるという選択肢がある。しかし、ナショナリズムの場合は、ナショナリズムの統合が気に入らないからと言って簡単に離脱することができない。だから、ナショナリズムの衝突は深刻な問題を引き起こす。

 やや話が逸れるが、日本は人種、経済社会、文化情報共同体の境界がほとんど奇跡的に一致していて、ほとんど自発的に国民国家が形成された国家である。近年、労働力不足を理由に移民の受け入れの是非が活発に議論されている。ヨーロッパでさえ苦労しているナショナリズムの統合を、日本がやすやすと行えるとは思えない。そうでなくても、日本は太平洋戦争で中国や朝鮮などの人々を完全に日本人化しようとして失敗している。このことを忘れてはならない。

 そもそも、移民の増加は本当にグローバル化のせいなのかという疑問が湧く。ヨーロッパに中東からの移民が流入しているのは、グローバル化が進展したからというよりも、アメリカを中心とする有志連合軍にヨーロッパ各国が参加し、シリアやISを空爆している結果である。よって、移民の増加は経済的な要因ではなく、政治的な要因である。だから、どうすれば移民を自国に統合できるか?移民と共存できるか?という問いは、問題の設定が誤っている。どうすれば移民が生じないようにできるかという政治的な問題に取り組まなければならない。

 一般的に、グローバル化した経済では、人、モノ、資金、情報、知識が国境を越えて自由に移動すると説明される。冒頭に挙げた経済社会は拡大傾向にある。経済社会が拡大すれば、新たな統治ルールが必要となる。しかし、現代において、新しい統治ルールのために国家が統合するという話はついぞ聞いたことがない。むしろ、国家の数は増える一方であり、特に小国の増加が目覚しい。その要因は、人だけは越境移動が少ないからではないかと思われる。

 確かに、外国で働く人は増えている。だが、その増加率は、他の要素の越境移動の増加率に比べると著しく低いと予想される。グローバル企業が外国に進出した場合、本社から現地法人に送り込まれる人間はごく少数で、ほとんどがローカル社員で構成される。特に、欧米企業はこういうマネジメントをやる傾向が強い。つまり、人の移動は大々的には発生しないのである。世界は思ったほどフラット化していない。よって、文化情報共同体は経済社会ほどには広がらない。むしろ、インターネットによって人々のコミュニケーションが密になると、文化情報共同体は分断される。これが、現代において小国が増加している一因であると考えられる。

 そうは言っても、移民や外国で働く人はゼロにはならないから、ナショナリズムの衝突に関する解決策も考えておかなければならない。そのためには、ナショナリズムの中身をもっと穏健なものにすべきだ。先ほど、ナショナリズム的な教育では、①建国の神話、②民族的優位性、③国家が過去に受けた傷を強調すると書いた。このうち、②③は他の民族との競争、衝突を想定している。つまり、他の民族と競争、衝突しなければナショナリズムを保つことができない。移民によるナショナリズムへの攻撃とは、ナショナリズムの性質そのものが招来した結果であるとも言える。したがって、ナショナリズムから比較、優劣という概念を外し、②は相互尊重に、③は民族の自信(もちろん、他の民族を打ち破ったという自信ではない)に置き換えなければならない。

 ここからは日本の話。日本では、ナショナリズムは国体という言葉で語られることが多い。しかし、この国体が指す意味は非常に曖昧である。太平洋戦争では国体のために国民が戦ったと説明されるが、軍・政府の要人から末端の国民まで、国体の中身を理解している人は誰一人としていなかったと、本書の著者である姜尚中氏も山本七平も同じように指摘している。

 強いて言うならば、国体とは天皇制のことではないかと私は考える。よって、国体は天皇に近い立場にある人にとっては非常に重要となる。だが、本来、天皇に近い立場にある人は少数である。日本社会は、本ブログでも何度か述べたように(以前の記事「山本七平『日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条』―日本組織の強みが弱みに転ずる時(1/2)」を参照)、垂直方向と水平方向に細かく区切られた巨大なピラミッド社会であり、日本人がそれぞれの持ち場で能力を発揮することを美徳とする。ピラミッドの下層に位置する大半の人にとって、頂点に位置する天皇は遠い存在である(同じことは日本人と政治の関係についても言える。日本人から見ると、米仏の大統領選では候補者と国民の距離が近いことに驚かされる)。

 太平洋戦争は、天皇と縁遠かった一般人を無理やり天皇に近づけて、社会全体をフラット化し、総力を動員する戦いであった。慣れない方法で戦った日本は結局敗れ、天皇に近づいた多くの人々は元のポジションに戻った。その時に彼らが見せた反応は驚くほど似ている。つまり、「本当にこの人が軍隊を率いていたのか?」と思わせるような、ひ弱な反応を示すのである。分際を超えた役割を担わされたことの現れである。姜尚中氏は、丸山眞男の論文から次の箇所を引用している(孫引きとなることをご容赦いただきたい)。
 彼ら〔戦犯裁判の被告〕に於ける権力的支配は心理的には強い自我意識に基づくのではなく、むしろ、国家権力との合一化に基づくのである。従ってそうした権威への依存性から放り出され、一箇の人間にかえった時の彼らはなんと弱々しく哀れな存在であることよ。だから戦犯裁判に於いて、土屋は青ざめ、古島は泣き、そうしてゲーリングは哄笑する。
(丸山眞男「超国家主義の論理と心理」)
 山本七平は、戦後に収監されたある将官の変化について次のように述べている。
 選び抜かれて将官となり、部下への生殺与奪の権を握っていたこの人たち、この人たちに本当に指揮者(リーダー)の資質があるなら、今でも何かを感ずるはずだが、それは感じられない。

 野戦軍の「将」であったのか、それならば、たとえこうなっても「檻の中の虎」に似た精悍さを感ずるはずだが、それもない。では何かの責任者だったのか、それならば最低限でも「部下の血」に対する懊悩から、こちらが顔をそむけたくなるような苦悩があるはずだ。(中略)そういう苦悩があるとさえ感じられない。
一下級将校の見た帝国陸軍 (文春文庫)一下級将校の見た帝国陸軍 (文春文庫)
山本 七平

文藝春秋 1987-08

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 天皇に近い人にとってナショナリズムが重要であるということは、裏を返すと、大半の国民にとってナショナリズムは関係がないことだと思われるかもしれない。しかし、私はそうは考えない。国民は天皇制を心象すればよい。その上で、巨大なピラミッド構造における自分の持ち場において、最善を尽くせばよい。というのも、巨大なピラミッドは、天皇が象徴すること、すなわち、

 ①歴史や伝統を重んじること。過去の遺産を引き継ぎ、生きている間に価値を加えて、よりよい形で次世代に引き継ぐこと。
 ②日本は天然資源に乏しい国である。そこで、限られた天然資源を有効に活用すること。
 ③一方で、日本人の能力は多様であり、様々な可能性があると信じること。学習によって個々の能力を伸ばし、適材適所を実現すること。
 ④集団・共同体・和を重んじ、仁の精神を実践すること。平時の際も危機の際も他者を助け、他者に奉仕し、秩序を守ること。
 ⑤③で日本人の能力の可能性を信じると書いたが、日本は西欧のように飛び抜けた天才に恵まれた国ではない。そこで、他国のよいところを積極的に取り入れることで能力を補うこと。その代わりに、他国に対する恩返しを忘れないこと。

を体現するように長い年月をかけて形成されてきたからだ(以前の記事「『混迷するアメリカ―大統領選の深層(『世界』2016年12月号)』―天皇のご公務が増えたのは我々国民の統合が足りないから、他」を参照)。つまり、それぞれの国民が自分のポジションで責任を全うすることが、天皇制の支持につながる。こういう”弱い”ナショナリズムが日本には合っていると思う。

 最後に1つ思考実験。仮に日本が移民だらけになった場合、それでもナショナリズムは存続するかという問いである。前述の通り、日本の場合はナショナリズム=国体=天皇制であるから、天皇制が存在する限りナショナリズムは存続すると考える(天皇制が続くということは、移民だらけになっても、皇室に入る日本国民が最低限度存在することを前提とする)。だが、移民だらけになった日本社会は、現在の社会とは似ても似つかぬものになるだろう。それでも天皇が前述の①~⑤を象徴していればナショナリズムが存続していると言えるのか、国民がほとんどいないのに①~⑤を象徴するとはどういうことなのか、①~⑤と現実社会が大幅に乖離していてもナショナリズムがあると言えるのか、これらの点については今の私には十分に論じることができない。

2014年07月25日

山本七平『山本七平の日本の歴史(上)』(1)―夏目漱石『こころ』は「天皇制のパイロット・プラント」


山本七平の日本の歴史〈上〉 (B選書)山本七平の日本の歴史〈上〉 (B選書)
山本 七平

ビジネス社 2005-02

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 「日本の歴史」というタイトルからして、日本の歴史を幅広く考察したものかと思ったが、夏目漱石の『こころ』と北畠親房の『神皇正統記』を通じて、日本の天皇制を論じるという、かなり独創的な著書であった。多分、本書の2割ぐらいしかまともに理解できていないが(それで書評を書くなと怒られそうだが・・・)、理解できた範囲で記事をまとめてみようと思う。

 (1)前半は夏目漱石の『こころ』が題材になっている。おそらく、漱石は『こころ』で天皇制を論じようとは露だにも思っていなかっただろう。また、著者自身も自覚しているように、『こころ』をはじめ漱石の作品は基本的に「空白」が少なく、読み手が様々な言葉を継ぎ足して自由な解釈を行うことを拒む傾向がある。にもかかわらず、著者の自由な論理展開によって、『こころ』を「天皇制のパイロット・プラント」に仕立て上げている。

 『こころ』は、「お嬢さん」に好意を寄せる「先生」と「友人K」の話であるが、もちろん著者はこれを安っぽい恋愛物語だとは思っていない。まず、「先生」も「友人K」も、個人的な欲望や社会的なしがらみといったあらゆる重力から解放された「純粋人間」であると規定する。「純粋人間」は、身を天地自然に委ねて生きてゆこうとする。いわゆる「則天去私」である。「純粋人間」は、自らは何の決断も行わず、天地自然=「道」が導くままに進んでいく。

 「先生」は、「お嬢さん」に対して世俗的な恋愛感情を超えた何かを感じ、それを通じて「道」との関係を結ぼうとした。これに対して「友人K」は、「道」と自分との直接的な関係の中に「お嬢さん」が入り込んできているかのように感じてしまった。だから「友人K」は「苦しい」と打ち明けたのであり、「先生」から「精神的に向上心のない者はばかだ」と言われて反論に窮してしまう。

 「先生」は「友人K」のことを「去私の人」と思い、「友人K」も「先生」のことを「去私の人」と思っていた。だから、2人の間には友情関係が成立していた。ところが、「先生」が「お嬢さん」に結婚を申し込んだことを「奥さん」から知らされた「友人K」は、「先生」が「去私の人」ではなかったと悟り自殺する。「先生」は最初、「友人K」の自殺の原因を恋に破れたからだと考えたが、実は自分に原因があったのではないかと思うようになり、「先生」も自殺する。

 『こころ』では、「お嬢さん」の意思が介在する場面が皆無に等しい。それもそのはずであり、「道」へと通じる「お嬢さん」は絶対的に「去私の人」でなければならず、自らが判断を下してはならないからである。だが、それゆえに、「お嬢さん」は強烈な「虚のエネルギー」を発揮して、「先生」や「友人K」を引きつけていく。この絶対的な「去私の人」を現実世界に探すならば、それは天皇に他ならない。天皇を頂点として「純粋人間」の集団が成立しているのが天皇制社会である。

 相手の中に「道」があると信じ、相手を理想化し、その相手のために最後は倒れる―この展開は、まさに先日「イザヤ・ベンダサン(山本七平)『日本人と中国人』―「南京を総攻撃するも中国に土下座するも同じ」」で書いた、中国に対する日本の態度と共通する。

 日本人は多神教を崇拝し、それぞれの人間に様々な仏性・神性が宿ると考えている。自らの仏性・神性が何であるかを知るためには、積極的に他者と交わらなければならない。他者との相違点を手がかりに、自分は何者かを徐々に理解していく。それが日本人の信仰であり、宗教である。日本人は、自己を確立するために、他者の存在を絶対的に必要としている。これは、唯一絶対の神を信じ、神と直接対話をすれば、他者を介さずとも自己理解を深められるとするアメリカ的なキリスト教とは大きく異なる(以前の記事「安岡正篤『活字活眼』―U理論では他者の存在がないがしろにされている気がする?」を参照)。

 だが、日本人は他者を媒介することでしか自己を理解できないため、臆病に、そして自信なさげに振舞わざるを得ない。日本人は常に他者の顔をうかがっている。臆病であっても他者と能動に交渉しているうちはよいが、臆病が過ぎると他者との関係が疎遠になる。すると、他者のことを勝手に理想化し、他者はこう考えていると勝手に推測するようになる。しかし、そういう芸当は、神との個人的対話に慣れたアメリカ人なら成功するかもしれないが、日本人ではまず成功しない。

 日本人は、推測が外れると、自分の方が他者のことを他者よりも知っていると強弁し、自分の考えを他者に押しつける。これは、まさに秀吉がアジアの平定を狙い、日本軍が南京を総攻撃した構図そのものである。他者からすれば、自分は何も干渉していないのに、相手から勝手な思い込みで勝手に攻め込まれるのだから、たまったものではない。

 だが、現在苦境に陥っている大企業がやっているのは、まさにこれと同じではないだろうか?市場に密着せず、安易にアメリカのイノベーションの真似をして、「これこそ市場のニーズに合致している」と自社が思い込んでいる製品・サービスを市場に強制する。市場に受け入れられないと、「我が社は新しい価値を『提案』している」、「市場のニーズを『先取り』している」などという聞こえのいい言葉でごまかそうとする。だが、これらの言葉は「市場=神や仏との対話が足りていない」ことを告白しているようなものなのかもしれない。

 (続く)

2014年07月23日

イザヤ・ベンダサン(山本七平)『日本人と中国人』―「南京を総攻撃するも中国に土下座するも同じ」、他


日本人と中国人―なぜ、あの国とまともに付き合えないのか (Non select)日本人と中国人―なぜ、あの国とまともに付き合えないのか (Non select)
イザヤ・ベンダサン 山本 七平

祥伝社 2005-01

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 イザヤ・ベンダサンとは山本七平の筆名である。本書が出版された当時は、著者が誰かをめぐって様々な憶測が飛び交ったそうだが、現在ではイザヤ・ベンダサン=山本七平で決着がついている。『山本七平の日本の歴史(上)』には、次のような文章が見られる。
 『諸君!』をぱらぱらと開いていたら、奇妙な広告が目についた。なぜ目についたかと言うと、その広告文の中に私の名前が出てきたからである。『殺す側の論理』という本で、その中に「天皇制擁護に汲々とする右翼文化人の代表ベンダサンとの公開討論」という言葉が出てきた。ハハァこれは面白い。もっとも「公開討論」は何かの誤りであろうが。(※太字は筆者)
山本七平の日本の歴史〈上〉 (B選書)山本七平の日本の歴史〈上〉 (B選書)
山本 七平

ビジネス社 2005-02

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 イザヤ・ベンダサンも山本七平も、天皇制を後醍醐天皇までの「前期天皇制」と、北朝以降の「後期天皇制」に分け、「後期天皇制」は武家が自らのために作ったもの、すなわち幕府(武家)を征夷大将軍に任命させるために、天皇を形式的官位授与権を持つ「山城の一小領主」(北朝)に封じ込めて、幕府を合法政権とするためのものと捉えている点で共通している。また、そのような天皇制の区分を最も意識していた人物として、新井白石の名前を挙げる点でも同じだ。何よりも、両者は論理の展開の仕方や文章のリズムが非常に似通っている。

 (1)「なぜ、あの国とまともに付き合えないのか」という副題がついていたため、てっきり日中のぎくしゃくした関係の原因を中国に求めた本だと思っていた。しかし、日中関係の障害は、実は日本自身の中にある、というのが著者の主張である。「問題の原因を外部環境に求めず、自らに求めよ」という、自己啓発本によくありそうな言説を一応支持していながら、いざ中国の話になると無意識のうちにその言説を破棄していた自分を責めた。

 中国は古来より「文化的支配」と「政治的支配」という二重の支配力を持っていた。そして、冊封体制という独特の国家関係により、文化的には強い影響力を及ぼすが、政治的な支配は行わず、中国皇帝が国王の称号を与える間接支配にとどまっていた。この「文化的に君臨すれども政治的に統治せず」という原則は、日本国内にも持ち込まれた。すなわち、日本の頂点に立つ天皇の役割をあくまでも文化的な統制に限定し、政治的な権力は幕府が握るという図式である。

 しかし、著者が言う「勤王思想の革命」によって、この構造に変化が現れる。天皇に文化的支配力と政治的支配力の両方を集中させ、天皇を絶対化する動きである。あたかも中国皇帝が絶対的な権力を持っているかのように考え(前述の通り、実態は異なるのだが)、同じ構造を天皇にもあてはめるのである。こうした立場の人々を著者は「明朝的日本人」と呼ぶ。その代表は豊臣秀吉や西郷隆盛などである。これに対し、2つの権力の分化を主張する従来の人々は「清朝的日本人」と呼ばれる。新井白石がこれに該当する。

 明朝的日本人は、中国を絶対視し、その理念を体系化する。そして、その理念でもって日本の歴史を再構築する。たとえそれが日本のそれまでの歴史を全否定することになっても構わない。そもそも、歴史とは歴史が書かれた人の事実関係ではなく、歴史を書いた人の事実関係である。新しい歴史を書き終えると、彼らは今度は中国を観察する。ところが、自分たちに理念を教えてくれたはずの中国は、実はその理念から外れていることに気づかされる。

 ここに、「外なる中国」と「内なる中国」という2つの中国が登場する。「内なる中国」とは、彼らが心の中に理想化した中国であり、皇帝が絶対的な権力を持っている国である。これに対して「外なる中国」とは、現実の中国を指す。2つの中国に挟まれた彼らは、次のどちらかの方法をとる。

 1つは、「内なる中国」を「外なる中国」に強制するという道である。彼らは「日本こそ真の中国である」と中国に訴求する。それが軍事的な行動を伴うと、日中戦争になり、南京総攻撃になる。これに対してもう1つの道は、「外なる中国」を「内なる中国」と一体化させて絶対化し、「外なる中国」の前に土下座するというものである。田中角栄が台湾との日華平和条約を一方的に破棄し、日中共同声明にサインしたのは、第2の道に従った結果である。だから、著者に言わせれば「南京を総攻撃するも中国に土下座するも同じ」なのである。

 「外なる中国」と「内なる中国」の板挟みにあった時、そのどちらか一方しか選択できないことに、日中関係の悲劇があるように思われる。「外なる中国」と「内なる中国」の対立は、言い換えれば現実主義と理想主義の対立である。日本は諸外国から様々な理念や体系を輸入し、それを自分たちの風土や社会に合うように改良することで生き延びてきた。いわば、理想主義と現実主義のバランスをとることにたけているわけだ。それが、日中関係となると二者択一の極端な考え方しか取れなくなるのは、一体どういうわけなのだろうか?

 (2)以前の記事「茂木誠『経済は世界史から学べ!』―経済を通じて歴史を見た時の7つの発見」で、荻原重秀や田沼意次の経済経済政策が高く評価されていることを述べたが、本書によれば、政治的な評価は新井白石や松平定信の方に軍配が上がるようだ。
 確かに彼(=田沼意次)にも欠点があった。いわばハートの問題であり、それは少なくとも為政者として、その時代の要請する政治道徳の規準―たとえそれがいかなる基準であれ―無視すべきでないこと、当時の基準すなわち儒教の「修身斉家治国平天下」は無視すべきでないことを、全く忘れていたことである。もっとも忘れていたのは彼だけでないが―。従って失脚と共に、当時の知識人はもとより庶民・町人からも、あらゆる非難罵倒がとんできた。
 日本では政治と経済の分離がしばしば起こる。正確に言えば、経済至上主義が政治を不在にさせる。江戸時代には、「唐人」と呼ばれる中国人が常に長崎に来て貿易を行っていたが、明から清への政権交代の影響もあり中国とは国交がなかった。戦後の日本は、経済成長を追求して先進国の仲間入りをしたものの、軍事は日米安保条約によってアメリカに丸投げしてしまった。また、領土問題や歴史問題を抱える中国・韓国・ロシアとの関係においては、そのような問題を一旦棚上げにして、経済面での協力を深化するという路線がつい最近までは基本となっていた。

 新井白石と荻原重秀、松平定信と田沼意次の評価が分かれるように、政経分離の世界では、政治的な成功と経済的な成功は相容れないようだ。だが、以前の記事「山本七平『比較文化論の試み』―「言語→歴史→宗教→道徳→政治→社会→経済」という構図について」で述べた通り、政治は社会を通じて経済を規定している。政経分離は本来の姿ではない。明治の実業家・渋沢栄一が「論語と算盤は両立する」と述べたように、政治と経済は両立させる必要がある。そして、政治面の成功を経済面の成功に優先させなければならない。

 その優先順位が入れ替わっているところに、日本の社会的未熟さ、日本人の人間的未熟さがあるように思える。ここで、政治的な成功をどのように定義するのかが問題になるが、政治的な成功をどのように「測定するのか?」という定量的な問題にすぐに転換してしまう時点で、経済至上主義的な考え方に毒されている。自民党はよく「価値外交」という言葉を持ち出す。その価値の定義の仕方が数的方法に限定されるうちは、おそらく政治的な成功を収められないだろう。




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