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荒木肇『静かに語れ歴史教育』―日本は過去の軍事技術を過小評価し、現在の軍事技術を過大評価している
ヘンリー・S・ストークス『英国人記者が見た連合国戦勝史観の虚妄』―日本は一体何と戦っていたのだろう?(結論は出ていません)
【戦史検定】初級セミナーノート~海軍編~(※過去問代わりにご活用ください)

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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

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2014年06月25日

荒木肇『静かに語れ歴史教育』―日本は過去の軍事技術を過小評価し、現在の軍事技術を過大評価している


静かに語れ歴史教育静かに語れ歴史教育
荒木 肇

出窓社 1998-09

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 著者の荒木肇氏は9年間の小学校教員生活の経験を踏まえて、現在の学校教育が技術軽視であることに警鐘を鳴らしている。
 現代の日本の学校ではほとんど技術史を学ぶことがない。まして戦争については知らないほうが良く、兵器などは見るものではないという教育がされてきた。古代や中世の農業技術、土木技術にふれることはあっても、近代の技術を概観だけでも知らされてきたことがない。それどころか、授業ではほとんどそういったことは素通りされてしまう。
 本書では、日本の近代史を技術の観点から検証している。技術に対する私の不勉強ゆえに理解するのに苦労したが、本書の内容を総合すると、近代の日本の技術に関してはかなりの過小評価や誤解がまかり通っているようだ。これは、現代の教育が、「日本人は西洋人より劣っているのに、西洋人に歯向かって戦争を起こしたから裁かれたのだ」という認識を植えつけようとしてきたことと無関係ではないだろう。以下、教育の現場で横行している誤解を3点ほど挙げる。

 (1)著者は、ペリーに率いられた黒船が鉄張りであり、日本側の大砲が石の弾丸を使ったという解説を聞いたことがあるそうだ。木造船ばかりの日本の軍船では、黒船にかなわなかったとその教師は説明した。しかし、これは事実ではない。黒船の黒は、木造船体に塗られた瀝青(さび止めや防水に使われたタールのようなもの)のことで、鉄板を張って防弾にしようという発想が生まれたのは、翌年のクリミア戦争の頃だった。また、石の弾丸というのも、中世戦国時代の石火矢という名称からの誤解だろう。日本が当時保有していた古い大砲でも、球形の実質弾(砲丸投げの砲丸のような鋳鉄製のもの)を撃ち出すことはできた。

 (2)日露戦争では、日本陸軍に機関銃がなく、銃剣突撃を繰り返し、多大な損害を受けたと言われている。しかし史実では、日清戦争以前にも陸軍にはフランスから輸入した機関砲によって装備された部隊があった。機関砲は国産化され、日露戦争にも使われた。史実と異なる説明がされるのは、日本に根強く残る白兵重視の文化のせいだろう。だが、銃剣突撃を繰り返したのは、旅順要塞の攻略だけである。戦争全般を見ると、むしろロシア側がしばしば無謀な白兵戦を行っている。日本陸軍は当初から、西南戦争で示されたように火力重視であった。

 (3)太平洋戦争で小柄な日本人が、欧米人ですら持て余す三八式歩兵銃を使ったのは、白兵戦でのリーチの長さを重んじたからだという。ところが、銃器の専門家の説によれば、小銃の設計の原点は、弾丸口径と弾速の決定だそうだ。結論から言えば、三八式歩兵銃は当時の与えられた諸条件を検討した結果生まれたものだった。火薬性能や薬莢の完成度、携行弾数などの問題から検討して欧米列国の小銃と対抗するには、あの銃身長を採るしかなかった。あれより銃身を短くすれば、火薬ガスは燃焼しきらないうちに銃口を出てしまう。

 翻って現代に目を向けてみると、現代の軍事技術に関しては過大評価が見られる。戦後、日本が技術立国になったため、日本の技術をもってすれば何でもできると思い込んでいるのかもしれない。特に自衛隊に対しては、国民が間違った期待をしている。以下にそれを3つほど示す。

 (1)旅客機が山間地に落ちた時、救助のヘリが飛ばなかったことを理由に、マスコミは自衛隊を批判した。しかし、ヘリがホバリングできるのは、平らな地面や水面に向かって空気を叩きつけているからである。山の斜面に沿って停止することは、どの国のヘリにもできない。また、救助をするにはリペリングという技術がいる。静止したヘリからロープを降ろし、隊員はそれを伝って地上に降りる。安定しない機体から揺れるロープで山中に降りるのは自殺行為だ。原生林の鋭い枝や、太い幹に叩きつけられたら二重遭難になる。これらの点をマスコミは理解していなかった。

 (2)自衛隊は機動力があり、組織的であり、何より自給能力を持っている。武器を持っているから、外国に行っても通用するだろうという安易な思い込みもある。しかし、自衛隊は専守防衛の軍隊であり、国内で戦うことを主眼に、あらゆる装備も訓練体系も整えられている。例えば、六四式小銃(※1)の正照準は300メートルだが、これは全国に数十万ポイントを設置し、調査地点ごとに周囲の視界の平均距離を測ったところ300メートルであったのが理由だ(アメリカの場合は400メートル)。また、七四式戦車(※2)も、山岳が多い日本内地の特性を考えて造られている。複雑な車高変換装置は、高低差を利用して敵を待ち伏せするためのものである。

 (3)アフリカのルワンダでのPKO活動へ陸上自衛隊を派遣する際、部隊が携行する機関銃を1挺にするか2挺にするか国会で議論された。結局、2挺だと脅威になるとされ、故障した際の予備も持たされず自衛官を出発した。議論した国会議員の精神構造は、依然として技術無知、用兵無視のままである。無謀な戦争を止めることができなかった彼らの先輩と少しも変わらない。戦争中の「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」と全く同じだ。

 現在、集団的自衛権の是非をめぐる議論が行われており、実際に想定される戦闘のシミュレーションも行われているようだ。戦略のセオリーに従えば、どこの国とどの場所で戦闘が起きる可能性があるのか?相手の戦力はどのくらいで、その戦力に対抗するためにはどのような戦術をとるべきなのか?その戦術を実行するには、どんな戦力が必要なのか?不足している戦力を補うために、どんなリソースを調達し、技術を開発すべきか?を順番に問うことになる。

 しかし一方では、自軍の現在の規模や技術レベルを考えた場合に、可能な戦闘はどこまでなのか?という限界を設定することも重要だろう。その限界がどうしても突破できないものであれば、限界を超えた戦闘は行ってはならないことになる。つまり、絶対に戦闘が起きないように、他の外交的手段を駆使しなければならない。

 それを行わずに安易に戦闘に踏み切れば、日本はまた不利な戦いに引きずり込まれるだろう。そして、「日本は再び軍国主義に陥った」と世界からレッテルを張られるに違いない。本書では、ナチス・ドイツ時代を振り返った評論の一部が紹介されている。「軍国主義国家というのは、軍事知識が世界を覆うというように理解されているが、むしろ逆であり、軍事知識に国民が疎くなっている状態を指す」 日本は足元の軍事技術を的確に理解しなければならない。まさに、「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」という孫子の言葉の通りである。


(※1)現在は、後継小銃の八九小銃の採用をもって製造が終了している。陸上自衛隊の普通科など、戦闘職種に限れば更新は完了し、後方職種も順次更新が進んでいる。ただし、予備自衛官用装備や海上自衛隊と航空自衛隊の自衛用装備としては、未だに主力の小銃である。

(※2)後継車輌として第3世代主力戦車である九〇式戦車が開発・生産されたが、これは北部方面隊以外では富士教導団など教育部隊にしか配備されていないため、全国的に配備された七四式が数の上では主力であった。それでも年40輌程度の早さで退役が進んでおり、また、2010年に七四式の更新をも考慮した一〇式戦車が採用された。

2014年06月23日

ヘンリー・S・ストークス『英国人記者が見た連合国戦勝史観の虚妄』―日本は一体何と戦っていたのだろう?(結論は出ていません)


英国人記者が見た連合国戦勝史観の虚妄(祥伝社新書)英国人記者が見た連合国戦勝史観の虚妄(祥伝社新書)
ヘンリー・S・ストークス

祥伝社 2013-12-02

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 著者のヘンリー・ストークスは半世紀もの年月を日本で過ごし、『フィナンシャル・タイムズ』、『ロンドン・タイムズ』、『ニューヨーク・タイムズ』の各東京支局長を歴任した人物である。また、三島由紀夫とも親交が深く、三島由紀夫と最も親しかった外国人記者としても知られる。三島が自衛隊の市ヶ谷駐屯地で自衛隊を「傭兵」と呼び、自衛隊に決起を促した事件の目撃者であり、その様子が詳細に語られていて興味深い。
 ドナルド・キーンは、日本人の気高さに、打たれた。著書『日本人との出会い』のなかで、述懐している。

 「ガダルカナル島を餓島と呼んだ日本軍の兵士たちの耐えた困苦は、圧倒的な感動を呼び起こした。アメリカ軍の兵士の手紙には何の理想もなく、ただ元の生活に戻りたいとだけ書かれていた」「大義のために滅私奉公する日本人と、帰郷以外のことにはまったく関心を持たない大部分のアメリカ人。日本の兵に対しては讃嘆を禁じえなかった。そして結局、日本人こそ勝利に値するのではないかと信じるようになった」

 日本軍は補給を完全に断たれ、餓死する兵士が続出していた。だがキーンは、まさに超人的な精神力で戦った日本兵を、目の当たりにした。
 本書では、戦後になって戦勝国の都合によって作り上げられた「戦勝国善玉、日本悪玉論」が断罪されている。だが、アメリカ人の中にはキーンのように考えていた人がいたこと、そして著者のようにその考え方に共感するイギリス人がいたことは、私にとっては意外だった。もっとも、彼らは多数派ではないだろう。一般的なアメリカ人やイギリス人は、今でも自国の勝利を正当化し、日本のことを敗れるべき軍国主義国だったととらえているに違いない。

 私はピーター・ドラッカーの著書などを読みながら、アメリカは建国理念である自由と平等のために戦うという明白な目的を持って第2次世界大戦に臨んだものだと思っていた。一方、日本は「国体」という、当時誰もはっきりと定義できなかった得体の知れないものにしがみつき、国体を維持するという不透明な大義名分のせいで最後まで目的を明確にすることができず、敗れ去ったものだと思い込んでいた。だが、それは一面的な見方のようだ。実際にはアメリカこそ目的が曖昧で、日本の方が一体感を持って戦っていた、というキーンの記述を読むと動揺してしまう。

 では、日本軍は何のために戦っていたのだろうか?著者は本書の中で、日本軍の戦いが、当時欧米の植民支配下にあったアジア諸国の独立を促したことを指摘している。また、1943年11月5日から6日間にわたって東京で開かれた「大東亜会議」が、有色人種によって行われた最初のサミットであると高く評価されている。

 日本軍はマレー沖海戦でイギリスの最新鋭の戦艦を撃沈し、フィリピンの戦いでアメリカのダグラス・マッカーサーを敗走させ、蘭印作戦でオランダ軍を駆逐した。そのことで東南アジア各国が勇気づけられ、独立運動の機運が高まったのは事実なのだろう。しかし、日本軍は最初から東南アジア各国を独立させる目的で戦いに挑んだわけではない。目的はあくまでも、それまでアメリカに頼っていた資源を東南アジアから確保することにあり、なぜ東南アジアの資源を必要としたかと言えば、日中戦争を継続するためであった。

 日中戦争の伏線は日露戦争に求められるだろう。日露戦争に勝利した日本は、ポーツマス条約によって遼東半島(関東州)の租借権、東清鉄道の長春~大連の支線、韓国の監督権を得たが、中国本土には依然として欧米列強の支配が残っていた。そうした欧米諸国の権益に対抗するために、日本は満州国を建設して「五族協和」の精神を掲げた。しかし、その満州国が満州事変の引き金となり、日中戦争へとつながっていった。

 さらに遡れば、日露戦争は朝鮮をめぐる日露の対立である。当時、朝鮮(大韓帝国)は、日清戦争の結果として、中国の冊封体制から脱することに成功した。日清講和条約の第1条には、「朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国であることを確認し、独立自主を損害するような朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止する」とある。ところが、満洲を勢力下においたロシアが、清―朝鮮の関係に横やりを入れるような形で、朝鮮半島に持つ利権を手がかりに南下政策を取ったため、日本との対立を深めることになった。

 やや論理的に飛躍しているが、近代日本の一連の戦いは、朝鮮と中国のためのものだったのかもしれない。明治維新によって開国した日本は、欧米列強の帝国主義の脅威をまざまざと感じた。日本と古来から交流のある朝鮮と中国を早急に近代化しなければ、帝国主義に呑み込まれてしまう。そこで、まずは冊封体制という前近代的な関係に従属していた朝鮮を独立させ、次いで冊封体制の親元である中国を変革しようとしたのだろう。

 著者は本書の中で、日本にとって太平洋戦争は自衛戦争であったと主張しているが、古来からの「同盟国」である中国・朝鮮を守るという意味で、確かに自衛戦争だったのかもしれない。もちろん、日本と中国・朝鮮との間には、日英同盟のような近代的かつ法的な意味での同盟関係があったわけではない。しかし、欧米主導で構築された国際秩序とは違う道を志向していた当時の日本は、中国・朝鮮との”心理的な”同盟関係を守ろうと考えていたのではないだろうか?

 歴史に”たられば”は禁物だが、日本がそういう自衛戦争の立場を最初から明確に貫いていれば、太平洋戦争の結果は大きく変わっていたかもしれない。さらに、もしもこの仮定が成り立つとすれば、中国・韓国から日本のことを侵略国だと批判されるのは、いささか心外でもある。

 とはいえ、日本が取った手段が適切であったかどうかについては、十分に議論する必要がある。中国・朝鮮を近代化するためには、韓国併合を行い、中国に満州国を建国しなければならなかったのだろうか?日本が恩賜的な態度を取らず、別の政治的手段に訴えることは考えられなかったのだろうか?武力行使を回避する第三の道は本当になかったのだろうか?こうした議論を重ねていくことが、日中・日韓の歴史認識の溝を埋める一助にもなる気がする。

(※)今日の記事は私の貧弱な歴史知識に立脚している点をご了承ください。もっと勉強します。

2013年01月25日

【戦史検定】初級セミナーノート~海軍編~(※過去問代わりにご活用ください)


 前回の「【戦史検定】初級セミナーノート~陸軍編~」の続きで、今回は海軍編。

【戦史検定】初級セミナー海軍編(1)【戦史検定】初級セミナー海軍編(2)

 (※)服部卓志郎『大東亜戦争全史』第1巻(1953年)中の地図に一部加筆して作成した。この本が置いてあった図書館では白黒コピーしかできなかったので、地図中で陸軍と海軍の色の区別がつかなくなってしまった点はご容赦ください。また、コピー機の事情で地図が左右で二分割されている点もお許しください(左右の画像それぞれをクリックし、拡大表示させてください)。

(1)真珠湾攻撃
■背景:オアフ島真珠湾のアメリカ海軍基地は1908年に設置され、以来日本海軍にとって脅威となっていた。日本海軍は対米戦争の基本戦略として漸減邀撃作戦を有していた。これは真珠湾から日本へ向けて侵攻してくるアメリカ艦隊の戦力を、潜水艦と航空機を用いて漸減させ、日本近海において艦隊決戦を行うというものであった。

 だが1939年に連合艦隊司令長官に就任した山本五十六海軍大将は異なる構想を持っていた。米国長期滞在経験を持ち、海軍軍政・航空畑を歩んできた山本は対米戦となった場合、開戦と同時に航空攻撃で一挙に決着をつけるべきと考えていた。1941年1月、山本は第11航空艦隊参謀長であった大西瀧治郎少将に対して「真珠湾を航空攻撃できないか」と航空攻撃計画の作戦立案を依頼した。
■年月日:1941年12月8日(※この年月日は重要)
■指揮官:(日)山本五十六南雲忠一 VS (連)ハズバンド・キンメル、ウォルター・ショート
■結果:日本の勝利
■ポイント:
・真珠湾奇襲の訓練は、鹿児島県の錦江湾(※鹿児島湾の別名。場所はこちらを参照)を中心に行われた。これは、錦江湾と真珠湾の地理的条件(水深の深さ)が類似しているためである。
・日本の機動部隊は、択捉島単冠湾を出発して真珠湾へと向かった。
・真珠湾攻撃を機に、軍艦中心から航空機中心の戦闘の時代へと突入した。


(2)マレー沖海戦
■背景:日本軍によるマレー上陸作戦が開始されると、マレー侵攻を阻止すべく、イギリス海軍の東洋艦隊がシンガポールを出航した。36センチ砲10門を備えた最新鋭の戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と、38センチ砲8門を持つ巡洋戦艦「レパルス」が基幹である。
■年月日:1941年12月10日
■指揮官:(日)松永貞市小沢治三郎 VS (連)トーマス・フィリップス
■結果:日本の勝利
■ポイント:
・イギリス軍は日本軍航空部隊の能力を「イタリア軍と同程度、ドイツ軍よりもはるかに劣る」と見積もっていたため、東洋艦隊に護衛の戦闘機をつけていなかった。プリンス・オブ・ウェールズとレパルスは日本軍の航空機によって撃沈、しかも、航行中の戦艦を飛行機だけで撃沈したのは、このマレー沖海戦が世界で初めてであり、当時のチャーチル首相は、「あらゆる戦争で、私はこれほどの直接のショックを受けたことはなかった」と後に回想している。


(3)スラバヤ沖海戦
■背景:太平洋戦争の勃発とともに、日本海軍はマレー沖海戦で英国東洋艦隊の主力戦艦2隻を撃沈し、東南アジア方面の最大の脅威を排除した。日本軍は資源地帯である蘭印(オランダ領インドネシア)占領を目標としていた。1942年2月になると、その中心地であるジャワ島占領を目的として、行動を開始した。
■年月日:1942年2月27~3月1日
■指揮官:(日)高木武雄 VS (連)カレル・ドールマン
■結果:日本の勝利
■ポイント:
太平洋戦争初の軍艦同士の戦闘である。


(4)珊瑚海海戦
■背景:日本軍は、南方作戦に続く第2次の作戦については方針が定まっていなかった。海軍は、アメリカを相手に長期持久戦を行うことを不利として、積極的に戦線を拡大して早期に主力艦隊同士の決戦を図ることを主張した。その海軍が1942年4月に計画したのが、第1に連合国の反攻拠点と考えられたオーストラリアの攻略作戦であり、第2にミッドウェー島を攻略することでアメリカ艦隊を引き寄せて撃滅しアメリカの継戦意欲を失わせる作戦であった。

 陸軍は、あくまで日中戦争(支那事変)解決を重視しており、東南アジアの占領地・資源地帯は現状維持とし、それ以上の太平洋方面は海軍の作戦担当地域であるという認識に立っていたため、戦線拡大には否定的であった。したがって、大兵力を中国の支那派遣軍や、満州の関東軍から引き抜かなくてはならないオーストラリア攻略作戦に消極的ではあったが、オーストラリアを孤立させることについては海軍と見解が一致した。

 ここで企画されたのが米豪遮断作戦である。この作戦は、ニューギニア島東南岸のポートモレスビー攻略作戦(MO作戦)と、ニューカレドニア、フィジー、サモアの攻略作戦(FS作戦)から構成された。MO作戦の上陸部隊をポートモレスビーへ輸送中に起こったのが珊瑚海海戦である。
■年月日:1942年5月8日
■指揮官:(日)井上成美、五藤存知、高木武雄、原忠一、丸茂邦則、山田定義 VS (連)フランク・J・フレッチャー、オーブリー・フィッチ、J・C・クレース
■結果:日本軍の戦術的勝利・戦略的敗北
■ポイント:
世界初の空母同士の対決である(日本軍:「翔鶴」、「瑞鶴」、「祥鳳」 VS 連合国軍:「レキシントン」、「ヨークタウン」)。
・この海戦は日本軍の戦術的勝利・戦略的敗北と呼ばれる。戦術的勝利とは、双方の沈没艦「祥鳳」と「レキシントン」を比較すると、軽空母である「祥鳳」に対して「レキシントン」は大型空母だったからである。一方、戦略的敗北とは、珊瑚海海戦で日本海軍が損害を被ったため、主目的のMO作戦が中止に追い込まれたことを指す。


(5)ミッドウェー海戦
■背景:山本五十六は、ミッドウェー攻略を餌に、真珠湾攻撃で撃ち洩らしたアメリカの機動部隊をおびき出し、殲滅しようという作戦を立てた。しかし、作戦を決定する海軍軍令部と、島の占領にあたる陸軍の参謀本部は、仮に占領しても日本から離れすぎていて維持は困難であり、また作戦そのものも非常に危険だという理由で反対していた。ところが、山本の強い意志でこの作戦は実行された。
■年月日:1942年6月5日~6月7日
■指揮官:(日)山本五十六南雲忠一、近藤信竹 VS (連)フランク・J・フレッチャー、レイモンド・スプールアンス
■結果:アメリカの勝利
■ポイント:
・山本が最優先したかったのはアメリカの機動部隊の殲滅であったが、機動部隊指揮官の南雲には、作戦の目的がミッドウェー島攻略なのか、アメリカの機動部隊殲滅なのかがはっきりと伝わっていなかった。
・海軍は「赤城」、「加賀」、「蒼龍」、「飛龍」の4空母を全て失うという歴史的敗北であった。


(6)第1次ソロモン海戦
■背景:ガダルカナル島で日本の陸戦平が死闘を展開している時、海上でも海軍が壮絶な戦いを繰り広げていた。主な戦場はガダルカナル島とその北に浮かぶサボ島周辺で、その海域が「鉄底海峡」と呼ばれるようになるほど、海戦で多くの艦艇や輸送船が海底に沈んでいった。ガダルカナル島をめぐる海戦は、第1次ソロモン海戦、第2次ソロモン海戦、サボ島沖夜戦、南太平洋戦争、第3次ソロモン海戦、ルンガ沖海戦が主なものであった。ガダルカナル島争奪戦における海軍の役割は陸軍部隊の支援で、輸送船の護衛などが主な任務であった。そのため、海戦は輸送の最中に起こったものがほとんどであった。
■年月日:1942年8月8日~9日
■指揮官:(日)三川軍一 VS (連)ヴィクター・クラッチレー
■結果:日本の勝利
■ポイント:
・夜襲でアメリカ軍を破ったが、揚陸中の輸送船団を攻撃しなかったことが問題視された。


(7)南太平洋海戦
■背景:第1次ソロモン海戦と同じく、ガダルカナル島をめぐる海戦である。
■年月日:1942年10月26日
■指揮官:(日)山本五十六南雲忠一、近藤信竹 VS (連)ウィリアム・ハルゼー、トーマス・キンケイド、ジョージ・マレー
■結果:日本の勝利
■ポイント:
・米空母「ホーネット」を撃破したが、この海戦が事実上日本最後の勝利となった。
・ちなみに、米空母を撃沈させたのは日本だけである。


(8)海軍甲事件
■年月日:1943年4月18日
■ポイント:
山本五十六がショートランド島方面に視察と激励に行く最中、ブーゲンビル島上空でアメリカ軍機により撃墜された事件。
・海軍大将の後任には古賀峯一が任命された。


(9)マリアナ沖海戦
■背景:1944年6月15日、アメリカ軍はマリアナ諸島のサイパン島に上陸を始めた(※「【戦史検定】初級セミナーノート~陸軍編~」の「サイパン島の戦い」を参照)。上陸部隊を支援するのは空母15隻を持つアメリカ第五艦隊であった。フィリピン付近にいた日本の空母機動部隊はこの米第五艦隊に戦いを挑んだ。本来ならばサイパン上陸が始まる前に戦闘を開始すべきだったが、サイパン上陸直前まで日本軍は確かな情報をつかめなかった。
■年月日:1944年6月19日~6月20日
■指揮官:(日)小沢治三郎、栗田健男、角田覚治 VS (連)レイモンド・スプルーアンス、マーク・ミッチャー
■結果:アメリカの勝利
■ポイント:
・小沢はアメリカの飛行機では攻撃できない遠い距離から航空部隊を出撃させるアウトレンジ戦法を採用した。日本軍機はアメリカ軍機よりも軽く、その分航続距離が長かったからである。
・しかし、日本の艦上機隊はアメリカの待ち伏せ攻撃により壊滅。アメリカ軍は、日本軍機を背後から撃墜する様子を、捕まえようとして追いかけるとよたよたと逃げ惑う七面鳥に似ているとして、「マリアナの七面撃ち」と呼んだ。
・日本の空母「大鳳」、「翔鶴」、「隼鷹」も大破した。


(10)レイテ沖海戦
■背景:1944年6月のマリアナ沖海戦は日本の敗北に終わり、7月9日にはサイパン島を失陥してマリアナ諸島の喪失も確実なものとなった。大本営は新たな防衛計画「捷号作戦」を立案し、地域別に捷一号から捷四号と名付けられ、このうちフィリピン方面の防衛作戦が捷一号作戦とされた。日本にとって、フィリピンを奪還されることは、本土と南方資源地帯の連絡が遮断されることであり、戦争全体の敗北につながるものであった。
■年月日:
■指揮官:(日)栗田健男、小沢治三郎、西村祥治、志摩清英 VS (連)ウィリアム・ハルゼー、トーマス・キンケイド
■結果:アメリカの勝利
■ポイント:
・栗田はレイテ湾の80km近くまで到達した時、突然「反転北上せよ」と命令し、レイテ湾突入を中止してしまった。これにより、海軍の捷一号作戦はレイテ突入を果たせず、決定的に挫折した。
・日本は戦艦「武蔵」をシブヤン海で失うなど、海軍の艦隊戦力が事実上壊滅し、以後大規模かつ組織的活動が不可能となった。
・この海戦で日本側は初めて神風特攻隊による攻撃を行った。
・ちなみに、神風特攻隊と言えば学徒出陣を連想するが、学徒出陣は1943年10月1日に当時の東條内閣が公布した在学徴集延期臨時特例(昭和18年勅令第755号)に基づくものである。第1回学徒兵入隊を前にした1943年10月21日、東京の明治神宮外苑競技場では文部省学校報国団本部の主催による出陣学徒壮行会が開かれ7万人が集まった。


(11)沖縄戦
■背景:アメリカ軍の目的は、日本本土攻略のための航空基地・補給基地の確保であった。日本軍の目的は、大本営がアメリカ軍に大打撃を与えて戦争継続を断念させる決戦を志向したのに対し、現地軍は当時想定されていた本土決戦に向けた時間稼ぎの「捨石作戦(持久戦)」を意図するという不統一な状況であった。
■年月日:1945年4月1日~6月23日(※この年月日は重要)
■指揮官:(日)牛島満、長勇、大田実 VS (連)サイモン・B・バックナー、ブルース・フレーザー、レイモンド・スプルーアンス、ジョセフ・スティルウェル
■結果:連合国の勝利
■ポイント:
・大本営は太平洋戦争の末期になると、連合軍の進攻に対して、作戦方面を東シナ海周辺および南西諸島方面に指向し、航空兵力を主力として打撃を与えることを目的とした。この時に立てられた作戦が「天号作戦」であり、「天一号作戦」が沖縄方面の航空作戦であった。この「天一号作戦」中に展開された神風特攻隊の作戦を「菊水作戦」と呼ぶ。
・沖縄戦では、九州に神風特攻隊の基地が設置された。陸軍は知覧万世などに、海軍は串良鹿屋などに基地を置いた(それぞれの場所はこちらを参照)。
伊藤整一海軍大将は、戦艦「大和」による天一号作戦参加の命令に対し、伊藤は「制空権・制海権もなしの出撃は、沖縄に到達すべくもなく、それを承知の上で、七千人の部下を犬死させるわけにはいかない」と執拗に疑問を投げかけ反対したが、草鹿龍之介中将の「一億総特攻の魁となっていただきたい、要するに死んで貰いたいのだ」との一言で命令を受諾した。
・4月7日に戦艦「大和」が撃沈(奄美大島の西方に沈没)。残存戦艦は佐世保に帰還した。
・ちなみに、「大和」の主砲は46cmで世界一であり、ギネスブックにも登録されている。


《参考図書》

オール図解 30分でわかる太平洋戦争―太平洋で繰り広げられた日米の死闘のすべてオール図解 30分でわかる太平洋戦争―太平洋で繰り広げられた日米の死闘のすべて
太平洋戦争研究会

日本文芸社 2005-07

Amazonで詳しく見る by G-Tools

図解 太平洋戦争 (歴史がおもしろいシリーズ!)図解 太平洋戦争 (歴史がおもしろいシリーズ!)
後藤 寿一

西東社 2010-07

Amazonで詳しく見る by G-Tools

大東亜戦争全史大東亜戦争全史
服部 卓四郎

原書房 1996-06

Amazonで詳しく見る by G-Tools





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