2015年06月06日
渋沢栄一、竹内均『渋沢栄一「論語」の読み方』―階層を増やそうとする日本、減らそうとするアメリカ
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(前回の続き)
(3)
信の効用は、社会の進歩とともに、いよいよその価値を増して、その応用の範囲を拡張し、一人より一町村へ、一町村より一地方へ、一地方より一国へ、一国より全世界へと、信の威力は、国家的、世界的になった。
世界人類のために尽くし、あるいは国家同胞のために尽くそうと思えば、まずその根源にさかのぼり、わが故郷を愛し、わが家を愛さなくてはならない。近きより始めて遠きに及ぼすのが自然の順序でもあり、人の常識でもあろう。日本が多層社会(階級社会ではない)であり、階層が多重化されているほど安定化する傾向にあることは、本ブログでも何度か触れた(「山本七平『山本七平の日本の歴史(上)』(2)―権力構造を多重化することで安定を図る日本人」、「室谷克実『呆韓論』―韓国の「階級社会」と日本の「階層社会」について」など)。
個人は一人では生きて行けないため、家族の庇護を必要とする。家族は単独では家計を維持することができないため、学校に子どもを送り込んで基礎能力を習得させ、さらに学校から企業という生産の場に人材を供給する。企業は自らが存続するために市場を必要とする。市場は放っておくと暴走するため、社会による牽制を必要とする。社会はルールを運用する力が十分でないため、行政府を必要とする。行政府は、ルールの運用はできてもルールの形成力がないため、立法府を必要とする。そして、日本の場合は、全システムの頂点に天皇が存在する。
こうして、個人⇒家族⇒学校⇒企業⇒市場⇒社会⇒行政府⇒立法府⇒天皇(⇒神?)という多重システムができ上がる。さらに、以前の記事「【ドラッカー書評(再)】『現代の経営(上)』―実はフラット化していなかった日本企業」で述べたように、企業という1つの階層をとって見ても、その内部は多重構造化している。よって、全体としては非常に重層的なシステムが形成されることとなる。下の階層が上の階層を敬うことが、孔子の言う「忠」や「孝」であり、その基本形は、家族内の長男や父親に対する敬意に求めることができる。
一方、アメリカにおけるキリスト教の場合は、個人と神が直接つながることを理想とする。両者の間には、できるだけ他の組織や階層を入れないようにする。ほぼ無条件で両者の間に入ることができるのは、個人と神とを媒介する教会ぐらいである。通常、個人の権利を守るために国家や政府が必要とされるが、アメリカではその権力は大幅に制限される。新自由主義を掲げるアメリカが、いわゆる小さな政府を志向するのは偶然ではない。
20世紀になって企業(特に大企業)が台頭すると、企業の正統性をめぐって論争が起きた。日本であれば、企業は人々の生活水準を引き上げ、人々の幸福に貢献するという当たり前の話が、アメリカでは長い間受け入れられなかった。アメリカでは毎年、政府と企業に対する信頼度の調査が実施されている。政府に対する信頼度はまだしも、企業に対する信頼度を調査するのは、日本では考えられないことだ。それだけ、アメリカ人は企業の権力を強く警戒している(※)。
アメリカで聖書の創造論を信じる人々は、進化論を教える学校教育に反発して、家庭で独自に教育を行う。急進的な左派の人は、家族すら否定しようとする。親は子どもの自由を阻害するというのがその理由だ。日本では福島瑞穂氏がこの考え方に近い。家族制度に否定的な福島氏は事実婚を貫いており、さらに自分の子どもが18歳になった時には「家族解散式」をやると宣言していた。このように、キリスト教では、個人⇒(教会⇒)神というシンプルな構造を志向する。
日本のシステムは、表面的には下の階層が盲目的に上の階層の権威に従属しており、自由が制限されている、あるいは自由が全くないように映る。しかし、実際にはそうではない。むしろ、上からの権力の影響を受けているからこそ、下の階層は自由に振る舞うことができる。日本的多重システムにおいては、上からの力が働くだけでなく、下から上に向かう力も存在する。これを社会学者の山本七平は「下剋上」と呼んだ(前述の「山本七平『山本七平の日本の歴史(上)』(2)―権力構造を多重化することで安定を図る日本人」を参照)。
上の階層は、権威の上にあぐらをかいていてはならない。下の階層がもっと自由を発揮し、上の階層に対する成果を大きくすることができるように、下の階層に対して何ができるかと問う。言い換えれば、上の階層から下の階層に下りてくる。例えば、行政府は社会に対し、現実の世界で運用しやすいルールとは何かを問う。市場は企業に対し、企業活動に無理が生じないよう市場側で自制できることはないかと問う。学校は家庭に対し、家庭内のしつけをどうすれば支援できるかと問う。これを孔子の言葉を借りれば「下問」と呼ぶ。
子貢問うて曰く、孔文子何を以てこれを文と謂うやと。 子曰く、敏にして学を好み、下問を恥じず。これを以てこれを文と謂うなり。〔公冶長〕以上、稚拙だが今持てる知識を最大限に動員して日本の社会構造を描写してみた。この縦に長く伸びた社会システムの詳細と、階層間の上下の力の作用を明らかにすることが、私の中長期的な課題である。ところで、『致知』2015年6月号を読んでいたら、日本は縦の関係が昔に比べて脆弱になっているという指摘があった。大げさだが、私の探求が、かつての日本にあった強い縦の関係を取り戻すことに少しでも貢献できればと考えている。
(中略)下問を恥じずとは、ひらたくいえば、自分の知らないことは誰にでも尋ねるという意味にほかならない。こんなことはなんでもないようであるが、さて虚心坦懐に、知らざるを知らずとして、自分より下位の人に教えを求めるということは、実際容易にできるものでない。たいていの人は、知らざるを知らずとせず、知ったふりをする。下問を恥じない境地に達するのは、よほどえらい人でなければできないことである。
親への「孝」や年長者への「弟」はいわば縦軸の関係です。(中略)「孝弟は仁を為すの本」とは孝弟という縦を立てることが「仁」、つまり人と人との横の繋がり「絆」をも強めるということにもなります。
ところで、戦後教育の基本は民主主義、個人主義の名のもとに縦軸を断ち、すべてを横にすることを理想としました。現に占領軍の日本教育使節団員で高松宮の教育係を務めたオーティス・ケリーは『縦軸のない日本』という著書で、日本は縦軸が強すぎる、横軸を強くするようにということを述べています。縦を横にすることは、日本弱体化の一因にもなりました。
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《2016年2月2日追記》
アメリカ合衆国憲法には法人に関する規定はない。しかし、1886年、私有財産の権利を強化するために、法人に自然人と同等の法による保護が認められた。これが決定的な転機になった。リンカーン大統領は、法人を非常に警戒していたという。「法人が王座に就き」、「一部の人に(富が)集中し・・・共和国が破壊されるのではないか」と恐れ、「神よ、私の不安が的外れなものであると立証してください」と祈った(ヘンリー・ミンツバーグ『私たちはどこまで資本主義に従うのか―市場経済には「第3の柱」が必要である』〔ダイヤモンド社、2015年〕)。
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