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『正論』2018年1月号『非礼国家 韓国の自壊/「立憲民主」という虚構』―日本の左翼の欺瞞
『正論』2017年12月号『核戦争勃発に備えろ/負け犬和式リベラルのウソ』―思い通りに動かない同盟国(日韓)に苛立っているであろうアメリカ
安岡正篤『知命と立命―人間学講話』―中国の「天」と日本の「仏」の違い

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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

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2018年01月23日

『正論』2018年1月号『非礼国家 韓国の自壊/「立憲民主」という虚構』―日本の左翼の欺瞞


正論2018年1月号正論2018年1月号

日本工業新聞社 2017-12-01

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 『孟子』には、大国に挟まれた小国がとるべき戦略ついて書かれた文章がある。
 滕の文公問いて曰く、滕は小国なり。斉・楚に間(はさ)まれり。斉に事(つか)えんか、楚に事えんか。孟子対えて曰く、此の謀(はかりごと)は吾が能く及ぶ所に非ざるなり。已むなくんば則ち一〔法〕あり。斯の池を鑿(うが)ち、斯の城を築き、民と与に之を守り、死を効(いた)すとも民去らずんば則ち是れ可為らん。

 【現代語訳】
 滕の文公がたずねられた。「滕はごく小さな国で、しかも斉と楚の2つの大国の間にはさまっています。〔どちらかに附かないと危いのだが〕、さて斉に附いたらよいものか、楚に附いたらよいものか、自分は迷っている。いったい、どうすればよいのだろう。」孟子はお答えしていわれた。「さあ、どうすればよいのか、私にも分かりかねます。だが、是非にとおっしゃるなら、たった1つだけ〔方法が〕あります。それは、このお城の堀を深くし、城壁を高くし、万一の場合には人民といっしょに籠城して、たとえ命をおとすとも、人民が〔殿様を見捨てて〕逃げだすようなことがなければ、宜しいでありましょう。〔それにはひたすら仁政を施したもうことです。〕」
孟子〈上〉 (岩波文庫)孟子〈上〉 (岩波文庫)
小林 勝人

岩波書店 1968-02-16

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 つまり、小国は徹頭徹尾、専守防衛に徹するべきだというわけである。ところで、『正論』2018年1月号を読んでいたら、恐ろしい事実が書かれていた。
 17年8月と9月に太平洋上に弾道ミサイルを撃ち込んだときの北朝鮮発の宣伝写真も面白い。リリースされた写真の、金正恩の近くの卓上モニターの表示は、ミサイルがどこに落ちたかを西側の報道によって把握した後で、画面を直して合成したものである。北朝鮮は近年のミサイル発射において事前に着弾海面に観測船を出していないので、どこにどう飛んでどう落ちたかは、西側情報を総合するまで、知り得ないのである。
(兵頭二十八「北のミサイル 日本国民はここに備えろ」)
 北朝鮮軍事に無知な私などは、北朝鮮は弾道ミサイルが日本列島を避けるよう、着弾地点を正確にコントロールしているものだと思い込んでいた(中国やロシアから移植した技術を用いれば、それは簡単に実現できるはずである)。ところが、驚くべきことに、北朝鮮は自国が発射した弾道ミサイルがどこに落ちるのか事前に把握していないのだという。ということは、弾道ミサイルが誤って日本列島に落ちる危険性があることを意味する。日本は迎撃態勢を早急に整えるべきだし、以前の記事「『正論』2017年11月号『日米朝 開戦の時/政界・開戦の時』―ファイティングポーズは取ったが防衛の細部の詰めを怠っている日本」でも書いたように、永世中立国であるスイスに倣って、核シェルターを急いで全国に張り巡らせる必要がある。

 そもそも、日本の防衛の基本方針である「専守防衛」というのも足枷である。日本は、「相手から武力攻撃を受けた時に初めて防衛力を行使し、その防衛力行使の態様も、自衛のための必要最低限度にとどめ、また保持する防衛力も自衛のための必要最低限度のものに限る」としている。この点について、日本の元陸上自衛官で、第36代東部方面総監を務めた渡部悦和氏は、著書『米中戦争―そのとき日本は』(講談社、2016年)の中で、次のように述べている。
 手足を縛りすぎた、この専守防衛というキャッチフレーズのために、国際的なスタンダードの安全保障議論がいかに阻害されてきたことか。集団的自衛権の議論、他国に脅威を与えない自衛力という議論、長距離攻撃能力(策源地攻撃能力)に関する議論、宇宙の軍事利用に関する議論など、枚挙にいとまがない。例えば、「他国に脅威を与えない自衛力」にこだわれば抑止戦略は成立しない。他国に脅威を与える軍事力があるからこそ、他国の侵略が抑止できるのである。
米中戦争 そのとき日本は (講談社現代新書)米中戦争 そのとき日本は (講談社現代新書)
渡部 悦和

講談社 2016-11-16

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 日本が相手国の攻撃を思いとどまらせるだけの抑止力を持つためには、自衛隊の位置づけを早く憲法上で明らかにしなければならない。安倍首相は9条3項に自衛隊を書き加えるという加憲案を提示しており、公明党もこれを支持している。だが、3項に自衛隊を書き加えた場合、2項(「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」)との関係が問題になる。戦力でない自衛隊とは何なのか、交戦権を持たない自衛隊には何ができるのかをめぐって、またしても神学論的な論争が繰り広げられる恐れがある。かといって、自民党内に根強く残る「国防軍」案も、自衛隊と国防軍との違いは何なのかという別の論争を巻き起こすに違いない。自衛隊が外国(特に中国と北朝鮮)に対して抑止力を持つためには、2項を削除して、新たに2項に自衛隊のことを記述するのがベストだと思う。
 ―共産党は?
 山添:明記すべきではありません。自衛隊を書き込んだ途端に2項は死文化、無意味なものになっていきます。自衛隊に対する縛りがなくなっていく、制限が解かれていくと思います。
 ―自衛隊は先々なくした方がいいというお考えですよね?無くしてからどのようになされたいのですか?
 山添:北東アジアで平和友好関係を構築するということです。攻めてこられなければ、あるいはお互いに威嚇するような関係でなければ、抑止力を持つ必要はないわけです。しかし、それには時間がかかります。まずは自衛隊の海外派遣を可能にする立法を改めるべきです。安保法制は廃止にすべきだし、軍縮を進めていくことも必要です。
(中谷元、細野豪志、山添拓、福島瑞穂、山尾志桜里「あの山尾志桜里センセイが語った憲法論とは・・・」)
 この山添拓議員の発言は意味不明である。確かに、国家間に信頼関係が構築されていれば、抑止力を持つ必要はない。例えば、日本とアメリカの間には日米同盟を基礎とする分厚い信頼関係があるから、日米がお互いに対して抑止力を持つことはない。だが、中国は現に尖閣諸島に対する野心を露わにし、ゆくゆくは沖縄も狙っている。北朝鮮は弾道ミサイルを日本にぶち込んで日本を火の海にしてやると威嚇している。日本と中朝の間には信頼関係がない。この状況で抑止力を手放せば相手の思うつぼである。以前の記事「岡部達味『国際政治の分析枠組』―軍縮をしたければ、一旦は軍拡しなければならない、他」でも書いたように、軍縮のためには一旦軍拡という回り道をしなければならない。両国の緊張が極限に達してようやく、対話の糸口が見えてくる。これが国際政治のリアリズムである。山添議員にはこの感覚が欠けている。

 それから、自衛隊の海外派遣の問題と安保法制の問題は別物である。現在、憲法解釈に基づいて自衛隊の海外派遣と安保法制が可能になっているが、いかようにも揺れ動く可能性がある憲法解釈という脆弱な基盤に頼るのではなく、憲法にしっかりと自衛隊のことを書いた上で、その条文と自衛隊の海外派遣、ならびに安保法制との関係を個別に論じるのが筋だと思う。その手続きを踏まないで、自衛隊の海外派遣も安保法制も一緒くたにしてダメだと言うだけであれば、共産党は何に対してもNOとしか言わない政党だとの誹りを免れ得ないだろう。

 ちなみに、共産主義国以外で国会に共産党が議席を持っているのは、日本とフランスだけだそうだ。トランプ大統領は、11月7日に「共産主義犠牲者の国民的記念日(National Day for the Victims of Communism)」声明を発表した。声明の中でトランプ大統領は、20世紀に世界中で共産主義の犠牲になった人の数は1億人を超えており、これは戦争による犠牲者よりも多いと述べている(江崎道朗「SEIRON時評 No.40」)。これが共産主義の実態である。

 中国に狙われている沖縄であるが、沖縄タイムスと琉球新報という2大紙が左傾化した報道を続けていると、八重山日報編集長の仲新城誠氏が『正論』の中で何度も指摘している。沖縄貿易局が辺野古の新護岸工事に着手した11月6日には、来日したトランプ大統領と安倍首相が首脳会談を行ったが、その日の沖縄タイムスの社説には次のような文章が掲載されたという。
 「日米韓中露の協調体制を維持し、北朝鮮に非核化を求めていくと同時に、北朝鮮の安全保障を考える時期にきているのではないか」
(仲新城誠「オール沖縄は敗れたのに勝った、勝ったと大騒ぎ・・・」)
 「北朝鮮に対する日本の安全保障を考える時期にきているのではないか」の間違いではないかと疑ったが、沖縄タイムスのHPを見ると、確かに「北朝鮮の安全保障」と書かれている(沖縄タイムス「社説〔トランプ大統領来日〕戦争を防ぐ手だて示せ」2017年11月6日)。なぜ、日本を核ミサイルで威嚇するような国の安全保障を日本が考えてやらなければならないのか、全く訳が解らない。それに、6か国協議は完全に機能不全に陥っているのに、今さら「日米韓中露の協調体制」による対話を持ち出すのは、単に美辞麗句を並べてもっともらしいことを言いたいという左翼の欲求を満たしているだけである。かように、日本の左翼は滅茶苦茶である。

 先の衆議院議員総選挙で、枝野幸男氏が率いる立憲民主党が躍進した。小池百合子氏のいわゆる「排除」発言で行き場を失ったリベラルにとって、立憲民主党がその受け皿になったと言われる。だが、枝野氏は元々9条改憲論者であり、自身のことを保守と明言している。ところが、メディアが立憲民主党のことを、自民党に対抗するリベラル政党であると持ち上げたことで、枝野氏は自分が「リベラル保守」であるなどと、倒錯した発言をするようになった。

 立憲民主党は、実は党の綱領を民進党から流用しており(筆坂秀世「リベラル?革命を捨てた左翼のなれの果て」)、主要な顔ぶれは菅内閣のメンバーと同じで(阿比留瑠比「大研究『枝野幸男』論 本当に筋を通す男なのか」)、陰では続々とリベラルの議員が入党している。保守を掲げながら、裏でリベラル化が進行しているのを見ると、まるでかつての旧民主党のようである。枝野氏が「リベラル保守」を掲げるのも、前原誠司氏がセンターライトとセンターレフトの間で揺れ動いていた姿に重なる(以前の記事「『「3分の2」後の政治課題/EUとユーロの行方―イギリス・ショックのあとで(『世界』2016年9月号)』―前原誠司氏はセンターライトと社会民主主義で混乱している、他」を参照)。立憲民主党は、結局は旧民主党と同じ道をたどるのではないか?

 もちろん、自民党も保守一本やりではなく、リベラルとのバランスを取っている。安倍首相はその辺のかじ取りが非常に巧みであり、選挙が近づくとリベラルな政策で有権者の支持を集め、選挙で大勝すると保守的な政策を進める。このやり方で、5年間安定的に政権を運営してきた。厳密に言うと、リベラルには2つの種類がある。1つは狭義のリベラルとでも言うべきもので、大きな政府を志向し、社会福祉の充実を目指す。安倍首相のリベラルな政策はこれに該当する。

 もう1つのリベラルは左翼の本丸であり、革命を目指し、究極的には国家という枠組みを取り払おうとするものである。旧民主党のリベラル議員は左翼議員である。だから、中国や韓国に土下座をして日本国家の価値を否定したり、外国人参政権の導入を目指して日本の政治を外国人に乗っ取らせることを画策したりする。安倍政権は保守とリベラルの政策をともに議論の俎上に載せるのに対し、旧民主党の左翼はリベラルの政策を秘密裏に実行しようとしていたからたちが悪い。リベラルとは、「表で主張していることと裏でやっていることが違う考え方の勢力」(山村明義「よみがえる『民主党』の悪夢」)という指摘は、まさにその通りである。その旧民主党とニアリーイコールの立憲民主党の動向には、特別の注意を向けなければならない。

2017年12月05日

『正論』2017年12月号『核戦争勃発に備えろ/負け犬和式リベラルのウソ』―思い通りに動かない同盟国(日韓)に苛立っているであろうアメリカ


月刊正論 2017年 12月号 [雑誌]月刊正論 2017年 12月号 [雑誌]
正論編集部

日本工業新聞社 2017-11-01

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 最近、『論語』や『孟子』を読んでいるのだが、その中では君主が仁政によって国家を統治するべきであることが繰り返し説かれている。そして、仁政が敷かれている国には、その君主を慕って周辺の国々から自然と人民が集まってくると言う。
 今、王政を発し仁を施さば、天下の仕うる者をして、皆王の朝に立たんと欲せしめ、耕す者をして皆王の野に耕さんと欲せしめ、商賈(あきうど)をして皆王の市に蔵(にをおさ)めんと欲せしめ、行旅(たびびと)をして皆王の塗(みち)に出でんと欲せしめ、天下の其の君を疾(にく)む者をして、皆王に赴(つ)げ愬(うった)えんと欲せしめん。

 【現代語訳】
 今、もし王様が政治を振るいおこし、仁政を施かれたなら、天下の役人はみな王様の朝廷に仕えたいとのぞみ、農夫はみな王様の田畑で耕したい、また商人はみな王様の市場に商品を蔵敷きをし〔て商売をし〕たいと願って移ってくることでしょう。旅人はみな王様のご領内を通行したがるようになり、かねてから自分の国の君主を快く思わぬものは、みな王様のもとへきて、うったえ相談したがるようになりましょう。
孟子〈上〉 (岩波文庫)孟子〈上〉 (岩波文庫)
小林 勝人

岩波書店 1968-02-16

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 だが、孔子や孟子が説いた仁や忠恕は、基本的に上下関係、つまり君主と臣下、君主と人民、親と子、夫と妻、長兄とその兄弟姉妹(当時は、現代のように夫婦や兄弟姉妹は平等ではなかった)において重要視されるものである。逆に言えば、例えば国家のように水平関係にある者や組織、機構がどのような振る舞いをすればよいのかという点については極めて弱い。仮に日本が仁政を敷いて、北朝鮮から人民を惹きつけることになっても、彼らは難民としてやって来るわけであり、難民受け入れの体制が全く整っていない日本としては困った事態になる(※1)。

 12月に入ってから再び北朝鮮がICBMを発射した。これによって、北朝鮮のICBMはアメリカ本土を射程圏にとらえたと言われている。ただ、北朝鮮は今回の実験に関して、「我々の国家核戦力の建設は、既に最終完成のための目標が全て達成された段階にある」と述べており、「目標が全て達成された」とは言い切っていない。おそらく、実戦配備に向けては、まだいくつかの技術的な問題が残っているのだろう。そして、その課題を解決するために、近いうちに北朝鮮はICBMを発射する可能性が高い。早ければ12月中にもその実験は敢行されるとも言われている。というのも、来年2018年は北朝鮮の建国70周年にあたる年であり、1月1日に金正恩委員長は恒例のテレビ演説を行う。この演説で、金正恩委員長が北朝鮮の核能力を国民にアピールし、国威を掲揚しようとすることは十分考えられるからだ。

 ブログ別館の記事「宮崎正弘『金正恩の核ミサイル―暴発する北朝鮮に日本は必ず巻き込まれる』―北朝鮮がアメリカに届かない核兵器で妥協するとは思えない」でも書いたように、北朝鮮のICBMがアメリカ本土に届くようになってから、いよいよアメリカが本格的に動き出すと思われる。2018年は東アジア情勢が大きく動く年になりそうである。このような状況で、日本はどうするべきであろうか?通常であれば、近隣諸国が核兵器のような凶悪な力を手にした場合、それには力でもって対抗しようとするものである。
 興味深いのは、マイネッケ(※ドイツの歴史家フリードリッヒ・マイネッケ)はこの「国家理性」の発展の要素として、力と道徳とをあげていることである。つまり権力衝動による行動と道徳的責任による行動のあいだには、国益という価値によって、その高所に1つの橋がかけられているというのである(※2)。
 かつての大国フランスは、この点で非常に合理的な行動を選択してきた。
 国家として核武装という選択をしたドゴール仏大統領は、アメリカの提供する核の傘はフィクションにすぎないと考えていた。彼はNATO(北大西洋条約機構)の司令官やケネディ米大統領を相手に「核の傘」の有効性について議論をし、フランスがソ連から核攻撃を受けた場合にアメリカがフランス防衛のためにソ連と核戦争をする、という軍事シナリオを具体的に示してほしいと迫ったという。そのときNATO司令官も、ケネディも、ドゴールを納得させられるような回答はなかった。ドゴールは、アメリカの核の傘にフランスの安全は委ねられないと決断したのである(※3)。
 フランスの政治学者エマニュエル・トッドは、10年前に朝日新聞で次のように発言している。いかにもフランス人らしい、現実主義的な主張である。
 「核兵器は偏在こそが怖い。広島、長崎の悲劇は米国だけが核を持っていたからで、米ソ冷戦期には使われなかった。インドとパキスタンは双方が核を持った時に和平のテーブルについた。中東が不安定なのはイスラエルだけに核があるからで、東アジアも中国だけでは安定しない。日本も持てばいい」(平成19年10月30日付)(※4)
 隣接し対立する双方の国が核を保有することで、かえって地域の安定が保たれ、さらには核軍縮に向けた対話が始まる。これが大国の思考回路の大きな特徴である。現在のヨーロッパの大国ドイツも、西ドイツ時代にこのような形で核軍縮に成功した経験がある。
 ソ連は欧州に照準を合わせた中距離弾道ミサイル「SS20」を配備した。SS20は米国までは届かないから、米欧の防衛を切り離す例のディカップリングの問題が生じ、欧州内には米国のICBMによる核の傘に対する疑念が出てきた。

 国家の危機に直面した西ドイツはシュミット首相、次いでコール首相がSS20に対抗する米国の「パーシングⅡ」と地上発射巡航ミサイル「GLCM」の導入を進めた。(中略)その結果、ソ連は財政負担の重荷もあり、パーシングⅡを欧州から撤去させるために、自国のSS20を全廃するINF(中距離核戦力全廃条約)締結に応ぜざるを得なくなった(※4)。
 だから、北朝鮮の核に対抗するには、日本も相応の核を保有するのが理論的には最も近道である。そして、インドとパキスタン、西ドイツとソ連の例に倣って日朝が交渉をし、地域の安定や核の軍縮に向けた取り組みを始めるのがよい。これは一見すると非常に危険な道に思えるが、日本がいつまでも日本オリジナルと勘違いしている平和主義に拘泥し、北朝鮮からのミサイルを食らって座して死を待つよりは、積極的な選択肢である。評論家の日下公人氏は、日本が核を保有することを堂々と宣言するべきだとはっきり主張している。
 アメリカに自国の安全を委ね続けた戦後の固定観念や発想、収縮思考から離れ、「日本は原子力潜水艦と原子爆弾を持つ」と宣言すれば日本を取り巻く環境は劇的に変わる。従来発想に凝り固まった空想的平和主義に耽溺している人たちは、一斉に「平和国家に逆行」「非現実的」「感情的強硬論」等々と大騒ぎするだろうが、日本が独立国として領土領海と自国民の安全を守るためにその選択をしたことで、どこかから非難を受ける謂れはないから、いろいろな前提を設けて宣言をすればよい(※5)。
 かつては日本の核武装を拒絶していたアメリカも、ここに来て日本の核武装を容認するような発言が見られるようになった。しかし、当の日本はと言うと、やはり「世界で唯一の被爆国であるという事実」、「非核三原則」などのようなものがどうしても頭から離れず、核保有に踏み切ることができない。評論家の西部邁氏でさえ次のように述べている。
 あえて「人倫」という古くさい言葉を使ったのには理由があります。予防先制核を禁じ、自衛核は厳密に「報復のためのセコンド・アタック」にのみ使用せよと規定することは、相手のファースト・アタックにかんしては、あたかもガンディがそうしたように、「瞬時に大量の」被害に耐えよ、ということなのです。その被害は、一瞬に、自国を「国家瓦解」に近づかせる類のものなのですから、その忍耐がどれほどの難事であるか、見当がつこうというものです。しかも、その国家瓦解の危機のなかで報復核の維持をしようとするわけですから、よほどに強固な危機管理体制を作り上げていなければ、この予防先制核の禁止は有名無実となってしまいます(※2)。
 まるで、核の先制攻撃を受けたことによる甚大な被害を免罪符として、日本の核攻撃を認めると言いたいような内容である。ちなみに、太平洋戦争で原爆が落とされた日本には復讐権があると東京裁判で述べたアメリカ人弁護士がいるそうだ。そして、その発言をウェッブ裁判長も否定はしなかった(※3)。日本がもし核武装をするならば、回りくどい論理を構成しなければならない。かくいう私も、以前の記事「『正論』2017年11月号『日米朝 開戦の時/政界・開戦の時』―ファイティングポーズは取ったが防衛の細部の詰めを怠っている日本」では、韓国に核武装させて、韓国と北朝鮮の間で交渉をさせればよいと、逃げ腰の主張を展開してしまった。北朝鮮の核に対して正攻法で対処できない日本には、アメリカも苛立っているに違いない。

 アメリカがさらに苛立っているのは、文在寅大統領になってから左傾化、親北化が激しい韓国に対してであろう。以前の記事「『致知』2017年11月号『一剣を持して起つ』―米朝対話が成立するとはアメリカが韓国を捨てることを意味する(ことを左派は解っていない)、他」で、アメリカが北朝鮮に軍事行動を仕掛けた際、韓国がアメリカ側につく場合とアメリカを裏切る場合の2通りがあると書いたが、どうやら後者の可能性が高そうだというのである。
 トランプ政権が対北攻撃を決断するとき、韓国の文在寅大統領は反対するだろう。米陸上部隊は作戦に参加せず、空軍と海軍による集中的な攻撃で北朝鮮軍が無力化した後、北朝鮮を平定する作戦は韓国軍が担当することになっている。文在寅政権が韓国陸軍の参戦を拒否することもありうる。その場合、トランプ政権は韓米同盟を破棄し在韓米軍を撤退させるだろう。

 (中略)となるとトランプ政権は中国共産党軍に北朝鮮地域の平定を任せ、戦後も同地域に親中政権をつくることを容認、志向する可能性が高い。韓米同盟を破綻させた韓国も親中に傾き、半島全体が中国共産党の支配下に入るだろう。その結果、日本は半島全体が反日勢力の手に落ちるという地政学上の危機に直面する(※6)。
 朝鮮半島におけるアメリカの目標は、①北朝鮮の非核化と②南北分裂の現状維持の2つである。ところが、アメリカがせっかく北朝鮮に勝利しても、肝心の韓国が裏切ることで②が達成されない恐れがある。しかし、アメリカにとっては①の方が優先度が高いため、①のために韓国を捨てることも考えうる。最悪なのは、①のために韓国を捨てた上で、アメリカが北朝鮮に敗れるケースである。本号ではアメリカが北朝鮮に敗れることを想定した論者は誰もいなかったし、よもやアメリカが北朝鮮に負けると考える人はごく少数にとどまるであろうが、ベトナム戦争のような誤算も十分にあり得る話である。仮にアメリカが敗れた場合は、韓国の豊富な資金が北朝鮮の核に投入され、朝鮮半島に凶悪な核保有国が誕生することになる。

(※1)吉田望「武装難民を『射殺するのか』 麻生発言のリアリティー」
(※2)富岡幸一郎「なぜ日本国民は核をタブー視してきたか」
(※3)渡部昇一「『非核』信仰が日本を滅ぼす」
(※4)湯浅博「悪魔は二度と地下に潜らず その歴史と日本のオプション」
(※5)日下公人「さらば、亡国の『非核信仰』よ」
(※6)西岡力、恵谷治、久保田るり子、島田洋一「どうなる半島有事 破局へのカウントダウン」

2013年11月05日

安岡正篤『知命と立命―人間学講話』―中国の「天」と日本の「仏」の違い


知命と立命―人間学講話知命と立命―人間学講話
安岡 正篤

プレジデント社 1991-05

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 中国の古典に拠りながら、あるべき人間像を「人間学」としてまとめた一冊。著者が本書の中で一貫して主張しているのは、「自分自身をよく知ること」の重要性である。
 わが「命」はどういうものであるかということを知るのは難かしい。自分がどういう素質・能力を持っておるかということを、まず調べなければならない。それから、人間は社会的生物であるから、社会とどういう交渉をもち、どういうふうに関連してゆくかということを知らなければならない。
 自得ということは、自ら得る、自分で自分をつかむということだ。人間は自得から出発しなければならない。金が欲しいとか、地位が欲しいとか、そういうものはおよそ枝葉末節だ。根本的・本質的にいえば、人間はまず自己を得なければいけない。本当の自分というものをつかまなければならない。
 若い人は、これから偉大なる社会的活動をやろうと思えば思うほど、自得しないといけない。自分がどれだけの人物であり、どれだけの力があるかということが、自分がどれだけ真実の社会活動ができるかということの基本問題である。自分の出来ばえに応じてそれだけの活動ができるのです。それを自分を疎外し、自分から遊離して、いわゆる位に素せずに、ただ社会の移り変わりに幻惑され、いろいろの野望を持ったところで、それは空虚である。
 著者が言いたいことは、『孟子』の「君子は自ら反る」という言葉に集約されている。著者は、この言葉に触れつつ、現代社会に対して次のような警告を発している。
 君子は自ら反る<自反>―自らに反る、自分で自分に反る―ということは『論語』『孟子』の根本精神といってよい。人間が外にばかり目を奪われ、心を奪われてしまって、自分というもの、内面生活というものを見失いがちであることは、現代の最も深刻な問題の一つである。
 安直な考え方かもしれないが、中国の古典は徹底した個人主義に立脚しているかのようである。著者は、個人と集団の関係について、『老子』を愛読していたというシュバイツァーの次の言葉を紹介しながら、個人こそが集団に先んじなければならないとしている。
 一つ明らかなことは、集団が個人の上に、個人が集団の上に作用し返すよりも強い作用を及ぼす時には、下降、堕落が生じることである。なんとなれば、その場合は、その上に一切がかかるところの個人の偉大さ、精神的および倫理的価値性が必然的に侵害せられるからである。
 中国の古典がこれほどまでに個人主義的である理由を探っていくと、中国の「天」に対する考え方にヒントがあるように思える。
 「天」は大いなる造化、万物を創造し、万物を化育してゆく。一切万有はその中に在る。それを「天」という。今日でいうならば、自然と人間とを一貫するものが「天」、その中に厳として存在するところの神秘な深遠な理法―それによって存在し、それによって活動している、それが無ければ存在活動が無い所以のものが「理」、ことわり、即ち「天理」。天理によって宇宙も人間も存在しているのである。
 自然科学は、この天(宇宙、大自然)の「命」、即ち必然的、絶対的なるものを、物の立場から研究、究尽していったものである。そして科学的法則を把握した。人間も、研究すれば、だんだん必然的、絶対的なものに到達する。いわゆる「人命」を究明することができる。そしてその中に実に複雑微妙な因果関係があることを知ることができる。これを「数」という。
 天は万物を動かす絶対的な因果論理を全て包括する存在である。人間は、偉大な天によって創造された。天は人であり、人は天である。人は天の一部でありながら、天の全体をも投影する。よって、人間の中にも、天と同じく絶対的な因果論理が存在する。だから、我々が難しい局面を迎えた時、自分自身を十分に知ることができれば、自ずと天の摂理に触れることが可能となり、進むべき道が開ける。中国的な個人主義を私なりに整理するとこのようになる。

 今述べた文の「天」を「神」に変えると、西洋のキリスト教的個人主義になる。全知全能の神は、自分の化身として人間を創造した。1人1人の人間の中には完全な神が宿る。世界をつかさどる論理は、それぞれの人間の中に埋め込まれている。神=全体と人間=部分の間には、部分の中に全体が含まれ、部分が全体を代表するという、集合論を超越した関係が成立する。

 旧ブログの記事「優れた古典は深遠な議論への入り口である-『リーダーになる』」でも述べたように、リーダーシップに関する欧米の書籍を読むと、「自分の内なる声に従う」、「自分の価値観を再確認する」、「自分の基軸を定める」といった具合に、リーダー個人の内面的な世界が強調されていることが非常に多い。その背景には、このようなキリスト教的な考え方があるのだろう(この点については、以前の記事「オットー・シャーマー『U理論』―デイビッド・ボームの「内蔵秩序」を知らないとこの本の理解は難しい」も参照)。

 中国の「天」に対応するのは、日本で言えば「神」や「仏」になるだろう。だが、日本の神仏は中国の天やキリスト教の神と異なり、万能な存在ではない。また、歴史上様々な宗教家が、神仏は万物に宿ると論じてきたが、私が思うに、万物に宿っている神仏は、神仏の完璧な全体像ではない。すなわち、神仏の不完全なパーツが埋め込まれているにすぎない。だから、どんなに個人が単独で修業を積んでも、神仏の全体像は解らない(この辺りは神道・仏教に対する私の理解がまだ追いついておらず、記述が不十分である点はご容赦ください・・・)(※)。

 神仏の全体像をつかむには、自分にはないパーツを持つ他者との交流を深めなければならない。集団の構成員同士がパーツを組み合わせることで、全体像が少しずつ見えてくる。また、神仏のパーツは、人間だけではなく、自然の中にも入り込んでいる。私が最近よく読んでいる江戸時代の禅僧・鈴木正三は、農民に「農業即仏行」と説いた。正三は、農家が畑に鍬を入れるたびに、土の中に眠っている仏が掘り起こされるのであり、念仏を唱えながら農業に一心不乱に取り組めば、仏道を極められると主張した。つまり、自然との相互作用も、神仏の全体像を知る上で欠かせない。ここに、他者や外界との調和を重んじる集団主義的な文化が成立する。

 余談になるが、数年ほど前中国に日本企業や欧米企業がこぞって参入した時、現地の中国人から経営スタイルが評価されたのは欧米企業の方であって、日本企業は中国人社員の流出を止められず、中国人学生も集められない、ということがあった。欧米企業は国籍を問わないフェアな競争主義を取り入れているのに対し、日本企業は初めから現地法人のトップを日本人にしており、中国人の出世の道を閉ざしていることが不人気の要因とされた。だが、別の見方をすれば、欧米人と中国人はともに個人主義的な文化で共通しており親和性が高い半面、集団主義的な日本企業は文化的なハンディキャップを負っていたとも言えるのではないだろうか?


(※)「修行は独りでおこなう~独居修行とは精神の自由~ Solitude means freedom of the mind|パティパダー巻頭法話」より引用。
 お釈迦様はじめ仏弟子たちは、一人も山に隠れて社会との関係を切断して、他人と口もきかず、顔も合わさず、修行した例はないのです。独居するどころか、お釈迦様は四十五年間、伝道しながら遊行したのです。お釈迦様の周りに、毎日のように何百人もの人々が集まるのです。お釈迦様の高弟たちは、たまたまお釈迦様に挨拶にうかがうときでも、最低二百人くらいのグループと一緒に来るのです。祇園精舎のような立派なお寺も出来上がったのです。仏教のお寺とは、独居するところではなく、みな集まる集会所のようなものです。誰でも自由に伺うことができる場所、なのです。それでお釈迦様が説かれる独居とは何なのかと、疑問が生じます。
 仏教の独居修行は、決して形式的なものではありません。行でもカルトでもありません。仏教は心理学でもあります。ですから、独居修行とは心理的なものになるのです。独居修行とは、精神的な独立、のことなのです。心が自由になって、何にも依存しない状態なのです。身体的に、社会と関わりを持たないという意味にはなりません。





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