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『躍進トランプと嫌われるメディア(『正論』2016年7月号)』―ファイティングポーズを見せながら平和主義を守った安倍総理という策士、他
舛添要一『憲法改正のオモテとウラ』―「政府解釈の変更による集団的自衛権の行使」は2005年に明言されていた、他
小川榮太郎『国家の命運―安倍政権奇跡のドキュメント』―日本は「仁」の精神で世界の均衡を実現する国家

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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京23区、神奈川県川崎市・横浜市を中心に活動する中小企業診断士・コンサルタント。

 専門領域は、(1)経営ビジョン・事業戦略の策定、(2)ビジョンや戦略とリンクした人材育成計画の立案・人事評価制度の構築、(3)人材育成計画に沿った教育研修プログラムの企画・開発。

 モットーは「日々改善、日々成長」、「実事求是」、「組織のためではなく知識のために働く」、「奇策は定石より先に立たず」、「一貫性(Consistency)」、「(無知の知ならぬ)無知の恥」

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 ブログタイトルに、oasisの往年の名曲『Whatever』を入れてみた。

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マネジメント・フロンティア
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(一社)東京都中小診断士協会一般社団法人東京都中小企業診断士協会
(城北支部執行委員、青年部長、および国際部員を務めています)

NPOビジネスサポート特定非営利活動法人NPOビジネスサポート
(監事を務めています)

企業内診断士フォーラム(KSF)企業内診断士フォーラム
(独立診断士の立場から、企業内診断士の活動を応援しています)

Experian海外企業信用調査 海外企業信用調査(Experian)
(一緒にお仕事をさせていただいている「コンサルビューション株式会社」は、世界最大の信用調査会社Experianの正規代理店です)

【中小企業診断士は独学で取れる】中小企業診断士に独学で合格するなら「資格スクエア」中小企業診断士の安い通信講座なら「資格スクエア」
(以下の資格の講師をしています。
 ―ITパスポート
 ―情報セキュリティマネジメント
 ―経営学検定(初級・中級)
 ―中小企業診断士(企業経営理論、経営情報システム、中小企業経営・中小企業政策)
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2016年07月14日

『躍進トランプと嫌われるメディア(『正論』2016年7月号)』―ファイティングポーズを見せながら平和主義を守った安倍総理という策士、他


正論2016年7月号正論2016年7月号

日本工業新聞社 2016-06-01

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 (1)
 天皇家は、権力を志向せず、祈りに専念されるやうになつた。その過程で祈りの道が特に自覚されたのは元寇の時でした。これらを通じて、日本の深い宗教性、それも排他的な一神教ではなく、誰ともぶつからず、祈りを通じて自然、先祖、神社の祭神と繋がり、さうした祈りが同時に国を守る祈りともなるといふ非常にユニークな日本独自の神の道が拓かれます。(中略)

 かうして歴史的に形成された天皇の制度は、非合理的な時代遅れどころか、風通しのよい自由社会を維持する上で、世界史上でも稀な程、有効な手立てと言つていい。
(小川榮太郎「亡国前夜或いは自由の喪失」)
 以前の記事「和辻哲郎『日本倫理思想史(1)』―日本では神が「絶対的な無」として把握され、「公」が「私」を侵食すると危ない」では、日本は神を頂点とし、その次に天皇を配置する超多重構造であると書いた。また、別の記事「『一生一事一貫(『致知』2016年2月号)』―日本人は垂直、水平、時間の3軸で他者とつながる、他」では、前述の垂直的な多重構造の他に、同一の階層内における水平方向の協業と、過去から未来への伝統の受け渡しという2軸を加えることによって、日本が時空を超えて非常に複雑な「網」を形成していることを指摘した。

 一見すると、日本人は縦にも横にも制約を受け、さらに伝統という縛りを受ける不自由な存在のように見える。ところが、引用文にある通り、日本人はこの構造の中にある時こそ最も自由であり、結果的に社会全体が安定化する。現在の日本は、基本的人権を普遍的価値と見なしているが、個人的には天賦人権論なるものに疑問を感じる時がある。日本人が自由であるのは、生まれながらにしてではなく、上記の社会構造に埋め込まれた時である。つまり、日本人の自由は外発的・後天的なのである。この辺りを論理的にどう説明するかが今後の私の課題である。

 小川榮太郎氏は別の記事で、日本の社会構造は多様性に対して寛容であるとも述べている。そして、その象徴が天皇という存在であるという。冒頭で紹介した以前の記事の中で書いた、非常にラフな日本の多重構造「(神?)⇒天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/NPO⇒学校⇒家族⇒個人」を見てみると、確かに天皇以外は多様なプレイヤーに満ちている。ところが、天皇だけは万世一系である。天皇は1人しかいらっしゃらないのに、どうして社会は多様性を確保することができるのか?天皇制における血縁主義は、社会の多様性をどのように担保しているのか?こういった疑問にも私は答えていかなければならない。

 (2)
 北朝鮮は4月15日、IRBMムスダンを発射した。発射は失敗に終わったが、日本の安全保障上、死活的な意味を持つ。(中略)(ムスダンは)グアムなどに着弾する蓋然性があり、それを日本政府が「存立危機事態」と認定すれば、いわゆる集団的自衛権の限定的な行使(防衛出動による武力行使)も可能となる。今回は空中爆発し、新法制の出番はなかったが、法的には初の適用となる可能性があった。その事実が持つ意味は重い。だが「憲法違反」「解釈改憲」と批判してきた護憲派メディアを含め、以上の点を新聞もテレビも追及しなかった。
(潮匡人「「第四権力」の転落」 そして誰もマスコミを信じなくなった」)
 私もこのことには全く気づいていなかった。というのも、4月14日と16日には熊本大震災が発生し、そちらに注意が向いていたためである。ただ、引用文にあるように、仮にムスダンがグアムに着弾しても、「存立危機事態」と認定することは非常に困難であろうと考える。

 存立危機事態とは、「日本と密接な関係にある他国が武力攻撃され、『日本の存立が脅かされる明白な危険』がある事態」と定義されている。「日本の存立が脅かされる明白な危険」とは、経済的なダメージだけでは不十分とされる。かつての日本は、アメリカから経済封鎖を受けて太平洋戦争に突入していったが、今回の安保法制の下ではそのようなことは認められない。実際、イランがホルムズ海峡を封鎖して日本に石油が入ってこなくなったとしても、それだけをもってイランを攻撃することはできないと政府は答弁している。

 「日本の存立が脅かされる明白な危険」とは、日本の領土、領空、領海が脅かされ、それによって多数の日本国民の生命に危険が及ぶ可能性がある場合に限定される。この段階で初めて集団的自衛権が行使できるというわけだが、この場合の集団的自衛権はほとんど個別的自衛権に等しい。だから、日本が言う集団的自衛権は、国際通念としての集団的自衛権と異なり、個別的自衛権に毛の生えた程度でしかない。毛の生えた程度とはつまり、次のようなことである。

 例えば、日本の領海を巡回中のアメリカ艦隊が中国から砲撃されたとする。中国の砲撃が続けば、日本の存立が脅かされる。こういう場合、従来の個別的自衛権に基づいて、自衛隊は中国に攻撃ができる。しかし、日本がわざわざ自衛隊を出動させて中国を攻撃するよりも、攻撃を受けているアメリカ艦隊の近くにいる自衛隊がアメリカ艦隊に武器を供給し、彼らに中国を攻撃させた方が即効性がある。集団的自衛権(による後方支援)はそれを可能にする。

 安保法制反対派は、集団的自衛権よりも、「重要影響事態における後方支援」に強く反対している。重要影響事態の定義が広がり、自衛隊が戦争に巻き込まれるリスクが高くなるというわけである。ところが、法律の構成を見ると、どうやら簡単には後方支援ができないようになっている。安倍首相はシームレスな防衛を目標としたが、実際には相も変わらずぶつ切り状態だというのだ。これは安保法制を推進した右派だけでなく、反対派の左派も指摘していることである。

 一例を挙げると、自衛隊が後方支援を行う際は、国会の事前承認が必要である。重要影響事態とは、「放っておいたら日本への武力攻撃の恐れがあるなど、日本の平和と安全に重要な影響を与える状況」である。日本が危険にさらされる可能性は、存立危機事態に比べると低い。しかし、実際に戦闘が行われている現場は生きるか死ぬかの世界で、時々刻々と戦況が変化する。そんな状態で、国会が後方支援の計画を長々と審議し、仮に可決されたとしても、その頃には計画が通用しないほどに局面が変化しているに違いない。従来の非戦闘地域における後方支援は、時間をかけて審議すればよかった。だが、重要影響事態においてはそうはいかない。

 《2016年9月14日追記》
 安保法制の具体的な「穴」については、「『天皇陛下「譲位の御意向」に思う/憲法改正の秋、他(『正論』2016年9月号)』―日本の安保法制は穴だらけ、他」にまとめておいた。


 私の見解には大いに批判があるだろうが、私は安倍総理を相当な策士だと考えている。日本の戦略的地位の向上を求めるアメリカと、年々軍事力を増強し続ける中国に対して、「いざとなれば日本だって立ち上がる準備はあるんだぞ」というファイティングポーズは見せた。だが、蓋を開けてみると、複雑怪奇なルールで自らを縛り、結局は今までと大して変わらない(今までよりも制約が強い?)状態にした。結果的に、日本の平和主義は守られた。国防という最重要にして最難関の問題をこのような形で決着させられたのは、安倍総理以外にいなかったであろう。

 (3)
 ドイツで今から30年前の1980年代、ナチズムと共産主義をめぐって「歴史家論争」という大論争が繰り広げられたことがあった。この論争での重要な焦点は、ナチズムと共産主義が全体主義という点では同じではないかということだった。特にエルンスト・ノルテや、フランス人で共産主義から転向したフランソワ・フュレらは、思想的脅威、謀略的手法、極端な軍事力重視と共にはなはだしい人命軽視という武断的な姿勢も含めて共産主義から影響を受けたのがナチズムであり、ナチズムと共産主義は双子の関係、少なくとも「シャム双生児」の関係にあると提起した。
(中西輝政「共産主義と日米戦争―ソ連と尾崎がやったこと(上)」)
 私の理解不足もあるのかもしれないが、以前の記事「【ドラッカー書評(再)】『産業人の未来』―人間は不完全だから自由を手にすることができる」で書いた通り、私の中ではナチスと共産主義は同じ全体主義である。極右のナチスと極左の共産主義は、唯一絶対の神しか認めず、人間は神に似せて創造された完全な理性を持つ存在であるという前提から出発している点で共通する(もっとも、本来の共産主義は無神論なので、私の考え方にはまだ大きな穴が開いたままなのだが)。だから、両者は親和性が高い。本号には、「ナチスの権力掌握に「協力」した共産党 憲法「緊急事態条項」批判論の虚妄(中)」(福井義高)という記事も収録されていた。

 私は、神も人間もどちらも不完全な存在と見なす日本の考え方が、最も平和的、寛容、柔軟であると信じている(冒頭で紹介した小川榮太郎氏の考えの影響も受けている)。ところが、世界の宗教人口を見ると、キリスト教とイスラームで半分以上を占める。彼らに神の不完全性を理解させることはまず不可能であろう。だから、人間がいかに不完全な存在であるかを認めさせることが、全体主義が世界を恐怖の底に突き落とすのを防ぐことにつながると考えられる。

 いや、「認めさせる」という表現は、あまりに傲慢で不適切だったかもしれない。「認めさせる」ということは、「人間が不完全である」というロジックが完全であることを前提としており、自家撞着に陥っている。我々は彼らに対し、「人間は不完全である」と訴え続ける。彼らが我々の考えを100%理解しなくてもよい。ただ何となく、「そう言われてみると、確かに人間は不完全なのかもしれない」と感じ、彼らなりの方法で我々の主張を咀嚼してくれればそれでよい。


2014年04月24日

舛添要一『憲法改正のオモテとウラ』―「政府解釈の変更による集団的自衛権の行使」は2005年に明言されていた、他


憲法改正のオモテとウラ (講談社現代新書)憲法改正のオモテとウラ (講談社現代新書)
舛添要一

講談社 2014-02-20

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 私が在学していた時の京都大学法学部は憲法が必須科目ではなく、法学部なのに憲法を全く勉強せず卒業することも可能であった。既に法律への関心を失ってしまい、ビジネスに傾倒しつつあった私は、憲法の単位を取らずに卒業することも考えた。だが、さすがにそれは法学部生としてまずいと思い直して、憲法を受講することにした。そんな不真面目な学生だったので、憲法に関する私の知識は一般の法学部生以下だ。だから、本書についてのまとまった感想を書くだけの力量がない。よって、本書に関しては雑感をつらつらと並べてみたいと思う。

 (1)本書は、2005年に結党50年を迎えた自民党が、50年前に掲げた結党の目的「憲法の自主的改正」に立ち返って、新しい憲法の草案を取りまとめた際のことを記録したものである。森元首相を委員長とする「新憲法起草委員会」が立ち上がり、天皇、安全保障、基本的人権など憲法の各分野について10の小委員会が設けられて、改正の方向性が検討された。

 本書の帯には「憲法改正とは政治そのものである」と書いてある。10の小委員会にこまめに出席していた舛添氏は、憲法改正が権力抗争の場と化すのを何度も目撃したようだ。一院制の議論が持ち上がれば、参議院自民党から圧力がかかり、地方財源をめぐっては総務省と財務省が対立したという。しかし、本書ではそのような政治的側面は最小限に抑えられている。各小委員会で検討された論点と決議された要綱が整然と並べられていて、最後に舛添氏が自身の主張をつけ加えるというスタイルをとっており、非常に読みやすい。

 率直な感想を言えば、細かい条文をめぐる権力抗争なんてのはみみっちいもので(そんなことを言ったら怒られるか)、2005年の「郵政解散」によって憲法改正の機運そのものが吹っ飛んでしまったことの方が、「憲法改正とは政治そのものである」という言葉にふさわしいのかもしれない。憲法の前文には、日本人の伝統的な精神を反映して「和を尊ぶ」という文言を入れる予定であった。だが、造反組をことごとく敵に回し、総選挙で次々と刺客を送り込むやり方のどこが「和を尊ぶ」なのか?と批判されたという。

 (2)自民党は、新憲法について一括で国民の判断を仰ぐ予定だったようだ。しかし、これにはさすがに無理があると思う。当時の公明党も、一括方式に反対したと書かれてある。新憲法は現在の憲法を踏襲している部分もありながら、大きく変わる部分も結構ある。一括方式にしてしまうと、ある条文の改正案については賛成であるが、別の条文の改正案には反対という場合に、国民投票によって意思を的確に表明することができない。

 ビジネスの世界でもそうだが、大がかりな改革は一発で成功させようと思わない方がよい。まずは小さな改革から始めて、成功体験を積んでから大きな改革に取りかかるのが定石である。憲法改正に関しても、まずはそれほど重要度が高くない分野から着手し(最高法規である憲法の中で、それほど重要でない部分とはどこなのか?という議論がありそうだが)、国民と政治家を憲法改正のプロセスに慣れさせる。その準備段階を踏んだ上で、おそらく憲法改正の本丸であろう9条の見直しへと進んでいくのが筋ではないかと考える。

 (3)今年に入ってから、安倍首相が集団的自衛権の行使について、「政府解釈を変更することで認められる」と発言をして非難を浴びた。ところが実は、2005年の議論で、政府解釈の変更により集団的自衛権の行使を可能にする方向で動いていたことが本書に書かれている。

 舛添氏の解説によると、「安全保障および非常事態に関する小委員会」がまとめた要綱のポイントは、(A)持つべき軍隊の名称を「自衛軍」とすること、(B)国際貢献を明記すること、(C)集団的自衛権の行使については、憲法に明記せず、政府解釈の変更で認めること、の3点であった。2005年の段階では、この点についてそれほど大きな批判はなかったと記憶しているが、今になって安倍首相がやり玉に上がるのはいささかおかしな話だと感じる。

 (続く)


2014年04月17日

小川榮太郎『国家の命運―安倍政権奇跡のドキュメント』―日本は「仁」の精神で世界の均衡を実現する国家


国家の命運 安倍政権 奇跡のドキュメント国家の命運 安倍政権 奇跡のドキュメント
小川 榮太郎

幻冬舎 2013-06-14

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 前著『約束の日 安倍晋三試論』に続く小川榮太郎氏の最新作。解散を先延ばしにする野田前総理の国会での所信表明を「亡国」と酷評し、挑発を続ける中国に対し弱腰の姿勢を見せる岡田前副総理を「万死に値する」と斬り捨てるなど、民主党への”死体蹴り”は容赦なく続けられる。その文章には、骨肉をどんなに切り刻んでも足りないというぐらいの激しい憎悪がにじみ出ている。そんな国難に際して、まるで天命に導かれるようにして安倍総理が誕生したと、2012年の総裁選、そして衆院総選挙の裏話をドラマティックに描き出している。その中には、政治評論家の故三宅久之氏との知られざる交流も含まれる。

 本書の最後では、安倍総理が世界に対して発信した「日本の戦略的ポジショニング」に言及されていて非常に興味深い。
 安全保障も含め、世界の新たなルールの作り手、海洋という新時代の可能性への水先案内人、そして民主主義や法の支配という価値観による世界秩序の再整理を担うという国家的な野心は、明確に示されたのである。

 これを安倍の個人的な野望だと評するのは間違っている。日本の国力の衰退と国際環境の厳しさを考えた時、逆に我が国はここまで強く、己の国際的なポジションを再定義し直し、それに向けて一丸となってチャレンジしようとしない限り、最早活路はない。
 企業に戦略が必要であるのと同様に、政治にも戦略が必要である。そして、政治的戦略とは、他国とのパワーバランスの中で、自国が自らの強みを活かしながらどのようなポジショニングを取るのかを定めることである。

 日本の強みとは何か?それは、『論語』にある「仁」の精神ではないかと思う。仁とは、簡単に言えば思いやりであり、他人の幸福を祈ることである。そして、日本で仁の精神を最も体現している存在として「天皇」がいらっしゃる。東日本大震災3周年追悼式で、天皇陛下は「被災した人々の上には、今も様々な苦労があることと察しています。この人々の健康が守られ、どうか、希望を失うことなく、これからを過ごしていかれるよう、永きにわたって国民皆が心をひとつにして寄り添っていくことが大切と思います」とおっしゃった。まさに仁の精神の表れである。

 日本国憲法には、天皇は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」であると定められている。天皇が象徴している日本国および日本国民とは一体何なのかを一言で答えるならば、このような仁の精神であろう。さらに、大日本帝国憲法にまで遡って見てみると、第1条「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」の「統治ス」の部分は、原案では「治(しら)す」となっていた。「しらす」とは、『古事記』や『日本書紀』に出てくる言葉であり、「天皇が広く国の事情をお知りになることで、自然と国が一つに束ねられること」を意味する。つまり、仁である。

 仁のあるところには、自ずと信頼が生まれる。そして「信」こそ、孔子が政治において最も重要な要素として挙げたものである。
 子貢、政を問う。子曰わく、食を足し兵を足し、民をしてこれを信ぜしむ。子貢が曰わく、必ず已むを得ずして去らば、斯の三者に於て何れをか先きにせん。曰わく、兵を去らん。曰わく、必ず已むを得ずして去らば、斯の二者に於て何ずれをか先きにせん。曰わく、食を去らん。古より皆死あり、民は信なくんば立たず。

【現代語訳】
 子貢が政治について尋ねた。孔子は、「食糧を行き渡らせること、軍備を整えること、人々との信頼を築くことだ」と答えた。子貢は、「どうしても3つのうち1つを犠牲にしなければならないとしたら、どれを犠牲にしますか?」と尋ねたところ、孔子は「軍備を犠牲にする」と答えた。子貢はさらに、「どうしても残り2つのうち1つを犠牲にしなければならないとしたら、どちらを犠牲にしますか?」と尋ねたところ、孔子は「次は食糧だ。昔から人の死は避けられないものだが、信頼がなければ人間社会は成立しない」と答えた。
 日本は世界で唯一、万世一系の国王=天皇が未だに存在する稀有な国家である。日本がこれほどまでに連続した歴史を維持することができたのは、仁や信といった政治の本質を体現し続けてきたからに違いない。その強みを、国際政治の舞台でも積極的に発揮しなければならない。

 アメリカはグローバリゼーションという名のアメリカナイゼーションを世界中で進めている。中国は軍事費を毎年10%以上増加させており、太古からの理想である中華思想の実現を目指している。ロシアは、ギリシャ正教の教えに基づいて世界の覇権を狙っている。中東のイスラム原理主義者は、反米の姿勢を強めている。これらの国々が衝突するその中心に、日本という国家は存在している。日本は、対立の中に身を置いて、仁の精神で世界の均衡を導かなければならない。

 世界各国が軍事力を増強している中で、仁や信といった精神面に訴える政治はあまりにも弱いと批判されるかもしれない。しかし日本は、アメリカの政治学者ジョセフ・ナイが「ソフト・パワー」という概念を持ち出すよりもずっと前から、ソフト・パワー中心の外交を展開し、世界中から高く評価されてきた。イギリスの公共放送局BBCが毎年行っている「世界によい影響/悪い影響与えている国」の調査によると、2012年は日本が「世界によい影響を与えている国」で1位となった。

 ハード・パワーに頼る政治は、力で相手を押さえつければよいので、ある意味では簡単である。だが、別の言い方をすれば非常に短期的・短絡的な発想であり、相手の遺恨を残しやすい。長い目で見れば、その遺恨が別の政治的課題を発生させるだろう。これに対して、ソフト・パワー中心の政治は、人間の心と心を通じ合わせる必要がある。よって、時間がかかるし非常に難しい。だが、幸いにも日本はそういう政治に長けているのである。今こそ仁の精神でリーダーシップを発揮することが、日本の戦略的ポジショニングとなるのではないか?

 《2016年3月13日追記》
 参考までに。この記事を書いて以来、本ブログでは、アメリカ、ドイツ、ロシア、中国といった大国が二項対立的な発想をする一方で、大国に挟まれた日本のような小国は、対立する双方のいいところどりをして二項混合的な発想をするのが生き残りの道であると書いてきた。
 国際的な場でこのように存在感を示せていない日本であるが、そんな場で求められている新たな役割がある。それは、平和思考で調和を尊ぶ日本的な特徴を生かして、特定の国家間で真っ向から利害が対立しているような問題に対して、第三者的な態度で仲介をし、調停をするというメディエーターとなることだ。
ケースで学ぶ異文化コミュニケーション―誤解・失敗・すれ違い (有斐閣選書)ケースで学ぶ異文化コミュニケーション―誤解・失敗・すれ違い (有斐閣選書)
久米 昭元 長谷川 典子

有斐閣 2007-09-25

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 よく知られているように、アメリカは訴訟大国である。アメリカの民事訴訟件数は年間約1,800万件であり、日本の7倍以上である。アメリカの人口(3億1,890万人)は日本の人口(1億2,681万人)の約2.5倍であるから、人口10万人あたりの訴訟件数で見ると、アメリカは日本の約17.5倍となる(ただし、アメリカの判決率は僅か3.3%であり、日本の47.4%に比べて低い点は注目に値する。これは、アメリカにおいては、裁判の途中で和解に至るケースが多いためである)。

 紛争を解決する手段としては、裁判のほかにADR(Alternative(Appropriate) Dispute Resolution:裁判外紛争解決手続)がある。やや古いデータではあるが、ADRの件数を日米で比較してみると、1999年の年間ADR受理件数は、日本が約26万件であるのに対し、アメリカは約17万件である(首相官邸「主なADRの利用状況(諸外国比較)」より)。日米の人口の差を考慮すると、日本のADRの件数はアメリカの約3.7倍である。

 アメリカでは弁護士の数も多いことから、まずは訴訟を起こして対立に持ち込む。その後は交渉によって、被告側が「このぐらいの金額は取りたい」と考えるラインと、原告側が「ここまでの金額ならば支払える」と考えるラインを近づけていく。両者のラインが一致すれば和解が成立する。ただ、和解とは言うものの、和解金は法外な金額になることもあり、決して痛み分けという形にはならない。あくまでも勝ち負けがはっきりするのがアメリカの特徴である。

 一方、日本の場合は、訴訟に対する心理的ハードルが高いことから、まずは調停が選択されることが多い(と、私が大学生の時に法社会学の講義で習った)。調停では、一方を完全な悪者にはしない。双方に多少の非があったことを認め合い、今後どのような関係を築くのかを協議して、円満な解決に至る。そのプロセスは二項対立ではなく二項混合であると言える。引用文にあったメディエーターに期待される役割とは、この二項混合を促すことではないだろうか?

 《2016年3月27日追記》
 リチャード・E・ニスベット『木を見る西洋人森を見る東洋人―思考の違いはいかにして生まれるか』(ダイヤモンド社、2004年)より、西洋とアジアの紛争解決の方法の違いに関する記述を引用する。本書では、西洋人は交渉の場において、選択肢を二者択一で「選ぶ」のに対し、アジア人は両者の主張を「合わせる」とも書かれている。
 争いのための文章技法の形式は、アジアの法律にも欠けている。西洋の法律のほとんどの部分を占めているのは敵対する者どうしの争いに関するものだが、それらはアジアでは見出されない。もっと典型的なことに、アジアの論争者たちは問題の解決を仲裁人に委ねる。仲裁人に課せられているのは公正な判断ではなく、敵対する者たちの主張の「中庸」を探して憎しみを軽減することである。アジア人には普遍的な原則によって法律上の紛争に対する解決策を見出そうという考えはない。それどころか、抽象的で型どおりの西洋流の正義は、融通がきかなくて冷酷なものだと考える傾向がある。
木を見る西洋人 森を見る東洋人思考の違いはいかにして生まれるか木を見る西洋人 森を見る東洋人思考の違いはいかにして生まれるか
リチャード・E・ニスベット 村本 由紀子

ダイヤモンド社 2004-06-04

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