2014年08月12日
【メモ書き】日本の土地制度の変遷(平安時代後期~鎌倉時代まで)
詳説日本史B 81 山川 日B301 文部科学省検定済教科書 高等学校 地理歴史科用 (81 山川 日B301) 笹山晴生 佐藤信 五味文彦 高杢利彦 山川出版社 2013 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
(前回からの続き)
(5)【10~11世紀】10世紀になると政府は方針を転換し、国司に一定額の税の納入を請け負わせて、一国内の統治を委ねる方針を取り始めた。国司は有力農民(田堵)に一定の期間を限って田地の耕作を請け負わせ、かつての租・調・庸・公出挙利稲や雑徭などの税・労役に見合う額の官物・臨時雑役などの負担を課すようになった。課税対象となる田地は名という徴税単位に分けられ、それぞれの名には負名と呼ばれる請負人の名がつけられた。田堵の中には国司と結んで勢力を拡大して、ますます大規模な経営を行い、大名田堵と呼ばれる者も現れた。
8~9世紀に生まれた初期荘園(後の寄進地系荘園と比較して墾田地系荘園と呼ばれる)の多くは衰退していった。しかし、10世紀以降になると、次第に貴族や大寺院の権力を背景として中央政府から租税の免除(不輸)を承認してもらう荘園が増加し、地方の支配が国司に委ねられるようになってからは、国司によって不輸が認められる荘園も生まれた。
10世紀後半以降になると、大名田堵が各地で勢力を強めて盛んに開発を行い、11世紀には開発領主と呼ばれて一定の地域を支配するまでに成長する者が多くなった。かれらは在庁官人となって国衙の行政に進出するとともに、他方で国司から圧力が加えられると所領を中央の権力者(権門勢家)に寄進し、権力者を領主と仰ぐ荘園とした。
寄進を受けた荘園の領主は領家と呼ばれ、この荘園がさらに上級の大貴族や皇室の有力者に重ねて寄進された時、上級の領主は本家と呼ばれた。そして開発領主は下司などの荘官となり、所領の私的支配を今までよりもさらに一歩推し進めることになった。こうした荘園は寄進地系荘園と呼ばれ、11世紀半ばには各地に広まった。
(6)【11~12世紀】荘園の増加が公領を圧迫していると見た後三条天皇は、1069(延久元)年に厳しい内容の延久の荘園整理令を出した。この整理令は国司任せではなく、中央に記録荘園券契所を設けて荘園の所有者から証拠書類を提出させ、これと国司の報告とを合わせて審査し、年代の新しい荘園や書類不備のものなど、基準に合わない荘園を停止した。摂関家の荘園も例外ではなく、整理令はそれなりの成果を上げた。
しかし、白河上皇・鳥羽上皇・後白河上皇の3上皇による院政の時代には、大量の荘園がその基盤となった。特に鳥羽上皇の時代には、院や女院に荘園の寄進が集中した。鳥羽法皇が皇女八条女院に伝えた荘園群(八条院領)は平安時代末に約100か所、後白河法皇が長講堂に寄進した荘園群(長講堂領)は鎌倉時代初めに約90か所という多数に上る。大量の荘園は、公領に対する知行国の制度と合わせて、院の財政を支えた。
(7)【12世紀】1185(文治元)年、平氏の滅亡後、源頼朝の強大化を恐れた後白河法皇が義経に頼朝追討を命じると、頼朝は軍を京都に送って法皇に迫り、諸国に守護を、荘園や公領には地頭を任命する権利、また1段あたり5升の兵粮米を徴収する権利、さらに諸国の国衙の実権を握る在庁官人を支配する権利を獲得した。
守護は原則として各国に1人ずつ、主として東国出身の有力御家人が任命されて、大犯三カ条(皇居を警護する京都大番役と、謀叛人・殺害人の逮捕)などの職務を任とした。また、平安時代後期以来、各地に開発領主として勢力を伸ばしてきた武士団、特に東国武士団は御家人として幕府の下に組織され、地頭に任命されて、強力に所領を支配することを将軍から保障された。
(8)【13世紀】自らの支配権を拡大しようとする武士たちは、荘園・公領の領主や、所領の近隣の武士との間で年貢の徴収や境界の問題をめぐって紛争を起こすことが多かった。特に承久の乱後には、畿内・西国地方にも多くの地頭が任命され、東国出身の武士が各地に新たな所領を持つようになったから、現地の支配権をめぐって紛争はますます拡大した。
領主たちは、紛争を解決するために、地頭に荘園の管理一切を任せ、一定の年貢納入だけを請け負わせる地頭請所の契約を結んだり、さらには現地の相当分を地頭に分け与える下地中分の取り決めを行うものもあった。幕府もまた、当事者間の取り決めによる解決(和与)を勧めたので、荘園などの現地の支配権は次第に地頭の手に移っていった。