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森本浩一『デイヴィドソン―「言語」なんて存在するのだろうか』―他者が積極的に介在する言語論に安心する

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谷藤友彦(やとうともひこ)

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2016年03月07日

森本浩一『デイヴィドソン―「言語」なんて存在するのだろうか』―他者が積極的に介在する言語論に安心する


デイヴィドソン 「言語」なんて存在するのだろうか シリーズ・哲学のエッセンスデイヴィドソン 「言語」なんて存在するのだろうか シリーズ・哲学のエッセンス
森本 浩一

NHK出版 2004-05-22

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 現在、世界に存在する言語の数は千数百とも数千とも言われる。1939年にアメリカのL・H・グレイは2796言語と唱え、1979年にドイツのマイヤーが4200から5600言語と唱えており、三省堂の言語学大辞典・世界言語編では8000超の言語を扱っているらしい(城生佰太郎、松崎寛『日本語「らしさ」の言語学』〔講談社、1995年〕)。

日本語「らしさ」の言語学日本語「らしさ」の言語学
城生 佰太郎 松崎 寛

講談社 1994-12

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 だが、言語と言語の境目はどうやって決まるのだろうか?なるほど確かに、日本語と英語は単語も文章の構造も違うから、別の言語として扱ってよさそうだ。では、東京弁と大阪弁はなぜ同じ日本語なのか?東京人と大阪人がそれぞれ東京弁と大阪弁で話しても、コミュニケーションにはさほど支障がないことがその理由なのだろう。ところが、これが青森弁や沖縄弁となると、難易度が上がるように思える。それでも、我々は青森弁や沖縄弁が別の言語であるとは言わない。

 海外に目を向けると、タイ語とミャンマー語、スペイン語とポルトガル語など、隣国同士の言語は似ていることがある。タイ語を知らないミャンマー人がタイに出稼ぎに行っても、ポルトガル語を知らないスペイン人がポルトガルを旅行しても、相手の言葉がそれなりに理解できるそうだ(残念ながら、日本人が韓国に行っても、いきなりハングルを理解することはまず不可能だが)。しかし、世界的にはタイ語とミャンマー語、スペイン語とポルトガル語は別の言語とされる。このように見ていくと、ある言語が1つの独立した言語だと言い切るための基準は曖昧であることが解る。

 デイヴィドソンは、言語非存在論を主張する。我々が日本語、英語、タイ語、ミャンマー語、スペイン語、ポルトガル語、韓国語などと呼ぶような言語は存在しないというのである。
 つまり、学習されたりマスターされたり、あるいは生まれつき持っていたりするようなものは何もない。言語使用者が習得し、現場で適用している明示的に定義された共有の構造という観念は、諦めなくてはならない。
 一般的に、我々は言語に関する規則をあらかじめ知っており、相手の言葉をその規則に照らし合わせて、相手の言い間違いや文法的誤りを正しながら意味を理解する言語能力を持っていると考えられる。しかし、デイヴィドソンはそのような能力を否定する。コミュニケーションとは、相手が発した言葉が示す意味を絶えずお互いに解釈し合う作業であると述べる。ここでデイヴィドソンは、「T-文」という条件文を提示する。
 「雨が降っている」が真であるのは、雨が降っている場合その場合に限る。
 これだと訳が解らないが、例えばアメリカ人と日本人の会話では次のようになる。
 "It is raining"が真であるのは、雨が降っている場合その場合に限る。
 私は、「ア・メ・ガ・フ・ッ・テ・イ・ル」、「イ・ッ・ト・イ・ズ・レ・イ・ニ・ン・グ」という相手の音を耳にする。相手は窓の外に目をやって、空から水滴が落ちてくるのを見ながらその音を発している。その状況から、相手は雨が降っていることを意味しているのだと私は解釈する。これがコミュニケーションである。「 」にはどのような言葉が入ってもよい。見ず知らずの人が、「○+※▲◆◎・・・」という全く聞き慣れない音を発しても、相手が窓の外の雨を見ながらその音を発しているならば、相手は雨が降っていることを意味しているのだろうと判断できる。結局、重要なのは解釈される意味であり、表面的な音・言語は何でもよいことになる。よって、言語は存在しないのである。

 T-文は、「『・・・』が真であるのは、・・・の場合その場合に限る」という形式をとる。ここでは「真である」という表現を使ったが、厳密に言えば「真である」と断定することは無理である。なぜならば、相手が本当のところ何を意味しているかは、相手の心の中が読めない限り、私には把握できないからだ。だから、T-文を正確に書けば「『・・・』を真と見なしているのは、・・・の場合その場合に限る」となる。とはいえ、いつもいつも「真と見なしている」ようでは、コミュニケーションが不安定になる。そこで、我々は「真と見なしている」から「真である」へと自然にジャンプしている、とデイヴィドソンは考えた。彼はこれを「寛容の原理」と呼んでいる。
 寛容はひとつの選択肢といったものではなく、使いものになる理論を得るための条件である。それゆえ、それを受け入れればとんでもない間違いを犯すことになるかもしれないと考えても意味はない。真であると見なされた多くの文どうしの体系的な連関をつくり上げることに成功しないうちは、間違いを犯すこともありえないのである。寛容はわれわれに強いられている。他者を理解したいのであれば、好むと好まざるとに関わらず、われわれは、だいたいの事柄において他者は正しいと考えなければならない。
 寛容の原理は、聞き手だけでなく話し手にも要求される。話し手は好き勝手に言葉を発すればよいのではなく、自分の意味するところが相手に正しく伝わるように配慮しなければならない。
 当の発話によって話し手は、聞き手が解釈するに値する何かを伝えようとしているはずだと「見込む」ことが聞き手にはできるということ、さらに言えば、話し手は、聞き手に関して一定の準備的な知識(聞き手に関する話し手の事前理論)を持つはずだから、その準備的知識に照らして、聞き手が無理なく解釈できるような仕方で発話を行っているであろうと「見込む」ことができるということ、です。(中略)そういう「見込み」を共有することがコミュニケーションの原理的条件であるということになります。
 素朴な言い方をすれば、コミュニケーションはルールに沿ったプログラミングではなく、話し手と聞き手が意味を構築する共同作業である。そう言ってしまえば至極当たり前のことなのだが、哲学の世界では時折他者の存在が抜け落ちてしまうことがあるように思える(以前の記事「斎藤慶典『デカルト―「われ思う」のは誰か』―デカルトに「全体主義」の香りを感じる」、「富松保文『アウグスティヌス―“私”のはじまり』―「自己理解のためには他者が必要」と言う場合の他者は誰か?」を参照)。他者を埋没させ、自己の理性だけを極限まで合理化すると、自己と他者の境界線を消して他者に自己の完全性を強要し、ファシズムに陥ると私は考えている。

 だから、西洋哲学はそうならないように、合理的理性を追求しつつ、都度修正を試みているようだ(以前の記事「山内志朗『ライプニッツ―なぜ私は世界にひとりしかいないのか』―全体主義からギリギリ抜け出そうとする思想」、「熊野純彦『カント―世界の限界を経験することは可能か』―神に近づきすぎないための哲学」を参照)。全体主義を回避するには、自己とは異質な他者を対峙させることが最も有効であると思う。他者の存在によって、私の理性は相対化される。

 以前の記事「飯田隆『クリプキ―ことばは意味をもてるか』―「まずは神と人間の完全性を想定し、そこから徐々に離れる」という思考法(1)(2)」もそうであったが、デイヴィドソンの哲学のように、他者が積極的に関与してくれると、私などはひどく安堵するのである。

 最後に余談。先ほど、「『雨が降っている』が真であるのは、雨が降っている場合その場合に限る」というT-文を書いたが、「雨が降っている」という言葉は、相手が窓の外の雨を眺めているという状況の下で理解される。つまり、言葉はそれ単独では意味をなさず、常に状況とセットで解釈されるということである。仮に「○+※▲◆◎・・・」という言葉を耳にしたり、文字を目にしたとしても、状況とセットになっていなければ意味を理解することはできない。

 日本の外国語教育は文法至上主義で、机上で正しい文章ばかりを勉強する。ところが、実際の外国人の言葉は、文法から逸脱していることがよくある。正しい文法こそが全てだと思い込んでいる日本人は、文法に従って相手の言葉を理解しようとする。その場の状況を考慮して、柔軟に意味を構築することが苦手だ。だから、学校で何年も英語を勉強しているのに、ちっとも英語が使えない(私もその1人(恥))。英語教育に必要なのは、文法の学習は最低限に留め、生活の中で生の英語にたくさん触れさせ、解釈の経験を積ませること以外にはない(当たり前だが)。




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