2018年03月14日
『正論』2018年4月号『憲法と国防』―なぜ自殺してはいけないのか?(西部邁先生の「自裁」を受けて)
月刊正論 2018年 04月号 [雑誌] 正論編集部 日本工業新聞社 2018-03-01 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
1月21日早朝、保守系評論家の西部邁先生が多摩川に身を投じ、自殺した。実は、西部氏は以前から自殺(西部氏は「自殺」ではなく「自裁」という言葉を使う)についてプランを練っており、その一部を『正論』の中でも披露していた。今月号には追悼企画として、「ファシスタたらんとした者(第14回)『自分の死』としての『連れ合いの死』 そして『死相の世界』のなかでの『エッセイイストの末期』」(初出は2017年1月号)が再掲されていた。
この男、「自分が家族や友人や社会に何の貢献もできないのに、彼らや彼女らから世話を受けることばかり多き」という状態に入るのでは、死ぬ甲斐も生きた甲斐もなくなると考えてきた。(中略)で、彼はシンプル・デス(簡便死)を選びとる、と55歳で公言した。要するに、じきに死ぬと察しられたら、実行力の残っているうちに、あっさり自裁するということである。あるいは、ひとたび意識的に生きようと決意した者は、おのれの死にあっても、意識を保持したいと思うに違いないのであるから、自裁が最も死に方となるのである。その死に方として、西部氏は「ピストル自殺」を検討し、実際に準備も進めていたようであったが、最終的に選択したのは入水自殺であった。
本ブログでも公言しているように、私は前職のベンチャー企業に勤めていた2008年から双極性障害という精神障害を患っている。躁状態(一言で言えばハイテンションな状態)とうつ状態が交互にやってくる病気である。ただし、私の場合は明確な躁状態エピソードがなく、極度のイライラとうつ状態が混合しているため、双極性障害Ⅱ型だと診断されている。
うつ状態の時には、「死にたい」という気持ち(希死念慮)が湧いてくることも少なくない。朝起きたら「今日は遺書を書こうか」と考えることもあるし、駅のプラットフォームで電車を待っていると、このまま線路の下に吸い込まれてしまうのではないかと思うこともある。突発的に道路に大の字になって寝そべって、自動車に轢いてもらいたいと願うこともある。それでも自殺に今のところ踏み切っていないのは、あんなゴミみたいなベンチャー企業のせいで自分が犠牲になるのが耐えがたいという意地と、やはりどこかに自殺=悪という意識があるからであるように思える。
西部氏は、「死に方は生き方の総決算だ」と主張していた。今回の記事では、西部氏の主張に反して、それでもやはり自殺してはならない理由を私なりに書いてみたいと思う。ただ、「なぜ人は生きるのか?」という問いに普遍的な回答を与えることができないように、「なぜ人は自殺してはいけないのか?」という問いにも唯一絶対の解はないと思う。
キリスト教には「汝殺すなかれ」という言葉があり、自殺は殺人よりも重い罪とされている。中世以来、自殺者には教会での葬儀が許されないばかりか、遺体は棒を突き刺して街中を引きずり回され、頭を割られ、財産は没収された。ヨーロッパでは、自殺者に対する凶悪殺人犯並みの「見せしめ刑」が19世紀まで生きていた(三井美奈『安楽死のできる国』〔新潮新書、2003年〕より)。ただし、これはキリスト教圏においてのみ成立する話である。だから、これから私が書く内容は、日本でのみ通用することだと思ってお読みいただきたい。この手の話は、論理的であるかどうかよりも、結局は信じるかどうかが大事である。そのため、以下の内容は論理的でない部分や、主張が弱い部分もあるだろうが、その点はご容赦いただきたい。
安楽死のできる国 (新潮新書) 三井 美奈 新潮社 2003-07-01 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
本ブログでも何度か書いたように、日本は多重階層社会である。それをラフスケッチすれば、「神⇒天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/NPO⇒学校⇒家族」という構図になる。ただし、神の世界もまた多重化されており(以前の記事「和辻哲郎『日本倫理思想史(1)』―日本では神が「絶対的な無」として把握され、「公」が「私」を侵食すると危ない」を参照)、真の頂点を知ることは誰にもできない。神の世界とは、別の言い方をすれば精神世界である。日本人は、神々の精神世界から天皇を通じて魂を受け、肉体という器を借りてこの世に誕生する。
この精神世界は、物理学者のデイビッド・ボームが言う「内蔵秩序」とは異なる。ボームの言う内蔵秩序とは、我々が普段生きている世界=顕在秩序の背後・根底にある絶対的な秩序である。対立や混乱があふれる顕在秩序において、人々が注意深く意識のレベルを上げれば内蔵秩序にアクセスすることができ、紛争を解決できるとボームは考えた。ボームの考えはピーター・センゲらの「U理論」に受け継がれている。ただ私は、これは全体主義に至る道ではないかと警鐘を鳴らしてきた。多神教の日本における精神世界は、多様性を内包している点に特徴がある。よって、そこから生まれる人間も多種多様である。だが、多神教の神は唯一絶対的な一神教の神と異なり不完全であるから、それぞれの人間に与える能力や寿命はバラバラである。
だから、日本の場合は機会の平等が成立しない。人間は生まれながらに不平等である。日本人は、神から与えられた能力を活かして、神から与えらえた役割を全うすることが大切である。社会の中の持ち場において、その人なりに創意工夫を凝らすことこそが日本人の自由である。要するに、日本社会とは、不平等だが自由な社会である。とは言え、本人が努力して多重階層社会の中をある程度移動することは認められているし、神もそのことはあらかじめ織り込んでいる。また、神は人間に試練を与える。人間がその試練を乗り越え、魂を鍛錬することを神は期待している。ただし、ここでも神は不完全であるから、試練にほとんど遭遇しない人もいれば、試練ばかりに遭遇する人もいる。この点でも、日本人は不平等である。
以上を総合すると、理想の生とは、神から与えられた能力を活かし、努力によって役割を拡大し、試練を乗り越えながら神が与えた寿命を全うすることである。そして、理想の生を活きた人の魂は、神が設定した寿命の時期になると、神が回収しにやって来る。回収した魂は精神世界に統合され、その魂の質によって精神世界を発展させる。発展した精神世界からは、また神の手によって、天皇を通じて新たな人間が誕生する。こうして、日本人は漸次的に進歩していく。ただ、繰り返しになるが、神は不完全であるがゆえに、精神世界に蓄積された前世の記憶や経験を新しい人間に引き継がせることができない(ごく稀に前世の記憶を持った人間が生まれることがあるらしい。瀬川雅生『なぜ自殺してはいけないか?』〔コスモヒルズ、1999年〕を参照)。
なぜ自殺してはいけないか? 瀬川 雅生 コスモヒルズ 1999-10 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
ここでポイントとなるのは、神はそれぞれの人間に設定した寿命(医療技術の発展によって寿命が延びていることも神は織り込み済みである)が尽きた時にしか魂を回収しにやって来ないということである。よって、自殺する人は、神が設定した寿命よりも早く死ぬことになるから、神が魂を回収することができない。本当は、神がそれぞれの人間を四六時中見張っていて、死んだ時に魂を回収しに来てくれればよいのだが、何度も言うように、不完全な神にはそれができないのである。したがって、自殺した人の魂は回収されず、神々の精神世界に統合されず、その質を発展させることができない。これは大げさに言えば、日本人という民族に対する裏切りである。これが、私が自殺=悪と考える最大の理由である。
先ほど、理想の生とは神から与えられた役割を全うすることだと書いた。ここで言う役割とは、何も他者貢献に限られない。例えば末期がんで家族や病院の世話になっている人は、家族や病院に役割を与えるという形で役割を果たしている。先ほどのラフスケッチ「神⇒天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/NPO⇒学校⇒家族」に従えば、末期がん患者は市場/社会や家族のレイヤーにいて、NPOや他の家族に役割を与えている。情緒的に言えば、末期がん患者であっても、その人に寿命の限り生きていてほしいと思う人がいるということである(ただし、安楽死や延命措置となると話は別である。この点については後述する)。
では、日本が「病気で迷惑ばかりかける人」だけの社会になったらどうであろうか?「神⇒天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/NPO⇒学校⇒家族」という構造はもはや成り立たない。しかし、私はそれでも日本人は自殺してはいけないと考える。というのも、この場合、「神⇒天皇⇒世話を必要とする日本人たち」という構図になり、天皇が直接日本人を救い賜うからである。言い換えれば、天皇制がある限り、世話を必要とする日本人たちは、天皇に役割を与える(やや横柄な表現だが)ことによって役割を果たすことができる。
《2018年10月20日追記》
この記述は不適切であった。末期がんなどで家族や病気の世話になっている人が、家族や病院に役割を与えるという形で他者貢献をするというのは、「『世界』2018年9月号『人びとの沖縄/非核アジアへの構想』―日米同盟、死刑制度、拉致問題について」で書いたように、街中でポイ捨てをすると、それを清掃する人の雇用が生まれるからポイ捨てはしてもよいのだという、アメリカ人などによく見られる摩訶不思議な理屈と同じになってしまう。
これまでの記述をまとめ直すと、日本人が生きる目的は、寿命が尽きるまで一生涯をかけて精神を鍛錬することである。精神を鍛錬するには、その人が社会の中で与えられた役割を全うする、つまり、他者との交流や他者への貢献を通じて自らの精神の価値を上げるのが一般的な手段である。だが、末期がんなどの患者は、もはや積極的に社会の中で役割を果たすことができない。家族、友人、病院のスタッフなど限られた人々との交流にとどまる。だが、他者がいる限り、他者を鏡として自らを見つめ直す機会は存在する。生涯を閉じようとしている病床で、限定的な他者交流を貴重な基盤としながら、「私とは結局何者だったのか?」と深く思索することも、立派な精神の鍛錬である。西部氏は、「死に方とは生き方の総決算である」と言ったが、総決算は自殺することで完成するのではなく、最後まで精神を研ぎ澄ますことで完成する。
では、日本が「病気などで迷惑ばかりかける人」だけの社会になったらどうであろうか?前述の通り、「神⇒天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/NPO⇒学校⇒家族」という構造はもはや成り立たない。極端に言えば、「神⇒天皇⇒周囲に迷惑ばかりかける人たち」という構図になる。実際問題としては、そのような社会は機能しないだろうが、原理的にはそういう図式が成り立つ。すると、周囲に迷惑ばかりかける人たちは、天皇を通じて、神からの「生きよ」という命令をよりダイレクトに受け取ることになる。だから、この場合であっても自殺は許されない。もう少し現実的に考えると、周囲に迷惑ばかりかける人たちで構成される社会の場合、ある人は確かに周囲に対して迷惑ばかりをかけるが、同時に他者からの迷惑を受け止める存在でもある。そのような自己にいかなる意味があるのかを考え抜くことは、精神の鍛錬につながる。
「これ以上病気の苦しみを味わいたくないから安楽死させてほしい」という場合はどうだろうか?世界には安楽死が合法化されている国・地域があるものの、現在の日本では安楽死をさせた医師は自殺幇助罪に問われる。安楽死は、神があらかじめ設定した寿命よりも早く死ぬという点では自殺と同じであるから、やはり神が魂を回収することができない。なぜ人生の最後に苦しみを味わわなければならないのかという疑問が湧いてくるが、これも神が与えた試練なのである。神は、大病で寿命が近い人間が、それまでに獲得してきた能力、経験、マインドセットなどをフル動員して、病の苦しみとどう向き合うのかを試している。そうして鍛えられた魂が、精神世界に柔軟さと硬さの両方をもたらす。西部氏は「死に方は生き方の総決算だ」と述べたが、これこそが本当の意味での生き方の総決算ではないだろうか?
近年は緩和医療の発達により、末期がんの痛みの8~9割は緩和できるようになっているそうである。日本人は、こうした医療の力を借りながら、人生最後の試練に取り組み、寿命を迎えるのが望ましいであろう。だが、緩和医療の発達と同時に、延命治療も発達している。人口栄養(胃ろう)、人工透析、人工呼吸が3大延命治療と呼ばれるそうだが、延命治療の場合、自殺や安楽死とは逆に、神が設定した寿命よりも長く生きることになり、この場合もまた神が魂を回収できない。前述の通り、神は医療の進歩による寿命の延びをある程度考慮しているが、人間の手による不必要で無茶な延命までは想定していない。
医者は死=敗北ととらえる傾向があり、何かと延命治療に頼る。しかし、延命治療は患者にとっても家族にとっても、かえって経済的・心理的負担が増えることが多い。本人などは、これも神が与えた試練だと思うかもしれない。だが、神にとっては、せっかく設定した寿命を狂わせる行為だと映る。だから、むやみに延命治療をするのではなく、寿命に従って尊厳死を迎えるのが理想である(長尾和宏『長尾和宏の死の授業』〔ブックマン社、2015年〕を参考にした)。
長尾和宏の死の授業 長尾 和宏 ブックマン社 2015-02-17 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
基本的に、神はそれぞれの人間に設定した寿命が尽きた時にしか、魂を回収しに来ない。ただし、1つだけ例外がある。それは、人間が不慮の事故や殺人事件などに巻き込まれて死亡した場合である。不完全な神が創造した人間であるから、人間もまた不完全である。その不完全な人間が暴走すると、思いがけず他者を殺してしまうことがある。この場合、その人の死は寿命と一致しない。どういうメカニズムになっているのか私にはよく解っていないのだが、こういうケースに限っては神が不慮の死を察知することができ、魂の回収に向かうことになっている。
ここで、ある人が誘拐され、犯人に殺されかかっているというケースを考えてみる。被害者は、「犯人に殺されるぐらいならば自殺する」と言っているとする。自殺を選択するべきか、犯人に殺害されるべきか?(不謹慎な話だと思ってほしくないのだが、)私はここでも自殺を選択してはいけないと思う。これまで述べてきたように、自殺をすれば神が魂を回収しに来てくれない。しかも、犯人は殺人罪に問われず、略取誘拐罪に問われるだけである。一方、犯人に殺害された場合は、神が不慮の死を察知して被害者の魂を回収しに来てくれる。さらに、犯人は略取誘拐罪だけでなく殺人罪にも問うことができ、より重い社会的制裁を加えることができる。