2016年07月04日
中小企業診断士を取った理由、診断士として独立した理由(4)【独立5周年企画】
【シリーズ】中小企業診断士を取った理由、診断士として独立した理由4.長い長い病気との闘いの始まり
1.中小企業診断士という資格を知ったきっかけ(7月1日公開)
2.中小企業診断士を勉強しようと思ったきっかけ(7月2日公開)
3.ベンチャー企業での苦労(7月3日公開)
4.長い長い病気との闘いの始まり(7月4日公開)
5.増え続ける薬、失った仕事(7月5日公開)
6.点と点が線でつながっていく(7月6日公開)
7.これから独立を目指す方へのメッセージ(7月7日公開)
結論から言うと、最初に診てもらったクリニックは”外れ”であった。そのクリニックの先生は、人見知りで対人関係が苦手な私から見ても、さらに人見知りで対人関係が苦手そうな先生で、コミュニケーションが上手く取れなかった。先生は私との会話が途絶えると、しばしば深いため息をついた。朝一番の診察では、先生が控室から白衣を着ながらあくびをして入って来ることもあった。先生のそのような一挙手一投足が、私にとっては非常に苦痛であった。
(※)「どのような経過をたどるの? | 理解する | うつ病 | メンタルナビ」より。
毎回、上のようなグラフ(実際には、もっと単純な放物線のようなグラフであった)を見せられ、「一番調子がよかった時の状態を100%とすると、今は何%ぐらいですか?」と聞かれた。私が「50~60%ぐらいです」と答えると、「それでは引き続き薬を飲んでください」と言われて診察が終わってしまった。私の判断で病気の具合が決まるのであれば、医師は何のために必要なのかと疑念が生じ、だんだんと通院するのが嫌になった。通院を中止したい私は、「もう100%です。治りました」と主張することにした。そして、自分で勝手に抗うつ剤の服用を止めてしまった。
会社の人事部長には、クリニックで書いてもらった診断書を提出した。医師からは仕事量を減らすように言われていると告げると、その人事部長は「へぇー、そうなんだ。とても調子が悪そうには見えないのにね」と、こちらの神経をやや逆なでするような発言をした(彼もまた、原稿の締め切りを守らない1人であった)。人事部長は、「ひとまず診断書を預かって、社長と話をしておくよ」と言ったものの、その後社長からは何の話もなく、2009年を迎えた。
2009年は私にとって一番大変な年であった。以前から担当していたコンサルティングの案件に加えて、夏に人事担当者向けの大規模な展示会に出展することになった。実は、この展示会には、過去にも3回出展していたが、そこから受注につながった案件は1件もなかった。マーケティング担当の私は、費用対効果がゼロであるし、過去の失敗分析をしないまま出展するのはよくないと思っていた。ところが、営業部長が勝手に出展を申し込んでしまった。後から聞いた話によると、展示会出展はバーター取引であったらしい。しかし、社内の数字をどのように分析しても、展示会主催企業からいただいた仕事より、展示会への出展料の方がはるかに高かった。
4回目の出展も失敗であった。これは私の言い訳になってしまうが、失敗の原因は2つある。1つ目は、自社の教育研修サービスの中身が明確に定まっていなかったことである。恥ずかしいことに、どの教育研修サービスを取ってみても、そのプログラムを受けると受講者はどんな能力や知識が身につき、現場で何ができるようになるのかを具体的に説明することができなかった(だから、教育研修事業はずっと大赤字だったのだろう)。
2つ目は、展示会に出展すれば商談が生まれると過度に期待していたことである。展示会は、たまたま通りかかった人と商談をする場ではない。特に日本の場合、展示会には担当者レベルの人が情報収集目的で来ていることが多いため、ほとんど商談にならない。だから、私がやるべきだったのは、事前にターゲット顧客を絞り込み、決裁権限者に招待状を送って自社のブースに来てもらうよう、仕込みをしておくことであった。当時の私はそれが解っていなかった。展示会のコマ料以外にかかった人件費なども含めて展示会のコストを計算したら、何と2,000万円であった。私は、自分がコンサルティングで稼いだお金を自分で捨てているような気がして切なくなった。
もう1つ私を苦しめたのが、産学連携による新しい教育サービスの開発である。当時、教育研修業界で共通の課題となっていたのは、研修の投資対効果をどのように把握すべきかということであった。研修終了後にアンケートで満足度を調査することが慣例となっているが、社員に研修を提供する企業側、人事部側としては、個々の社員が満足したかどうかよりも、自社のビジネスに業績面でどの程度のインパクトがあったのかということの方が重大な関心事であった。
社長はある大学から、携帯電話を活用して子どもの学習を促進するシステムを研究・開発している教授を連れてきた。そして、教授から言われるがままに、今度は成人向けに携帯電話で研修後の現場学習を促進するシステムを構築することになった。詳細な説明は割愛するが、簡単に言うと、研修終了後に各受講者が立案したアクションプランを携帯電話を通じて登録し、定期的にアクションプランの達成度を記録する。受講者は他の受講者のアクションプランや達成度合いを見ることができ、進捗が進んでいる人には「すごいね!」、進捗が芳しくない人には「頑張ってね!」などとメッセージを送信できる一種のSNS機能も持たせるものであった。
教授の関心事は、①携帯電話システムを活用すれば、システムを使わない場合に比べて、受講者の現場学習は本当に促進されるのか?②受講者同士のコミュニケーション密度は、アクションプランの達成度合いにどの程度影響を与えるのか?③アクションプランの達成度合いの高さと、個人や部門の業績の間には因果関係があるのか?ということであった。研究目的としては、まだほとんど誰もやったことのない面白いものだとは感じていた。
しかし、教授側ではなくこちら側に2つの大きな問題があった。1つ目は、展示会の話と重複することだが、当時はまだ教育研修プログラムの中身が曖昧で、どういうアクションプランを立案させるのかがはっきりしていなかったことだ。それなのに、そのアクションプランの進捗をモニタリングするシステムを作ろうとしていた。例えるならば、自動車の本体ができていないにもかかわらず、目的地へのナビゲーションをするカーナビだけを先に作ろうとしていたわけだ。私は順番が逆だと強く主張したが、受け入れてはもらえなかった。
もう1つの問題は、システムの開発体制にあった。この産学連携プロジェクトのプロジェクトリーダーは、私の元上司、つまり私を慰留しておきながら取締役から”逃げた”人であった。業務委託契約の範囲内でプロジェクトリーダーを引き受けたようだが、彼はもはや外部の人間である。その人間に、それなりの規模のシステム開発に対するコミットメントは期待できないし、まして責任者をやらせれば絶対に失敗すると思った。私は決して、「そんな市場ニーズは存在しない」、「我が社には難しすぎる」といった、イノベーティブな社長なら一蹴するような理由で反対していたのではない。ただ単純に、実現ストーリーが論理的に破綻していると言いたかっただけである。
この状況で仕事を続けるのは非常にしんどかった。2009年に入って、夏頃までは何とか持ちこたえていたが、秋口になると再び体調が悪くなった。まず、過眠がひどくなった。平日は毎日10時間ぐらい寝ていたし、休日は15時間ほど寝るのが当たり前になっていた。夕方になると偏頭痛に襲われると同時に、強いイライラを感じるようになった。だから、当時の私は夜の会議の後にノートを投げ飛ばしたり、帰り際に階段のドアを蹴飛ばしたりしていた。周りにいる年上の無能な人間のせいで自分はこんなに苦しいのだと他責的になった。
通常のうつ病では、不眠、不安、自責の念、罪悪感、希死念慮などが生じる。しかし、私の症状はうつ病と逆のものが多かった。調べてみると、通常の「定型うつ病」に対して、「非定型うつ病」というものがあることを知った。そこで、非定型うつ病を専門とするクリニックで診てもらったところ、典型的な非定型うつ病だと診断された。うつ病の場合はすぐにでも休むべきだが、非定型うつ病の場合は、多少なりとも外出をして仕事を続けた方がよいと言われた。
実は、この「非定型うつ病」という診断は誤りであることが後に判明するのだが(後述)、「外出をして仕事を続けた方がよい」というアドバイスはある程度正しかったと思っている。というのも、別に仕事でなくてもよいのだが、時には外出して外の空気を吸い、日光を浴びることがうつ病の治療では重要だからだ。そうでないと、うつ病から引きこもりとなり、社会復帰が困難になる。
医師の言葉に従って仕事を続けていたが、2010年に入ると、私の変調ぶりを見かねた社長がとうとうストップをかけてきた。「すぐにでも休め」と言われて休職することになった。しかし、当時の私が担当していた案件は、コンサルティング事業時代から続いていたものであり、教育研修事業の中で引き継げる力のあるメンバーがいなかった。そのため、社長は「会社は休め。ただし、今担当している仕事は続けろ」と言った。しかも、休職扱いだから給与は6割減にするという。私はこの精神状態ですぐに転職活動などできるはずもなく、社長の命令を呑むしかなかった。
私はオフィスには出勤しないが、自宅で仕事をし、顧客企業先との往復を繰り返すという仕事スタイルに変わった。だが、この状況はどうも納得がいかない。当時、それぞれの社員がコンサルティングプロジェクトや教育研修の講師として毎月何日稼働しているかを社内システムで見ることができた。それを見てみると、私の稼働日数は、休職中のため多少稼働日数が減っているにもかかわらず、週5日普通に出勤している他の社員と大して変わらなかった。私より稼働率が低い社員も何人かいた。これでは、給与を6割減らされている私だけが大損である。だから、私は夏前ぐらいから、職場に戻してほしいと何度も社長に訴えるようになった。
しかし社長からは、「君が休職して以来職場の雰囲気がギスギスしているから、戻るなら君が彼らとのコミュニケーションを円滑にすることが条件だ」などと、耳を疑うようなことを言われた。当時の社員は、皆私より職位も年齢も上の人たちばかりである(若手の一般社員がほとんどおらず、ほぼ全員が管理職といういびつな組織だった)。そんな彼らが、私がいなくなったことでコミュニケーション不全に陥ったというのがまず理解できなかった。その上、その問題を私に解決させようというのがさらに意味不明であった。
とはいえ、ここで簡単に引き下がってはいけないと思い、社長と4回ほど交渉して、職場復帰に至った。これはかなり心理的負担が大きかった。最初の頃は面談で交渉をしていたのだが(この時だけオフィスに顔を出した)、完全に膠着状態に陥ったので、最終手段として手紙を書いた。そうしたら、すんなりと職場復帰が認められた。そんなに簡単に認めてくれるのならば、今まで頑なに反対していたのは一体何だったのかと、かえって社長に対する不信感が高まってしまった。