このカテゴリの記事
山本七平『日本人とユダヤ人』―人間本位の「日本教」という宗教
山本七平『日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条』―日本組織の強みが弱みに転ずる時(2/2)
山本七平『日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条』―日本組織の強みが弱みに転ずる時(1/2)

お問い合わせ
お問い合わせ
プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京23区、神奈川県川崎市・横浜市を中心に活動する中小企業診断士・コンサルタント。

 専門領域は、(1)経営ビジョン・事業戦略の策定、(2)ビジョンや戦略とリンクした人材育成計画の立案・人事評価制度の構築、(3)人材育成計画に沿った教育研修プログラムの企画・開発。

 モットーは「日々改善、日々成長」、「実事求是」、「組織のためではなく知識のために働く」、「奇策は定石より先に立たず」、「一貫性(Consistency)」、「(無知の知ならぬ)無知の恥」

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 ブログタイトルに、oasisの往年の名曲『Whatever』を入れてみた。

◆旧ブログ◆
マネジメント・フロンティア
~終わりなき旅~


◆別館◆
こぼれ落ちたピース
所属組織など
◆個人事務所「シャイン経営研究所」◆ シャイン経営研究所ロゴ


(一社)東京都中小診断士協会一般社団法人東京都中小企業診断士協会
(城北支部執行委員、青年部長、および国際部員を務めています)

NPOビジネスサポート特定非営利活動法人NPOビジネスサポート
(監事を務めています)

企業内診断士フォーラム(KSF)企業内診断士フォーラム
(独立診断士の立場から、企業内診断士の活動を応援しています)

Experian海外企業信用調査 海外企業信用調査(Experian)
(一緒にお仕事をさせていただいている「コンサルビューション株式会社」は、世界最大の信用調査会社Experianの正規代理店です)

中小企業診断士の安い通信講座なら「資格スクエア」資格スクエア
(以下の資格の講師をしています。
 ―ITパスポート
 ―情報セキュリティマネジメント
 ―経営学検定(初級・中級)
 ―中小企業診断士(企業経営理論、経営情報システム、中小企業経営・中小企業政策)
 谷藤友彦と株式会社サイトビジット代表取締役・鬼頭政人氏の対談動画(1)(2)(3)
アクセスカウンター(PV)
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:


Top > 山本七平 アーカイブ
2017年06月07日

山本七平『日本人とユダヤ人』―人間本位の「日本教」という宗教

このエントリーをはてなブックマークに追加
日本人とユダヤ人 (角川oneテーマ21 (A-32))日本人とユダヤ人 (角川oneテーマ21 (A-32))
山本 七平

角川書店 2004-05

Amazonで詳しく見る by G-Tools

 本書が最初に出版された時、著者名はイザヤ・ベンダサンとなっていたが、実はこれは山本七平のペンネームである。本書の中に何度か登場する「山本書店の店主」とは、出版社を経営していた山本自身のことである。私が読んだ本では、著者名が山本七平に改められていた。山本七平は、神戸市の山本通りで、木綿針を中国に輸出していたユダヤ人小貿易業者の家に生まれたユダヤ系日本人だと称している。その山本が、ユダヤ人と日本人を比較した1冊である。

 ユダヤ人と日本人に共通するのは、「満場一致であっても正しいとは考えない」という点である。しかし、その理由は両者で大きく異なる。ユダヤ人の場合は、満場一致は無効と見なす。ユダヤ人は、その決定が正しいならば反対者が必ずいるはずで、全員一致は偏見か興奮の結果、または外部からの圧力以外にはありえないため、その決定は無効であると考える。こうした考え方の根底には、正に対しては必ず反があるという二項対立的な発想がある。二項対立的な発想は、彼らの言語体系にも影響を及ぼしている。すなわち、彼らが扱う言葉には、両極端の意味を持つものが少なくない。彼らの二項対立的な発想は、西欧で一般的となり、現代の大国(アメリカ、ドイツ、中国、ロシア)でも常識と化している(以前の記事「『寧静致遠(『致知』2017年6月号)』―日本が編み出した水平・垂直方向の「二項混合」について」を参照)。

 一方、日本の場合は事情が異なる。日本では、満場一致の決議であっても、その議決者を完全に拘束せず、国権の最高機関と定められた国会の法律でさえ、100%国民に施行されるとは限らない。だからと言って、日本が無法地帯に陥っているわけではない。ここに日本独特の「法外の法」があり、「満場一致の議決も法外の法を無視することを得ず」という不文律がある。よって、裁判では「法」と「法外の法」の両方が勘案されて、情状酌量がなされた人間味あふれる判決が下される。この法外の法を知らない外国人が日本人と契約を結ぶ際には苦労する。

 元来、法律というものは、言葉によって厳格に記述されたものである。だとすると、「法外の法」がある日本語はいい加減だということになりそうだが、山本に言わせれば決してそうではない。むしろ山本は、日本語は完璧であると指摘する。日本語は他の言語に比べて言葉の数が豊富であり、かつ、1つの言葉の範囲が狭い。1つの言葉が両極端の意味を持つということがまずない。日本人は、意味を狭められた抽象的な言葉を自由自在に使いこなして、具体的な結論を出すことができる。いや、結論が「出る」と言った方が正しい。算術的に結論が出るさまを、山本は日本人が得意とする算盤に例えている。暗算をする時には頭の中に算盤を思い浮かべる。最初の頃は頭の中の算盤の珠を意識的に動かさないと計算できない。だが、暗算が上達すると、算盤の珠を無意識のうちに操ることが可能となる。その結果、答えが自然と「出る」のである。

 「法外の法」があるということは、「言外の言」、「理外の理」が存在することを意味する。山本はこの3つを「日本教」という宗教の特徴だと主張する。しばしば日本人は無宗教だと言われるが、山本の目から見ると、日本には厳然たる「日本教」という宗教が存在する。そして、日本人とは日本教徒のことであり、ここでは国籍は関係ないと言う。仮にフランス人が日本国籍を取得しても、それだけでは周囲から日本人と認められない。その元フランス人日本人は、日本教に”改宗”して初めて日本人と見なされる。この日本教における最高の価値とは「人間」である。
 「人間性の豊かな」「人間ができている」「本当に人間らしい」とかいう言葉、またこの逆の「人間とは思えない」「全く非人間的だ」「人間って、そんなもんじゃない」「人間性を無視している」という言葉、さらに「人間不在の政治」「人間f材の教育」「人間不在の組織」という言葉、この、どこにでも出てくるジョーカーのような「人間」という言葉の意味する内容すなわち定義が、実は、日本における最高の法であり、これに違反する決定はすべて、まるで違憲の法律のように棄却されてしまうのである。
 日本教においては、最後は「人間らしいかどうか」が判断基準となる。山本は、日本教の考えがよく表れている書物として『日暮硯』を挙げる。江戸中期、信州松代藩の家老・恩田木工が、窮乏に陥った藩財政の改革に成功した事蹟を筆録した書である。恩田木工は、税金を前納した者、税金をまだ納めていない者、脱税した者、役人に賄賂を贈った者などを全て平等に扱い、改革を進めた。『日暮硯』を読んだ外国人は、「日本の律法は一体どうなっているのか?」と一様に首をかしげたそうだ。だが、恩田木工が優先したのは、財政難で荒廃している藩における人間関係の回復であった。これこそが、日本教的生き方である。

 最後は人間関係がカギを握る―これは日本人が作成する契約書にも表れている。日本の契約書の最後には、必ず次の条文がある。「その他本契約に定めのない事項について疑義が生じた時は、双方誠意をもってその解決にあたるものとする」。契約に関しては、新興国でよく見られる人治主義(「俺が言ったことが正しいルールだ」)と、欧米の法治主義(明文化されたルールが全てである)という2つの立場がある。日本人の契約書は、決まりごとを文言で明記しておきながら、最後は人間同士の話し合いで折り合いをつけるというものである。これは、人治主義と法治主義の「二項混合」と言える。前述の通り、欧米人はこの二項混合に困惑するのである。

 「法外の法」、「言外の言」、「理外の理」ということは、法律、言葉、道理をはみ出していく法律、言葉、道理が存在することを意味する。しかし、このはみ出した法律、言葉、道理は決して、元の法律、言葉、道理を否定するのではない。聖書のヨハネの福音書の冒頭には「はじめにロゴス(言葉)あり」という有名な言葉があるが、山本に言わせると、日本の場合は、「はじめに言外あり、言外は言葉とともにあり、言葉は言外なりき」という言葉が冒頭に来るという。ここでは言葉と言外という対立・矛盾が何の問題もなく同居し、全体を構成している。この世界観は、以前の記事以前の記事「『寧静致遠(『致知』2017年6月号)』―日本が編み出した水平・垂直方向の「二項混合」について」で修正した鈴木大拙の世界観に通じるところがある。

 ただ、山本が言う日本教には、1つ弱点があると思う。山本は、日本教の根底には、「人間とは、こうすれば、必ず相手もこうするものだ」という確固たる信念があると言う。これは、自分がよいと思うことは、相手も必ず実践してくれるという発想であり、実は自己本位になっている。日本人が自分の価値観を相手に押しつけて失敗した例は、満州経営の失敗や、太平洋戦争で日本兵がアジアの植民地から反発を食らったことを挙げれば十分だろう。「自分のことはさておき、相手の利益になることは何か?」を考えることが、真に人間本位の日本教であると言える。

 ここからは私の個人的な体験談。私は以前、ある中小企業向け補助金事業の事務局員を務めていた。補助事業に採択された中小企業が、補助金を適正な目的のために使用しているかを様々な伝票類から確認するという事務作業がメインであった。補助金は国民の税金が財源であるから、適正に投入しなければならない。よって、補助金の要件は厳格に定められている。私も分厚い冊子を何冊も渡された。だが、これは建前であって、実は補助金のルールをよく読み込むと、グレーな部分が結構たくさんある。典型的なのは「○○等」、「その他○○」という表現を使い、どういうふうにでも解釈できる道を作ってしまうことである。

 真面目な事務局員は、曖昧な言葉を厳格に解釈して、ルールを複雑化する傾向があった。おそらく彼らの心の中には、「補助金による不正を防がねば」という気持ちがあったのだろう。一方、事務局長レベルと話をすると、「ここは幅広く解釈してOKにしよう」という結論になることが多かった。事務局長レベルの人たちは、「明らかな不正でない限り、補助金をできるだけ満額中小企業に受け取ってもらう」という考え方で動いていたと思う。我々事務局が担当する中小企業は、既に採択された、すなわち一度審査で合格になった企業である。中小企業は、「採択された以上、補助金を受け取る権利がある」と思っている。だから、事務局はあまりやかましく言わずに補助金を支払うのが人間の情というものであろう。これも日本教の一例かもしれない。

 私自身も、事務局長レベルの人たちと近い考え方で仕事をしていた。我々事務局員がどんなに真面目に仕事をしても、所詮補助金は補助金であり、世間には政治家が人気取りのために行うバラマキにしか映らない。だとすれば、よほどの不義理がない限り、いっそのこと盛大にばらまいてお金を循環させた方が、世のため人のためになるというのが私の考えであった。幸い、私が200社ぐらい担当した中で、明らかな不正を働いている企業は1社もなかった。むしろ、前述のようにルールを厳格に解釈する厳しい事務局員に限って、明らかな不正を働いている中小企業に当たることが多く、中小企業とよくトラブルを起こしていた記憶がある。

2016年11月07日

山本七平『日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条』―日本組織の強みが弱みに転ずる時(2/2)

このエントリーをはてなブックマークに追加
日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条 (角川oneテーマ21)日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条 (角川oneテーマ21)
山本 七平

角川グループパブリッシング 2004-03-10

Amazonで詳しく見る by G-Tools

 前回の続き。本書は、小松真一の『虜人日記』に書かれていた「敗因21か条」をベースに、山本七平自身の体験も交えながら、太平洋戦争の敗因を分析したものである。

虜人日記 (ちくま学芸文庫)虜人日記 (ちくま学芸文庫)
小松 真一

筑摩書房 2004-11-11

Amazonで詳しく見る by G-Tools

 太平洋戦争は東アジアを西欧の植民地支配から解放するための戦争だったと主張する右派は多い(こういう右派は、戦後にアメリカが名づけた太平洋戦争という名前ではなく、大東亜戦争という言葉を用いるのが常である)。しかし、山本七平は右派でありながら、自ら陸軍将校としてフィリピンの戦場に立っており、耳元を敵の弾丸が通り過ぎるような経験もしている。その山本は、日本軍のトップに明確なビジョンがなく、現場は十分に訓練されておらず、白が黒となるような無茶な命令が乱発されていたことを知っている。だから、山本の文章を読むと、日本がアジアのヒーローであったかのような右派の言説に加担するのは、私としてははばかられる。

 前回の記事「山本七平『日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条』―日本組織の強みが弱みに転ずる時(1/2)」では、日本社会・組織の理想的な姿を整理したつもりである。逆に言えば、その理想が崩れたから日本は戦争に負けた。その具体例を順に見ていく。
 一体、われわれが、最低とはいえ衣食住を保障され、労働から解放され、一切の組織からも義務からも解放され、だれからも命令されず、一つの集団を構成し、自ら秩序をつくって自治をやれ、といわれたら、どんな秩序をつくりあげるかの「実験」の場になっていたわけである―別にだれも、それを意図したわけではないが。

 一体それは、どんな秩序だったろう。結論を簡単にいえば、小松氏が記しているのと同じ秩序であり、要約すれば、一握りの暴力団に完全に支配され、全員がリンチを恐怖して、黙々とその指示に従うことによって成り立っている秩序であった。
 理想的な日本の理想社会は、天皇(厳密に言えば、さらにその上に神がいる)を頂点とするピラミッドであり、垂直方向と水平方向に細分化されている。それぞれの日本人や組織はピラミッドの一角を占めるにすぎず、上からの命令に従って行動する。時には上に向かって「下剋上」したり、下に対して「下問」したり、水平方向に協業したりするが、その行動範囲は極めて限定的である。こう書くと、日本社会は非常に息苦しく見える。しかし、逆にその制約を取り払うと、日本の場合は自由ではなく暴力性が出現してしまう。日本人にとって、自由とは西欧流の「権力からの自由」ではない。日本人が自由を発揮できるのは、権力構造に埋め込まれている時である。
 これらの事件(※現地のゲリラなどによる日本軍への反乱を指す)の背後には、現地における対日協力者への、あらゆる面における日本側の無責任が表われており、この問題の方が、私は、戦後の反日感情の原因になっているのではないか、とすら思われるからである。
 日本は多神教文化の社会であり、それぞれの日本人には異なる神が宿っている。人生とは、自らに宿る神の正体を知る旅であると言える。ところが、多神教文化の神は唯一絶対、完全無欠の一神教の神とは異なり、不完全な存在である。その不完全性を認めながらも、なおより完全に近い形で自らに宿る神を知覚するためには、自分とは異なる神を宿しているであろう他者との交流が欠かせない。この辺りについては、以前の記事「『関を越える(『致知』2016年6月号)』―日本人の「他者との相互学習」の方法について」などでも書いた。

 だから、日本人は元来は外向的であるはずだ。ところが、その外向性が急激に反転して、極度の人見知りに陥ることがある。おそらく、自分の弱さを他者に悟られたくないと思うからであろう。他者との交流を失うということは、学習の機会を失うことでもある。自分に宿る神の姿をまだ的確に把握できていないのに、もう十分解ったと思い込む。そして今度は、自分の弱さを隠すように、自分の考えが絶対に正しいのだと強がり、他者に自分の考えを押しつける。

 引用文の通り、日本軍は東アジアに進駐した際、現地住民の理解を怠った。アジアも基本的には多神教文化の地域である。多神教文化における望ましい振る舞いをせずに、日本はアジアの解放者だと叫ぶのは、全くもって独善的な態度である。山本は本書以外にも、日本がアジアを帝国主義から解放するという明確な理念を持っていたかどうかは疑わしいと書いている。
 その原因は、歴史的には、前記のような「模倣の対象」の違いに求めうるであろうが、根本的には、日本の「タテ社会」に基因する、陸海に共通する決定的な「タテ組織」にあったであろう。これは単に陸海の不協力だけではなく、陸軍内の空地・歩砲の協力すら行なわせないほど徹底していた。そのよい例がノモンハンである。
 理想的な日本社会においては、前述の通り、ある程度の制約はあるものの、上下左右に比較的自由に動くことができる。「タテ社会」と「ヨコ社会」がいい塩梅で交錯する社会と言ってもよい。だが、「タテ社会」と「ヨコ社会」ではどうやら前者の方が力が強いようであり、放っておくと「タテ社会」が勝る、現代風に言えばタコツボ化する、セクショナリズムがはびこるようである。

 前回の記事でも書いたが、明治時代の初期には、省庁を超えた人事異動が頻繁に行われていた。ところが、明治末期になって社会が成熟してくると、そのような人事異動は見られなくなった。また、経営合理化のために事業部制を導入したある中堅製造業では、ラインで何か問題が起きた時に他部署から社員がさっと集まって問題を解決するというそれまでの風土が失われ、かえって業績が悪化してしまったという例も紹介した。

 組織のタテ割り化を防ぐためには、一個人、一部門だけで完結する仕事、役割にはせず、必ず他の社員や部門と協業しなければ達成できないような目標を与えることが有効ではないかと考える。別の言い方をすれば、個人の職務定義書や部門のミッションステートメントに、いい意味での曖昧さを残すことである。これは、経営の合理化には完全に逆行する。欧米の組織では到底受け入れられないだろう。しかし、日本のよさを活かすためにはその方が得策である。
 ”当時”の人間は非科学的であったから、”芸”による超能力が存在しうると信じ、小銃・機関銃・手榴弾の存在する現在の戦闘において、その殺傷効力が1メートル余しかない日本刀を戦場で使い、その”芸”を活用して、バッタバッタの百人斬りをやって、刀も折れねば本人が負傷もしない、ということを信じ得たとしても、あるいは不思議でないかもしれぬ。これはいわば武”芸”絶対化の世界である。そして絶対化されれば現実には、日本刀にはこれだけの強度はなく、実戦の武器としては、大坂の陣で、宮本武蔵ですら、これを活用できなかったという事実は、無視されても致し方がない。そしてこれが極限までいけば、竹ヤリで原爆に対抗できるという発想になって当然である。
 上からの命令に従い、上の人間のお眼鏡にかなうような存在になろうと自己鍛錬を積むわけであるが、上からの命令を絶対視し、自己鍛錬そのものが目的化してしまうと、武”芸”の絶対化が起きる。通常であれば、上の人間は環境の変化に応じて命令の内容を変えていく。

 欧米であれば、「いつまでにこれを達成する。だから、このタスクを実行せよ」といった具合に、将来の目標をまず設定し、そこから逆算して行動計画を策定する。別の表現をすると、将来⇒現在という時間のとらえ方をする。目標が変われば命令もガラリと変わる。だから、下の人間も命令の変化に気づきやすい。ところが、日本人の時間は現在⇒将来へと流れる。つまり、現在から徐々に将来に向かって変化していくと考える。そのため、上の人間を注意深く観察していないと、変化に気づくことができない。もし、本ブログの読者の皆様の仕事内容がここ数年ほとんど変わっていないとすれば、知らず知らずのうちに武”芸”の絶対化に陥っている可能性がある。
 そしてさらにわからないのが、この西南戦争の原因である。それは、太平洋戦争の発端となった日華事変のように、原因不明、戦争目的不明、作戦計画不明、といわねばならない。
 山本は、西南戦争が失敗に終わった原因を分析し、後世の教訓としておけば、太平洋戦争のような失敗は起きなかったのではないかと記している。西南戦争も太平洋戦争も、目的が不明であり、従って作戦計画の立てようがなかった。「何事をやるにも目的をはっきりさせるべきだ」という手垢のついた表現でこの問題を片づけられるかと言うと、そうはいかない難しい事情がある。

 日本社会は天皇を頂点とするピラミッド構造である。下の階層は上の階層の命令に従って動く。では、頂点に立つ天皇は誰の命令を聞いているのだろうか?実は、ピラミッド構造を厳密に描写すると、天皇の上にはさらに神々がおり、神々もまた多層化している。その神々の層を上へとたどっていけば、究極的な命令を出す神に突き当たるはずである。西欧は、一神教と多神教という違いはあれど、同じような理屈で絶対的な神の存在を証明してきた。ところが、日本の場合は、究極的な神を想定していない。そんなことを考えること自体が野暮である。何となく、どこからか命令が下されて、それが巨大なピラミッドの下層へと徐々に浸透していくのが日本である。

 この話から得られる教訓は、「日本は何か大きな目的を世界で果たそうと野心を抱いてはいけない」ということである。日本人には、そのような内発的な目的を設定する適性がない。外部環境の変化に応じて、漸次的に姿を変えていく。これしか日本人が生き延びる道はない。だから、間違っても戦争を起こそうとしてはいけないし、グローバル経済でリーダーシップを発揮するとか、世界市場を牽引するイノベーションを連発することを目指すのは無理と言わざるを得ない。

 最後に、小松と山本が日本の目指すべき道を述べている箇所を引用する。
 確かにこれ(※国際主義)以外に生きる道はあるまい。しかしこの言葉は、「みんな仲よく、お手つないで」式の、うわついた国際主義ではない。(※小松)氏は「国際主義的な高度」の文化・道徳の保持を考え、それを「大東亜戦によって得た唯一の収穫」と考えておられるが、同時にその基盤となるべき日本の自立は、日本という独特な位置・風土・伝統に基づく発想、いわば本当の「思想」に基づくものでなければいずれは破綻し、いわゆる国際性も成り立たないことを、知っておられた。氏は、「再軍備論者」の考えを、その考えが出てくる10年も20年も前にはっきりと否定し、また最近になってはじめて問題とされている食糧問題、水の問題、農業問題等にも、目を向けている。


2016年11月04日

山本七平『日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条』―日本組織の強みが弱みに転ずる時(1/2)

このエントリーをはてなブックマークに追加
日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条 (角川oneテーマ21)日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条 (角川oneテーマ21)
山本 七平

角川グループパブリッシング 2004-03-10

Amazonで詳しく見る by G-Tools

 欧米、特にアメリカは唯一絶対の神との直接的な関係を重視する。そして、神と契約を結ぶことができた一部のカリスマリーダーが、その他大勢に対してトップダウンでリーダーシップを発揮する(この点については、以前の記事「飯田隆『クリプキ―ことばは意味をもてるか』―「まずは神と人間の完全性を想定し、そこから徐々に離れる」という思考法(1)(2)」を参照)。

 これに比べると、日本の場合はかなり複雑である。日本社会は垂直方向に重層的であると同時に、水平方向にも細分化されている。ただし、かつてのイギリスの階級社会や現在のインドのカースト制度のように、ある階層から上の階層への移動が制限されているわけではない。比較的自由に上の階層に移動できるし、時には下の階層へ移動することもある。また、上下への移動に加えて、左右にも移動する。ある組織に所属しながら、別の組織と連携することが推奨される。時には、自分が所属する組織とライバル関係にあたる組織とも協業する。

日本社会の構造

 これを非常に簡単な図にすると上のようになる。日本人は、垂直方向と水平方向にきめ細かく区切られた社会の一角に身を置き、そこを拠点として上下左右に影響力を及ぼす。日本にはトップダウン型のリーダーは存在しない。それぞれの日本人が各々の持ち場において、アップダウン(+水平方向の)のリーダーシップを発揮する。特に、下の階層から上の階層に向けて、ボトムアップでリーダーシップを発揮するのが日本の特徴とされる。このボトムアップ型は、トップダウン型に慣れている欧米人にはなかなか理解できない。彼らは、リーダーシップは上から降りてくるものだと考えている。だから、「サーバント・リーダーシップ」なる新しい概念が登場すると、組織図を上下逆さまにして、現場を一番上に持ってこなければ説明ができない。

 欧米流の「神―人間」の考え方では、神と人間の間に何らかの組織が介入することを嫌う。仮に組織が介入してきた場合は、その正統性が問われる。神と人間を結ぶ場である教会ですら、この尋問を逃れられない。ましてや政府、企業、家族といった組織単位は、さらに厳しく詰問される。これに対して、日本社会は多重構造である方が安定することは、以前の記事「北川東子『ハイデガー―存在の謎について考える』―安直な私はハイデガーの存在論に日本的思想との親和性を見出す」などで書いた。大雑把にスケッチすると、日本では「(神?)⇒天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/NPO⇒学校⇒家族⇒個人」という階層構造が成り立つ。

 なぜこういう階層構造になるのか、なぜ多重構造の方が安定するのかについては、正直なところ今の時点で明確な答えを提示することができない。この点は今後の私の課題である。とにもかくにも、日本では多重構造が当たり前のものとして受け入れられている。先ほどの大雑把なスケッチをもう少し詳しく見ていくと、さらに細かい多重構造があることに気づく。例えば、日本の製造業は最終メーカーを頂点とする多重下請構造に組み込まれている。では、その最終メーカーは市場に直接アプローチしているかというと、必ずしもそうではない。1次卸、2次卸、・・・小売といった具合に、流通構造も多層化されている。日本の流通経路は、欧米に比べると長い。

 日本の社会は、放っておくと自然と階層が増える。国会議員は政党内で派閥に所属するだけでなく、国会を離れて私的な勉強会を頻繁に開いている。勉強会の中には超党派のものもあり、国会での立法作業に影響を与える。これは、立法府と行政府の間に1つ階層が増えたと見ることができる。また、内閣は重要な問題に関して有識者会議を開く傾向が強い。行政府の中は「内閣―各省庁」と分けられるが、有識者会議は、内閣の下に挿入された階層であると言える。

 下の階層は上の階層の命令を受けて行動する。上の階層はさらにその上の階層から命令を受ける。このルートをずっと上へたどれば、命令の根源に突き当たるはずである。先ほどのスケッチに従うと、天皇を生み出した神が原点であるかのように見える。しかし、日本では神自体も多重構造化している(以前の記事「和辻哲郎『日本倫理思想史(1)』―日本では神が「絶対的な無」として把握され、「公」が「私」を侵食すると危ない」を参照)。その神の階層をさらに上へ上っていけば、究極の原点があるに違いない。しかし、そういう究極の原点を追求するのは、神に唯一絶対性を求める西洋的な発想である。日本の場合は、究極の原点を問わない。何となく、誰かが命令しているということで話を丸く収める。こう考えるうちは、全体主義に陥ることがない。

 日本人は、上の階層からの命令に従うだけでなく、時に上の階層に対して意見することがある。日本の稟議的経営や提案制度、QCサークル運動などは、欧米ではなかなか理解されないものである。現場からいいアイデアが上がってくるならば、上司の存在意義がなくなってしまうと考えられるからだ。ところが、日本ではそれが許容される。ただし、下の階層は、上の階層の人間を脅かそうとか、蹴落とそうとしているわけではない。あくまでも、下の階層にとどまりながら、自分が思いついたアイデアを自由に実行したいと主張しているのである。

 これを山本七平は「下剋上」と呼んだ。一般的な下剋上とは違い、上の階層を打倒しない点に特徴がある(以前の記事「山本七平『帝王学―「貞観政要」の読み方』―階層社会における「下剋上」と「下問」」を参照)。理解のある上司は、部下からいいアイデアが上がってくると、「よしわかった。やってみろ。責任は自分が取る」と言ってくれる。上司は、権限は部下に渡して責任だけを負う。欧米流の組織論では、権限と責任を一致させるのが原則である。ところが、日本社会では、下の階層になればなるほど「権限>責任」であり、逆に、上の階層になればなるほど「権限<責任」となる。下の階層の人間ほど、大きな自由を手にする。ただし、その自由は、西洋で言う「権力からの自由」ではなく、「権力構造が保たれているがゆえに担保される自由」である。

 上の階層は下の階層に命令するだけでなく、「あなたが私の期待する成果を上げられるようにするために、私に何か手伝えることはないか?」と尋ね、下の階層に降りてくることがある。これが「下問」である。上司は部下をこき使うだけでなく、部下を大切に扱う。ここに、日本的な家族的経営が成立する。顧客も、企業に対して「これがほしい」と要求するだけでなく、「御社が成果を上げられるために、私には何ができるか?」と下問する。マーケティングのトレンドは、プロダクトアウトからマーケットインへと変遷し、近年は共創型マーケティングへと移っている。共創と言うと、顧客と企業が仲良く協力して少しずつ製品・サービスを形作るイメージがあるが、実際には、顧客からの下問と企業からの下剋上によって相当の緊張を強いられる関係だと思う。

 日本社会は垂直方向に多層化されているだけでなく、水平方向にも細分化されている。組織内もそうだし、業界自体もそうである。日本の組織は水平方向に細分化されているがゆえに、欧米企業に比べるとマネジャー1人あたりの部下の数が少ないと感じる。また、業界に目を向けると、企業が過剰に市場に参入し、供給過多になっているケースも少なくない。

 ただし、組織内では水平連携が推奨される。同期入社の絆は退職まで(時に退職後も)続くと言うし、部門を超えたジョブローテーションが頻繁に行われる。また、何か重要な問題が起きると、各部署から人がさっと集まって解決する。ある中堅製造業は、部長にマネジメント責任を負わせ、経営の合理化を行うために事業部制を導入した。だが、事業部制を導入した途端に業績が悪化してしまった。その原因を分析したところ、この企業の強みは、製造ラインで何かトラブルが発生した時に、他のラインから柔軟に社員をアサインできることだと解った。事業部制になると簡単には人を移動させられず、強みが失われてしまったというわけだ。

 組織間でも水平連携が頻繁に行われる。明治維新直後の日本では、各省庁を超えた人事異動が普通に行われていた。ところが、明治末期になると、次第に縦割り化が進み、そのような人事慣行は消えてしまったそうだ。市場に過剰に参入した企業が簡単には淘汰されない要因の1つは、日本に固有の業界団体の存在であると考えられる。もちろん、アメリカにも業界団体は存在する。ただし、彼らの主たる目的はロビー活動である。また、業界標準を策定するために同業他社が集まるものの、ルールが完成した途端に仲違いを始めるケースも少なくない(ブログ別館の記事「『負けない知財戦略(『一橋ビジネスレビュー』2016年SPR.63巻4号)』」を参照)。

 日本の業界団体の目的は、競合他社の動向も含めてお互いに情報交換を密に行うことである。これが、どの企業も似たような製品・サービスになる1つの要因である。そして、どの企業も似たような製品・サービスを販売しているがために、どの企業も簡単には潰れないのである。また、よりよい製品・サービスを開発するために競合他社と提携することもあるし、苦境に陥っている企業があると、競合他社がその救済に乗り出すことも頻繁に見られる。業界団体自体は何か具体的な成果を生み出すわけではない。そういう意味では非常に非効率な存在である。しかし、業界内のプレイヤーの共存共栄を図り、利益を広く配分するという重要な役割を果たしている。

 以前の記事「『一生一事一貫(『致知』2016年2月号)』―日本人は垂直、水平、時間の3軸で他者とつながる、他」でも書いたように、日本人は垂直、水平方向で他者とつながると同時に、時間軸でも他者とつながっている。私の身体は、先祖代々の魂が集まる天からの借り物であり、私は昔の人々の伝統を背負って生きている。また、「財を残すは下、業を残すは中、人を残すは上」という言葉がある。私は、単に伝統に従って生きていればよいのではなく、そこに価値をつけ加えなければならない。ただし、私が死んだ途端にその価値が無に帰すようでは意味がない。私が作り出した価値を受け継ぐ人を残す必要がある。これが人生における至上の命題である。

 以上のように、日本人が各々の持ち場を保ちつつも上下左右に移動し、さらに伝統と未来を重んじるうちは、日本社会は安定する。しかし、強みというのは容易に弱みに転ずるものである。野村克也氏は独自の配球論で各打者の強みと弱みを分析したが、往々にして、その打者が強みとするコースのすぐそばに弱みが存在することを見抜いた。次回の記事では、太平洋戦争中の日本社会がどのように瓦解していったのかを、本書を基に見ていきたいと思う。


  • ライブドアブログ
©2012-2017 free to write WHATEVER I like