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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京23区、神奈川県川崎市・横浜市を中心に活動する中小企業診断士・コンサルタント。

 専門領域は、(1)経営ビジョン・事業戦略の策定、(2)ビジョンや戦略とリンクした人材育成計画の立案・人事評価制度の構築、(3)人材育成計画に沿った教育研修プログラムの企画・開発。

 モットーは「日々改善、日々成長」、「実事求是」、「組織のためではなく知識のために働く」、「奇策は定石より先に立たず」、「一貫性(Consistency)」、「(無知の知ならぬ)無知の恥」

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

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2017年09月26日

『世界』2017年9月号『報道と権力』―「信頼」をめぐっては左派も右派もねじれた考え方をしている


世界 2017年 09 月号 [雑誌]世界 2017年 09 月号 [雑誌]

岩波書店 2017-08-08

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 メディアをはじめとする報道は権力をどう監視するべきかが本号のテーマである。報道による監視は、西欧と日本ではまるで違う。本ブログでも何度か書いているように、西欧の国々、特に大国であるアメリカ、ドイツ、ロシアは、物事を利害の対立でとらえる傾向が強い(タグ「二項対立」の記事を参照)。Aという事象があれば、必ずBという反対の事象を立てる。こうした二項対立的な発想があるがゆえに、権力に対しても権力を外部から監視する機関を設ける(以前の記事「『ジャーナリズムが生き延びるには/「核なき未来」は可能か(『世界』2016年8月号)』―権力を対等に監視するアメリカ、権力を下からマイルドに牽制する日本、他」を参照)。

 もう1つ、西欧と日本の違いを挙げるとすれば、西欧は形式知重視であるということである。西欧では、昔から様々な民族が国家の中に混在している。彼らの間でコミュニケーションを円滑に進める、別の言い方をすれば「言った」、「言わない」の議論にならないようにするためには、情報を必ず文書という形で目に見えるようにする必要がある。形式知を最も重視しているのが官僚組織である。マックス・ウェーバーは、官僚組織の特徴の1つとして文書化を挙げた。

 だから、西欧で権力を外部から監視する報道機関は、監視対象の組織が公表する情報や、監視対象の組織が保管している文書を入手して、それを丹念に分析し、組織が不正を行っていないかどうかをモニタリングする。これが西欧の「調査報道」のスタイルである。調査報道からは話が外れるが、元外務省官僚の佐藤優氏は、「(海外の)インテリジェンスの9割は公開情報に基づいている」と述べている。ただし、その弊害がないわけではない。あまりにも公開情報などの形式知に頼りすぎているがゆえに、アメリカのCIAでは、四六時中職員がコンピュータに張りついたままで、ロクに現場を知らない若手職員が増えていると指摘する人もいる。
 最後に、米メディア界のご意見番ともなっているアメリカン大学のチャールズ・ルイス教授(63歳)に話をきいた。(中略)その代表作が、著書『The Buying of The President』だ。シリーズ化されたこの本で、ルイス教授は、大統領候補者に誰が寄付をしているかを整理し、その寄付者の分析から当選後の政策に言及。まさに、大統領は金で買われた存在であることを告発した。(中略)ルイス教授自身は、政権に食い込んで情報をとるような取材ではなく、公文書を入手してそれを読み込んで事実を掘り起こす取材を行ってきた。それは、情報公開制度を利用して公文書を入手しては読み込むという作業で、『The Buying of The President』も連邦選挙委員会などに提出された資料を入手して分析したものだ。
(立岩陽一郎「トランプVSメディア―活性化するアメリカのジャーナリズム」)
 もちろん、こうした調査報道が可能なのは、引用文の最後にあるように、情報公開制度が発達していることが大きい。翻って日本を見ると、報道は権力の外部にあるのではなく、権力の中に取り込まれている。さらに、西欧とは異なり暗黙知重視であるから、情報は監視対象となる人物から直接入手しなければならない。本ブログでは、日本の場合は二項対立ではなく二項を「混合」させると書いてきたが、ここでも権力と報道は対立構造ではなく混合構造になっている。
 国民の知る権利を代行するという建前から報道各社は官邸にブースを与えられる。「内閣記者クラブ」に所属するメディアが官邸に陣取って見張りをすることになっている。デスク級をキャップとし、数人の記者が張り付く。首相番記者は執務室に通ずる廊下に待機し、誰が面会に訪れるかをチェックする。閣議の冒頭では写真撮影が許され、定刻になると官房長官が会見、質問に答える。官房副長官は懇談に応じ、取材源を明かさないことを条件に情報を提供する。首相は節々で記者会見し政権の方針を述べる。テレビやラジオに出演して国民に直接訴えることもする。
(神保太郎「メディア批評 連載第117回」)
 取材相手の代弁者は尽きることはない。そんな彼らを私は「族記者」と呼んできた。「族議員」と同じく、記者クラブを根城に、単なる特定の政策分野に明るい専門記者として各省庁の応援団や利益代弁者の役割を果たすだけではなく、省庁からは”特ダネ”の提供はもちろん、審議会等の委員や専門委員として遇され、退職後は再就職先の面倒まで見てもらおうという輩である。
(川邊克朗「政治の道具と化す警察―安倍一強時代の「秩序感覚」」)
 要するに、日本の報道関係者は、調査対象の人物と個人的な関係を築いて、重要な情報(暗黙知)をこっそりと教えてもらう。普段はその情報の宣伝役に徹するが、時々は調査対象の人物との信頼関係を破壊しない程度に権力を批判する、というやり方をとる。

 西欧と日本のやり方には、どちらも一長一短があると思う。西欧における権力の監視は、客観的な情報に基づく理想的な監視の在り方のように見える。しかし、その半面でデメリットもある。まず、調査対象となる権力が膨大な文書を残すために多大なるコストをかけている。そして、それを外部から監視するためにさらに多くのコストを費やすことになる。これらのコストを最終的に負担するのは国民である。また、外部の監視機関は、情報公開制度では入手できない情報を入手するために、ハッキングのような違法行為に手を染めることもある。

 日本の場合、権力は文書を残さないし、監視機関は権力の中に取り込まれているため、西欧に比べると非常に安上がりである。権力と報道があからさまな対決姿勢を示さないのは、古来から和の精神を重んじる日本らしい一面でもある。ただし、権力側と監視側の人間関係という極めて不安定な結びつきに立脚しており、一度その関係が崩壊すると、監視側の人間が締め出され、権力側にとって都合のよい情報しか流れない状況に陥ってしまう。

 私は本ブログで山本七平の「下剋上」という言葉をしばしば使ってきた。これは、下の階層の者が上の階層の指示に従うだけでなく、時に上の階層に対して耳の痛い意見や批判を加えることを指している。本来の下剋上は上の階層を打倒することを志向するが、山本七平の言う「下剋上」では、下の階層の者が下の階層にとどまったまま上の階層に諫言することが許される。私はこれを中国の『貞観政要』などから学んだ日本人の知恵だと思っている。しかし、権力が暴走すると、この「下剋上」が封じ込められてしまう(現在の安倍政権に見られる危うさである)。

 日本の権力は文書を残さないため、文書の価値が過小評価されている。最近も、菅義偉官房長官が加計学園の獣医学部新設計画をめぐり、「総理のご意向」と記された文書を「怪文書」と言って切り捨てたのはその一例である。私は外資系コンサルティング出身者が設立したベンチャーのコンサル会社にいたことがあるのだが、外資系コンサルは顧客企業と会議をする時に膨大な資料を用意する。これは間違いなく本国の影響である。私もその文化に慣れて育ったので、会議では必ず文書を用意するようにしている(ただし、たくさん資料を作っても読んでもらえなければ意味がないから、ボリュームは最低限に抑えるようにしている)。しかし、独立して様々な企業や組織の”普通の”会議に参加させてもらうと、資料はほとんど用意されないことに気づいた。

 中小企業診断士の組織も例外ではない。診断士の組織には企業と同じように様々な部署があり、定期的に各部の責任者が集まって情報交換や議論をする会議が開催される。総務部は、各部からの報告事項を事前に集約して、会議の前に責任者にメールで配信する。これは、会議で各部からの報告に費やす時間を節約し、重要な議論のために時間を振り向けるための措置である。ところが、いざ会議になると、「報告事項なし」と報告した部署の責任者が、「この紙には書いていないが2点ほど報告事項があって・・・」などと話を始める。つまり、この会議に参加した人でしか得られない属人的な情報というのがある。日本の場合は、紙に書いた情報というのがあてにならない。口頭で交わされた一瞬の情報に重要な価値があり、極めて監視がしにくい。

 報道が権力を監視しなければならないのは、権力に対する不信が根底にあるからである。この「信頼」をめぐって、左派と右派はいずれもねじれた考え方をしていることに気づいた。左派は、水平関係においては「連帯」という言葉によく表れているように、信頼を強調する。一方で、自分たちより上に立って権力を行使する者は必ず腐敗するとの信念から、権力に対しては強い不信感を示す。本号には、明治時代の自由民権運動家である植木枝盛の言葉があった。
 <人民にして政府を信ずれば、政府はこれに乗じ、これを信ずること厚ければ、益々これに付け込み、もしいかなる政府にても、良政府などいいてこれを信任し、これを疑うことなくこれを監督することなかりければ、必ず大いに付け込んでいかがのことをなすかもはかり難きなり。故に曰く、世に単に良政府なしと>
 <唯一の望みあり、あえて抵抗せざれども、疑の一字を胸間に存じ、全く政府を信ずることなきのみ>
(桐山桂一「「文一道」でゆく―憲法大臣・金森徳次郎の議会答弁(下)」)
 一方、右派は階層社会を前提としているため、権力に対しては比較的肯定的である。日本のように権威主義的な社会であればなおさらである。ところが、水平方向の関係となると、不信感が顔を出す。それが端的に表れているのが国際社会における国家間関係である。現代の国際社会では、全ての国はその大小にかかわらず水平関係にある。しかし、右派は左派のように国家間の連帯を説くのではなく、他国を警戒する。特に現在は、中国や北朝鮮の脅威が、日本のみならず海外の右派の不信感に拍車をかけている。

 国内においては、下の階層が上の階層を信頼し、下の階層が利他的になることで、結果的に下の階層にも利益がもたらされる。だが、国際社会においては、国家が利己的、自己保存的に振る舞うという矛盾を抱えている(ブログ別館の記事「『寧静致遠(『致知』2017年6月号)』―国家関係がゼロサムゲームである限り「信」を貫くことは難しい、他」を参照)。国家に自然に備わっているとされる自衛権が、結果的に軍拡競争をもたらしている(以前の記事「『「坂の上の雲」ふたたび~日露戦争に勝利した魂を継ぐ(『正論』2016年2月号)』―自衛権を認める限り軍拡は止められないというパラドクス、他」を参照)。

 国内においても、水平関係の不信は見られる。私は、垂直方向には前述の「下剋上」(と「下問」)を、水平方向には「コラボレーション」の重要性を説いてきた。日本企業は、日本に特有の業界団体という存在を通じて、時に競合他社と協力するという動きを見せてきた。また近年では、業界の枠を超えた連携が進んでいる。さらに、企業が経済的なニーズだけでなく、社会的なニーズも充足させなければならないという社会的要請を受けて、非営利組織との連携も模索している。だが、日本企業はややもすると陰湿な方法で競合他社の足を引っ張り、異業種からの参入を阻み、社会的要請から目を背ける傾向がある。もしかすると、「コラボレーション」は私の単なる幻想で、現状ではこうした負の側面の方がはるかに大きいのかもしれない。

 以上の内容をまとめると、左派は権力に対しては不信感を抱く一方で、水平方向の関係を信頼している。これに対して右派は権力をある程度信頼する一方で、水平方向の関係に対して不信感を抱いている。前述の通り、日本の特徴は二項「混合」にある(私はこれを日本の美徳だと考えている)。よって、垂直方向、水平方向いずれにおいても、信頼しながらも疑うという関係、つまり「半信半疑」の関係を構築することができないものかと思案しているところである。


2017年06月07日

山本七平『日本人とユダヤ人』―人間本位の「日本教」という宗教


日本人とユダヤ人 (角川oneテーマ21 (A-32))日本人とユダヤ人 (角川oneテーマ21 (A-32))
山本 七平

角川書店 2004-05

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 本書が最初に出版された時、著者名はイザヤ・ベンダサンとなっていたが、実はこれは山本七平のペンネームである。本書の中に何度か登場する「山本書店の店主」とは、出版社を経営していた山本自身のことである。私が読んだ本では、著者名が山本七平に改められていた。山本七平は、神戸市の山本通りで、木綿針を中国に輸出していたユダヤ人小貿易業者の家に生まれたユダヤ系日本人だと称している。その山本が、ユダヤ人と日本人を比較した1冊である。

 ユダヤ人と日本人に共通するのは、「満場一致であっても正しいとは考えない」という点である。しかし、その理由は両者で大きく異なる。ユダヤ人の場合は、満場一致は無効と見なす。ユダヤ人は、その決定が正しいならば反対者が必ずいるはずで、全員一致は偏見か興奮の結果、または外部からの圧力以外にはありえないため、その決定は無効であると考える。こうした考え方の根底には、正に対しては必ず反があるという二項対立的な発想がある。二項対立的な発想は、彼らの言語体系にも影響を及ぼしている。すなわち、彼らが扱う言葉には、両極端の意味を持つものが少なくない。彼らの二項対立的な発想は、西欧で一般的となり、現代の大国(アメリカ、ドイツ、中国、ロシア)でも常識と化している(以前の記事「『寧静致遠(『致知』2017年6月号)』―日本が編み出した水平・垂直方向の「二項混合」について」を参照)。

 一方、日本の場合は事情が異なる。日本では、満場一致の決議であっても、その議決者を完全に拘束せず、国権の最高機関と定められた国会の法律でさえ、100%国民に施行されるとは限らない。だからと言って、日本が無法地帯に陥っているわけではない。ここに日本独特の「法外の法」があり、「満場一致の議決も法外の法を無視することを得ず」という不文律がある。よって、裁判では「法」と「法外の法」の両方が勘案されて、情状酌量がなされた人間味あふれる判決が下される。この法外の法を知らない外国人が日本人と契約を結ぶ際には苦労する。

 元来、法律というものは、言葉によって厳格に記述されたものである。だとすると、「法外の法」がある日本語はいい加減だということになりそうだが、山本に言わせれば決してそうではない。むしろ山本は、日本語は完璧であると指摘する。日本語は他の言語に比べて言葉の数が豊富であり、かつ、1つの言葉の範囲が狭い。1つの言葉が両極端の意味を持つということがまずない。日本人は、意味を狭められた抽象的な言葉を自由自在に使いこなして、具体的な結論を出すことができる。いや、結論が「出る」と言った方が正しい。算術的に結論が出るさまを、山本は日本人が得意とする算盤に例えている。暗算をする時には頭の中に算盤を思い浮かべる。最初の頃は頭の中の算盤の珠を意識的に動かさないと計算できない。だが、暗算が上達すると、算盤の珠を無意識のうちに操ることが可能となる。その結果、答えが自然と「出る」のである。

 「法外の法」があるということは、「言外の言」、「理外の理」が存在することを意味する。山本はこの3つを「日本教」という宗教の特徴だと主張する。しばしば日本人は無宗教だと言われるが、山本の目から見ると、日本には厳然たる「日本教」という宗教が存在する。そして、日本人とは日本教徒のことであり、ここでは国籍は関係ないと言う。仮にフランス人が日本国籍を取得しても、それだけでは周囲から日本人と認められない。その元フランス人日本人は、日本教に”改宗”して初めて日本人と見なされる。この日本教における最高の価値とは「人間」である。
 「人間性の豊かな」「人間ができている」「本当に人間らしい」とかいう言葉、またこの逆の「人間とは思えない」「全く非人間的だ」「人間って、そんなもんじゃない」「人間性を無視している」という言葉、さらに「人間不在の政治」「人間f材の教育」「人間不在の組織」という言葉、この、どこにでも出てくるジョーカーのような「人間」という言葉の意味する内容すなわち定義が、実は、日本における最高の法であり、これに違反する決定はすべて、まるで違憲の法律のように棄却されてしまうのである。
 日本教においては、最後は「人間らしいかどうか」が判断基準となる。山本は、日本教の考えがよく表れている書物として『日暮硯』を挙げる。江戸中期、信州松代藩の家老・恩田木工が、窮乏に陥った藩財政の改革に成功した事蹟を筆録した書である。恩田木工は、税金を前納した者、税金をまだ納めていない者、脱税した者、役人に賄賂を贈った者などを全て平等に扱い、改革を進めた。『日暮硯』を読んだ外国人は、「日本の律法は一体どうなっているのか?」と一様に首をかしげたそうだ。だが、恩田木工が優先したのは、財政難で荒廃している藩における人間関係の回復であった。これこそが、日本教的生き方である。

 最後は人間関係がカギを握る―これは日本人が作成する契約書にも表れている。日本の契約書の最後には、必ず次の条文がある。「その他本契約に定めのない事項について疑義が生じた時は、双方誠意をもってその解決にあたるものとする」。契約に関しては、新興国でよく見られる人治主義(「俺が言ったことが正しいルールだ」)と、欧米の法治主義(明文化されたルールが全てである)という2つの立場がある。日本人の契約書は、決まりごとを文言で明記しておきながら、最後は人間同士の話し合いで折り合いをつけるというものである。これは、人治主義と法治主義の「二項混合」と言える。前述の通り、欧米人はこの二項混合に困惑するのである。

 「法外の法」、「言外の言」、「理外の理」ということは、法律、言葉、道理をはみ出していく法律、言葉、道理が存在することを意味する。しかし、このはみ出した法律、言葉、道理は決して、元の法律、言葉、道理を否定するのではない。聖書のヨハネの福音書の冒頭には「はじめにロゴス(言葉)あり」という有名な言葉があるが、山本に言わせると、日本の場合は、「はじめに言外あり、言外は言葉とともにあり、言葉は言外なりき」という言葉が冒頭に来るという。ここでは言葉と言外という対立・矛盾が何の問題もなく同居し、全体を構成している。この世界観は、以前の記事以前の記事「『寧静致遠(『致知』2017年6月号)』―日本が編み出した水平・垂直方向の「二項混合」について」で修正した鈴木大拙の世界観に通じるところがある。

 ただ、山本が言う日本教には、1つ弱点があると思う。山本は、日本教の根底には、「人間とは、こうすれば、必ず相手もこうするものだ」という確固たる信念があると言う。これは、自分がよいと思うことは、相手も必ず実践してくれるという発想であり、実は自己本位になっている。日本人が自分の価値観を相手に押しつけて失敗した例は、満州経営の失敗や、太平洋戦争で日本兵がアジアの植民地から反発を食らったことを挙げれば十分だろう。「自分のことはさておき、相手の利益になることは何か?」を考えることが、真に人間本位の日本教であると言える。

 ここからは私の個人的な体験談。私は以前、ある中小企業向け補助金事業の事務局員を務めていた。補助事業に採択された中小企業が、補助金を適正な目的のために使用しているかを様々な伝票類から確認するという事務作業がメインであった。補助金は国民の税金が財源であるから、適正に投入しなければならない。よって、補助金の要件は厳格に定められている。私も分厚い冊子を何冊も渡された。だが、これは建前であって、実は補助金のルールをよく読み込むと、グレーな部分が結構たくさんある。典型的なのは「○○等」、「その他○○」という表現を使い、どういうふうにでも解釈できる道を作ってしまうことである。

 真面目な事務局員は、曖昧な言葉を厳格に解釈して、ルールを複雑化する傾向があった。おそらく彼らの心の中には、「補助金による不正を防がねば」という気持ちがあったのだろう。一方、事務局長レベルと話をすると、「ここは幅広く解釈してOKにしよう」という結論になることが多かった。事務局長レベルの人たちは、「明らかな不正でない限り、補助金をできるだけ満額中小企業に受け取ってもらう」という考え方で動いていたと思う。我々事務局が担当する中小企業は、既に採択された、すなわち一度審査で合格になった企業である。中小企業は、「採択された以上、補助金を受け取る権利がある」と思っている。だから、事務局はあまりやかましく言わずに補助金を支払うのが人間の情というものであろう。これも日本教の一例かもしれない。

 私自身も、事務局長レベルの人たちと近い考え方で仕事をしていた。我々事務局員がどんなに真面目に仕事をしても、所詮補助金は補助金であり、世間には政治家が人気取りのために行うバラマキにしか映らない。だとすれば、よほどの不義理がない限り、いっそのこと盛大にばらまいてお金を循環させた方が、世のため人のためになるというのが私の考えであった。幸い、私が200社ぐらい担当した中で、明らかな不正を働いている企業は1社もなかった。むしろ、前述のようにルールを厳格に解釈する厳しい事務局員に限って、明らかな不正を働いている中小企業に当たることが多く、中小企業とよくトラブルを起こしていた記憶がある。


2016年11月07日

山本七平『日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条』―日本組織の強みが弱みに転ずる時(2/2)


日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条 (角川oneテーマ21)日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条 (角川oneテーマ21)
山本 七平

角川グループパブリッシング 2004-03-10

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 前回の続き。本書は、小松真一の『虜人日記』に書かれていた「敗因21か条」をベースに、山本七平自身の体験も交えながら、太平洋戦争の敗因を分析したものである。

虜人日記 (ちくま学芸文庫)虜人日記 (ちくま学芸文庫)
小松 真一

筑摩書房 2004-11-11

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 太平洋戦争は東アジアを西欧の植民地支配から解放するための戦争だったと主張する右派は多い(こういう右派は、戦後にアメリカが名づけた太平洋戦争という名前ではなく、大東亜戦争という言葉を用いるのが常である)。しかし、山本七平は右派でありながら、自ら陸軍将校としてフィリピンの戦場に立っており、耳元を敵の弾丸が通り過ぎるような経験もしている。その山本は、日本軍のトップに明確なビジョンがなく、現場は十分に訓練されておらず、白が黒となるような無茶な命令が乱発されていたことを知っている。だから、山本の文章を読むと、日本がアジアのヒーローであったかのような右派の言説に加担するのは、私としてははばかられる。

 前回の記事「山本七平『日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条』―日本組織の強みが弱みに転ずる時(1/2)」では、日本社会・組織の理想的な姿を整理したつもりである。逆に言えば、その理想が崩れたから日本は戦争に負けた。その具体例を順に見ていく。
 一体、われわれが、最低とはいえ衣食住を保障され、労働から解放され、一切の組織からも義務からも解放され、だれからも命令されず、一つの集団を構成し、自ら秩序をつくって自治をやれ、といわれたら、どんな秩序をつくりあげるかの「実験」の場になっていたわけである―別にだれも、それを意図したわけではないが。

 一体それは、どんな秩序だったろう。結論を簡単にいえば、小松氏が記しているのと同じ秩序であり、要約すれば、一握りの暴力団に完全に支配され、全員がリンチを恐怖して、黙々とその指示に従うことによって成り立っている秩序であった。
 理想的な日本の理想社会は、天皇(厳密に言えば、さらにその上に神がいる)を頂点とするピラミッドであり、垂直方向と水平方向に細分化されている。それぞれの日本人や組織はピラミッドの一角を占めるにすぎず、上からの命令に従って行動する。時には上に向かって「下剋上」したり、下に対して「下問」したり、水平方向に協業したりするが、その行動範囲は極めて限定的である。こう書くと、日本社会は非常に息苦しく見える。しかし、逆にその制約を取り払うと、日本の場合は自由ではなく暴力性が出現してしまう。日本人にとって、自由とは西欧流の「権力からの自由」ではない。日本人が自由を発揮できるのは、権力構造に埋め込まれている時である。
 これらの事件(※現地のゲリラなどによる日本軍への反乱を指す)の背後には、現地における対日協力者への、あらゆる面における日本側の無責任が表われており、この問題の方が、私は、戦後の反日感情の原因になっているのではないか、とすら思われるからである。
 日本は多神教文化の社会であり、それぞれの日本人には異なる神が宿っている。人生とは、自らに宿る神の正体を知る旅であると言える。ところが、多神教文化の神は唯一絶対、完全無欠の一神教の神とは異なり、不完全な存在である。その不完全性を認めながらも、なおより完全に近い形で自らに宿る神を知覚するためには、自分とは異なる神を宿しているであろう他者との交流が欠かせない。この辺りについては、以前の記事「『関を越える(『致知』2016年6月号)』―日本人の「他者との相互学習」の方法について」などでも書いた。

 だから、日本人は元来は外向的であるはずだ。ところが、その外向性が急激に反転して、極度の人見知りに陥ることがある。おそらく、自分の弱さを他者に悟られたくないと思うからであろう。他者との交流を失うということは、学習の機会を失うことでもある。自分に宿る神の姿をまだ的確に把握できていないのに、もう十分解ったと思い込む。そして今度は、自分の弱さを隠すように、自分の考えが絶対に正しいのだと強がり、他者に自分の考えを押しつける。

 引用文の通り、日本軍は東アジアに進駐した際、現地住民の理解を怠った。アジアも基本的には多神教文化の地域である。多神教文化における望ましい振る舞いをせずに、日本はアジアの解放者だと叫ぶのは、全くもって独善的な態度である。山本は本書以外にも、日本がアジアを帝国主義から解放するという明確な理念を持っていたかどうかは疑わしいと書いている。
 その原因は、歴史的には、前記のような「模倣の対象」の違いに求めうるであろうが、根本的には、日本の「タテ社会」に基因する、陸海に共通する決定的な「タテ組織」にあったであろう。これは単に陸海の不協力だけではなく、陸軍内の空地・歩砲の協力すら行なわせないほど徹底していた。そのよい例がノモンハンである。
 理想的な日本社会においては、前述の通り、ある程度の制約はあるものの、上下左右に比較的自由に動くことができる。「タテ社会」と「ヨコ社会」がいい塩梅で交錯する社会と言ってもよい。だが、「タテ社会」と「ヨコ社会」ではどうやら前者の方が力が強いようであり、放っておくと「タテ社会」が勝る、現代風に言えばタコツボ化する、セクショナリズムがはびこるようである。

 前回の記事でも書いたが、明治時代の初期には、省庁を超えた人事異動が頻繁に行われていた。ところが、明治末期になって社会が成熟してくると、そのような人事異動は見られなくなった。また、経営合理化のために事業部制を導入したある中堅製造業では、ラインで何か問題が起きた時に他部署から社員がさっと集まって問題を解決するというそれまでの風土が失われ、かえって業績が悪化してしまったという例も紹介した。

 組織のタテ割り化を防ぐためには、一個人、一部門だけで完結する仕事、役割にはせず、必ず他の社員や部門と協業しなければ達成できないような目標を与えることが有効ではないかと考える。別の言い方をすれば、個人の職務定義書や部門のミッションステートメントに、いい意味での曖昧さを残すことである。これは、経営の合理化には完全に逆行する。欧米の組織では到底受け入れられないだろう。しかし、日本のよさを活かすためにはその方が得策である。
 ”当時”の人間は非科学的であったから、”芸”による超能力が存在しうると信じ、小銃・機関銃・手榴弾の存在する現在の戦闘において、その殺傷効力が1メートル余しかない日本刀を戦場で使い、その”芸”を活用して、バッタバッタの百人斬りをやって、刀も折れねば本人が負傷もしない、ということを信じ得たとしても、あるいは不思議でないかもしれぬ。これはいわば武”芸”絶対化の世界である。そして絶対化されれば現実には、日本刀にはこれだけの強度はなく、実戦の武器としては、大坂の陣で、宮本武蔵ですら、これを活用できなかったという事実は、無視されても致し方がない。そしてこれが極限までいけば、竹ヤリで原爆に対抗できるという発想になって当然である。
 上からの命令に従い、上の人間のお眼鏡にかなうような存在になろうと自己鍛錬を積むわけであるが、上からの命令を絶対視し、自己鍛錬そのものが目的化してしまうと、武”芸”の絶対化が起きる。通常であれば、上の人間は環境の変化に応じて命令の内容を変えていく。

 欧米であれば、「いつまでにこれを達成する。だから、このタスクを実行せよ」といった具合に、将来の目標をまず設定し、そこから逆算して行動計画を策定する。別の表現をすると、将来⇒現在という時間のとらえ方をする。目標が変われば命令もガラリと変わる。だから、下の人間も命令の変化に気づきやすい。ところが、日本人の時間は現在⇒将来へと流れる。つまり、現在から徐々に将来に向かって変化していくと考える。そのため、上の人間を注意深く観察していないと、変化に気づくことができない。もし、本ブログの読者の皆様の仕事内容がここ数年ほとんど変わっていないとすれば、知らず知らずのうちに武”芸”の絶対化に陥っている可能性がある。
 そしてさらにわからないのが、この西南戦争の原因である。それは、太平洋戦争の発端となった日華事変のように、原因不明、戦争目的不明、作戦計画不明、といわねばならない。
 山本は、西南戦争が失敗に終わった原因を分析し、後世の教訓としておけば、太平洋戦争のような失敗は起きなかったのではないかと記している。西南戦争も太平洋戦争も、目的が不明であり、従って作戦計画の立てようがなかった。「何事をやるにも目的をはっきりさせるべきだ」という手垢のついた表現でこの問題を片づけられるかと言うと、そうはいかない難しい事情がある。

 日本社会は天皇を頂点とするピラミッド構造である。下の階層は上の階層の命令に従って動く。では、頂点に立つ天皇は誰の命令を聞いているのだろうか?実は、ピラミッド構造を厳密に描写すると、天皇の上にはさらに神々がおり、神々もまた多層化している。その神々の層を上へとたどっていけば、究極的な命令を出す神に突き当たるはずである。西欧は、一神教と多神教という違いはあれど、同じような理屈で絶対的な神の存在を証明してきた。ところが、日本の場合は、究極的な神を想定していない。そんなことを考えること自体が野暮である。何となく、どこからか命令が下されて、それが巨大なピラミッドの下層へと徐々に浸透していくのが日本である。

 この話から得られる教訓は、「日本は何か大きな目的を世界で果たそうと野心を抱いてはいけない」ということである。日本人には、そのような内発的な目的を設定する適性がない。外部環境の変化に応じて、漸次的に姿を変えていく。これしか日本人が生き延びる道はない。だから、間違っても戦争を起こそうとしてはいけないし、グローバル経済でリーダーシップを発揮するとか、世界市場を牽引するイノベーションを連発することを目指すのは無理と言わざるを得ない。

 最後に、小松と山本が日本の目指すべき道を述べている箇所を引用する。
 確かにこれ(※国際主義)以外に生きる道はあるまい。しかしこの言葉は、「みんな仲よく、お手つないで」式の、うわついた国際主義ではない。(※小松)氏は「国際主義的な高度」の文化・道徳の保持を考え、それを「大東亜戦によって得た唯一の収穫」と考えておられるが、同時にその基盤となるべき日本の自立は、日本という独特な位置・風土・伝統に基づく発想、いわば本当の「思想」に基づくものでなければいずれは破綻し、いわゆる国際性も成り立たないことを、知っておられた。氏は、「再軍備論者」の考えを、その考えが出てくる10年も20年も前にはっきりと否定し、また最近になってはじめて問題とされている食糧問題、水の問題、農業問題等にも、目を向けている。




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