このカテゴリの記事
『世界』2017年11月号『北朝鮮危機/誰のための働き方改革?』―「働き方改革」を「働かせ方改革」にしないための素案
中根千枝『タテ社会の人間関係』―「年功序列型タテ組織」が見せる意外な柔軟性
『願いに生きる(『致知』2016年3月号)』―私のブレブレの人材マネジメント論を反省した、他

プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

◆旧ブログ◆
マネジメント・フロンティア
~終わりなき旅~


◆別館◆
こぼれ落ちたピース
シャイン経営研究所HP
シャイン経営研究所
 (私の個人事務所)

※2019年にWordpressに移行しました。
>>>シャイン経営研究所(中小企業診断士・谷藤友彦)

Top > 年功序列 アーカイブ
2017年11月28日

『世界』2017年11月号『北朝鮮危機/誰のための働き方改革?』―「働き方改革」を「働かせ方改革」にしないための素案


世界 2017年 11 月号 [雑誌]世界 2017年 11 月号 [雑誌]

岩波書店 2017-10-07

Amazonで詳しく見る by G-Tools

 特集2は「誰のための働き方改革?」である。私は珍しく、この特集の内容には賛成を示したいと思う。「働き方改革」の柱は、大きくは①高度プロフェッショナル制度の導入、②裁量労働制の適用範囲の拡大、③残業時間の上限規制の引き上げ(特例で年720時間とし、繁忙期で月100時間未満、2~6カ月の平均で80時間)の3つである。これに女性の活躍推進やシニア人材の活用が加わるので、「働き方改革」とはつまり、日本国民全員が今以上にもっと働けという国からの命令であり、「働かせ方改革」である。少し考えればすぐに解ることだが、国民全体の労働時間が長くなれば消費に回す時間が削られ、消費が冷え込む。また、別の角度から言うと、労働力の供給が増えれば、その分物品・サービスが供給過剰となり、脱デフレの流れに逆行する。

 ここからは大雑把な議論になるが、日本人の労働時間が長いのは、日本の消費者の要求水準が「世界一」と言われるほど高く、かつ多様であるためだと考える。日本では昔から、男性が企業で働き、女性が家庭を守るという分業が成立していた。よって、消費の主体は女性であった。その女性が、企業に対して厳しく、かつてんでバラバラな要求を突きつける。日本人は真面目なので、それらの要求に応えようとする。そのため、企業で働く男性の労働時間が長くなる。

 すると、今度は長時間労働をする男性のニーズに応えるために、24時間営業のスーパーやコンビニエンスストア、長時間営業の飲食店やレジャー施設などが登場する。これらの店舗は、いつ来店するか解らない男性のために、常に店舗を開けておかなければならない。一部の顧客のためにカスタマイズする費用、一部の顧客のために営業時間を延長するコストは、本来であれば他の顧客に転嫁したいところである。ところが、財布の紐が固い日本人はそれを許さない。よって、社員は低賃金で長時間働かされる。これが日本社会のおおよその構図である。

 上記の点を念頭に置いて、私が考える「働き方改革」の素案を披露したいと思う。まだ素案段階のため、施策間の整合性が取れていない箇所がある点はご容赦いただきたい。

 ①まずは、日本人が「便利すぎる社会」を捨てることである。24時間365日コンビニが開いていなくてもよいではないか?ネットで注文した商品が翌日に届かなくてもよいではないか?そもそも、今後日本の労働力人口が減少していくというのに、いつまでも今のような便利な社会を支えることは不可能である(河合雅司『未来の年表』〔講談社、2017年〕)。日本人は「ほどほど」の生活水準で満足すればよい。そのような社会的合意が成立すれば、一部の声の大きい顧客のために追加された機能やサービス、そして、それらにかかるコストが価格に転嫁できていない機能やサービスを企業側は思い切って削減できる。これは企業の収益向上につながる。

未来の年表 人口減少日本でこれから起きること (講談社現代新書)未来の年表 人口減少日本でこれから起きること (講談社現代新書)
河合 雅司

講談社 2017-06-14

Amazonで詳しく見る by G-Tools

 その意識醸成を行う役目を担うのは、私は行政だと思っている。私は本ブログでしばしば日本の多重階層構造を「神⇒天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/NPO⇒学校⇒家庭」というラフなスケッチで描いてきた。行政府から市場/社会へと矢印が伸びる、つまり行政府が市場/社会に対して何かを命じるということは、自由市場の原則からすると普通は想定されない。だが、日本の場合はあり得る、いややる必要があると私は考える。行政は消費者に対して、良心的な市民として振る舞うよう働きかける。ドイツでは「社会的市場経済」という考え方が浸透しており、国家が市場に介入して、富の再分配や社会的公正の実現を目指している(ブログ別館「高松平藏『ドイツの地方都市はなぜクリエイティブなのか―質を高めるメカニズム』―日本の理想社会を一足先に実現しているドイツ?」を参照)。同じことを日本でも行うべきであろう。

 ②現在検討されている「高度プロフェッショナル制度」は、成果を客観的に測定し、それを給与に適切に反映できるという信念が前提にある。しかし、私はそもそもこの前提が誤っていると思う。私はこれまでにコンサルティングプロジェクトなどを通じて、成果を定量的に把握する方法を模索してきた。だが、どんなに精緻な制度にしても、完全に客観的な制度にはならないことに気づいた。精緻な制度にすればするほど複雑怪奇になり、年金制度のように誰にも理解できない代物になってしまう。それに、成果給制度は以下のような問いに答えることができない。

 ・ある社員のプロジェクトは短期的には芽が出なかったものの、引き継いだ後任の社員が5年後に大きな成果を出した。だが、その成果は最初の社員の取り組みに負うところが大きい場合、この成果を最初の社員と後任の社員の間でどのように分配すればよいのか?
 ・逆に、ある社員のプロジェクトが短期的に大成功したが、数年経って企業の屋台骨を揺るがしかねないほどの危険なプロジェクトだと判明した場合、最初の社員に支払った多額の給与から、企業の損失に応じて給与の一部を返還してもらうのか?
 ・イノベーションを促進するには、失敗にも報いることが重要である。では、失敗の価値をどのように算定するのか?また、失敗の価値に相当する給与は、その失敗から教訓を得て仕事を成功させた他の社員の給与から捻出することになるが、按分の割合はどうすればよいのか?

 上記のような問題は、給与を仕事に対する対価ととらえることに端を発している。だから、見方を変えて、給与を成果給ではなく生活給としてとらえ直すべきである。この点は、マルクスが特に重視していたことでもある(こう書くと私はリベラルに転向したのではと思われるかもしれないが・・・)。生活にかかる費用は年齢とともに増加するから、結局のところ最も公平な報酬制度とは年功制である、というのが現時点での私の結論である。これは、出光佐三がかつて出光興産で実施していたことでもある(出光佐三『人間尊重七十年』〔春秋社、2016年〕)。

人間尊重七十年人間尊重七十年
出光 佐三

春秋社 2016-03-10

Amazonで詳しく見る by G-Tools

企業のサブ目的

 前述した日本の多重階層構造のラフなスケッチをもう少し詳細に書くと上図のようになる(以前の記事「【ドラッカー書評(再)】『断絶の時代―いま起こっていることの本質』―「にじみ絵型」の日本、「モザイク画型」のアメリカ」を参照)。私はこの図を用いて、上の階層への「下剋上」、下の階層への「下問」、水平方向の「コラボレーション」の重要性を説いてきた。

 企業はその活動を主に学校、家庭、取引先(上図からは抜けているので修正が必要だと気づいた)、株主、金融機関に依存している。下問とは、上の階層が下の階層に対し、「あなたが自らの目的を達成し、成功するために我々が支援できることはないか?」と問うことである。下問によって下の階層が成功すれば、それは上の階層にとってもプラスとなる。企業が家庭に対して下問するというのは、家庭の目的、すなわち家計を維持し、健康な労働力を企業に送り込み、子どもを生み育てるという目的を達成するために企業としてどんな支援ができるかと問うことである。そのためには最低限、生活費を保障することが絶対条件となる。

 ③以前の記事「DHBR2017年11月号『「出る杭」を伸ばす組織』―社員の能力・価値観を出発点とする戦略立案アプローチの必要性」でも書いたが、現在の戦略立案の定石では、まずは環境分析を通じて戦略機会を発見し、次にターゲット顧客、差別化要因、戦略目標を設定し、そしてそれらを実現するためのビジネスモデルやビジネスプロセスを設計して、必要な能力を持った社員をあてがうという流れになっている。ただ、この流れに従うと、新しい戦略にフィットしない社員は昇進のチャンスを絶たれ、最悪の場合はリストラされてしまう。私自身もこの定石にすっかり慣れきってしまっているのだが、そろそろ発想の転換が必要ではないかと感じている。

 ミドル、シニア社員が昇進の機会を絶たれ、リストラの恐怖におびえている企業ほど若者にとって魅力的でないものはない。若者には、「この会社で頑張っていれば昇進の可能性がある」と思わせなければならない。ということは、企業は原則として、社員全員を昇進させる必要がある。ここでも昇進の基準は「年齢」である。というのも、成果と同様に、能力も客観的に評価するのが困難だからである。社員がある年齢に到達したら、強制的に次のポストへと昇進させる。これは典型的な年功序列制である。企業は昇進した彼らのために仕事を創出するような戦略を構想しなければならない。私は、「仕事に人を割り当てる」という言説を信じてきたのだが、今後は「人に仕事に人を割り当てる」ことが重要になるであろう。恥ずかしながら、そのためのフレームワークを私はまだ持ち合わせていないため、急いで開発しなければならない。

 ただし、ここで企業は大きなチャレンジに直面することになる。以前の記事「【ドラッカー書評(再)】『現代の経営(下)』―「雇用の維持」は企業の社会的責任か?」で簡単に試算したところ、10年で上の階層に昇進する、1人の上司は10人の部下を持つ、各階層とも10年で3割が自然退職するという前提で計算すると、企業は10年間で社員数、売上高を少なくとも7倍にしなければならないことが判明した。それを可能にする戦略をあらゆる企業に要求するのはさすがに酷であろう。だから、先ほど原則として全員を昇進させるべきだと書いたが、実際にはミドル、シニア社員の一部を削減せざるを得ない。彼らを昇進できないまま企業にとどめておくのは、若手社員にとって害以外の何物でもない。彼らは若手社員のために道を開けなければならない。

 旧ブログの記事「高齢社会のビジネス生態系に関する一考―『「競争力再生」アメリカ経済の正念場(DHBR2012年6月号)』(1)(2)(3)」でも書いたが、日本の人口動態から見て、将来的には従来型のピラミッド組織に加えて、40代・50代を底辺とし、70代・80代を頂点とする第2のピラミッド組織が登場すると予想している。後者の組織は、ミドル、シニア人材の起業によって生まれる。そこで、既存の企業は、全ての社員にポストを用意できない代わりに、ミドル、シニア人材の起業を促進するインフラを整備する。具体的には、複数の企業が資金を出し合ってファンドを形成するのも1つである。また、こうした新興企業に転職するミドル、シニア人材向けの転職支援金を捻出する保険制度を構築してもよいだろう。

 ④最近、商工中金や神戸製鋼、日産自動車の不正が明るみになって大きな社会問題になった。これらの企業に共通するのは、「厳しいノルマ」が課せられていたということである。アメリカのイノベーティブな企業が大胆な目標を掲げる経営を行っていることに触発されて、日本企業も野心的な目標を設定しているようである。ところが、スタンフォード大学のケリー・マクゴニガルは、将来の目標と現実があまりにもかけ離れていると目標達成の意欲が減退すると警告している(以前の記事「ケリー・マクゴニガル『スタンフォードの自分を変える教室』―経営に活かせそうな6つの気づき(その1~3)(その4~6)」を参照)。

 また、野心的な目標が効果的なのは、企業が急成長しており、かつ経営資源に余裕がある場合であって、成長が鈍化しており、かつ経営資源が逼迫している時に野心的な目標を立てると組織が窒息するという研究もある(シム・B・シトキン、C・チェット・ミラー、ケリー・E・シー「身の丈に合わない方法では業績不振から抜け出せない ストレッチ目標で成功する企業 失敗する企業」〔『DHBR2017年9月号』〕)。

製品・サービスの4分類(①大まかな分類)

製品・サービスの4分類(②各象限の具体例)

 「【シリーズ】現代アメリカ企業戦略論」で用いた上図に従うと、アメリカ企業は左上の<象限③>に強い。この象限はいわゆるイノベーションであり、潜在的な需要がどの程度存在するのか事前に予測することが難しい。上手くいけば全世界を制覇することができるし、世界中の人に何度も繰り返し購入させる、あるいは新しいイノベーションを次々と購入させることができる(スマホのゲームに多額のお金を課金する人、映画を何回も見る人、書籍・音楽を大量に購入する人などがいる)。よって、イノベーターは野心的な目標を設定し、その実現に向かって驀進する。

 これに対して、日本企業が強いのは右下の<象限②>である。この象限は必需品であり、人口や世帯数によって市場規模を相当程度正確に予測することができる。また、競合他社の数からして、自社がどの程度のシェアを獲得できそうかという見込みも立つ。だから、野心的な目標よりも、現実的な目標を立てる方が賢明である。しかも、顧客のニーズが顕在化しているから、企業として当たり前のことを着実に実行していれば、結果は自ずとついてくる。よって、結果に焦点を置いたマネジメントではなく、プロセスに焦点を置いたマネジメントを実施するべきである。

 そもそも、日本人は野心的な目標を理想とすることに慣れていない。日本人は理想と現実という二項対立の扱いが下手であることは、以前の記事「イザヤ・ベンダサン(山本七平)『日本人と中国人』―「南京を総攻撃するも中国に土下座するも同じ」、他」でも書いた。山本七平は陸軍に所属していた時、現場を知らない上司から、軍の物品などの数を実際の数ではなく、上司が言った数で報告するように指示されたという。陸軍には「員数を合わせる」という言葉があった。山本はこうした陸軍の文化を「員数主義」と呼んだ。欧米人でさえ野心的な目標に対しては警戒感があるのだから、日本人は目標というものをもっと慎重に扱わなければならない。

 ⑤働き方改革によって労働時間が短くなった日本人は、単に消費活動に精を出せばよいというわけではない。ピーター・ドラッカーが指摘したように、知識労働者は高等教育に戻る必要がある。社会人が大学に行くことには2つの意味がある。1つ目は、日常業務を離れて新たな視点から知識を吸収することで、企業に戻った時により創造的な仕事を行うことが可能になるということである。もう1つは、先ほど示した企業から学校(大学)への下問の説明に従うと、新しい知の創造を目的としている大学に対して、企業の社員が現場の実践的な知をフィードバックすることで、大学の研究活動を刺激することができるということである。

 大学に戻る社会人が増えると、若者の高等教育の無償化の実現につながる。以前の記事「『正論』2017年9月号『戦後72年/誰も金正恩を止めない・・・』―日本が同じように統治したのに戦後の反応が異なる韓国と台湾、他」でも書いたように、2013年の調査によると、25歳以上の大学への入学者の割合は、OECD加盟国の平均が20.6%であるのに対し、日本はたった2.7%と非常に低い。OECD並みの水準とまではいかなくとも、仮に25歳以上の大学への入学率が2.3%増えて5%になったと仮定しよう。日本の労働力人口は2016年時点で6,648万人であるから、大学に入学する社会人は約153万人増える。社会人が大学を卒業するまでに要する年数を、若者と同じく4年とすると、毎年の社会人学生は約612万人増加することになる。彼らが負担する授業料を年間50万円に設定すれば、年間の授業料収入は約3兆円上乗せされ、高等教育の無償化に必要な財源とされる3.7兆円の大部分をカバーすることができる。

2016年03月21日

中根千枝『タテ社会の人間関係』―「年功序列型タテ組織」が見せる意外な柔軟性


タテ社会の人間関係 (講談社現代新書)タテ社会の人間関係 (講談社現代新書)
中根 千枝

講談社 1967-02-16

Amazonで詳しく見る by G-Tools

 以前の記事「『戦略人事(DHBR2015年12月号)』―アメリカ流人材マネジメントを日本流に修正する試案」で、実は日本の年功序列(終身雇用ではない)が最も公平な人事制度ではないか?と書いた。本書は、日本の年功序列に代表される「タテ社会」を分析した1冊である。著者はまず、社会を「資格の社会」と「場の社会」という2つに分ける。資格の社会とは、同じ資格を有する者が集まる社会である。ここで言う資格とは、氏、素性、学歴、地位、職業、資本家、労働者、地主、小作人、男、女、老人、若者といった属性のことである。他方、場の社会とは、資格の違いを問題にせず、同じ地域や組織などの空間にいることを重視する社会である。

 どんな社会でも、構成員同士の一体感を高めることが重要となる。資格の社会においては、「同じ資格を有している」という事実が一体感を醸成する。よって、水平的なつながりが強くなる。著者はこれを「ヨコ社会」と呼ぶ。一方、場の社会においては、資格のような共通項がない代わりに、情緒的なつながりが重視される。情緒的なつながりは、他のメンバーと一緒にいる時間が長いほど強くなる。したがって、場の社会では必然的に年功序列の「タテ社会」となる。つまり、その場により長くいる人が、それ以外の人よりも上の立場に立つことができる。

 タテ社会とヨコ社会の違いについて、著者は1つ面白い指摘をしている。ヨコ社会=資格の社会では、1人の人間が有する資格は1つとは限らない。複数の資格を有する人は、複数の組織に所属できる。ある組織ではマネジャーとして働き、別の組織では研究者として働く、といった具合だ。著者は、イギリス、イタリア、中国などでこのような傾向が見られると指摘する。

 これに対して、タテ社会=場の社会では、他のメンバーと長い時間を共有することがカギとなる。だから、自分の有限な時間をわざわざ分割して複数の組織に振り分けるメリットがない。日本では、1人の人間は原則として1つの企業にしか所属できない。日本では副業に対する風当たりが強いのも、そのためであろう。私は、組織社会から外れて個人で仕事をしているのだが、色々な組織とパートナー関係を結び、複数の名刺を持っている。しかし、名刺を何枚も相手に渡す時には妙な気まずさを感じる。これは、タテ社会の慣習に反しているからに違いない。

 ヨコ社会とタテ社会のこうした違いは、歴史的背景も影響していると著者は言う。中世の西欧では、主従関係が必ずしも臣下を無制限に束縛せず、同時に2人や3人の主君に仕えることが可能であった。だが、日本には「二君にまみえず」という言葉があるように、特定の主君に仕えるのが理想であり、複数の主君に同時に仕えるのは武士道の精神に反するとされた。

 (※)余談だが、「二君にまみえず」という論理を使ってキリスト教を批判したのが江戸時代の政治家である新井白石である。キリスト教は、個人が神に直接仕えることができると教える。ところが、当時の日本では子は親に仕え、親は地域の長老に仕え、地域の長老は武士に仕え・・・という垂直的な関係が理想であった。そこにキリスト教を持ち込めば、子は親と神の両方に仕える必要があり、社会構造が崩壊すると危惧したのである。

 ヨコ社会では、同じ資格を持っていさえすれば、たとえ相手の素性がよく解らなくてもネットワークに参加できる。西欧や中国、インドはこういう社会である。華僑や印僑が世界中で活躍しているのも納得がいく。「華僑」、「印僑」であることが、同じ資格の保有者であることの証となる。また、西欧人はすぐにインターネットを使ってビジネスマッチングを行う。相手が見えないことに対して、さほど心理的抵抗がないらしい。ここでも、同じ「事業家」、「商売人」という資格が効力を持つ。しかし、タテ社会の日本は、直接的でウェットな人間関係がものを言うから、インターネットでのマッチングは機能しにくい。私の仕事に関係した話をすると、国や自治体は現在、中小企業のビジネスを活性化させるためにマッチングサイトを乱立させている。だが、日本は人づての直接的な紹介で仕事が回る社会なので、めぼしい成功例はほとんど聞いたことがない。

 (※)余談その2。海外の展示会に出展すると、「御社のHPを見た。御社の製品を是非我が社で販売させてほしい」とブースにやってくる人がいるそうだ。この話から得られる教訓は2つある。まず、海外の企業は日本企業のHPをよく研究している。日本企業の素性が解らなくても、同じ「事業家」という資格を持っているなら信頼しようということなのだろう。もう1つは、海外の展示会では具体的な商談が行われるということだ。ブースを訪れる人は決裁権限を持っていて、その場で契約をまとめようとする。決裁権限を持たない担当者レベルの人間が情報収集のためにやって来る日本の展示会では、出展企業側もブースに決裁権限者を置かないことが多い。そのため、海外で日本と同じ対応をして、大きなチャンスを逃していると聞く。

 タテ社会の場合、ヨコの同類は敵となる。企業内では同期や隣の部署と激しく競合する。企業間では、「あの企業がAという製品を出したならば、我が社はA’という製品を出そう」といった具合に、似たような製品をフルラインで揃えて勝負する。欧米では各社が自社の強みに特化して差別化が成立するのに、日本ではどの企業の戦略も同質化するのはこのためだと著者は分析する。また、水平的な合併は対等な関係にならず、主従の関係を生じるとも言う。

 ただ、この点に関して、個人的には異なる見解を持っている。確かに、日本企業には激しい社内競争も部門間の対立もある。競合他社がまるで裏で口裏合わせでもしたかのように、皆似たような製品・サービスを出すことも多い。だが、同時に協調的な行動もたくさん観察されると思う。同期との関係は定年まで続くと言われるし、ゼネラリスト育成の目的で行われる定期的なジョブローテーションが部門間の情報共有や連携を促している。

 企業の外部に目を向けると、日本の業界団体という存在が、時に競合他社同士を協業へと導く。もちろん、欧米でも、市場の黎明期においては、各社が結束して技術標準を確立し、市場の拡大に力を注ぐ。だが、一旦市場が成立すれると、各社は一転して激しい競争関係に転じる。この点、日本の場合は、市場が成熟した段階でも、自社の組織能力を補完するために、競合他社との間で部品や技術、さらには経営ノウハウを融通し合うといった動きが見られる。著者は垂直的な関係を重視するあまり、水平的な関係をやや軽視しているように感じた。


 《2016年5月1日追記①》
 ジョブローテーションに関して1つ追記すると、明治時代初期には省をまたいだ人事異動が頻繁に行われていたそうだ。しかし、大正時代になると学歴重視になってしまったという。
 明治時代に官僚制度が整えられた当初は、そうではなかったんです。農商務省から突然、外務省へ移るとかそういうふうな異動すらあったのに、明治も末頃になると、東京帝大法学部を首席で出た奴がどうなるというコースがある程度確定してくる。本来、経験が人間をつくっていくのに、経験を無視して成績だけで判断していくという時代に対象からなっていくんです。そして、そういう連中が各省の次官や局長クラスになり、官僚国家になっていったんです。
(伊藤隆、猪瀬直樹「日本近代国家論 坂の上の雲の向こうに何を追ったのか」)
正論2016年5月号正論2016年5月号

日本工業新聞社 2016-04-01

Amazonで詳しく見る by G-Tools

 《2016年5月1日追記②》
 日本では業界団体を通じて日常的に競合他社と接触することが容易であるが、海外ではそうはいかないケースが多い。経済産業省『中小企業のための海外リスクマネジメントマニュアル』によると、アジア諸国の中には、同業他社との非公式な会合に参加するなどして同業他社と接触することを制限している国がある。日本でも公正取引委員会が同業他社との接触を制限するルールの策定をを試みているが、相も変わらず業界内で同時に類似の新製品が販売されたり、値上げが行われたりするところを見ると、日本における規制は難しいと感じる。


 年功序列的なタテ社会は、年齢で全てが決まるため、非常に硬直的に見える。ところが、著者によれば、上下のモビリティは意外と大きいと言う。江戸時代から現在までの農村の家々の興亡を調べると、3代以上続いて上層を占め続けたというのは少なく、5代以上となると例外に近くなるそうだ。年功序列とは、年齢が上がれば能力が必ず上がると信じ、あらゆる人に上位ポストへの可能性を開く仕組みだと言える。どの人も年齢によって上の地位まで上り詰めるが、その地位はその人が生きている間に限って有効である。先代の地位は次の若い世代になるとリセットされる。代わりに、次の若い世代には再び下からよじ登るチャンスが与えられる。むしろヨコ社会の方が、資格に固定されて上位層へ上昇できない固定的な社会かもしれない。

 普通に考えると、タテ社会よりもヨコ社会の方が人間関係がフラットで、自由に議論できるように思える。実際に著者も、ヨコ社会においては下の資格の者が上の資格の者に意見することができると述べている。しかし、私が聞いた話では、アメリカやドイツなどでは、上司に意見することはタブー視されている。上司の権限を踏みにじる行為であるからだ。欧米企業では、トップダウン以外の指揮命令系統はあり得ない。フラットなヨコ社会に隠れて、実は強烈なタテ社会が裏に埋め込まれているのかもしれない。最近は現場社員の声を重視すべきだという主張も見られるようになったが、そのためには現場に権限移譲をし、ピラミッドの組織図を逆三角形にする必要がある。欧米社会では、命令はあくまでも上から降りてくるものとされているからだ。

 一方、日本企業にはミドルアップダウンという言葉がある。ミドルマネジャーが部下に命令すると同時に、上司にも意見を述べる。この特異性を著者も認めている。A―Bという人間関係がある場合、BはリーダーAに「介入」し、Aを「自由自在に動かす」ことができると言う。これは、本ブログで山本七平の言葉を借りて「下剋上」と呼んだ現象である(以前の記事「山本七平『帝王学―「貞観政要」の読み方』―階層社会における「下剋上」と「下問」」を参照)。

 冒頭で述べた通り、ヨコ社会とは共通の資格を重視する社会である。そして、たいていの資格には一定の思想が反映されている。よって、同一の資格を貫く絶対的な思想が生まれやすい。例えば、個人には宗教が、資本家には資本主義が、労働者には社会主義が、女性にはフェミニズムが存在する。どの資格=思想も自らを絶対視するあまり、異なる資格=思想との間で激しい軋轢を生じる。これが、ヨコ社会の決定的な弱点となっている。ヨコ社会では個人が複数の資格を保有することができる、つまり複数の思想を持つことができるはずなのに、実際には特定の資格と紐づいた特定の思想に拘泥し、他の思想を排撃するという矛盾が生じる。

 他方、タテ社会は様々な資格を有する者を人間関係によってつなぐ社会である。だから、絶対的な思想が生まれようがない。どの組織も多様なタテ関係を包含した複雑なものになる。著者はこれを「相対的原理」と呼ぶ。確かに、著者が指摘するように、あるタテ関係は別のタテ関係と競合する。しかし、前述のように、私自身は競合関係よりも協調関係の方が多く見られるのではないかと考えている。だからこそ、組織内の相対性が担保される。年功序列という言葉には、どうしても硬直的なイメージがつきまとう。ところが、つぶさに見てみると、タテ方向は決して単線的な上方向の矢印だけとは限らないし、ヨコ方向にも緩やかな連帯があって多様性を生み出している。年功序列を軸とした組織は、意外と柔軟性に富んだ仕組みなのかもしれない。

2016年03月04日

『願いに生きる(『致知』2016年3月号)』―私のブレブレの人材マネジメント論を反省した、他


致知2016年3月号願いに生きる 致知2016年3月号

致知出版社 2016-3


致知出版社HPで詳しく見る by G-Tools

 (1)
 それからよく覚えているのが、ある時担任の先生が黒板いっぱいに大きな字で「公」と書いて、そのすぐそばに「私」という字を小さく書かれたんです。(中略)私事は小さくするのが国民の誉れであり、それが国家と国民のあるべき精神だと教えていただいたんですよ。
(楊素秋「心に秘めたる日本への思い」)
 日本統治を経験した台湾人・楊素秋氏による記事である。滅私奉公という当時の社会的風潮をよく表している。ただ、太平洋戦争においては、公VS私という対立の中で、公が私を食いつぶしてしまったと思う。その結果が一億総玉砕であった。戦後はその反省から、アメリカ的な個人主義を導入したものの、今度は私が公を食いつぶしつつあるように感じる。

 卑近な例で申し訳ないが、個人的にスマートフォンは史上最悪のイノベーションだと考えている。電車でもカフェでも平気で電話をする人が増えた。口に手をあてながら小声で電話をしている人を見ると、公共の場で電話をしてはならないことを解った上で電話をしている確信犯に見える。電車の中では、多くの人がスマホで漫画を読んだりゲームをしたりしている。本を読む人が明らかに減った。レストランでパシャパシャと写真を撮る音も非常に耳障りだ。コンビニやスーパーのレジで、マイク付きイヤホンで電話をする人もよく見かける。店員に対して非常に失礼である。

 本ブログでも何度か書いたが、日本人は二項対立的な発想が苦手で、どちらか一方に肩入れすると自滅する傾向がある(以前の記事「山本七平『存亡の条件』―日本に「対立概念」を持ち込むと日本が崩壊するかもしれない」を参照)。それを回避するのが、二項混合という知恵である。歴史を振り返れば、共有財産を前提とし、現世の利益を対象とする神道と、私有財産を前提とし、来世の利益を対象とする仏教を融合させたのが「神仏習合」であった(以前の記事「義江彰夫『神仏習合』―神仏習合は日本的な二項「混合」の象徴」を参照)。

 現代に目を向けると、一般的に国家と市場/企業は対立すると言われるが、日本の場合は「日本株式会社」という言葉があったように、社会主義的に市場や企業を運営してきた。企業の内部においては、欧米では労働組合が経営陣と激しく対立するのが普通であるのに対し、日本は労使協調路線が基本であった。海外では社外取締役を多く入れて経営陣の働きをモニタリングする一方、日本では社員が内部昇格して取締役となるのが普通である。政治の世界では、一党独裁か多党制(二大政党制を含む)かで対立する。日本は長らくの間、事実上自民党の一党支配という形をとりながら、内部に派閥を抱えることで多様性を確保するという手法が取られた。

 話を公VS私に戻そう。これを二項対立的に把握する限り、日本はどちらに肩入れしてもやがて自滅するに違いない。解決策は、公と私を融合することである。公を大きな字で書いて、その横に私を小さく書くのではなく、公と私が同じ大きさで重なり合うように書くことである。ただ、それが具体的にどのような事態を指すのか、私自身もまだよく解っていない。一つのヒントは、左派がよく口にする「市民社会」にあるのかもしれない。左派は、国家/行政という公と、市場/企業という私の間に、緩衝材として市民社会を設置する。これが公と私の混合形なのかもしれない。

 《2016年3月13日追記》
 「日本を美しくする会」で掃除活動を全国に広めている鍵山秀三郎氏と、「志ネットワーク」代表の上甲晃氏も、日本人の「私」が大きくなりすぎて、「公」が侵食されていることを危惧している。
 上甲:日本人の心の原点は、公心ではないかと思います。それを失って、自分のことしか考えないところに問題があると思うのですが。
 鍵山:公心を失ったというより、公私という壁を自分の中につくっているのだと私は思います。それによって公はどんどん小さくなり、私ばかり肥大化してしまっているわけです。
(鍵山秀三郎、上甲晃「明日に託す思い」〔『致知』2016年4月号〕)
致知2016年3月号夷険一節 致知2016年4月号

致知出版社 2016-4


致知出版社HPで詳しく見る by G-Tools

 (2)
 私はむしろ、この百年足らずの短い人生で何を成し遂げるかという、いわば命の使い方、志を教えることこそが大切だと思います。その上で、世の中には自分の命を懸けてでも守るべきものがあるという価値観があることを教えていく。
(服部剛「感動の歴史が子供たちの道徳心を育む」)
 私は中小企業診断士の世界ではまだまだ若い方なのだけれども、世間的には中堅クラスであり、いつまでも若さを理由に甘えてばかりもいられなくなった。私は今年35歳になる。医療関係の本によると、人間の身体的・生理的機能は70歳を境に急激に衰える。また、3大疾病の発症率が最も高いのは65~70歳らしい。仮に健康寿命を70歳とすれば、私はちょうど折り返し地点を迎えることになる。私は昔から、90歳を超えても大学の教壇に立ち続けたピーター・ドラッカーを目標にしてきたのだが、非常に低い可能性にいつまでも賭けるのは、あまりよくないかもしれない。

 それよりも、残り30年ほどの健康寿命の中で何ができるかを考えることにした。こういう心境の変化は初めてだ。何せ、今までは若いから何でもできると思っていたのだから。ひとまず、今年に入っておぼろげながら人生の目標を1つ立てた。それは、毎年1つテーマを決めて(事業戦略、人材マネジメント、財務会計、事業承継など)、それを1年間かけて研究し、100枚程度のパワーポイントの資料にまとめるというものだ。1年1テーマで30年続けると、30テーマ3,000枚の資料が完成する。このぐらいやれば、この世界に私が生きたというひっかき傷ぐらいは残せるだろう。

 (3)
 土光もまた、いかに周囲から不良社員だというレッテルを貼られた社員に対しても、そんな社員こそ自分の部下にしたいということを述べている。作物と同じように早く芽が出る人間もいれば遅く出る人間もいる。どんな人間であろうとも、人を切らない登美の姿勢は土光にも受け継がれていた。
(出町譲「正しきものは強くあれ 土光敏夫の母・登美の一生」)
 普通は、言うことを聞かなければクビにして終わりなのかもしれません。けれどもうちは、そうやって一所懸命に育ててきた従業員が毎年何人もいるんです。私も声を嗄らし、汗と涙にまみれ、全身全霊で研修をやってきましたから、従業員一人ひとりがみんな可愛いですし、愛情を込めて心を磨いてあげたら、人は必ず光り始めるというのは確信を持って言えるんです。
(渡邊直人、福地茂雄「信念を抱いて願うことは必ず実現する」)
 私は一応、人事制度・人材育成が専門ということになっているが、私の中の人材マネジメント論は結構ブレブレである(汗)。私は「信賞必罰に頼らない。相手の成長を見守ることで相手を動かす」というのを自分の価値観としている反面(以前の記事「私の仕事を支える10の価値観(これだけは譲れないというルール)(1)(2)(3)」を参照)、短気なところもあって、「「できるヤツでも組織の価値観に合わなければクビ」のGE流」、「プロフェッショナルの条件とは「辞めさせる仕組み」があること」(いずれも旧ブログ)という記事を書いたことがある。

 旧ブログの記事「戦時には戦時の人事制度ってものが必要だ」では、昇格と降格を柔軟に運用するインテルの人事制度を紹介したが、最近は「『戦略人事(DHBR2015年12月号)』―アメリカ流人材マネジメントを日本流に修正する試案」という記事で年功序列制度を支持している。旧ブログの記事「マネジャー(管理職)の評価方法に関する素案」、「「イノベーションに失敗した人」の評価方法に関する素案」などで、社員の成果、企業に対する貢献度を厳密に計算して報酬に反映する方法はないかと考えたのだけれども、複雑すぎて無理だと諦めてしまった。

 私は、年功序列は支持するが、終身雇用には懐疑的である。毎年若者を採用し、組織を大きくしていっても、実は中高年社員に十分な管理職のポストを用意することができない。だから、中央官庁がよくやるように、一定の年齢を過ぎたら退職勧奨をすべきだと考えている。とはいえ、単に退職させるのではあまりに冷たすぎるので、転職を支援したり、その人が起業するための独立資金を援助したりする。この辺りは、旧ブログの記事「高齢社会のビジネス生態系に関する一考―『「競争力再生」アメリカ経済の正念場(DHBR2012年6月号)』(1)(2)(3)」で書いた。

 先ほど紹介した「私の仕事を支える10の価値観(これだけは譲れないというルール)(1)(2)(3)」という記事には、「直観で人を評価しない。その人の価値観と能力をじっくり見極める」という価値観もある。中途採用時には応募者の能力を見極める。新卒は能力がまだ十分ではないので、基盤となる価値観を見極めるというのが従来の考え方であった。

 ところが、日本企業で養われる能力はその企業に固有であるため、転職後もそれが役立つとは限らず、結局は2~3年程度訓練する必要がある。よって、面接では、能力より一歩手前の価値観を評価するべきだと思い直した。ただ、この価値観も、あまりこだわりすぎるのはよくない。

 価値観については、一時期非常に重視していたことがあり、組織内の価値観を統一することはもちろんのこと、外部の協力企業とも価値観を等しくすべきだと書いたことがある(その例として、旧ブログの記事「【シリーズ】水曜どうでしょう論」を参照)。しかし、価値観は決して固定的ではないし、組織で共通する価値観よりも、共通しない価値観の方が圧倒的に多いことに最近気づいた。だから、面接においては、共通価値観を浮かび上がらせることも重要だが、組織の価値観と応募者の価値観が相容れない場合に、応募者がどんな行動をとるかに注目する必要がある。

 新卒に関しては、人生経験が豊富ではないから、価値観すらまだ形成されていない可能性が高い。よって、価値観よりさらに一歩手前の、基本的な性格を判断すべきではないかと考えるようになった(以前の記事「『戦略人事(DHBR2015年12月号)』―アメリカ流人材マネジメントを日本流に修正する試案」を参照)。例えば、素直であるとか、責任感があるといったことである。

 引用文と関係ない前置きが長くなってしまったが、この文章を引用したのは、最近は問題社員をすぐにクビにするなど、無駄を極限まで切り詰める傾向が強いと言いたかったためだ。収益を上げない製品はすぐに市場から引き上げる、数字にならない顧客とはすぐに取引を中止するのもそうだ。こういうことを我々は合理化と呼ぶ。だが、先日哲学の本を読んでいたら、我々が一般に合理性と呼んでいるのは、能率のことだと書いてあった。合理性とは、理性が対象をつかまえ続けることであり、そこには効率性の入る余地はない。場合によっては、非効率に見えることも抱え込む。しかし、そのような合理性こそが、将来的に大きな創造性を生むこともあるのである。

 (続く)




  • ライブドアブログ
©2012-2017 free to write WHATEVER I like