2014年07月26日
山本七平『山本七平の日本の歴史(上)』(2)―権力構造を多重化することで安定を図る日本人
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(前回の続き)
(2)後半では北畠親房の『神皇正統記』の分析が行われている。先日の記事「イザヤ・ベンダサン(山本七平)『日本人と中国人』―「南京を総攻撃するも中国に土下座するも同じ」」でも書いたように、著者は天皇制を後醍醐天皇までの「前期天皇制」と、北朝以降の「後期天皇制」に分けている。『神皇正統記』は、北畠親房が南朝そして前期天皇制最後の天皇である後醍醐天皇の正統性を論じた書物である。
南朝は最終的に北朝に吸収され、足利尊氏が「後期天皇制」を始めるのだが、ここで著者は、天皇制が「下剋上」を前提としており、下剋上なしには天皇制の秩序は保たれないという、興味深い議論を展開する。下剋上的秩序とは、「下が上に向かって実質的な権力を行使することはあっても、下が上を打倒して自らが上になることではなく、したがって、下は上に向かって権力を行使しうるために、あくまでも上下の関係を下が維持しようとする関係」と定義される。これは、下が上を打倒する「反乱」とは区別して考えるべきである。
ここに、天皇を頂点としながら、実質的には幕府が権力を握るという二重構造が成立する。以前の記事「相澤理『東大のディープな日本史』―権力の多重構造がシステムを安定化させる不思議(1)|(2)」でも書いたように、こうした権力の多重構造はしばしば日本に見られる。
通常は、権力を強化しようと思ったら、階層を少なくするものである。一時期、「組織のフラット化」というキーワードがアメリカから輸入され、過剰なミドルマネジメントを駆逐して複雑な組織構造をスリムにしようとする動きがあった。これは、まさに残された階層の権力強化を狙ったものである。ところが、日本においてはあまり組織のフラット化が進まなかったように思える。それどころか、中間管理職の割合はむしろ増加を続けている(以前の記事「【ドラッカー書評(再)】『現代の経営(上)』―実はフラット化していなかった日本企業」を参照)。
アメリカ的な一神教の世界では、神と個人の直接的な関係が理想とされる。神と個人との間に何かしら別の組織が介在する場合には、その組織の正統性が厳しく要求される。政府も、企業も、家族も、神との関係において自らの正統性を証明しなければならない。その証明が不十分な場合には、組織を排除する運動が起きる。個人主義者は封建的な家族制度を嫌い、共産主義者は企業(資本家)を打ち倒し、アナーキストは政府や国家という枠組みを取り払おうとする。
一方、日本では神と個人との間に様々な組織が介入することを容認する。やや簡易的すぎるが、日本では、個人―家族―学校―企業・NPO―地域社会―地方自治体―政府―天皇(―神?)という重層的な関係が成り立つ。下位の層は、上位の層を「天」としていただく。そして、「天」としていただく限りにおいて、下位の層は自由に振る舞うことを許される。
下位の層の自由とは、上位の層の権力からの自由ではなく、上位の層の権力を受ける限りにおいての自由である。日本では、神と個人との関係が単線的であるよりも、神と個人との間に多重構造が存在している方が、全体のシステムが安定する(以前の記事「山本七平『日本人と組織』―西欧と日本の比較文化論試論」を参照)。
同じことは、同一組織内でも起こる。例えば企業の内部では、経営トップを頂点として、ミドルマネジメントが幾重にも重なる。その方が安定した経営ができるからだ。先日の記事「イザヤ・ベンダサン(山本七平)『日本人と中国人』―「南京を総攻撃するも中国に土下座するも同じ」」に登場した「文化的影響力」と「政治的影響力」という2つの言葉を使ってもう少し厳密に記述するならば、上位の層になればなるほど「政治的影響力」が薄れていき、「文化的影響力」の比重が重くなる。逆に、下位の層は強い「政治的影響力」を持つようになる。これが日本の組織である。
言い換えれば、経営トップは企業理念やビジョンという抽象的な構想で組織全体の求心力を保つことしかできず、日常のオペレーションを担う現場の方が実質的には強い権限を持つ、ということである。アメリカの経営学者は、現場のリーダーシップを高めるために「権限移譲(エンパワーメント)」を行うべきだと主張している。しかし、日本企業の場合は、現場に権限があるのは当然であって、権限移譲というのは不可思議な現象ということになる。
こうした権力構造で1つ困るのは、上位の層になればなるほど「政治的影響力」、すなわち実質的な権限が薄れていき、自由度が下がることである。にもかかわらず、「文化的影響力」は強くなっているという理由で、責任だけは重くなる。日本の組織では、組織論の重要な原則である「権限―責任一致の原則」が通用しない。日本の組織では「権限<責任の原則」が成立する。
内閣総理大臣は、政治家ならば一度はやってみたいが、一度やったらもうやりたくないと思うものらしい(その意味では、再登板した安倍総理は例外である)。実際、内閣総理大臣の権限は狭く、リーダーシップが阻害されていると問題になる。企業に目を向ければ、最近では管理職になりたがらない社員が増えているという。事実上の権限は小さくなるのに、責任だけは大きくなっていくことに耐えられないのだろう。だが、これは日本的な社会システムを前提とすれば当然の帰結である。そのような人生をどう実り多いものにしていくか?これが次の重要な課題かもしれない。