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『島井宗室』―政治と密着しすぎた事業はもろい
童門冬二『鈴木正三 武将から禅僧へ』―自由を追求した禅僧が直面した3つの壁

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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

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2014年02月10日

『島井宗室』―政治と密着しすぎた事業はもろい


島井宗室 (人物叢書 新装版)島井宗室 (人物叢書 新装版)
田中 健夫

吉川弘文館 1986-07

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 戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した博多商人・島井宗室についての本。幅広い文献に基づき、宗室の生涯を丁寧に整理した1冊となっている。私は、一代で巨万の富を築いた宗室の”事業の秘訣”を知りたかったのだが、残念ながらそういう内容ではなかった。むしろ、島井家の事業がほぼ宗室の代に限られており、宗室より以降は衰退の一途をたどってしまった理由が解った気がする。それはつまり、島井家の事業が政治=戦国大名と密着しており、政治の盛衰の影響を大きく受けてしまった、ということである。

 1551年、大内義隆が家臣の陶晴賢によって滅ぼされると、博多の実権は大内宗麟の手に移った。宗麟は、博多での支配力を強化するため、宗室を町政施行上の有力者と認めて宗室に接近した。宗麟の庇護を受けた宗室は、その特権の下で事業を拡大していった。宗室は見返りとして、宗麟に対し一定の軍資金を提供したと考えられている。

 その後、大友氏が竜造寺氏と10年以上にわたり対立を繰り広げた影響で、博多はすっかり荒廃する。そして、大友氏に代わって島津義久が台頭してきた。ここで、宗室にはもう一度追い風が吹くことになる。すなわち、豊臣秀吉の登場である。秀吉は、天下統一に飽き足らず、隣国の明を滅ぼしてアジア統一を夢見ていた。博多は、秀吉が朝鮮を通じて明へ入国する際の重要な拠点と位置づけられたのである。その地を脅かす島津氏は、秀吉の格好の餌食となった。

 博多をアジア統一の拠点とみなしていた秀吉は、博多復興に尽力し、宗室も大いにこれに協力した。秀吉は、博多を兵站基地とし、また外征軍往来の通路・宿泊地とすることをイメージしていた。そのためには、博多は大いに栄えていてもらわなければ困るし、商人の力を借りなければならない。秀吉が宗室に近づき、これを助けたのは自然の成り行きであっただろう。秀吉の力により復興した博多で、宗室はいっそう明・朝鮮との貿易に注力し、富を蓄えていく。

 だが、不幸なことに、どうやら宗室は秀吉による博多復興の真意を知らなかったようだ。仮に宗室が秀吉の企図を知っていたら、後に重要な通商国を失うことになる秀吉の危険な博多復興策には協力しなかったかもしれない。秀吉の真意を知らなかったからこそ、宗室はいざ朝鮮出兵が始まると、後方支援に奔走しつつ、裏で対馬の宗義智らと和平工作にあたったわけである。

 こうして見てみると、宗室の事業の前半は宗麟の、後半は秀吉の政治の下で栄えた、別の言い方をすれば、政治的目的のために利用された、と言えるだろう。そのため、1600年の関ヶ原の合戦後、徳川家康が江戸に幕府を開き、博多が政治的な位置を失うと、宗室もかつてのような野心的な事業を行わなくなってしまった。晩年、中風に苦しめられていた宗室は、細々と酒屋・土倉を営んでいたようである。

 実は、関ケ原の合戦時に博多を治めていたのは小早川秀秋であった。そう、西軍・石田三成につきながら、これを裏切り、東軍の家康の勝利に貢献した人物である。合戦後、秀秋は西軍に属した宇喜多秀家の旧封地備前岡山に移され、博多には黒田長政がやって来た。だが、宗室はこの政治の流れに乗ることができなかった。

 宗室は1610年、神屋家からの養嗣子である徳左衛門に宛てて遺訓を書いている。これは、現存する商家の遺訓の中で最も古いものの一つとされている。その第4条には次のようにある。
 四十までハ、いささかの事も、ゑよう(栄耀)なる事無用候。惣而我ぶんざい(分際)より過たる心もち・身持、一段悪事候。併(しかしながら)商事・れうそく(料足)まうけ候事ハ、人にもおとらぬやうにかせぎ候ずる専用候。それさへ以、唐・南蛮にて人のまうけたるをうら山敷おもひ、過分に艮(銀)子共やり、第一船をしたて、唐・南蛮にやり候事、中々生中のきらい事たるべく候。
 宗室は、「明や南蛮との貿易で他人が儲けたことをうらやましく思い、過剰に銀を投資して一級品の船を仕立て、中国や南蛮に遣わすことは、あまり好ましいことではない」と、リスクが大きい投資をけん制している。

 この投資は「投銀(なげかね)」と呼ばれる、船に対する投資である。ただ、投資と言っても、例えば後の海上保険制度のようにリスク分散の仕組みが組み込まれていたわけではない。豪商などの貸主が、外国船貿易を企図している借主に銀を貸すという、非常に単純な貸付である。借主の船が無事に往復渡海に成功すれば、貸主は借主が貿易によって得た利益から元本と利息を回収する。もちろん、この利率は渡海のリスクに応じて非常に高く設定されている。しかし、途中で船が難破すれば、貸主は全てのリスクを負担する。

 そのようなハイリスク・ハイリターンの金融業に手を出すのではなく、商売の基本である”モノを売る”という行為に集中せよ、というのが宗室の意図であったに違いない。ところが、本書によれば、子の徳左衛門と孫の権平は外国貿易船にしばしば投資しており、『島井文書』には投銀の証文が数多く残されているという。

 政治の中心が江戸に移り、博多が要所としての機能を失うと、島井家の事業は勢いを止められてしまったのだろう。焦りを感じた徳左衛門や権平は、宗室の遺訓に背き、リスクが高い投銀に手を染めたのではないだろうか?本業の屋台骨が揺らぐと、危ない金融業に手を出したくなるのは、いつの時代も同じなのかもしれない。また、どんなに立派な行動規範を定めたとしても、それを代々受け継いでいくことは至難の業であることをうかがわせるエピソードでもある。

2013年10月21日

童門冬二『鈴木正三 武将から禅僧へ』―自由を追求した禅僧が直面した3つの壁


鈴木正三 武将から禅僧へ鈴木正三 武将から禅僧へ
童門 冬二

河出書房新社 2009-06-13
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 経営コンサルタントの佐々木直氏が”古典や賢人から学ぶ経営学”というのを整理していると知って大いに興味を持ち、同氏の著書を一気読みしてみた。そして今は、著書の中で紹介されていた歴史上の人物や現代の賢人に関する書籍をまとめ買いして、1冊ずつ読み進めているところ。まずは江戸時代の禅僧・鈴木正三から。

「古典」経営論―21世紀の帝王学「古典」経営論―21世紀の帝王学
佐々木 直

中央経済社 2004-02

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 佐々木直氏の著書『「古典」経営論―21世紀の帝王学』の中で、鈴木正三は商人の心得を説いた人物として紹介されている。
 徳川家康に仕えた旗本で後に出家した鈴木正三は、1661年に「売買せん人は、まず得利をなすべき心づかいを修行すべし」と述べている点で注目されます。得利、すなわち営利に専念することを、宗教的にも、道徳的にも認めて、その営利のあり方を取り上げ、利益が多くなるような心づかいを修行せよと主張したのです。いわば、経営理念の確立を求めたわけです。

 鈴木正三のいう「得利をなすべき心づかい」は、正直の徳を尊ぶことにほかなりません。「商人は、一筋に正直の道を学ばなければならない。正直一筋の経営に徹するならば、神明の加護を受けて繁栄し、利益も多くなるに違いないが、目先の利益に目がくらんで、人を出し抜いたりすれば天のたたりがある」と説いています。
 童門冬二氏の『鈴木正三 武将から禅僧へ』によると、正三は自身の著書『万民徳用』の中で、江戸時代の身分制について次のように説いたという。
 当時儒教からきた身分制によって、商人は社会的最下位に位置づけられていた。しかし正三は、「士農工商すべて天の命じた職である」と唱え、とくに商人については、「欲しくてもそれが生産できない地域へ、できる地域から運んでいく商人はまさにホトケの心の代行者である」と励ました。
 つまり、士農工商の間に貴賤を設けず、それぞれの職業に仏が定めた役割があるとしたわけだ。中でも商人に関しては、彼らを金銭を貪る卑しい存在とみなす当時の風潮に対抗し、商人は「ホトケの心の代行者」であるがゆえに、全うな事業の見返りとしての利益は正当化されると喝破した。逆に、「ホトケの心の代行者」であるからこそ、商人は、
 「悪い品物をよいといって売りつけたり、欲しくてしかたがない品物を届けて暴利を貪ったりなどしてはならない」
と釘を刺している。

 正三は、「自由」の思想家であると言われ、本書でもそのように描写されている。だが、正三の言う自由とは、近代的な自由の概念に比べるとかなり限定的であったという印象が拭えない。前述の通り、江戸時代の身分制に対して一石を投じたのは確かに画期的だったかもしれない。しかし、結局は所与の封建的な枠組みを超えることができず、封建主義が打破されるには明治時代の到来を待たなければならなかった。正三の自由は、一言で言えば、「与えられた持ち場で頑張れ」ということであり、持ち場を変える自由にまでは至らなかった。これが1つ目の壁である。

 正三は、もともとは徳川家康に仕えた武将である。だが、1620年に突然”出家”を宣言した。正三が42歳の時である。武士としての力量を高く買っていた老中や番頭は慌てたが、時の将軍秀忠は出家を許可した。正三にとっては、武家諸法度、禁中並公家諸法度、諸宗諸本山諸法度などの法律によって社会が縛りつけられ、国民のあらゆる階層にそれぞれの職務分担と分限が設けられ、さらには天皇や公家からも政治の権限が奪われていくのが我慢ならなかったのだろう。正三が出家したのは、人工的規制社会への反抗として、精神の自由を求めるためであった。

 その正三が再び表舞台に戻ってくるのは、島原の乱(1637年~38年)の後である。幕府から天草の復興を任された鈴木重成の命で、正三も天草の地に立った。重成は正三の弟である。重成は荒廃した天草の環境整備と産業復興というハード面を、そして正三は天草に住む人々の精神的復興というソフト面を担当することになった。精神的復興とは、具体的には島原の乱の原因ともなった隠れキリシタンの撲滅である。彼らを仏教に改宗させることが正三の目標であった。

 正三は、幕府とは異なり、隠れキリシタンに対して強制的に改宗を迫ったりはしなかった。本書には、与兵衛という隠れキリシタンと繰り広げられた長い問答が登場する。正三は、与兵衛が大事に持っていた『ドチリナ・キリシタン』(キリシタンの教義の意味)という本を借りて、解らないことを1つ1つ与兵衛に質問した。それこそ、神(キリスト)と仏の違いは何なのか、という基本的なことから始まって、『ドチリナ・キリシタン』の内容を隅々まで理解しようと努めた。その上で、それでもキリスト教より仏教の方が優れていると証明するために、正三も教本を書くことにした。その名もずばり、『破吉利支丹』(キリスト教を破る)である。

 ここに2つ目の壁を感じずにはいられない。キリスト教を禁止する幕府の方針があったために、正三は内面の自由を認めるという道を選択することができなかった。仏教の教理でキリスト教を論破しようとする試みは、本当に自由の精神に立脚していると言えるだろうか?正三の説得に応じなかった与兵衛は、最終的に幕府の方針に従って処刑された。そして、この後も幕府は200年以上もの間、キリスト教の禁止を続けた。しかし、その禁止の論理は必ずしも筋が通ったものではない。明治時代に入って再びキリスト教が隆盛になると、キリスト教徒はその論理の脆弱性につけ込んで、明治政府さらには仏教界との間で深刻な対立を生むことになる。

 天草に来てから3年ほど経った頃、正三は一向に隠れキリシタンが減らないことに焦りを感じていた。そしてある日、天草を一度離れたいと重成に告げた。驚いた重成が理由を問うと、正三は、自分の目線が民と同じレベルにない、為政者側の目線でしか民を見ていないと答えた。ただし、正三は天草の復興を諦めてはいなかった。もっと修業を積んで、必ず戻ってくると約束した。

 自分の寺である恩真寺に戻った正三は、どうすれば天草から隠れキリシタンを一掃できるかを日々考えた。そして、たどり着いた答えが「仏政一致」であった。すなわち、仏教と政治を一致させ、国家権力で全国民を仏教徒に変える、という構想だ。徳川幕府中心主義に嫌気が差して出家したはずの正三が、今度は仏教を広めるために幕府の権力を利用しようというのである。権力からの自由を求めた正三は、ここで再び権力のもとに戻ってきてしまった。この第3の壁にぶち当たった時、正三は既に高齢すぎた。1655年、正三は天草に戻ることなく、77歳で生涯を閉じた。




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