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【うつ病の治し方】うつ病を治すために実践すべき簡単な「7つの習慣」
神崎繁『フーコー―他のように考え、そして生きるために』―「疎遠なるもの」に自己を変容させて到達する姿勢を経営学にも適用できるか?
『しなやかな交渉術(DHBR2016年5月号)』―「固定型」のアメリカ、「成長型」の日本、他

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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都豊島区を拠点に、東京23区で活動する中小企業診断士(コンサルタント・トレーナー)。ほとんど書評ブログ。たまにモノローグ。

 中長期的な研究分野は、
 ①日本の精神、歴史、伝統、文化に根差した戦略論を構築すること。
 ②高齢社会における新しいマネジメント(特に人材マネジメント)のあり方を確立すること。
 ③20世紀の日本企業の経営に大きな影響を与えたピーター・ドラッカーの著書を、21世紀という新しい時代の文脈の中で再解釈すること。
 ④日本人の精神の養分となっている中国古典を読み解き、21世紀の日本人が生きるための指針を導くこと。
 ⑤激動の多元的な国際社会の中で、日本のあるべき政治的ポジショニングを模索すること。

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 ブログタイトルに、oasisの往年の名曲『Whatever』を入れてみた。

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2018年04月11日

【うつ病の治し方】うつ病を治すために実践すべき簡単な「7つの習慣」


うつ病

 本ブログをお読みの方はご存知の通り、私は双極性障害Ⅱ型という精神疾患を患っている。先日、マライア・キャリーが告白して話題になった、あの病気のことである。双極性障害とは、躁状態(簡単に言えばハイテンションの状態)とうつ状態が交互に現れる障害である。躁状態の時は、本人もよもや自分が病気だとは思っていない。むしろ絶好調だと思っているので、医療機関にかかることがほとんどない。うつ状態になって初めて診療を受けるため、医師も当初はうつ病と診断してしまうことが多く、診断が難しい疾患である。私も最初の診断名はうつ病であったが、発症から4年ほど経って双極性障害という病名に変わった。

 うつ病は、十分な休息を取り、適切な治療を受ければ寛解する。だが、双極性障害は再発率が高く、うつ状態は90%の割合で再発すると言われている。マライア・キャリーも言っていたように、一生つき合っていかなければならない病気である。そこで今回は、うつ状態を少しでも早く脱するために必要な7つの習慣について書いてみたいと思う。双極性障害の患者が、うつ状態を脱するための方法について書いているため、正確に言えばうつ病の患者がうつ病を治すための方法とは必ずしも一致しないかもしれない。ただ、今回の記事がうつ病で苦労している方にとって、何かの参考になれば幸いである。また、この6年間で3回も入院した私がこんなことを言っても説得力に欠けると思われるだろうが、その点もどうかご容赦いただきたい。

 なお、これから述べる習慣の中には、食習慣は入っていない。うつ病の時に食べる/飲むとよいもの、食べる/飲むのを控えた方がよいものというのは一応ある。だが、ある人は「これを食べた/飲んだ方がよい」と言っているのに、別の人は「これは食べては/飲んではいけない」と言っていることがあり、どの情報を信用してよいのか私自身解らないことが多い。例えば、うつ病の人はコーヒーを飲まない方がよいとされる。カフェインの過剰摂取により、ストレスに反応するアドレナリンという脳内物質が放出されるためである。ところが、ある研究によると、コーヒーを入れる時の香りが脳内のα波を増やし、リラックス効果をもたらすと言う。

 万事こんな具合なので、個人的な見解を言えば、「食べたい/飲みたいものを口にすればよい」のではないかと思う。ただでさえうつ病で苦しい思いをしているのに、食べたい/飲みたいものまで我慢してしまったら、余計にストレスを感じてしまう。だから、食事に関してはあまり心配しなくてもよいというのが私の実感である。ただし、抗うつ薬の中には食欲を増進する作用があるものがあり、過食の傾向が表れることがあるため、この点だけは注意が必要である。

 ①思い切って人を頼ってみる
 うつ病になる人は責任感が強く、自分で何でもやらねばという義務感に駆られることが多い。だが、あなたの周りには頼りになる人がいくらでもいることに気づいてほしい。1人で全てを抱え込むのではなく、思い切って他人に任せてみる。あなたの普段の頑張りを見ている人は、あなたに何かあったら助けてあげたいと思っているものである。私も3回入院した時はいずれも、その時に抱えていた仕事を全て他の中小企業診断士に依頼した。迷惑だったかもしれないが、お願いした先生方は皆、クオリティの高い仕事をしてくださった。先日、診断士の会合に出席したところ、ある先生からは「谷藤先生に何かしてあげられることはないものかと皆言っていますよ」というありがたい言葉をいただいた。自分は1人ではないのだと実感することができた。

 また、障害者手帳を取得するための煩雑な手続きや、入院費の支援を家族にお願いしたこともある。家族はやはり頼りになる存在である。実は私は、義理の両親には病気のことを伝えてあったが、以前の記事「『致知』2018年3月号『天 我が材を生ずる 必ず用あり』―素直に「感謝」ができない私は人間的にまだまだ未熟」で書いたように、実の両親とは長く不仲であったため、病気のことを黙っていた。3月に入院した際(以前の記事「【精神科】閉鎖病棟とはどういうところか?【入院】」を参照)、意を決して実の両親に打ち明けたところ、たいそう驚かれたが、入院費を支援してくれることになった。この点では両親に本当に感謝している。「もっと早く教えてくれたら色々としてあげたのに」とも言ってくれた。この歳になって親の脛をかじるのは恥ずかしいかもしれないが、病気は一時的なものである。病気がよくなったら親孝行すればよい。

 ②大きな声で挨拶をする
 うつ病の人は失敗をひどく恐れる。そのためか、コミュニケーションが億劫になってしまうことが多い。「こんなことを言ったら自分は頭が悪いと思われるのではないか?」、「相手を傷つけてしまうのではないか?」と過剰に心配してしまう。すると、日常生活の中で他人と言葉を交わす機会が減少し、ますますうつ状態がひどくなるという悪循環に陥る。そこで、最低限のコミュニケーションとして、挨拶ぐらいはきちんとしたい。それも大きな声でするのがポイントである。挨拶は定型文であるから、失敗のしようがない。相手が挨拶を返してくれないという失敗はあるが、それは相手の問題であって、あなたには何の落ち度もない。

 3月に入院した時、私はできるだけ大きな声で挨拶するように心がけた。朝起きたら他の患者さんや看護師さんに「おはようございます」と言う。清掃担当の方が病室を掃除してくれたら「ありがとうございました」と言う。食事後に看護師さんが下膳しに来た際には「ごちそうさまでした」と言う。これだけでいい。それに、大きな声を出すと気分もスッキリとする。もちろん、①で書いたように、他人に何かをお願いする時には「よろしくお願いします」と言い、お願いごとをしてもらった時には「ありがとうございました」と言うことも欠かせない。②はあまりにもベタなことであるが、ベタなことでも恥ずかしがらずに行うことが大切である。

 ③朝起きたらカーテンと窓を開ける
 うつ病の人は朝が苦手である。あなたも朝になると気分がふさぎ込んだり、不安になったり、恐ろしくなったりすることだろう。だが、朝起きたら思い切ってカーテンと窓を開けるようにしてほしい。日光はうつ病を改善する効果がある。うつ病の人は、気分の安定や心のバランスに寄与する脳内物質であるセロトニン不足している。に日光を浴びると、脳内でセロトニンが分泌される。朝日光を浴びれば、寝起きの身体を覚醒させて、活動的な状態にしてくれる。

 それから、カーテンを開けて空気を入れ替えることも重要である。1日中締め切ったままの部屋の空気はどんよりと沈滞している。そんな空気の中で生活していれば、自ずと気持ちもどんよりとしてしまう。そこで、朝になったら朝の新鮮な空気を部屋に取り込む。すると、気分をリフレッシュすることができる。ただし、うつ病の大敵である雨の日には、無理してこれを行う必要はない。うつ病の人は几帳面な人が多いので、これをすると決めたら毎日それをしなければならないと思ってしまいがちである。だが、雨の日には日光は取り込めないし、窓を開けたらよどんだ湿り気のある空気が部屋に入り込んでしまう。この辺りは、ある程度いい加減でよい。

 ④背筋を伸ばし、前を向いて歩く
 精神科の病院に入院しても、手術などをするわけではなく、基本的には薬物療法のみであるから、日中ははっきり言って暇である。だから、3月に入院した病院では、患者さんがよくフロア内を散歩していた(閉鎖病棟であったため、フロア外には原則として出ることができない)。その様子を見て思ったのは、具合の悪そうな患者さんほど、うつむき加減でとぼとぼと歩いているということである。これでは余計に気分がふさぎ込んでしまう。歩く時は背筋をしゃんと伸ばし、しっかりと前を向いて、少し大股で歩くのがよい。堂々としていれば、自ずと気持ちも前向きになってくる。気持ちが姿勢を作るのか、姿勢が気持ちを作るのかという問題は、鶏が先か、卵が先かという問題である。ここでは姿勢が気持ちを作るという因果関係を信じてみようではないか。

 入院しておらず自宅で療養している場合、外出の機会がどうしても減ってしまう。その場合、自宅の周りを毎日5分でもよいから散歩する習慣をつけるとよい。特に、朝の散歩が有効である。③で述べたように、日光を浴びることによるプラスの効果が見込める上、朝一旦外に出てしまえば、1日中家に閉じこもっていようという気分が起きなくなる。朝の散歩は思考をクリアにするという効果もある。偉業を成し遂げた人の中には、朝の散歩を日課にしていた人が多い。例えば、哲学者のキルケゴールは「重要なアイデアの多くは朝の散歩の中で生まれた」と振り返っている。もっとも、雨の日には、無理に散歩をする必要はない。この点は③と同じである。

 ⑤決断しないという決断をする
 病気で療養している間にも、何か物事を決めなければいけないというケースに直面することがある。私の場合、入院中に「退院後の仕事をどうやって受注しようか?」、「もうフリーランスは辞めて一般企業に転職した方がよいのだろうか?」、「退院後は収入が下がるから、家賃の安い家に引っ越した方がよいのだろうか?」などといった問題が次々と襲ってきた。だが、うつ病の状態にある時は普段と比べて判断能力が鈍っているので、無理にこのような問題に結論を出さない方がよい。「決めない」ことを「決める」のも重要である。どうしても決める必要があるのであれば、①で書いたように、思い切って他人に決めさせればよい。

 一般の人でも、意思決定は十分な時間をかけて慎重に行うべきだと言われている。選択肢の数が十分に机の上に並んでいるのかを確認する、それぞれの選択肢が立脚している仮説が正しいかどうかちょっとしたテストをする(これを「ウーチング」と言う)、自分とは別の利害を持つ他者の立場に立ったとするとどのような決断をするか想像してみる、10分後・10時間後・10日後・10か月後・10年後にその決断を振り返った時に「後悔しない」と言い切れるかどうかよく考えるなど、アドバイスには事欠かない。これと同じことをうつ病の患者に求めるのはあまりにも酷である。だから、あなたも無理して意思決定をする必要はない。そして、たいていのことは、それほど急いで決める必要がないと後から気づくものである。

 ⑥できなかったことではなく、できたことに目を向ける
 うつ病になると、何をするにも気乗りがせず、仕事をするスピードが落ちたり、趣味に没頭できなくなったりする。うつ病の人は元々責任感が強く、几帳面で、頑張り屋であるから、できないことが増えてくると、以前の自分の姿とのギャップに苦しむ。そして、「自分には何も価値がない」、「もう死にたい」(「希死念慮」と言う)と思うようになる。だが、本当に1日中何もできなかった日というのは案外少ないものである。できない、できないと言いながら、何かしらのことはしている。それがたとえ些細なことであってもよい。そのできたことに着目することが重要である。あなたがもしここまでに書いてきた①~⑤のことをできたのであれば、できた自分を褒めてあげてほしい。今日この記事をここまで読んだことも、できたことに含めてよい。

 私が3月に入院する直前は、読書が困難になっていた。年明けから本が読めない兆候があったのだが、2月末にはとうとう全く読書ができなくなった。年間200冊以上を読むことを目標としている私にとっては、これは苦痛であった。入院の目的の1つは、休養してまた本を読めるようになることであった。とはいえ、いきなり今まで読んでいたような1冊200~300ページの本を読むのは無理である。そこで、たまたまデイルームに置いてあった『月刊PHP』という小冊子から読み始めた。これなら内容も簡単だし、1時間弱で読める。月刊PHPを何冊か読み切ったことが自信となって、入院生活中盤からは、今まで読んでいたような本を読むことができるようになった。

 ⑦日記をつける
 うつ病の人は、落ち込んだ気分を自分の中にため込んでしまう傾向がある。そういう場合には、以前の記事「DHBR2017年9月号『燃え尽きない働き方』―バーンアウトでうつになったら日記をつけてみよう」でも書いたように、日記をつけることをお勧めしたい。1日3行程度でよい。まずはその日の気分を書きなぐるだけでよい。極端な話をすれば、「死にたい、死にたい、死にたい、・・・」と書いてもよい。すると、不思議なことに自分のネガティブな気持ちが「外部化」され、落ち着きを取り戻すことができる。これを心理学では「ジャーナリング効果」と呼ぶそうだ。

 負の感情をありのままに書きだすと同時に、①~⑥で述べてきたような、「できたこと」も日記に書くとよい。そうすると「できたこと」が形になって残り、前向きな気持ちを取り戻すことができる。日記というのは不思議なもので、マイナスの内容を書けばそれを忘れることができる反面、プラスの内容を書けば記憶に残る。この日記の効用を活かして、あなたの頭の中をネガティブモードからポジティブモードに切り替えていくとよいと思う。


2018年01月05日

神崎繁『フーコー―他のように考え、そして生きるために』―「疎遠なるもの」に自己を変容させて到達する姿勢を経営学にも適用できるか?


フーコー―他のように考え、そして生きるために (シリーズ・哲学のエッセンス)フーコー―他のように考え、そして生きるために (シリーズ・哲学のエッセンス)
神崎 繁

日本放送出版協会 2006-03

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 最初にこの本を読んだ時は全く理解できなくて、別のフーコー入門書を2冊読んだ後にもう一度チャレンジしたのだが、やはり十分には理解できなかった。120ページぐらいの薄い本なのに、デカルト、カント、ヒューム、サルトル、ハイデガー、フッサール、ニーチェ、メルロ=ポンティ、デリダなど様々な哲学者が登場するため、予備知識に乏しい私にはハードルが高かった。それでも、私なりに整理できたことを記事にしてみたいと思う。

 《参考記事(ブログ別館)》
 重田園江『ミシェル・フーコー―近代を裏から読む』―近代の「規律」は啓蒙主義を介して全体主義と隣り合わせ
 中山元『フーコー入門』―「生―権力」は<悪い種>だけでなく<よい種>も抹殺してしまう

 我々が外界の事物をどのように認識するかについて、哲学者がどう考えたかについて見ていきたい。まずはデカルトである。デカルトは方法的懐疑という手法を用いて、あらゆる認識を疑った。そして、疑っているという自分が存在することだけは疑いようのない事実であることから、かの有名な「われ思う、ゆえにわれあり」という言葉を導き出した。

 デカルトは啓蒙主義の先駆けである。啓蒙主義とは、端的に言えば理性を絶対視する立場であり、先ほどのデカルトの言葉はこれをよく表している。その理性に対して、外界の事物はストレートに飛び込んでくる。理性が事物を表象する時、理性の中に埋め込まれた観念を組み合わせてイメージを形成する。逆に言えば、あらゆる事物は必ずいくつかの基本的な観念に分解できるということである(要素還元主義)。ここで、あらゆる事物の原因となる基本的な観念はどこから来たのかという問題が生じるが、デカルトはそれは神が仕込んだのだと答える。これがデカルトによる神の存在証明である。神がインプットした観念を組み合わせて表象するのだから、誰が(どの理性が)事物を表象しても、必ず同じようにイメージされる(以前の記事「斎藤慶典『デカルト―「われ思う」のは誰か』―デカルトに「全体主義」の香りを感じる」を参照)。

 デカルトの哲学が経験主義を下地とした唯物論であるのに対し、カントの立場は観念論と呼ばれる。デカルトは理性を絶対視したが、カントは経験や理性の限界を認める。デカルトにおいては、事物の無限な観念を人間の理性が持つことの根拠として神の存在が前提とされた。他方、カントにおいては、一方で理性が自らの経験の限界を設定することで自ら従うべき法則を課す自律性を確保しながら、同時にそうした経験を可能にする根拠を自らのうちに持つ必要が生じた。デカルトは認識の主体である身体や感覚まで方法的懐疑によって退けてしまったが、カントは認識の主体である人間を必要とした。そしてこの人間は、事象を見るのと同時に、自分自身を見ている。ただ、限定された理性が対象を見ていると同時に、自分自身も見られているという時の表象が各人にとってどんなものなのか、私もこの文章を書きながらよく理解できていない(汗)。

 デカルトもカントも、外界の事物が理性に飛び込んでくるという点では共通していたが、フッサールはこれとは異なる見解を示した。フッサールは、理性の方が外界の事物に向かって働きかけるというもう1つの矢印を想定した。フッサールは文の成立過程について考察を行っている。例えば私がペンを見た時、まずは「知覚の志向性」が働く。ペンの一部を見て、おそらくこれはペンであろうという認識を持つ(この段階ではまだ文にはなっていない)。部分的な経験から事物全体へと向かうことを可能にするものを、フッサールは「質料」と呼ぶ。次に、「これはペンである(これはペンであれかし)」という「信念の志向性」が現れる。そして最後に、「これはペンである」という文が発せられる(以前の記事「門脇俊介『フッサール―心は世界にどうつながっているのか』―フレーゲとフッサールの違いを中心に」を参照)。

 外界の事物がストレートに理性に飛び込んでくるという点をもっと深く掘り下げたのがメルロ=ポンティとサルトルである。メルロ=ポンティは、外界の世界も意味を持ち、それを再分配するのだと言う。ある時、私が森の中を通って海岸まで通じる道を歩いていたとする。私の周りの木々はどれも真っ直ぐに伸びている。だが、遠方に1本だけ、幹が斜めになり、葉の色が変色しているように見える木がある。おそらく枯れ木だろうと私は考える。しかし、私が海岸に近づくにつれて、枯れ木のように見えていたものが、実は随分昔に座礁した難破船であることが解った。

 通常は、私が最初に難破船を枯れ木と見間違ったのは、私の記憶の中に、私が今まで見てきた枯れ木の映像があり、私が見たものがそれと合致したからだと考える。その見解を改めたのは、私が海岸に近づくにつれ、船のマストらしきものが見え、幹に見えたものが船の先端であったことに気づいたからである。こうして部分的な情報を総合した結果、枯れ木に見えたものが実は難破船だったと判断することになる。ところが、メルロ=ポンティはここで「ゲシュタルト」の概念を持ち出す。ゲシュタルトにおいては、全体は要素の総和ではなく、むしろ各要素の感覚的な値自体が、全体におけるその機能によって規定されており、また、その機能とともに変化する。

 私が枯れ木から難破船へと認識を改めるのは、部分の知覚が総合へと至るからではない。個々の部分が連合され、全体の意味が再構築されるのではない。風景の全体が変容することで、部分の知覚が意味を変える。全体から部分へと意味が再分配されて、全体の意味とともに部分の意味が共変する。連合ではなく、配分が問題なのであり、ここにおいて「世界の相貌」が一変する。これを私なりに解釈すれば、私が風景に対して意味を与えるのではなく、風景自体が全体として意味を持っており、それが時に応じて部分に対して意味を再分配する、ということである。そして、メルロ=ポンティは、意味が流れ出る現場に立ち会う必要があると述べている(以前の記事「熊野純彦『メルロ=ポンティ―哲学者は詩人でありうるか?』―意味は「感覚されるもの」と「感覚する者」の「交流」によって生まれる」を参照)。

 サルトルは、「眼差し」について考察を行っている。他者への眼差しは、その他者を対象化することによって、本来それ自体も「対自存在」、つまり意識的存在として自由なあり方をしているはずの他者を「即自存在」、すなわち事物と変わらない扱いをすることになる。だが、このことは翻って自己自身にも現に生じていることであり、眺めているということは、眺められているということを意味する。こうして、サルトルは、自己の自由というあり方が、他者の眼差しによって不意打ちを受けて逆転することから生じる疎外感や羞恥心を、自己の本質的構成要件と考える。つまり、自己は本質的に「対他存在」である(サルトルの主張も私はまだよく理解できていない)。

 さて、理性との関係でもう1つ問題になるのが、感情の位置づけである。伝統的なストア派は、理性と感情は対立しないという立場をとった。フーコーは(ここでやっとフーコーが出てきた)、デカルトが理性から狂気を排除していると指摘する。だが、デリダは逆に、デカルトは理性から狂気を排除していないと主張をしており、2人の間で論争が繰り広げられている。デカルトにおける感情の扱いが揺れるのは、『情念論』では理性と感情が両立するかのように書かれているのに対し、『省察』では理性から感情が排除されているかのように記述されているためである。

 フーコーは、死、狂気、逸脱、異常といった限界概念を経験の基点とした。自らに疎遠なものに敢えて挑んで自らのものとする、しかも自らを変えずに疎遠なるものを同化するのではなく、自らの変容を通じて、どこまで到達し得るかという限界を見極めようとした哲学者であった。

 私は、経営学やビジネスの現場で用いられる理論が、近代哲学を後追いしていると感じる時がある。例えば、ロジカルシンキングでお馴染みのMECE(Mutually Exclusive and Collectively Exhaustive:漏れなく、ダブりなく)とは、ニュートンやデカルトの言う要素還元主義のことである。カリスマ的な強いリーダーシップによって組織の価値観を統一し、変革を進めるという手法は、唯物論的な世界観を前提としている。また、意思決定の局面においては、まずは考え得る選択肢を全て洗い出し、冷静に時間をかけて検討を行えば必ず最善の解に行き着くと信じられているが、これはまさに啓蒙主義時代の代表的な考え方そのものである。

 しかし、社会は企業活動だけで成立しているわけではない。企業活動の上には政治が乗っている。そして、政治とは権謀術数の世界である。そこでは褒め殺し、誘惑、媚び諂い、威嚇、恫喝、脅迫、取引などが日々行われている。啓蒙主義が理想とした世界からはほど遠く、とても合理的な意思決定が行われているとは思えない。こうした政治の世界については、マーティ・リンスキー、ロナルド・A・ハイフェッツの『最前線のリーダーシップ』(ファーストプレス、2007年)が詳しい。また、以前には、公務員改革をめぐって「長谷川幸洋『官僚との死闘700日』―抵抗勢力の常套手段10(その1~3)(その4~7)(その8~10)」という記事を書いたこともある。

最前線のリーダーシップ最前線のリーダーシップ
マーティ・リンスキー ロナルド・A・ハイフェッツ 竹中 平蔵

ファーストプレス 2007-11-08

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 政治の世界とは、人間精神の異常が前面に出てくる世界である。啓蒙主義者は認めたくないだろうが、政治の世界がこのように混乱していても、国家は何とか回っている。ということは、啓蒙主義者が考える合理的な意思決定よりも、現実の政治的な意思決定の方が本質に近いのかもしれない。そして、こうした政治世界の傾向は、企業活動にも及びつつあると感じる。従来の企業活動は経済的、量的であったため、近代的な算術で処理することができた。だが、これからの企業は社会的ニーズと多様なステークホルダーに対応する質的な経営が求められる。換言すれば、企業活動が政治化する。ということは、フーコーのように異常からアプローチする必要が生じるに違いない。ここにおいて経営学は、現代哲学に追いつく。これは一見受け入れがたいことだが、我々は「イノベーションは辺境から生じる」というあの格言をここで思い出す必要がある。


2016年05月02日

『しなやかな交渉術(DHBR2016年5月号)』―「固定型」のアメリカ、「成長型」の日本、他


DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー 2016年5月号 [雑誌]DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー 2016年5月号 [雑誌]
ダイヤモンド社 DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー編集部

ダイヤモンド社 2016-04-09

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 (1)
 一般に、強い怒りを示したペアほど交渉が思わしくない結果―たとえば訴訟や膠着状態(決裂)―に終わることが多い。(中略)交渉に怒りを持ち込むのはプロセスに爆弾を投げ込むようなもので、結果に多大な影響を与える傾向があるということだ。
(アリソン・ウッド・ブルックス「喜怒哀楽の巧みな表現を力に変える 交渉を有利に運ぶ6つの感情の見せ方」)
 随分前の旧ブログの記事「果たして意思決定に感情は不要なのか?」で、意思決定の際には「冷静さ」という感情が必要であると書いた。逆に言えば、怒りのようなそれ以外の感情は、認知を歪め、冷静な意思決定を阻害する。この点は、特に日本人にとって重要だと思う。

 アメリカ人やフランス人は、交渉の段階で感情的になり、相手を口汚い言葉で批判することがある。だが、彼らが批判するのは相手が言っている内容のことであって、相手そのものではない。つまり、論理と感情を切り離している。だから、交渉がまとまれば、今までの喧嘩モードが嘘のように相手と握手を交わし、ハグもする(ちなみに、ドイツ人やデンマーク人は、冷静かつストレートに相手の発言を批判するらしい。この流儀に慣れていない人は、土足でずけずけと踏み込まれたような気分になり狼狽する。だが、彼らにとってそれは普通の対応であり、悪気はない)。

 日本人は論理と感情を切り離すことがあまり上手ではない。そのため、交渉の途中で感情的になると、つい相手の性格そのものを否定するような発言をしてしまうことがある(ある有名な上場企業に勤める友人から聞いた話によると、その社長は役員会議で他の役員のことを「バカ」とか「焼け死ね」などと平気で面罵するらしい)。最近問題になっているヘイトスピーチも、特定集団に対する人格攻撃である。そういう攻撃を食らった人が、その後も前向きな気持ちで交渉を続けてくれるとは到底思えない。日本人は感情の扱いにとりわけ注意する必要がある。

 ただ、本号には次のような記述もあった。国際的な人権NGOであるヒューマン・ライツ・ウォッチ(HRW)の日本代表を務める土井香苗氏のインタビュー記事である。
 嫌われたくない、敵を増やしたくないというのは人間の自然な感情なのでしょうが、時には悪役になって正論を言い続けなければならない。いまの状況を打破しなければ前に進めないならばそうすべきです。
(土井香苗「【インタビュー】非政府組織・非営利組織の交渉術 正論こそ最強の武器である」)
 土井氏は、例えば養護施設に多くの子どもが預けられている問題を取り上げて、「施設を維持することで利益を得ている人がいるからではないか」などと官僚に対して正論を言うそうだ。正論を言う土井氏自身は努めて冷静なのかもしれないが、正論を言われた方はいい気がしない。むしろ、怒りの感情が湧いてくるだろう。そうすると、交渉にマイナスの影響を及ぼしそうである。冒頭の引用文と土井氏の発言の違いはどのように解釈すればよいだろうか?

 私なりに考えてみた結果は次の通りである。相手が交渉のテーブルに着いてくれた後は、感情、特に怒りをコントロールし、お互いに冷静な判断ができるようにしなければならない。しかし、相手が交渉のテーブルに着く前、とりわけ、交渉のテーブルに着く必要がないと考えているケースでは、わざと相手の怒りを刺激するのも一手である。もちろん、相手がへそを曲げて交渉を拒否してしまうリスクはある。しかし、相手が「何を言ってくれるんだ!?」と振り向いてくれたら、こちらの目論見は成功である。土井氏は、正論の効果について次のように述べている。
 それに誰かが悪役になることで、同じ目的を持った他の誰かが動きやすくなることがあります。たとえば、世論を喚起して、そのプレッシャーで政府を動かすところまでは私たちがやって、関係者のコンセンサスづくりに入る段階になったら、悪役の私たちは後ろに下がる。他のNGO団体などに現実的な交渉役になってもらい、合意形成まで持っていく。悪役が際立っているほど、後から出てきた交渉役はみんなの合意を得やすくなるからです。
 (2)
 心理学者であるキャロル・ドゥエックは、「固定型」と「成長型」という、人生に対処する2つの基本的な思考を特定した。「固定型」思考を持つ者は、知性と才能を概して生まれつきのものと考える。人は生まれつき知性と才能を持っているかいないかのどちらかだというのである。(中略)

 対照的に、「成長型」思考を持つ者は、挑戦課題と学習の機会を探し求める。彼らは、どれほど優れた者でも努力と訓練によってさらに向上すると考える。失敗を無能の証とは見なさず、すすんでリスクを取る。
(フランチェスカ・ジーノ、ブラッドレイ・スターツ「4つのバイアスが人の行動を型にはめる なぜ「学習する組織」に変われないのか」)
 またしても私の勝手な思い込みかもしれないが(いつものことか・・・)、キリスト教圏、とりわけアメリカは「固定型」が支配する社会であると考えられる。それぞれの人間の使命は唯一絶対の神が決めている。その使命を達成するのに必要な知識と能力を内包した状態で、人間はこの世に誕生する。人生とは、その知識や能力が発露する過程である。

 アメリカ人は、生まれたばかりの段階では、自分の持つ特別な知識や能力が何であるかを知らない。それを知るためには、神を強く信じるしかない。アメリカ人は、毎週日曜日になると教会に通い、私に課せられた使命とは何かを神に問う。テレビで流れるキリスト教の番組に耳を傾けて、自己啓発の参考にする。こうした祈りを通じて、アメリカ人は「私の使命はこれだ」と標的を定める。そして、その使命を全うすることを神と約束する。これが「契約」である。

 ただし、その契約が正しいかどうかは、実は神しか知らない。神は、その人に与えた使命と、その人が自覚した使命が違っていても、何らアドバイスしない。そのため、神と正しい契約を結べるアメリカ人は、ごく一部に限られる。正しい契約に到達した一握りのアメリカ人だけが、生来的に備わっている知識と能力をいかんなく発揮し、強いリーダーシップで強烈なイノベーションを実現する。神との契約を正しく履行し、使命を達成することを、アメリカ人は「自己実現」と呼ぶ。自己実現できなかったその他大勢のアメリカ人との間には、極めて大きな経済格差が生じる。


 《2016年9月3日追記》
 引用文にあるように、「固定型」においては、人は生まれつき知性と才能を持っているかいないかのどちらかだとされる。この傾向は、とりわけアメリカで強いように思える。アメリカでは、とてつもない天才が現れる一方で、能力が低い者も結構多い。私が好きな野球の話で恐縮だが、MLBには日本人では絶対真似できないスーパープレイヤーがいると思いきや、「こんな守備で本当にプロなのか?」と言いたくなるような選手もいる。アメリカは平等社会と言われるものの、実際には平等社会ではない。平等であるのは、神によって選ばれた者の間においてのみである。

 石角友愛『才能の見つけ方 天才の育て方』(文藝春秋、2016年)に興味深いデータが紹介されていた。IQテストで全人口の上位2%以内のスコアを出した人のみが加入できる非営利団体「メンサー・インターナショナル」という世界組織がある。各国のメンバーを見ると、1位はアメリカの5万人である。2位はイギリスで2万2700人、3位はドイツで1万2500人と続く。日本は12位で1250人にとどまる。もちろん、同組織に所属しない高IQの人たちもいるから断定することはできないが、アメリカは他国に比べて天才が多い傾向がありそうである。


才能の見つけ方 天才の育て方才能の見つけ方 天才の育て方
石角 友愛

文藝春秋 2016-06-29

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 一方の日本人は、「成長型」の社会である。日本人はアメリカ人と違い、生まれた時には何の知識や能力も持っていない。この点で、日本人はアメリカ人に対して劣等感がある。しかし、逆説的だが、劣等感があるからこそ、何者にもなれる可能性を秘めている(以前の記事「『未来をひらく(『致知』2015年2月号)』―日本人を奮い立たせるのは「劣等感」と「永遠に遠ざかるゴール」」を参照)。本号でユーグレナ代表取締役社長の出雲充氏が興味深いことを述べていた。
 私はそもそも、個人差によるスキルや効率が物事の成否を分けるという考え方にはとても懐疑的である。微生物の研究を通して、そう考えるに至った。人間は一般に23対の染色体を持ち、それは約30億の塩基で構成されている。そして塩基の99.9%以上が一致しているからこそ、身長が10メートルの人もいなければ、10センチメートルの人も存在しない。生物学のレベルで見れば、人間がやることに大きな違いなどなく、それは交渉力についても変わらないのだ。
(出雲充「ベンチャー企業に成功の近道などない 未知の価値を売り込む「ゼロ・トゥ・ワン」の交渉術」)
 アメリカ企業はスペシャリスト育成を重視する(最近は、取締役にも専門性を求める声が高まっているようだ)のに対し、日本企業はゼネラリスト育成に注力してきた。アメリカ企業がスペシャリストを重視するのは、前述のように、その人にはその人特有の知識や能力が生来的に備わっているという考え方と無縁ではないだろう。一方、日本企業は、あらゆる社員に対して定期的にジョブローテーションを行い、様々な仕事を担当させる。これは、日本人は最初こそ何もできないものの、十分な経験をさせれば、多様な能力を習得できると信じているからである。

 日本人は非常に長い時間をかけて学習を続ける。その結果、ある程度の適材適所は生じるだろうが、出雲氏の言葉に従えば、年齢を重ねた人でも能力にはそれほど大きな差が生じないことになる。最近、私は年功的な賃金体系を支持している(以前の記事「坂本光司『日本でいちばん大切にしたい会社2』―給与・採用に関する2つの提言案(後半)」を参照)。これは、給与が能力や成果に対する見返りではなく、社員の生活費をカバーするものであるという考えに立脚したものである。しかし、仮に多くの社員の能力が同じように年々高まり続けるのであれば、年功制が能力や成果に対する見返りであると位置づけても十分に話が成立すると考えられる。

 (もちろんこれは、社員が長期間学習を継続することが前提である。学習の意欲を失った社員には厳しい態度で臨むべきだ。私が支持するのは年功制であって、終身雇用ではない)

 日本人の学習は非常に長いマラソンである。ということは、途中で数年程度のブランクが生じたとしても、後から挽回できるチャンスが十分にあることを意味する。日本企業は、大学卒業後にブランクのある若者、就職難で大学卒業後しばらくは非正規社員として働いた人、子育てのために数年間離職した女性、親の介護のために一時的に休職した社員を正社員として採用することに消極的である。ブランクなどがあると、能力がリセットされると考えてしまう。実際にはそれは誤解であり、数年程度で能力に大きな差は生じないと、人事部は認識を改める必要がある。

 企業は、一時的に離職した人も積極的に正社員として迎え入れ、原則として同年代の社員と同じ仕事を担当させるべきだ(給与も同年代の人と同じとする)。それではどうしても不安だと人事部が思うならば、まずは3歳ほど下の社員と同じ仕事をさせる(給与もその分下げる)。そして、本人が努力して遅れを挽回できたら元のレールに戻す、といった運用をするとよい。



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