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『正論』2018年10月号『三選の意義/日本の領土』―3選した安倍総裁があと2年で取り組むべき7つの課題(2)
『世界』2018年6月号『メディア―忖度か対峙か』―日本には西洋の社会契約説も自由・平等の考え方もあてはまらない
『魂を伝承する(『致知』2014年11月号)』―愛国心とは愛憎ないまぜの感情

プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

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2018年09月25日

『正論』2018年10月号『三選の意義/日本の領土』―3選した安倍総裁があと2年で取り組むべき7つの課題(2)


月刊正論 2018年 10月号 [雑誌]月刊正論 2018年 10月号 [雑誌]
正論編集部

日本工業新聞社 2018-09-01

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 (前回の続き)

 (4)医療・介護費の抑制につながる働き方改革
 財務省は、高齢者数の増大により、現在の年金・医療・介護のサービス水準を維持するだけでも、税金投入を毎年1兆円以上増加させる必要があると指摘している。2017年の社会保障給付費(年金、医療、介護、福祉などの合計)は120.4兆円であり、そのうち約38%にあたる46.3兆円が税金で賄われている。私は社会保障制度については全くの素人なので、どのような制度設計が望ましいのかについて述べることはできない。年金に関しては、国が(金額はどうであれ)一定の年齢になったら国民に支払うことを約束しているものであるから、給付額を減らすには制度自体を変えるしかない。だが、医療費と介護費に関しては、制度の変更に頼らなくても、税負担を減らすことは可能なのではないかと考える。

 現在、65歳以上でも働いている人は増加しているし、元気なうちは働きたいと考える高齢者も多い。安倍首相は本号の中で、「半世紀前、65歳以上の高齢者の就業率は33%を超えていました。しかし、今、足元で上昇しているものの、23%になっています」と述べている(安倍晋三「憲法改正案 提出宣言 新聞が報じきれなかったその”全て”」)。厚生労働省「2040年を展望した社会保障改革についての国民的な議論の必要性」によると、都道府県ごとの65歳以上就業率と年齢調整後1人あたり医療・介護費との間には負の相関があるとされている。つまり、65歳以上の就業率が上がると、医療・介護費が下がることを意味する。

 2016年のデータを見ると、65~69歳の高齢者の就業率は、男性が53.0%、女性が33.3%となっている。ただし、これ以上の年齢になると、就業率がガクッと下がる。70歳以上の男性の就業率は19.9%、女性の就業率は9.2%にとどまる(総務省統計局「統計トピックスNo.103 統計からみた我が国の高齢者(65歳以上)―「敬老の日」にちなんで―」より)。また、男性の場合、非正規雇用の比率は55~59歳で12.8%であるが、60~64歳で53.6%、65~69歳で72.1%と、60歳を境に大幅に上昇する。女性の場合、同比率は55~59歳で60.2%、60~64歳で76.0%、65~69歳で81.5%となっており、男性と比較して上昇幅は小さいものの、やはり60歳を境に非正規雇用比率は上昇している(内閣府「平成29年版高齢社会白書(全体版)」より)。

 就業率が上がれば医療・介護費が下がるからと言って、高齢者をコンビニや飲食店、警備などのアルバイトに就ければよいというわけではない(もちろん、そういう高齢者の存在を否定する意図はない)。高齢者であっても正社員として働き、年齢が上がっても、加齢に伴い増加が予想される医療・介護費を十分にカバーできるだけの給与の上昇が期待でき、仮に年金制度が破綻しても給与だけで食べていけるような企業を作るべきだと考える。そうすれば、就業率上昇という言葉が質的に意味を持ち、医療・介護費が抑制されて、税負担も軽減されるに違いない。また、医療・介護費が抑制されれば、企業も賃金カーブをもっと緩やかにすることができる。

 以前の記事「平井謙一『これからの人事評価と基準―絶対評価・業績成果の重視』―「7割は課長になれない」ことを示す残酷な1枚の絵」でも書いたが、私は年功制は支持するものの、終身雇用は支持していない。終身雇用は高度経済成長時代においても実は維持不能だったのに、この低成長時代では絶対に実現することはできない。だから、大部分の企業においては、40代ぐらいのミドルは1回目の転職・起業を経験する。60代ぐらいまでは次の企業で働くことができても、やがて成長の限界が来て、2回目の転職・起業を経験する。そして、働けるうちは働き続け、70代、80代になっても働く。これが私の考える超高齢社会の未来形である。記事の中でも示したように、将来の日本には3タイプのピラミッドが併存すると予想する。ニュータイプのピラミッド組織が、(3)で示したイノベーションの担い手になることができれば最高である。

 働き方改革も、女性ばかりに焦点を当てるのではなく、ミドル・シニアも視野に入れ、社会保障と関連づけて議論されることを望んでいる。どうすればミドル・シニア人材の起業・転職を促進することができるか?親の介護や自身の疾病のために仕事を一時的に離れる可能性があるミドル・シニア人材が正社員として働き続けられるようにするには、どのような保障制度を用意すればよいか?ミドル・シニアといった高人件費社員を中心とする企業がビジネスとして成り立つために、国としてその企業の戦略構想をどのように後押しすればよいのか?高齢者の正社員としての就業率を高めると、医療・介護費の増加はどの程度に収まるのか?その結果、国民の税負担増はどの程度抑えられるのか?こういった点について議論してもらいたい。

 (5)愛国心・道徳教育の見直し
 安倍政権の大きな実績の1つとして、教育制度改革がある。学習指導要領で愛国心が教えられていることが多方面(特に左派)から批判されている。私も、「学校で愛国心を教える」ことには違和感を覚える。第三者が「好きになってほしいもの」を特定して、「これを好きになれ」と強要したところで、強要された側は本当にそれを心の底から好きになるだろうか?

 国民に愛国心を植えつける方法は、実は非常に簡単である。以前の記事「『魂を伝承する(『致知』2014年11月号)』―愛国心とは愛憎ないまぜの感情」でも書いたが、①神話、②選民意識、③トラウマ、この3つを教えればよい。中国や韓国で行われている愛国心教育はまさにこれである。ただし、この愛国心教育が成り立つためには、1つの条件がある。それは「神話、選民意識、トラウマを形成するストーリーに反する事実が発表されても、それを完全に抹殺するだけの完璧な情報統制が取れていること」である。日本は情報統制が非常に緩い。安倍首相はメディアを通じて政権批判をしないようにと新聞・テレビ局各社に要請したと言われるが、マスコミは相も変わらず政権批判を繰り広げている。日本はその程度の情報統制しかできない国である。だから、日本でこの手の愛国心教育を行うことはまず不可能である。

 それを解っていたのか、安倍首相は別のアプローチを取った。「自然の美しさ、歴史上の偉業、道徳的な価値観などを教えれば愛国心が育つはずだ」と考えたわけである。これはつまり、愛国心を構成する要素を分解し、それを1つずつ教えれば愛国心が育つという発想である。しかし、デカルトの要素還元主義を想起させるやり方で、なんとも古臭いと感じる。それに、愛というのは多様な要素に対する肯定的な評価と否定的な評価が織り交ざった結果としての総合評価として導かれるものである。日本には様々な自然、環境、伝統、文化、慣習、歴史、宗教、社会、共同体、製品・サービス、技術、企業、組織、人材、社会制度などがある(これ以外にもたくさんある)。そのうち、教育の現場で取り上げられるのはほんのわずかにすぎない。

 教育の現場以外の圧倒的な生活空間の中で、国民がこれらの諸要素に触れ、それらをその人なりに評価した結果、「日本にはこういうよくないところもあるが、総じてここが素晴らしい」と感じるのが愛国心である。100人いれば100通りの愛国心があってよい。国家が愛国心を形成できるなどというのは幻想である。私は、日本には多くの課題があるとはいえ、有形・無形の豊富な資源があり、何かしらの視点で見れば、大部分の人はそれを自ずと好きになると信じている。愛国心教育については、安倍首相に見直してもらいたいところである。

 道徳教育についても、私は否定的である。以前の記事「『世界』2018年6月号『メディア―忖度か対峙か』―日本には西洋の社会契約説も自由・平等の考え方もあてはまらない」で、中村学園大学の占部賢志教授は、道徳は単独では教えられず、理科や国語など既存の科目の中で教えることが可能であると主張していることを紹介した。道徳とは、人と人とがお互いに依存し合いながら生きる社会において、社会の存在意義と個人の欲求を調和させるために、どのようなルール・価値観に従うべきかを教えてくれるものである。その点で、道徳とは、以前の記事「フレデリック・ラルー『ティール組織―マネジメントの常識を覆す次世代型組織の出現』―ティール組織をめぐる5つの論点(2)」で述べた「人間学」のことである。

 上記の記事でも書いたが、「他人を殺してはならない」というごく一部の価値観を除いて、絶対的な価値観というものは存在しない。絶対的な価値観は破壊的な全体主義を招く恐れがある。ある価値観が成り立つ時、それとは別の価値観が成り立つことが多い。かつて、道徳の教科書にパン屋が描かれていた点について、「日本の食文化を教えていない」というつまらない批判が向けられたことがあった。批判した人は、「日本の食文化とはこういうものだ」という何かしらの価値観を持っていたのだろう。しかし、別の見方をすると、「日本人には海外のよいものを摂取して既存文化に接合させる柔軟さがある」という価値観があるとも言える。このように、価値観は多様性を持っている。だから、現在行われているように、生徒が特定の価値観について理解したか否かを1つずつ個別に評価する方法は不適切であると言わざるを得ない。

 また、前掲の記事でも書いたように、価値観は単独で機能するものではない。当事者が長い時間をかけて様々な出来事を経験する中で習得された複数の価値観が複雑に絡み合って一種の「価値観システム」が形成される。その価値観システムには矛盾がないことが望ましく、価値観システムと合致した生活を送ること、また価値観システムと合致した組織を構成することが、人間学に従った生き方となる。この点でも、現在の道徳の成績評価方法は底が浅い。もちろん、教育現場で道徳を学習する意義は十分にあると私も考えている。だが、教育現場で触れることのできる道徳はごく一部であり、また道徳を習得する方法のさわりの部分を学習するにすぎないのであって、学校で扱う道徳が道徳の全てであるかのような扱いには疑問を感じる。

 (6)災害対策
 実は、自民党政権は大規模な自然災害を直接的に経験していない。1995年に阪神・淡路大震災が起きた時の首相は、日本社会党の村山富市であった(自社さの連立政権)。村山政権は、自衛隊出動問題も含め、初動のもたつきで多くの人命が失われたという批判にさらされた。2011年の東日本大震災が起きた時の首相は、民主党の菅直人であった。菅直人は村山富市とは反対に、周囲の反対を押し切って福島第一原発事故現場に乗り込むと言い出したり、災害対応の組織をいくつも併存させて指揮命令系統を混乱させたりした。

 私は、自民党以外の政党では自然災害に対応できず、自民党ならば対応できるとは考えていない。仮に、阪神・淡路大震災や東日本大震災の時、自民党が政権を握っていたら、批判の中身はどうであれ、災害対応の稚拙さを批判されたに違いない。これまでの自民党は、単に運がよかっただけである。今年7月に広島県を中心に記録的な豪雨が発生した際には、安倍首相は呑気に宴会を開いていた。自民党とて、その程度のレベルなのである。

 安倍政権は政策の1つとして、国土強靭化計画を掲げている。災害の規模が大きくなるならば、それを上回る防衛力を持ったインフラを作ればよいという発想である。建設業界と密接なパイプを持つ自民党らしい政策である。だが、ここ数年で我々が学んだのは、「必ず、想定外の事態が起きる」ということである。いくら頑丈なインフラを作っても、建設時には想定していなかった規模の災害が襲ってくる。では、もっと頑丈なインフラを作ればよいと考え出すと、これはもう終わりのないいたちごっこになってしまう。災害をどうやって防ぐかではなく、災害が起きた時に国民の生活不安をいかにして最小限にするかを検討する方が有益である。

 自然災害が起きた時に必ず問題になるが、各地の避難所に避難している住民に必要な物資をいかにして届けるかという点である。災害が起きると、全国各地から続々と支援物資が届く。送る側は善意でやっていても、残念ながら避難所の住民のニーズに合致していないことが多い。過剰な物資は、限りある避難所のスペースを無駄に占有するだけでなく、食品など期限のある物資であれば、最悪の場合破棄しなければならない。ただでさえ災害で甚大な被害を受けているのに、物資の破棄費用を自治体が負担することとなれば、泣きっ面に蜂である。

 だから、被災地を支援するには金銭が一番よいと言われる。ただし、支援金と義援金の違いには注意が必要である。義援金は被災者に直接届く金銭であるが、事務手続きに膨大な時間がかかるのが難点である。東日本大震災では、被災者に義援金が届くまでに1年ほどかかったと言われる。これでは被災者の生活支援という意味合いは薄らいでしまう。一方、支援金は被災者を支援するNPOやボランティアに渡る金銭であり、即効性があると言われる。しかし、NPOなどには、受け取った支援金の使途を報告する義務がない。情報公開の程度はNPOによってかなりの差がある。だから、あまり考えたなくはないが、支援金だけ受け取って、その大半を職員の給与にあてていたとしても、外部からは解らないのである。したがって、NPOなどに支援金を渡したからと言って、被災者の生活が十分に支援されているという保証はない。

 私は、国が主導して、避難所の物資ニーズと、他の自治体や企業、あるいは個人が提供可能な物資をマッチングさせる全国的なシステムを構築すればよいと思う。自治体や企業、個人は、災害が起きた時に提供することが可能な物資に関する情報をあらかじめ登録しておく。災害が発生した場合には、それぞれの避難所に避難している住民の人数を把握し、その数に基づいて必要な物資の種類と数量を算出し、システム上で物資を発注する。その際、近隣の道路や鉄道などの物流インフラの被害状況を考慮して、どの地域の自治体、企業、個人から物資を調達するのが最適なのかを自動的に計算する。ゆくゆくはこの需給マッチングシステムを拡張して、ボランティアの人員調整のシステムを構築できればさらに望ましいだろう。

 (7)ポスト安倍の育成
 安倍首相の在任期間は、このまま順調に行けば、2019年11月19日には歴代1位の桂太郎(2886日)に並ぶ。どんな組織でもそうだが、トップの任期が長くなると、必ず後継者問題が出てくる。しかも、今回は期限が決まっている政権であるから、必ず後継者を指名しなければならない。今回の総裁選で安倍首相と戦った石破茂氏は軍事面に明るく、議論をさせれば強いのだが、首相は議論に強いだけでは務まらない。やはり防衛相止まりの政治家であると思う。安倍政権の外交に大きく貢献した岸田文雄氏が後継者の筆頭になってくれればよかったものの、総裁選をめぐるごたごたで後継者リストからは名前が消えた。

 第4次改造内閣の顔ぶれを見ると、普通はこの人が次の首相だろうというのが何となく見えてくるものである。しかし、実際には、各派閥でずっと入閣待ち状態になっていた人物を登用しただけの、何のサプライズもない人事であった。小泉純一郎は安倍晋三を後継者にすると考えて要職を経験させたのに、安倍首相にはそういう考えはないようである。だから、最近の永田町界隈では、安倍首相と政治路線を同じくする菅官房長官が3年間首相を務め、その後再び安倍首相が登板すればよいなどというアイデアがささやかれているらしい(阿比留瑠比「安倍総理 戦後最大の戦い」)。冒頭でも述べたが、2020年の東京オリンピック・パラリンピック以降は苦難の時代が待ち受けていると予想される。後藤新平は常々、「金を残すは下、名を残すは中、人を残すは上」と言っていた。安倍首相には是非、人を残して首相の座を降りてほしい。

2018年05月29日

『世界』2018年6月号『メディア―忖度か対峙か』―日本には西洋の社会契約説も自由・平等の考え方もあてはまらない


世界 2018年 06 月号 [雑誌]世界 2018年 06 月号 [雑誌]

岩波書店 2018-05-08

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 安倍首相の発言や自民党憲法改正案を見れば、憲法とは「国の形を決めるもの」であり、国家や家族に指針を与え、義務を課し、「縛るもの」と考えられています。憲法とは「市民社会と国家の間の統治契約書」ではなく、つまり統治機構としての国家がその統治においてしてはならないことをあらかじめ定めて国家を「縛る」契約書ではなく、国家が「国民に与える書」であり、国家の意思を国民に伝える書なのです。近代以前の認識だと言わなければなりません。
(花田達朗「公共圏、アンタゴニズム、そしてジャーナリズム」)
 私は、安倍首相や自民党憲法改正案が想定している国家像や憲法のあり方を本当に前近代的なものだと切り捨ててよいものかと疑問に感じる。ジョン・ロックのように、自然状態においては自然法が貫徹されて人は自由で平等であったと仮定し、その状態に何らかの理由で様々が不都合が生じたことで、人々が自然発生的に一部の自然権を放棄し、社会契約を締結することによって国家が成立したと見るのであれば、国家は国民に従属するのであって、憲法は国家の権力を国民が制限する意思の表れととらえることもできるだろう。だから、国家が国民の自然権を侵害するような専制を行う場合には、国民による抵抗権も正当化され得る。

 ジャン・ジャック・ルソーにおいても大体同じである。ルソーは、諸個人が自由と平等を享受していたが、より自由で平等な状態、共通善を最大化するために、自然発生的ではなく、積極的に社会契約を締結したことによって国家が成立すると見る。契約当事者である市民のみならず、その集合体である人民こそが主権者であり、個々人の特殊意思を超えた、一般意思によって作り出された主権によって国家が誕生した。ここでも、国家は主権者である市民に従属する。

 つまり、西洋においては、人々の自由や平等を守るために人為的に国家が創造された。国民と国家の間の関係はかなりフラットに近い。これに対して、日本の場合は自然発生的に国家が成立しており、国家は1つの有機体として、その機能を発揮せしめるために、内部の役割を多様化・階層化し、人々をそれぞれの役割に就ける。様々な役割に就いた人々は各々固有の欲求を持つが、個人の欲求は全体の秩序に調和させることが求められる。この点で、国民が国家に従属するという、西洋とは逆の関係が成立する。陽明学の泰斗・安岡正篤が1927(昭和2)年に著わした『東洋倫理概論』の中には、次のように書かれている(以下は、『東洋倫理概論』を現代語訳した武石章訳『「人間」としての生き方』〔PHP文庫、2008年〕による)。
 蒼生とは、蒼々然たる(青々とした)万物の生育に因んで、天地の恵みを受けて生活する自然な人々(生民)に対してつけた名(1つの具体的あるいは創造的概念)であって、その実在は雑然とした動物的群居―単なる民衆ではなく、心理的生理的に影響しあう本来の自然のままの姿、本来の生活関係にある人間の集団―本然社会、社稷(社は土地の神、稷は五穀の神)、一種の有機的な体系である。だからこれを組織する各人、各階級は、万物を支配する天の道理、自然の道理に従って自然に各自の欲求のままに活きるけれども、一面その欲求を自ら縦にすることはできない。ほしいままにすれば直ちに全体生活を傷ってしまう。そこで、生理の欲求としてそういう部分的欲求(民衆的欲求、私利)に即して全体的欲求(社会的欲求、天理)がなければならない。

 (中略)(※全体的欲求の実体である)官司の本質はほしいままな私欲に走り社会生活を乱れさせることがないように民を正し、治めることにある。そういう作用からして、これを特に政治(政は正である)と言いその最高の政治組織体を国家と言うのであって、それは蒼生の自然的生活から進歩するにつれて実現し、発達してきた本来の自然のままの規範的存在である。
「人間」としての生き方 (PHP文庫)「人間」としての生き方 (PHP文庫)
安岡 正篤 安岡 正泰

PHP研究所 2008-03-03

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 国家は道、天理に従って国民を統治するが、国家の頂点に立つのは天皇である。天皇は国民によって選ばれたのではなく、国家が自然発生的に成立した時から天皇であった。そして、国家の持続可能性を担保するために世襲制を選択した。つまり、その時々に応じて、天皇にふさわしい能力・資質を持った人を国民が選出するという方法はとらなかった。これにより、適材をめぐって国民の議論が紛糾し、そのために国家統治が断絶するというリスクを回避することができた。もちろん、世襲制でも後継者不足に陥るという恐れはあるが、適材探しに伴う統治の空白リスクよりは小さいだろう。天皇は天皇に「なる」のではなく、天皇は天皇で「ある」わけだ。
 同時に我々の国家にもまた、このような至尊がなければならない。あるいはこれを国旗に表徴し、あるいはこれを法律に掲げ示し、あるいはこれを信仰または信念として心の中に観る。我々はこれを天皇に拝する。我々に天皇が在すことは我々の胸の奥に神在するに侔しい。天皇を軽んじ、ないがしろにする者は神を軽んじ、ないがしろにする者である。道を知らない者である。
 ここで近代的な西洋人なら、「天皇が暴君であった場合はどうするのか?民衆は革命を起こすのか?」と質問するだろう。だが、安岡正篤はこの問いを一蹴する。
 そういう前提は国家における道の生活のまだ確立していない国体では有り得ることであるが、日本のように歴史的体験によって道の確立している国では、法に外れた天皇の意思などある筈がなく、天皇は真に道Sollenの権現(実現する神仏)とならざるを得ない。この長い間に打成された(できあがってきた)道力を踏みにじるような暴力は、いかなる悪魔も持ち合わすことができない。まして皇位の簒奪(帝王の位をうばい取ること)など夢想することもできない。
 要するに、日本は自然発生的に成立した国家であり、その頂点に立つ天皇が最も道を体現している存在として、日本国民を統治する。天皇が道を体現していることは、天皇が万世一系によって途切れなく続いていることからも明らかである。よって、日本の歴史に照らし合わせれば、憲法が国家(天皇)から国民に与えられた書であるというのは全くもって正しいのである。これを否定して、憲法は国民が国家を束縛する書だと主張したければ、天皇を廃止するしかない。

 道や天理に従い、天皇が神として国家を統治するのは全体主義的ではないかという批判もあるだろう。確かに、日本の歴史を振り返ればそのような時期もあったことは否定できない。ただし、大半の時代において、天皇は国家の最上位に位置するものの、その意思を絶対的な力で下位の人々に強要するようなことはしなかった。日本では議論が推奨される。十七条の憲法には「和を以て貴しとなす」とあり、五箇条の御誓文には「広く会議を興し万機公論に決すべし」とある。社会人類学者の中根千枝氏の著書『タテ社会の人間関係』の内容を拡張するならば、日本は多重階層社会であり、天皇の意思はいくつもの階層を下って、それぞれの階層を構成する国民に届けられる。その際、天皇から国民への伝達は一方通行ではない点に着目する。

 天皇は臣下に対して「あなたは国家のためにこの仕事をせよ」と命ずるとともに、「あなたがその仕事を成し遂げるために私は何をすればよいか?」と「下問」する。他方、臣下は天皇に対し、「天皇がご自身の仕事をよりよく成し遂げるには、これをなさった方がよい」と「下剋上」する。これが一般化されると、上の階層は下の階層に対して、「あなたは私が上の階層から命じられた仕事を実行するために、この仕事をせよ」と命ずるとともに、「あなたがその仕事を成し遂げるために私は何をすればよいか?」と「下問」する。他方、下の階層は上の階層に対し、「あなたがご自身の仕事をよりよく成し遂げるには、これをなさった方がよい」と「下剋上」する。ここでの「下問」、「下剋上」の用法は、日本学者である山本七平に依拠している(以前の記事「山本七平『帝王学―「貞観政要」の読み方』―階層社会における「下剋上」と「下問」」、「『熱と誠(『致知』2017年2月号)』―顧客が「下問」してくれる企業こそ真の顧客志向を体現している」を参照)。

 とりわけ特徴的なのは、下剋上は上の階層に取って代わるためになされるわけではないという点である。上の階層に取って代わる下剋上が起きたのは、歴史の一時代だけである。多くの場合、下の階層は、上の階層がよりよくなるためにと願って、下の階層にとどまったまま「下剋上」をした。こうした重層的な議論を通じて、天皇の威命が徐々に下の階層へと伝わっていく。

 前述のように、自然発生的に成立した日本という国家は、1つの有機体として、天皇を頂点としながら、その内部に多様な役割を分化させ、多重階層的な社会を形成している。それぞれの人は社会を機能せしめるために、上の階層からの命令を受け取ってその職責を果たす。このような社会において、人々に自由はあるのかと西洋人は問うだろう。確かに、自然権としての自由は存在しない。よって、自然権を守るための権力からの自由も存在しない。ただし、社会から役割を与えられた人々は、上の階層から「下問」という支援を受けて自分の仕事の幅を広げ、上の階層に対して「下剋上」することによって彼らの仕事の幅を広げることを通じて、上の階層のために、ひいては全体的秩序のために創意工夫を凝らして役割を遂行することが期待されている。

 この点で、日本人にも自由はあるのであり、それは「権力からの自由」ではなく、「権力の中での自由」と呼ぶのが適切であろう。日本は決して全体主義ではない。かといって、個人の意思が政治に完全に反映される民主主義でもない(個人の意思は全体の秩序に調和されるため)。日本はその中間の権威主義と呼ぶのが適切であり、権威主義によって極めて長期にわたって国家を維持してきた(以前の記事「加茂利男他『現代政治学(有斐閣アルマ)』―「全体主義」と「民主主義」の間の「権威主義」ももっと評価すべきではないか?」を参照)。『世界』の本号では、アジア諸国が権威主義化していることを危惧する記事があった(柴田直治「東南アジアに広がる権威主義のドミノ」)。だが、これらの国々で進んでいるのは専制主義化であり、一歩間違えれば全体主義に陥る。日本はこれらの国々に対して、権威主義の見本を示す必要があると思う。

 繰り返しになるが、日本は多重階層社会、役割が多様化された社会であり、人々は何らかの理由によってそれぞれの役割に就いている。役割が違うのだから、当然のことながら「差」を「別ける」差別は存在する。だが、どの役割も日本の社会的秩序を維持・発展させるのに不可欠であり、固有の価値を持つ。階層の上下などを理由として、ある特定の役割に就く人々の価値を貶めることは許されない。ここで再び安岡正篤の言葉を借りよう。
 任用する者も任用せられる者も一心同体に、その目的は天下の人民を安んずることにある。その目的の実現のために才能の適不適は論ずるが、地位の高下で人間を軽重したり、労働せねばならぬから悪い、安逸だからよいのというようなことはない。いやしくも自分がその才能に適しい地位職分につけば、終身煩劇に(煩わしく忙しさに追われて)処しても労とせず(苦労と思わず)、下位微官にあっても賤しいとせず、人民もまた皆自分の身分をわきまえて、その業を勤めて、別に高位高官を欲しいと思うわけでもなければ、他の安楽そうな職業を羨むでもなく、すべて人々が相互に親しい心を以て相依り相助けていた。
 左派は差別を敵視し、まるで差がなかったかのように平等に扱おうとするが、それは土台無理な注文である。差は歴然として存在する。その事実を踏まえた上で、階層の上下を問わず、お互いの役割・職務を尊重する姿勢こそが重要である。金額のような単一の指標で各人を単純比較してはならない。歴史上滅亡した大国の特徴を分析した研究によると、滅亡の大きな理由の1つは、金銭で物事を判断するようになったことであるという。本号には、国語辞典で差別用語をどう扱うべきかという記事があり、その中で次のように書かれていた。
 「真の意味で被差別当事者の身になってかんがえることなど原理的にできない」という宿命ゆえに、「まちがいない」ことだけ収録する責任を持つ、という規範主義だ。
(ましこ・ひでのり「差別とことば―国語辞典で差別語はどうあつかうべきか」)
 これではまるで、差別の火が消えるまで国語辞典への掲載を延期すると言っているようなものである。さらに言えば、「被差別当事者の身になって考えること」を原理的に諦めているのだから、差別に対して見て見ぬふりをしている。その結果掲載される差別用語は、もはや差別用語であったことすら忘れ去られた、純化された言葉であろう。左派にとってはその方が都合がよいのかもしれない。しかし、我々は現実問題として、日本的社会の特徴から必然的に差別に直面する。その際に、差を尊重しない差別、間違った差別に対しては当事者が声を上げ、周囲がその差別を行った者を徹底批判する空間を確保することの方が大切である。
 2006年12月、第1次安倍政権の下で教育基本法が改悪された。このとき、政府は、愛国心教育推進の法的根拠とすべく、「教育の目標」条項を新設し「我が国と郷土を愛する」との文言を書き込んだ。学校教育において児童生徒に何か特定のものを無条件に愛するように指導すること、また教師にそのような指導をさせることは、児童生徒及び教師の内心の自由に対する侵害であり、人格の独立に対する脅威をもたらしかねない。
(中嶋哲彦「学びの統制と人格の支配―新設科目「公共」に注目して」)
 最後に「愛国心」について。私は、左派が愛国心教育を極度に嫌っていることが理解できない。左派は「国を愛するな、だが生活に困った時は国(の社会保障)を頼りにすべきだ」と主張しているのであり、全く賛同できない。前述の通り、我々は権力の中での自由を発揮し、国家秩序のために与えられた役割を全うする。「国家秩序のために」と思うその根底には、国を愛する気持ちがなければならない。そして、どうしても困った時には国家に助けてもらう。これであれば筋が通る。それに、愛国心といっても、日本を無条件に愛せよというわけではない。愛とは対象の美点のみを愛でることではない。それでは中国や北朝鮮の教育と同じになってしまう。対象の暗部をも直視して、それでもなお総合的に対象を大切に思う気持ちこそが真の愛である。

 2017年11月に高大連携歴史教育研究会が、高校の日本史・世界史の教科書に出てくる用語を現在の約半分にあたる1,600語程度に減らすべきだという提言を行った。記述を簡略化すると、複数の用語を同時に説明するための概念用語が多用されることになる。例えば、昭和史においては「大日本帝国」という言葉が用いられる。これでは、当時の日本がどのような政治を行っており、大衆はどのような動きを見せ、国家全体がいかにして帝国主義に走っていったのかという実態が見えにくくなってしまう。それよりも問題なのは、「日本」ではなく、「大日本帝国」という用語を使うことで、昭和の日本は日本とは別物であり、いくら批判しても構わない悪玉なのだと子どもに思わせてしまうことである。これでは本当の意味での愛国心は育たない。

 私は「道徳」や「公共」といった科目を設けなくても、「我が国と郷土を愛する」心を育むことは可能であると思う。しばしば、教育内容は価値中立的でなければならないと言われるが、そんなことは絶対にあり得ない。学習の対象が無限に存在しているという状況で、限られた学習時間の中で何を子どもに教えるかを取捨選択する時点で、価値判断が入っている。つまり、「これは日本人として重要なことだから是非知っておいてほしい」という判断から、その素材が選択されているのである。だから、愛国心や郷土愛を醸成するには、なぜその素材を学習するのかという背景に踏み込んだ授業をすればよい。特別に道徳や公共という科目を設けるまでもない。

 道徳や公共は、子どもが大切にするべき価値観のみを抽出して、それについて学習させようとする。だが、価値観だけを単独で学習するのは非常に難しい。これは、企業研修において、自社の価値観や行動規範だけを単独で学習することが難しいことを想像していただければお解りになると思う。価値観は具体的な事象とセットになって初めて理解可能となる。そして、そのようなセットは、既存の科目の中で十分に提供されている。道徳や公共を設けて既存の科目の時間を削るのではなく、既存の科目の内容充実を図った方が絶対に効果的である。

 中村学園大学の占部賢志教授は、道徳は単独では教えられないと主張し、「連携科目としての道徳」を提案している。例えば、「生命の尊さ」を教えるのであれば、理科における植物などの観察と連携させる。観察の結果をまとめたり発表したりするのを道徳の時間に行う。

 また、国語で『万葉集』の防人の和歌を取り扱うという案も披露している。例えば「時々の花は咲けども何すれぞ母といふ花の咲き出来ずけむ」という和歌は、四季の移り変わりに応じて季節の花は咲くのに、どうして「母」という名前の花は咲かないのだろうかという意味である。こうした哀切の私情を胸に防人は公の任務に就いていく。そこには、昭和前期の「滅私奉公」とは異なる姿がある。公のために私情を捨てよと言われても、簡単に断ち切ることはできない。私情の世界を大切にしながらも、人は公の任務に向かうことがあるのだという厳粛なる人生の事実をこの歌は教えてくれる(占部賢志「連載・第47回 日本の教育を取り戻す 道徳は単独では教えられない―「知徳一体」の流れをつくろう」〔『致知』2017年6月号〕より)。こうして培われる愛国心は、前述した日本の社会的構造が国民に対して要請する精神とも合致する。

致知2017年6月号寧静致遠 致知2017年6月号

致知出版社 2017-06


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2014年11月20日

『魂を伝承する(『致知』2014年11月号)』―愛国心とは愛憎ないまぜの感情


致知2014年9月号魂を伝承する 致知2014年11月号

致知出版社 2014-11


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 現代を生きる我われに、日本の素晴らしさを尊び、後世に伝承していこうといった愛国心が必要です。この地球上にただ1つ、2千年以上も続いてきた他に類のない文明圏を守る意志を持ってほしい。僕が日本人として後進の方々に伝承していくべき魂があるとすれば、そこですね。(中略)

 私たちは戦前の誇り高い日本帝国を知っているし、日本に誇りを持つような教育も施されました。自分は日本の代表という自覚があり、日本人として品位のある生き方をしたいと思って生きてきた。(中略)ただ日本について敗戦後1か月か2か月には文化国家として日本を再建すると言い出したところにちょっと怪しいところがあった。やっぱり自分で自分の国を守ろうとしない人間は、きちんとした世界観を持てません。
(平川祐弘、渡部昇一「我ら日本の魂を伝承せん」)
 日本は敗戦後に自国の歴史を放棄させられ、自虐史観を押しつけられたと言われる。だから、右派の人々は、もっと愛国心を養うための教育をすべきだと主張する。この点には、私も総論レベルで賛成である。日本を愛せない人が、どうして日本に住み続けることができるだろうか?

 愛国心を養う教育とはどういうものなのかは、お隣の中国を見れば非常によく解る。中国では、国民に愛国心を植えつけることが教育目標の中に明記されている(日本の学習指導要領にあたるものとして、「愛国主義教育実施要綱」というものがある)。中国の教育の特徴は、(1)神話の強調、(2)選民意識の醸成、(3)トラウマの意識という3つに集約できる。

 (1)神話
 中国の神話は、「文明古国(太古以来の文明国)」、「礼儀之邦(礼節と儀礼の国家)」、「四大発明(古代中国による四大発明=製紙法、印刷術、羅針盤、火薬)」などといった4文字の慣用句で表現される。これらの慣用句は史実に基づくものもあるが、神話と結びついているケースもある。歴史を振り返れば、中国は数多くの重要な発明の地であった。その歴史の歩みの中で、科学や芸術が花開いた。したがって、中国人は自らの優れた文化的、道徳的気質を信じて疑わない。

 (2)選民意識
 「中国」という言葉自体が「中央、真ん中」の「王国、国家」という意味である。中国は「中華」(華=素晴らしい、繁栄した、の意)とも言われるが、中国人は自らを「華」、文化的・民族的なよそ者を「夷」(=野蛮な、の意)と呼んだ。中国は自らを世界の中心に配置し、周囲の異民族が中国文化と同化するよう働きかけた。アジアの歴史は、中国が周辺国といかにして文化的な師弟関係を結んでいったかの歴史であり、また、中国が自らの文明の普遍性を高めていった歴史でもある。

 (3)トラウマ
 中国にとって、1800年代半ばから1900年代半ばまでの期間は「恥辱の1世紀」である。中国人はこの期間を、自国が攻撃され、帝国主義者の手でバラバラに切り裂かれた時代として記憶に留めている。第1次・第2次アヘン戦争、日清戦争(中国では中日戦争)、義和団事件、満州事変、日中戦争(中国では抗日戦争)などは、中国人にとって「国恥」である。

 (※(1)~(3)の記述は、ワン・ジョン『中国の歴史認識はどう作られたのか』〔東洋経済新報社、2014年〕を参考にした)

中国の歴史認識はどう作られたのか中国の歴史認識はどう作られたのか
ワン ジョン 伊藤 真

東洋経済新報社 2014-05-16

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 神話はその国の歴史の起点となる固有の物語であり、史実に基づいていようがいまいが、他国がこれを否定することはできない。神話と選民意識は密接につながっている。自分たちの先祖をたどって行くと神話に行き着く。その神話は絶対的なものだから、神話から生まれた我々も絶対的な民族であると自信を持つようになる。これだけでも十分な愛国心教育なのだが、さらにトラウマを利用する。「我々はこんなにも素晴らしい民族だ。それを攻撃してきた彼らは絶対に許さない」と思わせる。敵を徹底的に貶めることで、相対的に自分たちの地位を高めるわけだ。

 こういう愛国心教育は、独裁国家の権力者が国民からの絶対的な支持を集めるための常套手段である。ところが、民主主義国家であるはずの韓国も、似たような愛国心教育を行っているらしい(以前の記事「鳥海靖『日・中・韓・露 歴史教科書はこんなに違う』―韓国の教科書は旧ソ連並みに社会主義的」を参照)。檀君の神話を信じ込ませ、朝鮮人が日本に高度な文明を伝えてあげたと民族的優位性を説き、民族的に劣位の日本人に植民支配されたことをトラウマとして強く認識させる。日本政府は韓国を政治的な価値観を供するパートナーと見なしているものの、韓国のことを調べれば調べるほど、実は共産主義国なのではないかと思えてくる。

 日本が手っ取り早く愛国主義的な教育をしたいのならば、中国や韓国に倣えばよい。『古事記』や『日本書紀』の神話を刷り込み、世界でただ1か国だけ、2000年以上も王家が続いている特別な国であることを意識させ、その特別な国を国際法違反の原子爆弾で攻撃したアメリカや、五族協和を目指した満州国の理念を頓挫させた中国を許しがたい敵として描けば効果的だろう。

 しかし、こういう愛国教育を行っている国は、だいたい対内的・対外的どちらの視点から見てもロクな国ではないということは、良識ある日本人ならすぐに気がつく。「自分大好き人間」を大量に育成すると、周囲に大きな迷惑がかかるだけなのである。そもそも愛とは、好きという感情が一方的に支配している状態ではない。よいところも悪いところもあることを認めながら、それでもやはり大切にしたいと思うのが愛である。家族愛はまさにその典型であろう。「愛は盲目」などと勝手に舞い上がっているうちは、まだ本当の愛ではない。

 日本の教育は、「日本人はこんなに悪い人でした」と教えることで、「自分大嫌い」人間を量産してきた。「自分大嫌い人間」は、「自分大好き人間」に比べると、内向的で周囲に害を及ぼさない分だけましかもしれない。しかし、自分大好き人間と同様に、健全な精神状態とは言い難い。従来の教育は、日本の悪いところばかりを教えすぎた。そこに日本の誇らしいところをうまく混合することで、多角的な視点から冷静に日本を愛せる国民を輩出すべきではないだろうか?




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