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『正論』2018年3月号『親北・反日・約束破り・・・/暴露本「炎と怒り」で話題沸騰』―小国・日本の知恵「二項混合」に関する試論(議論の頭出し程度)、他
『致知』2018年2月号『活機応変』―小国は国内を長期にわたって分裂させてはならない。特に日本の場合は。
『世界』2018年1月号『民主政治の混迷と「安倍改憲」/性暴力と日本社会』―「安保法制は海外での武力行使を可能にする」はミスリード、他

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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京23区、神奈川県川崎市・横浜市を中心に活動する中小企業診断士・コンサルタント。

 専門領域は、(1)経営ビジョン・事業戦略の策定、(2)ビジョンや戦略とリンクした人材育成計画の立案・人事評価制度の構築、(3)人材育成計画に沿った教育研修プログラムの企画・開発。

 モットーは「日々改善、日々成長」、「実事求是」、「組織のためではなく知識のために働く」、「奇策は定石より先に立たず」、「一貫性(Consistency)」、「(無知の知ならぬ)無知の恥」

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 ブログタイトルに、oasisの往年の名曲『Whatever』を入れてみた。

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マネジメント・フロンティア
~終わりなき旅~


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こぼれ落ちたピース
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◆個人事務所「シャイン経営研究所」◆ シャイン経営研究所ロゴ


(一社)東京都中小診断士協会一般社団法人東京都中小企業診断士協会
(城北支部執行委員、青年部長を務めています)

企業内診断士フォーラム(KSF)企業内診断士フォーラム
(独立診断士の立場から、企業内診断士の活動を応援しています)

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2018年02月23日

『正論』2018年3月号『親北・反日・約束破り・・・/暴露本「炎と怒り」で話題沸騰』―小国・日本の知恵「二項混合」に関する試論(議論の頭出し程度)、他


月刊正論 2018年 03月号 [雑誌]月刊正論 2018年 03月号 [雑誌]
正論編集部

日本工業新聞社 2018-02-01

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 (1)
 保守系の論客と彼らがいう人たちが(実際は私も含めて国際基準ではリベラル系も多いのだが)、最近、ネットメディアなどを通じて、地上波や全国紙が扱わないようなテーマを紹介したり主張をしたら、それがあっという間に拡散して、彼ら自称リベラル派メディアによる気に入らない意見を国民に知らさないように封じ込めようという統制が取れなくなっている。(※太字下線は筆者)
(八幡和郎「朝日の抗議・提訴はリーガルハラスメントでは?」)
 一般には、リベラルと言えば左派のことを指すと思われているが、引用文の太字下線部のような注がわざわざついたのは、前月号の遠藤司「『寛容な保守』『リベラル』・・・政治理念の乱れを読み解く」の影響ではないかと考えられる。恥ずかしながら私も今まで、左派とリベラルを区別せずに使っていたので、今後は気をつけたい。同記事は、リベラル=自由主義者とは、本来は「保守」のことであると指摘している。ただし、この「保守」という言葉には注意が必要である。
 ようするにハイエクは、保守的な態度をもつ「保守主義者」を批判しているのである。保守的な態度は、体制に対する保守(※変化を恐れ、体制を維持しようとする保守)を指すものであるから、理念において「左」のそれを選び取る危険から逃れられない。体制に対する保守は、確かに社会主義と妥協し、その考え方を横取りしてきた。集産主義的信条の大部分を、受け入れてしまった。そうではない「保守」としての「リベラル」であることが、自由を守るためには必要である。そうであるからハイエクは、まぎれもない「保守」であったといえよう。
 保守が自由を好むのであれば、一切の自由を抹殺する全体主義は保守の敵である。よって、保守が右ならば、全体主義こそ左である。遠藤氏によれば、ナチスは極右ではなく極左であり、共産主義は全体主義と同根である。思えば、まだ政治学者としての活動が目立っていた頃のピーター・ドラッカーは、漸次的な改革主義こそが保守の神髄であると同時に、第2次世界大戦は、自由を全体主義から守る戦いだと主張していた。

新訳 産業人の未来―改革の原理としての保守主義 (ドラッカー選書)新訳 産業人の未来―改革の原理としての保守主義 (ドラッカー選書)
P.F. ドラッカー Peter F. Drucker

ダイヤモンド社 1998-06

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 ドラッカーは、啓蒙主義に全体主義の系譜を見て取ることができるとも述べていた。これを私なりに解釈すると次のようになる。啓蒙主義においては、唯一絶対の神に似せて、完全で自由な人間が創造された。だが、本来の自由とは他者との相違を認め、相違に基づいた扱いの差を許容することである。唯一絶対の神に似せて作られた人間は、誰もが唯一絶対の考えしか持ち得ないから、実は自由ではない。人間は1人の個人であると同時に、絶対的な全体(人類全体、世界全体)に等しい存在である。だから、政治においては民主主義と独裁が等しくなるし、経済においては財産が共有のものとされ共産主義が成立する。

 唯一絶対の神に似せて作られた人間は、生まれながらにして完全無欠である。よって、教育を施すことは害だと見なされる。また、時間の流れという概念は存在せず、現在という1点だけが意味を持つ。つまり、歴史というものが存在しない。この時間を敢えて図にするならば、直線ではなく円である。円周上の1点に有としての現在があり、残りは無である。現在という1点だけが意味を持つから、人間は生まれた後すぐに死んでいく。ただし、時間は円周上の無を一瞬のうちにぐるりとめぐって現在=有に戻り、人間は再びこの世に生を受ける。

 とはいえ、現実問題として、人間は多種多様な存在である。ここで取り得る対応には2つある。1つは人間の一切の差異を認めないという立場である。ナチスがアーリア人至上主義を掲げてユダヤ人などを虐殺したのがこれにあたる。もう1つの立場は、一切の差異を平等に認めるというものである。近年、教育の現場で過度に平等主義を演出したり、性的マイノリティーであるLGBTを社会の多数派と同等に扱うようにと主張するのがその例である。つまり、一般的に言われる極右と極左は同根異種である。いや、どちらも、人々は多様性に応じた自由の差異を享受するという保守に反して、多様性を完全に無視しようというわけだから、左であり全体主義である。

 以上を総合してみれば、ISISが過激な排外主義を掲げ、各地の歴史的遺産を破壊した理由も解るし、共産主義が知識層を迫害した経緯も理解することができる。さらに、人間が生まれながらに完全であると言っても、教育を受けなければ、せいぜいできることと言えば原始的な農業ぐらいのものであるから、共産主義が往々にして農業を重視するのもうなずける。もっとも、遠藤氏の言説に従えば、ISISは極右ではなく極左の全体主義になるだろう。

 左の全体主義者は、普通の人の眼には、ずっと革命を起こそうとしているように見える。ところが、当の本人は、現在という1点において、その一瞬の生の中で革命を目指している。その後死んで無に帰したとしても、すぐに有=生を得て再び革命を掲げる。それを普通の第三者が見れば、ずっと革命を続けているように映るわけである。しかし、革命、革新という言葉とは裏腹に、現在という1点に拘泥する左派は、ややもすると体制維持に流れる。これが、引用文中で、社会主義者は体制に対する保守と妥協すると書かれている理由である。

 現在、日本では「右」の安倍政権が全体主義化していると批判されている。しかし、本当に全体主義化しているのは「左」の方である。その筆頭が朝日新聞であろう。朝日新聞は、小川榮太郎氏が『徹底検証「森友・加計事件」―朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪』を出版したことに抗議し、賠償請求を提訴した。これに関して小川氏は次のように述べている。
 小川:大手メディアが実証的な本の著者に対して賠償を要求するという、言論封殺が今、起きています。(中略)だからこそ、日米で保守政権が協調しているチャンスに、言論界も共闘して、リベラルという名の全体主義から自由を守る戦いを前に進める必要があるのではないでしょうか。
(スティーブン・バノン、小川榮太郎、木村太郎「なぜメディアのウソを信じるのか」)
 また、麗澤大学客員教授の西岡力氏も、左派の全体主義を批判している。
 西岡:私は何年か前に人権派の高木健一弁護士から名誉毀損で民事で訴えられて、最高裁まで争って勝ちましたが、私は一貫して「意見の違いについては裁判で決めてもらうのではなく、どちらが正しいかは読者に決めてもらうものだ」と主張してきました。往々にして左派の方々は裁判所に「どちらの主張が正しいか」を決めてもらおうとしますが、これは全体主義の考え方です。違う意見が存在することが我慢できないんですね。彼らは自由体制を守ろうとはしていないのです。
(西岡力、阿比留瑠比「暗黒・韓国を生んだ朝日新聞の罪と罰」)
 我々は、左派がリベラルという言葉を口にした時、それが何を意味しているのか、本当に正しい意味で使われているのかに注意しなければならない。

 (2)
 それら(※中国の軍閥)が内訌を深めれば、日本にとって対岸の火事どころではあるまい。難民の受け入れなどといふ甘つちよろい話ではなく、日本は軍閥政府相互による恫喝と簒奪競争の対象になるであらう。さうならないためには、中国共産党の統治能力の安定こそが、日本の国益なのではないのか。すると、日本保守派は中国共産党の安定化を応援しなければならないのではないか。
(小川榮太郎「『危機』と『日本人』―『世界史』を動かす『思想』の力を手にせよ」)
 米中の対立が深まっている。日本は地政学的に西洋と東洋の間に位置し、両者の橋渡し的な役割を果たすべきだという主張は明治時代からなされていた。例えば横井小楠は、「日本は東洋と西洋の間を取り持つ世話焼き国家にならなければならない」と述べた。ただ、個人的には、小国である日本にそこまでの役割は期待できないのではないかと思う。太平洋戦争では、アジアを侵食する西洋列強に対し東洋の力を見せつけようとしたが、あえなく惨敗した。

 本ブログで何度も述べてきたが、現代の大国はアメリカ、ドイツ、ロシア、中国の4か国である。大国は二項対立的な発想で物事を見る。大きく見れば、アメリカ・ドイツとロシア・中国が対立している(細かく見れば、アメリカとドイツ、ロシアと中国も決して一枚岩ではなく、双方の間で細かい対立はある)。二項対立的な発想をする大国は、表向きは激しく相手を批判するが、本当に正面衝突してしまうと双方にとって深刻な被害が出ることを知っている。そこで、大国は周囲の小国を同盟国にし、小国に大国同士の代理戦争をやらせる。具体的には、朝鮮半島や中東がその舞台になっている。代理戦争に巻き込まれた小国は、大国の食い物にされる。

 そうならないために、小国は「二項混合」という戦略を取るべきだと私は提案してきた。これは、どちらの大国にも過度に肩入れせず、双方の大国のいいところ取りをして、独自の国家体制を構築することである。ちょうど、正面から見ると何の絵か不明だが、右から見るとある絵が浮かび上がり、左から見るとまた別の絵が浮かび上がるようなものである。米中に挟まれた日本は、正面から見るとどういう国か解りづらいけれども、右から見ればアメリカ的な要素が見え、左から見れば中国的な要素が見えるような絵を目指すべきである。

 大国には日和見主義だと映るだろう。アメリカから「日本は米中のどちらの味方なのか?」と聞かれたら「アメリカ」と答える。中国から「日本は中米のどちらの味方なのか?」と聞かれたら「中国」と答える。こうした二項混合が成熟すれば、アメリカも中国も一体日本の本音はどこにあるのかと疑心暗鬼になり、味方にするも敵にするも、やすやすとは日本に手出しができなくなる。二項混合は、二項対立的に動く大国の間で小国が生き延びるための戦略である。

 政治の世界においては、小さな政府と巨大な政府の間で、穏健な政府を目指す。二大政党制と一党独裁制の間で、多党制を目指す。ただ、現実的には今の日本で多党制を目指すと、政治屋による野合しか起こらないことが解ってきたので、かつての自民党一党優位で党内に派閥があるような疑似多党制へと戻す。そして、選挙制度も小選挙区比例代表並立制という、2つの選挙制度を単にくっつけたもの(これは二項混合とは言わない)ではなく、中選挙区制にする。小選挙区制では、1つの選挙区に各党から1人しか候補者を出せないため、その候補者は党の政策・方針に忠実に沿った主張しかできない。一方、中選挙区制では1つの選挙区に複数の候補者を出すことができるから、多様な主張を戦わせることが可能となる。

 経済の世界においては、自由主義と国家主導型の市場の間で、行政が適度に介入する市場を目指す。行政が社会的な観点から穏健に市場に介入することで、消費者の効用を高めると同時に、企業や労働者にも適正な富が行き渡るようにする。私は、ドイツの社会的市場経済という考え方が1つのヒントになるのではないかと思っている。

 社会においては、人権重視(権力からの自由)と人権無視(国家の絶対的な権力)の間で、権力の中の自由を目指す。人は生まれながらにして自由・平等であるというロック的な発想を日本は採らない。本ブログで繰り返し書いているように、日本社会は多重階層社会である。各々の日本人は、神によって与えられた能力に応じてそれぞれの階層に配置され、自らの役割を果たす。自分の持ち場で創意工夫を凝らすことこそが日本人の自由である。アメリカの自由が権力からの自由であるならば、日本の自由は全体・権力の中での自由である。福祉の面では、自助努力型の福祉と国家丸抱え型の福祉の間で、市民参加型とでも言うべき福祉を目指す。

 宗教においては、一神教と無神論(個人崇拝)の間で、多神教を選択する。現在の日本人は無宗教の人が多いが、伝統的な多神教の発想をもっと大切にしたい。神はそれぞれの人間に宿る。しかも、人によってその神は異なる。加えて、日本の神は人間のように不完全だ。このように考えると、日本人は多様性に対してもっと寛容になり、支えを必要とする人に救いの手を差し伸べることができるようになるはずだ。宗教における二項混合はやや解りにくいのだが、要するにアメリカ人には、「私は(私の中の)神を信仰している」と言い、中国人には「私はあの(素晴らしい神を宿している)人を尊敬している」と言えるようになればよい。

 教育の世界では、答えは生徒の中にあるという前提に立って教師がコーチに徹する形と、答えは教師の中にあるという前提に立って教師が一方的に生徒に教える形の中間を採って、教師と生徒による創発的学習を実現させたい。生徒も学ぶが教師も学ぶのである。現在の文部科学省の政策は、詰め込み教育と総合学習の間を振り子のように行ったり来たりしている。早く両者を統合する道を発見してほしい。これは企業や組織内の学習にもあてはまることである。

 法律の世界では、法治主義と人治主義(中国も大分法治主義に近づいたと言われるが)の間で、法解釈学の充実という道を採る。法律として明確な文言は作るが、実際の細かい運用の局面においては、必ずしも文言を杓子定規にとらえず、様々な解釈によって柔軟に対応する。これが日本のよさである。ただし、憲法に限っては、法の文言と解釈のバランスが悪くなっていると感じる。特に、9条はあまりにも無理を重ねている。よって、国の自衛権についての考えを早く明記するべきである。共産党は自衛権を書き込むと9条が空文化するなどと言うが、自衛権について何も書かれていない現行憲法から手品のように自衛権を正当化する論理を生み出している方が無茶である。自衛権について明記した上で、ではその自衛権と他の条文との関係はどうなるのか、自衛権の範囲はどこまでとするべきかを議論すればよい。


2018年02月05日

『致知』2018年2月号『活機応変』―小国は国内を長期にわたって分裂させてはならない。特に日本の場合は。


致知2018年2月号活機応変 致知2018年2月号

致知出版社 2018-02


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 2005年5月にブログを始めて約13年、経営やマネジメントについてはそれなりのことが書けるようになったと思うのだが、政治、社会、宗教のこととなるとまだまだからっきしダメである。それでも書かなければ上達しないので、今回も未熟な内容だが政治の記事に挑戦したいと思う。

 江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜と言うと、「政権を投げ出した」、「戦いを放棄して江戸に逃げ帰った」、「決断力や責任感が薄い」、「変わり身が早い」、「意志薄弱な最高司令者」などという評価がつきまとうが、水戸史学会会長・宮田正彦氏の「最後の将軍 徳川慶喜の決断」という記事には次のように書かれている。まず、大政奉還については、
 慶喜は、このまま幕府と倒幕派の対立が激化すれば、国内が分裂し、西洋列強の介入の危機を招いてしまう。だから、ここは政権を朝廷にお返しして、聖断を仰ぎ、共に心を合わせ力を尽くしましょうと言っているのです。
 慶喜は、倒幕派(倒幕派の中にも色々あった)と幕府が長期にわたって対立し国内が混乱すると、倒幕派と幕府の双方に西洋列強の諸国がついて、日本国内の動乱に乗じて日本を分割してしまう恐れを感じていたわけである。大政奉還の後、新政府軍と旧幕府軍の間に鳥羽・伏見の戦いが勃発するが、緒戦で幕府軍が敗戦すると、大坂城にいた慶喜は、京都警備の要職にあった会津藩主の松平容保と桑名藩主の松平定敬を手招き、そのまま数名の家来を伴い、軍艦で江戸に帰ってしまった。この慶喜の行動について、宮田氏は次のように分析している。
 慶喜公が江戸に連れ帰った松平容保と定敬は、いわば京都・大坂における軍の大将です。大将がいない軍は動けません。つまり、慶喜公は逃げ出したのではなく、京都・大坂の軍の動きを封じ、これ以上は絶対に戦わない、という明確な意思表明を行ったのです。そして慶喜公の一意恭順の決断の背景には、先に見たような、幕府に人材がいないこと、徹底抗戦すれば深刻な内戦となり、西洋列強に介入の口実を与えてしまうなど、様々な理由があったと思います。
 ここでも、国内対立の早期収束を図り、諸外国による圧力から日本を守ろうとする慶喜の意図が感じられる。一言で言えば、慶喜は「和」を重視したということだ。この「和」の精神が凝縮されているものの1つに「忍術」を挙げることができるというのが、甲賀伴党21代宗師家・川上仁一氏の「忍術の神髄は和の心にあり」という記事である。
 『秘伝書』では、日の丸のような赤い円の中央に「忍」の1字を置いて、忍術の極意を表しますが、丸はリングの輪、平和・調和の和、異質なものが交わる「和える」にも通じます。つまり、和を実現するには、できるだけ争わず、お互いに忍耐して仲よくすることが大事だということです。
 日本人には、古来から和を尊ぶ精神性や、争いを避けムラの平和を維持する知恵がずっと蓄積されており、それが「総合生存技術」にまで高められたのが忍術なのである。『致知』2018年1月号に、刀匠・松田次泰氏の記事(「一筋の道を極める生き方」)があったが、日本の国宝約1,100点のうち約1割は刀であり、その大半は刃こぼれしていない、つまり使われていないのだそうだ。ここにも日本人の戦わない精神、「和」の精神が現れていると思う。

致知2018年1月号仕事と人生 致知2018年1月号

致知出版社 2018-01


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 「和」の精神の例外として、私は戦国時代と太平洋戦争の2つを挙げたいと思う。戦国時代は、1467年から1477年までの約11年間にかけて京都を混乱に陥れた応仁の乱の結果として到来した時代である。日本全土には戦国大名が群雄割拠し、熾烈な勢力争いを繰り広げた。当時、西洋からはキリスト教が伝来し、九州を中心にキリシタン大名も登場した。宣教師の目的は、単に日本にキリスト教を布教させるだけでなく、それを通じて日本人を精神的に支配し、日本を植民地支配下に置こうとするものであった。つまり、戦国時代とは、日本がその混乱の隙を突かれて、西洋列強によって分割統治される危険性が高まった時代である。奇跡的に、キリスト教は勢力を封じられ、戦国大名の対立は安定した徳川幕府の誕生によって終息したわけだが、この奇跡のメカニズムは今後もっと掘り下げて探究したいテーマの1つである。

 一方、「和」の精神が発揮できず深刻な被害を出したのが太平洋戦争である。太平洋戦争においては、アメリカとの戦争を優先したい海軍と、中国・東南アジアでの戦いを優先したい陸軍の対立によって、日本は両面戦争を強いられた。やや余談になるが、「和」を重んじる日本人は、伝統的に決戦を短期間(数日~数か月)で終わらせる傾向があった。そのため、戦いに必要な物資は現地調達するのが一般的であった。逆に言えば、兵站という考え方が発達しなかったので、戦争が長期化した太平洋戦争では兵站が機能せず、インパール作戦などで多大な犠牲者を出すことになった。両面戦争によって敵を増やしてしまった日本は、戦後はドイツのように分割統治されてもおかしくなかった。だが、ここでも奇跡的に日本は分割統治されず、いわゆる国体が維持された。この辺りの外交プロセスも、一体どうなっていたのか勉強したいと思っている。

 私は本ブログでしばしば、大国は二項対立的な発想をすると書いてきた。大国は常に敵を必要としており、その敵国と二項対立の関係になる。現代は、アメリカ・ドイツという自由主義国家と、ロシア・中国という独裁的国家が二項対立の関係にある。ただ、大国は、敵国とまともに正面衝突すると破滅的な結果をもたらすことを知っているため、大国同士の対立を小国に代理させる。具体的な方法としては、1つには双方の大国の同盟国となっている小国同士を対立させるケース(例:北朝鮮対韓国)があり、もう1つには国内が分裂している小国に内政介入するケース(例:シリア)がある。小国にとっては、いかに大国同士の対立に巻き込まれないようにするかがポイントとなる。特に、争いを嫌い、「和」を重んじる日本にとっては重要な課題である。

 「和」を重んじるというのは、換言すると「情理が論理を超える」ということである。RIETI・岩本晃一氏の「個人では超優秀な日本人が、企業体になるとなぜ世界に負けるのか;日本企業の極めて低い生産性の背景に何があるのか」という記事に興味深い記述があった。
 日本人もドイツ人も、考えることはほとんど大差はない。だが、ドイツ人は成果を出すまで最後までやり遂げる、という点が違う。ドイツ人は理論どおりにやれば、理論どおりの成果が出る筈だと「真面目」「愚直」に実行し、そして理論どおりの成果を出している。一方、日本人は、「確かにそれが正論かもしれないが現実には難しい」という意見が「現実をわかっているやつだ」と評価されて会議を通ったり、新しいプロジェクトには熱心だが、一旦プロジェクトが開始すると多くの人が関心を無くしてうやむやになり、やがて次の新しいプロジェクトに熱中するという現象がよく見られる。例えれば、「子供のサッカー」に見える。みんなでボールを追いかけているのだ。(※太字下線は筆者)
 近年の日本には、世論を二分するような政治的課題が多い。2年前には天皇陛下の生前退位が問題となった。皇室典範に摂政の規定が置かれているにもかかわらず生前退位を認めるならば皇室典範を改正しなければならず、それをせずに生前退位を認めることは皇室典範を空文化し、さらに皇室典範に言及している憲法の規定をもないがしろにすることになりかねない。だから、論理的に考えれば皇室典範を改正するか、もしその法改正作業が大変だというのであれば別の恒久法を立てるかのどちらかしか考えられない。ところが、実際に選択されたのは特措法の制定という一時しのぎの策であった。論理よりも情理が優先した結果である。

 天皇陛下の生前退位を認めるか否かという問題は、直ちに諸外国の介入を招くような類のものではないが、憲法、核、沖縄の基地問題は、下手をすると外国、特に中国の介入を招く可能性がある。昨年の衆議院議員総選挙で改憲勢力が3分の2以上を占めたが、NHKの世論調査を見て私は驚いた。2017年の世論調査によると、憲法を「改正する必要があると思う」は43%、「改正する必要はないと思う」は34%でかなり拮抗しているのである。しかも、「改正する必要があると思う」は、2002年の世論調査から15ポイントもマイナスとなっている。

 安倍総理は、公約で掲げた憲法改正を今年中に行うだろう。最大の焦点は9条であるが、以前の記事「『正論』2018年1月号『非礼国家 韓国の自壊/「立憲民主」という虚構』―日本の左翼の欺瞞」で書いたように、論理的に考えれば、現在の2項を削って代わりに自衛隊のことを書き込むのが筋である。だが、これだと平和主義が崩れると言って反対する国民が多数出ることが想定される。中国も2項削除には強く反発するだろう。すると、2項削除反対派が親中派になびく。中国にとっては、日本の左派を活性化させる絶好のチャンスとなる。日本は親米派と親中派で引き裂かれる。国内分裂を防ぐという意味では、結局のところ現在の憲法解釈で認められている自衛隊の存在を明文上で追認するという9条3項加憲案が無難なのかもしれない。

 ただ、そうは言っても、現在の専守防衛、すなわち「相手から武力攻撃を受けた時初めて防衛力を行使し、その防衛力行使の態様も、自衛のための必要最低限度にとどめ、また保持する防衛力も自衛のための必要最低限度のものに限られる」というのでは、緊迫する東アジア情勢を乗り切れない恐れがある。よって、「相手の武力攻撃を思いとどまらせる程度の攻撃」を認める憲法解釈のロジックを構築する必要はあると思う。2項の「交戦権の禁止」との関係でこれをどのように認めるか、相当頭を使わなければならない(神学的論争に発展するリスクはあるが)。

 北朝鮮の核に対しては、日本も核を持つべきだという意見が右派を中心に見られる。日本が核を保有して東アジアに核の傘を提供せよという過激な主張もある。一方、穏健な提案としては、NATOの核シェアリングのような仕組みを日本に導入するというものもある。アメリカは、かつては絶対に日本に核を持たせないという立場であったが、近年は軟化している。論理的に考えれば、核の脅威に対しては核で対抗するのがベストである。お互いの核の脅威がどうしようもなく高まり、このままでは惨劇がもたらされるという段階に至って初めて、両国間で対話がスタートし、核軍縮に向けた取り組みが始まる。これは冷戦時代に米ソが経験したことであり、また、ソ連の核に対してドイツを中心とするNATOがNPT条約を成立させた手順でもある。

 だが、唯一の被爆国(しかも2回被爆した)である日本が核を保有するとなれば、国民から凄まじい抵抗を食らうと容易に予想できる。そして、先の憲法改正の時と同じように、中国が核反対派を取り込もうと猛烈な働きかけをしてくるに違いない。だから、日本人の情理として、核を保有するのは不可能である。とはいえ、北朝鮮の核の脅威に対して無防備でいるわけにもいかない。日本は迎撃ミサイルシステムを充実させるべきだし、永世中立国であるスイスに倣って、公共の場に十分な数の核シェルターを用意する必要がある。

 憲法、核に関してはまだ国民の分裂が顕在化していないが、沖縄の基地をめぐっては既に分裂の様相を呈している。沖縄県民は「オール沖縄」というスローガンの下、辺野古移設に反対し、さらに国土面積のわずか0.6%にすぎない狭い沖縄県に、在日米軍専用施設面積の約74%が集中しているのはおかしいとして、沖縄県から全ての米軍基地を追い出すことを目標にしている。そのバックには中国がついており、辺野古移設に反対する運動家に対して資金援助をしているという噂もあるが、真偽のほどは定かではない。最近では、沖縄は本土とは独自の文化を持つ独自の民族であると言い出して、沖縄独立論なるものすら登場している。独立した沖縄は琉球時代のように中国の属国となるから、日本としては中国の脅威が一気に増すことになる。

 ここでも、論理的に考えれば、地政学的観点から見て沖縄は中国の太平洋進出を阻止する極めて重要な拠点であるから、沖縄に米軍基地を集中させるのは理に適っている。ところが、沖縄に基地を集中させることで、かえって沖縄が反米・親中に傾いてしまうのでは本末転倒である。よって、ここでも情理を働かせて、沖縄以外の地域を活用しながら中国の軍事的野心を牽制するやり方をそろそろ真面目に検討する時期に来ているように思う。沖縄対本土の対立を長期化させて中国の介入を許し、日本を米中の代理戦争の場にするようなことがあってはならない。


2018年01月25日

『世界』2018年1月号『民主政治の混迷と「安倍改憲」/性暴力と日本社会』―「安保法制は海外での武力行使を可能にする」はミスリード、他


世界 2018年 01 月号 [雑誌]世界 2018年 01 月号 [雑誌]

岩波書店 2017-12-08

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 (1)本号でトランプ大統領とロシアとの関係について取り上げられていたが、本当のことは私にはよく解らない。ロシアがトランプ氏を大統領にすることでどのような国益の実現を狙ったのかは不明である。ただ、トランプ氏が大統領に選出された過程を見ると、以前の記事「【シリーズ】現代アメリカ企業戦略論」で書いた、アメリカのイノベーション創出プロセスと非常に酷似していると感じる。まず、トランプ氏自身が正しい人物であることを唯一絶対の神と約束(契約)する。そして、国民の支持を集める、言い換えれば契約の正しさを人々に信じ込ませるために、あの手この手を使ってプロモーションを仕掛ける。

 その情報は真実なくてもよい。トランプ氏が神のお墨つきを受けた正しい人物だと思わせることが重要である。今回の大統領選ではロシアからアメリカに向けて大規模なサイバー攻撃があったとされるが、そのかなりの部分はアメリカの激戦区に向けられていたそうだ。そして、そのサイバー攻撃を担っていたのが、マケドニアの人々であったことが明らかにされている。マケドニアでは工業が衰退し、若者の失業率が上昇していた。Web上にトランプ氏を支持する(ポスト)真実を投稿するだけで、簡単にお金を稼ぐことができる。マケドニアの若者がこれに飛びつかないわけがなかった(吉見俊哉「トランプのアメリカに住む 第1回 ポスト真実の地政学」より)。

 イノベーションにおけるプロモーションがそうであるように、トランプ氏のプロモーションも国民の嗜好を強引に転換させようとする強硬なものである。だから、当然のことながらトランプ氏に反発する人々が出てくる。トランプ氏は彼らを敵と見なし、徹底的に攻撃する。以前の記事「『組織の本音(DHBR2016年7月号)』―イノベーションにおける二項対立、他」でも書いたように、ここに二項対立が出現する。トランプ氏にとっての敵はヒラリー・クリントン氏である。公開討論において、ヒラリー氏が理路整然と政策を語ったのに対し、トランプ氏はヒラリー氏のメール疑惑を執拗に攻撃し、さらに人格批判まで行った。この場合、真実がどうであるかよりも、相手にいかにクリティカルなダメージを与えられるかの方が重視される。こうしてヒラリー氏に打ち勝ったトランプ氏が晴れて大統領になったというわけである。

 トランプ大統領は、アメリカ流のイノベーションの産物であると言えよう。今回の大統領選の直後には、アメリカ国民が分断され、深刻な亀裂が残ったと報じられた。しかし、本ブログでしばしば書いているように、大国というのは本質的に二項対立的な発想をする国である。だから、どういうメカニズムによるものかは私もまだ十分に明らかにできていないが、アメリカは今回の大統領選で生じた二項対立に今後も上手に対処していくものと思われる。

 (2)
 わが国に対する武力攻撃を排除するための必要最小限度の実力を備えることは、9条第2項が禁じる戦力を持つことではないとしてきた。つまり、自衛隊が「戦力」でないのは、それが専守防衛の実力組織であり(安保法制が施行されるまでは)他国の軍隊のように集団的自衛権に基づき海外で武力行使をすることがないからであった。(中略)しかし、安保法制の施行によって、自衛隊が限定的とはいえ海外でも武力行使ができるようになった現在、それが「戦力」に当たらないことを憲法上「はっきりと分かりやすく」表現することは、必ずしも容易ではなくなった。
(阪田雅裕「憲法9条改正の論点 自衛隊の明記は可能か」)
 私の読み方が悪いのかもしれないが、安保法制や憲法改正をめぐる左派の記事を読んでいると、「現行憲法の自衛隊は専守防衛の実力であり武力行使ができないが、安保法制によって海外における武力行使が可能になった。ここで憲法に自衛隊を明記すると、武力行使が明文によって正当化される。その結果、自衛隊が海外での戦争に巻き込まれる」といった論理を展開しているように感じる。ここでまず注意すべきは、現行憲法の下でも、そして安保法制がなくても、9条第1項の武力行使の禁止に反して、武力行使が限定的に認められているという点である。

 防衛省のHPには次のように書かれている。
 憲法第9条はその文言からすると、国際関係における「武力の行使」を一切禁じているように見えますが、憲法前文で確認している「国民の平和的生存権」や憲法第13条が「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」は国政の上で最大の尊重を必要とする旨定めている趣旨を踏まえて考えると、憲法第9条が、わが国が自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛の措置を採ることを禁じているとは到底解されません。

 一方、この自衛の措置は、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置として初めて容認されるものであり、そのための必要最小限度の「武力の行使」は許容されます。これが、憲法第9条のもとで例外的に許容される「武力の行使」について、従来から政府が一貫して表明してきた見解の根幹、いわば基本的な論理であり、1972(昭和47)年10月14日に参議院決算委員会に対し政府から提出された資料「集団的自衛権と憲法との関係」に明確に示されているところです。
 つまり、自衛権の範囲で武力行使は肯定されているというわけである。そして、武力行使の3要件として、従来は、①我が国に対する急迫不正の侵害があること、②これを排除するために他の適当な手段がないこと、③必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと、が定められていた。この3要件を修正したのが安保法制であり、それによると、武力行使の新3要件は、①我が国に対する武力攻撃が発生したこと、または我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること、②これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないこと、③必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと、とされている。

 ちなみに、通常の集団的自衛権が同盟国に対する攻撃から同盟国を守ることを目的としているのに対し、安保法制で認められた集団的自衛権は、同盟国に対する攻撃から我が国を守ることを目的としているという点で、個別的自衛権の延長線上にあるものだと私はとらえている。さらにつけ加えると、この集団的自衛権は、実際には「使えない」代物であると私には映る。

 2014年5月28日付毎日新聞「安保法制:与党協議 提示された15事例 集団的自衛権が過半数」で紹介された15事例のうち、集団的自衛権の行使に該当するのは事例8~15の8つであるが、集団的自衛権の行使には全て国会の同意が必要とされている。例えば、事例11「米国に向け日本上空を横切る弾道ミサイルの迎撃」については、仮に北朝鮮がアメリカに向けてICBMを発射した場合、日本の上空に達するのはわずか5分程度である。その間に国会を召集し、集団的自衛権の行使の同意を取りつけ、ミサイルを迎撃するのは不可能である。

 また、安倍首相が頻繁にパネルを使って説明した事例8「邦人を乗せた米輸送艦の防護」についても、戦闘地では刻々と危険が増大しており、迅速に邦人を国外に退避させなければならないのに、のうのうと国会を召集しているようでは、結局のところ自衛隊は役に立たない。個人的に、安保法制はアメリカとの同盟・協力関係に対する日本のコミットメントを示す程度の役割しか果たしていないと思う(以前の記事「『躍進トランプと嫌われるメディア(『正論』2016年7月号)』―ファイティングポーズを見せながら平和主義を守った安倍総理という策士、他」を参照)。

 話を憲法改正に戻そう。私は、自衛隊を憲法に明記するべきだと考える。どの国も、自国の領土・領海・領空と国民を防衛してくれる軍隊には最大限の敬意が払われている。日本の自衛隊を海外の軍隊と同列に扱うことには異論もあるだろうが、少なくとも現に日本と日本人を守ってくれている自衛隊のことが憲法からすっぽりと抜け落ちているのは、自衛隊に対する重大な差別である。この異常事態を一刻も早く解決しなければならない。では、具体的にどう憲法に規定すればよいか?以前の記事「『致知』2018年2月号『活機応変』―小国は国内を長期にわたって分裂させてはならない。特に日本の場合は。」でも書いたように、論理的に考えれば交戦権まで否定した9条第2項を削除して新たに自衛隊を規定するのが筋である。だが、交戦権の否定は国民の反対に遭う可能性が高いため、安倍首相が提示した9条第3項加憲が無難であると考える。

 ここで問題になるのは、交戦権が否定された自衛権にどこまでの武力行使が可能かということである。自衛権の歴史を紐解いてみると、1837年のカロライン号事件に行き着く。カロライン号事件とは、イギリス領カナダで起きた反乱に際して、反乱軍がアメリカ合衆国船籍のカロライン号を用いて人員物資の運搬を行ったため、イギリス海軍がアメリカ領内でこの船を破壊した事件である。アメリカ側からの抗議に対し、イギリス側は、自衛権の行使であると主張した。アメリカ側は、国務長官ダニエル・ウェブスターが、自衛権の行使を正当化するためには「即座に、圧倒的で、手段選択の余地がない」ことが必要だと主張し、本件に関しこれらの要件が満たされていることについての証明を求めた。この自衛権行使に関する要件は「ウェブスター見解」と呼ばれる。

 現在、国際的には、「ウェブスター見解」において表明された自衛権正当化の要件である「即座に、圧倒的で、手段選択の余地がない」ことを基礎に、その発動と限界に関する要件が次の3つにまとめられている。つまり、①急迫不正の侵害があること(急迫性、違法性)、②他にこれを排除して、国を防衛する手段がないこと(必要性)、③必要な限度にとどめること(相当性、均衡性)の3つである。日本の武力行使の3要件も新3要件もこれに従っている。だがここで私は、ウェブスター見解にある「圧倒的で」という文言に着目したい。

 以前の記事「『正論』2018年1月号『非礼国家 韓国の自壊/「立憲民主」という虚構』―日本の左翼の欺瞞」でも書いたように、専守防衛に徹し、必要最小限度の武力行使のみを行うだけでは抑止力にならない。自衛権は国内法の正当防衛とは完全にイコールではない。正当防衛であれば、殴りかかってきた相手を殴り返したらそれで事が収まるかもしれない。しかし、国家間の紛争となると、相手は軍事資源が尽きるまで際限なく攻撃をしてくる可能性がある。それに対して必要最小限度の武力行使でちまちまと対抗していてはやがて限界が来る。相手が3発撃ってきたら3発撃ち返すのではなく、5発でも6発でも撃ち返す覚悟があることを示すことが抑止力になる。実際、現在の日本の軍事費は世界で第8位と大規模であり、国土の狭さを考えれば、必要最小限度の規模を明らかに超えている。憲法改正はこの実態も踏まえる必要がある。

 私の考えはこうである。まず、9条第3項として、「前項(=第2項)の規定は、自衛のための実力組織の保持を妨げるものではない」という規定を置く。自衛隊という名称は将来的に変わる可能性もあるため、憲法には書かず、「自衛のための実力組織」という表現にとどめる。また、様々な論者の改憲案を見ていると、「自衛のための『必要最小限度の』実力組織」という文言が使われていることが多いが、前述のように必要最小限度では抑止力にならず、また実態として現在の自衛隊の実力が必要最小限度を超えているので、そのような縛りはかけない。

 そして、武力行使について混乱を来す第1項も修正する。「武力による威嚇又は武力の行使」と言う文言を削除し、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」とする。このように規定すると、「交戦権にまでは至らず、かつ抑止力として最大限の自衛権の行使とは具体的にどの程度の武力行使を指すのか?」が争点となるが、この点は今後の憲法解釈に委ねる。

 (3)日本では、自民党に有利だと言われる選挙制度を修正すると、かえって自民党を利するという不思議な現象が起きる。以前の記事「『世界』2017年12月号『「政治の軸」再編の行方―検証 2017年総選挙』―「希望の党」敗北の原因は「排除」発言ではない、他」では、中選挙区制から小選挙区比例代表制への移行が自民党の一強をさらに加速化させたことを述べた。2017年に行われた衆議院議員総選挙は、選挙権が20歳以上から18歳以上に引き下げられてから初めて行われた選挙であったが、10代は自民党への投票率が高かった。しかし、元々選挙権の年齢の引き下げを強く希望していたのは旧民主党である。

 だが、10代の政治意識は必ずしも成熟しているとは言えない。選挙後に行われた調査で、各政党のスタンスが保守と革新のどちらであるかを年齢階層別に尋ねたものがあるが、これによると、10代~20代は、自民党や維新こそが革新的であり、民進党や社民・共産党は保守であると認識している(BUSINESS INSIDER「「自民党こそリベラルで革新的」―20代の「保守・リベラル」観はこんなに変わってきている」〔2017年10月31日〕。本号でも小熊英二「「3:2:5」の構図 日本の得票構造と「ブロック帰属意識」」で本調査に言及している箇所がある)。保守と革新(リベラル)の違いを正しく認識していない日本の若者像が浮かび上がってくる。

 こう書くと、「では、若者に対して政治教育を実施しよう」という意見が出てくる。選挙年齢が引き下げられた際、学校での政治教育の必要性が主張されたこともあった。しかし、選挙年齢が20歳以上であった時代には政治教育など議論の遡上にも上らなかったのに、選挙年齢が18歳に引き下げられた途端に政治教育が登場するのはおかしい(以前の記事「『震災から5年「集中復興期間」の後で/日本にはなぜ死刑がありつづけるのか(『世界』2016年3月号)』―「主権者教育」は子どもをバカにしている、他」を参照)。選挙権が与えられるということは、その年齢になって政治意識が成熟し、政治的な判断ができるようになったと見なされることである。そして、その政治意識は、教育ではなく、若者が日頃接触する様々な情報によって自然と醸成される。

 現在の10代はインターネットから多くの情報を得ている。しかし、仮にインターネットの影響力が強いのであれば、ネトウヨが跋扈しているWeb上の世界に感化されて、10代の意識は自民=保守、それも強烈な保守に振れるはずである。それとは正反対の結果になっているということは、私は依然としてマスメディアの影響力が強いためだと考える。10代の政治意識が混乱しているのは、各政党が保守や革新に関する党としての考えを適切に発信せず、またマスメディアもそれを適切に報じていない点に負うところが大きいと思う。政党とマスメディアの責任は重い(もちろん、自民党もその責任を逃れられるわけではない)。

 (4)金鐘哲「韓国「ロウソク革命」の中で 小田実太後10年に寄せて」は、韓国が日本の民主政治に説教を垂れているようで、読んでいていい気がしなかった。著者はまずこう述べる。
 韓国の歴代軍事政権や守旧政権も定期的に選挙を行い、形式的に議会制を維持しました。日本を長期的に支配してきた自民党政権や今日の安倍政権もそうで、またいわゆる民主主義の模範国家といわれる米国の政治も選挙と議会政治をしていますが、その民主主義は見かけだけという現実がますます明確になっています。
 つまり、形式としての民主主義ではなく、その実質が問われなければならないとしている。ところが、著者は日本の民主主義がいわゆる下からの革命を経験していないことを問題視し、逆に韓国のロウソク革命が下からの革命、しかも無血革命を実現したことを賞賛している。
 普段はどんなに苦痛や不満があってもじっとそれに耐えていますが、決定的な瞬間にはためらうことなく抵抗的な行動に打って出るのが、韓国近代の民衆運動史の大きな特徴になってきました。そうしなければ、支配勢力は少しも譲歩しないし、奴隷的な生活を強要される状況は少しも変わらないことを、韓国人は長年にわたる王朝時代と植民地時代、そして独裁政権時代を通じて痛感してきたからです。李承晩の独裁政権に対抗して決起した1960年4月の経験、1980年の光州民主抗争、そして軍部独裁政権を終わらせた1987年6月抗争は、そうした抵抗運動の大きなな流れを形成してきた代表的な事例です。今回の「ロウソク革命」も結局、その抵抗運動の延長線上で展開された闘争であったことはあえて説明するまでもありません。
 ここで著者は、民主主義は下からの革命という形式を取らなければ獲得できないという形式論に陥っており、先ほどの主張と矛盾する。そもそも、1987年の6・29民主化宣言によってようやく民主主義が実現した”急造”民主主義国家に、明治時代の自由民権運動から大正デモクラシーを経て日本国憲法に民主主義が定着した歴史を持つ日本のことを批判されたくない。それに、民主主義とは権力を一部の限定された人間に集中させないための仕組みであるにもかかわらず、韓国では民主主義によって選ばれた大統領がほぼ例外なく権力に溺れ、失脚している。その韓国に、一体日本の民主主義をとやかく言う資格があるだろうか?

 ロウソク革命に関するレポートを読むと、革命の中核を担っていたのは親北派の活動家であるとされている。近年の韓国は左傾化が進んでおり、それが文在寅というウルトラ親北派の大統領の誕生として結実した。現在、アメリカは中国と協力して北朝鮮の非核化を進めている。アメリカと中国の関係は、対立もあれば協力もあるという非常に複雑な関係であるが、私は、北朝鮮問題を機に米中が手を握るのを恐れている。そして、北朝鮮が非核化し、中国が北朝鮮に傀儡政権を打ち立てれば、韓国は喜んで北朝鮮と統合するであろう。すると、日本は米中と朝鮮半島の国に囲まれるという危機に陥る。そうなった場合、日本がどうすればよいか、私には妙案がない。もしかすると、ロシアと手を結ぶという選択肢が浮上するのかもしれない。



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