2017年02月10日
『子どもの貧困―解決のために(『世界』2017年2月号)』―左派的思考を突き詰めると、「人間が問題を起こすのは人間がいるからだ」という救いのない話になる、他
世界 2017年 02 月号 [雑誌] 岩波書店 2017-01-07 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
(1)
家では勉強できないからマクドナルドなどに行けば、当然何か買わなければいけないし、長時間いるとお店の人に追い出される。貧困層の子どもがマクドナルドに行けるのかという素朴な疑問も生じるが、確かにここ数年で、マクドナルド、スターバックス、ドトールなどで勉強する高校生をよく見かけるようになったと思う。彼らは家が貧乏だからマクドナルドに来ているのか、それともお金に余裕があるから来ているのかは正直なところ解らない。高校生に直接、「君の家はお金持ちか?貧乏か?」と聞いてやりたいものの、最近は知らない人が子どもに話しかけるだけで警察に通報される世の中になってしまったため、そういうことはやらない。それに、私には子どもの貧困を語るほどの知見もないから、貧困問題にはこれ以上立ち入らないこととする。
(湯浅誠、阿部彩「子どもの貧困問題のゆくえ」)
私は最初、「親の金でスターバックスで勉強するとは何て贅沢なんだ」と反射的に感じていた。しかし、自分が大学生の頃は親の仕送りのお金でスターバックスなどを利用していたから(もちろん、アルバイトの稼ぎも使っていた)、そういう批判は引っ込めることにする。では、高校生がスターバックスなどを使うことに対する私の中の反感はどのように説明したらよいだろうか?
そもそも、彼らはなぜスターバックスなどを利用するのであろうか?家で勉強しないのはなぜだろうか?考えられるのは、家には誘惑が多すぎるからということであろう。家にいるとテレビを観てしまう、インターネットをしてしまう、スマートフォンでゲームをしてしまう、漫画を読んでしまう、勉強せずに寝てしまうなど、彼らにとっての言い訳は山ほどあるに違いない。だから、その誘惑を断つために、スターバックスなどの空間を利用していると考えられる。しかし、高校生の年齢で、いわばお金の力を借りなければ誘惑を断ち切れないというのは何とも寂しい話である。
数々の誘惑がある環境の中でも、自分のゴールに向けて邁進する努力を若いうちに積んでおく必要がある。高校を卒業した後には、もっとたくさんの誘惑が待ち構えている。高校生のうちに、お金の力で強制的に誘惑を排除することに慣れてしまった人は、高校卒業後に数々の誘惑に簡単に負けてしまう恐れがある(高校生の時にカフェで勉強することが習慣になっていた人と、タバコ、アルコール、ギャンブルなどの中毒との関連を調べると、何か重要な示唆が得られるかもしれない)。やはり、勉強は自宅でやることを習慣とすべきである。
(2)辺野古基地建設をめぐっては国と沖縄県が激しく対立し、行政裁判にまで発展した。私は(法学部の出身でありながら、)行政法にはとんと疎いので、詳しいことは書けないのだが、本号の記事で1つだけ気になったことがあったため、触れておく。
まず、事案の内容を整理すると、以下のようになる。
(a)2013年12月、仲井眞・前知事は埋立承認事業の承認を行った(本件埋立承認)。
(b)2015年10月に、翁長・現知事は本件埋立承認を職権で取り消す処分を行った(本件取消処分)。
(c)2016年3月、国土交通大臣は沖縄県知事に対して「本件取消処分の取消しを行え」という内容の「是正の指示」を行った(本件是正指示)。
(d)知事は、本件是正指示に従った措置を取らなかった(本件不作為)。
そこで、国土交通大臣は、地方自治法251条の7第1項に基づき、(d)が違法であることの確認を求める訴えを福岡高裁那覇支部に提起した。
この裁判は最高裁まで持ち込まれたが、最高裁の結論を簡単に書けば、(a)は違法ではなく、違法ではない(a)を取り消す(b)は違法であるから、違法な(b)を是正する(c)は合法である、ということになる。最高裁は(b)に関して、次のように判示している。
《処分に違法等があると認められないときには、行政庁が当該処分に違法等があることを理由としてこれを職権により取り消すことは許されず、その取消しは違法となる》「処分に違法等があると認められない」と判断するのは、当然のことながら裁判所である。そして、判決では、違法等の判断基準を次のように示している。
(岡田正則「「政治的司法」と地方自治の危機」)
《事実の基礎を欠くものであることや、その内容が社会通念に照らし明らかに妥当性を欠くものであるという事情がある場合に限って、処分に違法等があると認める》(同上)この文章から、本記事の著者は、次のような論理を展開する。
これは、裁判所が担当行政庁と同じ立場で緻密な審査ができないために、担当行政庁の裁量的な判断を尊重するために用いる基準である。そうすると、この判決は、一方で、違法等の有無に関する審査能力の点で担当行政庁よりも裁判所の方が劣ることを認めながら、他方で、裁判所の審査結果を優越させるべきだと断定していることになる。(同上)これはよく考えると恐ろしい話である。裁判所が十分な審査能力を持たないと判断された分野に関しては、行政庁が合法か違法かを決めてよい、ということになるからだ。本事案に関していえば、辺野古埋立問題に関して裁判所は沖縄県よりも審査能力で劣るため、(a)が違法であると沖縄県知事が判断することは合法であり、したがって違法な(a)を沖縄県自身が後から取り消す(b)も合法である、という話の流れになる(沖縄県側もこのような判決を期待したのだろう)。つまり、司法はもはや「法の門番」たる唯一の機関であることを否定されていることになるのだ。これは三権分立を根本から揺るがす非常に危険な問題であると感じる。
(3)
ところが、衆参両院で27年ぶりに単独過半数を得た自民党内では9条改正に取り組もうという機運は全くと言って良いほど盛り上がっていない。それどころか、自民党は国会の憲法審査会で行われる改憲論議を9条改正とは程遠い、参院選の合区解消へとシフトさせようと働き始めている。最近、めっきり憲法改正の話を聞かなくなったと思ったら、現在の自民党内部はこういう状態になっているらしい。参院選の合区制とは、一票の格差を解消するために、人口の少ない複数の都道府県をまとめて1区として扱う制度である。ただし、これだと、一票の格差は解消されても、各都道府県の利害が適切に参議院に反映されないという弊害が生じる。そこで、参議院議員を「国民の代表」と定めている現行憲法を改正して、「都道府県の代表」と明記することが議論されているのだという。こうすれば、一票の格差問題は回避されると考えているらしい。
(園田耕司「9条改正、保守派の葛藤」)
9条改正の機運がしぼんでしまったのは、安保法制の成立によって一応は集団的自衛権の行使が可能となったためであると著者は指摘する。だが、個人的には、集団的自衛権の行使が可能になったとしても、9条に第3項を追加して、自衛隊の位置づけをはっきりさせるべきだと思う。この形であれば、公明党が強く求めている「加憲」の条件も満たすことができる。
国家の3要件は、主権、領土、国民である。そして、主権とは、その国家自身による他、他の意思に支配されない、国家統治の権力のことである。仮にある国の主権を脅かす国などが現れた場合には、国家を守るために自衛権を行使できることが国際法でも認められている。自衛隊は、国家の本源的な権利を行使するための重要で崇高な部隊である。その自衛隊について憲法で一言も触れられていないのは、ある意味憲法による露骨な差別である。
本号では、国連人種差別撤廃員会が日本に対する勧告の中で、沖縄は民族性、歴史、文化、伝統、言語などの面で独自性を持っており、その沖縄に軍事基地が集中していることは「現代的形成の差別」、「人種主義の現代的形態」であると指摘したことが紹介されている(五十嵐敬喜「辺野古裁判と憲法14条「平等権」違反」)。しかし、沖縄が差別されているという問題と同様に、自衛隊も差別されているという点にもっと目を向けるべきではないだろうか?
(4)学術会議は、1950年に次のような声明を出している。
われわれは、文化国家の建設者として、はたまた平和の使徒として、再び戦争の惨禍が到来せざるよう切望するとともに、先の声明を実現し、科学者としての節操を守るためにも、戦争を目的とする科学の研究には、今後絶対に従わないというわれわれの固い決意を表明する。学術会議の前身である「学術研究会議」が、「科学者の戦争動員に積極的な役割を演じた」と指摘され、GHQ主導で「学術の民主化」が進められたことが影響しているという。「日本は科学で負けたが精神では負けていなかった」という言葉や、日本の学術研究が縦割り化しており、「八木アンテナ」のような重要な発明を他の分野に応用する動きが見られなかったと野中郁次郎氏が指摘していることを踏まえると、この学術会議の声明は私には少々意外に聞こえた。
(井野瀬久美恵「軍事研究と日本のアカデミズム」)
私が左派の主張でしばしば理解に苦しむのは、何か重要な問題が生じると、その原因を一律禁止してしまえばよいと主張する点である。武器を持つと戦争が起きるから禁止しよう、原子力発電は事故が起きると甚大な被害をもたらすから禁止しよう、化石燃料は地球温暖化につながるから禁止しようといったグローバルな問題に始まり、生徒に弁当を持たせると、忙しい母親や貧しい母親は十分な弁当を子どもに持たせることができず、学校でいじめが起きるから、弁当の持参は禁止しよう、街中で子どもに挨拶してくる知らない人は実は誘拐犯かもしれないから、挨拶されても無視しようといった日常生活上の問題にまで、左派的な思考は広く蔓延している。
だが、こういう左派的な思考を突き詰めていくと、「人間が問題を起こすのは人間が存在するからだ」ということになり、究極の解決策は「人類が全員自殺すること」となってしまう。さすがにこれでは全く救いがなくなってしまうから、次に考えられるのは、世界同時革命を通じて全世界の人々が皆等しくピュアになればよいということになる。
しかし、これでも十分にユートピアである。左派が世界中の人々の頭の中にICチップでも埋め込んで、左派的に統一された思考回路で制御しない限り、こんな世界は実現しないだろう。人間が作り出すものには、どんなものでもよい面と悪い面が存在する。その両面性を意識した上で、悪い面を制御しながらいかにしてよい面を引き出すのか、それも個人の利益のためだけではなく集団の利益になるように知恵を絞ることが、人間の理性を鍛えることになる。「臭いものには蓋」方式の左派的な思考では、理性は退廃する。
左派が描くユートピアとは異なり、現実の世界にはよい人(組織、国家)もあれば悪い人(組織、国家)もある。悪を封じるために、人間が作り出したものの悪い面を敢えて強調することも正義として正当化しうる。野中郁次郎氏は、「賢慮型(フロネティック)リーダーシップ」というコンセプトを提唱しており、その要件として以下の6つを挙げている。
1.「善い」目的をつくる能力フロネティック・リーダーシップの目的は「善」を追求することである。しかし、その過程において、政治力、時にはマキャベリ的な政治力を発揮すべきだと野中氏は主張している。善は左派が考えるようなピュアな心だけでは実現しない。場合によっては、悪を伴うパワーを行使しなければならないのである。その時、人間は大いに苦悩する。本当にその悪を発揮してよいのか、その悪によって悪を大きく上回る善を実現できるのか、悪を正当化し人々を納得させる論理を持ちうるか、こうした葛藤を耐え抜くことこそが、真の理性の働きである。
個別状況の中で「何が善いことか」についての判断(judgement)を下す能力
2.場をタイムリーに創発させる能力
人間存在の根底にあるケア、愛、信頼、安心など感情の知(Social Capital:社会関係資本)を共有する場をつくる能力
3.アクチュアリティを直観する能力
時々刻々と変化する、ありのままの個別具体の現実を凝視し、その背後にある本質を直感的に見抜く状況洞察能力
4.本質直観を生きたシンボルに変換する能力
ミクロの直観を、マクロの構想力(歴史的想像力、ビジョン、テーマ)と関係づけ、対話を通じて抽象化し、概念化し、仮説化し、物語化して、説得する能力
5.言語を結晶化する能力
情熱と勇気を持って、あらゆる手段や資源を、時には巧妙に、マキアヴェリ的政治手法も理解して、ビジョンを実現する政治力
6.賢慮を育成する能力
個人の全人格に埋め込まれている賢慮を、実践の中で伝承し、育成し、自律分散的賢慮(distributed phronesis)を体系化する能力
(5)
米軍幹部が「パイロットは居住地を回避、住民に犠牲者を出さなかったことは感謝されるべきだ」と、のたまったという。2016年12月14日に、沖縄県で米軍のオスプレイが海上に墜落するという事件が発生した。その日の午後、安慶田副知事は沖縄の米軍トップ・ニコルソン四軍調整官を訪問し、事故について抗議した。その後、記者団に対し、ニコルソン四軍調整官が「県民、あるいは住宅や人間に被害を与えなかった。感謝されるべきだ。表彰ものだ」と発言したと説明した。これが引用文のような認識につながっている。インターネット上では、"Should be thankful that there was no damage."の訳であるという話が出回った。
(神保太郎「連載第110回 メディア批評」)
ところが、安慶田副知事とニコルソン四軍調整官の面会は非公開であり、メディアは誰もその内容を知らない。実は、先ほどの"Should be thankful that there was no damage."という文も、あるツイッターユーザの憶測に過ぎないことが判明した。面会後、ニコルソン四軍調整官が実際に記者団に語ったのは、次の内容である。
「オスプレイは不安定な飛行になっていたが、嘉手納などに飛んで沖縄の民有地の上空を飛ばないよう、それを避けて、キャンプシュワブに近い浅瀬に着陸しようと判断した」「私は、若い彼が下した判断に賞賛を送りたい。彼がもっとも難しい状況の中で下した判断に。嘉手納や普天間に戻る経路を取らず、できるだけ沖縄の人たちを守るために、海の近くに向かったのだから」「彼は本当によい判断を下した。彼がとった行動は、沖縄の人々を守る行動だった」「私たちは事故について、まことに遺憾(regret)に思っていると副知事にも伝えた。しかし、沖縄の人々を危険に陥れなかったパイロットの判断がそうだった、とは思っていない。必要な訓練の成果だった」
記者が「では、謝罪はしないということか」とさらに聞くと、こう続けた。「遺憾(regret)の意味は何か。謝罪(apology)だ。私は本当に、この事故を遺憾に思っている」(以上、時事通信「オスプレイ事故でデマ、「朝日新聞が意図的な誤訳」にソースはなし 米軍司令官「感謝されるべき」発言」〔2016年12月15日〕より)。つまり、ニコルソン四軍調整官は「感謝されるべきだ」などとは一言も言っておらず、遺憾(regret)の意を表明することで謝罪(apology)している。引用文の認識は全くの誤りである。著者がこの記事を2月号の原稿締切に間に合わせるために急いで書いたため、誤りを訂正する時間がなかったという言い訳は通用しない。というのも、「感謝されるべきだ」発言が嘘であることは、事故の翌日には時事通信によって報じられているからだ。
メディアは、こうした民衆と交錯する場の中で、言葉の貧困化を食い止め、さらなる劣化を防がなければ、やがて自分の拠って立つ足場さえ失うだろう。(同上)著者のこの言葉を、そっくりそのまま著者に対してブーメランで返してやる。