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東京大学史料編纂所『日本史の森をゆく』―「婆娑羅」は本当に「婆娑」+接尾語「ら」なのだろうか?
【メモ書き】日本の土地制度の変遷(平安時代後期~鎌倉時代まで)
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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京23区、神奈川県川崎市・横浜市を中心に活動する中小企業診断士・コンサルタント。

 専門領域は、(1)経営ビジョン・事業戦略の策定、(2)ビジョンや戦略とリンクした人材育成計画の立案・人事評価制度の構築、(3)人材育成計画に沿った教育研修プログラムの企画・開発。

 モットーは「日々改善、日々成長」、「実事求是」、「組織のためではなく知識のために働く」、「奇策は定石より先に立たず」、「一貫性(Consistency)」、「(無知の知ならぬ)無知の恥」

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 ブログタイトルに、oasisの往年の名曲『Whatever』を入れてみた。

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2015年03月03日

東京大学史料編纂所『日本史の森をゆく』―「婆娑羅」は本当に「婆娑」+接尾語「ら」なのだろうか?

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日本史の森をゆく - 史料が語るとっておきの42話 (中公新書)日本史の森をゆく - 史料が語るとっておきの42話 (中公新書)
東京大学史料編纂所

中央公論新社 2014-12-19

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 (前回の続き)

 前回の記事では、本書を読んで目から鱗だった5つの発見について整理したが、今回の記事では、1か所だけ本書で引っかかった箇所を取り上げたい(遠藤基郎「「婆娑羅」から考える」)。

 建武3(1336)年、足利尊氏の弟である直義主導の下に、室町幕府の基本方針として編まれた「建武式目」の第1条には次のようにある。
 近日婆佐羅と号して、専ら過差(かさ)を好み、綾羅(りょうら)・錦繍(きんしゅう)・精好(せいごう)・銀剣、風流(ふりゅう)服飾、目を驚かさざるはなし、頗(すこぶ)る物狂(ぶっきょう)と謂(い)うべきか。
 「婆佐羅」の語源は、梵語(サンスクリット語)の「vajra(伐折羅:バジャラ)=金剛石(ダイヤモンド)」だとされる。全てのものを粉々に砕く金剛石のイメージから、「常識にとらわれない自由な作法」へと意味が転じ、そこからさらに、「身分の上下を問わず、派手な格好で遠慮をせずに振舞う者たち」を指すようになった。高校の日本史のテストでは、この「婆佐羅」をカッコ書きにして、空欄を埋めるように指示する問題が出ることがある。鎌倉幕府から室町幕府へと体制が移行する動乱の時代において、婆佐羅は不安定な時代を象徴する存在であった。

 ところが、遠藤氏はこの通説に異論を唱える。
 そもそも伐折羅を語源と見るのに疑問が残る。濁音「ジャ」から清音「サ」へというのは、音の変化として不自然である。実際には、「婆娑」という言葉が語源であり、接尾語の「ら」がついたものと考えるべきではないか。「婆娑」の意味は、①「舞う人の衣服の袖が美しくひるがえるさま。また、舞いめぐるさま」、②「さまよいめぐるさま。徘徊するさま」である(『日本国語大辞典』)。おそらく①の意味が転じて②が生み出されたのであろう。
 遠藤氏は、①の具体的な使用例として、『続教訓抄』の次の一文を取り上げる。
 下﨟の笛ともなく、ばさらありて仕るものかな。友正が笛を御笛にして、御笛を楽人のにしたらむ、いかが。
 笛の名手であった堀河天皇は、ある日父白河院のもとを訪れ、これまた当代きっての笛の名手と称された楽人・友正と競演した。それを聴いた白河院の言葉がこれである。遠藤氏は、この「ばさら」を通説通りにとらえると、意味が通らなくなると主張する。むしろ、前述の①の意味にとって、舞人の衣服の袖が美しく翻るように変化に満ち、抑揚に富んだ表現力豊かな演奏であったことを称賛した言葉であると解釈している。

 私見であるが、ここはやはり通説通りに解釈するべきだと思う。冒頭で、一般的な「婆佐羅」の意味には、(a)常識にとらわれない自由な作法、(b)身分の上下を問わず、派手な格好で遠慮をせずに振舞う者、という2つがあると述べた。堀河天皇の時代は平安末期だから、(b)すなわち室町時代の「婆佐羅」の意味は確立されておらず、(a)と(b)の中間の意味であった可能性がある。よって、『続教訓抄』の一文は、「友正は身分が低い者に似つかわしくなく、自由で型破りな演奏をする」となる。遠藤氏の解釈では行儀がよすぎて、友正の躍動感が伝わってこない。

 そもそも、濁音「ジャ」から清音「サ」への変化が本当に不自然なのかも疑問である。「ジャ」が「シャ」になり、さらに「サ」になった例は、探せば見つかりそうなものだ(私は言語学に詳しくないので、よい例がぱっと思いつかないのが残念である)。また、「婆娑」に複数人を意味する接尾語の「ら」がどうしてくっついたのかも不明である。加えて、①の上品な意味が、どのようにして②のネガティブな意味に転じたのかについても言及されていない(本書では、執筆者1人あたり4ページ程度しか与えられていないので、十分に論じる余地がなかっただけかもしれないが)。

 ところで、「婆佐羅」が②の意味で使われている例として、遠藤氏は『太平記』を挙げている。
 「威勢を誇った武士が、家来をひきつれ総勢60騎ばかり、紅葉狩り・野遊びの帰り道、肥えた馬に千鳥足を踏ませ市中を練り歩く。金襴緞子の小袖をこれ見よがしにひけらかし、金銀で飾った太刀を下人にもたせ、流行の田楽節を歌い、酒を呷っての大騒ぎ。その手には真っ赤な紅葉が振りかざされていた」

 派手な出で立ちで、千鳥足で騎馬する一群。まさに「徘徊」していたのである。つまり佐々木導誉に代表される足利方武士たちは、その傍若無人な「徘徊」=婆娑する様を、婆娑羅と気取って自称したのだ。わざわざ公家の舞楽の用語であった婆娑羅を使ったあたりに、没落した公家勢力=後醍醐方への強烈な当てこすり、諧謔の精神がほの見える。婆娑羅そのものの意味ではなく、その使いかたこそが前衛的だったのである。
 しかし、室町時代の南北朝動乱を描いた『太平記』は、一貫して南朝=後醍醐天皇寄りの書物であり、公家勢力=後醍醐方を当てこする理由がない。遠藤氏の解釈に従うと、後醍醐天皇擁護派の太平記著者が、公家用語である婆娑羅を用いて、没落した公家勢力を非難したという、おなしな話になる。ここは素直に、作者が後醍醐天皇の敵である足利氏の傍若無人ぶりを非難しているととるべきではないだろうか?「婆娑羅」と「婆娑」は全く別の用語であって、「ばさら」に漢字をあてる際にたまたま「婆娑」が使われただけではないかと思われる。

2014年08月12日

【メモ書き】日本の土地制度の変遷(平安時代後期~鎌倉時代まで)

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笹山晴生 佐藤信 五味文彦 高杢利彦

山川出版社 2013

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 (前回からの続き)

 (5)【10~11世紀】10世紀になると政府は方針を転換し、国司に一定額の税の納入を請け負わせて、一国内の統治を委ねる方針を取り始めた。国司は有力農民(田堵)に一定の期間を限って田地の耕作を請け負わせ、かつての租・調・庸・公出挙利稲や雑徭などの税・労役に見合う額の官物・臨時雑役などの負担を課すようになった。課税対象となる田地はという徴税単位に分けられ、それぞれの名には負名と呼ばれる請負人の名がつけられた。田堵の中には国司と結んで勢力を拡大して、ますます大規模な経営を行い、大名田堵と呼ばれる者も現れた。

 8~9世紀に生まれた初期荘園(後の寄進地系荘園と比較して墾田地系荘園と呼ばれる)の多くは衰退していった。しかし、10世紀以降になると、次第に貴族や大寺院の権力を背景として中央政府から租税の免除(不輸)を承認してもらう荘園が増加し、地方の支配が国司に委ねられるようになってからは、国司によって不輸が認められる荘園も生まれた。

 10世紀後半以降になると、大名田堵が各地で勢力を強めて盛んに開発を行い、11世紀には開発領主と呼ばれて一定の地域を支配するまでに成長する者が多くなった。かれらは在庁官人となって国衙の行政に進出するとともに、他方で国司から圧力が加えられると所領を中央の権力者(権門勢家)に寄進し、権力者を領主と仰ぐ荘園とした。

 寄進を受けた荘園の領主は領家と呼ばれ、この荘園がさらに上級の大貴族や皇室の有力者に重ねて寄進された時、上級の領主は本家と呼ばれた。そして開発領主は下司などの荘官となり、所領の私的支配を今までよりもさらに一歩推し進めることになった。こうした荘園は寄進地系荘園と呼ばれ、11世紀半ばには各地に広まった。

 (6)【11~12世紀】荘園の増加が公領を圧迫していると見た後三条天皇は、1069(延久元)年に厳しい内容の延久の荘園整理令を出した。この整理令は国司任せではなく、中央に記録荘園券契所を設けて荘園の所有者から証拠書類を提出させ、これと国司の報告とを合わせて審査し、年代の新しい荘園や書類不備のものなど、基準に合わない荘園を停止した。摂関家の荘園も例外ではなく、整理令はそれなりの成果を上げた。

 しかし、白河上皇・鳥羽上皇・後白河上皇の3上皇による院政の時代には、大量の荘園がその基盤となった。特に鳥羽上皇の時代には、院や女院に荘園の寄進が集中した。鳥羽法皇が皇女八条女院に伝えた荘園群(八条院領)は平安時代末に約100か所、後白河法皇が長講堂に寄進した荘園群(長講堂領)は鎌倉時代初めに約90か所という多数に上る。大量の荘園は、公領に対する知行国の制度と合わせて、院の財政を支えた。

 (7)【12世紀】1185(文治元)年、平氏の滅亡後、源頼朝の強大化を恐れた後白河法皇が義経に頼朝追討を命じると、頼朝は軍を京都に送って法皇に迫り、諸国に守護を、荘園や公領には地頭を任命する権利、また1段あたり5升の兵粮米を徴収する権利、さらに諸国の国衙の実権を握る在庁官人を支配する権利を獲得した。

 守護は原則として各国に1人ずつ、主として東国出身の有力御家人が任命されて、大犯三カ条(皇居を警護する京都大番役と、謀叛人・殺害人の逮捕)などの職務を任とした。また、平安時代後期以来、各地に開発領主として勢力を伸ばしてきた武士団、特に東国武士団は御家人として幕府の下に組織され、地頭に任命されて、強力に所領を支配することを将軍から保障された。

 (8)【13世紀】自らの支配権を拡大しようとする武士たちは、荘園・公領の領主や、所領の近隣の武士との間で年貢の徴収や境界の問題をめぐって紛争を起こすことが多かった。特に承久の乱後には、畿内・西国地方にも多くの地頭が任命され、東国出身の武士が各地に新たな所領を持つようになったから、現地の支配権をめぐって紛争はますます拡大した。

 領主たちは、紛争を解決するために、地頭に荘園の管理一切を任せ、一定の年貢納入だけを請け負わせる地頭請所の契約を結んだり、さらには現地の相当分を地頭に分け与える下地中分の取り決めを行うものもあった。幕府もまた、当事者間の取り決めによる解決(和与)を勧めたので、荘園などの現地の支配権は次第に地頭の手に移っていった。

カテゴリ: 歴史 コメント( 0 )
2014年08月11日

【メモ書き】日本の土地制度の変遷(古代~平安時代中期まで)

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 今年から取り組んでいる高校歴史の再勉強、日本史はようやく鎌倉時代までの3分の1を完了した。頭の整理用に、日本の土地制度の変遷をまとめておこうと思う。こういう時代をまたいだ理解は、高校時代にはなかなかできなかったなぁ・・・。

 今さら言うまでもないことだが、「生産手段を所有する者が権力を握る」というのが歴史の鉄則である。近代までは主たる生産手段=土地であるから、土地の所有者が政治的な権力を掌握する。日本では、最初は朝廷=国家が土地所有権を独占していたが、だんだんと民間に移り、やがて幕府と朝廷がともに土地を所有するようになった。

 近代になると、機械という新たな生産手段が生まれて産業革命が起こり、新たな権力としての資本家が誕生した。そして現在は、ピーター・ドラッカーが言うように知識が重要な生産手段となっている。知識労働者(ナレッジワーカー)は、資本家と対立する労働者ではなく、資本家と労働者が融合した存在である。労働者が資本家を打ち倒すというマルクスが描いた夢は、資本家の権力を労働者が手に入れるという形で決着した。歴史を振り返ってみると、権力は社会階層の頂点から徐々に下層へと移っていき、現在は最下層にまで行き渡ったと言えるだろう。

 (1)【7世紀前半】乙巳の変(645年)後の新政府は、翌646年正月、4か条からなる改新の詔を発した。それは、(a)皇族や豪族が個別に土地・人民を支配する体制をやめて国家の所有とし(公地公民制)、豪族には代わりに食封などを支給する、(b)地方の行政区画を定め、中央集権的な政治の体制を作る、(c)戸籍・計帳を作り、班田収授法を行う、(d)新しい統一的な税制を施行する、というもので、新しい中央集権国家のあり方を示している。

 ただし、『日本書紀』に記されている改新の詔は、後の令の文によって修飾されたと思われる部分もある。6年ごとに戸籍を作り、班田収授を行うという後の令の制度が、この時から行われたかどうかは疑わしい。

 (2)【7世紀後半】中大兄皇子は白村江の敗戦後の667年、都を近江(大津宮)に移し、翌年には即位して天智天皇となった。天皇は最初の令である近江令を定めたと言われ、また670年には全国にわたる最初の戸籍である庚午年籍を作り、改新政治の推進に努めた。その後、天武天皇を挟んで、その皇后が持統天皇として即位すると、庚寅の年(690年)には天武天皇が定めた飛鳥浄御原令に従って庚寅年籍が作られ、班田収授の制度が確立した。

 (3)【8世紀】農民にとって、調・庸の都への運搬(運脚)や、雑徭などの労役の負担は厳しく、生活の苦しい農民の中には、口分田を捨て、戸籍に登録された土地を離れて他国に浮浪したり、都の造営工事の現場などから逃亡したりして、地方の豪族などの元に身を寄せ、律令制の支配を逃れる者が増えた。こうして8世紀の末には、調・庸の滞納や品質の低下が目立ち、国家の財政や軍備にも大きな影響を及ぼすようになった。

 人口の増加に対して口分田が不足してきたためもあって、政府は田地の拡大を図り、722(養老6)年には百万町歩の開墾計画を立て、翌723(養老7)年には三世一身法を施行して、農民に開墾を奨励した。さらに743(天平15)年には、政府は墾田永年私財法を発布し、開墾した土地は、定められた面積を限って永久に私有することを認めた。

 この政策は、登録された田地を増やすことによって土地に対する政府の支配を強める効果があったが、反面、実際に土地を開墾できる能力を持つ貴族や寺院、地方豪族などの私有地拡大の動きを刺激することにもなった。ことに東大寺などの大寺院は広大な原野を独占し、国司や郡司の協力を得、付近の農民や浮浪人などを使って大規模な開墾を行った。これを初期荘園と呼ぶ。初期荘園は後の荘園とは異なり、国家の力を背景とし、その支配の仕組みを利用して作られたものが多かったため、9世紀以降律令制が衰えるとともに、その大部分が衰退した。

 (4)【9世紀】9世紀になると、戸籍には男子の数を少なくするなど偽りの記載が増え(偽籍)、班田の施行も8世紀の終わり頃からその実行が難しくなった。桓武天皇一紀(12年)一班に改めて励行を図ったが、9世紀には30年、50年と班田の行われない地域が増えた。

 一方、農業技術に優れ、多くの米を所有する一部の有力な農民は、周辺の貧しい農民に米を貸し付けたり、租税を肩代わりしたりして彼らを支配し、墾田の開発を進めて勢いを強めた。政府や中央の貴族も、これら有力農民の力を無視できなくなった。

 調・庸などの租税の納入の減少は、国家の財政にも影響を及ぼした。政府は、公営田(大宰府管内)・官田(畿内)など直営方式の田を設けたりして財源の確保に努めたが、やがて中央の官司はそれぞれに自分の田を持ち(諸司田)、国家から支給される禄に頼ることができなくなった官人たちも、有力農民の持つ墾田を買い取るなどして自分の田を持ち、それを生活の基盤とするようになった。9世紀には天皇も勅旨田と呼ばれる田を持ち、皇族にも天皇から田が与えられた(賜田)。中央集権的な律令の制度は、こうして財政の面から崩れ始めた。

 (続く)

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