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『世界』2018年9月号『人びとの沖縄/非核アジアへの構想』―日米同盟、死刑制度、拉致問題について
カレル・ヴァン・ウォルフレン『誰が小沢一郎を殺すのか?画策者なき陰謀』―事実の裏づけなき検証

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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

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2018年08月31日

『世界』2018年9月号『人びとの沖縄/非核アジアへの構想』―日米同盟、死刑制度、拉致問題について


世界 2018年 09 月号 [雑誌]世界 2018年 09 月号 [雑誌]

岩波書店 2018-08-08

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 (1)以前の記事「『正論』2018年8月号『ここでしか読めない米朝首脳会談の真実』―大国の二項対立、小国の二項混合、同盟の意義について(試論)」で、私の軟な政治観を披露してしまったが、今回も再び、まだ考えが十分に煮詰まっていないことを承知の上で記事を書きたいと思う。古代より、国際政治は同盟関係を中心に組み立てられてきた。同盟は、同盟関係を結ぶ同士が同じ仮想敵国を想定していることが前提である。だが、現在の国際政治は多元的であり、大国も小国もくっついたり離れたりを繰り返している。仮想敵国は固定的ではない。よって、古典的な同盟の意味は再考を迫られていると感じる。

 日米同盟も例外ではない。確かに、戦後の日本は日米同盟のおかげで平和と繁栄を享受することができた。しかし、その反面、失ったものも多い。私は本ブログでしばしば日本の多重階層社会を「神⇒天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/NPO⇒学校⇒家庭(国民)」とラフスケッチし、下の階層が上の階層に対して「下剋上」できることが日本人の美徳であると書いてきた(以前の記事「山本七平『帝王学―「貞観政要」の読み方』―階層社会における「下剋上」と「下問」」などを参照)。ところが、戦後の日本では神の上にアメリカがどっぷりと座り込み、日本はアメリカに対して「下剋上」をすることができなかった。

 まず、日本国憲法を制定する段階で、日本の封じ込め策の1つとして、戦力を放棄させられた(その後、自衛権だけは認められたが)。平和憲法については、幣原喜重郎が草案を作成していたとか、明治時代から続く中江兆民、植木枝盛、三浦銕太郎、石橋湛山、高野岩三郎、鈴木安蔵の平和主義や小国主義の思想が発露したものであるとか言われるが、一般的にはマッカーサーが示した第2原則に従ったものと理解されている。その後、アメリカの自由主義的な教育が流入し、日本の道徳や倫理観が崩壊した。日本人は、周囲の人々とのかかわり、公共性の中で自己を形成するという価値観を持っていたのに、アメリカから入ってきたのは、まずは自分自身を確立するという個人主義であった。その結果、日本の伝統であった共同体や相互扶助の精神は失われ、自分さえよければよいという歪んだ自己崇拝が趨勢を占めるようになった。

 経済に関しても、アメリカの介入は露骨であった。もちろん、戦後の日本が製造業を中心に急成長を遂げたのは、アメリカが1ドル=360円という超円安で長年据え置いてくれたからという一面もある。だが、その円安を背景とした日本のアメリカに対する輸出増が問題になると、アメリカは日本企業に対し、アメリカでの現地生産・アメリカ人雇用を強制し始めた。その内容は「前川レポート」としてまとめられている。さらに、これに飽き足らないアメリカは、日米構造問題会議という名の日本の経済構造を矯正することを目的とした会議で、郊外の公共工事にアメリカ企業を参加させることを要求した。これによって郊外まで道路が伸びた結果、郊外に大型のショッピングセンターが乱立し、中心地の商店街は衰退した。21世紀の話で言えば、アメリカは郵政民営化を裏で操り、日本郵政の株式を大量に売買して、多額のキャピタルゲインを獲得した。

 アメリカは経営にも大きな影響力を及ぼしている。アメリカのSOX法が日本に流入しJ-SOX法が制定され、企業の内部統制が強化されたが、これによって、日本企業の経営は社員同士の信頼をベースとするものから、社員間の不信を前提とするものに変質してしまった。さらに近年では、コーポレートガバナンス改革の一環としてスチュワードシップ・コードが導入されている。これは、顧客をはじめ、社員、取引先など多様なステークホルダーの利害のバランスを重視する日本の伝統的な経営慣行を蹴散らし、株主至上主義へと塗り替えるものである。

 対中戦略という意味では、中国が太平洋に進出するルート上に存在する沖縄県に米軍基地を集中させるのが論理的にはベストだろう。しかし、日本という国は、「論理的に考えるとその通りだが、現実を踏まえるとこういう風に変えないといけないよね」といった具合に、論理と情理の両方を重んじる国である。だから、情理に基づいて沖縄県以外の選択肢も検討するべきであった。しかし、果たして日本はアメリカに対して「下剋上」をしただろうか?政府は、普天間基地の辺野古移設をめぐって、「辺野古は唯一の解である」と繰り返している。国防は国家機密であるから、国民がその検討過程をつぶさに知ることは不可能である。この辺野古という解が、論理と情理のバランスを通じ、アメリカとの主体的な協議の結果導き出されたものであれば解る。しかし、実際には、単にアメリカにそう言わされているだけのような気がしてならない。

 2015年に成立した安保法制も、表向きは集団的自衛権を認めたものとされているが、法律の文言を厳密に読めば個別的自衛権に毛の生えた程度であり、日本の防衛力がちょっと上がったぐらいにしか私はとらえていない。それよりも問題なのは、どさくさに紛れて、条文が拡大解釈され、アメリカが戦争をしている国に自衛隊が後方支援で出向くことができるようになった点である。アメリカが中東で戦争をしていても、アメリカに対する脅威がやがては日本の脅威となるならば、集団的自衛権を行使する対象となるという理屈である。そんなことを言えば、これだけグローバル化が進んだ世界では世界のどこかの脅威は何らかの形で日本の脅威になるのだから、自衛隊の出動範囲は無限に広がってしまう。アメリカが世界のどこで戦争をしようと勝手だが、それにいちいちつき合わされる自衛隊はたまったものではない。日本には日本なりの国際貢献の考え方と方法があるのであり、それをアメリカに蹂躙される筋合いはない。

 現在、アメリカと中国は東シナ海、南シナ海をめぐって対立を深めている。日本とアメリカが日米同盟に基づいて合同軍事演習を行うほど、中国は態度を硬化させている。日本がアメリカに近づくとかえって中国の怒りを買うというのは、かつての民主党政権末期にも見られた現象である。日米同盟があるから第一列島線が守られているという見方が成立すると同時に、日米同盟があるがゆえに中国が意地になって第一列島線を破ろうと躍起になっていると言えなくもない。以前、「岡部達味『国際政治の分析枠組』―軍縮をしたければ、一旦は軍拡しなければならない、他」という記事を書いた。米中の軍事力は未だ非対称であり、今後もしばらくは軍拡競争が続くだろう。だが、どこかのタイミングで対話のフェーズへと移行する必要がある。

 サミュエル・ハンチントンは、文明が衝突する時戦争が起きると書いた。しかし、現在の大国は大きすぎて簡単には戦争ができないと思う。あのアメリカとロシアでさえ、最後まで戦火を交えることはなかった。冒頭で紹介した記事でも書いたように、大国同士はお互いが対立して壊滅的な被害を受けないよう、近隣の小国を巻き込んで代理戦争をさせようとする。南シナ海に関しては、中国はASEAN諸国をアメリカ側と中国側に分断してアメリカ側の日本と対立させ、小国同士の小競り合いへと持ち込んで、その隙に南シナ海を奪おうとするだろう。現に、中国はメコン川に有害物質を流すと脅して、メコン川が流れるタイ、カンボジア、ラオスを中国側に引き込んでいる(東シナ海については、おそらく将来的に朝鮮半島に誕生する反日統一国家を使って日本と対立させ、その隙に第一列島線まで進出しようとするに違いない)。

 だから、冒頭に掲載した記事が示唆するように、日本は大国の思惑を回避し、神経分裂症的な外交でASEANと混じり合い、連携し、ちゃんぽん戦略を展開して、中国に対し小国なりの独自の価値を訴求しなければならない。このように書くと、「中国に南シナ海を取られた上に、さらに中国を利するのか」という批判が起こりそうである。しかし、今解っているのは、中国と対立するとかえって中国の敵愾心を煽るだけだということである。それならば、いっそ発想を180度転換してみるしかない。ちゃんぽん戦略で中国に資すれば、中国は思いがけない価値の獲得によって軍事的野心を多少なりとも緩めるかもしれないという可能性に私は賭けてみたい。

 それに、中国に資することと利することは、その意味するところが全く異なる。中国に利するとは、例えば中国との国境付近に経済特区を作って中国企業を誘致したが、社員は皆中国人で自国民が雇用されず、優遇措置だけをいいように使われた挙句、企業の利益もほとんど中国に持って行かれた、といった事例のことである。端的に言えば、経済的資源だけを中国にむしり取られることが中国を利することである。そうではなく、あくまでもちゃんぽん戦略に基づく小国独自の価値を提供しなければならない。だから、当然のことながら、中国と対立するアメリカに対しても、同時にちゃんぽん戦略を実行する必要がある。

 これはあまりにも日和見的でナイーブな外交に見えるかもしれない。伝統的な同盟は、味方となる大国から庇護を受けられる代わりに、敵国から猛烈な反発を食らうリスクがあった。とはいえ、これは非常に単純な構図であった。これに対して、これからの国際関係は、小国を大国同士の代理戦争の図式から救い出し、協調関係を活かして対立する双方の大国にアプローチし、両国から「あの国は攻撃してはダメだ」と思ってもらえるような、「文化の安全保障」を確立することが肝要である。ここにおいて、特定の国を仮想敵国として固定する古代以来の前提は崩壊する。この新しい外交の具体的な方策については、私も考えが十分でない。しかし、同盟がその意義を失いつつある現代においては、その代わりを探す努力をしなければならない。

 米中関係も、いつまでも対立が続くとは限らない。ある日突然、米中が手を結ぶ可能性もある。過去には、キッシンジャーの極秘訪問からニクソン大統領による国交樹立へと至る動きもあった。トランプ大統領がディールを重視して、中国の一帯一路構想に乗っかり、さらにシーレーンを米中で共同管理しようと言い出すかもしれない。その際、日本をはじめとする小国があらかじめ米中双方と関係を構築することができていれば、「日本はアメリカと仲がよいが、中国とは仲が悪いからシーレーンを使わせない」といった妨害を受ける恐れが低くなる。

 ここからは完全に私の妄想だが、米中の間では日本に関する密約が既にでき上がっている可能性も考えられる。それはつまり、アメリカは日米同盟によって日本を経済的には豊かにする一方、政治的には前述のような様々な足枷を加えることで二流国家にとどめておき、機が熟したら日本を中国に売り飛ばしてアメリカが儲けるという密約である。こうした思惑に翻弄されるのを防ぐためにも、日本は双方の大国に対して自律的な外交を展開する必要がある。

 (2)オウム真理教の元代表である麻原彰晃(本名・松本智津夫)元死刑囚ら7人の死刑が7月6日に執行され、残り6人の死刑も7月26日に執行された。地下鉄サリン事件から23年が経って、13人の死刑囚全員に刑が執行された。死刑制度に反対するEUは早速、日本に対して懸念を表明した。これもまた浅い内容の記事だが、以前「『正論』2018年4月号『憲法と国防』―なぜ自殺してはいけないのか?(西部邁先生の「自裁」を受けて)」という記事を書いたことがある。キリスト教圏のEUが死刑制度に反対している理由は私にはよく解らない。だが、この記事からは、日本においては必然的に死刑制度は廃止すべきだという結論が得られる。

 日本は(森喜朗元首相がどんな批判を浴びようとも)神々の国である。神々の世界には集合意識という見えない存在がある。ここには、今まで生きてきた大勢の日本人の記憶が刻まれている。言い換えれば、日本人という民族の歴史の集合体である。集合意識というと、物理学者デイビッド・ボームの「内蔵秩序」(我々が普段目にする「顕前秩序」の背後にあって、人々の意識を統一する無意識の秩序)が想起される(以前の記事「オットー・シャーマー『U理論』―デイビッド・ボームの「内蔵秩序」を知らないとこの本の理解は難しい」を参照)。ただ、一神教文化圏に生きるボームの内蔵秩序が全体性(ホールネス)を帯びているのに対し、多神教文化である日本の集合意識は、多様な人間の生きざまが詰まっている。

 神々は人間に寿命を設定し、肉体という器を貸し出してこの世に送り出す。もちろん、肉体には精神も宿っている。ただし、肉体は初めから一定の機能を果たすのに対し、精神はほとんど白紙である。集合意識から精神を切り出して新しく生まれる人間に日本人の伝統を受け継がせればよいところだが、神々は敢えてそうはせず、人間が一生をかけて精神を鍛錬することを期待する。そして、神々が設定した寿命を迎えると、神々は貸していた肉体を回収し、鍛え上げられた精神を集合意識へと統合する。ここで、日本の神々は欧米の唯一絶対親とは異なり、完全な存在ではないから、寿命の設定にはバラツキがある。日本人は、自分に設定された寿命を知る術がない。それでも、神々が設定した寿命を全うすることが日本人の使命である。

 寿命を全うすることは神々との約束であるから、絶対に破ってはならない。ここに、自殺が否定される理由があるというのが先ほどの記事の内容であった。自殺をした人間は、まだ神々が設定した寿命を迎えていないから、神々がその精神を回収しに来てくれない。すると、その精神は集合意識に統合されない。ということは、日本民族の精神の発展に寄与しないことになる。せっかく神々によって与えられた生を、その人は無益にしてしまったのである。よく、自殺をすると周りの人が悲しむから、あるいは周りに多大な迷惑がかかるから止めておくべきだと言われるが、私は自殺が許されない一番の理由はここにあると考える。

 では、死刑についてはどうであろうか?本号では、憲法の条文から死刑が違憲であることを導いている記事があった。木村草太「死刑違憲論を考える―『存在してはならない生』の概念」によると、死刑制度は憲法18条( 奴隷的拘束及び苦役からの自由)、36条(拷問及び残虐な刑罰の禁止)、19条(思想及び良心の自由)、13条(個人の尊重)に反する可能性が高いという。私自身は、別の理由から、死刑を認めるべきではないと考える。(1)で示した日本の多重階層構造に従うと、神々は国家権力よりも上に位置する。その神々が設定した寿命を、いくら国家権力であっても奪うことは、社会構造上許されない。自殺した人間と同様、死刑を執行された人間も、死亡時期が寿命とずれるため、神々がその精神を回収しに来ることができない。

 何人もの尊い生命を奪った人間は許しがたい、生命をもって償うべきだという立場を私が理解していないわけではない。しかし一方で、自分が犯した罪の重大さや意味について、寿命が尽きるまで、本人が嫌だと言っても考え続けるようにするというのも、罪の償い方だと思う。人間、特に日本人は社会的・公共的動物であるから、独房で黙々と思考を重ねるだけで精神が変化するのかという意見もあるだろう。だが、受刑者とて完全に孤立しているわけではなく、他の受刑者との交流もあれば、弁護士との接見もある。また、遺族が許せば、遺族と接点を持つこともある。限定的ではあるものの、社会的つながりを通じて、精神を見つめ直す機会は存在する。

 はっきり言って、極悪な犯罪を犯した人間には社会的更生など期待していない。実際、出所できたとしても、生きていく場所はほとんどないだろう。仮に一生を刑務所で過ごすとしても、その人なりに自分の精神と苦闘したという事実が重要であって、彼が寿命を迎えた時、神々がその精神を回収して集合意識に統合する。彼は社会的には大きな損失を与えたが、日本人の精神的発展という点ではプラスなのである。これは、相模原障害者施設殺傷事件を起こした犯人のように、おそらく一生かかってもその精神が変わらないであろう人間でも同じである。集合意識は美しい、正の歴史ばかりとは限らない。歴史とは闇を抱えるからこそその深みを増すのである。だから、この事件の犯人も、何があっても寿命を全うしなければならない。

 ここでもう1つ、全く別の問題提起をしてみたい。認知症で記憶を失い、事理弁識能力を欠く人はどうであろうか?もはや神々から課された精神の鍛錬ができないのではないだろうか?という問題である。これは自分で立てておきながら回答するのが非常に難しい問題である。認知症になっても、その人を支える家族などには新しい役割と人生の意味が与えられることになるから、認知症の人にも生きる価値があるのだなどとは私は決して言わない。それはちょうど、街中でポイ捨てをすると、それを清掃する人の雇用が生まれるからポイ捨てはしてもよいのだという、アメリカ人などによく見られる摩訶不思議な理屈と同じである。

 私は決して認知症に詳しくないため、誤解している部分があるかもしれないが、認知症の場合、短期記憶に問題があることが多く、長期記憶は保たれているケースがあるらしい。さっき食べた昼ご飯のことは忘れてしまうのに、若い頃のことはよく覚えているといった具合だ。前述のように、日本人の寿命は神々が設定する。ということは、現代の高齢社会を招いたのも神々の仕業である。ただし、これもまた前述の通り、日本の神々は不完全であるから、高齢社会がこのようなものになるとは完全には予期していなかったのだろう。

 少なからぬ高齢者が認知症になるのは、神々がその限定合理性ゆえに寿命を長く設定しすぎた日本人に対して、「もうこれ以上物事を覚えて精神を酷使しなくてもいいよ」と神々がサインを送っているためなのかもしれない。覚えられただけの記憶と、鍛えることができただけの精神を持って死を迎えればよい。今の私にはそう回答することしかできない。ただ、日本人や医師には死に対する潜在的な恐怖というものがあり、事理弁識能力を欠く認知症の本人の意思とは無関係に、胃ろうなどを使って延命措置をしようとすることがある。延命も、神々が設定した寿命を狂わせる行為であるから、私は止めるべきだと考える。人間が寿命を迎えたら自然に死ぬ、そういう当たり前の尊厳死が迎らえる世の中であってほしい。

 (3)アメリカは未だに、核兵器を保有する北朝鮮に対する制裁の手を緩めていない。こういう言い方をすると若干語弊があるが、核開発に対しては制裁をかけやすい。アメリカは北朝鮮の核兵器によって自国の安全が脅かされているから、それを防止するために制裁をかけて、北朝鮮の核開発能力を削ぐというのは自然な発想である。だが、北朝鮮は、アメリカがいくら制裁を課しても、中国とロシアという2つの抜け道があり、核開発を継続できることを知っている。そして、核開発が相当程度進んだ段階で、突然「やっぱり核開発を止めた」と宣言し、アメリカから見返りを求めるのである。この段階では、開発された核兵器が大規模なものになっているため、アメリカから相当なお土産を期待できる。北朝鮮はここまでを計算ずくでやっている。

 一方で、日本が直面している拉致問題はどうだろうか?核開発の問題と拉致問題を同列に扱うと怒られるかもしれないが、拉致問題は核開発の問題ほど大きな問題ではない。政府が拉致被害者として認定しているのは17人、警察が「拉致の可能性を排除できない」としている人は約900人である。ただ悪いことに、北朝鮮は拉致問題は解決済みと言い張っているため、日本としても安易に制裁をかけにくい。だから、日本は核開発に対する制裁とセットで拉致問題に関する制裁を課すという、アメリカへの便乗外交しかできない。

 さらに言えば、核開発と違って、拉致問題はこれ以上大きくなる可能性がまずない。北朝鮮は、いちいち日本人を拉致して北朝鮮国内で教育(洗脳)し、日本に送り返して工作活動をさせるのはあまりにも手がかかると気づいている。そして、そういう拉致活動を、中国やロシアが今後も支援するとは考えられない。だから、拉致被害はこれ以上拡大せず、制裁を強化し続けて北朝鮮を追い詰める正当性がない。安倍政権は最大限の圧力をかけて拉致問題を解決すると言うものの、単にジリ貧の制裁が長々と続くだけで、問題の解決には至らないだろう(制裁をかけるなら、現在日本国内に数千人~2万人いるとも言われる工作員の身元を洗い出し、元締めの組織を特定して、その組織に制裁をかけた方がよっぽど効果的である)。

 ただ、拉致被害者の人数が少ないからと言って、日本政府は何もしなくてよいということにはならない。国家の重要な役割の1つは、国民の生命を守ることである。その生命が1人でも外国によって脅かされている以上、国家はその救済に乗り出す責務がある。現在、政府は「拉致問題が解決したら国交を樹立する」という立場を取っている。だが、これは、「北朝鮮とは永遠に国交を樹立するつもりがない」と言っているようなものである。私は、リスクを承知の上で、国交を先に回復し、平壌に日本大使館を置くという案を提案したい。今までは非公式のルートを通じて拉致被害者の情報を断片的に収集してきたが、大使館を置けばもっと情報収集が容易になる。もっとも、北朝鮮は、大使館関係者を拉致被害者が死亡したとされる現場に連れて行ってお茶を濁すだろう。しかし、大使館が適切に情報を入手していれば、「そんなことはない」と突っぱねることができる。私は、制裁よりもこちらの方が問題解決の近道になると感じる。

 右派からは、北朝鮮と国交を樹立すれば、東京のど真ん中に、未だに社会主義革命を目指す危険な北朝鮮の大使館ができ、北朝鮮による工作活動を刺激してしまうと心配する声が上がっている。だが、それを言うならば、社会主義革命どころか、日本の領土・領空・領海の略奪を画策している、北朝鮮よりももっと恐ろしい中国の大使館が既に東京のど真ん中に存在しているのだから、批判としては不十分である。そして、(2)で述べたように、いつまでも日米同盟を盾に中国と対立するのではなく、中国とも上手くやっていく道を模索しなければならない。北朝鮮に関しては、繰り返しになるが、おそらく反日の南北統一国家が将来的に朝鮮半島に誕生するだろう。だが、反日だからと言ってこの新国家を恐れるのではなく、むしろその懐に入り込み、日本と南北統一国家が米中の代理戦争を演じないようにしなければならない。

2012年12月14日

カレル・ヴァン・ウォルフレン『誰が小沢一郎を殺すのか?画策者なき陰謀』―事実の裏づけなき検証


誰が小沢一郎を殺すのか?画策者なき陰謀誰が小沢一郎を殺すのか?画策者なき陰謀
カレル・ヴァン・ウォルフレン 井上 実

角川書店(角川グループパブリッシング) 2011-03-02

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 Amazonのレビューは高評価が多いみたいだけど、個人的にはうーんという感じ。

 Q.誰が何のために小沢氏を殺すのか?
 A.官僚組織が既得権益を守るために小沢氏を殺す。官僚組織にとっての既得権益とは、「日米同盟の下で安全保障をアメリカに丸投げし、自らは自国の経済発展(とそのおこぼれとしてもらえる利権)のみに集中すればよい」という、戦後から現在まで続く体制そのものである。政治主導を掲げて既得権益に踏み込もうとする小沢氏は反乱分子であるため、検察とタッグを組み、マスコミを利用して”人物破壊”を行っている。

 本書の内容をまとめればこのぐらいで収まる。ウォルフレンの著書は、昔読んだ『人間を幸福にしない日本というシステム』や『怒れ!日本の中流階級』などの方が切れ味が鋭かった気がする。思い出補正がかかっているのかなぁ?

人間を幸福にしない日本というシステム人間を幸福にしない日本というシステム
カレル・ヴァン ウォルフレン Karel Van Wolferen

毎日新聞社 1994-11-01

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怒れ!日本の中流階級怒れ!日本の中流階級
カレル ヴァン・ウォルフレン Karel Van Wolfren

毎日新聞社 1999-12-01

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 本書は、先日紹介した『約束の日 安倍晋三試論』ほどの細かい分析がなされておらず、前述の結論だけを最後まで強引に押し通した印象を受ける。日本に政治主導の政治が根づかず、官僚機構が非公式な権力を持つに至った歴史的背景も、またマスメディアがどのように小沢氏を攻撃したかについても、具体的な事実や新聞記事がほとんど取り上げられず、著者の主張だけがどんどん進んでいってしまう。

 意地悪な見方をすれば、確かに政治家主導によって官僚の仕事は多少減るかもしれないが、現代国家の構成要件の1つとも言える官僚機構そのものがなくなることは絶対にない。しかも小沢氏は、「官僚が経済だけに集中していてはダメだ。これからは軍事力の増強も考えなければならない」と主張しているわけであり、むしろ官僚の役割は増える可能性が高い。しかも、軍事産業という、これもまた利権が生まれやすいビジネスを、官僚にもたらしてくれるかもしれないのだ。その小沢氏を、官僚がみすみす殺そうとする意図が不明である。

 現在の内外の情勢を踏まえると、日本の政治のあるべき姿はこうである。そして、小沢氏の発想はまさにその方向性に合致しており、小沢氏の理想が実現されれば、官僚をはじめとする既得権益はこういう点で大きなダメージを受ける。したがって、官僚がマスコミ・検察を利用して小沢潰しにかかっている、という話の展開であれば、非常に納得感がある。ところが、一貫して官僚が悪い、マスコミが悪い、のオンパレードであり、最後の方は食傷気味になる。

 小沢氏はなぜ、普天間基地問題をめぐって日米関係が最も深刻な危機を迎えていた2009年末に訪中を行ったのか?小沢氏が賛同する「日米中正三角形論」を実現させる具体的な算段は、この時構想されていたのだろうか?

 あるいは、そもそもなぜ小沢氏が「右派と左派の玉石混合状態の政党」である民主党に身を置いたのか?民主党は先の衆院総選挙のマニフェストで、国民にたくさんのアメをちらつかせておきながら、政権交代が実現するや外国人参政権法案、人権救済法案など左寄りの法案を通そうとしていた。また、EUに倣った「東アジア共同体」構想では、政治的価値観や国家規模が近いヨーロッパ諸国と、体制や規模が全く異なるアジア諸国との違いを無視して、安易に「国家主権を共同体に委譲する」などと憲法草案に盛り込もうとした集団である。

 小沢氏は、こうした政党で活動をしながら、1993年の『日本改造計画』で掲げた「新しい保守主義」をどうやって実現させるつもりだったのだろうか?そこに実現可能性の高い戦略や戦術はあったのだろうか?そして、小沢氏の打ち手はどのようにして既得権益によって握りつぶされたのか?こういった論点に踏み込んだ内容ならば、もっと面白い本だっただろう。




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