2014年05月26日
日本とアメリカの「市場主義」の違いに関する一考
以前の記事「山本七平『日本人と組織』―西欧と日本の比較文化論試論」に続いて、またしても乱暴な(?)日米比較文化論を展開してみたいと思う。抽象的で根拠のない記述と思われるかもしれないが、一つの野心的な試みとしてとらえていただければ幸いである。
本ブログでは最近、一神教と多神教というキーワードをたびたび用いている。アメリカは言うまでもなくキリスト教の国であり、一神教の国である。実は、世界を見渡してみると、完全な一神教を採用している国の方が稀だ。同じく一神教とされるイスラームやユダヤ教は、アニミズムに対して寛容である。最近でこそ、イスラーム原理主義の排他的な側面ばかりが注目されるものの、歴史的に見ればイスラームは他の民族に自らの宗教を強要することの方が少なかったとされる。
ヨーロッパはキリスト教圏であるが、キリスト教以前には多神教の文化が根づいていた。そこに一神教のキリスト教が登場したから、最初は暴君ネロやディオクレティアヌスらのローマ皇帝から厳しい迫害を受けた。その後、コンスタンティヌスによってキリスト教が容認され、テオドシウスの時代に国教とされたことで、キリスト教はヨーロッパでの地位を獲得していったわけだが、ヨーロッパの根底には多神教的な要素を受け入れる素地があると言ってよいだろう。
おそらく先進国の中ではアメリカが唯一、建国当時から一神教であったと思われる。そしてアメリカは、唯一絶対の神に選ばれた国であり、神の意図に従って世界を進歩させる使命を負っているという選民意識が非常に強い。だから、アメリカが正しいと信じることは世界にとっても正しいのであり、アメリカは自国の信念を世界中に浸透させようとしている。具体的には、自由、平等、人権、民主主義、市場主義といった基本的価値観である。
アメリカ人は、表向きは政教分離のスタンスをとっている。しかし、実際にはこれらの基本的価値観を強く信じているという点では、もはやそれは宗教に近く、キリスト教の代わりに”アメリカ教”とでも呼んだ方がよいだろう。アメリカの政治とは、アメリカ教の布教活動である。そしてこれこそ、アメリカが進めるグローバリゼーションの正体である。
アメリカは多様性に寛容な国とされるが、アメリカの市場主義は、多様な製品・サービスを共存させる仕組みではない。多様なプレイヤーを激しく競争させて、No.1を決めるのがアメリカの市場主義である。キリスト教では、個人が信仰を通じて神の意思に触れることができるとされる。アメリカ教においてもこの点は同じだ。各プレイヤーは神に祈り、神の意図を予測して、「私は、今の顧客はこういう製品・サービスを求めていると”思い込んでいる”」というものを市場に投入する(もちろん市場調査もするが、アメリカ人はイノベーターの”直観”を称賛する)。プレイヤーの構想はバラバラであるから、市場には多様な製品・サービスが大量にあふれることになる。
その後、真に神の意図を反映した製品・サービスがどれであるかを決定するデスマッチが始まる。見事、市場シェアNo.1を獲得した製品・サービスこそ、神の意図に沿った”正しい”製品・サービスであり、それ以外は神の意図に反した”誤った”ものだと判定される。神のお墨つきをもらったプレイヤーは、他社の製品・サービスを使っていた残りの顧客に対し、神の力を利用して自社の製品・サービスを”強要”する権利を得られる。こうして、No.1だけが大勝利を収め、他方で大量の敗北者が生み出される。これがアメリカの市場主義である。
アメリカ国内で神が正しいと認定した製品・サービスは、必然的に世界的にも正しいものだとアメリカ人は考える。アメリカ企業のグローバル化とは、神の認定を受けた自社製品・サービスをそのまま世界中にばらまくことである。国によってニーズが違うことは考慮されない。むしろ、顧客側のニーズを自社の製品・サービスに合わせるよう要求する。2014年3月時点での世界時価総額ランキングを見ると、上位50社の中にアメリカ企業が29社ランクインしているが、そのほとんどは、世界でデファクトスタンダードを確立した製品・サービスを持つ企業である。
ただ、困ったことに、アメリカ教の神は移り気が激しい。非連続的に進歩を求める神は、「昨日まではこういう世界がいいと思っていたが、やっぱり別のこういう世界の方がよさそうだ」と翻意する。神は1人しかいないので、こうした神の心変わりは多大なる影響を及ぼす。地上にいる企業にとっては、昨日までよかれと思ってやっていたのに、ある日突然はしごを外されるようなものだ。だから、アメリカでは大企業であっても突然潰れる。しかし、それは神の意思によるものだから、アメリカはそういう企業を敢えて救済しない。国民の税金を使って救済しようものなら、国民から厳しい非難を浴びるだろう(GMが政府によって救済されたのは、例外中の例外である)。
以上が一神教であるアメリカ教の下における市場主義であった。グローバリゼーションというアメリカ教の布教活動に影響されている日本も、市場主義という価値観を一応は共有している。しかし、多神教である日本の市場主義はアメリカのそれとは大きく違う。お客様は神様であり、その神様がたくさんいる。したがって、日本の市場では、多様な顧客が多様なニーズを抱えており、ニーズの数だけ多様な製品・サービスが存在し、バラエティに富んだ製品・サービスを多様なプレイヤーが提供する、という構図になる。つまり、多様なプレイヤーが共存しうる。
一方、日本では社会制度が硬直的である。企業の新陳代謝が活発なアメリカとは異なり、一度企業ができ上がると、それをできるだけ長く存続させようとする。いわゆる、「ゴーイング・コンサーン」である。興味深いことに、日本では制度は永続性を目指すが、人間的な存在である神様には寿命がある。多神教の日本では、新しい神が生まれては消えていく。よって、企業がその規模を維持するには、常に市場の中に新しい神を探し求め、多様な神々を自社システムの中に取り込み、神々にお伺いを立てて製品・サービスを変え続ける必要がある。
企業名は同じでも、システムを構成する神々の顔ぶれは時々刻々と変化する。言い換えれば、製品・サービスや事業のポートフォリオが漸進的に変化していく。これが日本企業の特徴である。
ここで、日本の文化とは馴染みがない企業経営の手法を採用するとどうなるだろうか?具体的に言えば、アメリカ的なグローバル経営を取り入れるとどうなるだろうか?全世界を統治する神の意図を日本人が予測して、「私は、今の顧客はこういう製品・サービスを求めていると”思い込んでいる”」というものを作ったとしよう。
残念ながら、日本人にはそこまでの構想力はない。日本企業は多様な神々を自社システムの中に囲い込み、神々と意見をすり合わせながら製品・サービスを形にしてきた。そのすり合わせプロセスをすっ飛ばしたら、市場ニーズから遊離した独善的なものしかでき上がらない。しかも、もともと多神教の世界に生きていたせいで、全世界を統治する唯一神も多様なニーズを持っていると勘違いしてしまい、その期待に一気に応えようと、あれもこれもと機能を追加してしまう。
世界市場から相手にされない製品・サービスを作ってしまった日本企業は、当然のことながら経営不振に陥る。しかし、ゴーイング・コンサーンの考え方があるので、簡単に企業を潰すことができない。そこで、経営不振の部門を切り離し、他の企業に吸収合併させるなどして延命を図る。ところが、吸収合併して規模が大きくなった企業は、企業規模に見合った成果を出さなければならないと焦り、世界に広く通用する製品・サービスを開発しようとする。だが、この試みは先ほどと同じ理由で失敗する。こうして、どうにも打つ手がなくなって最後に白旗を揚げる。エルピーダやルネサス、家電業界がたどった道はこういう道ではなかっただろうか?
日本企業の強みは、市場に密着し、多様なニーズをくみ取って多様な製品・サービスに反映させると同時に、ニーズの変化に応じて漸次的に自らの組織を変化させる点にあると考える。欧米企業の目には、こうした日本企業のやり方は「戦略がない」、「基軸がない」と映るかもしれない。しかし、これこそが日本的経営なのである。戦略や基軸に縛られないのが日本企業の戦略であり、戦略の曖昧さを利用して漸次的かつ迅速に変身(変心?)することが、日本企業の得意技である。ミンツバーグが「創発的戦略」と呼んだのは、こういうことだったのではないだろうか?
(※)トヨタが年間生産台数1,000万台を突破したことで話題になったが、トヨタもちょっと危ないような気がしている。トヨタの経営はどちらかと言うとアメリカ企業に近く、トヨタ生産方式とトヨタウェイを世界中に輸出して、世界中で均質な自動車を生産する傾向が強い。設計・生産効率を上げるために、部品のモジュール化も進めている。
今までは、生活スタイルも道路事情も似ている先進国が中心の事業であったから、これでよかったのかもしれない。しかし、最近は経済成長のスピードが全く異なる新興国の国々を相手にする機会が増え、また、先進国の中でも日本のように急速に高齢化が進み交通事情が大きく変わる国が現れている。要するに、市場の多様化が加速している。そのような状況で、従来通りの経営手法で規模の拡大だけを追うと、いつか足元をすくわれるような気がしてならない。
具体的には、あらゆる国のニーズに対応しようと過剰な機能を盛り込んだ自動車を作ることで、どの国の市場からも見放されてしまう、というシナリオかもしれない。あるいは、多彩な車種と部品の標準化を両立させるために無理なモジュール化を進めた結果、大規模なリコール問題でブランド価値を大きく毀損してしまう、というシナリオかもしれない。いずれにしても、悪夢のシナリオを回避するには、トヨタはもっと多様性を受容し、”現地化”を進めるべきではないかと思う。規模の追求は、それを得意とするアメリカのGMにやらせておけばよい。
《2014年6月4日追記》
ベイカレント・コンサルティングは著書『日本企業の進化論』の中で、日本企業が生き残るための5つの「進化の方向性」として、(1)海外戦略の進化、(2)ビジネスモデルの進化、(3)生態系(エコシステム)の進化、(4)価値設計の進化、(5)オペレーションの進化を挙げている。
このうち、(1)と(2)をまとめると、アップルのiPhoneやファイザーのアトルバスタチン(高コレステロール血栓治療薬)のように、海外の複数の国・地域にまたがる大きな市場を想定し、その市場で広く通用する強力な製品・サービスを生み出すべき、ということになる。これは、今回の記事でも示したように、アメリカ企業が得意とするグローバリゼーションそのものである。同書では、日本企業もアメリカにならってグローバリゼーションを進めるべきだとし、日本企業にASEANの6億人市場を攻略することを提言している。
思うに、世界を単一市場のように見なして、単一の製品を市場に押しつけるのは、一神教文化であるアメリカにしかできない気がする。アメリカ企業以外で、世界に通用する製品・サービスを展開している企業はなかなか思いつかない。一方、「お客様は神様」と考え、かつ多神教文化に根差している日本企業は、もっと泥臭く市場に密着して神々のお顔をうかがい、現地化された多様な製品・サービスで勝負するべきではないだろうか?必然的に、日本企業の経営は規模の経済を追求するのではなく、多様性を尊重したものとなる。
ASEAN6億人市場をひと括りにするのはあまりに乱暴で、アメリカのグローバリゼーションに毒された考え方である。安易にアメリカにならうと、日本企業は自滅する。国が違えば市場特性も大きく異なる。まして、多様性に満ちたアジア諸国では、その差が決定的となる。同一国の中でさえ、多様性に満ちていることだろう。そのような多様性を無視して「この製品を使いなさい」などと恩着せがましく迫るのは、日本人が得意とすることではないし、日本人の真情にも合わない。
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『週刊ダイヤモンド』2014年5月31日号の中で興味深かった箇所を紹介。馬佳佳は、成人用品のネット通販会社を経営する23歳の女性である。一見単なる色物のようだが、実はマーケティングに関する考え方は顧客志向であり、筋が通っている。中国の不動産デベロッパー大手・万科集団と中欧商学院というビジネススクールで行った講演の資料はネットでも注目されている。
(1)市場の大きさばかりを考え、顧客が誰なのかを考えないと、市場がいくら大きくともうまくいかない。以前の記事「安岡正篤『知命と立命―人間学講話』―中国の「天」と日本の「仏」の違い」でも述べたが、中国はアメリカと同様に一神教的な文化の国である。よって、アメリカ的なグローバリゼーションに適性があるのは、日本よりもむしろ中国かもしれない。その中国の経営者が「市場の大きさばかりを考えるな」と警告している点は注目に値する。市場の大きさではなく、具体的な顧客のニーズに肉薄する必要がある―本来的に言えば、多神教の文化を有する日本企業こそ、こういう主張をしなければならないはずだ。
(2)どんな顧客がほしいかばかり考え、どんな価値を提供するのかを考えなければ、単に黙々と追いかける負け犬にすぎない。
(3)年齢層、収入、都市、性別などの表面的な属性で顧客をポジショニングするものの、相手の心まで読み取ろうとしないため、運がよければ顧客を得られるが、ハートまでは得られず、運が悪ければ顧客もハートも得られない。
(4)多くの資源を持つ相手を競合と見なすが、ひたすら資源を集めても勝てるわけではない。本当の相手は顧客を理解しているブランドであり、大きい会社ではない
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