2013年01月11日
伴野朗『朱龍賦』―兵站軽視がせっかくの戦略を台無しにする
朱龍賦 (徳間文庫) 伴野 朗 徳間書店 1995-11 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
中国・明王朝を建てた朱元璋(洪武帝)の物語。元王朝の末期、各地で起こった紅巾の乱をきっかけとして、全国に朱元璋、陳友諒、張士誠、方国珍という4つの勢力が現れた。朱元璋は、三国時代の名参謀・諸葛孔明と並び評される天才軍師・劉基を三顧の礼を尽くして迎え入れ、宿敵・陳友諒を打つべくハ陽湖の戦い(1363年、ハは「番」に「おおざと」)に挑む。結果は朱元璋の勝利に終わったわけだが、勝敗を分けたのは戦力の差ではなく、兵站(物資の配給や整備、兵員の展開や衛生、施設の構築や維持などの後方支援活動)の差だった。陳友諒は、朱元璋よりも強大な戦力を持っていながら、持久戦に耐えられるだけの兵站を整備していなかった。
不十分な兵站は、戦争において文字通り命取りとなる。中国から日本に目を向けると、日本は兵站軽視の風潮があると言われる。国土が狭い日本では、兵站の整備が必要なほど広範囲に及ぶ戦争がほとんど起こらず、戦争に必要な物資や食糧は現地で略奪すればよいという考え方が、古くは南北朝時代からあったそうだ。戦国時代になって武田信玄が「棒道」と呼ばれる軍用通路を整備し、各所に兵站基地を設置した例はあるものの、あくまでも自国勢力圏内に限定されていた。そのため、街道が整備されていない敵地においては、信玄は着実に他国を制圧しながらじわじわと自領を拡大していく路線を採らざるをえなかった(※1)。
こうした兵站軽視が最も災いしたのが、太平洋戦争におけるガダルカナル島の戦いの敗北であり、インパール作戦の失敗であろう。1941年12月8日の真珠湾攻撃以降、太平洋戦争を有利に進めていた日本だったが、翌年6月5~7日にかけてのミッドウェー海戦に敗れてからは、アメリカとの形勢が逆転した。1942年8月7日、アメリカ軍は日本軍が飛行場を建設していたガダルカナル島へ部隊を送り込み、日本初の地上戦が始まった。アメリカ軍の規模を過小評価していた日本軍は大量の戦死者を出したが、その多くは実は戦闘ではなく飢えや病気で死亡している。ガダルカナル島に上陸した日本軍の兵士は、「食糧はアメリカ軍から奪えばよい」と教えられていたため、わずかな食糧しか携帯していなかった。よって、食糧はわずか1週間で尽きた。
ガダルカナル島の戦いでの戦死者は2万1,138人、そのうち飢餓や病気で死んだのは1万5,000人前後と言われる。しかし、インパール作戦では、作戦参加者の約8割にあたる数5万から6万人もの命が、たった1人の司令官の愚かさのために奪われた。日本軍が1942年5月に占領したビルマに、翌年2月になって約3,000名の英印軍が進入した。この部隊は、イギリス軍の基地があるインド領インパールを根拠地にしていた。その進入部隊は撃退したものの、再び進入できないようにインパール自体を奪おうというのが作戦の発端である。
インパール進出の難しさは初めから解っていた。乾期でも300メートルも幅があるチンドウィン川を渡り、標高2,000メートルから3,000メートルもあるアラカン山脈を踏破するのには、補給が続かないことは明白だった。しかし、ただ一人、牟田口廉也中将は作戦を強引に進めた。牟田口は補給問題の解決策を牛に求めた。牛の背に米や爆弾などを乗せて運び、最終的にはその牛を食糧にしてしまおうというのである。1944年3月8日に始まった進撃から2週間もすると、案の定食糧がなくなった。しかし、肝心の牛はチンドウィン川でほとんどが溺れ死に、残った牛もアラカン山脈を越えることはできなかった。7月に完全撤退命令が出るまで大量の餓死者と病死者を出し、その遺体が続く道は白骨街道と呼ばれた(※2)。
企業経営においても、戦略を実現するために、ヒト・モノ・カネ・情報・知識といった経営資源を十分に補給し続ける仕組みを構築することが極めて重要である。ここで、企業経営における兵站とは何だろうか?すなわち、ややもすると見過ごされがちだが実は非常に重要な経営資源とは何か?と考えてみると、それは「時間」であるような気がする。あまりに当たり前すぎる話だが、どんなに戦略が優れていても、あるいはどんなに潤沢で良質なその他の経営資源があっても、時間がなければ戦略は実現されない。
よくあるパターンとしては、業績に危機感を持つ経営層が新しい戦略を立案して、現場に様々な施策を命じる。しかし、ただでさえ忙しい現場は施策を実行する暇がない。すると戦略が実現化せず、経営陣が期待する効果が得られない。ならば別の戦略をと、経営陣はまた新しい施策を現場に投げかける。ところが、またしても現場はそれを消化できない。そしてまたまた業績が滞る、という負のスパイラルである。時間の確保という兵站を軽視する経営陣は、成果の上がらない管理職や現場社員にしびれを切らして、「成果が出るまで働け」と、長時間残業を強いるかもしれない。しかし、こうしたハッパのかけ方こそ、現地でその都度必要な資源を調達すればよいという、日本軍の悪しき風習である兵站軽視の表れとは言えないだろうか?
経営陣は、新しい戦略や施策をブチ上げればそれで仕事をした気になってしまうのかもしれない。だが、現場にとっては「これまでの仕事+新しい施策」となるわけだから、過剰な負荷がかかることになる点を考慮してやらなければならない。新しい戦略や施策を現場でやってもらおうとするのならば、代わりに何か別の活動を止めて、現場の時間を捻出してやる必要がある。「何かを始めること」は「何かを止めること」とセットでなければならないと思うのである。
(※1)海上知明「日本戦史発掘 兵站軽視の源流」(ダイヤモンド社『歴史に学ぶ』2010年11月号)
(※2)太平洋戦争研究会編著『オール図解 30分でわかる太平洋戦争』(日本文芸社、2005年)
オール図解 30分でわかる太平洋戦争―太平洋で繰り広げられた日米の死闘のすべて 太平洋戦争研究会 日本文芸社 2005-07 Amazonで詳しく見る by G-Tools |