2013年11月14日
中村天風『ほんとうの心の力』―大いなる理想のためには大いに怒り、悩めばいいと思う
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本書は中村天風の名言集のようなもので、天風哲学のエッセンスを知るのに便利な1冊である。天風哲学を私なりに簡単にまとめるならば、「強く、積極的な心を持て。怒りや悲しみ、悩みは、心だけでなく健康をも害するから持つな。心は、万物の因果法則を決めている”宇宙霊”とつながっている。心が宇宙霊に通ずることができれば、運命は心が思うように拓ける」ということになるだろう。だが、私の歪んだ解釈のせいかもしれないが、天風は「どんな怒りや悩みにも動じない鋼のような心を持て」と言っているようで、やや非現実的にも感じる。
人間である以上は、何かしらの悩みを心にもっているのが当然だと思い決めている。中には、悩みを持たぬ人間なんていうもの、人並みの人間ではなく、極度に神経の鈍い愚か者か、さもなくば、何の不自由も不満も感じない恵まれきった人生に生きている幸福な人か、完全に人生を悟っているという、極めて稀有な優れた人だけのことで、普通の人間である限りは、断然そんな「悩み」のない人間などというものは、この世にあろうはずのないことだと、思いこんでいる人さえある。
しかしあえていう。もしもそうした考え方が、正しい真理だとするなら、およそ人生くらいみじめなものはないといわねばならない。
中には、人間が不平不満を感じ、かつこれを口にするからこそ、人間世界に、進歩とか向上とかいうものが、現実化されるのだというような極端な誤解を、誤解と思っていない人すらある。(中略)不平や不満を口にする悪習慣は、人にいたずらに煩悶や苦悩を心に多く感じせしめるだけで、それ以上人生に、価値ある収穫を招来しないということに想到すると、それが誤解の証拠であると必ず考えられるからである。我々が食事をする時、健康のためによいものかどうかを吟味するのと同じように、心にとってよい感情だけを取捨選択することが肝要である、と天風は説く。否定的な感情を排し、肯定的な感情のみを持つ、この心理状態を「絶対的な積極」と呼んでいる。
心がその対象なり相手というものに、けっしてとらわれていない状態、これが絶対的な気持ちというんです。何ものにもとらわれていない、心に雑念とか妄念とか、あるいは感情的ないろいろな恐れとか、そういうものが一切ない状態。けっして張り合おうとか、抵抗しようとか、打ち負かそうとか、負けまいといったような、そういう気持ちでない、もう一段高いところにある気持ち、境地、これが絶対的な積極なんですぜ。確かに、必要以上に怒りや悩みを持つことは健康上もよくない。怒りっぽい人は動脈硬化や心筋梗塞になりやすいことが知られている(詳しくはレッドフォード・ウィリアムズ、ヴァージニア・ウィリアムズ『怒りのセルフコントロール』〔創元社、1995年〕を参照)。また、悩みすぎてストレスを抱えると、自律神経系や内分泌系の働きがおかしくなり、心拍数上昇、血圧上昇、発汗、胃痛、頭痛、生理不順などといった様々な身体的症状が出る。さらに、体内の免疫機能が低下し、風邪を引きやすくなる。ただ、だからと言って本当に一切の怒りや悩みを排除してもよいものだろうか?
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人間には運命があるということは、人間には一生をかけて実現すべき理想があるということだ。そして、理想と現実の間には必ずギャップがある。かつて、ホンダ自動車の戦略担当の方にお会いした時、「理想は、現実と違うから理想なのです」とおっしゃっていた。理想と現実が乖離していれば、「どうして思い通りにならないのだろう?」と悩む。その悩みが大きくなれば、「どうしてこんなこともできないのか?」という怒りに転ずる。その怒りは、いつまでも理想に近づけない自分自身に向けられるかもしれないし、遅々として変化しない組織や社会に向けられるかもしれない。
理想を持つ限り、怒りや悩みと無縁ではいられない。いや、怒りや悩みを感じないならば、その人は理想を持っていないとさえ言える。天風は「理想を持つな」とは言っていない。むしろ、「理想を持て」と推奨している。
確固不抜の理想、いわゆる組織の完全に具体化された考え方、思い方が、いっこうに変わらない状態で自分の心にあったら、理想そのものが自分の人生を立派にリードして、自分というものを、どんな場合があろうとも迷わせない。松下幸之助の『指導者の条件』には、西ドイツの首相だったコンラート・アデナウアーの逸話が紹介されている。アデナウアーがアメリカのアイゼンハワー大統領に会った時、人生において重要な3つのことを話したという。1つ目は「人生というものは70歳にして初めて解るものである。だから70歳にならないうちは、本当は人生について語る資格がない」ということ。2つ目は「いくら年をとっても老人になっても、死ぬまで何か仕事を持つことが大事だ」ということ。そして3つ目が興味深いのだが、「怒りを持たなくてはいけない」というのである。
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この言葉に関して、松下幸之助は次のように分析している。
これは、単なる個人的な感情、いわゆる私憤ではないと思う。そうでなく、もっと高い立場に立った怒り、つまり公憤をいっているのであろう。(中略)第2次世界大戦でどこよりも徹底的に破壊しつくされた西ドイツを、世界一といってもよい堅実な繁栄国家にまで復興再建させたアデナウアーである。その西ドイツの首相として、これは国家国民のためにならないということに対しては、強い怒りを持ってそれにあたったのであろう。占領下にあって西ドイツが、憲法の制定も教育の改革も受け入れないという確固たる自主独立の方針をつらぬいた根底には、首相であるアデナウアーのそうした公憤があったのではないかと思う。そのアデナウアーは91歳まで生きた。おそらく、日常生活における些細な怒りや悩み、すなわち私憤を封印し、ドイツ国家を再興するという高い理想に関してのみ怒りを感じていたから、身体を害せずにすんだのだろう。
私は元来、どちらかというと短気で悩みを抱えやすい人間である。ただ、最近は昔に比べると怒りっぽくなくなったと思う(以前の記事「自分を苦しめていた怒りからの脱却、そして思想的転換」、「曾野綾子『二十一世紀への手紙 私の実感的教育論』―相手に期待しすぎなければ、裏切られることも少ない」を参照)。それでも、私のことをよく知る人に言わせると、「facebook上ではいつも怒っている」、「小さな問題に敏感に反応している」らしい。私はまだまだ精神的に未熟なようだ。どうでもいいことで怒ったり悩んだりして心身を消耗するのではなく、もっと自分の大いなる理想を大切にして、そのためにエネルギーを使う人生にしたいものだ。