2015年12月21日
岡部達味『国際政治の分析枠組』―軍縮をしたければ、一旦は軍拡しなければならない、他
国際政治の分析枠組 岡部 達味 東京大学出版会 2010-12 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
(1)
物差しの一方の極には、典型的な国内社会がある。日本はこの点に近い存在である。つまり、そこでは、紛争は必ずしもすべて法的に処理されるとは限らないが、究極的には国家が独占している強制力を用いて、法的な紛争処理が可能である。(中略)こういう社会では、紛争における「自力救済」は不要であるし、むしろ禁じられている。全員が顔見知りのコミュニティにおいては、紛争は自己解決することが可能である。ところが、集団の規模が大きくなり、顔を知らない人の割合が増えると、個々のメンバーの財産を守るための共通のルールを策定しなければならない。また、ルールの逸脱を監視し、逸脱者に対して制裁を加える暴力も必要となる。このルールと暴力を組織化したものが国家である。国家が複数成立すると、今度は他の国家から自国の人々や財産を守るためのルールと暴力が不可欠となる。前者が国際法であるし、後者は各国が保有する軍隊ということになる。
物差しの他の一方には、典型的な国際社会がある。ここでは、この社会の主要メンバーたる国家の上位にくる超国家機関は存在しない。したがって、国家は紛争が生ずれば自力救済に頼る以外に自己の利益を守る方法はない。
国家が軍隊を保有するのは、根底に他国に対する不信があるからである。もしかすると、他国は自国の人々や財産を狙ってくるかもしれない。その疑いが少しでもある限り、国家は軍隊を持つことになる。逆に、軍隊を完全になくしたいのであれば、国家間に完全なる信頼関係を構築しなければならない。だが、仮にそれが可能ならば、そもそもルール(国際法)は不要であるはずだ。つまり、ルールを必要とするということは、暴力を必要とすることと同義である。
国内において警察が必要な理由も、基本的には同じである。中国の古典に、政治が行き届いていて、庶民は戸締りをしなくても盗みが発生しなかったという話があったが、これは人々がお互いを完全に信頼しているからこそ実現することである。だが、今の世の中ではそれが現実的ではないことは誰もが解っている。日本国内ですら、日本人同士でお互いに解り合えているようであっても不信は拭い切れず、警察という暴力を必要とする。まして、他国が何を考えているのか解らない国際社会の舞台においては、どうしても軍隊を持たざるを得ない。
社民党などは、自衛隊すら廃止しようと考えている。憲法9条の精神に従い、平和を実現するには、日本が率先して自衛隊を放棄せよということらしい。交渉の場において、相手から何らかの反応を引き出すために、最初に自分が譲歩するというのは、いかにも日本人的なやり方である。先憂後楽、損して得取れという言葉にもそれが表れている。これは、最初に損をして憂き目を見ても、相手が後から利益をもたらしてくれると、相手を信頼していることの証左でもある。しかし、そういうふうに相手を信頼してお人好しな態度を見せることは、国際政治では命取りになる。
国際政治は、相互の不信からスタートせざるを得ない。したがって、お互いに軍備を拡張する。しかも、相手がどの程度軍拡を行っているのかは自国からは見えないので、自国の軍備は過剰気味になる。こうして、双方とも軍拡がエスカレートしていく。軍拡が進みすぎて、このままでは致命的な戦争になるという認識で一致すると、初めて軍備縮小の交渉が開始される。交渉の場では、お互いの手の内を少しずつ公開し、戦争リスクを下げるためにお互いの軍備をどの程度縮小するか話し合う。こうして信頼関係を徐々に醸成し合意に至れば、軍備の一部が放棄される。
この交渉を長期間繰り返すことで、軍備を最小レベルにまで落とすことができる(それでもゼロにはならない)。米ソ冷戦において、アメリカとソ連がいずれも強大な軍備を持ちながら、遂に全面対決に至らなかったのは、このような交渉が続けられたからである(もっとも、冷戦後も米ロ間の不信は残っており、かつ中国という不透明な国家が現れたことから、両国は未だに強大な軍備を手放せないでいる)。逆説的だが、軍縮をしたければ、一旦は軍拡しなければならない。左派はこういうプロセスを全て省略してさっさと自衛隊を放棄せよと言うが、無茶もいいところだ。
(2)
価値体系の中核に属する紛争は、泥沼の軍事対立を続けるしかなくなってしまう。実際に中東などの多くの紛争がそのような状態を続けてきた。しかしながら、戦争の増大と共に、このような傾向にはブレーキがかかりつつあることも事実である。それは、紛争の棚上げという方法である。紛争の棚上げは、一見後向きの解決策、ないし弥縫策としか見えないが、実は第二次世界大戦後の紛争処理策のなかで重要な役割を果たしているのである。それは、典型的には東西両ドイツの関係に現れている。問題は解決しなければならないものだと本能的に考えてしまう我々は、棚上げという方法に戸惑いを感じてしまう。だが、日中関係においてもかつて棚上げという方法が使われたことがあった。戦後、日本は尖閣諸島をめぐって中国と対立していたが、1972年に日中の国交化が正常化された際、尖閣諸島の問題を棚上げすることで周恩来と田中角栄が合意している。その代わりに、日中の経済・文化交流を深めることが確認された。
中韓は歴史問題と領土問題の両方で日本に揺さぶりをかけている。日本は歴史問題と領土問題を別々の問題と見ているが、中韓にとってはどちらの問題も日帝による支配と関連する歴史問題である。既にこの点で日中韓は認識が異なる。また、中韓にとっては自国のアイデンティティにかかわる問題、引用文の言葉を借りれば「価値体系の中核に属する紛争」であり、余計に扱いが難しい。さらに言えば、中韓の価値体系の中核に属するのは間違いないものの、中韓の「価値体系の中核」とは具体的に何なのかが日本側からは非常に解りづらく、問題を複雑にしている。
日本が謝罪すればそれで済むのかというと、決してそうではない。河野談話、村山談話で謝罪したのに、また慰安婦に対しては1人1人に首相の名前で謝罪文を送っているのに、謝罪前よりも中韓の要求はエスカレートしている。日本が賠償金を上積みしたとしても、おそらく中韓は新たな日本の罪を持ち出して賠償金を要求してくるだろう。冷静になって歴史文献を研究し、歴史的事実を積み重ねる方法が最も効果的であるように思えるが、日本がAという事実を出せば中韓がBという事実を出してくる、ということが繰り返されており、埒が明かない。どのように解決策を提示してもかえって事態が悪化するならば、いっそ棚上げという方法が使えないだろうか?