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『正論』2018年7月号『平和のイカサマ』―「利より義」で日本と朝鮮統一国家の関係を改善できるか壮大な実験を行うことになるだろう

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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都豊島区を拠点に、東京23区で活動する中小企業診断士(コンサルタント・トレーナー)。ほとんど書評ブログ。たまにモノローグ。

 中長期的な研究分野は、
 ①日本の精神、歴史、伝統、文化に根差した戦略論を構築すること。
 ②高齢社会における新しいマネジメント(特に人材マネジメント)のあり方を確立すること。
 ③20世紀の日本企業の経営に大きな影響を与えたピーター・ドラッカーの著書を、21世紀という新しい時代の文脈の中で再解釈すること。
 ④日本人の精神の養分となっている中国古典を読み解き、21世紀の日本人が生きるための指針を導くこと。
 ⑤激動の多元的な国際社会の中で、日本のあるべき政治的ポジショニングを模索すること。

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 ブログタイトルに、oasisの往年の名曲『Whatever』を入れてみた。

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2018年08月24日

『正論』2018年9月号『「生き残れ 日本」トランプに進むべき道を示せ/表現の自由』―リベラルとは何か?(錯綜する概念の整理に関する一考)


月刊正論 2018年 09月号 [雑誌]月刊正論 2018年 09月号 [雑誌]
正論編集部

日本工業新聞社 2018-08-01

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 本号の後半に「私が選ぶ戦後リベラル砦の『三悪人』」という特集があり、武田邦彦氏、西尾幹二氏、屋山太郎氏ら10人が3人ずつ戦後のリベラルを挙げて、その主張を批判していた。

 ただ、この「リベラル」という言葉は曲者である。八木秀次氏が解説しているように、欧州においては、伝統的にはリベラルと言えば自由主義のことであり、実は保守主義と親和性が高い。無制限な自由ではなく、秩序や伝統に裏づけられた自由を意味する。一方、アメリカのリベラルは、大きな政府を求め、自由よりも平等や多様性を重視する。いわゆる左派の主張である。日本のリベラルはアメリカの考えに近いが、元々の社会主義・共産主義を引きずった変種である。

 稚拙ながら、私なりにリベラルの概念を、私の大好きな(苦笑)マトリクス図で整理してみた。「大きな政府を重視するか、小さな政府を重視するか?」と「自由を重視するか、平等を重視するか?」という2軸でマトリクスを作成すると、4つのタイプに分けられる。

リベラリズム

 まず、右上は「小さな政府と平等を重視する」社会主義・全体主義である(私は両者を同一視している)。正確に言えば、社会主義は究極的には世界共同体の実現を目指すから、政府すら不要とする。本ブログで何度も書いてきたが、その起源は啓蒙主義に求められる。啓蒙主義時代には理神論という考え方が登場した。唯一絶対の神は世界の創造には携わる反面、その後のことは人間の理性に任せるというものである。中世までは、普遍的なものというと神の世界、つまりあちら側の世界にあったのに対し、近代の理神論によって、普遍的なものはこちら側の世界に移行した。これは、人間が神と同じく完全無欠な理性を持つことを意味する。

 誰もが神と同じ理性を持つのだから、人々は皆同じ、平等である。1人が全体に等しい。よって、私有財産は否定され、財産は全人類の共有となる。また、政治的な意思決定に関しても、全世界中の人が完全な理性に従って同じ考えを持っているわけであり、民主主義であっても独裁であっても同じ結果になる。人間の理性は生まれながらにして完成していると考えられるため、その理性に立脚する社会も既に完成しているものとされる。したがって、人間が自由を発揮して社会を改変するという余地はほとんどない。この点で、自由よりも平等の方が重視されていると言える。これが、私の考える社会主義・全体主義である。

 生まれた時点で理性が完成しているという立場は、教育による知性の進展を否定する。だから、社会主義国家ではしばしば知識人・教育層が迫害・虐殺される。生まれた時点での理性を完成形と見る場合、一番劣っている理性であっても完成していると認めなければならない。そして、そういう理性を持つ人間にできる仕事と言えば、原始的で素朴な農業である。だから、武者小路実篤は「新しき村」という農業共産社会を作ったし、ソ連ではソフホーズ(国営農場)とコルホーズ(集団農場)が設置され、戦後の中国では毛沢東が大躍進政策を展開した。しかし、新しき村の構想は結局ユートピアに終わり、ソ連の政策は多数の農民を生活苦に陥れ、中国の大躍進政策では3,000万~4,000万人もの餓死者を出した。

 ソ連や中国の共産主義者を焦らせたのは、自国が人間の理性の絶対性を信じ、社会主義の理想を実現しているはずなのに、アメリカなどならず者の資本主義国が技術で自国を追い抜いているという現実であった。だから、ソ連や中国は、多くの国民を農業に張りつけておいて、彼らを搾取し、得られた利益を科学技術に投資するという矛盾した行動を取るようになった。こうした矛盾は、社会主義の発展段階説でより正当化されたように思える。発展段階説によれば、社会は原始共産制社会⇒古代奴隷制社会⇒封建制社会⇒絶対主義⇒ブルジョア革命⇒近代資本主義社会⇒プロレタリア革命⇒共産主義社会⇒社会主義社会へと順番に発展する。社会主義と言えば、既に見たように本質的には原始共産社会であるものの、途中から科学技術の発展を含めて真の社会主義国家を樹立しようという方針に転換されたと考えられる。

 もう1つ、社会主義者を悩ませた矛盾が、寿命という問題である。創造主の神には寿命はないが、実際の人間には寿命がある。だが、元々、人間が生まれた時点で理性も社会も完成しているという立場に立てば、時間の流れというものはあり得ないことになる。過去も未来も存在しない。あるのは現在だけである。そして、現在というのは一瞬にすぎないから、人間は早く死ぬべきという歪な結論が導かれる。ただし、生と死は連環していて、死んだ後直ちに再び生を受けてこの世に誕生する。そして、発展段階説に沿った理想的な社会主義社会を実現するために、永遠に革命を繰り返す。これが、ニーチェの言う永遠回帰である。

 右下は「大きな政府と平等を重視する」福祉国家であり、北欧に多く見られる。社会主義・全体主義においては、最も能力が劣る者に他の人間を合わせるという形で平等が実現されるのに対し、福祉国家では、持てる者から持たざる者へと富の再配分が行われることで平等が実現されるという違いがある。富の再配分は非常に複雑なプロセスであるため、その営みを担う政府は必然的に大きくなる。また、せっかく自由に働いて多くの富を得ても、再配分によってその富の大半を政府に取られてしまうことを考えると、自由は平等よりも劣位に置かれていると言える。

 本号の特集で興味深かったのは、山口真由氏と屋山太郎氏がともに田中角栄をリベラルの悪人として挙げていることである(山口氏はさらに、田中角栄をモデルとして公共事業を展開した竹下登をリベラルの悪人としている。また、八幡和郎氏は、田中角栄の弟子である小沢一郎氏をリベラルの悪人に挙げている)。つまり、自民党と言えども、リベラルとは無縁ではないのだ。田中角栄は、自身がまとめた「日本列島改造計画」に従って、日本全土に金をばらまき、各地で大規模な公共工事を行った。これも一種の再配分政策であると言える。だが、金の集まる権力は必ず腐敗するというのが古代からの政治の鉄則である。田中角栄も例外ではなかった。

 この点、巨額の資金の再配分を行っている北欧諸国が、いずれも「腐敗認識指数ランキング」で上位に入っているのは不思議である。2015年のランキングを見ると、デンマークが1位、フィンランドが2位、スウェーデンが3位、ノルウェーが5位である(ちなみに、日本は18位である)。なぜ、田中角栄は腐敗したのに、北欧諸国は腐敗しないのだろうか?人間の理性は不完全であり、失敗もするし私欲にも溺れると考える日本人と、啓蒙主義を経験したヨーロッパ人との違いで説明するのはあまりに粗雑であろう。なぜなら、同じように啓蒙主義にルーツを持つ社会主義国家では、中国やベトナムを見れば解るように、権力がひどく腐敗しているからである。

 左上は「小さな政府と自由を重視する」という象限であり、アメリカでは1990年代から、日本では2000年代に入ってから有力となったネオリベラリズムを指す。企業はグローバル化を進め、世界中で利益を上げる。それが可能な大企業と、それができないドメスティックな中小企業の間では、業績に大きな格差が生じる。その結果、国民の間の貧富の差が拡大する。グローバル企業は、国家に対して企業活動を邪魔しないでくれと言う。工場は人件費が安い国に移す。税金も、税率が安い国で納める。ここにおいて、グローバリズムとナショナリズムは対立する。

 ただ、私は最近この流れに変化を感じている。グローバリゼーションと言っても、カントが描いたような世界平和の実現を目指しているわけではない。ある国に本社を置く企業が、自社の事業や製品・サービスを全世界で受け入れてもらえるようにすることがグローバリゼーションである。よって、グローバル企業は、本社を置く国家による支援を必要とするようになっている。政府に対しては過度な機能を期待していないものの、自社の世界展開を後押しする政治力は要求している。つまり、グローバリズムとナショナリズムは手を結ぶようになった。

 最後に、左下の「大きな政府と自由を重視する」のが伝統的な(欧州的な)リベラリズムである。日本が理想とするべきも、右下ではなくこの象限である。この象限では、人々の自由な発想による多様性が尊重される。これは、自然の生態系に最もよくかなった形態である。自然の生態系は多様であるから、環境変化が起きても、生物が全滅することはない。一部の生物が生き残り、そこから新たな進化によって枝分かれが生じ、再び多様性が確保される。こうして、地球全体として見れば、生物の種が保存される。右上の社会主義・全体主義のように、誰もが皆同じ理性に従って同じ考え方をしていると、外圧によって全滅するリスクがある。社会主義・全体主義は理論としては美しいのかもしれないが、生存可能性という点では落第である。

 多様な価値観は時に衝突する。その時は、まずは話し合う。「話し合い」と言うと、左派の人はすぐに「対話」という言葉を持ち出す。対話という言葉は、自分の怒りを抑えて冷静になり、相手の立場を慮って相手の考えを汲み取り、自分の考えと相手の考えを十分に擦り合わせてお互いの利益ができるだけ最大になるような道を探るべきだというソフトな印象を与える。もちろん、それができるに越したことはない。だが、現実の世界はそんなに甘くない。時には権謀術数を駆使しなければならない。誘惑、媚び諂い、あるいは威嚇、恫喝、脅迫、取引など、人間の醜い面も出る。それも含めて話し合いなのである。多様な利害が衝突する政治の世界では、こうしたことが常態化している。だから、一般人も伝統的なリベラリズムに生きるならば、こうした精神的ストレスのかかる方法に対する耐性を身につける必要がある。

 それでも考え方が合わなければ、その相手とはすっぱり縁を切ればよい。自分は認めることができないけれども、そういう考えもあるのだなという程度で収めておけばよい。右上の社会主義・全体主義では、1人が全体に等しいから、他者との関係を切ることは絶対にできない。しかし、左下の伝統的なリベラリズムでは縁切りが認められる(実際、日本には縁切り神社や縁切り寺がある)。相容れない主張も全部ひっくるめて、社会全体としては多様性を許容するのが伝統的なリベラリズムである。こうしたリベラリズムは共和制でも実現可能である。日本の場合は、「和」を象徴とする天皇を国家の戴に置くことで、伝統的なリベラリズムを表現している。

 もちろん、相手と縁を切ろうとしているのに、相手が物理的に自分を攻撃しようとしてくることもあるだろう。これは社会の安定を保つために何としてでも防がなければならない。そこで、法が必要となる。左下の象限で政府が大きくなるのは、こうした種々の法律を制定・運用する機構(立法府や行政府)を持たなければならないからである。

 一般的に左派と言えば、人々の格差を敬遠し平等を重視するか、国家権力を嫌い小さな政府を重視するかのどちらか、あるいはその両方である。よって、上記のマトリクス図のうち、左下を除く3つの象限が左派にあたる。昔、小泉純一郎政権は左派だと指摘した知り合いの中小企業診断士がいたが、彼の主張は今になって理解することができる。最近、小泉氏が突然脱原発派に転じたのは、小泉氏が本来的には左派であり、環境問題という外部不経済を再配分によって解決しようとする福祉国家とも親和性が高いと考えれば納得がいく。右派はわずかに左下に残るだけであり、政治思想的に見るとかなり分が悪い。

 ただし、右派は左派と完全に対立するべきでもない。右上の社会主義・全体主義は破壊的な思想なので除外するとしても、福祉国家とネオリベラリズムからは学ぶことができることもある。福祉国家は、強者から弱者へと富を再配分するために、膨大な法を策定している。伝統的なリベラリズムも法を策定するものの、元々人間の理性は不完全であるという前提に立っているため、法律も不完全である可能性がある。つまり、弱者を強者から守る法が不十分であるかもしれない。その時には、福祉国家が望ましい法律のあり方を教えてくれる。

 とはいえ、福祉国家に倣って法律を無制限に増やしていくと、政府の役割があまりにも大きくなりすぎる恐れがある。また、福祉国家の法律は平等を原則としているため、杓子定規に平等原則を貫けば、伝統的なリベラリズムにおける自由が制約されてしまう。そこで、ネオリベラリズムの出番である。ネオリベラリズムは小さな政府を志向しており、不要な法律は規制改革の名の下に葬り去る。伝統的なリベラリズムが抱えている法律について、自由に干渉しすぎる法律はどれなのか、ネオリベラリズムに指摘してもらうとよい。このようにして、右派=伝統的なリベラリズムは、左派(ただし、社会主義・全体主義を除く)と協調関係を築くことができるだろう。


2018年07月27日

『正論』2018年8月号『ここでしか読めない米朝首脳会談の真実』―大国の二項対立、小国の二項混合、同盟の意義について(試論)


正論2018年8月号 (在韓米軍撤退の現実味)正論2018年8月号 (在韓米軍撤退の現実味)

日本工業新聞社 2018-06-30

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 経営については、一応経営コンサルタント(中小企業診断士)としての経験もブログの経験も10年以上あり、それなりの内容が書けるようになったと思う。しかし、政治に関しては、法学部出身にもかかわらずまじめに勉強したことがなく、ブログで取り上げるようになったのも、現行ブログを立ち上げたここ数年のことだから、未だに珍妙なことを書いてしまうかもしれないが、今回もそれを覚悟の上で記事をまとめてみたいと思う。

 今、ある小国aがあるとしよう。小国aは大国Bからの脅威にさらされている。小国aは、自国だけでは大国からの脅威に対抗できないと判断した場合、自国の味方となってくれる大国を探す。それを大国Aとしよう。小国aは大国Aと同盟関係を結ぶ。大国Aは小国aを庇護しながら、大国Bと対立する。大国Bとしては、小国aに手を出したいところだが、小国aを攻撃すると、小国aと同盟関係にある大国Aが出てきて非常に厄介なことになる。こうして、大国Aと小国aの同盟関係は、大国Bに対する抑止力となる。この同盟は、小国のための同盟であると言える。

 だが、大国Bとしては、この事態を黙って見過ごしているわけにはいかない。特に、大国Bの内政が混乱している場合には、国民の目を外部に向け、国威を掲揚する必要がある。かといって、大国Aを引きずり出すような真似はしたくない。そこで、大国Bは、近隣の小国bと同盟を結び、大国A側の小国aと大国B側の小国bの対立という構図を作り出す。言い換えれば、大国Aと大国Bの代理戦争を小国aと小国bにやらせる。中東におけるサウジアラビア・エジプトVSイラン・シリアや、朝鮮半島における北朝鮮VS韓国はアメリカとロシア(+中国)の代理戦争の典型例である。ここに至って、同盟は、小国のための同盟から、大国のための同盟へと変質する。

 大国Aと大国Bにとっては、小国aと小国bの対立が盛り上がってくれた方が、血を流さずに軍事費を引き上げることができ、自国の軍需産業の成長につながる(朝鮮半島の場合)。もちろん、小国aと小国bが血を流してくれても、やはり軍事支出が増えるので、大国Aと大国Bにとってはありがたい(中東の場合)。いずれにしても、大国Aと大国Bが直接対決せずに、両国の対立を小国aと小国bの対立という空間に閉じ込めておくことが重要である。

 大国Aと大国Bは限界まで直接対決しないように、二項対立的な発想で双方の緊張を高めつつも、対立を抑制する仕組みを持っている。大国Aには、主流派としての反B派と、非主流派としての親B派という二項対立がある。同様に、大国Bには、主流派としての反A派と、非主流派としての親A派という二項対立がある(アメリカは反ロ派が主流だが、一部には親ロ派がいる。同様に、ロシアも反米派が主流だが、一部には親米派がいる)。大国Aの反B派と大国Bの反A派は、公式・非公式のあらゆるチャネルを通じて相手国と対立する。一方で、大国Aの親B派と大国Bの親A派は、裏で同じように公式・非公式のチャネルを活用して相手国と通じている。すると、大国A内の反B派と親B派は、大国Bへの対応をめぐって国内対立し、大国A全体として大国Bに向かっていくエネルギーが減退する。同じことは、大国Bに関しても言える。

 だが、大国には豊富な政治資源があるからこのような芸当ができるのである。政治資源が限定されており、大国の内情をよく知らない小国aと小国bは、それぞれ大国Aと大国Bから十分な支援を受けていると思い込み、全面的に対立する。実を言うと、中東に関しては、山本七平が指摘したように、セム系の民族であるアラブ人は、古代から二元論に強いとされる。20世紀に入ってからは、サイイド・クトゥブの善悪二元論のような、極端な二元論もあった。ただし、中東の小国はこうした二元論を、大国のように国内の二項対立として処理することができない。だから、自分の国は正しい、相手の国は間違っている、という二分論になってしまう。これが、中東の混乱を招いている一因であると考える。必ずしも、近現代の欧米諸国の中東政策だけが間違っていたわけではなく、中東の伝統的な思考様式にも原因を求める必要がありそうである。

 では、小国aと小国bが全面的な対立を回避するためにはどうすればよいだろうか?ここからは非常に稚拙な案なのだが、小国は「精神分裂症」にならなければならないと思う。つまり、相互信頼と相互不信を織り交ぜて、お互いにくっついたり離れたりを繰り返す複雑な外交を展開するのである。この精神分裂症的外交を、私は日本と朝鮮半島の長い歴史の中に見出すことができると考える(以下、小倉和夫『日本人の朝鮮観―なぜ「近くて遠い隣人」なのか』〔日本経済新聞出版社、2016年〕を参考にした)。

日本人の朝鮮観 ―なぜ近くて遠い隣人なのか日本人の朝鮮観 ―なぜ近くて遠い隣人なのか
小倉 和夫

日本経済新聞出版社 2016-03-26

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 またしても私の好きなマトリクス図を取り出して恐縮なのだが、「融和―対立」、「公式―非公式」という2軸でマトリクスを作ると、外交には4つのパターンがあることが解る。まず、「融和&公式」の象限であるが、古代から日本は朝鮮半島を儒教の国として尊重してきた。また、江戸時代に入ってからは、朝鮮半島を「文」の進んだ国と見なしてその文化を吸収してきた。一方で、朝鮮半島の背後には常に中国の影があり、中国の脅威が近づくと朝鮮半島に対して高圧的な態度を取るという伝統がある。これが「対立&公式」の象限である。古代の白村江の戦いがそうであったし、戦国時代における豊臣秀吉の朝鮮出兵もそうであった。近代に入ってからは、欧米の帝国主義から中国や朝鮮半島を解放するという名目で朝鮮半島に踏み入った。

 公式のチャネルに関しては以上の通りだが、非公式のチャネルを通じても融和と対立を繰り返してきた。「融和&非公式」という象限に関しては、古くは倭寇(よく知られているように、倭寇という名前がついているものの、その構成員には日本人だけでなく、多くの朝鮮人も含まれていた)が日本と朝鮮半島の交易上のつながりを示すものであった。明治時代以降は、近代化が進む日本と近代化の面で遅れている朝鮮半島を比較し、遅れている朝鮮半島の方にかつての日本が持っていたロマンを見出すという文芸家が少なからず存在した。また、ロマンを感じるだけでなく、植民支配に対するアジアの連帯を説く思想家も現れた。

 「融和&非公式」という象限があれば、その反対の「対立&非公式」という象限もある。江戸時代には、朝鮮半島からの通信使である崔天宗が殺害されるという事件が起きている。しかも、この事件は、通称「唐人殺し」という名の「漢人韓文手管始」という演目で歌舞伎の題材となった(ここでの「唐人」とは外国人の意味である)。明治より後は、前述のように朝鮮半島に対してロマンを感じる人々も多かったものの、日本人と朝鮮人が文化的・民族的に近すぎるがゆえの嫌悪感も生まれた。民度が低い、非実利的性格、いい加減、激情的、享楽的、反抗的、残酷であり横暴などといった批判が朝鮮半島の人々に向けられた。

 とりわけ明治以降の朝鮮人に対する日本人の感情は複雑である。いち早く近代化に成功した日本は、朝鮮半島が儒教に優れた国というこれまでの評価を覆して、近代化に遅れた国だというレッテルを貼り、その遅れに対して苛立ちを感じていた。ところが、実際に朝鮮半島を訪れた日本人は、朝鮮人の純朴さ、精悍さに心を打たれ、日本が近代化の過程で失ったロマンを見出した。しかし、憧れというのは近すぎるとその魅力を失うようで、ロマンに近づきすぎた日本人はやがて朝鮮人と距離を取るようになった。とはいえ、欧米の帝国主義の脅威は迫っているわけであり、西洋に対抗するためにアジアの連帯を強調するようになった。にもかかわらず、一向に立ち上がろうとしない朝鮮人に再び苛立ちを感じた。このサイクルをぐるぐると回っていた。

 興味深いのは、大国であれば、反朝鮮半島の人々と親朝鮮半島の人々が二項対立によってくっきりと分かれるのに対し、日本人の場合は国内に二項対立が存在しないため、同じ人物がある時は反朝鮮半島に回り、ある時は親朝鮮半島に回るということである。例えば、高浜虚子は、一方で朝鮮半島の近代化の遅れを批判しておきながら、他方で、朝鮮人のロマンを持ち上げるというような芸当をやってのけている。これは、大国の二項対立には見られない、いわば「二項混合」とでも呼ぶべき状態である。小国の外交とは、こういうものであるべきだと思う。

 お互いが精神分裂症だから、外交姿勢が一貫せず、相手の考えがよく解らないこともあるだろう。だが、例えば近くて遠い存在である家族を取り上げてみると、どんなに上手く行っている家族であっても、親密と疎遠を繰り返しながら関係を維持しているものである。喧嘩しても、仲直りして信頼関係を深めているものである。これと同じ関係を、近隣の小国と構築すればよい。

 こうして、小国aと小国bが複雑ながらもそれなりに良好な関係を築くようになると、小国aと小国bに代理戦争を行わせようと目論んでいた大国Aと大国Bには旨みがなくなる。大国Aと大国Bが対立するよりも手を組んだ方が利益が大きくなると判断すれば、両国は突然接近することもあり得る。大国A内の親B派と大国B内の親A派の力が強くなり、両者が意気投合する。

 現在、アメリカと中国が激しい貿易戦争を繰り広げているが、アメリカも中国も表現の自由を制限し、三権分立を脅かし(中国にはそもそも三権分立がない)、政府が一方的な主張を展開するといった具合に、同じファシズムに向かっている。もちろん、第2次世界大戦時のドイツとソ連のように、ファシズム国家同士が対立する例もあるが、同じ政治的志向を持つ国同士のこと、いつ連携してもおかしくはない。アメリカと中国の貿易戦争の本質は、中国からアメリカに輸出される大量の日本製品に高い関税を課して日本の産業を潰すことであるとも言われている。アメリカと中国は激しく対立しているように見せかけながら、実は、アメリカが日本のはしごを外して中国に接近し、何らかのしたたかな計算の元に、両国が儲かるように仕組んでいる可能性もある。そのような事態に備えて、日本は近隣の小国と関係を深めておく必要がある。

 米朝首脳会談によって「体制の保証」を勝ち取った北朝鮮は、アメリカらから邪魔されるリスクを気にせずに、南北統一に向かうと思われる。韓国の親北派・文在寅大統領もこれを後押しするだろう。今までアメリカと中国の対立は朝鮮半島内に閉じ込められていたが、今後は日本と朝鮮半島の対立に拡大される恐れがある。

 結局のところ、朝鮮半島は中国に従うしかないのである。朝鮮半島は、百済・新羅の歴史を持ち出して、朝鮮半島に独自の民族がいたと主張する。だが、中国は高句麗が中国民族の出先機関であるとしており、新羅が朝鮮半島を統一したと言っても、その後の高麗は所詮新羅の政権交代ぐらいにしか見ていない。ただ、だからと言って、日本と朝鮮半島という小国同士が全面的に対立していては、背後にいる大国の思うつぼである。日本としては気が進まなくても、朝鮮半島の新統一国家とは精神分裂症的な外交を展開しなければならない。この点については、以前の記事「『正論』2018年7月号『平和のイカサマ』―「利より義」で日本と朝鮮統一国家の関係を改善できるか壮大な実験を行うことになるだろう」でも書いた。

 日本と朝鮮半島の新統一国家が国交を樹立すれば、国民を拉致するような危険な国の大使館が東京のど真ん中にできると恐れる声もある。しかし、国民を拉致するどころか、国土の略奪を虎視眈々と狙っている中国の大使館があるぐらいだから、この批判は十分でない。

 大国が小国のはしごを外すタイミングは、小国には予期できない。小国には、大国内の二項対立の構造が理解不能である。かつて、日独防共協定を結んでいたドイツが、1939年に突如独ソ不可侵条約を締結して日本を驚かせた。平沼騏一郎首相は、「欧州情勢は複雑怪奇なり」という言葉を残して辞任した。小国にできることと言えば、近隣の小国と精神分裂症的な外交を通じて一定の信頼関係を構築するとともに、対立する大国に関しても、双方のいいところ取りをして、日本の文化、伝統の上に独自の政治、経済、社会、軍事制度を構築し、それを双方の大国にフィードバックして、大国同士の対立を少しでも中和することに貢献することである。これを私は「ちゃんぽん戦略」と呼んでいる(以前の記事「『トランプと日本/さようなら、三浦朱門先生(『正論』2017年4月号)』―米中とつかず離れずで「孤高の島国」を貫けるか?」を参照)。

 日米、日中の関係を考えてみる。政治に関しては、アメリカの2大政党制民主主義と、中国の一党独裁のいいところ取りをする。そして、アメリカに対しては政治の多元主義を、中国に対しては下層部からの諫言を認める権威主義を示す(これは古代中国にあったものである)。経済に関しては、アメリカの株主至上主義と、中国の国営企業中心経済のいいところ取りをする。そして、アメリカに対しては穏健な自由市場経済を、中国に対してはマネジメントの重要性を示す。社会に関しては、アメリカの自由・平等と、中国の統制のいいところ取りをする。そして、アメリカに対しては、多層社会における役割の配分を、中国に対しては権力と人権の共存を示す。

 軍事については以前の記事でも上手に書けなかったのだが、1つの方法としては、対立する双方の国へ武器を販売するという手がある。かつて日本陸軍は、昭和通商という企業を通じて中国などに武器を輸出していた。日本に対する武器の依存度が高まれば、中国との間で疑似的に軍事同盟が成り立つだろうというのが陸軍の考えであった。しかし、結局日本は中国と戦争になってしまったので、今はこの考えを採用することはできない。それに、国民全体が武器の輸出に対してナイーブになっている現代では、現実的な選択肢ではないだろう。

 もう1つの方法は、逆に、対立する両国の国から武器を購入するというものである。ベトナムはアメリカとロシアの双方から武器を購入している。お互いの軍事機密が相手国に漏れるのではないかと思うのだが、ベトナムはこれを上手くやっている。ベトナムに学ぶというのはありだろう。だが、いずれの方法もかなりのリスクを伴う。ちゃんぽん戦略という観点で単純に考えれば、日本がアメリカ、中国の双方と軍事演習を行うことができれば一番望ましい。だが、お互いの軍事機密が相手国に駄々洩れになるため、実現可能性は低いだろう。よって、現実的には、今行われているように、アメリカとは軍事演習を実施する一方で、中国とは軍事危機に備えた連絡メカニズムを構築するということになるのだろう(あるいは、将来的には中国と軍事演習を行い、アメリカとは軍事危機に備えた連絡メカニズムを構築する、という逆の道があるのかもしれない)。将来的には、軍事演習なしで、双方の大国と連絡メカニズムだけを構築できれば望ましい。

 ここまで来ると、日本を通じてアメリカの情報が中国に、中国の情報がアメリカに渡るから、日本はアメリカにとっても中国にとっても重要な国となり、双方の大国はそう簡単には日本に手出しができなくなる。日米同盟の意義は低下する。近年、日本のマンガやポップカルチャーが世界中で人気を博し、日本文化に好意的な国は「こういう文化を持っている国は攻撃してはならない」と考えるようになっている。これを「文化による安全保障」と呼ぶそうだ。

 だが、私は、文化による安全保障とはもっと深いものであり、前述のように、政治、経済、社会など多元的なレベルでちゃんぽん戦略を採用し、日本独自の価値を訴求することによって成り立つものであると思う。同盟関係は、複数の国で共通の仮想敵国を設定できた時代には有効であった。しかし、現代はある国とある国が時と場合に応じて接近と離反を繰り返す時代である。同盟という概念は見直しの時期にあるだろう(事実、ロシアが主導するCSTO〔集団安全保障条約機構〕は、加盟国の仮想敵国が皆バラバラであるため、ほとんど機能していない)。

 最後に、大国の恐ろしさについて書いておきたい。前述の通り、大国Aは小国aを、大国Bは小国bを支援するというのが基本的関係である。だが、大国は二項対立的な発想を拡大して、大国Aが小国aと小国bの双方を支援することがある。大国A内の親B派が大国B内の親A派と結びついて、大国Bが支援する小国bを大国Aも支援するというパターンである。

 レーガン政権下の「イラン・コントラ事件」を取り上げてみよう。まず、アメリカはイラクを扇動してイランを攻撃させた。この時、サウジアラビアはイランのホメイニ師を支援した。サウジアラビアとイランは元々仲が悪いのだが、ここまでは小国同士の神経分裂症的な外交として何とか理解できる。不可解なのは、アメリカがあろうことかホメイニ師に武器を販売して、その代金をニカラグアの親米反政府組織に渡していたことである。ホメイニ師は典型的な反米であり、太平洋戦争でアメリカが日本に原爆を落としたことを強く批判していた。そのホメイニ師をアメリカは支援して、ニカラグアの親米政権樹立を目指していたのである。このように、大国は自国の利益のために手段を選ばないことがある。いくら同盟を結んでいても、最終的に優先されるのは同盟国の利益ではなく、アメリカの利益である。この点を忘れてはならない。


2018年06月26日

『正論』2018年7月号『平和のイカサマ』―「利より義」で日本と朝鮮統一国家の関係を改善できるか壮大な実験を行うことになるだろう


正論2018年7月号 (向夏特大号 平和のイカサマ)正論2018年7月号 (向夏特大号 平和のイカサマ)

日本工業新聞社 2018-06-01

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 以前の記事「岡部達味『国際政治の分析枠組』―軍縮をしたければ、一旦は軍拡しなければならない、他」、「『北朝鮮”炎上”/日本国憲法施行70年/憲法、このままなら、どうなる?(『正論』2017年6月号)』―日本はアメリカへの過度の依存を改める時期に来ている」の内容を改めてまとめると、国家間の相互不信を原則とする国際政治の舞台においては、どの国も他国から侵略されるのではないかと恐れを抱いて自衛権を拡張する。だが、A国が他国からの侵略を過度に警戒する場合、A国の自衛権は過剰になる。専守防衛にとどまらず、いざとなれば他国を攻撃する能力を装備する。A国の動きを見た他の国は、A国の脅威から自国を守るために軍備を拡張する。他国の動きを警戒するA国は、さらに軍拡へと進む。こうして、各国は軍拡競争へと突入する。そして、A国と他国とが、このままでは本当に軍事衝突をしてしまうかもしれないというほどに軍事的緊張が高まった時、A国と他国との間で軍縮に向けた交渉が始まる。

 6月12日に史上初の米朝首脳会談が開催されたが、北朝鮮がそれまでの強硬な姿勢からアメリカとの対話路線に転換したのは、アメリカを中心とする国際社会からの「最大限の圧力」が功を奏したからだと言われる。だが、これは北朝鮮をどうしてもやっつけたい右派に特有の論理であり、実のところは、北朝鮮が「火星15」の完成によりアメリカ大陸の東海岸まで射程圏に収めたことで、アメリカ国内に現実的な恐怖が生じたからだと説明した方がしっくりくる。

 その米朝首脳会談をめぐっては、「完全で検証可能かつ不可逆的な非核化(CVID)」を求めるアメリカと、段階的な非核化を求める北朝鮮との間には相当の開きがあった。北朝鮮は約60の核弾頭と、約150の核兵器関連施設を有していると言われる。アメリカは当初これを半年ほどで全廃棄させると言っていたものの、それは土台無理な注文であり、国際的な交渉に特有の”ふっかけ”である。最初に無理な注文を突きつけておいて、それが無理ならではどうするのかと相手に迫るのがアメリカ(というか世界の普通の国全般)のやり方である。そもそも、完全なる非核化となると、核弾頭や核兵器関連施設を廃棄すれば済むわけではなく、核実験のデータの消去や、核兵器開発のノウハウを持った人材の封じ込めなど、難題が山積している。これらを踏まえれば、完全なる非核化には10年単位の時間がかかるのが当然であり、北朝鮮が求める段階的な非核化に落ち着くのは自然なことであると思われた。

 だが、誤算だったのは、非核化に向けた具体的な方法や工程表に一切踏み込むことなく、トランプ大統領が金正恩委員長に「体制の保証」を与えてしまったことである。さらに、米朝は急速に仲良くなっており、朝鮮戦争の終結も近いと言う。本来であれば、北朝鮮がアメリカの要求する形で非核化を段階的に進め、それに伴って徐々に経済制裁を緩めていき、北朝鮮の非核化が完全に実現した段階で体制の保証を与え、朝鮮戦争を終結させるべきである。ところが、体制の保証を先に与えてしまった以上、北朝鮮は優先度の低い核兵器関連施設をパフォーマンス的に爆破して非核化を進めていることをアピールしながら、体制を脅かすもの、すなわち在韓米軍の撤退を求めるに違いない。そのために、朝鮮戦争の終結を急ぐだろう。

 この状態を隣国の韓国はどう見ているのか?以前の記事「『正論』2018年5月号『策略の朝鮮半島/森友”改竄”の激震/新たなる皇帝の誕生・・・』―南北統一で「金氏朝鮮」が成立する可能性、他」では、北朝鮮主導による朝鮮半島統一の可能性について書いた。現在の文在寅大統領はウルトラ左派であり、韓国では全体主義化が進んでいるという。
 西岡:北と戦ってきた国家情報院の歴代院長が逮捕され、国情院のスパイ摘発部門を警察に移すといい、かつ国情院の過去の「積弊」を調査する集団のトップには民間人の左翼知識人を据えています。そのトップが国情院に乗り込んで秘密データベースにアクセスしています。文大統領の参謀たちの約半数は1980年代に地下活動をしたり、激しい学生運動のリーダーだったりした人たちです。
(古森義久、西岡力「トランプVS金正恩最終決戦」)
 文政権の成立後、韓国で全体主義独裁の狂風が吹きまくっている。「積弊清算」という名の人民裁判や魔女狩り式の右派静粛は、従来の権力闘争とは根本的に違い、階級闘争の形で進行している。近代国民国家形成のために主要先進国はすでに経験した混乱だが、韓国は21世紀にとんでもない混乱を経験している。文在寅政権の目的は体制変革、つまり自由民主主義体制と自由市場経済体制の破壊。この「ロウソク・主思派政権」が金正恩体制と共助して推進する左翼民衆革命は、中国が主導する現状変更戦略と共鳴している。
(洪熒「文在寅 自由の破壊 いよいよ韓国の赤化が始まった」)
 だから、韓国は北朝鮮による朝鮮半島統一を喜んで受け入れる。当然のことながら、米韓同盟は破棄され、朝鮮半島統一国家は中国寄りになる。この段階では、北朝鮮の非核化は完全に完了していない可能性がある。この危険な国家と日本は向き合っていかなければならないのである。日本と朝鮮半島統一国家の関係を、軍事評論家の兵頭二十八氏は「日本がイラクになって、朝鮮半島がイスラエルになるという構造だ」と指摘したそうだ(西尾幹二「政府に今、クギを刺す トランプに代わって、日本が自由と人権を語れ」)。唯一違うのは、イラクが反米、日本が親米であり、イスラエルが親米、朝鮮半島統一国家が反米であるという点である。

 私は、アメリカがこのようなシナリオを予想していないとは到底思えない。むしろ、韓国のことは諦めたのではないかと感じる。だから、米韓合同演習をあっさりと休止してしまった。アメリカとしては、朝鮮半島のいざこざに労力を費やすよりも、中東や中国との問題にエネルギーを注ぎたいというのが本音なのだろう。そして、朝鮮半島のことは日本に任せてしまう。これが、トランプ大統領による「体制の保証」の裏に隠されたメッセージではないかと思う。

 だが、「ネイション(民族)の境界線が国家の境界線であるべきである」という政治学者アーネスト・ゲルナーの言説に従えば、南北朝鮮が統一されるのはむしろ歓迎されるべきこととも言える。本来であれば、太平洋戦争で日本が敗戦した段階で、日本もドイツと同様に連合国によって分断統治される可能性があった。ところが、日本の敗戦によって空白地帯となった朝鮮半島にアメリカとソ連が侵攻して南北が分断され、朝鮮戦争へと発展した。

 なぜ朝鮮半島に空白地帯が生じたかと言えば、他ならぬ日韓併合のせいである。日本では、安重根は朝鮮総督府統監の伊藤博文を暗殺した”犯罪者”だと扱われているが、韓国人にとっては、テロリスト以下の扱いをされることが我慢ならないのだという。安重根は『東洋平和論』を著して、日本が東アジアを西洋列強の帝国主義から救ってくれると本気で信じていた。だから、日清戦争の時も、日露戦争の時も、朝鮮半島を戦場として提供した。ところが、両戦争に勝利した日本は、結局西洋列強と同じ統治を行った。それに憤った安重根は、伊藤博文暗殺という、政治的意図を持った”テロ行為”に出たというわけである。
 南北分断は、日本にはまったく責任はない。ソ連に条約を干渉しての対日参戦を促すために米国や中国など連合国がソ連に38度線以北を占領させたことから起きた問題であって、たとえば、日本敗戦から数年のうちに独立させるということであれば、南北分断も、朝鮮戦争も、とげとげしい日韓関係もなかったはずである。
(八幡和郎「南北朝鮮との新たなる歴史戦に備えろ!」)
 本号にはこのように南北分断に関する日本の責任を否定する記事もある。しかし、個人的には、日韓併合がもっと別のスマートな形で行われていれば、あるいは別の選択肢がとられていれば、現在にまで続く南北分断の悲劇は回避できたかもしれないと思う。その意味で、日本人は南北分断による民族の痛みに敏感にならなければならないし、仮に北朝鮮主導で朝鮮半島が統一されても、その統一国家と真正面から真摯に向き合う必要があると考える。

 朝鮮半島に誕生する新たな統一国家は、独裁政治を行う危険な国家でる。しかも、前述のように核兵器を保有しているかもしれないし、仮に核兵器を保有していなくても、いつでも核兵器を開発する能力を残している可能性のある国家である。このような国を目の前にして、国家間の相互不信を原則とするならば、日本は軍拡し、場合によっては核兵器の保有も辞さない覚悟が必要になるだろう。だがここで、私は敢えて違うアプローチを提案してみたい。

 私は、国内では相互信頼を原則とし、見返りを求めない利他的な精神が重要であるとしがら、国際政治の舞台では相互不信を原則とし、国家が利己的に振る舞うべきだというダブルスタンダードに長年苦しんできた(このような二重基準は、私が定期購読している『致知』にも見られる)。冒頭でも書いたように、相互不信に基づくアプローチは双方の国にとって負担が重い。こんなことを書くと私が左派に転向したのではないかと思われそうだが、朝鮮半島統一国家に対しても、信頼を原則としたアプローチを試してはどうか?具体的には、日本が新しい統一国家の経済的・社会的インフラに投資し、教育基盤を構築し、社会的な各種制度の整備を支援するというものである。見返りを求めずに、ただ朝鮮半島統一国家の発展を信じてこれらを実行する。

 これは、戦後の日本が東南アジア諸国に対して行ってきたことと同じである。右派はよく、日本は太平洋戦争で東南アジアを植民地支配から解放したと主張し、その結果として現在の東南アジア諸国には親日国が多いと言うが、これは正確ではない。日本軍は伝統的に兵站を軽視する傾向があり、物資を現地調達していた。地元民は食糧を日本軍に奪われ、また働き手として基地建設などにかり出された。さらに、日本軍が軍票(日本が作った現地通貨)を乱発したことで超インフレが起こり、約束されていた独立も一向に実現しない。地元民は、これなら欧米の支配の方がよかったと思い、反日運動に転じた。それを憲兵が弾圧すると、急進派が抗日武装して蜂起し、それが全国規模にまで広がって連合国軍と連携した。フィリピン、インドネシア、ビルマなどで見られたのはおおよそこのようなストーリーである。戦後、補償の一環としてODAを中心とした開発援助などを行うことで、東南アジア諸国は徐々に親日になっていった。

 もちろん、今度の相手は半世紀以上も日本への憎悪を膨らませてきた国であるから、一筋縄ではいかないだろう。左派は「対話」が重要だと言うが、私は対話という言葉につきまとうソフトなイメージが受け入れられない。対話は「議論」のアンチテーゼとして持ち出されることが多い。議論が論理的、線形的、算術的、合理的に行われるものであるとすれば、その反対に位置する対話は感情的、飛躍的、策略的、権力的に行われるものである。拉致問題、慰安婦問題などをめぐっては、今後もけんか腰の対話が続く。重要なのは、その間も継続して経済的・社会的支援を止めないということである。経済的・社会的支援を政治の駆け引きの道具にはしない。日本人のソフト・パワーは「勤勉に働く姿」である。それを朝鮮半島統一国家の人々に見てもらうことで、労働に価値を置く社会主義者である彼らの心を動かすものがあるかもしれない。

 これは言うなれば、右手で拳を振り上げながら左手で握手をする外交である。実は、これこそ小国同士の理想的な外交である。大国(私が本ブログで大国と言う場合、米独中ロの4か国を指す)は二項対立的な発想をし、敵味方をはっきりと分ける。ところが、国内も二項対立で対立している。例えば米ロ関係を見ると、両国は表面的には明確に対立している。しかし、アメリカ国内は反ロ派と親ロ派に、ロシア国内は反米派と親米派に分かれており、反ロ派と反米派が表で対立している裏で、親ロ派と親米派が手を握っている。例えるならば、ボクサーがリング上で殴り合っている裏で、両者のコーチがツーカーの仲になっているようなものである。こうすることによって、大国同士の決定的で破滅的な対決を防ぎ、両国の均衡を保っている。

 表面的に対立する大国は、国内のガス抜きをするために、同盟国である小国に代理戦争をさせる。中東が解りやすい例である。小国はリング上で殴り合うボクサーであるから、相手が倒れるまで徹底的に叩き潰す。一方で、自分が受けるダメージも相当なものになる。だから私は、小国は同盟国である大国にどっぷりと依存することに対して警告を発してきた。そうではなく、大国的な流儀を身につける必要がある。と言っても、大国のように資源が豊富にあるわけではないから、リング上ではボクサーに戦わせて、リングの下ではコーチが手を結ぶという真似はできない。小国はボクサーとコーチの役割を同時に担う必要がある。その結果生まれる外交スタイルが、右手で拳を振り上げながら左手で握手をする外交である。

 朝鮮半島統一国家への経済的・社会的支援であれば、日韓併合時代にも行ってきたではないかという批判もあるに違いない。確かに、警察制度は日本が作ったし、漢文をハングルで読めるようにしたのも日本人である。だが、当時の日本軍のやり方が、現地の人々のニーズに合っていたかどうかが問題である。山本七平は『一下級将校の見た帝国陸軍』の中で、日本軍は植民地のニーズを汲み取っておらず、そのために現地の反発を招いたと指摘している。

一下級将校の見た帝国陸軍 (文春文庫)一下級将校の見た帝国陸軍 (文春文庫)
山本 七平

文藝春秋 1987-08-01

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 だから、今度は朝鮮半島統一国家のニーズに合った形で支援を行う。言うなれば、明治40年代~昭和10年代をもう一度やり直すということである。新保祐司氏は、昭和10年代=明治70年代と位置づけた上で、次のように述べている。
 戦前の復活ではない。明治70年代の文明の復活なのです。このように、明治70年代の文明を否定していた戦後七十余年の日本文明は、本来の日本文明と言えるようなものではなかった。
(新保祐司「日本人は日本文明を保持する意思があるか」)
 そして、明治70年代の文明の特徴の1つとして、「美より義を優先する精神」を挙げている。この精神こそ、朝鮮半島統一国家に対して日本が発揮すべき精神である。松山藩の財政を立て直し、わずか8年で10万両(約300億円)の借財を10万両の蓄財に変えた山田方谷も、「義を明らかにして利を計らず」と述べている。朝鮮半島統一国家を支援すれば、積年の禍根は全て解消されてしかるべきだと期待してはならない。それは利己心の表れである。大半の支援は日本の徒労に終わるだけかもしれない。それを覚悟の上で支援し続ける。そして、仮に中国が朝鮮半島統一国家をけしかけて日本を攻撃せよと命じた場合、朝鮮半島統一国家がそれまでの日本の支援を思い返して攻撃をちょっとためらうようなことがあれば、それで十分である。

 私は、究極のウルトラCとして、アメリカが北朝鮮との国交を回復した後に、直ちに日本も北朝鮮と国交を回復するのもありだと考える。国交が回復すれば、北朝鮮に日本の大使館を置くことができる。すると、今まで入手が困難であった拉致被害者に関する情報が入手しやすくなる。政府は「拉致被害者全員の帰国」を目標としているが、実は「拉致被害者全員」とは誰のことを指すのか、誰も解っていないのだという(荒木和博「特定失踪者をウヤムヤにしてはならない」)。日本大使館の設置は、このような状況の改善の一歩につながる。また、日本政府としては、「拉致被害者全員の一括帰国」ばかりにこだわって交渉をするべきではない。交渉には幅を持たせるのが鉄則である。もちろん、表向きは「拉致被害者全員の一括帰国」を強弁するのは構わないが、その裏で複数の腹案を抱えていないのであれば、それは愚策である。



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