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『正論』2018年8月号『ここでしか読めない米朝首脳会談の真実』―大国の二項対立、小国の二項混合、同盟の意義について(試論)
『正論』2018年7月号『平和のイカサマ』―「利より義」で日本と朝鮮統一国家の関係を改善できるか壮大な実験を行うことになるだろう
『正論』2018年6月号『安倍”悪玉”論のいかがわしさ/シリア攻撃 揺れる世界』―政治家やメディアが国民に迎合したら民主主義は終わる

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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

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2018年07月27日

『正論』2018年8月号『ここでしか読めない米朝首脳会談の真実』―大国の二項対立、小国の二項混合、同盟の意義について(試論)


正論2018年8月号 (在韓米軍撤退の現実味)正論2018年8月号 (在韓米軍撤退の現実味)

日本工業新聞社 2018-06-30

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 経営については、一応経営コンサルタント(中小企業診断士)としての経験もブログの経験も10年以上あり、それなりの内容が書けるようになったと思う。しかし、政治に関しては、法学部出身にもかかわらずまじめに勉強したことがなく、ブログで取り上げるようになったのも、現行ブログを立ち上げたここ数年のことだから、未だに珍妙なことを書いてしまうかもしれないが、今回もそれを覚悟の上で記事をまとめてみたいと思う。

 今、ある小国aがあるとしよう。小国aは大国Bからの脅威にさらされている。小国aは、自国だけでは大国からの脅威に対抗できないと判断した場合、自国の味方となってくれる大国を探す。それを大国Aとしよう。小国aは大国Aと同盟関係を結ぶ。大国Aは小国aを庇護しながら、大国Bと対立する。大国Bとしては、小国aに手を出したいところだが、小国aを攻撃すると、小国aと同盟関係にある大国Aが出てきて非常に厄介なことになる。こうして、大国Aと小国aの同盟関係は、大国Bに対する抑止力となる。この同盟は、小国のための同盟であると言える。

 だが、大国Bとしては、この事態を黙って見過ごしているわけにはいかない。特に、大国Bの内政が混乱している場合には、国民の目を外部に向け、国威を掲揚する必要がある。かといって、大国Aを引きずり出すような真似はしたくない。そこで、大国Bは、近隣の小国bと同盟を結び、大国A側の小国aと大国B側の小国bの対立という構図を作り出す。言い換えれば、大国Aと大国Bの代理戦争を小国aと小国bにやらせる。中東におけるサウジアラビア・エジプトVSイラン・シリアや、朝鮮半島における北朝鮮VS韓国はアメリカとロシア(+中国)の代理戦争の典型例である。ここに至って、同盟は、小国のための同盟から、大国のための同盟へと変質する。

 大国Aと大国Bにとっては、小国aと小国bの対立が盛り上がってくれた方が、血を流さずに軍事費を引き上げることができ、自国の軍需産業の成長につながる(朝鮮半島の場合)。もちろん、小国aと小国bが血を流してくれても、やはり軍事支出が増えるので、大国Aと大国Bにとってはありがたい(中東の場合)。いずれにしても、大国Aと大国Bが直接対決せずに、両国の対立を小国aと小国bの対立という空間に閉じ込めておくことが重要である。

 大国Aと大国Bは限界まで直接対決しないように、二項対立的な発想で双方の緊張を高めつつも、対立を抑制する仕組みを持っている。大国Aには、主流派としての反B派と、非主流派としての親B派という二項対立がある。同様に、大国Bには、主流派としての反A派と、非主流派としての親A派という二項対立がある(アメリカは反ロ派が主流だが、一部には親ロ派がいる。同様に、ロシアも反米派が主流だが、一部には親米派がいる)。大国Aの反B派と大国Bの反A派は、公式・非公式のあらゆるチャネルを通じて相手国と対立する。一方で、大国Aの親B派と大国Bの親A派は、裏で同じように公式・非公式のチャネルを活用して相手国と通じている。すると、大国A内の反B派と親B派は、大国Bへの対応をめぐって国内対立し、大国A全体として大国Bに向かっていくエネルギーが減退する。同じことは、大国Bに関しても言える。

 だが、大国には豊富な政治資源があるからこのような芸当ができるのである。政治資源が限定されており、大国の内情をよく知らない小国aと小国bは、それぞれ大国Aと大国Bから十分な支援を受けていると思い込み、全面的に対立する。実を言うと、中東に関しては、山本七平が指摘したように、セム系の民族であるアラブ人は、古代から二元論に強いとされる。20世紀に入ってからは、サイイド・クトゥブの善悪二元論のような、極端な二元論もあった。ただし、中東の小国はこうした二元論を、大国のように国内の二項対立として処理することができない。だから、自分の国は正しい、相手の国は間違っている、という二分論になってしまう。これが、中東の混乱を招いている一因であると考える。必ずしも、近現代の欧米諸国の中東政策だけが間違っていたわけではなく、中東の伝統的な思考様式にも原因を求める必要がありそうである。

 では、小国aと小国bが全面的な対立を回避するためにはどうすればよいだろうか?ここからは非常に稚拙な案なのだが、小国は「精神分裂症」にならなければならないと思う。つまり、相互信頼と相互不信を織り交ぜて、お互いにくっついたり離れたりを繰り返す複雑な外交を展開するのである。この精神分裂症的外交を、私は日本と朝鮮半島の長い歴史の中に見出すことができると考える(以下、小倉和夫『日本人の朝鮮観―なぜ「近くて遠い隣人」なのか』〔日本経済新聞出版社、2016年〕を参考にした)。

日本人の朝鮮観 ―なぜ近くて遠い隣人なのか日本人の朝鮮観 ―なぜ近くて遠い隣人なのか
小倉 和夫

日本経済新聞出版社 2016-03-26

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 またしても私の好きなマトリクス図を取り出して恐縮なのだが、「融和―対立」、「公式―非公式」という2軸でマトリクスを作ると、外交には4つのパターンがあることが解る。まず、「融和&公式」の象限であるが、古代から日本は朝鮮半島を儒教の国として尊重してきた。また、江戸時代に入ってからは、朝鮮半島を「文」の進んだ国と見なしてその文化を吸収してきた。一方で、朝鮮半島の背後には常に中国の影があり、中国の脅威が近づくと朝鮮半島に対して高圧的な態度を取るという伝統がある。これが「対立&公式」の象限である。古代の白村江の戦いがそうであったし、戦国時代における豊臣秀吉の朝鮮出兵もそうであった。近代に入ってからは、欧米の帝国主義から中国や朝鮮半島を解放するという名目で朝鮮半島に踏み入った。

 公式のチャネルに関しては以上の通りだが、非公式のチャネルを通じても融和と対立を繰り返してきた。「融和&非公式」という象限に関しては、古くは倭寇(よく知られているように、倭寇という名前がついているものの、その構成員には日本人だけでなく、多くの朝鮮人も含まれていた)が日本と朝鮮半島の交易上のつながりを示すものであった。明治時代以降は、近代化が進む日本と近代化の面で遅れている朝鮮半島を比較し、遅れている朝鮮半島の方にかつての日本が持っていたロマンを見出すという文芸家が少なからず存在した。また、ロマンを感じるだけでなく、植民支配に対するアジアの連帯を説く思想家も現れた。

 「融和&非公式」という象限があれば、その反対の「対立&非公式」という象限もある。江戸時代には、朝鮮半島からの通信使である崔天宗が殺害されるという事件が起きている。しかも、この事件は、通称「唐人殺し」という名の「漢人韓文手管始」という演目で歌舞伎の題材となった(ここでの「唐人」とは外国人の意味である)。明治より後は、前述のように朝鮮半島に対してロマンを感じる人々も多かったものの、日本人と朝鮮人が文化的・民族的に近すぎるがゆえの嫌悪感も生まれた。民度が低い、非実利的性格、いい加減、激情的、享楽的、反抗的、残酷であり横暴などといった批判が朝鮮半島の人々に向けられた。

 とりわけ明治以降の朝鮮人に対する日本人の感情は複雑である。いち早く近代化に成功した日本は、朝鮮半島が儒教に優れた国というこれまでの評価を覆して、近代化に遅れた国だというレッテルを貼り、その遅れに対して苛立ちを感じていた。ところが、実際に朝鮮半島を訪れた日本人は、朝鮮人の純朴さ、精悍さに心を打たれ、日本が近代化の過程で失ったロマンを見出した。しかし、憧れというのは近すぎるとその魅力を失うようで、ロマンに近づきすぎた日本人はやがて朝鮮人と距離を取るようになった。とはいえ、欧米の帝国主義の脅威は迫っているわけであり、西洋に対抗するためにアジアの連帯を強調するようになった。にもかかわらず、一向に立ち上がろうとしない朝鮮人に再び苛立ちを感じた。このサイクルをぐるぐると回っていた。

 興味深いのは、大国であれば、反朝鮮半島の人々と親朝鮮半島の人々が二項対立によってくっきりと分かれるのに対し、日本人の場合は国内に二項対立が存在しないため、同じ人物がある時は反朝鮮半島に回り、ある時は親朝鮮半島に回るということである。例えば、高浜虚子は、一方で朝鮮半島の近代化の遅れを批判しておきながら、他方で、朝鮮人のロマンを持ち上げるというような芸当をやってのけている。これは、大国の二項対立には見られない、いわば「二項混合」とでも呼ぶべき状態である。小国の外交とは、こういうものであるべきだと思う。

 お互いが精神分裂症だから、外交姿勢が一貫せず、相手の考えがよく解らないこともあるだろう。だが、例えば近くて遠い存在である家族を取り上げてみると、どんなに上手く行っている家族であっても、親密と疎遠を繰り返しながら関係を維持しているものである。喧嘩しても、仲直りして信頼関係を深めているものである。これと同じ関係を、近隣の小国と構築すればよい。

 こうして、小国aと小国bが複雑ながらもそれなりに良好な関係を築くようになると、小国aと小国bに代理戦争を行わせようと目論んでいた大国Aと大国Bには旨みがなくなる。大国Aと大国Bが対立するよりも手を組んだ方が利益が大きくなると判断すれば、両国は突然接近することもあり得る。大国A内の親B派と大国B内の親A派の力が強くなり、両者が意気投合する。大国が小国のはしごを外すタイミングは、小国には予期できない。小国には、大国内の二項対立の構造が理解不能である。かつて、ソ連と対立していたドイツが日独防共協定を結んでいたのに、1939年に突如独ソ不可侵条約を締結して日本を驚かせたことがあった。当時の平沼騏一郎首相は、「欧州情勢は複雑怪奇なり」という言葉を残して辞任した。

 現在、アメリカと中国が激しい貿易戦争を繰り広げているが、アメリカも中国も表現の自由を制限し、三権分立を脅かし(中国にはそもそも三権分立がない)、政府が一方的な主張を展開するといった具合に、同じファシズムに向かっている。もちろん、第2次世界大戦時のドイツとソ連のように、ファシズム国家同士が対立する例もあるが、同じ政治的志向を持つ国同士のこと、いつ連携してもおかしくはない。米中貿易戦争の本質は、中国からアメリカに輸出される大量の日本製品に高い関税を課して日本の産業を潰すことであるとも言われている。アメリカと中国は激しく対立しているように見せかけながら、実は、アメリカが日本のはしごを外して中国に接近し、何らかのしたたかな計算の元に、両国が儲かるように仕組んでいる可能性もある。そのような事態に備えるという意味でも、日本は近隣の小国と関係を深めておく必要がある。

 ところで、米朝首脳会談によって「体制の保証」を勝ち取った北朝鮮は、アメリカらから邪魔されるリスクを気にせずに、南北統一に向かうと思われる。韓国の親北派・文在寅大統領もこれを後押しするだろう。今までアメリカと中国の対立は朝鮮半島内に閉じ込められていたが、今後は日本と朝鮮半島の対立に拡大される恐れがある。

 結局のところ、朝鮮半島は中国に従うしかないのである。朝鮮半島は、百済・新羅の歴史を持ち出して、朝鮮半島に独自の民族がいたと主張する。だが、中国は高句麗が中国民族の出先機関であるとしており、新羅が朝鮮半島を統一したと言っても、その後の高麗は所詮新羅の政権交代ぐらいにしか見ていない。ただ、だからと言って、日本と朝鮮半島という小国同士が全面的に対立していては、背後にいる大国の思うつぼである。日本としては気が進まなくても、朝鮮半島の新統一国家とは精神分裂症的な外交を展開しなければならない。この点については、以前の記事「『正論』2018年7月号『平和のイカサマ』―「利より義」で日本と朝鮮統一国家の関係を改善できるか壮大な実験を行うことになるだろう」でも書いた。

 日本と朝鮮半島の新統一国家が国交を樹立すれば、国民を拉致するような危険な国の大使館が東京のど真ん中にできると恐れる声もある。しかし、国民を拉致するどころか、国土の略奪を虎視眈々と狙っている中国の大使館があるぐらいだから、この批判は十分でない。

 小国がなすべきことは、まずは近隣の小国と精神分裂症的な外交を通じて一定の信頼関係を構築することである。そして、対立する両大国に関しても、第一に、政治、経済、社会、軍事制度をめぐり両国の対立を生み出す要因となっている双方の両極端な養分を摂取・混合して、自国の文化、伝統の上に独自で多義的な制度を構築する。第二に、その多義的な制度の価値を、双方の大国に訴求する外交を展開する。特に、その大国に欠けている価値、別の言い方をすれば、対立する相手国側が包摂している価値を訴求する。

 もちろん、大国は教条的なイデオロギーにしがみついているから、小国ごときが何かを提案したとしても簡単に態度を変えるとはおよそ考えにくい。まして、大国同士の溝が埋まることは期待できそうにもない。しかし、小国が大国に”訴求し続ける”という事実こそが重要である。大国にとっては、その小国は対立する相手国の情報を運んできてくれる使者となるからだ。こうして、どちらの大国にとっても、日本が自国の味方であるかのように見える状況を作る。これを私は「ちゃんぽん戦略」と呼んでいる(以前の記事「『トランプと日本/さようなら、三浦朱門先生(『正論』2017年4月号)』―米中とつかず離れずで「孤高の島国」を貫けるか?」を参照)。

 日米、日中の関係について、解りやすい経済と社会から考えてみる。経済に関しては、アメリカの株主至上主義と、中国の国営企業中心経済をちゃんぽんにする。アメリカに対しては、企業が株主至上主義に代えて顧客第一主義を掲げると同時に、中国が必ずしも成功しているとは言えないが、行政が業界のため、あるいは格差の縮小・是正のために適度に介入する修正された自由市場経済のあり方を示す。一方、中国に対しては、多くの日本人がアメリカから吸収し、長い年月をかけて現場で培ってきたマネジメントの重要性=民の力を訴求する。

 社会に関しては、アメリカの自由・平等の理念と、中国の統制主義をちゃんぽんにする。どんなに平等を貫いても現実には権威主義的な階層社会(≠階級社会)を免れることはできず、内部における役割の大小が生じる。しかも、日本の場合は本ブログで何度も書いたように”多重”階層社会であるから、役割の大小の差は大きい(ただし、これが直ちに経済格差につながるわけではない)。アメリカに対しては、価値の異なる役割の配分の正統性を、中国に対しては、権威の影響下にあっても、役割をテコに自由を発揮する余地があり、権力からの自由でも権力への自由でもない、権力の中での自由とでも呼ぶべき自由が存在することを証明する。

 政治に関しては、アメリカの2大政党制民主主義と、中国の一党独裁をちゃんぽんにしたいところであるが、どちらも政治の多元主義化という現実に上手く適応できていない。一方、日本政治の特徴は、表面上は自民党の一党支配でありながら、党内に右から左まで様々な派閥があり、かつ派閥の中では当選回数を問わず自由闊達な議論が認められる点にある(最近はこの特徴が薄らいでいるのが危惧される)。そこで、アメリカに対しては、政治の多元主義化に組織的に適応する方法を示す。他方、中国に対しては、下の階層からの諫言を歓迎する真の意味での権威主義を提示する。これは元々は古代中国にあったものであり、諫言を抹殺するのは権威主義ではなく強権主義にすぎないと訴える。まずはここから始めてはどうか?

 軍事についても、以前の記事で上手に書けなかったのだが、1つの方法としては、対立する双方の国へ武器を販売するという手がある。かつて日本陸軍は、昭和通商という企業を通じて中国などに武器を輸出していた。日本に対する武器の依存度が高まれば、中国との間で疑似的に軍事同盟が成り立つだろうというのが陸軍の考えであった。しかし、結局日本は中国と戦争になってしまったので、今はこの考えを採用することはできない。それに、国民全体が武器の輸出に対してナイーブになっている現代では、現実的な選択肢ではないだろう。

 もう1つの方法は、逆に、対立する両国の国から武器を購入するというものである。ベトナムはアメリカとロシアの双方から武器を購入している。お互いの軍事機密が相手国に漏れるのではないかと思うのだが、ベトナムはこれを上手くやっている。ベトナムに学ぶ点はありそうだ。だが、いずれの方法もかなりのリスクを伴う。ちゃんぽん戦略という観点で単純に考えれば、日本がアメリカ、中国の双方と軍事演習を行うことができれば一番よい。しかし、お互いの軍事機密が相手国に対して露骨に漏洩するため、実現可能性は低いだろう。よって、現実的には、今行われているように、アメリカとは軍事演習を実施する一方で、中国とは軍事危機に備えた連絡メカニズムを構築するという点に落ち着くに違いない(あるいは、将来的には中国と軍事演習を行い、アメリカとは軍事危機に備えた連絡メカニズムを構築する、という逆の道があるのかもしれない)。ゆくゆくは、軍事演習なしで、双方の大国と連絡メカニズムだけを構築できるのが望ましい。

 ちゃんぽん戦略を徹底すると、日本を通じてアメリカの情報が中国に、中国の情報がアメリカに渡るから、日本はアメリカにとっても中国にとっても重要な国となり、双方の大国はそう簡単には日本に手出しができなくなる。さらに、日本が近隣の小国と神経分裂症的な外交でもって一定の信頼関係を築き、その小国もまた日本と同様にちゃんぽん戦略を採用するならば、なお一層、両大国は日本を含む小国に代理戦争を演じさることが難しくなる。

 近年、日本のマンガやポップカルチャーが世界中で人気を博し、日本文化に好意的な国は「こういう文化を持っている国は攻撃してはならない」と考えるようになっている。これを「文化による安全保障」と呼ぶそうだ。しかし、私は、文化による安全保障とはもっと深い意図を帯びたものであり、前述のように、政治、経済など多元的なレベルでちゃんぽん戦略を実行し、対立する両大国に対して独自の価値を訴求することで成立するものである。

 同盟関係は、複数の国で共通の仮想敵国を設定できた時代には有効であった。しかし、現代はある国とある国が時と場合に応じて接近と離反を繰り返す時代である。前述の通り、小国に代理戦争をさせようとしていた両大国が突然手を結んで、小国からはしごを外すことも考え得る。手を結んだ両大国は、別の大国と新たな対立を始める。これは、常に二項対立的な発想でしか物事をとらえることができない大国の性であると言える。

4大国の特徴(これから)

 以前の記事「『致知』2017年11月号『一剣を持して起つ』―米朝対話が成立するとはアメリカが韓国を捨てることを意味する(ことを左派は解っていない)、他」で、私は上図を用いた。私が考える現在の大国とは、アメリカ、ロシア、中国、ドイツの4か国である。アメリカはドイツと同じグループ、中国はロシアと同じグループである。だが、実際には、ドイツは日本から物理的に遠く、またロシアは冷戦で国力が疲弊していたから、あまり意識する必要がなかった。事実上、アメリカ対中国という構図でとらえておけば十分であった。だから、これまで述べてきたちゃんぽん戦略も、アメリカと中国の両国に対して発揮することを想定していた。

 しかし、ここに来ていくつかの変化が見られる。アメリカとロシアは相変わらず強い敵対関係にある。一方で、アメリカとドイツの間には隙間風が吹き始めている。さらに、繰り返しになるが、アメリカは中国とあれだけ激しい貿易戦争をやっておきながら、突然手を結ぶ可能性がある。ドイツの動向が読みづらく、今はロシアと中国の双方に接近して、どちらの国から得られる経済的価値が大きいか天秤にかけているようである。だが、最終的には、かつての東ドイツ―ソ連という政治上の密接なつながりを理由に、ロシアが選択される可能性が高いと予測する。すると、二項対立の構図は、「アメリカ&中国」VS「ロシア&ドイツ」に変質する。その時日本は、両陣営をそれぞれ貫く新たなイデオロギーを見抜き、ちゃんぽん戦略を再考しなければならない。この新時代では、日米同盟はおそらくほとんど意味を持たなくなっていることだろう。

 最後に、大国の恐ろしさについて書いておきたい。前述の通り、大国Aは小国aを、大国Bは小国bを支援するというのが基本的関係である。だが、大国は二項対立的な発想を拡大して、大国Aが小国aと小国bの双方を支援することがある。大国A内の親B派が大国B内の親A派と結びついて、大国Bが支援する小国bを大国Aも支援するというパターンである。

 レーガン政権下の「イラン・コントラ事件」を取り上げてみよう。まず、アメリカはイラクを扇動してイランを攻撃させた。この時、サウジアラビアはイランのホメイニ師を支援した。サウジアラビアとイランは元々仲が悪いのだが、ここまでは小国同士の神経分裂症的な外交として何とか理解できる。不可解なのは、アメリカがあろうことかホメイニ師に武器を販売して、その代金をニカラグアの親米反政府組織に渡していたことである。ホメイニ師は典型的な反米であり、太平洋戦争でアメリカが日本に原爆を落としたことを強く批判していた。そのホメイニ師をアメリカは支援して、ニカラグアの親米政権樹立を目指していたのである。このように、大国は自国の利益のために手段を選ばないことがある。いくら同盟を結んでいても、最終的に優先されるのは同盟国の利益ではなく、アメリカの利益である。この点を忘れてはならない。

2018年06月26日

『正論』2018年7月号『平和のイカサマ』―「利より義」で日本と朝鮮統一国家の関係を改善できるか壮大な実験を行うことになるだろう


正論2018年7月号 (向夏特大号 平和のイカサマ)正論2018年7月号 (向夏特大号 平和のイカサマ)

日本工業新聞社 2018-06-01

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 以前の記事「岡部達味『国際政治の分析枠組』―軍縮をしたければ、一旦は軍拡しなければならない、他」、「『北朝鮮”炎上”/日本国憲法施行70年/憲法、このままなら、どうなる?(『正論』2017年6月号)』―日本はアメリカへの過度の依存を改める時期に来ている」の内容を改めてまとめると、国家間の相互不信を原則とする国際政治の舞台においては、どの国も他国から侵略されるのではないかと恐れを抱いて自衛権を拡張する。だが、A国が他国からの侵略を過度に警戒する場合、A国の自衛権は過剰になる。専守防衛にとどまらず、いざとなれば他国を攻撃する能力を装備する。A国の動きを見た他の国は、A国の脅威から自国を守るために軍備を拡張する。他国の動きを警戒するA国は、さらに軍拡へと進む。こうして、各国は軍拡競争へと突入する。そして、A国と他国とが、このままでは本当に軍事衝突をしてしまうかもしれないというほどに軍事的緊張が高まった時、A国と他国との間で軍縮に向けた交渉が始まる。

 6月12日に史上初の米朝首脳会談が開催されたが、北朝鮮がそれまでの強硬な姿勢からアメリカとの対話路線に転換したのは、アメリカを中心とする国際社会からの「最大限の圧力」が功を奏したからだと言われる。だが、これは北朝鮮をどうしてもやっつけたい右派に特有の論理であり、実のところは、北朝鮮が「火星15」の完成によりアメリカ大陸の東海岸まで射程圏に収めたことで、アメリカ国内に現実的な恐怖が生じたからだと説明した方がしっくりくる。

 その米朝首脳会談をめぐっては、「完全で検証可能かつ不可逆的な非核化(CVID)」を求めるアメリカと、段階的な非核化を求める北朝鮮との間には相当の開きがあった。北朝鮮は約60の核弾頭と、約150の核兵器関連施設を有していると言われる。アメリカは当初これを半年ほどで全廃棄させると言っていたものの、それは土台無理な注文であり、国際的な交渉に特有の”ふっかけ”である。最初に無理な注文を突きつけておいて、それが無理ならではどうするのかと相手に迫るのがアメリカ(というか世界の普通の国全般)のやり方である。そもそも、完全なる非核化となると、核弾頭や核兵器関連施設を廃棄すれば済むわけではなく、核実験のデータの消去や、核兵器開発のノウハウを持った人材の封じ込めなど、難題が山積している。これらを踏まえれば、完全なる非核化には10年単位の時間がかかるのが当然であり、北朝鮮が求める段階的な非核化に落ち着くのは自然なことであると思われた。

 だが、誤算だったのは、非核化に向けた具体的な方法や工程表に一切踏み込むことなく、トランプ大統領が金正恩委員長に「体制の保証」を与えてしまったことである。さらに、米朝は急速に仲良くなっており、朝鮮戦争の終結も近いと言う。本来であれば、北朝鮮がアメリカの要求する形で非核化を段階的に進め、それに伴って徐々に経済制裁を緩めていき、北朝鮮の非核化が完全に実現した段階で体制の保証を与え、朝鮮戦争を終結させるべきである。ところが、体制の保証を先に与えてしまった以上、北朝鮮は優先度の低い核兵器関連施設をパフォーマンス的に爆破して非核化を進めていることをアピールしながら、体制を脅かすもの、すなわち在韓米軍の撤退を求めるに違いない。そのために、朝鮮戦争の終結を急ぐだろう。

 この状態を隣国の韓国はどう見ているのか?以前の記事「『正論』2018年5月号『策略の朝鮮半島/森友”改竄”の激震/新たなる皇帝の誕生・・・』―南北統一で「金氏朝鮮」が成立する可能性、他」では、北朝鮮主導による朝鮮半島統一の可能性について書いた。現在の文在寅大統領はウルトラ左派であり、韓国では全体主義化が進んでいるという。
 西岡:北と戦ってきた国家情報院の歴代院長が逮捕され、国情院のスパイ摘発部門を警察に移すといい、かつ国情院の過去の「積弊」を調査する集団のトップには民間人の左翼知識人を据えています。そのトップが国情院に乗り込んで秘密データベースにアクセスしています。文大統領の参謀たちの約半数は1980年代に地下活動をしたり、激しい学生運動のリーダーだったりした人たちです。
(古森義久、西岡力「トランプVS金正恩最終決戦」)
 文政権の成立後、韓国で全体主義独裁の狂風が吹きまくっている。「積弊清算」という名の人民裁判や魔女狩り式の右派静粛は、従来の権力闘争とは根本的に違い、階級闘争の形で進行している。近代国民国家形成のために主要先進国はすでに経験した混乱だが、韓国は21世紀にとんでもない混乱を経験している。文在寅政権の目的は体制変革、つまり自由民主主義体制と自由市場経済体制の破壊。この「ロウソク・主思派政権」が金正恩体制と共助して推進する左翼民衆革命は、中国が主導する現状変更戦略と共鳴している。
(洪熒「文在寅 自由の破壊 いよいよ韓国の赤化が始まった」)
 だから、韓国は北朝鮮による朝鮮半島統一を喜んで受け入れる。当然のことながら、米韓同盟は破棄され、朝鮮半島統一国家は中国寄りになる。この段階では、北朝鮮の非核化は完全に完了していない可能性がある。この危険な国家と日本は向き合っていかなければならないのである。日本と朝鮮半島統一国家の関係を、軍事評論家の兵頭二十八氏は「日本がイラクになって、朝鮮半島がイスラエルになるという構造だ」と指摘したそうだ(西尾幹二「政府に今、クギを刺す トランプに代わって、日本が自由と人権を語れ」)。唯一違うのは、イラクが反米、日本が親米であり、イスラエルが親米、朝鮮半島統一国家が反米であるという点である。

 私は、アメリカがこのようなシナリオを予想していないとは到底思えない。むしろ、韓国のことは諦めたのではないかと感じる。だから、米韓合同演習をあっさりと休止してしまった。アメリカとしては、朝鮮半島のいざこざに労力を費やすよりも、中東や中国との問題にエネルギーを注ぎたいというのが本音なのだろう。そして、朝鮮半島のことは日本に任せてしまう。これが、トランプ大統領による「体制の保証」の裏に隠されたメッセージではないかと思う。

 だが、「ネイション(民族)の境界線が国家の境界線であるべきである」という政治学者アーネスト・ゲルナーの言説に従えば、南北朝鮮が統一されるのはむしろ歓迎されるべきこととも言える。本来であれば、太平洋戦争で日本が敗戦した段階で、日本もドイツと同様に連合国によって分断統治される可能性があった。ところが、日本の敗戦によって空白地帯となった朝鮮半島にアメリカとソ連が侵攻して南北が分断され、朝鮮戦争へと発展した。

 なぜ朝鮮半島に空白地帯が生じたかと言えば、他ならぬ日韓併合のせいである。日本では、安重根は朝鮮総督府統監の伊藤博文を暗殺した”犯罪者”だと扱われているが、韓国人にとっては、テロリスト以下の扱いをされることが我慢ならないのだという。安重根は『東洋平和論』を著して、日本が東アジアを西洋列強の帝国主義から救ってくれると本気で信じていた。だから、日清戦争の時も、日露戦争の時も、朝鮮半島を戦場として提供した。ところが、両戦争に勝利した日本は、結局西洋列強と同じ統治を行った。それに憤った安重根は、伊藤博文暗殺という、政治的意図を持った”テロ行為”に出たというわけである。
 南北分断は、日本にはまったく責任はない。ソ連に条約を干渉しての対日参戦を促すために米国や中国など連合国がソ連に38度線以北を占領させたことから起きた問題であって、たとえば、日本敗戦から数年のうちに独立させるということであれば、南北分断も、朝鮮戦争も、とげとげしい日韓関係もなかったはずである。
(八幡和郎「南北朝鮮との新たなる歴史戦に備えろ!」)
 本号にはこのように南北分断に関する日本の責任を否定する記事もある。しかし、個人的には、日韓併合がもっと別のスマートな形で行われていれば、あるいは別の選択肢がとられていれば、現在にまで続く南北分断の悲劇は回避できたかもしれないと思う。その意味で、日本人は南北分断による民族の痛みに敏感にならなければならないし、仮に北朝鮮主導で朝鮮半島が統一されても、その統一国家と真正面から真摯に向き合う必要があると考える。

 朝鮮半島に誕生する新たな統一国家は、独裁政治を行う危険な国家でる。しかも、前述のように核兵器を保有しているかもしれないし、仮に核兵器を保有していなくても、いつでも核兵器を開発する能力を残している可能性のある国家である。このような国を目の前にして、国家間の相互不信を原則とするならば、日本は軍拡し、場合によっては核兵器の保有も辞さない覚悟が必要になるだろう。だがここで、私は敢えて違うアプローチを提案してみたい。

 私は、国内では相互信頼を原則とし、見返りを求めない利他的な精神が重要であるとしがら、国際政治の舞台では相互不信を原則とし、国家が利己的に振る舞うべきだというダブルスタンダードに長年苦しんできた(このような二重基準は、私が定期購読している『致知』にも見られる)。冒頭でも書いたように、相互不信に基づくアプローチは双方の国にとって負担が重い。こんなことを書くと私が左派に転向したのではないかと思われそうだが、朝鮮半島統一国家に対しても、信頼を原則としたアプローチを試してはどうか?具体的には、日本が新しい統一国家の経済的・社会的インフラに投資し、教育基盤を構築し、社会的な各種制度の整備を支援するというものである。見返りを求めずに、ただ朝鮮半島統一国家の発展を信じてこれらを実行する。

 これは、戦後の日本が東南アジア諸国に対して行ってきたことと同じである。右派はよく、日本は太平洋戦争で東南アジアを植民地支配から解放したと主張し、その結果として現在の東南アジア諸国には親日国が多いと言うが、これは正確ではない。日本軍は伝統的に兵站を軽視する傾向があり、物資を現地調達していた。地元民は食糧を日本軍に奪われ、また働き手として基地建設などにかり出された。さらに、日本軍が軍票(日本が作った現地通貨)を乱発したことで超インフレが起こり、約束されていた独立も一向に実現しない。地元民は、これなら欧米の支配の方がよかったと思い、反日運動に転じた。それを憲兵が弾圧すると、急進派が抗日武装して蜂起し、それが全国規模にまで広がって連合国軍と連携した。フィリピン、インドネシア、ビルマなどで見られたのはおおよそこのようなストーリーである。戦後、補償の一環としてODAを中心とした開発援助などを行うことで、東南アジア諸国は徐々に親日になっていった。

 もちろん、今度の相手は半世紀以上も日本への憎悪を膨らませてきた国であるから、一筋縄ではいかないだろう。左派は「対話」が重要だと言うが、私は対話という言葉につきまとうソフトなイメージが受け入れられない。対話は「議論」のアンチテーゼとして持ち出されることが多い。議論が論理的、線形的、算術的、合理的に行われるものであるとすれば、その反対に位置する対話は感情的、飛躍的、策略的、権力的に行われるものである。拉致問題、慰安婦問題などをめぐっては、今後もけんか腰の対話が続く。重要なのは、その間も継続して経済的・社会的支援を止めないということである。経済的・社会的支援を政治の駆け引きの道具にはしない。日本人のソフト・パワーは「勤勉に働く姿」である。それを朝鮮半島統一国家の人々に見てもらうことで、労働に価値を置く社会主義者である彼らの心を動かすものがあるかもしれない。

 これは言うなれば、右手で拳を振り上げながら左手で握手をする外交である。実は、これこそ小国同士の理想的な外交である。大国(私が本ブログで大国と言う場合、米独中ロの4か国を指す)は二項対立的な発想をし、敵味方をはっきりと分ける。ところが、国内も二項対立で対立している。例えば米ロ関係を見ると、両国は表面的には明確に対立している。しかし、アメリカ国内は反ロ派と親ロ派に、ロシア国内は反米派と親米派に分かれており、反ロ派と反米派が表で対立している裏で、親ロ派と親米派が手を握っている。例えるならば、ボクサーがリング上で殴り合っている裏で、両者のコーチがツーカーの仲になっているようなものである。こうすることによって、大国同士の決定的で破滅的な対決を防ぎ、両国の均衡を保っている。

 表面的に対立する大国は、国内のガス抜きをするために、同盟国である小国に代理戦争をさせる。中東が解りやすい例である。小国はリング上で殴り合うボクサーであるから、相手が倒れるまで徹底的に叩き潰す。一方で、自分が受けるダメージも相当なものになる。だから私は、小国は同盟国である大国にどっぷりと依存することに対して警告を発してきた。そうではなく、大国的な流儀を身につける必要がある。と言っても、大国のように資源が豊富にあるわけではないから、リング上ではボクサーに戦わせて、リングの下ではコーチが手を結ぶという真似はできない。小国はボクサーとコーチの役割を同時に担う必要がある。その結果生まれる外交スタイルが、右手で拳を振り上げながら左手で握手をする外交である。

 朝鮮半島統一国家への経済的・社会的支援であれば、日韓併合時代にも行ってきたではないかという批判もあるに違いない。確かに、警察制度は日本が作ったし、漢文をハングルで読めるようにしたのも日本人である。だが、当時の日本軍のやり方が、現地の人々のニーズに合っていたかどうかが問題である。山本七平は『一下級将校の見た帝国陸軍』の中で、日本軍は植民地のニーズを汲み取っておらず、そのために現地の反発を招いたと指摘している。

一下級将校の見た帝国陸軍 (文春文庫)一下級将校の見た帝国陸軍 (文春文庫)
山本 七平

文藝春秋 1987-08-01

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 だから、今度は朝鮮半島統一国家のニーズに合った形で支援を行う。言うなれば、明治40年代~昭和10年代をもう一度やり直すということである。新保祐司氏は、昭和10年代=明治70年代と位置づけた上で、次のように述べている。
 戦前の復活ではない。明治70年代の文明の復活なのです。このように、明治70年代の文明を否定していた戦後七十余年の日本文明は、本来の日本文明と言えるようなものではなかった。
(新保祐司「日本人は日本文明を保持する意思があるか」)
 そして、明治70年代の文明の特徴の1つとして、「美より義を優先する精神」を挙げている。この精神こそ、朝鮮半島統一国家に対して日本が発揮すべき精神である。松山藩の財政を立て直し、わずか8年で10万両(約300億円)の借財を10万両の蓄財に変えた山田方谷も、「義を明らかにして利を計らず」と述べている。朝鮮半島統一国家を支援すれば、積年の禍根は全て解消されてしかるべきだと期待してはならない。それは利己心の表れである。大半の支援は日本の徒労に終わるだけかもしれない。それを覚悟の上で支援し続ける。そして、仮に中国が朝鮮半島統一国家をけしかけて日本を攻撃せよと命じた場合、朝鮮半島統一国家がそれまでの日本の支援を思い返して攻撃をちょっとためらうようなことがあれば、それで十分である。

 私は、究極のウルトラCとして、アメリカが北朝鮮との国交を回復した後に、直ちに日本も北朝鮮と国交を回復するのもありだと考える。国交が回復すれば、北朝鮮に日本の大使館を置くことができる。すると、今まで入手が困難であった拉致被害者に関する情報が入手しやすくなる。政府は「拉致被害者全員の帰国」を目標としているが、実は「拉致被害者全員」とは誰のことを指すのか、誰も解っていないのだという(荒木和博「特定失踪者をウヤムヤにしてはならない」)。日本大使館の設置は、このような状況の改善の一歩につながる。また、日本政府としては、「拉致被害者全員の一括帰国」ばかりにこだわって交渉をするべきではない。交渉には幅を持たせるのが鉄則である。もちろん、表向きは「拉致被害者全員の一括帰国」を強弁するのは構わないが、その裏で複数の腹案を抱えていないのであれば、それは愚策である。

2018年05月15日

『正論』2018年6月号『安倍”悪玉”論のいかがわしさ/シリア攻撃 揺れる世界』―政治家やメディアが国民に迎合したら民主主義は終わる


正論2018年6月号正論2018年6月号

日本工業新聞社 2018-05-01

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 森友学園に対する国有地売却をめぐる財務省の決裁文書が改竄された疑いがあると朝日新聞が報じたのが3月2日である。「安倍晋三の葬儀はうちで出す」を”社是”としている朝日新聞が、本気で安倍政権を潰しにかかってきている証拠であった。しかし私は、率直に言うと、語弊があるかもしれないが「朝日新聞が余計なことをしてくれた」と感じていた。

 この問題に関しては、首相や明恵夫人の働きかけの有無が焦点であったが、1年経ってもめぼしい証拠は出てこず、野党が憶測で安倍首相を攻撃しているだけで、正直に言えば「どうでもよい問題」であった(事実、改竄前の文書によって、首相や明恵夫人の関与がないことがより明白になった)。そのどうでもよい問題をめぐるどうでもよい答弁に合わせるために、財務省が余計な忖度をして決裁文書を改竄したわけである。そして今度はこの改竄問題をことさら大きく取り上げて、麻生財務大臣の管理監督責任だの、安倍首相の任命責任だのと言い出した。この朝日新聞の報道によって、しばらくメディアと国会はこの問題一色になると容易に予測できた。

 3月5日に、韓国の文在寅大統領の特使である鄭義溶国家安全保障室長が訪朝して、北朝鮮の金正恩委員長と会談した。その会談では、4月末に南北朝鮮軍事境界線に位置する板門店の韓国側施設「平和の家」において南北首脳会談が行われることが合意された。これを受けて、ソウルへ戻った鄭義溶氏は、文在寅大統領に金正恩委員長との会談結果を報告した後、3月8日に文在寅大統領の特使としてアメリカへ渡航し、トランプ大統領に対して、「金正恩委員長がアメリカ合衆国大統領と会談したい意向がある」という金正恩委員長からのメッセージを伝えた。トランプ大統領は、「金正恩からの要請に応じよう」と答え、史上初の米朝首脳会談が実現することになった。朝鮮半島情勢は急転直下の展開を見せていた。

 北朝鮮が対話に応じる姿勢を見せてきたのは、最大限の経済制裁が効果を表したからである。北朝鮮の窓が少し開いたその隙に、日本はどうやって北朝鮮との対話を探るのか?アメリカ、韓国、それから中国やロシアといった関係諸国とどのように連携を取って北朝鮮の非核化を実現するのか?会談が破談してアメリカが北朝鮮に軍事攻撃を加えるという緊急事態が生じた場合を想定して、日本はいかなる準備をしておくべきか?さらに日本の場合は、積年の課題である拉致問題をこの機会にどう解決へと導くのか?といったことを、超党派的に大いに議論すべきであった。ようやく課題解決のスタートラインに立ち、課題解決の長いマラソンが始まるはずであった。ところが、朝日新聞の余計な横槍のせいで国会は空転し、スタートでいきなりつまずいた。金正恩委員長には、「拉致問題については周辺国があれこれ言ってくるが、肝心の日本がなぜ直接言ってこないのか?」と暴露され、安倍政権と外務省は赤っ恥をかいた。

 朝日新聞が北朝鮮問題という日本国家を揺るがしかねない問題よりも、財務省の決裁文書改竄問題という国民にとって受けがよい問題を優先した結果がこれである。しかも、朝日新聞はこうした事態を自ら招いておきながら、日本が北朝鮮問題で孤立していると呑気に批判する。
 (※朝日新聞の)ツイッターは北朝鮮の労働新聞が安倍政権を「退陣直前の状況」と評したことに触れ、「安倍政権にとって『嘘つき内閣』という非難よりも手痛いのは『退陣直前』という分析だ。国交正常化を見据え、腰を据えて交渉する相手と見なされていないのだ。米中露韓の現政権はしばらく倒れない。日本だけこんな内閣では激動の東アジア外交でますます出遅れる」(3月31日)と書いている。
(石川水穂「朝日新聞”倒閣”記者ツイッターを告発する」)
 販売部数至上主義に陥っている新聞、視聴率至上主義に陥っているテレビは、国家や国民をめぐる数多くの問題の中から、読者や視聴者が理解しやすい簡単な問題を選択する傾向が強い。野党もそういうマスコミを利用して、その簡単な問題の責任は政権にあるとすぐに騒ぎ立て、政権を打倒しようとする。マスコミは立法、司法、行政に次ぐ第4の権力、あるいは権力の監視者であるべきなのに、今や単なる野党の広告塔に成り下がっている。
 分かりやすく「手柄」を引き出そうとするパフォーマンスも、真相を煙に巻く結果をもたらした。野党議員に聞いたことがあるが、国会質疑においては、どれだけマスメディアに取り上げられるかも重要な要素らしい。それによって、党幹部から評価されて、党内での地位が上がる。とすると、翌朝の新聞の見出しを頭に思い浮かべながら「切り取りやすい一言」狙いをするという野党の戦略も出てこよう。共産党の小池晃書記局長は、この手の国会質問が非常に巧みだ。(中略)小池氏は、さしずめ、「国会の一言炎上男」だろう。
(山口真由「ピント外れの国会審議 もう1つのモリカケ問題」)
 小池氏は3月19日の参議院予算委員会で、明恵夫人の名前が決裁文書に記載された点について太田充理財局長に問いかけ、「基本的に総理夫人だからだと思う」という答弁を引き出した。その上で、「重大な発言ですよね。重大な発言ですよ。総理夫人なんですよ。まさに、国会議員以上に配慮しなきゃいけない存在なんですよ。だから決裁文書に登場してきているわけじゃないですか」と返した。そして、マスコミは小池氏のこの「重大な発言ですよ」の部分を切り取って繰り返し報じた(私はこの頃入院しており、日中よくテレビを観ていたのではっきり覚えている)。

 私が言うまでもないが、マスコミは国民にとって解りやすいイシューではなく、国民や国家にとって重要なイシューを扱うべきである。販売部数/視聴率至上主義を捨て去り、もっと大局的な視点に立たねばならない。こうしたマスコミの姿勢は、最初はなかなか国民には受け入れられないだろう。それでもなお、イシューの重要性を地道に説いて回る営業努力が必要である。真のマスコミは、赤貧に耐え、それでもなお国民や国家に奉仕する高邁な志を持った人々によって支えられるべきである。だから、本来マスコミが儲かる職業であるというのはおかしいのである。自由市場が短期的に現世代の経済的ニーズを満たす仕組みであるのに対し、民主主義とは中長期的に次世代の社会的課題を解決する制度である(「私と同じ苦しみを子ども世代に味わわせてはならない」)。マスコミはそういう民主主義の進展を促進するものでなければならない。マスコミの姿勢が変われば、マスコミに迎合して一発芸を狙う安直な政治家も減るだろう。

 それにしても、野党やマスコミは、「モリカケ問題に首相が関与している」ということにどうしてもしておきたいようである。感情に訴えて国民を扇動すると、全体主義を生む危険性がある。
 高井:権力を持つ国会議員が国民の感情に訴え、それに国民が呼応している現状は、民主主義の土台が崩されかねないという意味で極めて危険です。事実に基づき、国民の理性に訴えるのが「説得」で、逆に事実を無視して、国民の感情に訴えるのが「扇動」です。ナチス・ドイツのゲッベルズ宣伝相は「扇動」で国民の支持を集めることに成功しました。彼のような人物が今の日本に存在するとは思いませんが、「ミニ・ゲッベルズ」ならば与野党を問わず誕生しかねません。
(高井康行「ジャーナリズムが民主主義を滅ぼす」)
 ただし、個人的には、国民の理性を信じて事実を訴えることが必ずしも正しいとは限らないのではないかとも思っている。仮に事実が1つであるならば、「説得」も「扇動」も1つの事実(「扇動」の場合は虚偽の事実だが)に向かって国民の感情を収斂させることになり、全体主義へとつながりかねない。「説得」の場合は”冷静な”全体主義となり、「扇動」の場合は”熱狂的な”全体主義となるという違いがあるにすぎない。この点に関して、掛谷英紀「大学政治偏向ランキング 学者の政治活動を徹底批判」という興味深い記事があった。これは、2015年の「安全保障関連法に反対する学者の会」に署名した学者の所属大学、専攻分野を分析したものである。

 掛谷氏は、「安保反対の会」に署名するような左派系の学者には理論系が多く、工学系が少ないと述べている。理論系の学者は文字通り理論を組み立てて事実を明らかにする。一方、工学系の学者は実験を繰り返して事実を明らかにする。もし安保法制が間違っているということが動かしがたい事実であるならば、理論系の学者も工学系の学者も「安保反対の会」に署名しそうなものである。ところが、工学系の学者が少ないというのは、彼らは厳密な自然科学の研究のルールに従うものの、事実が1つであるとは限らず、事実が別の実験でひっくり返ったり、事実が複数存在したりすることを認めているからではないだろうか?事実が異なれば解釈、主義主張も異なる。そして、そういう違いがあるところに政治が生まれる。
 それぞれの人々がそれぞれの正義を主張するとき、政治が生ずる。妥協、排除、暴力の行使等々あらゆる手段を講じて、自らの正義を実現しようと試みるのが政治という営みに他ならない。(中略)政治の場においていかなる正義の独占をも許さないとするのがリベラル・デモクラシーの基礎なのである。
(岩田温「あなたもバッシングされる?世にはびこる”悪玉”論の恐怖」)
 「群盲象を評す」というインド発祥の寓話がある。6人の盲人が象に触って、それが何だと思うかと王から問われた。足を触った盲人は「柱のようです」と答え、尾を触った盲人は「綱のようです」と答え、鼻を触った盲人は「木の枝のようです」と答え、耳を触った盲人は「扇のようです」と答え、腹を触った盲人は「壁のようです」と答え、牙を触った盲人は「パイプのようです」と答えた。それを聞いた王は、「皆正しい。あなた方の話が食い違っているのは、あなた方が象の異なる部分を触っているからだ。象はあなた方の言う特徴を全て備えている」と答えた、という話である(以上はジャイナ教の寓話に拠った)。政治はこれと似ている。ある人はAと言い、別の人はBと言い、また別の人はCと言う。それぞれの主張の長所を斟酌しながら、より高次の包括的な新しい知を創造するのが政治的な営みである。「AはAだ。A以外は認めない」では政治にならない。

 左派は自由を掲げながら、「反体制、親中、親北朝鮮」で凝り固まっていることを私はしばしば本ブログで批判してきた。この考えが行き過ぎると全体主義に陥る。だが、右派は逆に「反中、反韓、反北朝鮮」で凝り固まっており、これも行き過ぎれば全体主義になる。極右と極左は同根異種であると、以前の記事「『正論』2018年3月号『親北・反日・約束破り・・・/暴露本「炎と怒り」で話題沸騰』―小国・日本の知恵「二項混合」に関する試論(議論の頭出し程度)、他」でも書いた。極左は、国家という枠組みを取り払い、民族などの表面的な違いを無視して、全世界の人々は本質的に同じであると説く。一方、極右は日本こそが絶対善であり、異質を排除して全世界を日本化しようとする。極左と極右は一見すると正反対であるようだが、どちらも世界をモノトーンで見ている点では実は共通している。右派にも反省すべき点がある。

 3月以降、朝日新聞の全体主義的な「『安倍政権=悪』キャンペーン」が展開されたが、以前に比べると国民は賢明になったと思う。内閣支持率が30%台まで”しか”下がらなかったのがその証左である(内閣支持率は底を打ったとの見方もある)。これが森喜朗首相の時代であれば、一発で内閣支持率が一桁台まで落ち込んでいたことだろう。国民の中には、森友学園問題(と加計学園問題)が大した問題ではないと考える人が増えている。ただ、だからと言って、国民主権を頼りにし、国民の力に完全に依拠して政治を展開するのは難しいと感じる。

 インターネットが普及した時代であるから、例えばネット上に政治空間を作り、国民が自由にイシューを発案して、他の大勢の国民が議論のフィールドに参加しながら必要な法律や施策、規制などを策定していく民主主義も原理的には可能である。だが、発案されるイシューは膨大になり、優先順位をどうつけるかが問題となる。おそらく議論フィールドへのアクセス数、フィールドに参加している国民の数などでランキングが作成されるだろう。だが、ランキングを作成した時点で人気投票と化し、国民は近視眼に陥る。また、たとえ政治空間で実名性が担保されたとしても、炎上、暴言、脅迫が日常茶飯事となり、収拾がつかなくなるに違いない。前述の通り、しばしば政治家は視野狭窄に陥り国会を空転させ、行政は保身に走り余計なことをするが、国民がもっと利己的になり、罵詈雑言の類で議論フィールドを混乱させるよりかは幾分ましである。

 だから、現在の立法府や行政府は最善ではないが最悪でもないのである。その両権力を、中長期的な視点、将来の世代の視点、社会的な善の視点から監視する役割をマスコミには期待したいし、政治家(特に野党)はそういうマスコミを上手に利用して国民を啓発してほしい。




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