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『叙述のスタイルと歴史教育―教授法と教科書の国際比較』―whyを問うアメリカ人、howを問う日本人
『魂を伝承する(『致知』2014年11月号)』―愛国心とは愛憎ないまぜの感情
岡裕人『忘却に抵抗するドイツ』―同じ共産主義が西ドイツでは反省を促し、東ドイツでは忘却をもたらした

プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

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2014年11月29日

『叙述のスタイルと歴史教育―教授法と教科書の国際比較』―whyを問うアメリカ人、howを問う日本人


叙述のスタイルと歴史教育―教授法と教科書の国際比較叙述のスタイルと歴史教育―教授法と教科書の国際比較
渡辺 雅子 近藤 孝弘 深谷 優子 木全 清博 河崎 かよ子 J・ディルケス 王 淑英 岡本 智周 溝口 雄三

三元社 2003-12-01

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 本書で一番興味深かったのは、日米の歴史教育の違いであった。
 教師がどのような質問をどれくらいの量問うているのかを知ることは、日米の歴史の語り方の違いを把握するうえで示唆に富んでいる。(中略)歴史授業では両国ともに「何が/を(what)」のカテゴリーの質問が最も多かったことである。次に多かった質問は、米国では原因の特定を求める「なぜ(why)」であったのに対して、日本では出来事の展開や当時の状況、歴史上の人物の気持ちを問う「どのように(how)」という質問であった。
 具体的には、アメリカでは次のように授業が進む。
 N教諭が独立戦争を教えた時には、授業の最初の5分間で児童はその経緯について各自教科書を読み、残りの時間は次のような質問に答えることに費やされた。「アメリカの独立革命の結末は?そう、アメリカの戦争勝利です。これは言うなれば結果です。では、その原因は何でしょう?なぜアメリカは戦争に勝ったのでしょう?」N教諭は黒板の中央上部に「アメリカの勝利」と大きく囲み書きをし、その下に児童が答えた原因を書き出していった。原因結果の短い直接的な結びつきを強調した授業も観察された。
 一方、日本の歴史授業の風景はこうである。
 例えば、室町時代の導入の授業では、その前の時代である鎌倉と室町時代の建物や室内の写真を比べ、いかに2つの様式が異なるのか―どこが、どのように違うか―を写真から児童に読み取らせるのに45分間の授業すべてが費やされた。

 同様に、日本が封建制から近代国家へと移行する明治時代を紹介するために、江戸時代の日本橋界隈の浮世絵と明治時代の新橋周辺の錦絵を比較するのに、ひとコマの授業時間が費やされた。

 これらの授業では、新しい時代はいかなる時代であったのかという枠組みを最初から教師が与えるのではなく、絵や写真の細部の違いに注目させて、生活様式や技術の発達など様々な面の積み重ねを通じて時代の変化を理解させるという手法が取られていた。
 以前の記事「果たして日本企業に「明確なビジョン」は必要なのだろうか?(1)(2)(補足)」などでも書いたが、アメリカは未来のある地点にゴールを設定し、そこから現在へと逆算して考える国である。こうした思考方法は、教育現場にも浸透しているようだ。すなわち、独立戦争における勝利というゴールを設け、そのゴールに向かって何をすべきかを生徒に考えさせる。しかも、原因と結果の距離を可能な限り縮め、効率的に目的を達成することをよしとする。あらゆる選択肢が考えられるとしても、その中から最善のものを絞り込み、それ以外は勇気を持って捨て去る。アメリカの教育は、生徒の決断力を養うことを目的としている。

 それと比べると、様々な事実を積み重ねて時代の変化を理解させる日本の教育は、非常にまどろっこしく思える。しかし、これには日本なりの意図があると著者は分析する。
 現在学習するという行動は、目前にある結果とは直接結びつかず、知恵を使って良い社会を作るというある意味では高遠な未来の目標と結びつけられている。さらにその目標を達成する手段は、自己を抑制して、他人の立場を考えて、勉学に励んで、自ら考えて行動してと、多岐にわたる。

 この方法では、目的(結果)と到達するための手段(行動)は長い連鎖によってゆるやかにつながっているものの、現在の行動がどう意図した結果に結びつくのかは直接には見えにくい。そうなると、結果を速やかに達成しようと計画したり行動を起こしたりするよりは、目的に向かう「態度」や「心構え」が重視されるようである。
 以前の記事では、アメリカ人は未来⇒現在という考え方をするが、日本人には現在しかないと書いた。日本人は、よりよい未来が来ることを何となく信じながら、現在を懸命に生きることしかできない。まさに、人事を尽くして天命を待つという状態である。ただし、その「人事の尽くし方」に関しては手を抜くことが許されないのであって、目指す成果と直接的には関係がなさそうに思えること、具体的には礼儀作法や道徳的な規範についても、厳しく身を律することが要求される。

 以前の記事「『長の一念(『致知』2014年6月号)』―社員を動機づける目標は「手垢のついた泥臭い目標」かもしれない」で、常盤木学園高等学校の女子サッカー部監督である阿部由晴氏の記事を紹介した。阿部氏は、ハインリッヒの法則にヒントを得てユニークな目標管理を行っている。阿部氏が高校生に対して与える目標は何百にも及び、その中にはあいさつをする、整理整頓をきちんとする、といったものまで含まれる。

 これらの目標が試合の勝利とどのように関係するのか、理路整然と説明できる人はまずいないだろう。また、こんなにたくさんの目標を立ててしまっては、管理するだけで大変かもしれない。しかし、数多くの当たり前を積み重ねていったその先に、おそらく勝利があるのだろうと信じて、今ここを必死に生きるというのは、いかにも日本人らしい姿勢なのだ。逆にアメリカ人であれば、サッカーの試合を定量的に分析して様々な指標を編み出し、その中で勝利と最も因果関係の強い指標を特定して、その指標を改善するための練習にエネルギーを注ぐに違いない。

 ところで、アメリカ人も日本人も野球が好きなのだが、思考パターンがまるで異なる両者がどうして同じように野球に熱心になるのか、私なりに考えてみた。前述のように、アメリカ人はデータ好きである。野球は他のスポーツに比べて、多種多様なデータが集まる。さらに、年間の試合数も多いから、1年間で膨大なデータが蓄積される。それをお得意のITで解析して、勝利と結びつくKSF(Key Success Factor:重要成功要因)を絞り込む。

 MLBにセイバーメトリクスが導入された当初は、出塁率と長打率だけを重視すればよいという極端な戦略も取られた。守備に関しては、勝利との因果関係がはっきりしないという理由で、指標が重視されなかった。ビリー・ビーンの下でチーム改革を進めたオークランド・アスレチックスは、2000年代前半に黄金期を築き上げた(もっとも、セイバーメトリクスは日々進歩していて、アメリカでは守備面も含めて次々と新しい指標が生まれているようだ)。

マネー・ボール〔完全版〕 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)マネー・ボール〔完全版〕 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
マイケル・ルイス 中山宥

早川書房 2013-04-10

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 一方、日本ではアメリカほどセイバーメトリクスが浸透していない。もちろん、野村克也氏が言うように、配球のデータは重要であり、決してデータを軽視しているわけではない。ただ、日本の場合は、データよりも個々の選手が自分の役割をきちんと果たしているかどうかの方が大切とされる。野球では、試合中局面が変わるごとに、具体的には回が進む、ランナーが出る、もっと細かく言えば投手が1球投げるごとに、各選手に求められる役割が明確に定まる。例えば、広島カープの年俸査定項目は1,000以上に及ぶそうだ。それだけ、1人の選手がやるべきことは多い。

 その1つ1つを的確に遂行していれば試合に勝つことができる。逆に、つまらないところで小さなミスをすると試合に敗れる。どんな場面でも、今自分がなすべきことを判断し、目の前のプレーに全力を尽くす。そうすれば、勝利は後からついてくる。これが日本の野球である。野球という同じスポーツでありながら、一方はデータを駆使しながら重要ないくつかの指標にフォーカスしてマネジメントし、もう一方はそれぞれの選手に非常に多くの目標を課してマネジメントする。野球はこうした両方の見方ができるので、アメリカでも日本でも人気があるのではないだろうか?

《2014年12月1日追記》
 アメリカではMLB(ベースボール)、NFL(フットボール)、NBA(バスケットボール)、NHL(アイスホッケー)が4大スポーツと言われる。MLBだけ特別視するのはフェアではないと思い、他のスポーツについてもちょっと調べてみた。メディア・エンターテインメント企業大手で、ウォルト・ディズニー・カンパニー傘下のスポーツ専門チャンネルである「ESPN(Entertainment and Sports Programming Network)」のサイトを見ると、4大スポーツはいずれも"Statistics"のページが充実している(NFL StatisticsMLB StatisticsNBA StatisticsNHL Statistics)。

 MLBのセイバーメトリクスでは指標が非常に細かく設定されているのだが、NFLに詳しい人のサイトを読んでいたら、「データ収集はNFLの方が進んでいて、MLBがようやく最近になってNFLのレベルに追いついてきた」などといった記述も見られた。アメリカ人はデータ分析ができるスポーツが大好きなようで、逆にデータ分析ができないと人気が出ない。その証拠に、ESPNのサッカーのページには"Statistics"のページがない。ただ、アメリカが本気を出せば、サッカーの戦略を高度な分析手法で丸裸にするのはたやすいことであるような気がするが・・・。

《2014年12月25日追記》
 各スポーツに関する参考URL。
 ○NFLにおけるデータ分析
 アメリカンフットボールのデータ収集及び分析支援システム|情報処理学会
 ビッグデータの活用~データの分類「タグ付け」~|ビッグデータなう

 ○NBAにおけるデータ分析
 No.1は誰だ?|ワールドスポーツデータスタジアム
 NBAに本格到来した「マネーボール」の流れ|@ITk

 ○NHLにおけるデータ分析
 NHL statistics and data analysis services - Hockey Analysis
 QuantHockey - Complete NHL Stats

 ○サッカーにおけるデータ分析
 アメリカのサッカーにはStatsがないことは前述したが、ヨーロッパではデータ分析が進んでいるようだ。例えばドイツは、データ分析を基に「選手がボールを保持する時間を最小化する」というシンプルな目標を掲げて2014年W杯を制した。アメリカが本気を出すのはいつの日か?
 サッカーW杯優勝のドイツ代表が8年間改善してきた「数字」とは?|DIAMOND IT&ビジネス

 伊サッカー界を変える25歳:提供するのは「オンラインデータ分析サーヴィス」|WIRED

2014年11月20日

『魂を伝承する(『致知』2014年11月号)』―愛国心とは愛憎ないまぜの感情


致知2014年9月号魂を伝承する 致知2014年11月号

致知出版社 2014-11


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 現代を生きる我われに、日本の素晴らしさを尊び、後世に伝承していこうといった愛国心が必要です。この地球上にただ1つ、2千年以上も続いてきた他に類のない文明圏を守る意志を持ってほしい。僕が日本人として後進の方々に伝承していくべき魂があるとすれば、そこですね。(中略)

 私たちは戦前の誇り高い日本帝国を知っているし、日本に誇りを持つような教育も施されました。自分は日本の代表という自覚があり、日本人として品位のある生き方をしたいと思って生きてきた。(中略)ただ日本について敗戦後1か月か2か月には文化国家として日本を再建すると言い出したところにちょっと怪しいところがあった。やっぱり自分で自分の国を守ろうとしない人間は、きちんとした世界観を持てません。
(平川祐弘、渡部昇一「我ら日本の魂を伝承せん」)
 日本は敗戦後に自国の歴史を放棄させられ、自虐史観を押しつけられたと言われる。だから、右派の人々は、もっと愛国心を養うための教育をすべきだと主張する。この点には、私も総論レベルで賛成である。日本を愛せない人が、どうして日本に住み続けることができるだろうか?

 愛国心を養う教育とはどういうものなのかは、お隣の中国を見れば非常によく解る。中国では、国民に愛国心を植えつけることが教育目標の中に明記されている(日本の学習指導要領にあたるものとして、「愛国主義教育実施要綱」というものがある)。中国の教育の特徴は、(1)神話の強調、(2)選民意識の醸成、(3)トラウマの意識という3つに集約できる。

 (1)神話
 中国の神話は、「文明古国(太古以来の文明国)」、「礼儀之邦(礼節と儀礼の国家)」、「四大発明(古代中国による四大発明=製紙法、印刷術、羅針盤、火薬)」などといった4文字の慣用句で表現される。これらの慣用句は史実に基づくものもあるが、神話と結びついているケースもある。歴史を振り返れば、中国は数多くの重要な発明の地であった。その歴史の歩みの中で、科学や芸術が花開いた。したがって、中国人は自らの優れた文化的、道徳的気質を信じて疑わない。

 (2)選民意識
 「中国」という言葉自体が「中央、真ん中」の「王国、国家」という意味である。中国は「中華」(華=素晴らしい、繁栄した、の意)とも言われるが、中国人は自らを「華」、文化的・民族的なよそ者を「夷」(=野蛮な、の意)と呼んだ。中国は自らを世界の中心に配置し、周囲の異民族が中国文化と同化するよう働きかけた。アジアの歴史は、中国が周辺国といかにして文化的な師弟関係を結んでいったかの歴史であり、また、中国が自らの文明の普遍性を高めていった歴史でもある。

 (3)トラウマ
 中国にとって、1800年代半ばから1900年代半ばまでの期間は「恥辱の1世紀」である。中国人はこの期間を、自国が攻撃され、帝国主義者の手でバラバラに切り裂かれた時代として記憶に留めている。第1次・第2次アヘン戦争、日清戦争(中国では中日戦争)、義和団事件、満州事変、日中戦争(中国では抗日戦争)などは、中国人にとって「国恥」である。

 (※(1)~(3)の記述は、ワン・ジョン『中国の歴史認識はどう作られたのか』〔東洋経済新報社、2014年〕を参考にした)

中国の歴史認識はどう作られたのか中国の歴史認識はどう作られたのか
ワン ジョン 伊藤 真

東洋経済新報社 2014-05-16

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 神話はその国の歴史の起点となる固有の物語であり、史実に基づいていようがいまいが、他国がこれを否定することはできない。神話と選民意識は密接につながっている。自分たちの先祖をたどって行くと神話に行き着く。その神話は絶対的なものだから、神話から生まれた我々も絶対的な民族であると自信を持つようになる。これだけでも十分な愛国心教育なのだが、さらにトラウマを利用する。「我々はこんなにも素晴らしい民族だ。それを攻撃してきた彼らは絶対に許さない」と思わせる。敵を徹底的に貶めることで、相対的に自分たちの地位を高めるわけだ。

 こういう愛国心教育は、独裁国家の権力者が国民からの絶対的な支持を集めるための常套手段である。ところが、民主主義国家であるはずの韓国も、似たような愛国心教育を行っているらしい(以前の記事「鳥海靖『日・中・韓・露 歴史教科書はこんなに違う』―韓国の教科書は旧ソ連並みに社会主義的」を参照)。檀君の神話を信じ込ませ、朝鮮人が日本に高度な文明を伝えてあげたと民族的優位性を説き、民族的に劣位の日本人に植民支配されたことをトラウマとして強く認識させる。日本政府は韓国を政治的な価値観を供するパートナーと見なしているものの、韓国のことを調べれば調べるほど、実は共産主義国なのではないかと思えてくる。

 日本が手っ取り早く愛国主義的な教育をしたいのならば、中国や韓国に倣えばよい。『古事記』や『日本書紀』の神話を刷り込み、世界でただ1か国だけ、2000年以上も王家が続いている特別な国であることを意識させ、その特別な国を国際法違反の原子爆弾で攻撃したアメリカや、五族協和を目指した満州国の理念を頓挫させた中国を許しがたい敵として描けば効果的だろう。

 しかし、こういう愛国教育を行っている国は、だいたい対内的・対外的どちらの視点から見てもロクな国ではないということは、良識ある日本人ならすぐに気がつく。「自分大好き人間」を大量に育成すると、周囲に大きな迷惑がかかるだけなのである。そもそも愛とは、好きという感情が一方的に支配している状態ではない。よいところも悪いところもあることを認めながら、それでもやはり大切にしたいと思うのが愛である。家族愛はまさにその典型であろう。「愛は盲目」などと勝手に舞い上がっているうちは、まだ本当の愛ではない。

 日本の教育は、「日本人はこんなに悪い人でした」と教えることで、「自分大嫌い」人間を量産してきた。「自分大嫌い人間」は、「自分大好き人間」に比べると、内向的で周囲に害を及ぼさない分だけましかもしれない。しかし、自分大好き人間と同様に、健全な精神状態とは言い難い。従来の教育は、日本の悪いところばかりを教えすぎた。そこに日本の誇らしいところをうまく混合することで、多角的な視点から冷静に日本を愛せる国民を輩出すべきではないだろうか?

2014年05月28日

岡裕人『忘却に抵抗するドイツ』―同じ共産主義が西ドイツでは反省を促し、東ドイツでは忘却をもたらした


忘却に抵抗するドイツ: 歴史教育から「記憶の文化」へ忘却に抵抗するドイツ: 歴史教育から「記憶の文化」へ
岡 裕人

大月書店 2012-06-20

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 以前の記事「熊谷徹『ドイツは過去とどう向き合ってきたか』―ドイツが反省しているのは戦争ではなく歴史的犯罪」で述べたように、ドイツ国民は、自らの手でナチスを選出し、ナチスの命令に従って600万人以上のユダヤ人を虐殺した過去を、通常の戦争犯罪ではなく、史上稀に見る「歴史的犯罪」として反省している。そのために、「凶悪な犯罪」に関しては時効を停止し、ホロコーストに関与した国民を今でも追訴し続けている。だが、東西ドイツを比較すると、もう少し違った側面が見えてくることが本書を読んで解った。

 西ドイツでは、戦後もナチスの影響が色濃く残っていた。1950年代にはナチスの犯罪を追及した「アウシュビッツ裁判」が行われた一方で、ユダヤ人の墓が破壊される事件などが相次いだ。ホロコーストを反省しようという機運はまだ高くなかった。終戦からそれほど時間が経っておらず、国民が生々しい過去からできるだけ目を背けようとしていたことも大きい。こうした世論が大きく変わるきっかけとなったのが、「68年運動」と呼ばれる学生運動である。
 当時各国でヴェトナム反戦などを訴えて学生運動が高まっていたが、1968年には西ドイツでも多くの学生、市民、労働者をまきこんで、既存の政治体制に対する大規模な抗議運動が起こったのだ。この68年運動をきっかけに、戦後生まれの若い世代が、ナチスの過去を厳しく批判するようになる。(中略)

 1969年、この変革を求める風を受け、かつて反ナチ闘争に参加した社会民主党のヴィリー・ブラントが西ドイツの政権の座に着いた。彼は東欧諸国との関係改善を目指す「新東方政策」を進め、歴代のどの首相よりも真摯な態度でドイツ人の戦争責任を明らかにした。1970年にワルシャワゲットー蜂起記念碑の前にひざまずく彼の姿が全世界に報道され、西ドイツが旧交戦国と和解しようとする姿勢を身をもって示した。
 68年運動によって歴史教育も大きく変化し、過去を直視する方向へと転換する。
 70年~80年代の歴史教育が、国家体制や社会構造を問題にするようになったのは、68年運動がマルクス主義の影響を強く受けた大学教授たちに先導された運動であり、彼らがまず最初に「過去の克服」を訴えたからだ。(中略)68年運動を率いた教授たちは、ナチズムを生み出した土壌は資本主義体制にあるとし、70年~80年にかけて国家体制を批判する勢力となった。この影響のもとに「過去の克服」が進められ、歴史の授業も改革されていったのである。
 以前の歴史授業は人物を中心に扱ったが、それが、国家体制や社会構造を対象にすることが、70年代から80年代の歴史授業の特徴となった。ナチスの戦争犯罪の原因をその国家体制や社会構造に求め、なぜ、どのように戦争犯罪がおこなわれたのか「問い」を発し、批判的に検証する授業が始まったのだ。また、過去の記憶を追体験するため、授業で強制収容所跡記念施設を見学するようになったのも、この頃からである。
 一方、東ドイツでは事情がかなり違ったようだ。
 1949年の建国にあたり、一党独裁体制をとるドイツ社会主義統一党(SED)が、「ソ連による占領統治期間中に、反ファシズムの民主主義変革により東ドイツ地域にあったナチズムを根絶した」と宣言したのだ。もはやナチスの戦争犯罪について議論する余地はなかった。この背景には、「ソ連側に立った反ファシズム主義のドイツ人たちがヒトラーの独裁を打ち倒し、新しいドイツを誕生させた」という建国神話がある。
 東ドイツでは、戦争責任の問題も、共産主義のイデオロギーにしたがって解決してしまったと言う。(中略)東のイデオロギーによると、すべての悪は西側ファシズムからやってきた。共産主義がこのファシズムを根絶してホロコースト犠牲者を救出したのであり、こうして責任をとることで戦争の罪を免れたと解釈した。(中略)

 歴史教育においても、中心となるのは共産主義に基づく階級闘争の歴史だ。東ドイツではホロコーストもこの歴史観の理解に利用された。ホロコーストをファシズムの行き着くところと位置づけ、それを共産主義が解放したという図式で理解した。
 西ドイツが共産主義の台頭によってナチスの過去を厳しく批判するようになったのに対し、東ドイツでは共産主義に基づく建国神話によって簡単にナチズムが清算されてしまい、ホロコーストへの反省が十分に行われなかった。同じ共産主義をきっかけとしていながら、東西で異なる帰結を招いた点は、第三者的な立場に立てば非常に興味深く見える(当事者の立場からすれば、そんな悠長なことを言っていられないゆゆしき問題であるが)。

 旧東ドイツでは現在、深刻な問題が起きている。それは、移民、特にイスラーム圏からの移民に対する排外主義が高まっていることである。移民排斥運動が起こっているのは主として旧東ドイツであり、「移民の増加についてどう思うか?」という世論調査を行うと、旧東ドイツでは否定的な意見の割合が高くなるのだという。

 どうやら、ナチズムに対する反省の機会を満足に得られなかったツケがここに来て回ってきているらしい。こうなると旧東ドイツは左派なのか右派なのかよく解らない。いや、正確に言えば、建国神話を支えていた共産主義が、旧ソ連の崩壊と東西ドイツの統一によって否定されてしまったのだから、もはや彼らは何にすがればよいのか解らなくなっているのだろう。旧東ドイツの人々は、とにかく自分の身を守るために、移民に対して過剰反応を起こしているのかもしれない。

 共産主義というのは不思議なイデオロギーである。資本主義に対抗して共産主義が登場した時には、共産主義の方が圧倒的に優勢だった。資本主義の行く末を憂う世界中の人々が、共産主義に飛びついた。資本主義の最右翼であるアメリカも例外ではない。だが、結局のところ、共産主義が勝利を収めることはなかった。資本主義は共産主義からの批判に基づいて、自らのシステムがもたらす弊害を反省し、その弊害を克服する仕組みを接ぎ木することで生き延びてきた。

 例えば、資本主義が進めば進むほど、労働者の賃金は相対的にも絶対的にも窮乏化するという、マルクスの「絶対的窮乏化説」がある。これは予測としては外れたが、命題としては正しかった。絶対的窮乏化説によって、労働者の団結が高まり、運動が激しくなった。一方、資本家にとっては、労働者が絶対的窮乏状態になれば元も子もなくなり、革命も起こりかねない。そこで、個々の資本家の立場を超えて総資本の立場で社会政策が施行され、労働者の生活がそれなりに改善された。”予想が正しかったからこそ”、予想通りにならなかったのである。社会学者ロバート・マートンは、これを「自滅予言」と呼んでいる。

 共産主義は、外野からの野次としては傾聴に値するが、舞台の主役には不適だ。共産主義は、社会を階級社会としてとらえ、歴史をあくなき階級闘争として描く。仮に共産主義が資本主義に勝利して権力を握ったとしても、共産主義と対決する新たな階級が生まれ、彼らによって打倒されるに違いない。旧ソ連の崩壊とはそういうことだったのだろう。その意味では、共産主義は非常に自滅的なイデオロギーである。だから、社会の中心になってはならず、資本主義の対抗馬にとどまり、弱者の声を代弁して資本主義を修正するよう働きかけるぐらいがちょうどいい。以前、日本共産党が「責任ある野党」を目指すと宣言していたが、その意味がちょっと解った気がする。




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