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市野川容孝『社会』―民主主義に議会制は必須なのか否か?

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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京23区、神奈川県川崎市・横浜市を中心に活動する中小企業診断士・コンサルタント。

 専門領域は、(1)経営ビジョン・事業戦略の策定、(2)ビジョンや戦略とリンクした人材育成計画の立案・人事評価制度の構築、(3)人材育成計画に沿った教育研修プログラムの企画・開発。

 モットーは「日々改善、日々成長」、「実事求是」、「組織のためではなく知識のために働く」、「奇策は定石より先に立たず」、「一貫性(Consistency)」、「(無知の知ならぬ)無知の恥」

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 ブログタイトルに、oasisの往年の名曲『Whatever』を入れてみた。

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2017年02月26日

ロイ・ポーター『啓蒙主義』―最初の啓蒙主義は全体主義につながる過激なものではなく、もっと穏健だった


啓蒙主義 (ヨーロッパ史入門)啓蒙主義 (ヨーロッパ史入門)
ロイ ポーター Roy Porter

岩波書店 2004-12-21

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 以前の記事「【現代アメリカ企業戦略論(1)】前提としての啓蒙主義、全体主義、社会主義」で書いたように、私は人間の理性を唯一絶対の神と同一視する啓蒙主義を警戒し、「【現代アメリカ企業戦略論(4)】全体主義に回帰するアメリカ?」や「鈴木大拙『禅』―禅と全体主義―アメリカがU理論・マインドフルネスで禅に惹かれる理由が何となく解った」で書いたように、アメリカが全体主義的な傾向に流れているのではないかと危惧している。そういう疑いの目で啓蒙主義の歴史に目を向けた時、最初の啓蒙主義は全体主義の源泉となるような過激なものではなく、実はもっと穏健なものであるとの印象を抱いた。

 もちろん、最初の啓蒙主義と全体主義の共通点を指摘することもできる。全体主義においては、人間の理性と神が直線的につながることを重視する。いや、もっと言えば、人間の理性=神である。よって、人間と神の間に何かしらの階層が介在することを極度に嫌う。初期の啓蒙主義者は自らのことを「フィロゾーフ(哲学者)」と呼んだが、彼らは議会、選挙、代議制度、政党制度といった、現代の民主主義の構成要素を拒んだ。議会は貴族の既得権益の牙城となっていた。政党は私的な利益を追求する派閥主義と結びついていた。直接民主政は古代ギリシアの一過性のものとしか見なされなかった。そして、代議制度は腐敗選挙区の温床でしかなかった。

 啓蒙主義に従えば、人間の理性は皆神に等しい。私とあなたという区別はなくなる。1人は全体に等しく、全体は1人に等しい。よって、この考え方を突き進めれば私有財産制は否定され、財産は全人類の共有物となる。また、全人類の叡智に依拠した究極の民主主義を実現することができる。『百科全書』を書いたディドロは、1768年にタヒチを訪れたルイ・ブーガンヴィルの記録を読んで、タヒチの社会が専制主義と私有財産の全ての災いから解放されていると述べた(ただし、全体主義の下では1人の意見が全体の意見に等しくなるわけだから、独裁と民主主義が両立するというカール・シュミットの言説には耳を傾ける必要がある)。

 とはいえ、最初の啓蒙主義には、必ずしも全体主義には直結しないいくつかの特徴があった。第一に、自然に対する態度が挙げられる。啓蒙主義と言うと、自然を科学によって分析可能な物質的対象と見なし、バラバラの要素に還元してしまったかのようなイメージがあるが、全ての啓蒙主義者がそうであるわけではなかった。確かに科学と哲学はキリスト教的な神には疑問を投げかけたとはいえ、天地をつかさどる何らかの神的な存在、一つの超自然的な創造主あるいは設計者、精神が存在すると信じていた。人間は万物の秩序についてじっくり考えることによって、自然を介して自然の神にたどり着く。それは「自然の宗教」である。

 キリスト教から「自然の宗教」に移行すれば、人によってはさらに「自然教」にまで至る。自然そのものの背後に、またそれを超えたところに、意識を持つ知性的な原理、つまり至上の存在ないし創造主が存在しなければならない理由は一つもない。存在するのはただ自然だけであり、聖なるものが存在し、しかも崇敬する必要があるとすれば、それは自然そのものである。17世紀の哲学者スピノザは、神は自然と同じようなものだとしていたが、その影響を受けたものでもある。偉大なる自然をありのままに受け入れるということは、人間の理性が自然には及ばないことを認めることでもある。つまり、啓蒙主義は全くの理性万能主義ではないのである。

 2つ目は教育を重視したことである。究極の全体主義においては、人間は生まれながらにして唯一絶対の神と等しい完全なる理性を備えているから、周囲の人間が下手に教育を施して理性に傷をつけてはならない。だが、現実問題として、生まれたての人間にできることはほとんどない。その数少ない仕事の1つが、人間の最も原始的で根源的な生産活動である農業である。そこで、全体主義者は農業を神聖化する。これが共有財産制と結びつくと農業共産制になる。

 一方、啓蒙主義は人類が進歩すべきものだという前提に立つ。よって、種としての人間も改造可能な存在である。人間の精神はまっさらの白紙の状態から活動を開始し、五感を介してデータを絶えず吸収し、情報を蓄積し、その情報を理念の形に整え、その理念がやがて世界についての経験的な知識となり、我々の道徳的な価値観となる。人間の本性なり能力なり知識とは全て、観念連合を含む過程を通じて経験から学習したその産物である。人間は環境の産物であるが、同時に、その環境を変える能力も獲得する。

 これは1つ目の自然観とも関連している。人間の理性が自然に及ばない、つまり(啓蒙主義者はあまりはっきりとは言わないが)人間の理性が不完全であるという立場に立てば、その不完全や不足を埋めようとして学習が発生する。こうして、逆説的であるが、人間の理性が完全であるとする全体主義においては学習が起きないのに対し、人間の理性に限界を認める啓蒙主義においては学習が促進され、結果的に人類が進歩するという結果になる。

 3つ目に指摘しなければならないのは、啓蒙主義の多様性である。全体主義においては、唯一絶対の神と同じ完全無欠の理性を持った人間の頭の中に、生まれながらにして理念・ビジョンが埋め込まれており、人間が生まれた瞬間にその理念が具現化して革命が成就する。その理念は単一のものであり、全ての人類によって共有されている。ところが本書は、啓蒙主義は1つではないと言う。フィロゾーフはコスモポリタニズムに同調しながらも、それぞれの地域・社会に密着した問題に取り組み、固有の文化の価値観に従いながら、啓蒙的な解決策を展開した。

 時にこうした啓蒙主義の動きは、歴史的な流れを追認することもあった。例えば、オランダ共和国は民族的・宗教的に非常に多様であり、政治的にも雑種な存在であった。元首である総督は君主とはほとんど似ても似つかぬ存在であり、その総督が頼りにする共和政も分権的でしばしば対立していた。それを支配するのは世襲の貴族ではなく、都市民であって、彼らの富は土地ではなく商業から得られた。オランダ共和国は共和国の常識からすると意味不明であった。だが、啓蒙主義者が切実に求めるものが実現されている輝かしい事例と見なされるようになった。専制支配からの自由、宗教上の多元主義と寛容、経済的繁栄、平和的外交がそれである。

 イギリスも、名誉革命のおかげで代議制度、立憲政治、個人の自由、相当程度の宗教上の寛容、表現と出版の自由が勝ち取られていた。個人の権利と自然法に基づく自由主義体制、政府に対する社会の優位、合理的なキリスト教、自由主義的な経済政策の枠内において所有者が教授する財産の不可侵性、教育に対する信頼、そして知識の進歩に対する大胆な経験主義的姿勢―これらをイギリスは先取りしていた。体制を一から抜本的に覆そうとしたフランス革命の方が、むしろ啓蒙主義の例外だったのである。伝統を尊重しながら漸次的な改革を目指すという当時の啓蒙主義の姿勢は、革新的であるというよりもむしろ保守的ですらある。

 最後の特徴として、最初の啓蒙主義は政治において人類全体の叡智を信頼していなかったという点が挙げられる。本来の啓蒙主義に従えば、1人の意見が全体の意見に等しくなるという究極の民主主義を志向するはずである(繰り返しになるが、究極の民主主義は究極の独裁に転じる可能性もある)。冒頭で述べたように、フィロゾーフは、民意を直接政治に反映させるのを阻害するような議会、選挙、代議制度、政党制度を批判した。そして、彼らは大衆向けのメディアを通じて、啓蒙主義を啓蒙した。だが一方で、共和政は古代の遺物だという認識も持っていた。モンテスキューは、安定した身分制に支えられた君主政を、望ましい独裁支配だと評価した。

 純粋な啓蒙主義、さらには全体主義に従えば、階層社会というのはあり得ない。全人類がフラットな関係に立ち、全人格を政治に没入させる。ところが、最初の啓蒙主義者は、階層社会を繁栄する社会に固有の現象であるととらえた。2番目のところで指摘したように、人間の理性は完全ではない。よって、1人では物事を完遂することができず、役割分担が生じる。役割分担が生じれば、当然のことながら命じる人と命じられる人が分かれ、自ずと階層社会が出現する。

 社会の階層は、大雑把に言えば人々を養うための生産活動、社会を内外の脅威から守るための防衛活動、そしてその両者を俯瞰・コントロールする政治活動の3つに分けられる。この3つの階層に対して、人々はその特性に応じて配置される。つまり、全員が政治活動に携わるわけではないし、そうするべきでもないのだ。だから、フィロゾーフは政治における人類全体の叡智を要求しなかった。ただし、彼らは政治こそが理性を発揮する唯一の場だと考えていたわけではないと思う。そう考えてしまうと、古代ギリシア哲学と同じ罠に陥る(ブログ別館の記事「岩田靖夫『ギリシア哲学入門』」を参照)。そうではなく、各々が自分の能力を活かして、持ち場で役割を果たせば、人類全体が理性を発揮できると希望していたように感じる。


2016年12月05日

『豊洲の地下空騒ぎ/大統領はどちらがマシだった?(『正論』2016年12月号)』―現代アメリカの虚像


正論2016年12月号正論2016年12月号

日本工業新聞社 2016-11-01

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 クリントン氏もロシアを警戒しているでしょうが、驚くべき事実もあります。全米で読まれており、漫画にもなっている『クリントンキャッシュ』という本があります。私はこれを木村太郎氏に見せてもらったのですが、同書にヒラリー氏が国務長官時代に、ビル氏がモスクワで講演して50万ドル、5000万円の講演料を受け取ったことが書かれています。
(櫻井よしこ「いずれにしろ、もう米国頼りはだめだから」)
 以前の記事「アメリカの「二項対立」的発想に関する整理(試論)」で、アメリカは二項対立的な発想によって中国と対立しながらも、アメリカ国内でも親中派と反中派の二項対立が見られることが事態を複雑にしていると書いた。表面的には反中派が中国を攻撃するのだが、裏では親中派が中国を支援することで、中国が倒れることなく、むしろ中国が力をつけてアメリカと互角に渡り合えるようにする。『China 2049』の著者であるマイケル・ピルズベリーは、中国の100年戦略を知らずに、親中派を自負して中国を支援したことを後悔していた。だが、本当は、当初の狙い通り中国が強大になったことを喜んでいるのではないかというのが私の見立てである。米中の対立が先鋭化すれば、アメリカの軍需産業が潤い、その恩恵がアメリカ経済全般に及ぶ。

 以前の記事は、冷戦時代のアメリカと旧ソ連の間にも、似たような二項対立関係が見られたのではないかという仮説で止まっている。ここで、冒頭の引用文を読むと、現在の米ロ関係においては、表面的にはアメリカとロシアが引き続き対立しながらも、裏では親ロ派がロシアを支援している可能性があることを感じさせる。ということは、冷戦時代にも似たような支援関係があったと予測しても、あながち間違いではないように思える。
 米国にも一応、「市民が毎年、特定の政治家や政党に献金できる最大額は2700ドル」という規制がある。しかしこの政治資金規正法は、最高裁の「個人が特定の政治家や政党を支援するため、大量の私財を政治活動と広報活動に使っても、その行為は憲法で保障されている『表現の自由』にあたるから、法律で規制することはできない」という憲法解釈によって、有名無実化している。その結果、数兆円の資産を持つヘッジ・ファンド業者、企業乗っ取り業者、ラスベガスのカジノ業者の中には、1人で1年に百億円の資金をばら撒いている者がいる。
(伊藤貫「トランプを生んだアメリカの衰退」)
 アメリカは民主主義を理想とする国である。民主主義とは、どんな金持ちであっても、どんな貧乏人であっても、同じ1票を行使することができるから、結果的に弱者のニーズをより効果的に政治に反映させることのできる仕組みである。ところが、現在のアメリカは、政治家に多くの献金をした者が政治を動かしている。ウォール・ストリートや製薬業界、軍需産業からの献金は凄まじいようで、彼らの力で金融業界の各種規制は骨抜きにされ、患者の治癒など二の次で製薬会社の利益しか考えない新薬が大量にばらまかれ、世界各地で戦争が推進されている。アメリカは民主主義を普遍的価値として世界に普及してきたが、今その足元がぐらついている。

 《2016年12月10日追記》
 加藤尚武氏の『現代倫理学入門』より引用。
 民主主義は、歴史的にふりかえって見れば、少数者(国王)が多数者(市民)の利益を侵害する可能性のある状況では、その侵害を防ぐのに有効な方法だった。しかし、地域紛争のように多数者が少数者の利益を侵害する可能性、資源枯渇、環境汚染のように現在の世代が未来の世代を侵害する可能性にたいしては、有効な方法とは言えない。
現代倫理学入門 (講談社学術文庫)現代倫理学入門 (講談社学術文庫)
加藤 尚武

講談社 1997-02-07

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 アメリカの最高裁裁判官は、大統領によって指名され、上院の承認を経て就任する。任期は終身で、基本的には死亡ないし本人が引退表明しない限り、その座に就くことができる。定年が70歳と定められている日本の最高裁裁判官とはこの点で大きく異なる。現在、アメリカの最高裁裁判官は定員が9名であるが、1名の欠員があり、保守対リベラルが4:4の関係にある。ここで、もしヒラリー氏が大統領に当選していたら、次のような事態になっていたかもしれない。
 ヒラリー氏が大統領に当選し、進歩派の裁判官を就任させることに成功すれば、銃規制に関する憲法判断はくつがえることになろう。州や自治体レベルで、個人の銃保有をめぐる進歩、保守両派のせめぎ合いが活発化するはずである。ヒラリー氏が仮に1期4年限りの大統領に終わっても、80歳前後の最高裁判事がさらに3人(進歩派が2人、保守寄り中間派が1人)いることから、2~3人を50歳前後の進歩派と入れ換えられれば、最高裁はその後数十年にわたって進歩派支配が続くこととなる。
(島田洋一「徹底分析 ヒラリーVSトランプ」)
 実際にはトランプ氏が次期大統領となったため、最高裁判事が進歩派で固められる可能性はなくなった。しかし、逆にトランプ氏が最高裁判事を保守(トランプ氏の「保守」は一体何が保守なのかよく解らないが)で固めることは十分にあり得る。

 最高裁判所は立法や行政から独立した第三の権力である。その独立した権力に、大統領の息がかかった人物を送り込めるというのは、非常に危険な話だ。もちろん、日本の最高裁裁判官も、内閣が指名し天皇が任命するから、内閣寄りの人物を送り込むことは不可能ではない。だが、前述の通り日本の最高裁裁判官には定年制があり、また、人数が15人と多く、裁判官が一斉に入れ替わることが考えにくいから、内閣が最高裁に対して影響力を及ぼすことは難しい(もっとも、日本でも政治的圧力があったのではないかと疑われる判決があることは否定できない)。これに対して、アメリカの場合は、定員が9名と少ないため、引用文のような事態が起こりうる。ここでもまた、法の支配を普遍的価値とするアメリカは揺らいでいる。
 左翼主義が、政治の次元にあって慣習体系への固執としての(現実主義を標榜する)右翼主義にしばしば逆転することも予め知っておかなければならない。つまり、自由(そして平等、友愛、合理)の過剰が放縦(そして画一、偽善、システミズムつまり体系主義)をもたらしてしまうと、フロイド心理学でいういわゆるリアクション・フォーメーション(反動形成)として、抑圧(そして差別、酷薄、熱狂)に逆転していく。アメリカにおける「トランプ現象」がその見本例だ。
(西部邁「世界大戦の足音を聞きながらナチ・ファッショを夢想する(続)」)
 現在、アメリカだけでなく、ヨーロッパでも極右と極左が激しく対立している。極右は移民など、自らと異なるカテゴリの人々を排斥する。一方、極左は自由、平等の名の下に、あらゆる多様性を認めようとする。私の考えでは、極右と極左は同根異種である。つまり、「人間は絶対性・完全性を備えた神が創造した合理的な人間である」という考えを出発点としている。近代において啓蒙主義を経験した欧米は、宗教を世俗から切り離すことに成功したと思っているかもしれない。ところが、神は全く死んでいない。それどころか、宗教は世俗と完全に同期している。

 唯一絶対の神に似せて創られた人間は、それぞれの人間が1人の個体であると同時に、神=全体・無限に等しい存在である。自己と他者の間には境界線がない。つまり、全体主義である。全体主義においては、自己と異なる他者を想定することはできない。仮に、自己と異なる他者が現れた場合、その他者は神が創造した世界とは矛盾する存在と見なされる。だから、その他者は絶対的に排除されなければならない。したがって、極右は暴力的に異質を攻撃する。ヨーロッパで極右政党がやっていることと、ISが中東でやっていることは、実は同じである。

 人間は唯一絶対の神に似せて創られたはずだが、現実には個体差がある。ここで人間が取りうるもう1つの選択肢は、全ての差異を神が認めた解であると認定し、平等に扱うことである。だから、男女はともに社会に参画できなければならないし、LGBTの結婚は法的に認められなければならないし、マイノリティにも機会が開かれていなければならない。極左の主張のポイントはここにある。こうした強制的な平等化の波は日本にも迫っている。日本の小学校の中には、男女が同じ部屋で着替えをし、運動会では全員が手をつないで横並びでゴールをし、演劇発表会では全員が主人公を演じているところがあると聞く。

 オバマ政権の8年間で、白人以外の民族(特にメキシコからの移民)の受け入れが急速に進み、全米で同性婚が合法化された。これは民主党の中でも特に極左的な反応であると言えよう。そして、ここからが重要なポイントだが、極左的な運動が進めば進むほど、同根異種としての極右勢力が刺激されるのである。だから、トランプのような人物が現れて、メキシコとの国境線上に壁を作ると言ってみたりする。トランプが目指しているのは、白人中心の全体主義である。

 極右と極左の衝突を緩和するには、彼らの立脚する前提を崩すしかない。ただし、「神が唯一絶対である」という点は、彼らも絶対に譲れないだろう。一神教を信じる彼らにとって、その否定は耐え難い苦痛という表現では足りないほどの苦痛をもたらす。だとすれば、残された道は、「人間は不完全で非合理的な存在である」と認めることしかない。いい加減な言い方をすれば、「ちゃらんぽらんに生きる」ということである。自分が弱く不完全なことを受け入れる。同時に、他者もまた弱く不完全であると認めてあげる。ここに、本当の意味での寛容が成立する余地が生じる。


2016年07月27日

市野川容孝『社会』―民主主義に議会制は必須なのか否か?


社会 (思考のフロンティア)社会 (思考のフロンティア)
市野川 容孝

岩波書店 2006-10-26

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 本書は社会の構造や特徴を分析した社会学の書籍ではない。「『社会的』であるとはどういうことか?」を問うた1冊である。「『社会的』である」とは、一言で言えば「自由」かつ「平等」であることである。そのためには租税国家の仕組みを活用すべきであり、その仕組みは民主主義に立脚していなければならない、というのが著者の主張である。

 著者によると、西洋で「社会」と言えば、社会主義、すなわちマルクス=レーニン主義を意味したという。社会的な国家とは、すなわち福祉国家のことであり、分配によって平等を実現することが正義とされた。社会は規範的な概念である。その社会主義は、一般的には1989年のベルリンの壁の崩壊によって終焉を迎えたかのように認識されているが、現場であった東ドイツにおいては、自由を獲得する「革命」として位置づけられていた。こうして、西洋では社会的なものが自由主義によって前向きに書き換えられるという能動的な体験をしている。

 これに対して、日本では「社会的」という言葉の意味が政治的に厳しく問われることがなかった。その表れとして、著者は、日本で政党名に「社会」という語が入る政党が激減していることを指摘している。政治を通じて「社会的なもの」を実現しようとする勢力は少なくなっている。

 本書の中で著者は、ドイツの哲学者ヴァルター・ベンヤミンの面白い議論を紹介している。冒頭で、「社会的である」とは「自由」かつ「平等」であることだと述べた。しかしベンヤミンは、「社会的なもの」とは何か?社会の正しい目的とは何か?という議論を一旦脇に置いて、その目的を実現する正しい手段は何か?を問うこととした。これは非常にユニークな論法である。

 ブログ別館の記事で紹介した「エリン・メイヤー『異文化理解力―相手と自分の真意がわかる ビジネスパーソン必須の教養』」では、アメリカ人やイギリス人が応用優先、帰納的思考であるのに対し、ドイツ人やフランス人は原理優先、演繹的思考であると書かれていた。別の言い方をすれば、アメリカやイギリスはすぐに役に立つ結論を欲する。他方、ドイツやフランスは、どのような論理の道筋で考えたのかというプロセスを重んじる。アメリカやイギリスにとっては達成すべき目的こそが全てであり、目的が明確でなければ手段を考えようがない。ところが、ドイツ人のベンヤミンはその思考プロセスを変形して、上記のような新たな思考の枠組みを設定している。

 ベンヤミンは、「社会的なもの」を達成する手段は民主主義であると論じた。これを「社会民主主義」と呼ぶ。1848年、フランスでは二月革命が起こり、王制の廃止と憲法の制定により共和制へと移行した。その影響はドイツにも及び、帝国領内の諸民族が民族自治権や民族の諸権利の要求、憲法の制定、民主主義の実現を求めて立ち上がった。これが三月革命である。これ以降も、フランス二月革命に端を発する運動はヨーロッパ各地に波及し、1815年以来、君主制に立脚する列強を中心に自由主義運動を抑圧してきたウィーン体制は崩壊した。

 「社会民主主義」と言うと、社会主義と民主主義が結びついているように見える。だが、19世紀末~20世紀初頭にかけて、民主主義は強く警戒されていた。社会主義よりも民主主義の方が危険であると見なされたぐらいだ。マルクスは、1848年のフランス二月革命が議会制民主主義を目指したのは茶番だと批判した。マルクスは、革命の手段として議会制民主主義を用いることを嫌い、それに頼らない社会主義の実現を目指した(この路線は、その後エンゲルスによって修正された)。日本では、初の社会主義政党である社会民主党が1901年に結成され、即日活動停止処分を受けたが、その理由は社会主義ではなく民主主義の方が問題視されたためであった。

 ここで、民主主義に議会制は必須なのか?という問題が生じる。本書の中でカール・シュミットの言葉が引用されているが、シュミットは「近代議会主義と呼ばれるものなしにでも民主主義は存在し得るし、議会主義は民主主義なしにでも存在しうる」と述べている。ただし、シュミットは続けて、「独裁は、民主主義に対する決定的な対立物ではないし、また民主主義は独裁に対する対立物でもないのである」とも述べている。民主主義と独裁がなぜ独立しうるのかは、以前の記事「【ドラッカー書評(再)】『産業人の未来』―人間は不完全だから自由を手にすることができる」などで考察を試みた。シュミットはナチスに入党し、全体主義を支持したことで知られる。

 ベンヤミンは議会制民主主義に関して、次のような問いを立てる。「社会の目的を達成する手段として、いかなる暴力が正当化されるのか?」(ここでも、「社会の目的とは何か?」という問いは一旦後回しにされている)ベンヤミンによれば、暴力には、①法=権利を維持する暴力、②法=権力を措定する暴力、③法=権利を否定する暴力の3種類があるという。そして、①と②の暴力を「神話的暴力」、③の暴力を「神的暴力」と呼ぶ。

 1918年11月9日、社民党主流派のP・シャイデマンが「ドイツ共和国」の成立を宣言し、同日に左派のリープクネヒトも「ドイツ社会主義共和国」の成立を宣言した。社民党主流派は革命を議会制民主主義の枠内に抑える方針をとり、これに反対したルクセンブルクらは社民党を離脱、12月30日にドイツ共産党を立ち上げた。社民党のG・ノスケは、共産党勢力の封じ込めを狙った。翌年1月15日、ルクセンブルクはリープクネヒトとともに殺害された。この事件にノスケが関与したかは不明である。この血なまぐさい状況の中で、1月19日に国民議会選挙が実施され、エーベルトが大統領に、シャイデマンが首相になり、8月11日にはヴァイマール憲法が採択された。

 この状況をベンヤミンは次のように分析する。①と②の暴力とは、議会(+警察)のことである。ノスケの暴力は(真偽は別として)、国民議会に先立って、議会という枠組みの外で”例外的に”行使された暴力である。だが、例外であるということは、裏返せば本来の議会を承認していることを意味する。したがって、ノスケの暴力は、議会制の枠内にあり、議会制を支える暴力であると言える。そして、ノスケのような暴力を制度化したのがヴァイマール憲法第48条(国家緊急権)であった。その上で、ベンヤミンはこれらの暴力を「神話的」と呼び、否定する。

 「神話的暴力」と対峙させる形でベンヤミンが提示しているのが「神的暴力」である。神的暴力は、法=権力を”否定する”暴力である。しかし、ここで言う否定とは、正義の否定ではない。否定を通じて、新たな法=権力の余地を切り開くことを意味する。議会制民主主義においては、議会制の中にありながら、議会制を内部から揺さぶるもの、これがベンヤミンの言う「神的暴力」である。殺害されたルクセンブルクが唱えていた「唯―議会主義」の否定も、同じ文脈上にある。

 ヴァイマール憲法第48条の「国家緊急権」とは、国家が緊急事態に陥った場合には、大統領が公共の安全と秩序を回復するために、必要な措置をとることができるというものであった。議会制民主主義を評価するシュミットは、国家緊急権も支持した。ところが、この第48条があったがために、ヒトラーの台頭を許し、ドイツは全体主義へと傾倒してしまった。ベンヤミンが暴力論を書いたのは1920年前後のことであるが、まるで「神話的暴力」の暴走を見通していたかのようである。ナチスの歴史的過ちへの反省もあってか、ドイツでは議会制に対する警戒感が強い。

 冒頭で、「社会的なもの」は民主主義によって達成されると書いた。その民主主義とは、単なる議会制民主主義ではなく、「議会制を超える議会制」によって支えられる民主主義である。西ドイツでは「APO(Ausserparlamentasiche Opposition)」と呼ばれる議会外反対勢力(日本で言えば「新左翼」)が存在し、議会の外から様々な力を民主主義に供給しているという。ただ、ここで注意が必要なのは、APOは必ずしも議会制そのものを否定しているわけではないということだ。議会制がなければAPOは存在できない。したがって、民主主義にとって議会制は不可欠なのであり、APOは議会制民主主義を補強する勢力ととらえるのが適切であろう。



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