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ロイ・ポーター『啓蒙主義』―最初の啓蒙主義は全体主義につながる過激なものではなく、もっと穏健だった
『豊洲の地下空騒ぎ/大統領はどちらがマシだった?(『正論』2016年12月号)』―現代アメリカの虚像

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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京から実家のある岐阜市にUターンした中小企業診断士(コンサルタント・トレーナー)。ほとんど書評ブログ。たまにモノローグ。双極性障害Ⅱ型を公表しながら仕事をしているのは、「双極性障害(精神障害)の人=仕事ができない、そのくせ扱いが難しい」という世間の印象を覆したいため。

 中長期的な研究分野は、
 ①日本の精神、歴史、伝統、文化に根差した戦略論を構築すること。
 ②高齢社会における新しいマネジメント(特に人材マネジメント)のあり方を確立すること。
 ③20世紀の日本企業の経営に大きな影響を与えたピーター・ドラッカーの著書を、21世紀という新しい時代の文脈の中で再解釈すること。
 ④日本人の精神の養分となっている中国古典を読み解き、21世紀の日本人が生きるための指針を導くこと。
 ⑤激動の多元的な国際社会の中で、日本のあるべき政治的ポジショニングを模索すること。

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

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2018年05月15日

『正論』2018年6月号『安倍”悪玉”論のいかがわしさ/シリア攻撃 揺れる世界』―政治家やメディアが国民に迎合したら民主主義は終わる


正論2018年6月号正論2018年6月号

日本工業新聞社 2018-05-01

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 森友学園に対する国有地売却をめぐる財務省の決裁文書が改竄された疑いがあると朝日新聞が報じたのが3月2日である。「安倍晋三の葬儀はうちで出す」を”社是”としている朝日新聞が、本気で安倍政権を潰しにかかってきている証拠であった。しかし私は、率直に言うと、語弊があるかもしれないが「朝日新聞が余計なことをしてくれた」と感じていた。

 この問題に関しては、首相や明恵夫人の働きかけの有無が焦点であったが、1年経ってもめぼしい証拠は出てこず、野党が憶測で安倍首相を攻撃しているだけで、正直に言えば「どうでもよい問題」であった(事実、改竄前の文書によって、首相や明恵夫人の関与がないことがより明白になった)。そのどうでもよい問題をめぐるどうでもよい答弁に合わせるために、財務省が余計な忖度をして決裁文書を改竄したわけである。そして今度はこの改竄問題をことさら大きく取り上げて、麻生財務大臣の管理監督責任だの、安倍首相の任命責任だのと言い出した。この朝日新聞の報道によって、しばらくメディアと国会はこの問題一色になると容易に予測できた。

 3月5日に、韓国の文在寅大統領の特使である鄭義溶国家安全保障室長が訪朝して、北朝鮮の金正恩委員長と会談した。その会談では、4月末に南北朝鮮軍事境界線に位置する板門店の韓国側施設「平和の家」において南北首脳会談が行われることが合意された。これを受けて、ソウルへ戻った鄭義溶氏は、文在寅大統領に金正恩委員長との会談結果を報告した後、3月8日に文在寅大統領の特使としてアメリカへ渡航し、トランプ大統領に対して、「金正恩委員長がアメリカ合衆国大統領と会談したい意向がある」という金正恩委員長からのメッセージを伝えた。トランプ大統領は、「金正恩からの要請に応じよう」と答え、史上初の米朝首脳会談が実現することになった。朝鮮半島情勢は急転直下の展開を見せていた。

 北朝鮮が対話に応じる姿勢を見せてきたのは、最大限の経済制裁が効果を表したからである。北朝鮮の窓が少し開いたその隙に、日本はどうやって北朝鮮との対話を探るのか?アメリカ、韓国、それから中国やロシアといった関係諸国とどのように連携を取って北朝鮮の非核化を実現するのか?会談が破談してアメリカが北朝鮮に軍事攻撃を加えるという緊急事態が生じた場合を想定して、日本はいかなる準備をしておくべきか?さらに日本の場合は、積年の課題である拉致問題をこの機会にどう解決へと導くのか?といったことを、超党派的に大いに議論すべきであった。ようやく課題解決のスタートラインに立ち、課題解決の長いマラソンが始まるはずであった。ところが、朝日新聞の余計な横槍のせいで国会は空転し、スタートでいきなりつまずいた。金正恩委員長には、「拉致問題については周辺国があれこれ言ってくるが、肝心の日本がなぜ直接言ってこないのか?」と暴露され、安倍政権と外務省は赤っ恥をかいた。

 朝日新聞が北朝鮮問題という日本国家を揺るがしかねない問題よりも、財務省の決裁文書改竄問題という国民にとって受けがよい問題を優先した結果がこれである。しかも、朝日新聞はこうした事態を自ら招いておきながら、日本が北朝鮮問題で孤立していると呑気に批判する。
 (※朝日新聞の)ツイッターは北朝鮮の労働新聞が安倍政権を「退陣直前の状況」と評したことに触れ、「安倍政権にとって『嘘つき内閣』という非難よりも手痛いのは『退陣直前』という分析だ。国交正常化を見据え、腰を据えて交渉する相手と見なされていないのだ。米中露韓の現政権はしばらく倒れない。日本だけこんな内閣では激動の東アジア外交でますます出遅れる」(3月31日)と書いている。
(石川水穂「朝日新聞”倒閣”記者ツイッターを告発する」)
 販売部数至上主義に陥っている新聞、視聴率至上主義に陥っているテレビは、国家や国民をめぐる数多くの問題の中から、読者や視聴者が理解しやすい簡単な問題を選択する傾向が強い。野党もそういうマスコミを利用して、その簡単な問題の責任は政権にあるとすぐに騒ぎ立て、政権を打倒しようとする。マスコミは立法、司法、行政に次ぐ第4の権力、あるいは権力の監視者であるべきなのに、今や単なる野党の広告塔に成り下がっている。
 分かりやすく「手柄」を引き出そうとするパフォーマンスも、真相を煙に巻く結果をもたらした。野党議員に聞いたことがあるが、国会質疑においては、どれだけマスメディアに取り上げられるかも重要な要素らしい。それによって、党幹部から評価されて、党内での地位が上がる。とすると、翌朝の新聞の見出しを頭に思い浮かべながら「切り取りやすい一言」狙いをするという野党の戦略も出てこよう。共産党の小池晃書記局長は、この手の国会質問が非常に巧みだ。(中略)小池氏は、さしずめ、「国会の一言炎上男」だろう。
(山口真由「ピント外れの国会審議 もう1つのモリカケ問題」)
 小池氏は3月19日の参議院予算委員会で、明恵夫人の名前が決裁文書に記載された点について太田充理財局長に問いかけ、「基本的に総理夫人だからだと思う」という答弁を引き出した。その上で、「重大な発言ですよね。重大な発言ですよ。総理夫人なんですよ。まさに、国会議員以上に配慮しなきゃいけない存在なんですよ。だから決裁文書に登場してきているわけじゃないですか」と返した。そして、マスコミは小池氏のこの「重大な発言ですよ」の部分を切り取って繰り返し報じた(私はこの頃入院しており、日中よくテレビを観ていたのではっきり覚えている)。

 私が言うまでもないが、マスコミは国民にとって解りやすいイシューではなく、国民や国家にとって重要なイシューを扱うべきである。販売部数/視聴率至上主義を捨て去り、もっと大局的な視点に立たねばならない。こうしたマスコミの姿勢は、最初はなかなか国民には受け入れられないだろう。それでもなお、イシューの重要性を地道に説いて回る営業努力が必要である。真のマスコミは、赤貧に耐え、それでもなお国民や国家に奉仕する高邁な志を持った人々によって支えられるべきである。だから、本来マスコミが儲かる職業であるというのはおかしいのである。自由市場が短期的に現世代の経済的ニーズを満たす仕組みであるのに対し、民主主義とは中長期的に次世代の社会的課題を解決する制度である(「私と同じ苦しみを子ども世代に味わわせてはならない」)。マスコミはそういう民主主義の進展を促進するものでなければならない。マスコミの姿勢が変われば、マスコミに迎合して一発芸を狙う安直な政治家も減るだろう。

 それにしても、野党やマスコミは、「モリカケ問題に首相が関与している」ということにどうしてもしておきたいようである。感情に訴えて国民を扇動すると、全体主義を生む危険性がある。
 高井:権力を持つ国会議員が国民の感情に訴え、それに国民が呼応している現状は、民主主義の土台が崩されかねないという意味で極めて危険です。事実に基づき、国民の理性に訴えるのが「説得」で、逆に事実を無視して、国民の感情に訴えるのが「扇動」です。ナチス・ドイツのゲッベルズ宣伝相は「扇動」で国民の支持を集めることに成功しました。彼のような人物が今の日本に存在するとは思いませんが、「ミニ・ゲッベルズ」ならば与野党を問わず誕生しかねません。
(高井康行「ジャーナリズムが民主主義を滅ぼす」)
 ただし、個人的には、国民の理性を信じて事実を訴えることが必ずしも正しいとは限らないのではないかとも思っている。仮に事実が1つであるならば、「説得」も「扇動」も1つの事実(「扇動」の場合は虚偽の事実だが)に向かって国民の感情を収斂させることになり、全体主義へとつながりかねない。「説得」の場合は”冷静な”全体主義となり、「扇動」の場合は”熱狂的な”全体主義となるという違いがあるにすぎない。この点に関して、掛谷英紀「大学政治偏向ランキング 学者の政治活動を徹底批判」という興味深い記事があった。これは、2015年の「安全保障関連法に反対する学者の会」に署名した学者の所属大学、専攻分野を分析したものである。

 掛谷氏は、「安保反対の会」に署名するような左派系の学者には理論系が多く、工学系が少ないと述べている。理論系の学者は文字通り理論を組み立てて事実を明らかにする。一方、工学系の学者は実験を繰り返して事実を明らかにする。もし安保法制が間違っているということが動かしがたい事実であるならば、理論系の学者も工学系の学者も「安保反対の会」に署名しそうなものである。ところが、工学系の学者が少ないというのは、彼らは厳密な自然科学の研究のルールに従うものの、事実が1つであるとは限らず、事実が別の実験でひっくり返ったり、事実が複数存在したりすることを認めているからではないだろうか?事実が異なれば解釈、主義主張も異なる。そして、そういう違いがあるところに政治が生まれる。
 それぞれの人々がそれぞれの正義を主張するとき、政治が生ずる。妥協、排除、暴力の行使等々あらゆる手段を講じて、自らの正義を実現しようと試みるのが政治という営みに他ならない。(中略)政治の場においていかなる正義の独占をも許さないとするのがリベラル・デモクラシーの基礎なのである。
(岩田温「あなたもバッシングされる?世にはびこる”悪玉”論の恐怖」)
 「群盲象を評す」というインド発祥の寓話がある。6人の盲人が象に触って、それが何だと思うかと王から問われた。足を触った盲人は「柱のようです」と答え、尾を触った盲人は「綱のようです」と答え、鼻を触った盲人は「木の枝のようです」と答え、耳を触った盲人は「扇のようです」と答え、腹を触った盲人は「壁のようです」と答え、牙を触った盲人は「パイプのようです」と答えた。それを聞いた王は、「皆正しい。あなた方の話が食い違っているのは、あなた方が象の異なる部分を触っているからだ。象はあなた方の言う特徴を全て備えている」と答えた、という話である(以上はジャイナ教の寓話に拠った)。政治はこれと似ている。ある人はAと言い、別の人はBと言い、また別の人はCと言う。それぞれの主張の長所を斟酌しながら、より高次の包括的な新しい知を創造するのが政治的な営みである。「AはAだ。A以外は認めない」では政治にならない。

 左派は自由を掲げながら、「反体制、親中、親北朝鮮」で凝り固まっていることを私はしばしば本ブログで批判してきた。この考えが行き過ぎると全体主義に陥る。だが、右派は逆に「反中、反韓、反北朝鮮」で凝り固まっており、これも行き過ぎれば全体主義になる。極右と極左は同根異種であると、以前の記事「『正論』2018年3月号『親北・反日・約束破り・・・/暴露本「炎と怒り」で話題沸騰』―小国・日本の知恵「二項混合」に関する試論(議論の頭出し程度)、他」でも書いた。極左は、国家という枠組みを取り払い、民族などの表面的な違いを無視して、全世界の人々は本質的に同じであると説く。一方、極右は日本こそが絶対善であり、異質を排除して全世界を日本化しようとする。極左と極右は一見すると正反対であるようだが、どちらも世界をモノトーンで見ている点では実は共通している。右派にも反省すべき点がある。

 3月以降、朝日新聞の全体主義的な「『安倍政権=悪』キャンペーン」が展開されたが、以前に比べると国民は賢明になったと思う。内閣支持率が30%台まで”しか”下がらなかったのがその証左である(内閣支持率は底を打ったとの見方もある)。これが森喜朗首相の時代であれば、一発で内閣支持率が一桁台まで落ち込んでいたことだろう。国民の中には、森友学園問題(と加計学園問題)が大した問題ではないと考える人が増えている。ただ、だからと言って、国民主権を頼りにし、国民の力に完全に依拠して政治を展開するのは難しいと感じる。

 インターネットが普及した時代であるから、例えばネット上に政治空間を作り、国民が自由にイシューを発案して、他の大勢の国民が議論のフィールドに参加しながら必要な法律や施策、規制などを策定していく民主主義も原理的には可能である。だが、発案されるイシューは膨大になり、優先順位をどうつけるかが問題となる。おそらく議論フィールドへのアクセス数、フィールドに参加している国民の数などでランキングが作成されるだろう。だが、ランキングを作成した時点で人気投票と化し、国民は近視眼に陥る。また、たとえ政治空間で実名性が担保されたとしても、炎上、暴言、脅迫が日常茶飯事となり、収拾がつかなくなるに違いない。前述の通り、しばしば政治家は視野狭窄に陥り国会を空転させ、行政は保身に走り余計なことをするが、国民がもっと利己的になり、罵詈雑言の類で議論フィールドを混乱させるよりかは幾分ましである。

 だから、現在の立法府や行政府は最善ではないが最悪でもないのである。その両権力を、中長期的な視点、将来の世代の視点、社会的な善の視点から監視する役割をマスコミには期待したいし、政治家(特に野党)はそういうマスコミを上手に利用して国民を啓発してほしい。


2017年02月26日

ロイ・ポーター『啓蒙主義』―最初の啓蒙主義は全体主義につながる過激なものではなく、もっと穏健だった


啓蒙主義 (ヨーロッパ史入門)啓蒙主義 (ヨーロッパ史入門)
ロイ ポーター Roy Porter

岩波書店 2004-12-21

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 以前の記事「【現代アメリカ企業戦略論(1)】前提としての啓蒙主義、全体主義、社会主義」で書いたように、私は人間の理性を唯一絶対の神と同一視する啓蒙主義を警戒し、「【現代アメリカ企業戦略論(4)】全体主義に回帰するアメリカ?」や「鈴木大拙『禅』―禅と全体主義―アメリカがU理論・マインドフルネスで禅に惹かれる理由が何となく解った」で書いたように、アメリカが全体主義的な傾向に流れているのではないかと危惧している。そういう疑いの目で啓蒙主義の歴史に目を向けた時、最初の啓蒙主義は全体主義の源泉となるような過激なものではなく、実はもっと穏健なものであるとの印象を抱いた。

 もちろん、最初の啓蒙主義と全体主義の共通点を指摘することもできる。全体主義においては、人間の理性と神が直線的につながることを重視する。いや、もっと言えば、人間の理性=神である。よって、人間と神の間に何かしらの階層が介在することを極度に嫌う。初期の啓蒙主義者は自らのことを「フィロゾーフ(哲学者)」と呼んだが、彼らは議会、選挙、代議制度、政党制度といった、現代の民主主義の構成要素を拒んだ。議会は貴族の既得権益の牙城となっていた。政党は私的な利益を追求する派閥主義と結びついていた。直接民主政は古代ギリシアの一過性のものとしか見なされなかった。そして、代議制度は腐敗選挙区の温床でしかなかった。

 啓蒙主義に従えば、人間の理性は皆神に等しい。私とあなたという区別はなくなる。1人は全体に等しく、全体は1人に等しい。よって、この考え方を突き進めれば私有財産制は否定され、財産は全人類の共有物となる。また、全人類の叡智に依拠した究極の民主主義を実現することができる。『百科全書』を書いたディドロは、1768年にタヒチを訪れたルイ・ブーガンヴィルの記録を読んで、タヒチの社会が専制主義と私有財産の全ての災いから解放されていると述べた(ただし、全体主義の下では1人の意見が全体の意見に等しくなるわけだから、独裁と民主主義が両立するというカール・シュミットの言説には耳を傾ける必要がある)。

 とはいえ、最初の啓蒙主義には、必ずしも全体主義には直結しないいくつかの特徴があった。第一に、自然に対する態度が挙げられる。啓蒙主義と言うと、自然を科学によって分析可能な物質的対象と見なし、バラバラの要素に還元してしまったかのようなイメージがあるが、全ての啓蒙主義者がそうであるわけではなかった。確かに科学と哲学はキリスト教的な神には疑問を投げかけたとはいえ、天地をつかさどる何らかの神的な存在、一つの超自然的な創造主あるいは設計者、精神が存在すると信じていた。人間は万物の秩序についてじっくり考えることによって、自然を介して自然の神にたどり着く。それは「自然の宗教」である。

 キリスト教から「自然の宗教」に移行すれば、人によってはさらに「自然教」にまで至る。自然そのものの背後に、またそれを超えたところに、意識を持つ知性的な原理、つまり至上の存在ないし創造主が存在しなければならない理由は一つもない。存在するのはただ自然だけであり、聖なるものが存在し、しかも崇敬する必要があるとすれば、それは自然そのものである。17世紀の哲学者スピノザは、神は自然と同じようなものだとしていたが、その影響を受けたものでもある。偉大なる自然をありのままに受け入れるということは、人間の理性が自然には及ばないことを認めることでもある。つまり、啓蒙主義は全くの理性万能主義ではないのである。

 2つ目は教育を重視したことである。究極の全体主義においては、人間は生まれながらにして唯一絶対の神と等しい完全なる理性を備えているから、周囲の人間が下手に教育を施して理性に傷をつけてはならない。だが、現実問題として、生まれたての人間にできることはほとんどない。その数少ない仕事の1つが、人間の最も原始的で根源的な生産活動である農業である。そこで、全体主義者は農業を神聖化する。これが共有財産制と結びつくと農業共産制になる。

 一方、啓蒙主義は人類が進歩すべきものだという前提に立つ。よって、種としての人間も改造可能な存在である。人間の精神はまっさらの白紙の状態から活動を開始し、五感を介してデータを絶えず吸収し、情報を蓄積し、その情報を理念の形に整え、その理念がやがて世界についての経験的な知識となり、我々の道徳的な価値観となる。人間の本性なり能力なり知識とは全て、観念連合を含む過程を通じて経験から学習したその産物である。人間は環境の産物であるが、同時に、その環境を変える能力も獲得する。

 これは1つ目の自然観とも関連している。人間の理性が自然に及ばない、つまり(啓蒙主義者はあまりはっきりとは言わないが)人間の理性が不完全であるという立場に立てば、その不完全や不足を埋めようとして学習が発生する。こうして、逆説的であるが、人間の理性が完全であるとする全体主義においては学習が起きないのに対し、人間の理性に限界を認める啓蒙主義においては学習が促進され、結果的に人類が進歩するという結果になる。

 3つ目に指摘しなければならないのは、啓蒙主義の多様性である。全体主義においては、唯一絶対の神と同じ完全無欠の理性を持った人間の頭の中に、生まれながらにして理念・ビジョンが埋め込まれており、人間が生まれた瞬間にその理念が具現化して革命が成就する。その理念は単一のものであり、全ての人類によって共有されている。ところが本書は、啓蒙主義は1つではないと言う。フィロゾーフはコスモポリタニズムに同調しながらも、それぞれの地域・社会に密着した問題に取り組み、固有の文化の価値観に従いながら、啓蒙的な解決策を展開した。

 時にこうした啓蒙主義の動きは、歴史的な流れを追認することもあった。例えば、オランダ共和国は民族的・宗教的に非常に多様であり、政治的にも雑種な存在であった。元首である総督は君主とはほとんど似ても似つかぬ存在であり、その総督が頼りにする共和政も分権的でしばしば対立していた。それを支配するのは世襲の貴族ではなく、都市民であって、彼らの富は土地ではなく商業から得られた。オランダ共和国は共和国の常識からすると意味不明であった。だが、啓蒙主義者が切実に求めるものが実現されている輝かしい事例と見なされるようになった。専制支配からの自由、宗教上の多元主義と寛容、経済的繁栄、平和的外交がそれである。

 イギリスも、名誉革命のおかげで代議制度、立憲政治、個人の自由、相当程度の宗教上の寛容、表現と出版の自由が勝ち取られていた。個人の権利と自然法に基づく自由主義体制、政府に対する社会の優位、合理的なキリスト教、自由主義的な経済政策の枠内において所有者が教授する財産の不可侵性、教育に対する信頼、そして知識の進歩に対する大胆な経験主義的姿勢―これらをイギリスは先取りしていた。体制を一から抜本的に覆そうとしたフランス革命の方が、むしろ啓蒙主義の例外だったのである。伝統を尊重しながら漸次的な改革を目指すという当時の啓蒙主義の姿勢は、革新的であるというよりもむしろ保守的ですらある。

 最後の特徴として、最初の啓蒙主義は政治において人類全体の叡智を信頼していなかったという点が挙げられる。本来の啓蒙主義に従えば、1人の意見が全体の意見に等しくなるという究極の民主主義を志向するはずである(繰り返しになるが、究極の民主主義は究極の独裁に転じる可能性もある)。冒頭で述べたように、フィロゾーフは、民意を政治に反映させるような議会、選挙、代議制度、政党といった制度を批判した。彼らは確かに、大衆向けのメディアを通じて、啓蒙主義を展開した。だが一方で、共和政は古代の遺物だという認識も持っていた。モンテスキューは、安定した身分制に支えられた君主政を、望ましい独裁支配だと評価した。

 純粋な啓蒙主義、さらには全体主義に従えば、階層社会というのはあり得ない。全人類がフラットな関係に立ち、全人格を政治に没入させる。ところが、最初の啓蒙主義者は、階層社会を繁栄する社会に固有の現象であるととらえた。2番目のところで指摘したように、人間の理性は完全ではない。よって、1人では物事を完遂することができず、役割分担が生じる。役割分担が生じれば、当然のことながら命じる人と命じられる人が分かれ、自ずと階層社会が出現する。

 社会の階層は、大雑把に言えば人々を養うための生産活動、社会を内外の脅威から守るための防衛活動、そしてその両者を俯瞰・コントロールする政治活動の3つに分けられる。この3つの階層に対して、人々はその特性に応じて配置される。つまり、全員が政治活動に携わるわけではないし、そうするべきでもないのだ。だから、フィロゾーフは政治における人類全体の叡智を要求しなかった。ただし、彼らは政治こそが理性を発揮する唯一の場だと考えていたわけではないと思う。そう考えてしまうと、古代ギリシア哲学と同じ罠に陥る(ブログ別館の記事「岩田靖夫『ギリシア哲学入門』」を参照)。そうではなく、各々が自分の能力を活かして、持ち場で役割を果たせば、人類全体が理性を発揮できると希望していたように感じる。


2016年12月05日

『豊洲の地下空騒ぎ/大統領はどちらがマシだった?(『正論』2016年12月号)』―現代アメリカの虚像


正論2016年12月号正論2016年12月号

日本工業新聞社 2016-11-01

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 クリントン氏もロシアを警戒しているでしょうが、驚くべき事実もあります。全米で読まれており、漫画にもなっている『クリントンキャッシュ』という本があります。私はこれを木村太郎氏に見せてもらったのですが、同書にヒラリー氏が国務長官時代に、ビル氏がモスクワで講演して50万ドル、5000万円の講演料を受け取ったことが書かれています。
(櫻井よしこ「いずれにしろ、もう米国頼りはだめだから」)
 以前の記事「アメリカの「二項対立」的発想に関する整理(試論)」で、アメリカは二項対立的な発想によって中国と対立しながらも、アメリカ国内でも親中派と反中派の二項対立が見られることが事態を複雑にしていると書いた。表面的には反中派が中国を攻撃するのだが、裏では親中派が中国を支援することで、中国が倒れることなく、むしろ中国が力をつけてアメリカと互角に渡り合えるようにする。『China 2049』の著者であるマイケル・ピルズベリーは、中国の100年戦略を知らずに、親中派を自負して中国を支援したことを後悔していた。だが、本当は、当初の狙い通り中国が強大になったことを喜んでいるのではないかというのが私の見立てである。米中の対立が先鋭化すれば、アメリカの軍需産業が潤い、その恩恵がアメリカ経済全般に及ぶ。

 以前の記事は、冷戦時代のアメリカと旧ソ連の間にも、似たような二項対立関係が見られたのではないかという仮説で止まっている。ここで、冒頭の引用文を読むと、現在の米ロ関係においては、表面的にはアメリカとロシアが引き続き対立しながらも、裏では親ロ派がロシアを支援している可能性があることを感じさせる。ということは、冷戦時代にも似たような支援関係があったと予測しても、あながち間違いではないように思える。
 米国にも一応、「市民が毎年、特定の政治家や政党に献金できる最大額は2700ドル」という規制がある。しかしこの政治資金規正法は、最高裁の「個人が特定の政治家や政党を支援するため、大量の私財を政治活動と広報活動に使っても、その行為は憲法で保障されている『表現の自由』にあたるから、法律で規制することはできない」という憲法解釈によって、有名無実化している。その結果、数兆円の資産を持つヘッジ・ファンド業者、企業乗っ取り業者、ラスベガスのカジノ業者の中には、1人で1年に百億円の資金をばら撒いている者がいる。
(伊藤貫「トランプを生んだアメリカの衰退」)
 アメリカは民主主義を理想とする国である。民主主義とは、どんな金持ちであっても、どんな貧乏人であっても、同じ1票を行使することができるから、結果的に弱者のニーズをより効果的に政治に反映させることのできる仕組みである。ところが、現在のアメリカは、政治家に多くの献金をした者が政治を動かしている。ウォール・ストリートや製薬業界、軍需産業からの献金は凄まじいようで、彼らの力で金融業界の各種規制は骨抜きにされ、患者の治癒など二の次で製薬会社の利益しか考えない新薬が大量にばらまかれ、世界各地で戦争が推進されている。アメリカは民主主義を普遍的価値として世界に普及してきたが、今その足元がぐらついている。

 《2016年12月10日追記》
 加藤尚武氏の『現代倫理学入門』より引用。
 民主主義は、歴史的にふりかえって見れば、少数者(国王)が多数者(市民)の利益を侵害する可能性のある状況では、その侵害を防ぐのに有効な方法だった。しかし、地域紛争のように多数者が少数者の利益を侵害する可能性、資源枯渇、環境汚染のように現在の世代が未来の世代を侵害する可能性にたいしては、有効な方法とは言えない。
現代倫理学入門 (講談社学術文庫)現代倫理学入門 (講談社学術文庫)
加藤 尚武

講談社 1997-02-07

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 アメリカの最高裁裁判官は、大統領によって指名され、上院の承認を経て就任する。任期は終身で、基本的には死亡ないし本人が引退表明しない限り、その座に就くことができる。定年が70歳と定められている日本の最高裁裁判官とはこの点で大きく異なる。現在、アメリカの最高裁裁判官は定員が9名であるが、1名の欠員があり、保守対リベラルが4:4の関係にある。ここで、もしヒラリー氏が大統領に当選していたら、次のような事態になっていたかもしれない。
 ヒラリー氏が大統領に当選し、進歩派の裁判官を就任させることに成功すれば、銃規制に関する憲法判断はくつがえることになろう。州や自治体レベルで、個人の銃保有をめぐる進歩、保守両派のせめぎ合いが活発化するはずである。ヒラリー氏が仮に1期4年限りの大統領に終わっても、80歳前後の最高裁判事がさらに3人(進歩派が2人、保守寄り中間派が1人)いることから、2~3人を50歳前後の進歩派と入れ換えられれば、最高裁はその後数十年にわたって進歩派支配が続くこととなる。
(島田洋一「徹底分析 ヒラリーVSトランプ」)
 実際にはトランプ氏が次期大統領となったため、最高裁判事が進歩派で固められる可能性はなくなった。しかし、逆にトランプ氏が最高裁判事を保守(トランプ氏の「保守」は一体何が保守なのかよく解らないが)で固めることは十分にあり得る。

 最高裁判所は立法や行政から独立した第三の権力である。その独立した権力に、大統領の息がかかった人物を送り込めるというのは、非常に危険な話だ。もちろん、日本の最高裁裁判官も、内閣が指名し天皇が任命するから、内閣寄りの人物を送り込むことは不可能ではない。だが、前述の通り日本の最高裁裁判官には定年制があり、また、人数が15人と多く、裁判官が一斉に入れ替わることが考えにくいから、内閣が最高裁に対して影響力を及ぼすことは難しい(もっとも、日本でも政治的圧力があったのではないかと疑われる判決があることは否定できない)。これに対して、アメリカの場合は、定員が9名と少ないため、引用文のような事態が起こりうる。ここでもまた、法の支配を普遍的価値とするアメリカは揺らいでいる。
 左翼主義が、政治の次元にあって慣習体系への固執としての(現実主義を標榜する)右翼主義にしばしば逆転することも予め知っておかなければならない。つまり、自由(そして平等、友愛、合理)の過剰が放縦(そして画一、偽善、システミズムつまり体系主義)をもたらしてしまうと、フロイド心理学でいういわゆるリアクション・フォーメーション(反動形成)として、抑圧(そして差別、酷薄、熱狂)に逆転していく。アメリカにおける「トランプ現象」がその見本例だ。
(西部邁「世界大戦の足音を聞きながらナチ・ファッショを夢想する(続)」)
 現在、アメリカだけでなく、ヨーロッパでも極右と極左が激しく対立している。極右は移民など、自らと異なるカテゴリの人々を排斥する。一方、極左は自由、平等の名の下に、あらゆる多様性を認めようとする。私の考えでは、極右と極左は同根異種である。つまり、「人間は絶対性・完全性を備えた神が創造した合理的な人間である」という考えを出発点としている。近代において啓蒙主義を経験した欧米は、宗教を世俗から切り離すことに成功したと思っているかもしれない。ところが、神は全く死んでいない。それどころか、宗教は世俗と完全に同期している。

 唯一絶対の神に似せて創られた人間は、それぞれの人間が1人の個体であると同時に、神=全体・無限に等しい存在である。自己と他者の間には境界線がない。つまり、全体主義である。全体主義においては、自己と異なる他者を想定することはできない。仮に、自己と異なる他者が現れた場合、その他者は神が創造した世界とは矛盾する存在と見なされる。だから、その他者は絶対的に排除されなければならない。したがって、極右は暴力的に異質を攻撃する。ヨーロッパで極右政党がやっていることと、ISが中東でやっていることは、実は同じである。

 人間は唯一絶対の神に似せて創られたはずだが、現実には個体差がある。ここで人間が取りうるもう1つの選択肢は、全ての差異を神が認めた解であると認定し、平等に扱うことである。だから、男女はともに社会に参画できなければならないし、LGBTの結婚は法的に認められなければならないし、マイノリティにも機会が開かれていなければならない。極左の主張のポイントはここにある。こうした強制的な平等化の波は日本にも迫っている。日本の小学校の中には、男女が同じ部屋で着替えをし、運動会では全員が手をつないで横並びでゴールをし、演劇発表会では全員が主人公を演じているところがあると聞く。

 オバマ政権の8年間で、白人以外の民族(特にメキシコからの移民)の受け入れが急速に進み、全米で同性婚が合法化された。これは民主党の中でも特に極左的な反応であると言えよう。そして、ここからが重要なポイントだが、極左的な運動が進めば進むほど、同根異種としての極右勢力が刺激されるのである。だから、トランプのような人物が現れて、メキシコとの国境線上に壁を作ると言ってみたりする。トランプが目指しているのは、白人中心の全体主義である。

 極右と極左の衝突を緩和するには、彼らの立脚する前提を崩すしかない。ただし、「神が唯一絶対である」という点は、彼らも絶対に譲れないだろう。一神教を信じる彼らにとって、その否定は耐え難い苦痛という表現では足りないほどの苦痛をもたらす。だとすれば、残された道は、「人間は不完全で非合理的な存在である」と認めることしかない。いい加減な言い方をすれば、「ちゃらんぽらんに生きる」ということである。自分が弱く不完全なことを受け入れる。同時に、他者もまた弱く不完全であると認めてあげる。ここに、本当の意味での寛容が成立する余地が生じる。



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