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市野川容孝『社会』―民主主義に議会制は必須なのか否か?
『南シナ海・人民元―中国の野望、日本と世界の岐路/沈黙は敗北だ 「中国というアンモラル」に世界が覆われる前に/パリ同時多発テロの衝撃(『正論』2016年1月号)』
『法治崩壊─新しいデモクラシーは立ち上がるか(『世界』2015年11月号)』

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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

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2016年07月27日

市野川容孝『社会』―民主主義に議会制は必須なのか否か?


社会 (思考のフロンティア)社会 (思考のフロンティア)
市野川 容孝

岩波書店 2006-10-26

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 本書は社会の構造や特徴を分析した社会学の書籍ではない。「『社会的』であるとはどういうことか?」を問うた1冊である。「『社会的』である」とは、一言で言えば「自由」かつ「平等」であることである。そのためには租税国家の仕組みを活用すべきであり、その仕組みは民主主義に立脚していなければならない、というのが著者の主張である。

 著者によると、西洋で「社会」と言えば、社会主義、すなわちマルクス=レーニン主義を意味したという。社会的な国家とは、すなわち福祉国家のことであり、分配によって平等を実現することが正義とされた。社会は規範的な概念である。その社会主義は、一般的には1989年のベルリンの壁の崩壊によって終焉を迎えたかのように認識されているが、現場であった東ドイツにおいては、自由を獲得する「革命」として位置づけられていた。こうして、西洋では社会的なものが自由主義によって前向きに書き換えられるという能動的な体験をしている。

 これに対して、日本では「社会的」という言葉の意味が政治的に厳しく問われることがなかった。その表れとして、著者は、日本で政党名に「社会」という語が入る政党が激減していることを指摘している。政治を通じて「社会的なもの」を実現しようとする勢力は少なくなっている。

 本書の中で著者は、ドイツの哲学者ヴァルター・ベンヤミンの面白い議論を紹介している。冒頭で、「社会的である」とは「自由」かつ「平等」であることだと述べた。しかしベンヤミンは、「社会的なもの」とは何か?社会の正しい目的とは何か?という議論を一旦脇に置いて、その目的を実現する正しい手段は何か?を問うこととした。これは非常にユニークな論法である。

 ブログ別館の記事で紹介した「エリン・メイヤー『異文化理解力―相手と自分の真意がわかる ビジネスパーソン必須の教養』」では、アメリカ人やイギリス人が応用優先、帰納的思考であるのに対し、ドイツ人やフランス人は原理優先、演繹的思考であると書かれていた。別の言い方をすれば、アメリカやイギリスはすぐに役に立つ結論を欲する。他方、ドイツやフランスは、どのような論理の道筋で考えたのかというプロセスを重んじる。アメリカやイギリスにとっては達成すべき目的こそが全てであり、目的が明確でなければ手段を考えようがない。ところが、ドイツ人のベンヤミンはその思考プロセスを変形して、上記のような新たな思考の枠組みを設定している。

 ベンヤミンは、「社会的なもの」を達成する手段は民主主義であると論じた。これを「社会民主主義」と呼ぶ。1848年、フランスでは二月革命が起こり、王制の廃止と憲法の制定により共和制へと移行した。その影響はドイツにも及び、帝国領内の諸民族が民族自治権や民族の諸権利の要求、憲法の制定、民主主義の実現を求めて立ち上がった。これが三月革命である。これ以降も、フランス二月革命に端を発する運動はヨーロッパ各地に波及し、1815年以来、君主制に立脚する列強を中心に自由主義運動を抑圧してきたウィーン体制は崩壊した。

 「社会民主主義」と言うと、社会主義と民主主義が結びついているように見える。だが、19世紀末~20世紀初頭にかけて、民主主義は強く警戒されていた。社会主義よりも民主主義の方が危険であると見なされたぐらいだ。マルクスは、1848年のフランス二月革命が議会制民主主義を目指したのは茶番だと批判した。マルクスは、革命の手段として議会制民主主義を用いることを嫌い、それに頼らない社会主義の実現を目指した(この路線は、その後エンゲルスによって修正された)。日本では、初の社会主義政党である社会民主党が1901年に結成され、即日活動停止処分を受けたが、その理由は社会主義ではなく民主主義の方が問題視されたためであった。

 ここで、民主主義に議会制は必須なのか?という問題が生じる。本書の中でカール・シュミットの言葉が引用されているが、シュミットは「近代議会主義と呼ばれるものなしにでも民主主義は存在し得るし、議会主義は民主主義なしにでも存在しうる」と述べている。ただし、シュミットは続けて、「独裁は、民主主義に対する決定的な対立物ではないし、また民主主義は独裁に対する対立物でもないのである」とも述べている。民主主義と独裁がなぜ独立しうるのかは、以前の記事「【ドラッカー書評(再)】『産業人の未来』―人間は不完全だから自由を手にすることができる」などで考察を試みた。シュミットはナチスに入党し、全体主義を支持したことで知られる。

 ベンヤミンは議会制民主主義に関して、次のような問いを立てる。「社会の目的を達成する手段として、いかなる暴力が正当化されるのか?」(ここでも、「社会の目的とは何か?」という問いは一旦後回しにされている)ベンヤミンによれば、暴力には、①法=権利を維持する暴力、②法=権力を措定する暴力、③法=権利を否定する暴力の3種類があるという。そして、①と②の暴力を「神話的暴力」、③の暴力を「神的暴力」と呼ぶ。

 1918年11月9日、社民党主流派のP・シャイデマンが「ドイツ共和国」の成立を宣言し、同日に左派のリープクネヒトも「ドイツ社会主義共和国」の成立を宣言した。社民党主流派は革命を議会制民主主義の枠内に抑える方針をとり、これに反対したルクセンブルクらは社民党を離脱、12月30日にドイツ共産党を立ち上げた。社民党のG・ノスケは、共産党勢力の封じ込めを狙った。翌年1月15日、ルクセンブルクはリープクネヒトとともに殺害された。この事件にノスケが関与したかは不明である。この血なまぐさい状況の中で、1月19日に国民議会選挙が実施され、エーベルトが大統領に、シャイデマンが首相になり、8月11日にはヴァイマール憲法が採択された。

 この状況をベンヤミンは次のように分析する。①と②の暴力とは、議会(+警察)のことである。ノスケの暴力は(真偽は別として)、国民議会に先立って、議会という枠組みの外で”例外的に”行使された暴力である。だが、例外であるということは、裏返せば本来の議会を承認していることを意味する。したがって、ノスケの暴力は、議会制の枠内にあり、議会制を支える暴力であると言える。そして、ノスケのような暴力を制度化したのがヴァイマール憲法第48条(国家緊急権)であった。その上で、ベンヤミンはこれらの暴力を「神話的」と呼び、否定する。

 「神話的暴力」と対峙させる形でベンヤミンが提示しているのが「神的暴力」である。神的暴力は、法=権力を”否定する”暴力である。しかし、ここで言う否定とは、正義の否定ではない。否定を通じて、新たな法=権力の余地を切り開くことを意味する。議会制民主主義においては、議会制の中にありながら、議会制を内部から揺さぶるもの、これがベンヤミンの言う「神的暴力」である。殺害されたルクセンブルクが唱えていた「唯―議会主義」の否定も、同じ文脈上にある。

 ヴァイマール憲法第48条の「国家緊急権」とは、国家が緊急事態に陥った場合には、大統領が公共の安全と秩序を回復するために、必要な措置をとることができるというものであった。議会制民主主義を評価するシュミットは、国家緊急権も支持した。ところが、この第48条があったがために、ヒトラーの台頭を許し、ドイツは全体主義へと傾倒してしまった。ベンヤミンが暴力論を書いたのは1920年前後のことであるが、まるで「神話的暴力」の暴走を見通していたかのようである。ナチスの歴史的過ちへの反省もあってか、ドイツでは議会制に対する警戒感が強い。

 冒頭で、「社会的なもの」は民主主義によって達成されると書いた。その民主主義とは、単なる議会制民主主義ではなく、「議会制を超える議会制」によって支えられる民主主義である。西ドイツでは「APO(Ausserparlamentasiche Opposition)」と呼ばれる議会外反対勢力(日本で言えば「新左翼」)が存在し、議会の外から様々な力を民主主義に供給しているという。ただ、ここで注意が必要なのは、APOは必ずしも議会制そのものを否定しているわけではないということだ。議会制がなければAPOは存在できない。したがって、民主主義にとって議会制は不可欠なのであり、APOは議会制民主主義を補強する勢力ととらえるのが適切であろう。

2016年01月27日

『南シナ海・人民元―中国の野望、日本と世界の岐路/沈黙は敗北だ 「中国というアンモラル」に世界が覆われる前に/パリ同時多発テロの衝撃(『正論』2016年1月号)』


正論2016年1月号正論2016年1月号

日本工業新聞社 2015-12-01

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 まず、日本も同じことをしてほしい。日本は、CIAもそうですが、全米民主主義基金のようなものも持つべきでしょう(National Endowment for Democracy. レーガン政権時代の1983年に「他国の民主化を支援する」ため設立された基金。アメリカ議会が出資。注)。ない、ということは驚くべきことではありませんか。アメリカの基金の場合、年間予算は1億ドル、中国や香港でのオペレーションも含まれます。日本になぜないのか理解できません。
(マイケル・ビルズベリー、島田洋一「《対談》邦訳もベストセラー、『100年マラソン』著者の忠告 日本には知らせなかった 世界覇権を狙う中国にアメリカが甘い本当の理由」)
 アメリカにはそんな基金があるのかと新たな発見であった。アメリカは自由、平等、基本的人権、市場原理、資本主義といった普遍的価値を他国でも実現させようとしている。そのためには、社会・経済システムに介入し、政権を転覆させることもいとわない。アメリカはインテリジェンスに多大な投資をしている。ただ、アメリカの狙いは、各国の民族性、歴史、風土、文化、社会などの特徴に応じて、その国にフィットした政治・経済体制をカスタマイズすることではないように思える。各国の現状を詳細に把握した上で、アメリカという確固たる理想にジャンプさせるために、どのような方策が有効なのか、方策の方をカスタマイズするのが目的である。

 アメリカがインテリジェンスに多大な投資をするのは、ビジネスにおいても同じである。最近は、ビッグデータ、IoT(Internet of Things)などが話題だ。ただし、ここでもアメリカ企業の目的は、顧客のニーズに応じて製品・サービスを細かくカスタマイズすることではないと感じる。例えば、GEは航空機のエンジンにセンサーを内蔵して、稼働状況をモニタリングし、運用・保守サービスを最適化したり、リプレースの時期を的確に見極めたりしている。いわゆるIoTの仕組みである。GEの目標は、顧客企業を囲い込んで、エンジンの売上高を増加させることに他ならない。

 確かに、AmazonやYoutubeなどのように、顧客情報を活用して製品・サービスをカスタマイズしている例があるのも事実である。しかし、見方を変えれば、両社は高度なアルゴリズムによって、本を購入するならAmazon、動画を見るならYoutubeと顧客に思わせる、すなわち、他のネットサービスを排して、AmazonやYoutubeというプラットフォームから顧客が逃れられないようにしようという意図を感じる(ここまでの内容は、以前の記事「『意思決定の罠(DHBR2016年1月号)』―M-1のネタ見せ順と順位に関係はあるのか再検証してみた、他」を参照)。

 だが、日本が同じようなことをすると大失敗するように思える。アメリカですら、上記のような価値観の押しつけは失敗に終わっているという指摘がある。
 しかし、まさにイラク戦争の失敗はアメリカが「共有する価値観」と思っていたものが、中東の地でも実現可能だと信じてしまったことから生じたのではないのか。しかも、こうした「価値観外交」の結果としてイラクに無秩序をもたらし、ひいては「イスラム国」を生み出してしまったのではないのか。
(東谷暁「パリ同時多発テロ批判に思う」)
 日本はそもそも、アメリカのように理性の働きによって普遍的な理想をデザインすることが苦手である。自分が経験したこと、見聞きしたことをベースに、”望ましいと思われること”を構想する。逆に、見たこともないことを情報によって認識することが非常に弱い。だから、日本ではインテリジェンスが発達しない。日本人の構想は、その人を取り巻く環境、周囲の人々との関係の性質、本人の性格や考え方などによって制約されている。だから、普遍性がないのである。

 以前の記事「麻生太郎『自由と繁栄の弧』―壮大なビジョンで共産主義を封じ込めようとしていた首相」で、麻生太郎氏が日本から東ヨーロッパにかけて、自由、民主主義などの共通の価値観で結ばれた国々からなる「自由と繁栄の弧」を形成しようとしていることを書いた。また、第2次安倍政権は「価値観外交」を掲げて、価値観を同じくする国とのリレーション強化に努めた。当時は素晴らしい外交だと思っていたが、どうもそんなに簡単な話ではなさそうだと思い直した。

 日本が自らの構想を他者に押しつければ、絶対に軋轢が生まれる。仮に、以前の記事「イザヤ・ベンダサン(山本七平)『日本人と中国人』―「南京を総攻撃するも中国に土下座するも同じ」、他」で書いたことが日本人の本質であるとすれば、日本は外交するたびに相手国を攻撃するか、相手国に土下座するかのどちらかである。すなわち、日本の構想を受け入れない相手国を力づくでねじ伏せて反撃を食らうか、構想を押しつけることをあきらめて相手国の現状に追従するかのどちらかである。いずれの道をとっても、日本は手痛いダメージを負う。

 日本人は、インテリジェンスに弱い反面、対象をじっくりと洞察することに長けている。近年、マーケティングの分野で「エスノグラフィー(文化人類学)・マーケティング」が注目されている。これは、文化人類学者のように、何の先入観も持たずに相手を観察し、相手の潜在ニーズを発見するものである。これは日本企業なら昔からやっていたことだ。アメリカがエスノグラフィー・マーケティングに注目するのは、彼らがインテリジェンス重視であったことへの反省の表れである。

 日本は外交の場でも、エスノグラフィックな対象の把握に努めなければならない。日本自身の限られた経験から導かれた構想を崇高な理想として絶対視してはならない。代わりに、各国の民族性、歴史、風土、文化、社会などの特徴に応じて、その国にフィットした政治・経済体制の構築を支援する必要がある。しかも、アメリカが目指すような一足飛びの変化ではなく、漸次的な前進を目指すべきだ。アメリカは自らの理想を絶対に動かさないが、日本は観察された事実が増えるに従って、目標とする政治・経済体制を徐々に変質させても構わない。仮に、日本が日本民主主義基金なるものを設立するとすれば、こういう活動を目的とすべきであろう。

 話は変わるが、経営コンサルタントの仕事は、顧客企業のあるべき姿(To-Be)を描き、現状(As-Is)とのギャップを抽出して、ギャップを埋める施策を立案し、将来の業績を予測することであるとされる。かつての私は結構な理想主義者だったので、いったんあるべき姿を描いたら、それを絶対に動かさないところがあった。私の描く理想が100であれば、顧客企業の現状がcccだとしても、cccから半ば強引に100に持っていく方策を考えようとしていた。

 だが、100とcccは異質すぎて、簡単にはギャップを埋められない。それに、第三者的には100が望ましいように見えても、顧客企業はその100を居心地がよいと感じないかもしれない。顧客企業を取り巻く環境、ビジネスモデルの特徴、組織能力、組織構造、風土、人材の性質などを考慮すると、遠くて異質な100を目指すよりも、実は近くて類似のbbbに持っていく方が顧客企業にとっては望ましいことが多い、ということに最近気づいた。

 私も何だかんだで中小企業診断士の世界にもう8年近くいるのだが、8年もいると時折悪評が伝わってくる。大企業や総合商社のOBで、公的機関の専門家として登録されている診断士の中には、自分の経験を中小企業に押しつけてトラブルになる人がいるという。繰り返しになるが、大企業や総合商社での経験は企業特殊的経験であり、全く普遍性がない。そのことに気づかずに、自分が経験したやり方が一番だと勘違いしている人がいるようなのである。

 私も、そういう勘違いをした診断士に出会うことがある。ある家電メーカー出身の診断士数名と立て続けに仕事をする機会があったが、彼らはことあるごとに「私がいた会社ではこんなことは考えれない」、「私がいた会社ではこういうやり方をしていたのだから、そうするべきだ」などということを顧客企業の前で平気で口にする。もちろん、これも私の限られた経験なので、その家電メーカーの社員が皆同じように考えていると一般化することはできない。ただ、仮に類似の傾向が見られるならば、シャープ、東芝の次にダメになる家電メーカーはここではないかと心配になる。

2015年11月24日

『法治崩壊─新しいデモクラシーは立ち上がるか(『世界』2015年11月号)』


世界 2015年 11 月号 [雑誌]世界 2015年 11 月号 [雑誌]

岩波書店 2015-10-08

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 翁長知事は在沖米軍基地について、沖縄が自ら土地を提供したのではなく、戦後、米軍の強制接収によってできたものであること、国土面積の0.6%の沖縄に在日米軍用施設の73.8%が存在すること、戦後70年間、米軍基地から派生する事件・事故や環境問題が県民生活に大きな影響を与え続けていることを指摘し、沖縄の自己決定権と人権が侵害されていると強調した。
(潮平芳和「翁長沖縄県知事の国連演説―世界に問うた日米の不正義」)
 冒頭のこの記事を読んでいきなり卒倒しそうになった。「沖縄県民の自己決定権」ではなく、「沖縄の自己決定権」となっていたからである。私が大学時代に教科書として使った初宿正典教授の『憲法〈2〉基本権』によれば、自己決定権は「個人が自律的人格の主体として、自己にかかわる私的な事柄について公権力によって干渉されずに自ら決定し行動しうる権利」と定義されている。言うまでもなく、自己決定権は個人の権利であり、地方自治体に付与されたものではない。

 自己決定権が問題になるのは、自殺、尊厳死、安楽死、リプロダクション(避妊や妊娠中絶など)のように、個人が生命を自由に処分できるかどうかをめぐってである。また、子どもの権利と関連して、校則で生徒の髪型(丸刈りなど)や服装を強制できるか?バイク免許の取得禁止やバイクでの登校禁止を定めることができるか?といった点が議論される。仮に、「沖縄県民の自己決定権」が侵害されているとしても、一体何が侵害されていると主張しているのか不明である。

憲法〈2〉基本権 (法学叢書)憲法〈2〉基本権 (法学叢書)
初宿 正典

成文堂 2010-10

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 何でもかんでもすぐに権利を持ち出し、その概念を無尽蔵に拡張していこうとする左派の論理には、時々ついて行けなくなる。まして、個人の権利を地方自治体の権利(?)に援用するのは私の理解を超えている。憲法9条の拡大解釈には反対し、憲法を守れと強弁するのに、人権については自由に内容を操作するのは、いかにもご都合主義ではないだろうか?

 辺野古移設問題を憲法の枠組みで論じるならば、95条が妥当である。95条は「一の地方公共団体のみに適用される特別法は、法律の定めるところにより、その地方公共団体の住民の投票においてその過半数の同意を得なければ、国会は、これを制定することができない」と定めている。辺野古移転が95条の住民投票の要件に該当するか否かを議論すればよい。
 先日、元文部官僚でゆとり教育の推進者と言われた寺脇研氏と話した時、SEALDsはゆとり教育の成果だと誇っていた。確かに、正解を覚えこむのではなく、自分で問いを立てつつ自分で考え、権威に臆せず自分の意見を言うという態度を身に着けた若者が増えたということである。
(山口二郎「”不断の努力”がデモクラシーを進化させる」)
 寺脇研氏の名前を久しぶりに見た(旧ブログの記事「「ミスター文部省」寺脇氏の理想と現実のギャップが垣間見えた―『それでも、ゆとり教育は間違っていない』」で一度だけ取り上げた)。私は、SEALDsこそ「憲法9条の平和主義は絶対に正しいのだ」という正解を覚えこんでいるだけではないかと思う。彼らは国際政治の力学をどこまで考え抜いているだろうか?

 現代の世界は、アメリカ、中国、ロシア、(ドイツを中心とする)欧州という4つの大国が覇権争いをしている。それ以外の小国は、悲しいが4大国に利用される宿命にある。日本も決して例外ではない。小国は4大国の対立構造を注意深く読み解き、生き残りをかけてどの大国の側につくのか(どの大国に利用されるのか)を決めなければならない。加えて、大国との関係を深化させるために、周辺の小国(日本の場合は韓国やASEAN諸国など)とも連携する必要がある。

 事態を複雑にしているのは、4大国は常に敵対関係にあるわけではなく、例えば政治では対立するが経済では協力するといった具合に、局面に応じて態度を細かく変えている点である。大国の戦略が複雑であるから、それに影響される小国の戦略も複雑にならざるを得ない。その小国の戦略の文脈において、今回の安保法制が妥当なのかどうかを議論する必要がある。

 SEALDsがこのような点をどこまで真剣に考えているのか、どうも判然としない。「戦後日本は平和主義で世界に貢献してきた」などという主張は、日本がアメリカの核の傘で守られてきたこと、その核がロシアにとっての抑止力になっていたことを無視した平和ボケ発言である。
 小田川:国会前でコールされた、「憲法違反の法案は認めない」、「立憲主義をこわすな」、「民主主義を取り戻せ」といった声が、野党に結束してほしいという参加者の総意を示すものだったと思います。(中略)
 福山:今回の運動に参加した人々や団体、みんなが統一署名に取り組めば2000万とか3000万という署名も不可能ではない。
(福山真劫、高田健、小田川義和「連帯を拡げ、共闘を次のステージへ」)
 朝日新聞が9月19、20日に行った全国世論調査によれば、内閣支持率は、支持35(36)、不支持45(42)(単位はパーセント、カッコ内は9月12、13日の調査)と、不支持が大きい状態が続いている。しかし、政党支持率を見ると、自民36(33)、民主10(10)、維新2(2)、公明3(3)、共産4(4)と、野党の支持率は変化していない。
(山口二郎「”不断の努力”がデモクラシーを進化させる」)
 安保法制反対派は、全国各地で巻き起こるデモ・集会の様子を伝える。それだけ反対運動が全国に広がっているのであれば、内閣支持率や自民党支持率は急落しなければおかしい。ところが、実際には数ポイントの下落という軽傷で済んでいる。民主主義を重視する左派は、世論調査に国民の声が最もよく反映されていると言う。だとすれば、支持率が微減だったということこそが民意であり、全国で反対派が蜂起しているというのは、左派が作り上げた虚構にすぎない。

 旧ソ連には「扇動」を学問化し、運動家に教育する国家機関があった。その機関で教えられていたのは、「ウソであっても繰り返し主張すれば真理になる」ということである。安保法制をめぐる左派の動きを見ていると、まさに旧ソ連の扇動が想起される。
 湯浅誠氏が民主党政権時代に、自らの経験をもとに社会が主で政治は客と言ったことがあったが、安保法案反対運動を通して私もそのことを痛感した。
(山口二郎「”不断の努力”がデモクラシーを進化させる」)
 湯浅誠氏は、2008年末に東京都・日比谷公園で行われたイベント「年越し派遣村」の村長を務めた社会運動家である。「国民の声が大切だ」という立場を突き詰めていくと、社会=主、政治
=客という図式に行き着くのだろう。別の言い方をすれば、社会は政治にとってお客様なのだから、政治は社会の言うことを聞くべきだ、ということになる。企業経営における顧客第一、顧客中心主義、顧客資本主義の影響を見て取ることもできる。

 だが、顧客中心主義は、企業経営という狭い領域においてのみ成り立つことである点を左派は忘れている。思想家の内田樹氏は、病院が顧客中心主義を打ち出した結果、無理難題を突きつける患者、他の患者に迷惑をかける患者が増えて、医療現場が荒廃したと指摘した。内田氏の主張について、病院を学校、患者を生徒に置き換えれば、現在の学級崩壊を説明できる。

 政治と社会の関係は、政治=主、社会=従である。もちろん、社会は政治に完全に従属するわけではなく、政治に対して影響力を発揮することもある。しかし、決して社会が政治より上に立つわけではない。我々国民は、生まれると国家から資源を与えられ、一生を通じて資源を有効活用し、死ぬ時にはより価値の高い状態で資源を国家に戻す責務を負っている(その反対給付として、諸々の権利が保障される)。国民の側から国家に対し声を上げるのは、政治による資源の配分が不公平である時、資源の有効活用・価値向上を阻害する政治的な要因がある時である。この点を無視して、社会が上に立って政治に何でも要求できるなどとすれば、政治は衰退する。
 日本は、安保法制成立前までは可能であった、日本を攻撃してくる国の戦闘機に補給する後方支援国に対して個別的自衛権の行使をできず、補給路を断てないため、攻撃をされ続け、究極的には自国を守れない。今国会で個別的自衛権の範囲がきわめて限定されてしまった。
(倉持麟太郎「政府答弁が描き出したトンデモ「我が国防衛」」)
 左派の安保法制批判は、もっぱら「日本が戦争に巻き込まれる」というものである。これに対して上記の記事では、今回の安保法制によって実は日本の自衛権が制限されてしまい、国防が弱体化すると指摘しており、興味深かった。安倍政権が、「後方支援を行う国に対して日本は個別的自衛権を行使できない」と方針転換したのは、日本が後方支援を行う可能性を残すためである。仮に日本が後方支援国に対し個別的自衛権を行使できるという態度を保ち続ければ、日本が逆に後方支援国に回った際、日本は被攻撃国の個別的自衛権の対象となってしまう。

 以前、「「集団的自衛権」についての私見」という記事を書いたが、改めて今回の安保法制の意義を考えてみると、こういうことではないだろうか?日本近海を巡回するアメリカ海軍艦艇が中国から攻撃されたとする。日本に対する直接的な武力攻撃ではないが、放っておけば日本本土の攻撃につながる場合は存立危機事態に該当し、日本は集団的自衛権を発揮して中国を攻撃する。ただ、これはアメリカを守るためというよりも、日本を守るためであるから、集団的自衛権という名前は適切ではなく、個別的自衛権の行使条件が広がったととらえるべきだろう。

 上記の場合において、日本が直接中国を攻撃するのも1つだが、別の選択肢として、近辺にあるアメリカ海軍艦艇を日本が後方支援し、アメリカ海軍艦艇を通じて中国を攻撃する、という手もある。おそらく、こちらの方が作戦としては現実性が高い。従来の法律では、このケースで日本がアメリカを後方支援することは不可能であった。今回の安保法制では「存立危機事態における後方支援」という枠組みで、アメリカ海軍艦艇に武器や燃料を供給できるようになる。
 「自立した理性的な市民」が社会契約によって政府(主権国家)を樹立するという主流派の政治モデルに対しては、有力な反批判もある。つまり、主権国家―戦争する国家―の担い手として「自立した理性的な市民」という虚構が考案されたのであり、この「市民」は「自立」していない女性・若者・労働者・少数民族などを抑圧しており、「理性」以外の人間の営み―戦争で亡くなった者を悼み、「誰の子どもも殺させない」と誓うこと、搾取や理不尽な差別への怒りと抵抗など―を抑圧しているという反論である。
(進藤兵「私は新しい種類の政治に票を投じたのだ」)
 スコットランドナショナリズムのように、世界のいたるところでナショナリズム復活の動きがあります。これは、デジタル革命によってもたらされた制御困難なコスモポリタンな世界が私たちにある種の負荷をもたらし、それがアイデンティティの不安をかき立てることに由来している面があります。私はそれを「コスモポリタン・オーバーロード」と呼びます。
(アンソニー・ギデンズ「「第三の道」以後の社会民主主義と世界を語る」)
 これはまるでマッチポンプだ。「自立した理性的な市民」を持ち出したのは啓蒙主義左派である。その一方で、左派が「自立した理性的な市民」なる概念を作り上げたがために、女性・若者・労働者・少数民族など、その概念からこぼれ落ちる人たちが生じてしまったわけである。差別撤廃運動は左派の十八番であるが、その原因は左派にあるという点に、左派は気づいていない。

 「コスモポリタニズム(世界市民主義)」は、太古の昔から左派が掲げてきたスローガンである。彼らにとって国家は悪であり、国家を取り払って世界が連帯することが目標である。ところが、いざデジタル革命によって世界がつながると、アイデンティティが不安に陥り、ナショナリズムが復活していると批判する。左派のお望み通りのコスモポリタニズムが実現しようとしているのに、直前になってやっぱり嫌だと駄々をこねているようなものである。




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