2017年03月24日
海外派遣前研修 『グローバル・マネジメント』(研修メモ書き)
とある機関で「海外派遣前研修『グローバル・マネジメント』」を受けてきた。私自身は海外に赴任する予定はないのだが、最近はコンサルティングで海外ビジネスの案件に関与する機会が増えてきたため、勉強のために受講した。結果から言うと、今回の研修はいまいちだった(だから、研修機関名は伏せてある)。そのいまいちな内容を何とか膨らまして今回の記事を書いているので、中身が薄くなっている点はご容赦いただきたい。
私が所属している東京都中小企業診断士協会には、「国際部」という部署がある。国際部は年に数回、交流会を企画しており、海外経験のある診断士が多数参加しているそうだ。ただ、交流会に参加した私の知り合いの診断士によると、この交流会はすこぶる評判が悪い。というのも、言わば飲み会であるにもかかわらず、年配の診断士が次々と登場しては、「私が○○年代に△△という国にいた時の話”では”、・・・」という話を延々と続けるのだという。海外情勢は常に変化しているから、はっきり言って昔話を自慢されても迷惑なだけである。知り合いの診断士は、こうした年配診断士のことを、山形県・出羽山地の神に例えて「ではの神」と揶揄していた。今回私が受講した研修の講師も、これに近いものがあった。「ではの神」とはこういう人かと実感した。
(1)日本企業の海外子会社は、現地スタッフから高く評価されている点もあるものの、批判も多い。真っ先に挙げられる批判が、「日本人は自分の考えをはっきりと言わない」というものである。それゆえ、意思決定は曖昧になりがちであり、この点が現地スタッフの不満の種となっている。日本人は、普段はあまり積極的にしゃべらないのだが、現地スタッフの部下が何か提案を持っていくと、部下の話を途中で遮って、「これではだめだ。ここはもっとこうするべきだ」と話し出す。これも、現地スタッフにとってはストレスの原因である。
現地スタッフが日本人上司の指示に従って資料を作成し上司のところに持って行くと、「私が指示したのはこういうことではない。こういうことだ」といった具合に、今まで聞いたことのない要望を出してくる。さらに、資料の細かいところまでこだわって修正を命令してくる。これもまた、現地スタッフには奇異に映る。そのくせ、上司の無茶な要望に従って仕事を完成させても、上司から「ありがとう」とも言われず、「この資料のこの点がよかった」などとフィードバックを受けることもない。逆に、アウトプットの質が上司の期待水準を下回っていようものなら、現地スタッフは皆の目の前で日本人上司に怒鳴りつけられる。現地スタッフにとっては非常につらいものがある。
なぜこんなことが起きてしまうのか?私は、日本人上司が日本で顧客の立場にある時に取引先に対して取る態度を、海外赴任した際に今度は自分の部下に対して取ってしまうのではないかと考えている。母親から虐待を受けて育った子どもは、成長して自分が母親となり子どもを持つと、同じように虐待をする傾向が高いのと同じ理屈である。
私はIT業界とコンサルティング業界に身を置いていたが、どちらも最終的な成果物が目に見えにくい業界である。だから、営業をかけても、顧客企業の担当者は初期段階では何を必要としているのか自分で解っていないことがほとんどである。こちらから、色々な角度から仮説ベースでソリューションを提示すると、初めてコミュニケーションが開始される。しかし、商談の中で仕様をしっかりと決めて、後はその通りに粛々と作業を進めればよいというケースなど皆無に等しい。仕様は、契約後も極めて流動的に変化するのが常である。
有名な話だが、IT業界では、基幹業務システムの開発のように大規模案件になると、開発は進んでいるのに見積金額が固まらず、プロジェクトの最終段階になってようやく見積金額が決まるものである。しかし、見積が固まったことは、仕様が固まったことを意味しない。システム開発もコンサルティングも、プロジェクトの終盤になってシステムの画面や最終報告書の形がある程度形になると、顧客企業はそれをトリガーとして別のアイデアを思いつくのか、「いや、我が社がほしいのはこんなものではない」とちゃぶ台返しをしてくる。顧客企業の期待水準とあまりにかけ離れている場合は顧客企業が怒り出し、「これでは御社にフィーを支払えない」といった話に発展することもある。こういう話は、どの業界でも見られるのではないかと思う。
日本では「お客様は神様」である。そして、日本企業は神様であるお客様に鍛えられて競争力を高めてきた。神様は多くを語らないから、企業側が神様の意図を察するしかない。神様が発する言葉以外に、五感を通じて入ってくる情報を頼りに、神様の真意を汲み取る。だから、日本企業は、P&Gの”Livin' it”プログラムのような、消費者や販売チャネルの行動をつぶさに観察するエスノグラフィックなマーケティングを行う前から、観察を重視した顧客ニーズの把握に努めてきた。日本企業の方法は、顧客に共感しすぎないという点も大きなポイントである。顧客ニーズを深く知るためには、顧客と同じ体験をすることが有効であるように思える。ところが、あまりに共感しすぎると、顧客のことをかえって誤解するリスクがあることが報告されている(以前の記事「『組織の本音(DHBR2016年7月号)』―イノベーションにおける二項対立、他」を参照)。
顧客からああでもない、こうでもないと言われ、時には厳しいクレームに耐えながら、日本企業は自社の製品・サービスの品質や価値を高めてきた。そして悲しいかな、これだけ一生懸命製品・サービスを作って提供しているのに、顧客から本当に真心のこもったお礼を言われることは非常に少ないのである。私の経験で言うと、通り一遍のお礼を言ってくれる顧客の割合が約3割、「いやぁ、御社のこの製品・サービスはこの点が本当によかったですよ!おかげでこんなに助かりました」と心の底から感謝してくれる顧客は1割にも満たないという感触である。
日本人が日本にいる時に、自社内であれ私生活であれ、顧客の立場で上記のように振る舞う癖がつくと、海外赴任しても、上司である自分は社内顧客、現地スタッフは自分のニーズに応えるべき社内取引先だと見なして、前述の悪癖が露呈する。こういう悪癖を矯正する方法は、ありていに言えば教育ということになるのだろうが、残念ながら海外に赴任してしまった日本人に教育は通用しない。だから、海外赴任した日本人が、日常生活の中で、顧客としての言動を改めるしかない。具体的には、自分が何をほしがっているのか事前によく考え、それを明確に相手企業に伝える、大した理由もないのに自分の考えをコロコロと変えない、製品・サービスを提供してもらったこと、誠実に対応してもらったことに対してお礼を言う、製品・サービスや顧客応対のどの点がよかったのかを企業にフィードバックする、といったことを実践するべきであろう。
(2)(1)で日本人はあまり褒めず、相手の欠点に対して怒ることの方が多いと書いた。アメリカでの駐在経験が長い講師によれば、海外では「まず褒めること」が重要なのだという。だが、この点は、特にアメリカ企業において、部下が上司からクビにされるのを恐れて、上司に意見を言いたがらない点と矛盾する。仮に、部下が上司に何を言っても褒められるのであれば、自分がクビになることを心配する必要はない。部下がおかしなこと、上司の考えに反することを言うとクビになるかもしれないと考えるから、上司に意見を言わないのである。
コーチングは、「上司が絶対で部下は上司に意見してはいけない」というアメリカ的慣行への反省として生まれたものであると私は思う。アメリカの常識に従えば、上司の命令は絶対であり、上司が部下に質問をして部下の考えを引き出すなどというのは考えられない。しかし、そういうマネジメントでは限界があると感じたから、コーチングがアメリカで生まれたに違いない。
日本の場合、(1)のような横柄な上司はいるし、とりわけ大企業では部下に命令だけを出していれば仕事をしたと感じる人もいることは事実である。しかし、以前の記事「山本七平『帝王学―「貞観政要」の読み方』―階層社会における「下剋上」と「下問」」などでも書いたように、上司は部下に対して命令するだけでなく、部下が成果を上げるために上司として支援できることはないかと「下問」することがよしとされる。だから、コーチングという言葉が輸入される前から、コーチングを実践していたマネジャーは決して少なくないのではないかと思う。
もう1つ、アメリカから輸入されたマネジメント手法で私が不思議に思うのは「メンタリング制度」である。今回の研修講師も言っていたが、アメリカ企業では命令一元化の原則が徹底されている。1人の社員が2人以上の上司から命令などを受けることは許されない。ある部下に対して、直接の上司でもない他部門や他チームのマネジャーが、「もっとこうするといいよ」とアドバイスすることは、直属の上司のメンツをつぶすことになる。だが、部下が成長する上で、直属の上司との縦の関係だけでなく、他のマネジャーなどとの斜めの関係も重要であるという研究成果があったことが、メンタリング制度というものを生んだと考えられる。
日本の場合、コミュニケーション経路が複雑であるから、直属の上司以外にも、普段から色々なマネジャーが何かと面倒を見てくれた。メンタリングという言葉がなくても、メンタリングが実施されていたわけだ。ところが、成果主義が導入されたことで、とにかく自部門の成果を追求しなければならなくなり、組織がタコツボ化した。そこで、組織内のコミュニケーションを活性化する目的で、アメリカのメンタリング制度に注目が集まっているというのが私の見立てである。