このカテゴリの記事
「起業セミナー」に参加された方にアドバイスした3つのこと
『先哲遺訓(『致知』2015年10月号)』―未だ「我以外皆我師」(吉川英治)の境地に達しえない私
渋沢栄一、竹内均『渋沢栄一「論語」の読み方』―階層を増やそうとする日本、減らそうとするアメリカ

プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

◆旧ブログ◆
マネジメント・フロンティア
~終わりなき旅~


◆別館◆
こぼれ落ちたピース
シャイン経営研究所HP
シャイン経営研究所
 (私の個人事務所)

※2019年にWordpressに移行しました。
>>>シャイン経営研究所(中小企業診断士・谷藤友彦)

Top > 渋沢栄一 アーカイブ
2015年12月02日

「起業セミナー」に参加された方にアドバイスした3つのこと


venture_business

 今年は色々と起業セミナーの企画・運営をやらせていただいた。先日の起業セミナーでは、参加者が各々のビジネスプランを発表し、僭越ながら私が中小企業診断士の立場でアドバイスをさせていただいた。その時の内容のまとめ。

 (1)製品・サービスを絞ると、かえって多様な仕事が舞い込んでくる
 1人目は中堅・中小企業向けの経営コンサルティングで起業したいという方だった。私とガチンコで競合になると思いながら(苦笑)、ビジネスプランを聞いていた。全体的に、サービス内容が総花的であったため、「フォーカスを絞った方がよい」というアドバイスをさせていただいた。

 私の周りの独立診断士を見ると、儲かっていない人ほど「私は何でもできます」とアピールする傾向がある(私も他人のことは言えないが)。顧客企業に対して間口を広げるためであっても、顧客企業側からすると、その診断士を使った場合に一体どんな成果が期待できるのか解らず、仕事を発注しづらい。これは、コンサルティングに限らず、事業一般に言えることである。以前の記事「採点審査に困る創業補助金の事業計画書(その1~5)」では、「誰にでも効果がある製品・サービス」や「あれもこれも手広くやろうとする事業」は低く採点したという話を書いた。

 逆に、儲かっている診断士は、サービス内容のエッジが効いている。海外工場運営、海外リスクマネジメント、融資・資金繰り、事業再生などといった特定分野の専門性を持っていたり、建設業、IT業界、韓国系飲食店(単なる飲食店ではなく、韓国系であることがポイント)、パチンコ店、水商売(キャバ嬢に対して、「もっと髪をアップにせよ」などとアドバイスしているらしい)などといった特定業種に強かったりする。「そんなニッチなコンサルティングを一体どんな中小企業が望んでいるのか?」とこちらが心配になるが、実はそんな心配は全く無用で、かえって成功しやすい。

 さらに言えば、ニッチなサービスを提供していると、それをトリガーとして仕事の幅が広がっていく。韓国系飲食店に強いとある診断士は、新しいおもちゃの企画・開発を支援するなど、飲食店とは必ずしも結びつかない仕事までしているという。顧客企業は、「先生の専門分野に直接関係しないかもしれないが、実はこういうことで悩んでいる」といった感じで、その先生に相談するようである。端から手広くやることを狙うのではなく、最初は狭く入り込んで、そこから様々な仕事を派生させ、結果的には多様な製品・サービスを提供するようになるのが理想的である。

 こう書くと、以前の記事「【ベンチャー失敗の教訓(第30回)】ターゲット市場がニッチすぎて見込み顧客を発見できない」の内容と矛盾しているように思われるかもしれない。私の前職のベンチャー企業は、「キャリア開発研修」というニッチな教育研修サービスを展開しようとしていた。前述の通り、ニッチ市場を狙うという戦略自体は必ずしも間違いではない。問題は、前職の企業は既に高コスト体質になっており、キャリア開発研修の売上高ではコストをカバーできそうになかったことにある。すなわち、ニッチ市場の選択が誤っていたというわけだ。

 (2)組織の価値観はたえざる解釈と発信を必要とする
 2人目は、母親の子育てを支援するITサービスを立ち上げたいという方であった。ビジネスモデルはまだ曖昧だが、組織の価値観だけは最初に確立されているのが印象的であった。価値観とは、不確実性が高い状況において様々な選択肢が想定され、そのいずれも一定の妥当性・合理性があるような時に、損得などの定量的な基準を超えて特定の選択肢を絞り込むための判断基準のことである。能力は可変的であるのに対し、価値観は一度形成されると変化しにくい。

 こう書くと抽象的だが、例えば私自身の価値観は以前の記事「私の仕事を支える10の価値観(これだけは譲れないというルール)(1)(2)(3)」で書いた。もちろん、これとは異なる価値観も十分に成立する。例えば、1つ目に掲げた「努力に惚れるのではなく、成果が出る努力をする。成果が出なければ努力を諦める」については、「成果が出るまで努力する」という価値観もありうる。だが、私の場合は、最初に撤退基準を決め、成果が出る見込みがないと解ったら、たとえそれが大化けする可能性が残っていたとしても、スパッと諦めることをよしとする。

 価値観は、社員の採用時に非常に重要となる。通常は能力重視で採用するものだが、ベンチャー企業の場合そうはいかない2つの事情がある。1つ目は、ベンチャー企業の戦略は流動的であり、戦略の変化に伴って別の能力が必要になることが多いからだ。能力重視で採用をすると、入社後の戦略変更に伴ってその能力が不要になった途端に、社員は「私はこの会社にとって必要な人材ではない」と感じ、離職してしまうリスクが高まる。

 一方で、戦略が変わっても、組織の価値観が変わることは稀である。価値観は組織のアイデンティティそのものであり、それが変わるということは組織の放棄に他ならない。だから、戦略がいかに変化しようとも、その根底に流れる価値観はほぼ不変であるし、そうでなければならない。ベンチャー企業は、変化しにくい自社の価値観をテコに、価値観で組織と心理的に強くつながる社員を採用する。そうすれば、仮に戦略が変わっても社員が組織に残ってくれる可能性が高まる。

 もう1つの理由は、そもそもベンチャー企業には、企業側が求める高い能力を持った人は応募してくる可能性が低い、ということである。ベンチャー企業は資金も人も足りないので、あれもこれもできる人材を採用したくなる。ところが、それが高望みであることは以前の記事「起業・創業をめぐる3つの勘違いをまとめてみたい」でも書いた。極論すれば、能力は採用後でも何とかなる。しかし、価値観は固定的であり、組織の価値観と矛盾する人を採用してしまうと取り返しがつかなくなる。だから、ベンチャー企業の採用は価値観重視でなければならない。

 『ビジョナリー・カンパニー』の著者であるジェームズ・コリンズは、「最初にバスの行き先を決めるのではなく、バスに乗る人を決めよ」と説いた。戦略は不確実でも構わないが、間違った価値観を持つ人を絶対に選んではならない、という意味である。また、GEは「9 Blocks」という人事制度で、社員の価値観がGEの価値観と合致しているかどうかを評価していた。価値観が合わない社員は、たとえハイパフォーマーであっても最悪の場合解雇される(ただし、GEは現在、9 Blocksに代わる新しい人事制度を構築中のようである)。

 2人目の人は、明石家さんまさんの「生きているだけで丸儲け」という言葉を組織の価値観に据えていた。ここで重要になるのは、この言葉を起業家自身が何度も解釈し、その意味を折りに触れて社員に伝える必要がある、ということである。「生きているだけで丸儲け」という文言だけを表面的に繰り返しても意味がない。この言葉がどのような意味を持つのか?具体的にどういうシチュエーションでこの価値観が活かされるのか?そのシチュエーションでこの価値観に従った結果どうなったか?などといったことを伝え、時に社員とともに議論しなければならない。

 私はこの言葉の意味を、「毎日目の前のことに必死に取り組んでいれば、お金は後からついてくる」というふうに解釈した。明治時代の実業家・渋沢栄一の「金は働きのカスだ。機械を運転しているとカスがたまるように、人間もよく働いていれば、金がたまる」という言葉と同じ意味であるととらえたのだ。しかし、人によっては、拝金主義のことだと受け取る人もいるだろう。こういう齟齬が生じないよう、経営者はメッセージを発信し続けるべきである。

 稲盛和夫氏は、「経営者は壊れたレコーダーのように同じことをしつこく社員に伝えよ」と主張した。ただし、レコーダーのように本当に毎回同じ話をするのはあまりよくないと思う。経営者はあれこれと言葉を変え、様々なバリエーションで価値観を語るのが望ましい。ボキャブラリーが多いということは、それだけ深く考え抜かれているということであり、社員の心に響きやすい。逆に、いつも全く同じ話しかしない経営者は、社員から底の浅さをバカにされる。

 (3)「知っていることを知らない人とやる」または「知っている人と知らないことをやる」
 3人目の人は、コワーキングスペースの運営を企画されていた。自分一人ではできることに限界があるため、パートナーとなる人を探したいとのことであった。この方に限らず、ベンチャー企業は経営資源の不足を補うために、外部パートナーの力を借りる局面が多々ある。私は、ある総合商社出身の診断士から聞いた話をお伝えした。総合商社は日々世界中のパートナー企業と一緒に取引をしている。その中で得られた教訓は、「知っていることを知らない人とやる」か、「知っている人と知らないことをやる」のが望ましい、ということであった。

 「知っている人と知っていることをやる」のがベストであることは言うまでもない。だが、どちらか一方が要件不足でも、それは構わない。しかし逆に言えば、どちらか一方は絶対に要件を満たす必要がある。最悪なのは、「知らない人と知らないことをやる」ことである。言われれば当たり前なのだが、知らない人と知らないことをやろうとする人は意外と多い。

 私の前職はまさにそんな感じだった(以前の記事「【ベンチャー失敗の教訓(第4回)】何にでも手を出して、結局何もモノにできない社長」を参照)。また、独立後に創業補助金の審査員を務めた際、応募者が未経験の分野で起業しようとしているケースがたくさんあることに気づいた(以前の記事「採点審査に困る創業補助金の事業計画書(その6~10)」を参照)。知らない人と知らないことをやるのは高リスクなのに、それでもやりたくなるのは、自分がよく解っていないがゆえに成功時の収益を大きく見積もってしまうという認知の歪みのせいだろう。加えて、「自分ならそのリスクを上手く回避できる」という過信や楽観主義も影響しているのかもしれない。

 私の前職は大手コンサルファーム出身者が作った企業なのに、なぜこんな当たり前のことが解らなかったのか考えてみた結果、彼らが長年クライアント企業に提供してきた戦略立案のパッケージが問題だったのではないかと思うようになった。彼らの方法論では、まず環境分析を通じて戦略機会(平たく言えば、儲かりそうなビジネスチャンス)を洗い出す。その中から最も魅力的なものを選択し、ビジネスモデルを設計する。その際、自社が担いきれない役割・資源に関しては、外部企業との協業を検討する。そして、パートナー候補をリスト化し、順番に交渉する。

 今になって振り返ると、この戦略検討プロセスは、選択した戦略機会は自社が知見を持っている分野か?パートナー企業は自社が知っている企業なのか?という点が軽視されていたと感じる。だから、知らない戦略機会を過大評価し、知らないパートナー企業でも自社のビジネスモデルが魅力的なら自然と協業に応じてくれると思い込んでしまっていた。

2015年09月27日

『先哲遺訓(『致知』2015年10月号)』―未だ「我以外皆我師」(吉川英治)の境地に達しえない私


致知2015年10月号先哲遺訓 致知2015年10月号

致知出版社 2015-10


致知出版社HPで詳しく見る by G-Tools

 『致知』2015年10月号で、作家・吉川英治の「我以外皆我師」という言葉が紹介されていた。この言葉は小説『宮本武蔵』に出てくるものである。大事を成し遂げた人というのは、人間的にスケールが大きく、あらゆる人を包み込む器を持っている。その器に様々な人を分け隔てなく招き入れ、彼らから大いに学ぶことで、さらに大きく成長する。逆に、器の小さい者は、他人に会う前から「あの人は自分の役に立ちそうだ/役立ちそうにない」などと偉そうに評価を下し、会う人を取捨選択する。その結果、他者からの学びが限定され、偉人との差がどんどんついてしまう。

 日本の資本主義の父と呼ばれる渋沢栄一は、生涯のうちに約500もの事業に携わった、非常に多忙な経営者であった。渋沢の下には、各方面から色んな人たちが相談にやって来る。次の政策はどうすればよいかという政治的な話や、低迷する企業経営を救ってほしいというビジネス面の相談、果てはお金を貸してほしいなどという些末な相談まであったという。渋沢が卓越しているのは、どんな人が来ても門前払いしなかったことだ。お金を貸してほしいというすねかじりであっても、まずは話を聞く。そして、最低でも二言三言は助言を与えて帰した。

 渋沢は決して、人を見る目が甘かったわけではない。むしろ正反対である。渋沢は、『論語』の「子曰く、 其の以てする所を視(み)、其の由(よ)る所を観(み)、 其の安(やす)んずる所を察すれば、 人焉(いづく)んぞかくさんや、 人焉んぞかくさんや」(為政第二)という言葉を大切にしていた。これは、「第一に、その人の外面に現れた行為の善悪正邪を視る。第二に、その人のその行為の動機は何であるかをとくと観きわめる。第三に、さらに一歩を進めて、その人の行為の落ち着くところはどこか、その人は何に満足して生きているかを察知すれば、必ずその人の真の性質が明らかになるもので、いかにその人が隠しても隠しきれるものでない」という意味である。

 渋沢が師と仰いだ孔子もまた、人々に対して広く門戸を開いていた。そうでなければ、3,000人もの弟子を集めることはできなかっただろう。孔子は「三人行けば、必ず我が師あり。その善者を択んでこれに従い、その不善者にしてこれを改む」(述而第七)と述べている。徳ある者からは大いに学び、徳のない者は反面教師にして自分を改めた、という意味である。しかし、徳のない者であっても、その人が真面目に孔子に教えを乞うてきたら、孔子は頭をフル回転させてそれに答えただろう。『論語』には、「子曰く、吾知ること有らんか、知ることなきなり。鄙夫(ひふ)あり、来たりて我に問う。空空如(くうくうじょ)たり。我その両端を叩き而して竭(つく)せり」(子罕)とある。

 中国には「周公三たび哺(ほ)を吐き、沛公三たび髪を梳(くしけず)る」という言葉がある。周公は孔子が聖人と崇める人物である。周公は、どんな人が訪問してきても、食べているものを吐き出し食事を中断して面会したと言われる。また、沛公とは漢の高祖のことだ。沛公もまた、髪を整えている最中にどんな客が訪ねてきても、必ずその人に会ったと伝えられている。二人は、どんな人も自分の師になりうるのだから、絶対に拒絶しないことをポリシーとしていた。
 私の社会人としての出発はPCL(フォト・ケミカル・ラボラトリー=写真化学研究所)に入社したときから始まる。PCLに入社するようになったのはケルセルに関する特許を出したとき、清水という親切な審査官がいてPCLで君のような人をほしがっているからといって、当時所長をやっていた植村泰二氏(経団連副会長植村甲午郎氏の弟)のところへ引っ張っていってくれたからである。
(日経BPnet「私の履歴書 井深大(5)社会人第一歩 請われてPCL入社 約束と違う初月給に文句」〔2012年4月23日〕)
 先日、この清水という審査官を知っている元特許庁審査官にお会いする機会があった。この敏腕審査官は、若い時は人が嫌がるような仕事を色々と押しつけられ、特許庁以外のあちこちの役所に顔を出していたせいか、妙に人脈が広がったと振り返っていた。この審査官が出世すると、不思議なことに様々な人が相談に訪れるようになった。しかも、特許とは関係のない相談が大半であった。証券会社の営業担当者が訪ねてきて、「誰かこの株を買ってくれそうな人を知らないか?」と言われたこともあったという(特許庁に似つかわしくない証券会社の人がやって来たせいで、周りからはその審査官の方に隠し資産があるのではないかと疑われたらしい)。

 なぜ自分のところにこんなにも色んな人が相談にやって来るのか考えてみると、若い時に培った人脈を当てにしているのももちろんあるが、「話を口外しない」という点が一番大きかったのではないか?と分析されていた。この審査官は何でも話を聞いてくれる上に口が堅いから、周囲の人はとりあえず相談したくなったに違いない(その話をこうしてブログで口外している私は問題外なのだろうが、この方の話はもう何十年も前のことであり、時効ということで許してもらおう)。

 中小企業診断士は(私のように)一匹狼が多い。中小企業診断士で社員を抱えながらコンサルティング会社をやっている人はあまりいない。一方で、実際のコンサルティングプロジェクトは、診断士が1人で全部カバーできないことがほとんどである。そのため、一匹狼同士がお互いの専門性を補完し合い、チームで課題解決にあたる。こういう現実があるから、診断士の間では常に自分の売り込み合戦が行われる。私も自分を売り込むし、私の元に売り込みが来ることもある。

 ベテランの診断士で経験も豊富になると、様々な診断士から売り込みが来る。中には、経験や専門性、能力や資質に疑問符がつく人も来るはずだ。だが、ベテラン診断士の尊敬すべき点は、履歴書や職務経歴書だけでその人を判断しないことである。まずは1回会って話を聞いてみる。さらに、その人のために新たに仕事を作り出そうとする。私もそういう懐の深い診断士の人に助けられたことがある。私がほとんど経験のない分野のコンサルティングだったにもかかわらず、プロジェクトのタスクを上手く細切れにして、私に仕事をあてがってくれた。

 このブログでは、たびたび日本の多神教文化に触れている。日本では、それぞれの人に異なる神が宿っている。ただし、明快な唯一絶対神を崇める欧米の一神教文化とは異なり、日本人にとって自分に宿る神はおぼろげなままである。欧米人は神に触れるために教会で祈りを捧げる。だが、日本人は自らに内在する神と向き合うだけでは、真実に到達できない。よく言われるように、良質な学習は異質との出会いによって得られる。だから、自分とは異なる神を宿している他者に積極的にアクセスしなければならない。そうした学習を永続させるのが、いわゆる「道」である。

 これをビジネスの世界に置き換えると、次のようになる。顧客や協力企業を選り好みしてはならない。様々な顧客に対し、様々な協力企業の力を結集して、様々な価値を実現する。これこそ日本の経営である。アメリカ企業のように、市場をセグメンテーションしてターゲットを絞り込むとか、自社の組織能力を補完し、かつ自社の価値観にフィットする協力企業を選択するといった話は、日本企業には馴染まないのかもしれない(この点はもっと理論武装する必要がある)。

 私自身はまだ人間が非常に浅いので、「我以外皆我師」などという境地には遠く及ばない。お金にならない仕事は、ただ単にお金にならないという理由で断りたくなるし、ちょっとでも能力に問題がありそうな診断士とは最初から話をしたくないと思ってしまう。だが、そういう了見の狭さが、自分の成長に蓋をしているのかもしれないと反省した。お金にならなくても、何か勉強になることがあるに違いないと考える。診断士の能力に問題があっても、なおその問題をカバーして余りある強みを活かす道があるのではないかと工夫する。こういうことを少しずつ心がけていきたい。

2015年06月06日

渋沢栄一、竹内均『渋沢栄一「論語」の読み方』―階層を増やそうとする日本、減らそうとするアメリカ


渋沢栄一「論語」の読み方渋沢栄一「論語」の読み方
渋沢 栄一 竹内 均

三笠書房 2004-10

Amazonで詳しく見る by G-Tools

 (前回の続き)

 (3)
 信の効用は、社会の進歩とともに、いよいよその価値を増して、その応用の範囲を拡張し、一人より一町村へ、一町村より一地方へ、一地方より一国へ、一国より全世界へと、信の威力は、国家的、世界的になった。
 世界人類のために尽くし、あるいは国家同胞のために尽くそうと思えば、まずその根源にさかのぼり、わが故郷を愛し、わが家を愛さなくてはならない。近きより始めて遠きに及ぼすのが自然の順序でもあり、人の常識でもあろう。
 日本が多層社会(階級社会ではない)であり、階層が多重化されているほど安定化する傾向にあることは、本ブログでも何度か触れた(「山本七平『山本七平の日本の歴史(上)』(2)―権力構造を多重化することで安定を図る日本人」、「室谷克実『呆韓論』―韓国の「階級社会」と日本の「階層社会」について」など)。

 個人は一人では生きて行けないため、家族の庇護を必要とする。家族は単独では家計を維持することができないため、学校に子どもを送り込んで基礎能力を習得させ、さらに学校から企業という生産の場に人材を供給する。企業は自らが存続するために市場を必要とする。市場は放っておくと暴走するため、社会による牽制を必要とする。社会はルールを運用する力が十分でないため、行政府を必要とする。行政府は、ルールの運用はできてもルールの形成力がないため、立法府を必要とする。そして、日本の場合は、全システムの頂点に天皇が存在する。

 こうして、個人⇒家族⇒学校⇒企業⇒市場⇒社会⇒行政府⇒立法府⇒天皇(⇒神?)という多重システムができ上がる。さらに、以前の記事「【ドラッカー書評(再)】『現代の経営(上)』―実はフラット化していなかった日本企業」で述べたように、企業という1つの階層をとって見ても、その内部は多重構造化している。よって、全体としては非常に重層的なシステムが形成されることとなる。下の階層が上の階層を敬うことが、孔子の言う「忠」や「孝」であり、その基本形は、家族内の長男や父親に対する敬意に求めることができる。

 一方、アメリカにおけるキリスト教の場合は、個人と神が直接つながることを理想とする。両者の間には、できるだけ他の組織や階層を入れないようにする。ほぼ無条件で両者の間に入ることができるのは、個人と神とを媒介する教会ぐらいである。通常、個人の権利を守るために国家や政府が必要とされるが、アメリカではその権力は大幅に制限される。新自由主義を掲げるアメリカが、いわゆる小さな政府を志向するのは偶然ではない。

 20世紀になって企業(特に大企業)が台頭すると、企業の正統性をめぐって論争が起きた。日本であれば、企業は人々の生活水準を引き上げ、人々の幸福に貢献するという当たり前の話が、アメリカでは長い間受け入れられなかった。アメリカでは毎年、政府と企業に対する信頼度の調査が実施されている。政府に対する信頼度はまだしも、企業に対する信頼度を調査するのは、日本では考えられないことだ。それだけ、アメリカ人は企業の権力を強く警戒している(※)。

 アメリカで聖書の創造論を信じる人々は、進化論を教える学校教育に反発して、家庭で独自に教育を行う。急進的な左派の人は、家族すら否定しようとする。親は子どもの自由を阻害するというのがその理由だ。日本では福島瑞穂氏がこの考え方に近い。家族制度に否定的な福島氏は事実婚を貫いており、さらに自分の子どもが18歳になった時には「家族解散式」をやると宣言していた。このように、キリスト教では、個人⇒(教会⇒)神というシンプルな構造を志向する。

 日本のシステムは、表面的には下の階層が盲目的に上の階層の権威に従属しており、自由が制限されている、あるいは自由が全くないように映る。しかし、実際にはそうではない。むしろ、上からの権力の影響を受けているからこそ、下の階層は自由に振る舞うことができる。日本的多重システムにおいては、上からの力が働くだけでなく、下から上に向かう力も存在する。これを社会学者の山本七平は「下剋上」と呼んだ(前述の「山本七平『山本七平の日本の歴史(上)』(2)―権力構造を多重化することで安定を図る日本人」を参照)。

 上の階層は、権威の上にあぐらをかいていてはならない。下の階層がもっと自由を発揮し、上の階層に対する成果を大きくすることができるように、下の階層に対して何ができるかと問う。言い換えれば、上の階層から下の階層に下りてくる。例えば、行政府は社会に対し、現実の世界で運用しやすいルールとは何かを問う。市場は企業に対し、企業活動に無理が生じないよう市場側で自制できることはないかと問う。学校は家庭に対し、家庭内のしつけをどうすれば支援できるかと問う。これを孔子の言葉を借りれば「下問」と呼ぶ。
 子貢問うて曰く、孔文子何を以てこれを文と謂うやと。 子曰く、敏にして学を好み、下問を恥じず。これを以てこれを文と謂うなり。〔公冶長〕

 (中略)下問を恥じずとは、ひらたくいえば、自分の知らないことは誰にでも尋ねるという意味にほかならない。こんなことはなんでもないようであるが、さて虚心坦懐に、知らざるを知らずとして、自分より下位の人に教えを求めるということは、実際容易にできるものでない。たいていの人は、知らざるを知らずとせず、知ったふりをする。下問を恥じない境地に達するのは、よほどえらい人でなければできないことである。
 以上、稚拙だが今持てる知識を最大限に動員して日本の社会構造を描写してみた。この縦に長く伸びた社会システムの詳細と、階層間の上下の力の作用を明らかにすることが、私の中長期的な課題である。ところで、『致知』2015年6月号を読んでいたら、日本は縦の関係が昔に比べて脆弱になっているという指摘があった。大げさだが、私の探求が、かつての日本にあった強い縦の関係を取り戻すことに少しでも貢献できればと考えている。
 親への「孝」や年長者への「弟」はいわば縦軸の関係です。(中略)「孝弟は仁を為すの本」とは孝弟という縦を立てることが「仁」、つまり人と人との横の繋がり「絆」をも強めるということにもなります。

 ところで、戦後教育の基本は民主主義、個人主義の名のもとに縦軸を断ち、すべてを横にすることを理想としました。現に占領軍の日本教育使節団員で高松宮の教育係を務めたオーティス・ケリーは『縦軸のない日本』という著書で、日本は縦軸が強すぎる、横軸を強くするようにということを述べています。縦を横にすることは、日本弱体化の一因にもなりました。
致知2015年4月号一天地を開く 致知2015年6月号

致知出版社 2015-06


致知出版社HPで詳しく見る by G-Tools

 《2016年2月2日追記》
 アメリカ合衆国憲法には法人に関する規定はない。しかし、1886年、私有財産の権利を強化するために、法人に自然人と同等の法による保護が認められた。これが決定的な転機になった。リンカーン大統領は、法人を非常に警戒していたという。「法人が王座に就き」、「一部の人に(富が)集中し・・・共和国が破壊されるのではないか」と恐れ、「神よ、私の不安が的外れなものであると立証してください」と祈った(ヘンリー・ミンツバーグ『私たちはどこまで資本主義に従うのか―市場経済には「第3の柱」が必要である』〔ダイヤモンド社、2015年〕)。


私たちはどこまで資本主義に従うのか―――市場経済には「第3の柱」が必要である私たちはどこまで資本主義に従うのか―――市場経済には「第3の柱」が必要である
ヘンリー・ミンツバーグ 池村 千秋

ダイヤモンド社 2015-12-11

Amazonで詳しく見る by G-Tools





  • ライブドアブログ
©2012-2017 free to write WHATEVER I like