2015年12月11日
『人間という奇跡を生きる(『致知』2015年12月号)』―無限性に近づく西洋、無限性を畏れる日本
人間という奇跡を生きる 致知2015年12月号 致知出版社 2015-12 致知出版社HPで詳しく見る by G-Tools |
『致知』2015年12月号には、比叡山の僧侶の厳しい修行に関する対談記事があった。
千日回峰行も千日きっちり廻らずに、あえて25日残して満行となるのは、そこで行を完全に終えるのではなく、その後も一生かけて行を積み重ねていかなければならないことを示唆しています。回峰行という形は終わっても、見方を変えれば日常のあらゆるものが行になる。そういう意味で、行というのは一生続くものなのでしょう。人間に完全性を認識させないよう、敢えて不完全な状態を作るという考えは、日光東照宮にも見られる。日光東照宮の陽明門には12本の柱があるが、1本だけ彫刻の模様が逆向きになっており、逆柱と呼ばれる。これは誤って逆向きにしたわけではなく、「建物は完成と同時に崩壊が始まる」という伝承を逆手にとったものである。徳川家康は、「幕府の治世に完成はないのだから、日々徳を重ねて政治に磨きをかけよ」というメッセージを子孫に残したのではないだろうか?
(光永圓道、宮本祖豊「極限の行に挑む」)
人間は有限性の生物である。この点では西洋も日本も一致する。だが、日本の場合、無限性は最初から断念されるのに対し、西洋では人間が無限性=神に近づこうとする。人間は神の姿に似せて創られ、神から理性を授かった。そして、理性は万能であるから、人間はいかようにも進歩する可能性を秘めている。確かに、人間は太古の昔に原罪を負い、有限性を宿命づけられた。しかし、信仰を厚くすれば、神の無限性に近づくことが可能であるとされる。
これは決して大げさな話ではない。古代キリスト教の神学者・アウグスティヌスは『コリントの使徒への手紙』の中で、「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔を合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」と書いた。「鏡におぼろに映ったもの」とは、普通に考えれば私自身なのであるが、アウグスティヌスによれば神である。つまり、人間は神の姿を通じて、鏡に映った自分が私であると認識する、というわけである。
アウグスティヌスが取り上げたのは、心理学などにおける「鏡像認識」の問題である。私は、鏡像認識には他者の存在が不可欠であると考えるのだが、アウグスティヌスによれば他者が介在する余地がない。神が直接的に私のことを知覚させる。人間の立場からすれば、神の無限性に触れるという表現ができるだろう(以前の記事「富松保文『アウグスティヌス―“私”のはじまり』―「自己理解のためには他者が必要」と言う場合の他者は誰か?」を参照)。
神の無限性に触れるという考えは、デカルトにも見られる。有名な「われ思う、ゆえにわれあり」という言葉は、懐疑主義によってあらゆるものが疑わしく思えるが、疑わしく思っている自分がいることだけは確かだと解釈される。しかし、これにはもう少し補足が必要である。「疑わしく思っている」ことは、ひょっとすると夢の中の出来事かもしれない。夢かどうかは、夢が醒めなければ解らない。しかし、夢が醒めたとしても、夢から醒めた現実が再び夢である可能性は排除できない。つまり、疑うという行為を人間の意識と結びつける限り、「『疑うこと』を疑う」ことは止められない。
また、「私が疑わしく思っている」のと同じように、「あなたが疑わしく思っている」かどうかも疑わしい。私もあなたも同じように疑わしく思っていることを証明することはできない。そもそも、「私」、「あなた」という主体を隔てる基準が一体何であるのかが疑わしい。その基準が疑わしい以上、「疑うこと」について、「私」や「あなた」といった主体を設定することはできない。
「われ思う、ゆえにわれあり」の「われ」とは、「私」というこの世で唯一無二の存在ではなく、「誰でもない人間そのもの」のことである。疑わしくない真理としての「思うこと」は、意識の枠や自己―他者という区分を超越する。この時、人間が神の存在を知るというのが、デカルトによる「ア・ポステオリな神の存在証明」である。人間は、自らの有限性からはみ出す無限性に触れるという形で神を知るのであり、その意味で人間は無限性の方に近づいている(以前の記事「斎藤慶典『デカルト―「われ思う」のは誰か』―デカルトに「全体主義」の香りを感じる」を参照)。
以上のような哲学の話は難しくて私も十分理解できていないのだが、最近の経営学を見るともっと解りやすい例がある。「学習する組織」で知られるピーター・センゲなどは、近年「U理論」という新しいリーダーシップ論、イノベーション論を提案している。その下敷きとなっているのは、物理学者デイビッド・ボームの「内蔵秩序―顕在秩序」という考え方である。
我々は通常、顕在秩序の世界に生きている。顕在秩序では、人間が様々な問題を起こし(ボームはその根源を「言葉」による概念の分断に求める)、対立を深めている。しかし、対立する人々がもし対話をすることができれば、人々は意識のレベルで1つにつながり、内蔵秩序に到達して変革を起こすことができる。内蔵秩序とは、顕在秩序の背後にあり、宇宙全体を統合的に流れる1つの秩序である。内蔵秩序においては、時間的・空間的なあらゆる区分は意味を失い、文字通り1つになる。ボームは明言していないが、それを神の無限性と言い換えれば、私などはすんなり理解できる。ボームの理論もセンゲの理論も、人間が神の無限性に近づくための努力である。
人間が神の無限性に近づくというだけでなく、もっと直接的かつ大胆に、人間こそ宇宙であり無限性であると考える人たちもいる。
この地球上には万有引力のような、様々な物理定数があり、その数値が僅かでも違っていたら、この宇宙はできない。宇宙が数理的な法則に則っているからこそ、私たちは生存できるんですね。宇宙物理学によれば、宇宙の様々な物理定数は、地球上で生物が生存できるような値にちょうど設定されているという。この考えを極端化して、物理定数は人間のためにあると主張する立場を、「人間原理の宇宙論」と呼ぶらしい(以前の記事「池内了『宇宙論と神』―宇宙は人間が自己中心的にならないための最後の砦」を参照)。
太陽の源泉は核エネルギーの放出です。太陽の中心核の中では4個の水素が融合して1つのヘリウムをつくっています。そのプロセスで水素の質量の0.7%がエネルギー転換して放出され、それによって太陽は輝いているんです。ただ、このエネルギーは0.7%でなくてはいけません。これが0.71%でも0.69%でもいまの宇宙は成り立たないのです。
(桜井邦朋、山崎直子、村上和雄「生きているというこの素晴らしき人間の奇跡」)
実際に調べてみると、この宇宙のさまざまな物理量の値が人間が生まれるのに非常に都合よい範囲に調整されていなければならないことがわかってきた。物理定数の値が少しだけ異なっている宇宙を仮定してみると、その宇宙には人間が存在しなくなってしまうのである。(中略)このことを考えるなら、物理定数の値は、この宇宙に人間が存在するという条件で決めてよさそうなのだ。人間の存在を条件として宇宙論を組み立てようというわけである。
宇宙論と神 (集英社新書) 池内 了 集英社 2014-02-14 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
ここまで来ると、私などは「人間ごときがそんなふうに考えるのはおこがましい」と思ってしまう。いや、大半の日本人も同じように考えるだろう。人間原理の宇宙論では、人間がもはや神=無限性を手中にしている。しかし、日本人は無限性を手に入れることはおろか、無限性に触れることすら許されない。無限性の存在は認めつつも、その正体を知ろうとはせず、畏れ入るのが日本人である。それを制度化した例が、千日回峰行の「25日余り」であり、日光東照宮の「逆柱」である。『宇宙論と神』の著者・池内了氏の次の言葉は全くもって同感である。
私には、そのような条件こそ偶然であって、物理定数の値は人間ごときを参照して決まっているとは考えられず、もっと深遠な理由があるはずだと思っている。安直な私などは、神の無限性に触れた(あるいは無限性を手中にした)人間は全体主義に陥るのではないかと考えてしまう。しかし他方で、西洋人は無限性に憧れながら、肝心なところで有限性に引き戻されるようにも感じる。本ブログでも何度か書いたが、西洋人は明確な理念を掲げ、その実現について神と契約を結ぶ。そして、理念が達成された=契約が履行された後は、緩やかに終焉への道をたどる。あるいは、西洋では、生まれたての人間に最初から神が設計図を埋め込んでおり、人生とはその設計図が具現化するプロセスであるとされる。設計図のゴールに到達したら、人生は終わりであり、いくら無限性に触れた人間であっても抗えない。
西洋人はセム的思考の影響を受けており、二項対立で物事をとらえることも、全体主義に歯止めをかけているのかもしれない。西洋では特定の思想や立場が主流になったとしても、必ず反対の考えが生じて牽制機能を果たす。その双方をもって全体とするのが西洋であり、どちらか一方だけで全体を代表させることはしない。そして、どんなに一方が世の中を席巻しても、やがては他方に打倒される。さらに、打倒した他方についても、今度はそれとは別の立場が生じ、二項対立の果てに別の立場が勝利する。二大政党制は、それがよく表れた政治システムであろう。
逆に、無限性を諦めたはずの日本が、無限性を希求しファシズムに陥ることもある。鴨長明の『方丈記』のように、移ろいゆくはかなさを嘆く無常観に浸っているうちは問題ない。ところが、「肉体は滅んでも魂は永遠である」、「我々の魂は先祖代々受け継がれたものであり、原点までさかのぼれば天皇に行き着く」といった考えが極端に表に出ると、特攻礼賛、一億総玉砕に陥る。山本七平は『一下級将校の見た日本陸軍』の中で、次のように語っている。
帝国陸軍は、「陛下のために死ぬ」こと、すなわち「生きながら自らを死者と規定する」ことにより、上記の「死者の特権」を手に入れ、それによって生者を絶対的に支配し得た集団であった。(中略)「死の臨在による生者支配」には、自由は一切ない。人権も法も空文にすぎない。そして人がいずれはこの世を去るということは、死の臨在が生者を支配することと関係ない。そしてこの「死の臨在」による生者への絶対的支配という思想は、帝国陸軍の生まれる以前から、日本の思想の中に根強く流れており、それは常に、日本的ファシズムの温床となりうるであろう。
一下級将校の見た帝国陸軍 (文春文庫) 山本 七平 文藝春秋 1987-08 Amazonで詳しく見る by G-Tools |