2014年08月18日
岸見一郎『アドラー心理学入門』―目的論は「多様性」を許容するが「法」を否定する?
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最近ブームになっているみたいなので、入門書を読んでみた。アドラー本人の著書を読まずに、入門書を読んだだけでこの記事を書いているため、理解が不十分なところがある点はご容赦いただきたい。アドラー心理学のポイントは以下の3つである(※1)。
(1)目的論
フロイトやユングに見られるのが「原因論」であり、あらゆる事象には必ず原因があると考える。例えば、不登校になった子どもがいたとする。親や先生は、「学校でいじめられている」、「母親のスキンシップが足りなかった」といった原因を追究するだろう。しかし、アドラーは、子どもが不登校になったのは、何らかの目的を達成するためであると考える。例えば、「母親に心配をかけて母親の注意を引くために、不登校になった」といった具合である。
(2)承認欲求の否定
承認欲求とは「人に好かれていたい」という気持ちであるが、アドラーはこれを明確に否定する。他人からの承認を求めてしまうと、他人の期待に生きることになる。それは自分が「わたし」であることを抑え、自分の人生を生きていないことに等しい。
(3)共同体感覚
では、承認欲求を捨てて、自分のことだけ考えればよいのか?この問いに答えるのが「共同体感覚」というキーワードである。換言すれば、「他者に貢献できているという感覚」である。アドラーは、人間が幸せを感じるのは、他者に貢献することで、自分に価値を感じられた瞬間だと言う。
アドラーの目的論は、どんな行為にも本人にとっての目的があるのだから、その目的を周囲の人はいったん受け入れよう、ということだと思う。本書には、教室で先生に向かって黒板消しを投げつける少年の話が登場する。普通であれば、先生は生徒の迷惑行為を大声で叱りつけ、「両親のしつけが悪いから黒板消しを投げた」と原因探しをするだろう。
しかし、目的論に立つと、「生徒は周囲の注目を集めるために黒板消しを投げた」という考え方が成り立つ。そして、先生はいったんその目的を受容しなければならない。そうすることで、先生は「大声で叱る」という、権威に頼った伝統的な解決策以外の道を模索できるようになる。
目的がこのように創り出されるというとき、目的が私たちの利害に反するということは、考えられないことでしょう。ソクラテスは獄に留まることを「善い」と判断したのですが、ギリシア語でいう「善い」あるいは「善」という言葉の意味は、道徳的な意味での正義ではなく、「ためになる」という意味なのです。反対に、「悪」は「不正」という意味ではなく、「ためにならない」という意味です。アドラーに従えば、あらゆる人のあらゆる行為は、目的を達するための「善い」行為であり、自分のためによかれと思ってやっていることになる。そして、周囲の人は、その目的を何か絶対的な価値基準でもって、頭ごなしに否定してはいけない。アドラーの目的論を突き詰めていくと、多様性を尊重するという考え方につながっていく。たとえ一見グレーな行為でも、問題があるように思える行為でも、道徳的な価値判断はさておき、その目的をまずは尊重しなければならない。
ソクラテスのパラドクス(逆説)として「誰一人として悪を欲する人はいない」といわれています。(中略)誰一人として悪を欲するものはないということの意味は、誰も自分のためにならないことを望んだりはしない、誰も不幸になることを欲さない、誰もが幸福であることを欲しているという意味になります。
日本人は、ちょっとでも危険な行為があると、すぐにその行為そのものを取り除こうとする傾向があるように思える。武力行使は危ないから放棄しよう、原子力発電所は危ないから放棄しよう、といった具合である。個人的には、銃を製造できる3Dプリンタも、近い将来禁止になるか許可制になると思う。だが、この思考が行き過ぎると、例えば自動車も死亡事故を起こすから禁止しようということになり、究極的には人間が問題を起こすのは人間が生きているからであって、人間を取り除けばよいという自滅的な結論に至る。
重要なのは、グレーな行為から簡単に目を背けることではなく、グレーな行為の目的を受け止め、目的と手段の整合性を厳しく検討することである。同時に、その目的とコンフリクトを起こしそうな他の目的との間で、コミュニケーションを通じた調整を行うことである。なぜこんな回りくどいことをしなければならないかと言うと、周りの人がその行為をグレーだと判断した感覚(一言で言えば常識)の方が誤っている可能性もあるからだ。
いいかい、君の見方はまったくの私的(あるいは個人的)なものだから(=私的感覚)皆と同じように考えたほうが(=共通感覚、コモンセンス)いいよ、とか、君がしていることは何々らしくないというふうに造りつけの価値を押しつけることは危険この上ないことだといわなければなりません。先にもいったように共通感覚が誤っていることもありうるからです。だが、ここまで書いて私は2つの疑問を感じた。今までの内容と矛盾するようだが、正直に私の感想を書いてみたい。まず1つ目の疑問は、アドラーによれば、当事者同士の間でより「善く」生きる方策を探し出していくしかないわけだが、先ほどの黒板消しを投げつける生徒の例では、そのような探索が果たして行われたのか?ということである。
そうではなくて個々の場面でそれぞれが私的感覚を持っている者同志が共通の言葉を探し出して、より「善く」生きる方策を探し出していくしかないのです。
生徒側には黒板消しを投げつけた「善い」目的があるのと同様に、先生の側にも大声で注意した「善い」目的があるはずだ。しかし本書では、先生の目的にも、双方の目的を調整するコミュニケーションにも言及がない。伝統的な教育の立場は先生寄りであったから、アドラー心理学ではもっと子どもの方に注目しよう、ということなのかもしれない。とはいえ、振り子の振れ幅が極端すぎて、今度は子どもの肩ばかりを持ち、先生が不利に扱われているような気がする。
2つ目の疑問は、あらゆるケースにおいてより「善く」生きる方策を追求するとすれば、あまりにコミュニケーションが煩雑になり、社会的コストが膨大になるのではないか?ということである。アドラーは絶対的な価値を否定するが、人間社会を存立させるために絶対に譲れない最低限のルールというのは確かに存在するのではないだろうか?それを明文化したのが「法」である。
法とは、人間が絶対的価値について歴史を通じて議論してきたものの結晶であり、現在および将来の人間が同じようなコミュニケーションを繰り返す手間暇を劇的に節約する工夫である。アドラーの目的論に従うと、法の存在そのものが否定されてしまうような気がする。
(※1)アドラー心理学のポイントについては、『週刊ダイヤモンド』2014年6月28日号の特集「今こそ!「嫌われる勇気」 仕事に効くアドラー心理学」を参考にした。
週刊 ダイヤモンド 2014年 6/28号 [雑誌]王者タケダ(武田薬品)の暗雲/アドラー「今こそ! 嫌われる勇気」 ダイヤモンド社 2014-06-23 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
(※2)本文を引用する関係で今日の記事では『アドラー心理学入門』を扱ったが、同書よりもこちらの方が内容的には解りやすい。
嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え 岸見 一郎 古賀 史健 ダイヤモンド社 2013-12-13 Amazonで詳しく見る by G-Tools |