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【現代アメリカ企業戦略論(1)】前提としての啓蒙主義、全体主義、社会主義
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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京23区、神奈川県川崎市・横浜市を中心に活動する中小企業診断士・コンサルタント。

 専門領域は、(1)経営ビジョン・事業戦略の策定、(2)ビジョンや戦略とリンクした人材育成計画の立案・人事評価制度の構築、(3)人材育成計画に沿った教育研修プログラムの企画・開発。

 モットーは「日々改善、日々成長」、「実事求是」、「組織のためではなく知識のために働く」、「奇策は定石より先に立たず」、「一貫性(Consistency)」、「(無知の知ならぬ)無知の恥」

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 ブログタイトルに、oasisの往年の名曲『Whatever』を入れてみた。

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(城北支部執行委員、青年部長、および国際部員を務めています)

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2017年01月19日

【現代アメリカ企業戦略論(1)】前提としての啓蒙主義、全体主義、社会主義

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アメリカ

 現代のアメリカ企業の戦略を論じる前に、時代を3世紀ほど遡りたいと思う。18世紀、西洋では啓蒙主義が花開いた。啓蒙主義とは、一言で言えば人間の理性を絶対視する立場である。一般に、啓蒙主義の下では、宗教は因習的であり、理性を束縛するものとして批判されたと考えられているが、実際にはその逆であり、宗教と理性が固く結びついた。厳密に言えば、唯一絶対の神と人間の理性が結合した。それまでは、宗教は人間の手の届かない「あちら側」にあったが、啓蒙主義によって神を「こちら側」に手繰り寄せることに成功した。「あちら側のメシアニズム」が「こちら側のメシアニズム」になったわけだ。ピーター・ドラッカーは、『産業人の未来』の中で、この近代啓蒙思想が後の全体主義や社会主義(いわゆる左派)を生んだと指摘している。

ドラッカー名著集10 産業人の未来 (ドラッカー名著集―ドラッカー・エターナル・コレクション)ドラッカー名著集10 産業人の未来 (ドラッカー名著集―ドラッカー・エターナル・コレクション)
P・F・ドラッカー 上田 惇生

ダイヤモンド社 2008-01-19

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 唯一絶対の神と人間の理性が結びついた世界では、神と人間が直線的につながることが理想とされる。もっと言えば、人間は神に似せて創造されたのだから、神と人間が完全かつ無限なる全体として一体になることが理想である。そのため、神と人間の間に何かしらの組織や機関が介在することを嫌う。組織や機関が介入するたびに、その正統性が厳しく問われる。政府や企業は人々から厳しい目を向けられる。信仰の場である教会ですら、糾弾のターゲットとなりうる。

 共産主義では国家が必要悪とされる。社会主義では、世界中の労働者階級が連帯して資本家階級の打倒を目指す。つまり、そこに国家は存在しない。社会主義に至る過程にあるのが共産主義であり、各国で社会主義者を育成し、プロレタリアートを動員するために、仕方なく国家の仕組みを活用するにすぎない。社会主義者が目下の目的を達成すれば、国家は不要となる。

 社会主義においては、共同体の最小単位とされる家族でさえ不要とされる。レーニンは、子どもが生まれたら国家が面倒を見ればよいと言った。日本の左派の中にも、家族が個人の自由を束縛するとして、家族の解体を主張する人がいる。例えば社民党の福島瑞穂氏は、子どもが成人に達したら「家族解散式」を行うと宣言していた。人間理性を絶対視する立場の人にとって、人間は生まれながらにして完全である。赤ん坊には、その子が将来どのような人間に成長するかが完璧にプログラミングされている。だから、親がしつけをする必要も、学校が知識を教育する必要もない。左派にとって、教育は脅威である。だから、左派は知識層を徹底的に攻撃する。

 繰り返しになるが、唯一絶対の神=人間の理性とする立場においては、人間は生まれながらにして完全である。ということは、人間が時間の流れに伴って成長するという発想がない。つまり、過去から未来に向かって時間が流れるとは考えない。生まれた時点という現在のその1点が全てであり、時間を無限に支配している。左派は進歩派とも呼ばれるが、実際には進歩などしない。だから、右派が新しい技術を開発するたびに、神の道を踏み外していると批判し、技術の危険性を誇張して、進歩を逆戻りさせようとする。極左ともなれば、人間の最も根源的な営みである農業への回帰を強く説く。このような原始共産主義の考え方は、古代ギリシアにも見られる。

 農業は共有財産に基づく営みである。人が神と同じく絶対で無限である時、個人は1人であると同時に全体でもある。1人が所有するものは、すなわち全体が所有するものである。ここに私有財産制は否定され、共有財産制が採用される。1が1であると同時に全体でもあることは、政治の世界にも表れる。全員が等しく同じ考えを表明できるという点では民主主義的である。しかし、別の見方をすれば、ある1人の意見が全体の意見に等しくなるのだから、専制的であるとも言える。カール・シュミットが指摘したように、民主主義と独裁は両立するのである。

 シュミットは、議会主義、民主主義、そして独裁の関係を、次のように整理した。「近代議会主義と呼ばれるものなしにでも民主主義は存在し得るし、議会主義は民主主義なしにでも存在しうる。そして独裁は、民主主義に対する決定的な対立物ではないし、また民主主義は独裁に対する対立物でもないのである」(『現代議会主義の精神史的地位』)。

 ここでは、議会主義と、民主主義および独裁の間に境界線が引かれている。シュミットは、両者を分かつものについて次のように述べている。議会主義を構成するのは「討論」であり、「自由主義」であり、つまりは多元性と異質性の原理である。これに対して、「民主主義の本質をなすものは、第一に、同質性ということであり、第二に―必要な場合には―異質なものの排除ないし絶滅ということである」。この同質性の原理によって、民主主義と独裁は繋ぎとめられるのであり、民主主義の源である「人民の喝采」、すなわち「反論の余地を許さない自明のもの」が、その強度を増していけば、それは独裁へと連続的に移行する(同上)。

現代議会主義の精神史的地位 (新装版)現代議会主義の精神史的地位 (新装版)
カール・シュミット 稲葉 素之

みすず書房 2013-05-17

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 唯一絶対の神=人間の理性という世界では、神の下での自由と平等が説かれる。それぞれの人間の完全なる自由はむき出しで、他者に無制限に向かっていく。我々の通常の感覚であれば、他人の自由を侵害する自由は認められない。しかし、今ここで問題になっているのは、完全なる人間が持つ完全なる自由である。だから、その自由を制限することなどあり得ない。自由に制限がないということは、自由を束縛する法律の存在を許さないということである。共産主義者は国家に対してアナーキズムを持ち出すと同時に、法律に対しても法ニヒリズムを主張する。

 左派はしばしば連帯の重要性を説く。しかし、その実態は実は空虚である。お互いがむき出しの自由をぶつけ合う世界で全員の自由を全て矛盾なく成立させるためには、逆説的だが個々人が孤立するしかない。そもそも、それぞれの個人は単体であると同時に全体でもあるのだから、敢えて連帯する必要がない。オルテガの言うところの「トゥゲザー・アンド・アローン」、つまり「一緒に一人で」いるしかないのだ。社交にのめりつつも内心ではつねにぽつねんとしている。

 このように書くと驚かれるだろうが、極左と極右は同根異種である。唯一絶対の神=人間の理性という世界における平等とは、全ての人間を等質に扱うことである。しかし、現実の人間には様々な差異がある。これに対する対処法は2つある。1つは、差異をなかったものとして扱うことである。非嫡出子に嫡出子と同等の法的地位を与えよとか、同性婚を法的に認めよとか、女性にも男性と同じように社会進出の機会を与えよといった主張はこれに該当する。また、最近の教育現場では、学校の運動会で順位をつけない、演劇発表会で生徒全員に桃太郎をやらせる、体育の時間に男女同じ部屋で着替えさせる、などといったことが行われている。個人の差に意味があることを無視して、全てを同じように扱えと言っているわけであり、これが極左の立場である。

 もう1つは、特定の属性を持つ集団のみを絶対視し、それ以外を徹底的に排除することである。ナチスやISはこれに該当する。世間では極右と呼ばれる存在である。ISはクルアーンを絶対視しており、クルアーンが成立した時点で時間の流れが止まっている。つまり、彼らには歴史という概念がない。だから、中東の各地において、歴史的遺産を平気で破壊することができる。寛容的な極左と暴力的な極右は全く異質なように見える。ところが、個人個人の差異をなかったものとして無理やり同質化することも、立派な暴力である。

 極左と極右は「死」をめぐっても同じ見解に達する。啓蒙主義以前の時代には、神の存在をどのように証明するかが議論となった。人間はある人間を原因として誕生する。その人間はまた別の人間を原因として誕生する。その因果関係をずっと遡っていくと、自分自身を自ら生み出すことができる自己原因的な存在を想定しなければならない。これが神だというわけである。ところが、啓蒙思想によって、唯一絶対の神=人間となった。ということは、人間が人間を生むことができるようになる。ハインツ・ゴルヴィツァーは、「来たるべき人間の生成が自己創造からのみ出現することができる」(『マルクス主義の宗教批判』)と述べている。

マルクス主義の宗教批判 (1967年) (新教新書)マルクス主義の宗教批判 (1967年) (新教新書)
ゴルヴィツァー 松尾 喜代司

新教出版社 1967

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 一方で、人間には死があり、有から無へと帰す。この点についてフォイエルバッハは、死によって「種属の意識」を強め、「われわれの墓のかなた天井の彼岸を、われわれの墓のかなた地上の彼岸と、つまり歴史的未来・人類の未来と置き換える」ことができると言う。死=無によって、現在生きている者の生を絶対化する。今生きている者=有は、死=無によって現在という1点に固定され、革命を目指す。他方で、死んだ者=無は雲散霧消はせず、今度は再び有を生み出す源泉となる。有と無は連環する。ここに革命の”永久機関”が実現する。これは極左的な考え方であるが、太平洋戦争時の日本で見られた極右の一億総玉砕的思想とも共通する。山本七平は、「『死の臨在』による生者への絶対的支配」と呼んだ(『一下級将校の見た帝国陸軍』)。

一下級将校の見た帝国陸軍 (文春文庫)一下級将校の見た帝国陸軍 (文春文庫)
山本 七平

文藝春秋 1987-08

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2015年09月30日

【ドラッカー書評(再)】『見えざる革命』―本当に「社会主義」的に運用されてしまったアメリカの企業年金(2/2)

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見えざる革命―来たるべき高齢化社会の衝撃 (1976年)見えざる革命―来たるべき高齢化社会の衝撃 (1976年)
P.F.ドラッカー 佐々木 実智男

ダイヤモンド社 1976-06-24

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なぜGMは転落したのか―アメリカ年金制度の罠なぜGMは転落したのか―アメリカ年金制度の罠
ロジャー ローウェンスタイン Roger Lowenstein

日本経済新聞出版社 2009-02

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 (前回からの続き)

 労働組合は給付金の増額だけに飽き足らず、様々な付帯サービスを追加した。歯科、眼科などの医療サービス、生命保険、疾病・身体障害・事故などに対応する各種保険、無料の法律相談(!)などである。さらに、早期退職と、退職した時点からの年金受給も認めさせた。新たに生じる費用は、企業や市だけにのしかかる。ここまで来ると、まさに「社会主義」だ。ただし、ドラッカーが言うような、労働者による生産手段の所有という意味での社会主義ではなく、国民が働かないのにほとんど負担なしで充実した社会福祉を受けるという意味での社会主義である。

 労働組合は、交渉が難航するとすぐにストライキをちらつかす。ストライキが起きれば、GMの工場はストップし、ニューヨークの交通機関は麻痺する。それだけは避けたい企業・市側は、やむなく要求を呑んでしまう。本書を読んだ印象では、新しいサービスによって将来的にどのくらい負担が増えるのかについて、交渉のテーブルについた者は誰もまともに計算していないようだった。ストライキまでの期限を考えれば、そんな計算をしている余裕はないのだ。

 年金基金への拠出負担が増えたGMは、コストアップの分を自動車価格に転嫁させた。これに対して、日本から輸入される自動車は、年金基金への拠出負担がない分だけ安い。そのため、GMは価格競争でどうしても不利な立場に立たされる。また、年金基金への拠出金を増やした代償として、GMは研究開発への投資を削らざるを得なかった。GMが環境対応の技術開発に乗り遅れたのはそのためだと同書は分析している。 ただここで、私は興味深い数字を見つけた。
 SDCERSの保険計理士の計算によれば、現在の債務を維持するには、(ニューヨーク)市は職員の年間給与総額の8.6%を拠出しなければならなかった。給付額が引き上げられれば、負担は11%に跳ね上がる。
 これはニューヨーク市の数字なので、GMの実態は解らない。仮にGMもニューヨーク市と同等であるとした場合、このパーセンテージは果たして異常なほどに高い数値なのだろうか?

 JETROの投資コスト比較によると、日本企業の社会保険負担率は、給与の14.795~23.645%とある。一方、アメリカ企業は、連邦分が給与の8.25~13.65%で、これに各州のパーセンテージが1~8%ほど乗るため、合計すると9.25~21.65%程度になる。さらに、企業年金の拠出金(ここでは、ニューヨーク市の数値8.6~11%を使う)を上乗せすると、トータルでは給与の17.85~32.65%程度となる。32.65%は確かに高いものの、数値の範囲を見れば、日本企業の負担と変わらないアメリカ企業も多いはずである。よって、GM破綻の原因を、企業年金に対する拠出金負担増だけに帰着させるのは、やや単純化しすぎているようにも思える。

 とはいえ、企業の拠出金が、社員の医療・保険サービスなどに消えている点はやはり問題なのだろう。そもそも企業年金の目的は、社員にとっては老後の生活資金を貯蓄することであるが、アメリカ経済全体で見れば、集めた拠出金をアメリカの新たな投資機会へと回すことであった。

 現在アメリカでは、企業がイノベーションや技術革新に対して積極的に投資しないことが課題とされている。新たな投資をしない企業は、内部留保ばかりが厚くなる。だが、お金を貯め込んでも仕方ないので、自社株買いに走る。自社株買いは株価上昇をもたらすから、それによって株主に報いようというわけだ。新規投資に対して企業が消極的になっている点は、ドラッカーも1970年代に本書で指摘していた。ドラッカーは、この課題をクリアする役割を年金基金に期待した。

 ここで問われるべきは、資本家兼労働者となった社員が、企業に対してどのように関与し、どのような役割を果たすべきか?ということである。社員は今や、企業年金を通じて自社株の一部を保有する株主である。よって、一般の株主と同様に経営陣をモニタリングし、株価上昇や配当増につながる分野に対して適切に資本を投下するようプレッシャーをかけなければならない。ドラッカーは、新しい取締役会のあり方を提案する。
 企業には、消費者と、被用者と、投資者すなわち年金基金という新しい型の所有者の3つの構成要素がある。とくに大企業の統治に当たるべき機関としての取締役会は、これら3つの構成要素を代表するものによって構成されなければならない。
 本書では、取締役会に入った社員は具体的にどのような責任を負うのか?他の多数の社員の利益をどのように代表するのか?また、他の取締役との利害調整はどのように行うのか?などといった点があまり書かれていなかったことに、個人的にやや物足りなさを感じた。さらに言えば、ある社員は年金基金を通じて自社株を保有すると同時に、他社の株式も保有している。この場合、この社員はその他社に対してどのように影響力を及ぼすのであろうか?

 前述の通り、アメリカの労働組合は早期退職を企業に認めさせている。当たり前の話だが、退職者が増えれば、その分だけ年金基金の負担は重くなる。よってドラッカーは、高齢者ができるだけ長く働けるような社会の実現を要請する。
 今日もっとも必要とされていることは、非常な勢いで増大しつつある後年退職者人口を扶養するという就業者人口の肩の荷を、いかにして軽減するかということにある。ところが現在、硬直化した年金制度に期待できる唯一の変化は、早期退職の促進という逆の方向の変化だけである。だがわれわれは、経済的にも人道的にも、少なくとも早期退職制度と同じ背程度には、退職延期制度を必要としている。
 私も、定年は70歳まで伸ばすべきだなどと軽々しく口にしていた。医学的に見ると、人間の知力や身体機能が急激に衰えるのは70歳以降であるというのも、その1つの根拠であった。ところが、最近高年者の方と一緒に仕事をする機会が増えて思うことは、どうやら知力や体力が充実しているのは65歳までで、それ以降は急激に衰える人が大半らしいということである。

 定年70歳時代に向けては、65歳以降の急激な衰えをもたらす原因を解明し、衰えを防止する方策を考えなければならない。社員はおそらく40代、50代のうちから色々と気を配る必要があるだろう。また、企業としても、社員が65歳以降に急激に衰えないような仕事の与え方、職場環境の整備に配慮することが、これからは重要となるに違いない。

2015年09月29日

【ドラッカー書評(再)】『見えざる革命』―本当に「社会主義」的に運用されてしまったアメリカの企業年金(1/2)

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見えざる革命―来たるべき高齢化社会の衝撃 (1976年)見えざる革命―来たるべき高齢化社会の衝撃 (1976年)
P.F.ドラッカー 佐々木 実智男

ダイヤモンド社 1976-06-24

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 2012年3月に旧ブログで「【シリーズ】ドラッカー書評(再)」を開始した(旧ブログの記事は現行ブログに移行済み)。当初は約50冊あるドラッカーの著書を1月に1冊のペースで再読してレビュー記事を書き、2015年中には完了させる予定であったが、私の大いなる怠慢で、2013年5月から滞ってしまった。ひとまず今月から再開させて、2020年頃までのんびり続けることにしよう。

 『見えざる革命』は、他の著書と比べるとかなり異色である。それは、本書が次のような書き出しから始まることからうかがえる。
 社会主義を労働者による生産手段の所有と定義するならば、アメリカこそ史上初のかつ唯一の真の社会主義国というべきである。しかも、この定義こそ、社会主義の伝統的かつ唯一の厳格な定義である。
 ドラッカーは、アメリカに広がる私的な「企業年金」に注目した。企業年金は、企業側と社員側がそれぞれ拠出金を出し、その拠出金をアメリカの債券や株式に投資しリターンを得ることで、社員が退職した後の年金を支払うという仕組みである。言い換えれば、社員は企業年金を通じてアメリカ企業の株式を所有している。このことをもってドラッカーは、社員が生産手段=資本を所有する社会主義であると論じた。こんなことを主張した経営学者は他にいないだろう。ドラッカーは後年、本書は非常にユニークであり、自分でも気に入っていると語っている。

 ドラッカーが注目したのは、GMの会長チャールズ・ウィルソンである。ウィルソンは、1950年10月に新しい企業年金を創設した。もちろん、アメリカにも公的な年金制度は存在していた。全米自動車労組(UAW)など当時の労働組合は、政府による社会福祉の充実を主張していた。しかし、ウィルソンは、企業が私的に年金基金を創設することを主張した。そのインパクトは強烈だったらしく、GMに年金基金ができてから1年の間に、実に8,000もの年金基金が誕生したという。

 ウィルソンは、債券のみに投資する年金基金は間違いだとした。アメリカ中の社員が企業年金に加入し、あらゆる年金基金が債券に投資したら、債券を発行するアメリカ政府は深刻な財政難に陥るというのがその理由である。また、ウィルソンは、年金基金が自社株買いをすることにも反対した。一般的に、自社株買いは株価上昇につながりやすい。ところが、年金基金が自社株買いを続ければ、やがてその企業の株式を全部食い尽くしてしまうことは容易に想像できる。よって、年金基金はアメリカ中の企業の株式に投資すべきだとウィルソンは考えた。

 ドラッカーもウィルソンの方針を全面的に支持する。本書に限らず、ドラッカーの思想の根底には、政府に対する強い不信が横たわっている。
 今日では、アメリカをはじめとする先進国には、政府の計画の正しさだけを信じて疑わないような人間は、あまり多くない。むしろ今日、政府は巨大な官僚機構をつくり、膨大な資金を使うだけであって、その計画を実施する能力に欠けるのではないかという見方が広く浸透している。(中略)事実、過去30年をふり返って見ると、私的年金基金の発展こそが、真に成果をあげ、その公約したものを生み出すことのできた唯一の経済社会計画であるといってよい。
 ただ、ここで1つの疑問が生じる。アメリカ中の企業株式に幅広く投資する手段として、絶対に民間の年金基金でなければならない明白な理由は存在しないのではないか?ということである。日本の場合はアメリカと異なり、大部分の国民が国民年金か厚生年金に依存しているが、両年金は公的機関によって運用され、日本中の企業に幅広く投資している(もちろん、債券や海外株式への投資もある)。日本のような仕組みではダメなのだろうか?

 ドラッカーは1つの回答として、民間企業が様々な年金基金を創設すれば、健全な競争が生じ、パフォーマンスの高い企業年金が選別されるとしている。
 多元的であることが実験を可能にした。実験によって、いろいろな方法が試され、その中からもっとも適切な方法が生き残り、発展してきた。それがすなわち、年金基金の運用を投資メカニズムを通じて行なうというGMの方法であった。
 ところが、アメリカ中の企業に投資するという方針に従えば、投資ポートフォリオにはそれほどバラエティはないはずだ。多元主義に基づく実験アプローチは、年金基金によって投資ポートフォリオに違いがあることを前提としている。ある年金基金は高いパフォーマンスを上げる一方で、運用実績が芳しくなく解散に追い込まれる年金基金もある。財テク目的の投資信託などであればそれでもよいだろう。しかし、年金は退職後の生活を支える絶対不可欠な資金である。それを高いリスクにさらすのは、あまり健全ではないように思える。

 年金基金はリスクを幅広く分散させることで、ぼろ儲けすることはないけれども、大負けすることもないという道を選択したはずだ。別の言い方をすれば、パフォーマンスを長期的に平均すると、アメリカの経済成長率程度の運用実績で満足することを選んだ、ということだ。そうすれば、アメリカ国民は、飛び抜けて高い年金はもらえないものの、皆がそれなりの年金を受け取れる。これこそ、社会主義という言葉にふさわしいのではないだろうか?

 アメリカの企業年金の実態に関する本として、ロジャー・ローウェンスタインの『なぜGMは転落したのか―アメリカ年金制度の罠』(日本経済新聞出版社、2009年)がある。同書は、GMが経営破綻し国有化された2009年に出版されたものであるためか、GMの話が中心であるかのようなタイトルになっている。しかし実際には、GM以外にも、ニューヨーク市やサンディエゴ市が年金基金によって破滅に追い込まれた様子が描かれている。

なぜGMは転落したのか―アメリカ年金制度の罠なぜGMは転落したのか―アメリカ年金制度の罠
ロジャー ローウェンスタイン Roger Lowenstein

日本経済新聞出版社 2009-02

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 同書を読むと、労働組合が企業や市に対して無茶苦茶な要求を続けていたことが解る。最初は、年金の給付額を増やすよう要求する。給付額を増やすためには、拠出金も増やさなければならない。ところが、労働組合側は社員の拠出金増額を認めない。よって、企業側の拠出金負担だけが重くなる。さらに企業にとって悪いことがある。ある年の給付額は、その年までの拠出金の運用資産を原資としている。ところが、ある年に給付金が上がると、企業はその年までの運用資産では足りない分を充当する必要がある。これもまた、企業にとって重い負担となった。

 (続く)


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