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『正論』2018年9月号『「生き残れ 日本」トランプに進むべき道を示せ/表現の自由』―リベラルとは何か?(錯綜する概念の整理に関する一考)
『世界』2018年8月号『セクハラ・性暴力を許さない社会へ』―セクハラは脳の病気かもしれない、他
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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京から実家のある岐阜市にUターンした中小企業診断士(コンサルタント・トレーナー)。ほとんど書評ブログ。たまにモノローグ。双極性障害Ⅱ型を公表しながら仕事をしているのは、「双極性障害(精神障害)の人=仕事ができない、そのくせ扱いが難しい」という世間の印象を覆したいため。

 中長期的な研究分野は、
 ①日本の精神、歴史、伝統、文化に根差した戦略論を構築すること。
 ②高齢社会における新しいマネジメント(特に人材マネジメント)のあり方を確立すること。
 ③20世紀の日本企業の経営に大きな影響を与えたピーター・ドラッカーの著書を、21世紀という新しい時代の文脈の中で再解釈すること。
 ④日本人の精神の養分となっている中国古典を読み解き、21世紀の日本人が生きるための指針を導くこと。
 ⑤激動の多元的な国際社会の中で、日本のあるべき政治的ポジショニングを模索すること。

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

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2018年08月24日

『正論』2018年9月号『「生き残れ 日本」トランプに進むべき道を示せ/表現の自由』―リベラルとは何か?(錯綜する概念の整理に関する一考)


月刊正論 2018年 09月号 [雑誌]月刊正論 2018年 09月号 [雑誌]
正論編集部

日本工業新聞社 2018-08-01

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 本号の後半に「私が選ぶ戦後リベラル砦の『三悪人』」という特集があり、武田邦彦氏、西尾幹二氏、屋山太郎氏ら10人が3人ずつ戦後のリベラルを挙げて、その主張を批判していた。

 ただ、この「リベラル」という言葉は曲者である。八木秀次氏が解説しているように、欧州においては、伝統的にはリベラルと言えば自由主義のことであり、実は保守主義と親和性が高い。無制限な自由ではなく、秩序や伝統に裏づけられた自由を意味する。一方、アメリカのリベラルは、大きな政府を求め、自由よりも平等や多様性を重視する。いわゆる左派の主張である。日本のリベラルはアメリカの考えに近いが、元々の社会主義・共産主義を引きずった変種である。

 稚拙ながら、私なりにリベラルの概念を、私の大好きな(苦笑)マトリクス図で整理してみた。「大きな政府を重視するか、小さな政府を重視するか?」と「自由を重視するか、平等を重視するか?」という2軸でマトリクスを作成すると、4つのタイプに分けられる。

リベラリズム

 まず、右上は「小さな政府と平等を重視する」社会主義・全体主義である(私は両者を同一視している)。正確に言えば、社会主義は究極的には世界共同体の実現を目指すから、政府すら不要とする。本ブログで何度も書いてきたが、その起源は啓蒙主義に求められる。啓蒙主義時代には理神論という考え方が登場した。唯一絶対の神は世界の創造には携わる反面、その後のことは人間の理性に任せるというものである。中世までは、普遍的なものというと神の世界、つまりあちら側の世界にあったのに対し、近代の理神論によって、普遍的なものはこちら側の世界に移行した。これは、人間が神と同じく完全無欠な理性を持つことを意味する。

 誰もが神と同じ理性を持つのだから、人々は皆同じ、平等である。1人が全体に等しい。よって、私有財産は否定され、財産は全人類の共有となる。また、政治的な意思決定に関しても、全世界中の人が完全な理性に従って同じ考えを持っているわけであり、民主主義であっても独裁であっても同じ結果になる。人間の理性は生まれながらにして完成していると考えられるため、その理性に立脚する社会も既に完成しているものとされる。したがって、人間が自由を発揮して社会を改変するという余地はほとんどない。この点で、自由よりも平等の方が重視されていると言える。これが、私の考える社会主義・全体主義である。

 生まれた時点で理性が完成しているという立場は、教育による知性の進展を否定する。だから、社会主義国家ではしばしば知識人・教育層が迫害・虐殺される。生まれた時点での理性を完成形と見る場合、一番劣っている理性であっても完成していると認めなければならない。そして、そういう理性を持つ人間にできる仕事と言えば、原始的で素朴な農業である。だから、武者小路実篤は「新しき村」という農業共産社会を作ったし、ソ連ではソフホーズ(国営農場)とコルホーズ(集団農場)が設置され、戦後の中国では毛沢東が大躍進政策を展開した。しかし、新しき村の構想は結局ユートピアに終わり、ソ連の政策は多数の農民を生活苦に陥れ、中国の大躍進政策では3,000万~4,000万人もの餓死者を出した。

 ソ連や中国の共産主義者を焦らせたのは、自国が人間の理性の絶対性を信じ、社会主義の理想を実現しているはずなのに、アメリカなどならず者の資本主義国が技術で自国を追い抜いているという現実であった。だから、ソ連や中国は、多くの国民を農業に張りつけておいて、彼らを搾取し、得られた利益を科学技術に投資するという矛盾した行動を取るようになった。こうした矛盾は、社会主義の発展段階説でより正当化されたように思える。発展段階説によれば、社会は原始共産制社会⇒古代奴隷制社会⇒封建制社会⇒絶対主義⇒ブルジョア革命⇒近代資本主義社会⇒プロレタリア革命⇒共産主義社会⇒社会主義社会へと順番に発展する。社会主義と言えば、既に見たように本質的には原始共産社会であるものの、途中から科学技術の発展を含めて真の社会主義国家を樹立しようという方針に転換されたと考えられる。

 もう1つ、社会主義者を悩ませた矛盾が、寿命という問題である。創造主の神には寿命はないが、実際の人間には寿命がある。だが、元々、人間が生まれた時点で理性も社会も完成しているという立場に立てば、時間の流れというものはあり得ないことになる。過去も未来も存在しない。あるのは現在だけである。そして、現在というのは一瞬にすぎないから、人間は早く死ぬべきという歪な結論が導かれる。ただし、生と死は連環していて、死んだ後直ちに再び生を受けてこの世に誕生する。そして、発展段階説に沿った理想的な社会主義社会を実現するために、永遠に革命を繰り返す。これが、ニーチェの言う永遠回帰である。

 右下は「大きな政府と平等を重視する」福祉国家であり、北欧に多く見られる。社会主義・全体主義においては、最も能力が劣る者に他の人間を合わせるという形で平等が実現されるのに対し、福祉国家では、持てる者から持たざる者へと富の再配分が行われることで平等が実現されるという違いがある。富の再配分は非常に複雑なプロセスであるため、その営みを担う政府は必然的に大きくなる。また、せっかく自由に働いて多くの富を得ても、再配分によってその富の大半を政府に取られてしまうことを考えると、自由は平等よりも劣位に置かれていると言える。

 本号の特集で興味深かったのは、山口真由氏と屋山太郎氏がともに田中角栄をリベラルの悪人として挙げていることである(山口氏はさらに、田中角栄をモデルとして公共事業を展開した竹下登をリベラルの悪人としている。また、八幡和郎氏は、田中角栄の弟子である小沢一郎氏をリベラルの悪人に挙げている)。つまり、自民党と言えども、リベラルとは無縁ではないのだ。田中角栄は、自身がまとめた「日本列島改造計画」に従って、日本全土に金をばらまき、各地で大規模な公共工事を行った。これも一種の再配分政策であると言える。だが、金の集まる権力は必ず腐敗するというのが古代からの政治の鉄則である。田中角栄も例外ではなかった。

 この点、巨額の資金の再配分を行っている北欧諸国が、いずれも「腐敗認識指数ランキング」で上位に入っているのは不思議である。2015年のランキングを見ると、デンマークが1位、フィンランドが2位、スウェーデンが3位、ノルウェーが5位である(ちなみに、日本は18位である)。なぜ、田中角栄は腐敗したのに、北欧諸国は腐敗しないのだろうか?人間の理性は不完全であり、失敗もするし私欲にも溺れると考える日本人と、啓蒙主義を経験したヨーロッパ人との違いで説明するのはあまりに粗雑であろう。なぜなら、同じように啓蒙主義にルーツを持つ社会主義国家では、中国やベトナムを見れば解るように、権力がひどく腐敗しているからである。

 左上は「小さな政府と自由を重視する」という象限であり、アメリカでは1990年代から、日本では2000年代に入ってから有力となったネオリベラリズムを指す。企業はグローバル化を進め、世界中で利益を上げる。それが可能な大企業と、それができないドメスティックな中小企業の間では、業績に大きな格差が生じる。その結果、国民の間の貧富の差が拡大する。グローバル企業は、国家に対して企業活動を邪魔しないでくれと言う。工場は人件費が安い国に移す。税金も、税率が安い国で納める。ここにおいて、グローバリズムとナショナリズムは対立する。

 ただ、私は最近この流れに変化を感じている。グローバリゼーションと言っても、カントが描いたような世界平和の実現を目指しているわけではない。ある国に本社を置く企業が、自社の事業や製品・サービスを全世界で受け入れてもらえるようにすることがグローバリゼーションである。よって、グローバル企業は、本社を置く国家による支援を必要とするようになっている。政府に対しては過度な機能を期待していないものの、自社の世界展開を後押しする政治力は要求している。つまり、グローバリズムとナショナリズムは手を結ぶようになった。

 最後に、左下の「大きな政府と自由を重視する」のが伝統的な(欧州的な)リベラリズムである。日本が理想とするべきも、右下ではなくこの象限である。この象限では、人々の自由な発想による多様性が尊重される。これは、自然の生態系に最もよくかなった形態である。自然の生態系は多様であるから、環境変化が起きても、生物が全滅することはない。一部の生物が生き残り、そこから新たな進化によって枝分かれが生じ、再び多様性が確保される。こうして、地球全体として見れば、生物の種が保存される。右上の社会主義・全体主義のように、誰もが皆同じ理性に従って同じ考え方をしていると、外圧によって全滅するリスクがある。社会主義・全体主義は理論としては美しいのかもしれないが、生存可能性という点では落第である。

 多様な価値観は時に衝突する。その時は、まずは話し合う。「話し合い」と言うと、左派の人はすぐに「対話」という言葉を持ち出す。対話という言葉は、自分の怒りを抑えて冷静になり、相手の立場を慮って相手の考えを汲み取り、自分の考えと相手の考えを十分に擦り合わせてお互いの利益ができるだけ最大になるような道を探るべきだというソフトな印象を与える。もちろん、それができるに越したことはない。だが、現実の世界はそんなに甘くない。時には権謀術数を駆使しなければならない。誘惑、媚び諂い、あるいは威嚇、恫喝、脅迫、取引など、人間の醜い面も出る。それも含めて話し合いなのである。多様な利害が衝突する政治の世界では、こうしたことが常態化している。だから、一般人も伝統的なリベラリズムに生きるならば、こうした精神的ストレスのかかる方法に対する耐性を身につける必要がある。

 それでも考え方が合わなければ、その相手とはすっぱり縁を切ればよい。自分は認めることができないけれども、そういう考えもあるのだなという程度で収めておけばよい。右上の社会主義・全体主義では、1人が全体に等しいから、他者との関係を切ることは絶対にできない。しかし、左下の伝統的なリベラリズムでは縁切りが認められる(実際、日本には縁切り神社や縁切り寺がある)。相容れない主張も全部ひっくるめて、社会全体としては多様性を許容するのが伝統的なリベラリズムである。こうしたリベラリズムは共和制でも実現可能である。日本の場合は、「和」を象徴とする天皇を国家の戴に置くことで、伝統的なリベラリズムを表現している。

 もちろん、相手と縁を切ろうとしているのに、相手が物理的に自分を攻撃しようとしてくることもあるだろう。これは社会の安定を保つために何としてでも防がなければならない。そこで、法が必要となる。左下の象限で政府が大きくなるのは、こうした種々の法律を制定・運用する機構(立法府や行政府)を持たなければならないからである。

 一般的に左派と言えば、人々の格差を敬遠し平等を重視するか、国家権力を嫌い小さな政府を重視するかのどちらか、あるいはその両方である。よって、上記のマトリクス図のうち、左下を除く3つの象限が左派にあたる。昔、小泉純一郎政権は左派だと指摘した知り合いの中小企業診断士がいたが、彼の主張は今になって理解することができる。最近、小泉氏が突然脱原発派に転じたのは、小泉氏が本来的には左派であり、環境問題という外部不経済を再配分によって解決しようとする福祉国家とも親和性が高いと考えれば納得がいく。右派はわずかに左下に残るだけであり、政治思想的に見るとかなり分が悪い。

 ただし、右派は左派と完全に対立するべきでもない。右上の社会主義・全体主義は破壊的な思想なので除外するとしても、福祉国家とネオリベラリズムからは学ぶことができることもある。福祉国家は、強者から弱者へと富を再配分するために、膨大な法を策定している。伝統的なリベラリズムも法を策定するものの、元々人間の理性は不完全であるという前提に立っているため、法律も不完全である可能性がある。つまり、弱者を強者から守る法が不十分であるかもしれない。その時には、福祉国家が望ましい法律のあり方を教えてくれる。

 とはいえ、福祉国家に倣って法律を無制限に増やしていくと、政府の役割があまりにも大きくなりすぎる恐れがある。また、福祉国家の法律は平等を原則としているため、杓子定規に平等原則を貫けば、伝統的なリベラリズムにおける自由が制約されてしまう。そこで、ネオリベラリズムの出番である。ネオリベラリズムは小さな政府を志向しており、不要な法律は規制改革の名の下に葬り去る。伝統的なリベラリズムが抱えている法律について、自由に干渉しすぎる法律はどれなのか、ネオリベラリズムに指摘してもらうとよい。このようにして、右派=伝統的なリベラリズムは、左派(ただし、社会主義・全体主義を除く)と協調関係を築くことができるだろう。


2018年07月31日

『世界』2018年8月号『セクハラ・性暴力を許さない社会へ』―セクハラは脳の病気かもしれない、他


世界 2018年 08 月号 [雑誌]世界 2018年 08 月号 [雑誌]

岩波書店 2018-07-06

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 官僚によるセクハラ問題や世界的なMeToo運動の広がりを受けての特集である。
 性的な問題という意味では、例えば不倫に対して日本社会は非常に厳しい。芸能人の不倫に対しても、マスコミ報道も大きくバッシングする。道徳に対しては針が振れるのですが、人権については針は振れない。人権問題として捉えず道徳の範囲で捉えるから、バッシングされる。しかし、不倫はともかくもお互い合意してのことですが、セクハラは相手が合意もしていないのに性的な関係を強要しているわけです。最悪の人権侵害であるにもかかわらず、「男とはそういうものだから」となだめられたり、女性の方にもスキがあった、落ち度があった、という話にすらなる。この決定的な人権感覚の欠如はいったいどこから来ているのか。それを理解することから始めなければ、セクハラ問題に関して日本は先に進めない。
(金子雅臣「セクハラという『男性問題』」)
 上記の文章をはじめ、本号の特集ではセクハラを「女性問題」ではなく「男性問題」としてとらえ、加害者である男性を徹底的に糾弾する文章が続く(実際には、女性から男性に対するセクハラや同性間のセクハラもあるが、セクハラの9割は男性から女性に対して行われているという本号の記述に従って、以降は男性から女性に対するセクハラに焦点を絞って話を進める)。

 本号の特集は「セクハラ・性暴力を許さない社会へ」となっており、セクハラと性暴力が一緒に論じられている。性暴力に関しては法務省が発表している『犯罪白書』に統計があり、Wezzy「性犯罪加害者は異常者ではなく『普通の働く人』であることが多い」によると、「昭和60年~平成26年(1985-2014)の30年間ずっと、強姦、強制わいせつの検挙人員は、20代と30代の者が全体の5~6割を占めてい」るという。強姦、強制わいせつは、女性をもはや恋愛対象としてではなく、支配の対象として見なしている犯罪である。言い換えれば、被害者を人間ではなく快楽のための道具として扱っている。一方、セクハラについては、セクハラ自体が未だ明確に定義されていないこともあって被害者・加害者に関する詳細なデータが存在しない。

 厚生労働省によると、セクハラには「対価型」と「環境型」の2種類がある。対価型とは、女性労働者の意に反する性的な言動を行い、当該労働者の対応によって、当人が解雇、降格、減給など、不利益を受けることである。環境型とは、女性労働者の意に反する性的な言動により、労働者の就業環境が不快なものとなったため、能力の発揮に重大な悪影響が生じるなど、その労働者が就業する上で見過ごせない程度の支障が生じることを指す。セクハラの加害者の年齢に関する統計を私は発見できなかったのだが、性暴力とは異なり、40~50代の男性が最も多いのではないかと推測する。そして、一般には、こうした加害男性は、組織内で一定の地位に就いており、権力を駆使してセクハラを働くと言われる(対価型セクハラにつながりやすい)。

 しかし、これもまた推測の域を出ないものの、実はセクハラというのは、福田元財務事務次官のように権力のある者が見返りを求めるケースというのは案外少なくて、一定のポストに就いていない一般の中高年男性が、あるいは一定のポストに就いている中高年男性であっても、女性に対して性的な言動を取ることで、女性に対する支配欲を手っ取り早く満たそうとしているケースが多いのではないかと思う。「キスをさせて」、「抱かせて」、「胸を触らせて」などと言う男性には、本当にそれを実現させる意思はない(実際にキスをしたり胸を触ったりしたら性犯罪である)。「君の服装はセクシーだね」、「旦那さんとは上手くいっているのか?」、「どんな体位が好きなのか?」と尋ねる男性も、女性を抱きたいとか旦那から女性を略奪したいと考えているわけではない。こうした発言によって女性が困惑する姿を見ることが男性の快楽なのである。

 仮に、男性が相手女性に好意を抱いており、真剣に交際を検討しているのならば、女性を困惑させるようなことを意図するはずがない。男性が敢えて女性を困惑させるのは、女性が困惑したという事実が、男性側の影響力が及んだことを示す証左であるからだ。ここに、性犯罪とセクハラの共通点を見出すことができる。いずれも、女性を恋愛対象としてではなく、支配の対象として、快楽のための道具としてとらえているということである。つまり、女性に対する認知が歪んでいる。ということは、性犯罪やセクハラは、脳の病気である可能性がある。

 実際、性犯罪に関しては、「前頭側頭型認知症」という病気に注目が集まっている。『世界』2018年4月号には次のように書かれている。
 この病気は、よく知られているアルツハイマー型認知症の特徴である記憶障害が初期には起こらず、社会的逸脱行為が主たる症状として表れるものです。たとえば40~50代の万引きなどの背景にも、この病気があり得ます。(中略)あるいは男性の場合、比較的社会的地位のある人が、盗撮をしたり性器を露出したり、地位に見合わない事件を起こしてニュースになることが度々ありますが、これも同様です。このように衝動のコントロールができなくなることが、性犯罪の原因になることが多々あるのです。
(福井裕輝「”性犯罪は繰り返す”を変えるため」)
世界 2018年 04 月号 [雑誌]世界 2018年 04 月号 [雑誌]

岩波書店 2018-03-08

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 福井氏によると、性犯罪者は海外では「パラフィリア(性嗜好障害)」という病気として認識されているという。だから、認知行動療法や薬物療法を受けることができる。一方、日本ではそもそも性犯罪が病気であるという認識が薄く、仮に病気と診断されても保険適用外となっており、厚生労働省の体質に問題があると福井氏は批判している。日本においては、まずは性犯罪の方が病気であるという認識が確立されることが先決であろうが、セクハラについても、その発生メカニズムを解明し、病気であるか否かを判断する研究が待たれるところである。

 ここからが私の主張の核心になる。仮にセクハラが性犯罪と同じく前頭側頭型認知症などの脳の病気であるならば、加害者の救済策を検討しなければならない。左派は普段、加害者にも人権があると主張する。日本では加害者の人権が尊重されすぎており、逆に被害者の人権がないがしろにされていると批判されるぐらいだ(例えば、国際派日本人養成講座「Common Sense: 加害者天国、被害者地獄」〔2008年6月15日〕を参照)。左派が自らの主張を貫き通すならば、また冒頭の引用分にあるように、セクハラを人権問題と位置づけるならば、加害者の人権も保護する必要があると言わなければおかしい。一般の事件に関しては、客観的な立場から被害者と加害者の人権のバランスを取ろうとするのに、自らがセクハラの当事者となった途端に、被害者としての一面しか強調しないのは、単なる狂気である(誤解していただきたくないが、私は決してセクハラを正当化しようとしているわけではない)。

 セクハラ・性犯罪の問題からは離れるものの、本号にはもう1か所、左派の矛盾を見て取ることができた。カンボジアでは現在、フン・セン首相による権威主義化が進んでいる。カンボジアには政府与党の人民党と、野党の救国党がある。この救国党の党首であるケム・ソカー氏が2017年8月3日、「国家転覆罪」で逮捕された。同氏が数年前にオーストラリアで受けたインタビューの中で、「アメリカとともに現政権を転覆する」と発言したことが容疑とされている。そして、
 「党首が重罪で逮捕された政党は解散させられる」という(※政党法・選挙法の)条項を適用し、11月16日、最高裁は救国党解党の決定を下し、野党幹部政治家118人の政治活動を5年間にわたって禁じた。その結果、300万人もの有権者からの信託を受けた救国党の議席はすべて消え、その55席は他の政党に振り分けられた。
(熊岡路矢「カンボジアで何が起きているか」)
 カンボジアでは7月29日に総選挙が行われたが、救国党解党によって人民党に対抗する勢力が事実上消えたため、人民党が議会の議席をほとんど総取りするという異常現象が起きた。欧米諸国は公正な選挙ではないとして、カンボジアを非難している。

 フン・セン氏による権威主義化はこれだけにとどまらない。
 現在、カンボジア政府・与党は、保健や教育などの地域開発、福祉型の活動は監視しながらも許容する一方、人権、環境、土地問題、選挙監視など、政府と緊張関係になる分野のNGOには徹底的に圧力を加えている。(同上)
 カンボジアは、太平洋戦争が終結した後、真っ先に対日賠償請求権を放棄してくれた国である。それ以降長年にわたり、日本はカンボジアに対して様々な支援を行ってきた。あの悪名高いポル・ポトが政権を握っていた共産主義時代にも、関係を断つことはなかった。しかし、最近のカンボジアの情勢を受けて、熊岡氏は次のように述べている。
 日本政府・外務省の開発協力大綱は、重点政策の中に、普遍的価値の共有、平和で安全な社会の共有という項目を設け、「自由、民主主義、基本的人権の尊重、法の支配といった普遍的価値の共有や平和で安定し、安全な社会の実現のための支援を行う」と謳っている。ここ数年のカンボジアの現状は、この規範から明らかに逸脱している。カンボジアへの支援は停止、あるいは検証・再考すべきである。(同上)
 日本がカンボジアから手を引けば、中国の影響力が強くなることが懸念される。中国は日本や欧米諸国と違って、内政にはほとんど干渉しない。熊岡氏は、カンボジアが中国寄りになったとしても、カンボジアへの支援の停止を検討するべきだと主張する。

 だが、これは左派の主張としてはおかしい。というのも、カンボジアよりもはるかに権威主義的(もはや全体主義的と言ってよい)であり、普遍的価値観を蹂躙する中国に対する日本の支援は批判の対象となっていないからである。同じく権威主義的(全体主義的)な北朝鮮に関しても、統一に向けて日本が積極的に支援を行うべきだとしている(北朝鮮に対する支援には、実は私も賛成している。以前の記事「『正論』2018年7月号『平和のイカサマ』―「利より義」で日本と朝鮮統一国家の関係を改善できるか壮大な実験を行うことになるだろう」を参照)。それなのに、現在のカンボジアへの支援はダメだと言う。明らかに左派の中にはダブルスタンダードが存在する。中国や北朝鮮の支援はOKでカンボジアの支援はNGというのは、まるで社会主義国であれば支援が認められると言っているに等しい。左派は、日本ではもはや夢となった社会主義の亡霊を、未だに中国や北朝鮮の中に追いかけていると言われても仕方がないであろう。

 大国にはパワーがあるから、少々の小国との関係を断ち切ったとしても大してダメージは受けない。だから、アメリカは簡単にイランとの核合意を反故にできる。ところが、小国である日本が、この国は好きだからつき合う、あの国は嫌いだからつき合わないと選り好みをしていては、相手国の間に不信の種を植えつけることになる。やがてその種は激しい憎悪へと育ち、日本に対して必ず負のエネルギーとして向かってくる。小国日本にはその負のエネルギーに耐えられるパワーがない(今までの北朝鮮を見よ)。だから、嫌いな国であってもつき合わなければならない。最初から不信を決め込むのではなく、信頼できる部分を探す。そして、その分野において、日本は支援を行う。その支援を通じて培われたパワーを行使して、嫌いな国の嫌いな部分を少しずつ改善するように働きかける。これが、小国日本に求められる外交であると考える。


2018年02月16日

『世界』2018年2月号『反貧困の政策論』―貧困を解決するには行政がもっと市場に介入して消費者にお金を使わせればよい、他


世界 2018年 02 月号 [雑誌]世界 2018年 02 月号 [雑誌]

岩波書店 2018-01-06

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 (1)
 アメリカの報復の意志は、なぜ確からしいのか。それは、「同盟国である日本が攻撃されて黙っているわけにはいかないはず」だからだ。ただし、報復が北朝鮮を滅亡させるような規模で行われるかどうかについては、状況次第というほかはない。まして、北朝鮮がアメリカ本土に到達する核能力を獲得したとすれば、アメリカが自国民への被害を甘受してまで「日本のために」報復すると考えるわけにはいかない。
(柳澤協二「米朝戦争の危機と日本の針路」)
 引用文最後の部分は、アメリカによる核の傘が破れたことを意味する。この手の主張は右派が展開することが多く、『世界』の論評記事で取り上げるのは不適切であるのだが、核戦略に対する私の無知ゆえに、この「核の傘が破れる」というのがどうも理解できない。

 現在、アメリカと中国が核兵器を保有している。中国がアメリカを核で攻撃すると、アメリカは核で中国に対して反撃してくる可能性がある。そうなれば、双方の国にとって甚大な被害が生じるから、実際には核兵器は使用されない。これを相互確証破壊戦略と言う。中国が日本などのアメリカの同盟国を核で攻撃する場合も同様で、アメリカに核で反撃されるかもしれないから、抑止力が働く。これが同盟国にとっての核の傘の意義である。ここで、中国の同盟国である北朝鮮が核を保有した場合はどうであろうか?北朝鮮がアメリカを攻撃する場合でも、日本などアメリカの同盟国を攻撃する場合でも、アメリカは北朝鮮に核で反撃する可能性がある。だから、北朝鮮は核を実際に使用することができない。つまり、核の傘は破れていないはずである。北朝鮮が核を保有するとなぜアメリカの核の傘が破れるのか、詳しい人に是非ご教示いただきたい。

 右派が「アメリカの核の傘が破れる」と指摘する時、その先には「だから日本も核武装をするべきだ」という主張が続く。核の傘の危機を叫ぶ右派には、日本にどうしても核武装をさせたい勢力と、その背後で日本に核兵器を売ろうとするアメリカの軍産複合体の存在が見え隠れする。確かに、力に対しては力で対抗するのが国際政治のセオリーである。だが、論理よりも情理が優先する日本は、以前の記事「『致知』2018年2月号『活機応変』―小国は国内を長期にわたって分裂させてはならない。特に日本の場合は。」でも書いたように、核を保有することはできない。

 ここで、改めて北朝鮮をめぐって想定されるシナリオを整理してみたいと思う。
 <Ⅰ.北朝鮮が先制攻撃する場合>
 ①北朝鮮がアメリカに向けてICBMを発射する場合
 ⇒アメリカが核で反撃してくる可能性があるため、実際には実行されない。
 ②北朝鮮がアメリカの同盟国である日本や韓国に向けて核ミサイルを発射する場合
 ⇒この場合もアメリカが核で反撃してくる可能性があるため、実際には実行されない。
 ③北朝鮮がアメリカに対して通常の武力攻撃をする場合
 ⇒北朝鮮はアメリカの付近に軍隊を保有していないので、このシナリオは成り立たない。
 ④北朝鮮がアメリカの同盟国である日本や韓国に対して通常の武力攻撃をする場合
 ⇒韓国がアメリカ側につくか、アメリカを裏切るかによって変わる。
  ⅰ)韓国がアメリカ側につく場合
  ⇒構図的には、アメリカ・韓国・日本VS北朝鮮・中国・ロシアとなるが、まず日本は戦争に参加できない。また、ロシアは北朝鮮との関係が中国のそれに比べると弱いので、実際に表舞台に出てくるかどうか不明である。アメリカ・韓国の軍事力は、北朝鮮・中国の軍事力を凌駕しているから、アメリカ・韓国が勝利し、北朝鮮は崩壊する。ただ、その跡地に親米親韓政権ができるかというと、そうとは限らない。資本主義のラインが北緯38度から中国国境まで北上することに中国が反発するであろうし、何よりもアメリカが新国家の建設に後ろ向きになるであろう。というのも、イラク戦争後の政権樹立と国家安定に相当苦労させられていることを知っているからだ。となると、アメリカは敗戦国の中国に親中の傀儡政権を作ることを容認することもあり得る。
  ⅱ)韓国がアメリカを裏切る場合
  ⇒構図的には、アメリカ・日本VS北朝鮮・韓国・中国・ロシアとなる。この戦いはアメリカにとって非常に不利である。アメリカが敗戦すると、北朝鮮と韓国は統一国家を樹立するであろう。この統一国家は、韓国の巨大な資金を北朝鮮の核に投資するから、朝鮮半島に凶悪な核保有国家が誕生することを意味する。日本にとってはまさに悪夢である。

 ただし、北朝鮮が先制攻撃をする可能性はそもそも限りなく低いと思われる。北朝鮮がアメリカを挑発する時、必ず、「アメリカが攻撃をしてくるならば北朝鮮も黙ってはいない」という言い方をする。逆に言えば、北朝鮮から先制攻撃をする意思はないと考えてよい。後述するように、北朝鮮が核開発をする目的は、何もアメリカと戦争をしたいからではなく、アメリカを対話のテーブルに引きずり出して、南北統一の障害となっている米韓同盟を放棄させることであるからだ。

 <Ⅱ.アメリカが先制攻撃をする場合>
 ①アメリカが北朝鮮に向けてICBMを発射する場合
 ⇒北朝鮮の核ミサイルは60ほどであると見積もられている。この程度であればアメリカが全ての核ミサイルを破壊できるかもしれないが、100%成功する確証はない。もし撃ち漏らしがあれば、北朝鮮が核で反撃してくる恐れがある。アメリカ本土を核で攻撃されることに極度の恐怖を感じているアメリカは、この作戦に踏み切ることができない。
 ②アメリカが北朝鮮に対して通常の武力攻撃をする場合
 ⇒これはⅠ④と同じシナリオになる。アメリカの勝利は、韓国の態度にかかっているが、私は韓国がアメリカを裏切ると思う。近年の韓国は左傾化が進んでおり、保守の朴槿恵前大統領を辞任に追いやったロウソク革命では、親北左派の活動家が多数関与していたと報告されている。その活動の成果が、ウルトラ左派の文在寅大統領の誕生として結実したわけだ。文大統領は、アメリカに要請されてTHAADミサイルを配備した時、中国の猛反発を受けてあっさりと譲歩してしまった。また、国連が北朝鮮に対する制裁を決議を下した際も、北朝鮮に資金的援助をするほど、筋金入りの親北派である。文大統領の本音は、早く南北統一を実現して民族の分断を解消し、今までそうであったように、中国に属するという形を作りたいということだろう。

 アメリカもこのことは当然知っているであろうから、北朝鮮を攻撃する動機が減退する。結局のところ、北朝鮮はアメリカに対して先制攻撃をする意思がなく、アメリカも北朝鮮を攻撃するメリットがないことから、実際には両者の軍事衝突が起きる可能性は限りなく低いと思われる。

 <Ⅲ.米朝対話が成立する場合>
 北朝鮮はまず、アメリカ本土に届くICBMの保有をアメリカに認めさせようとするだろう。もちろん、実際にこのICBMが使われる可能性は前述のように低いわけであるが、北朝鮮の非核化を目指すアメリカはこの要求を呑まない。ただし、アメリカ国内では北朝鮮の核容認論も持ち上がっており、アメリカ本土に届かない核ミサイルであれば保有を認めてもよいという意見がある。しかし、これでは今度は北朝鮮が納得しない。というのも、元々北朝鮮がICBMを開発したのは、北朝鮮がICBMでアメリカを牽制しながら韓国を武力併合するためであるからだ。

 アメリカの要求はあくまでも北朝鮮の核放棄である。当然、北朝鮮は見返りを求める。具体的には米韓合同軍事演習の中止、さらには在韓米軍の撤退である。つまり、事実上の米韓同盟の破棄である。韓国からアメリカの脅威が消えれば、北朝鮮は韓国の併合へと動き出すだろう。また、左傾化した韓国も喜んで北朝鮮と一緒になるに違いない。新しい朝鮮半島の国家は社会主義国となる。アメリカとしては、冷戦の遺産を朝鮮半島という小さな領域に閉じ込めておく方が都合がよいのだが、それよりも北朝鮮の非核化が優先度が高いとなれば、また、左傾化した韓国がアメリカの言うことを聞かなくなっている現状を踏まえれば、韓国を捨てる可能性は高い。

 <Ⅳ.南北対話が成立する場合>
 これは対話において韓国がアメリカを裏切り、アメリカを出し抜いて北朝鮮と交渉を進めてしまう場合である。韓国が北朝鮮の核の脅威から逃れるためには、北朝鮮と早く統一をしてしまえばよい。Ⅲで書いたように、左傾化した今の韓国であれば十分に考えられることである。当然のことながら、米韓同盟は破棄される。アメリカは激怒するに違いないが、長年夢見た南北統一を実現させるためであれば、アメリカを無視することぐらいたやすいことである。この結果、朝鮮半島には、凶悪な核兵器を保有した社会主義国家が誕生する。

 可能性としては、Ⅲが最も高く、その次にⅣが考えられる。いずれにしても、朝鮮半島には社会主義化した反日国家が誕生する。すると、冷戦の遺産は韓国対北朝鮮という構図から、日本対朝鮮半島の新国家という構図に引き継がれる。日本のような小国は、大国同士の代理戦争に巻き込まれないようにすることが存亡のカギを握る。日本は、朝鮮半島の新国家が強烈な反日でも、むやみに対立して米中の代理戦争を演じるのではなく、この国とどうにかしてつき合う方法を編み出さなければならない。本ブログでは、大国が二項対立的な発想をするのに対し、日本は二項混合的に対立を切り抜けることを得意とすると書いた。今、その真価が問われる。さらに、朝鮮半島の新国家が核保有国である場合、日本も反射的に核を保有するのではなく、唯一の被爆国としての矜持を保ちながらいかなる戦略を展開すべきか知恵を絞らなければならない。

 《参考記事》
 『正論』2017年10月号『日本は北朝鮮と戦わないのか/傲る中国』―朝鮮半島の北が資本主義国家、南が社会主義国家になる可能性?
 『致知』2017年11月号『一剣を持して起つ』―米朝対話が成立するとはアメリカが韓国を捨てることを意味する(ことを左派は解っていない)、他

 (2)今月号の特集は「反貧困の政策論」であるが、日本人が貧困になった理由は至極単純であり、消費者が「安くてよい製品・サービスを早く提供せよ」と企業に要求したからである。確かに、低価格戦略でも規模の経済をいかんなく発揮すれば労働生産性が大きくなり、労働分配率を高めることも可能であろう。しかし、大多数の企業にとって、市場からの低価格の要求は、人件費の抑制という形になって現れる。正社員の人件費をこれ以上下げることが難しいとなれば、今度は非正規社員を使うことで人件費を変動費化する。こうして、安い給料しかもらえない社員は、市場においてさらに安い製品・サービスを企業に要求する。それを受けて、企業はまた社員の給与を引き下げる。この負のスパイラルの繰り返しである。

 私は本ブログで日本の階層構造を「神⇒天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/NPO⇒学校⇒家庭」とラフスケッチしてきた。自由主義的な考え方の人から見れば、行政が市場に対して何か力を及ぼすというのは奇異に映るかもしれない。だが、行政は市場を作ることができる。例えば、道路や鉄道を通し、そこに住宅を供給すれば、商圏を形成することができる。また、補助金や規則によって、消費者が買うべき、あるいは買うべきではない製品・サービスを選別することもできる。私は、こうした行政の力を活用して、市場や消費者に対し、「少々高いけれどもよい製品・サービス」を購入するように動機づける政策が必要なのではないかと考える。

 やや文脈が異なるものの、ドイツは「社会的市場経済」という考え方を導入している。これは市場経済であるから、市場の調整メカニズムと自由競争を尊重し、市場の均衡化機能を重視する立場である。だが同時に、「市場経済」の前に置かれた「社会的」という形容詞は、市場参加者で構成する社会全体の動きに配慮するという倫理的概念である。したがって、必要となれば、政府の政策運用による市場介入も許される。言うなれば、企業や私有財産、自由貿易を擁護しつつ、労働組合の団体交渉や年金・健康保険などの社会保険といった社会政策とを組み合わせた形の資本主義である。このように、行政が市場に介入することは可能である。

 実は日本においても、消費者が安い製品を購入するように行政が介入していた時期がある。ダイエーの中内功が「流通革命」を唱えていた1960年代のことである。日本生産性本部の中に設置されていた消費者教育委員会を母体とする日本消費者協会(1961年設立)は、一般消費者に対して、「賢い主婦」とは「スーパーで安い商品を買う人」であるというキャンペーンを展開していた。高度経済成長期には物価高が深刻な問題となっており、流通革命の旗手たるスーパーは、流通の近代化を進めて、物価問題を解決する救世主と見られていたのである。当時、大規模小売店舗を規制する法律としては百貨店法があったが、通産省の官僚も、中内功に対して百貨店法の規制をかいくぐる方法を指南していたという(満薗勇『商店街はいま必要なのか―「日本型流通」の近現代史』〔講談社、2015年〕より)。

商店街はいま必要なのか 「日本型流通」の近現代史 (講談社現代新書)商店街はいま必要なのか 「日本型流通」の近現代史 (講談社現代新書)
満薗 勇

講談社 2015-07-16

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 経済産業省はこれと正反対のことをやればよい。現代において賢い消費者とは、品質を正しく評価し、高い品質に見合った対価を支払う消費者のことであると啓蒙する。すると、まず一部の金持ちの消費者が高いお金を払うようになる。そうすれば、企業は人件費を上げることができる。給料が増えた社員は、自分が消費者の立場に立った時に、今までよりも高いお金を払うようになる。これが続いていくと、業績が改善する企業が増加するとともに、高い給与を手にする社員も増えていく。こうした正のスパイラルを生み出すことが今求められている。

 ところで、「片山善博の「日本を診る」(99)「平成30年度与党税制改正大綱」から読み取れる政治の劣化」という記事で、サラリーマン(この表現が既に男尊女卑である)の給与所得控除の額を一律に減らすのは、フリーランスとの間で不公平を生むと書かれていた。だが、会社員は企業の収入からコストを引いた残りを給与として受け取っている。また、フリーランスも収入から必要経費を引いた残りを給与として受け取っている。この点では、会社員にもフリーランスにも違いはない。むしろ、給与所得控除が認められている会社員の方が優遇されていると言うこともできる。それに、フリーランスは一般の人がイメージするほど恵まれていない。フリーランス貧乏については、ブログ別館の記事「ダイアン・マルケイ『ギグ・エコノミー―人生100年時代を幸せに暮らす最強の働き方』―フリーランス中心の社会は理想とは思えない」でも書いた。

 (3)
 原発事故情報公開弁護士団は、七七一訴訟の初期段階から不開示部分と理由の対比を求め、政府側に対して、「ヴォーン・インデックス」を作成することを求めてきた。ヴォーン・インデックスとは、インカメラ審理(裁判所のみが文書等を見聞して非公開で行われる審理)の問題点に対処するためにアメリカ合衆国の裁判所にて考案された手法であり、具体的には、文書の様式や記載事項、細かな拒否の理由に分類・整理した文書のことをいう。これにより、どの文書のどの記載事項が、いかなる不開示情報に当たると判断したのかを整理できる。
(海渡双葉「吉田調書を超えて(第5回)公開されない情報」)
 福島原発事故をめぐっては、幅広い関係者にヒアリングが実施されており、ヒアリングの対象者数は772名、総聴取時間は概算で1,479時間に上るという。聴取結果書の原本は内閣官房に保管されている。政府事故調は、2011年12月26日に中間報告を、2012年7月23日に最終報告を提出して調査活動を終了した。しかし、その聴取結果は全く公開されず、調査報告書にも添付されなかった。原発事故情報公開弁護士団は、ヒアリング情報の開示を求めて、ヴォーン・インデックスの作成を政府に要求したというわけである。

 だが、今のネット社会の脅威に鑑みるに、各関係者のヒアリング内容が公開されれば、立ちどころに当該対象者がバッシングの対象となり、ヒアリングの内容から真実を究明するという本来の目的は達せられないのではないかと危惧する。自分より劣っているマヌケをあぶり出し、ホッと胸を撫で下ろす(Mr.Children「週末のコンフィデンスソング」)どころか、勢いそのマヌケを罵詈雑言で総攻撃するに違いない。これは、現代社会の閉塞感がそうさせているのだろう。こんなことを書くと、私がいきなりユートピア主義者になったのではないかと思われるかもしれないが、(2)で書いたことなどを通じて社会が豊かになり、人々の心にゆとりが生まれないと、国民がヒアリング内容を冷静に受け止めることは不可能なのではないかと感じる。



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