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『正論』2018年3月号『親北・反日・約束破り・・・/暴露本「炎と怒り」で話題沸騰』―小国・日本の知恵「二項混合」に関する試論(議論の頭出し程度)、他
『世界』2017年11月号『北朝鮮危機/誰のための働き方改革?』―「働き方改革」を「働かせ方改革」にしないための素案

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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

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2018年02月23日

『正論』2018年3月号『親北・反日・約束破り・・・/暴露本「炎と怒り」で話題沸騰』―小国・日本の知恵「二項混合」に関する試論(議論の頭出し程度)、他


月刊正論 2018年 03月号 [雑誌]月刊正論 2018年 03月号 [雑誌]
正論編集部

日本工業新聞社 2018-02-01

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 (1)
 保守系の論客と彼らがいう人たちが(実際は私も含めて国際基準ではリベラル系も多いのだが)、最近、ネットメディアなどを通じて、地上波や全国紙が扱わないようなテーマを紹介したり主張をしたら、それがあっという間に拡散して、彼ら自称リベラル派メディアによる気に入らない意見を国民に知らさないように封じ込めようという統制が取れなくなっている。(※太字下線は筆者)
(八幡和郎「朝日の抗議・提訴はリーガルハラスメントでは?」)
 一般には、リベラルと言えば左派のことを指すと思われているが、引用文の太字下線部のような注がわざわざついたのは、前月号の遠藤司「『寛容な保守』『リベラル』・・・政治理念の乱れを読み解く」の影響ではないかと考えられる。恥ずかしながら私も今まで、左派とリベラルを区別せずに使っていたので、今後は気をつけたい。同記事は、リベラル=自由主義者とは、本来は「保守」のことであると指摘している。ただし、この「保守」という言葉には注意が必要である。
 ようするにハイエクは、保守的な態度をもつ「保守主義者」を批判しているのである。保守的な態度は、体制に対する保守(※変化を恐れ、体制を維持しようとする保守)を指すものであるから、理念において「左」のそれを選び取る危険から逃れられない。体制に対する保守は、確かに社会主義と妥協し、その考え方を横取りしてきた。集産主義的信条の大部分を、受け入れてしまった。そうではない「保守」としての「リベラル」であることが、自由を守るためには必要である。そうであるからハイエクは、まぎれもない「保守」であったといえよう。
 保守が自由を好むのであれば、一切の自由を抹殺する全体主義は保守の敵である。よって、保守が右ならば、全体主義こそ左である。遠藤氏によれば、ナチスは極右ではなく極左であり、共産主義は全体主義と同根である。思えば、まだ政治学者としての活動が目立っていた頃のピーター・ドラッカーは、漸次的な改革主義こそが保守の神髄であると同時に、第2次世界大戦は、自由を全体主義から守る戦いだと主張していた。

新訳 産業人の未来―改革の原理としての保守主義 (ドラッカー選書)新訳 産業人の未来―改革の原理としての保守主義 (ドラッカー選書)
P.F. ドラッカー Peter F. Drucker

ダイヤモンド社 1998-06

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 ドラッカーは、啓蒙主義に全体主義の系譜を見て取ることができるとも述べていた。これを私なりに解釈すると次のようになる。啓蒙主義においては、唯一絶対の神に似せて、完全で自由な人間が創造された。だが、本来の自由とは他者との相違を認め、相違に基づいた扱いの差を許容することである。唯一絶対の神に似せて作られた人間は、誰もが唯一絶対の考えしか持ち得ないから、実は自由ではない。人間は1人の個人であると同時に、絶対的な全体(人類全体、世界全体)に等しい存在である。だから、政治においては民主主義と独裁が等しくなるし、経済においては財産が共有のものとされ共産主義が成立する。

 唯一絶対の神に似せて作られた人間は、生まれながらにして完全無欠である。よって、教育を施すことは害だと見なされる。また、時間の流れという概念は存在せず、現在という1点だけが意味を持つ。つまり、歴史というものが存在しない。この時間を敢えて図にするならば、直線ではなく円である。円周上の1点に有としての現在があり、残りは無である。現在という1点だけが意味を持つから、人間は生まれた後すぐに死んでいく。ただし、時間は円周上の無を一瞬のうちにぐるりとめぐって現在=有に戻り、人間は再びこの世に生を受ける。

 とはいえ、現実問題として、人間は多種多様な存在である。ここで取り得る対応には2つある。1つは人間の一切の差異を認めないという立場である。ナチスがアーリア人至上主義を掲げてユダヤ人などを虐殺したのがこれにあたる。もう1つの立場は、一切の差異を平等に認めるというものである。近年、教育の現場で過度に平等主義を演出したり、性的マイノリティーであるLGBTを社会の多数派と同等に扱うようにと主張するのがその例である。つまり、一般的に言われる極右と極左は同根異種である。いや、どちらも、人々は多様性に応じた自由の差異を享受するという保守に反して、多様性を完全に無視しようというわけだから、左であり全体主義である。

 以上を総合してみれば、ISISが過激な排外主義を掲げ、各地の歴史的遺産を破壊した理由も解るし、共産主義が知識層を迫害した経緯も理解することができる。さらに、人間が生まれながらに完全であると言っても、教育を受けなければ、せいぜいできることと言えば原始的な農業ぐらいのものであるから、共産主義が往々にして農業を重視するのもうなずける。もっとも、遠藤氏の言説に従えば、ISISは極右ではなく極左の全体主義になるだろう。

 左の全体主義者は、普通の人の眼には、ずっと革命を起こそうとしているように見える。ところが、当の本人は、現在という1点において、その一瞬の生の中で革命を目指している。その後死んで無に帰したとしても、すぐに有=生を得て再び革命を掲げる。それを普通の第三者が見れば、ずっと革命を続けているように映るわけである。しかし、革命、革新という言葉とは裏腹に、現在という1点に拘泥する左派は、ややもすると体制維持に流れる。これが、引用文中で、社会主義者は体制に対する保守と妥協すると書かれている理由である。

 現在、日本では「右」の安倍政権が全体主義化していると批判されている。しかし、本当に全体主義化しているのは「左」の方である。その筆頭が朝日新聞であろう。朝日新聞は、小川榮太郎氏が『徹底検証「森友・加計事件」―朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪』を出版したことに抗議し、賠償請求を提訴した。これに関して小川氏は次のように述べている。
 小川:大手メディアが実証的な本の著者に対して賠償を要求するという、言論封殺が今、起きています。(中略)だからこそ、日米で保守政権が協調しているチャンスに、言論界も共闘して、リベラルという名の全体主義から自由を守る戦いを前に進める必要があるのではないでしょうか。
(スティーブン・バノン、小川榮太郎、木村太郎「なぜメディアのウソを信じるのか」)
 また、麗澤大学客員教授の西岡力氏も、左派の全体主義を批判している。
 西岡:私は何年か前に人権派の高木健一弁護士から名誉毀損で民事で訴えられて、最高裁まで争って勝ちましたが、私は一貫して「意見の違いについては裁判で決めてもらうのではなく、どちらが正しいかは読者に決めてもらうものだ」と主張してきました。往々にして左派の方々は裁判所に「どちらの主張が正しいか」を決めてもらおうとしますが、これは全体主義の考え方です。違う意見が存在することが我慢できないんですね。彼らは自由体制を守ろうとはしていないのです。
(西岡力、阿比留瑠比「暗黒・韓国を生んだ朝日新聞の罪と罰」)
 我々は、左派がリベラルという言葉を口にした時、それが何を意味しているのか、本当に正しい意味で使われているのかに注意しなければならない。

 (2)
 それら(※中国の軍閥)が内訌を深めれば、日本にとって対岸の火事どころではあるまい。難民の受け入れなどといふ甘つちよろい話ではなく、日本は軍閥政府相互による恫喝と簒奪競争の対象になるであらう。さうならないためには、中国共産党の統治能力の安定こそが、日本の国益なのではないのか。すると、日本保守派は中国共産党の安定化を応援しなければならないのではないか。
(小川榮太郎「『危機』と『日本人』―『世界史』を動かす『思想』の力を手にせよ」)
 米中の対立が深まっている。日本は地政学的に西洋と東洋の間に位置し、両者の橋渡し的な役割を果たすべきだという主張は明治時代からなされていた。例えば横井小楠は、「日本は東洋と西洋の間を取り持つ世話焼き国家にならなければならない」と述べた。ただ、個人的には、小国である日本にそこまでの役割は期待できないのではないかと思う。太平洋戦争では、アジアを侵食する西洋列強に対し東洋の力を見せつけようとしたが、あえなく惨敗した。

 本ブログで何度も述べてきたが、現代の大国はアメリカ、ドイツ、ロシア、中国の4か国である。大国は二項対立的な発想で物事を見る。大きく見れば、アメリカ・ドイツとロシア・中国が対立している(細かく見れば、アメリカとドイツ、ロシアと中国も決して一枚岩ではなく、双方の間で細かい対立はある)。二項対立的な発想をする大国は、表向きは激しく相手を批判するが、本当に正面衝突してしまうと双方にとって深刻な被害が出ることを知っている。そこで、大国は周囲の小国を同盟国にし、小国に大国同士の代理戦争をやらせる。具体的には、朝鮮半島や中東がその舞台になっている。代理戦争に巻き込まれた小国は、大国の食い物にされる。

 そうならないために、小国は「二項混合」という戦略を取るべきだと私は提案してきた。これは、どちらの大国にも過度に肩入れせず、双方の大国のいいところ取りをして、独自の国家体制を構築することである。ちょうど、正面から見ると何の絵か不明だが、右から見るとある絵が浮かび上がり、左から見るとまた別の絵が浮かび上がるようなものである。米中に挟まれた日本は、正面から見るとどういう国か解りづらいけれども、右から見ればアメリカ的な要素が見え、左から見れば中国的な要素が見えるような絵を目指すべきである。

 大国には日和見主義だと映るだろう。アメリカから「日本は米中のどちらの味方なのか?」と聞かれたら「アメリカ」と答える。中国から「日本は中米のどちらの味方なのか?」と聞かれたら「中国」と答える。こうした二項混合が成熟すれば、アメリカも中国も一体日本の本音はどこにあるのかと疑心暗鬼になり、味方にするも敵にするも、やすやすとは日本に手出しができなくなる。二項混合は、二項対立的に動く大国の間で小国が生き延びるための戦略である。

 政治の世界においては、小さな政府と巨大な政府の間で、穏健な政府を目指す。二大政党制と一党独裁制の間で、多党制を目指す。ただ、現実的には今の日本で多党制を目指すと、政治屋による野合しか起こらないことが解ってきたので、かつての自民党一党優位で党内に派閥があるような疑似多党制へと戻す。そして、選挙制度も小選挙区比例代表並立制という、2つの選挙制度を単にくっつけたもの(これは二項混合とは言わない)ではなく、中選挙区制にする。小選挙区制では、1つの選挙区に各党から1人しか候補者を出せないため、その候補者は党の政策・方針に忠実に沿った主張しかできない。一方、中選挙区制では1つの選挙区に複数の候補者を出すことができるから、多様な主張を戦わせることが可能となる。

 経済の世界においては、自由主義と国家主導型の市場の間で、行政が適度に介入する市場を目指す。行政が社会的な観点から穏健に市場に介入することで、消費者の効用を高めると同時に、企業や労働者にも適正な富が行き渡るようにする。私は、ドイツの社会的市場経済という考え方が1つのヒントになるのではないかと思っている。

 社会においては、人権重視(権力からの自由)と人権無視(国家の絶対的な権力)の間で、権力の中の自由を目指す。人は生まれながらにして自由・平等であるというロック的な発想を日本は採らない。本ブログで繰り返し書いているように、日本社会は多重階層社会である。各々の日本人は、神によって与えられた能力に応じてそれぞれの階層に配置され、自らの役割を果たす。自分の持ち場で創意工夫を凝らすことこそが日本人の自由である。アメリカの自由が権力からの自由であるならば、日本の自由は全体・権力の中での自由である。福祉の面では、自助努力型の福祉と国家丸抱え型の福祉の間で、市民参加型とでも言うべき福祉を目指す。

 宗教においては、一神教と無神論(個人崇拝)の間で、多神教を選択する。現在の日本人は無宗教の人が多いが、伝統的な多神教の発想をもっと大切にしたい。神はそれぞれの人間に宿る。しかも、人によってその神は異なる。加えて、日本の神は人間のように不完全だ。このように考えると、日本人は多様性に対してもっと寛容になり、支えを必要とする人に救いの手を差し伸べることができるようになるはずだ。宗教における二項混合はやや解りにくいのだが、要するにアメリカ人には、「私は(私の中の)神を信仰している」と言い、中国人には「私はあの(素晴らしい神を宿している)人を尊敬している」と言えるようになればよい。

 教育の世界では、答えは生徒の中にあるという前提に立って教師がコーチに徹する形と、答えは教師の中にあるという前提に立って教師が一方的に生徒に教える形の中間を採って、教師と生徒による創発的学習を実現させたい。生徒も学ぶが教師も学ぶのである。現在の文部科学省の政策は、詰め込み教育と総合学習の間を振り子のように行ったり来たりしている。早く両者を統合する道を発見してほしい。これは企業や組織内の学習にもあてはまることである。

 法律の世界では、法治主義と人治主義(中国も大分法治主義に近づいたと言われるが)の間で、法解釈学の充実という道を採る。法律として明確な文言は作るが、実際の細かい運用の局面においては、必ずしも文言を杓子定規にとらえず、様々な解釈によって柔軟に対応する。これが日本のよさである。ただし、憲法に限っては、法の文言と解釈のバランスが悪くなっていると感じる。特に、9条はあまりにも無理を重ねている。よって、国の自衛権についての考えを早く明記するべきである。共産党は自衛権を書き込むと9条が空文化するなどと言うが、自衛権について何も書かれていない現行憲法から手品のように自衛権を正当化する論理を生み出している方が無茶である。自衛権について明記した上で、ではその自衛権と他の条文との関係はどうなるのか、自衛権の範囲はどこまでとするべきかを議論すればよい。

2017年11月28日

『世界』2017年11月号『北朝鮮危機/誰のための働き方改革?』―「働き方改革」を「働かせ方改革」にしないための素案


世界 2017年 11 月号 [雑誌]世界 2017年 11 月号 [雑誌]

岩波書店 2017-10-07

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 特集2は「誰のための働き方改革?」である。私は珍しく、この特集の内容には賛成を示したいと思う。「働き方改革」の柱は、大きくは①高度プロフェッショナル制度の導入、②裁量労働制の適用範囲の拡大、③残業時間の上限規制の引き上げ(特例で年720時間とし、繁忙期で月100時間未満、2~6カ月の平均で80時間)の3つである。これに女性の活躍推進やシニア人材の活用が加わるので、「働き方改革」とはつまり、日本国民全員が今以上にもっと働けという国からの命令であり、「働かせ方改革」である。少し考えればすぐに解ることだが、国民全体の労働時間が長くなれば消費に回す時間が削られ、消費が冷え込む。また、別の角度から言うと、労働力の供給が増えれば、その分物品・サービスが供給過剰となり、脱デフレの流れに逆行する。

 ここからは大雑把な議論になるが、日本人の労働時間が長いのは、日本の消費者の要求水準が「世界一」と言われるほど高く、かつ多様であるためだと考える。日本では昔から、男性が企業で働き、女性が家庭を守るという分業が成立していた。よって、消費の主体は女性であった。その女性が、企業に対して厳しく、かつてんでバラバラな要求を突きつける。日本人は真面目なので、それらの要求に応えようとする。そのため、企業で働く男性の労働時間が長くなる。

 すると、今度は長時間労働をする男性のニーズに応えるために、24時間営業のスーパーやコンビニエンスストア、長時間営業の飲食店やレジャー施設などが登場する。これらの店舗は、いつ来店するか解らない男性のために、常に店舗を開けておかなければならない。一部の顧客のためにカスタマイズする費用、一部の顧客のために営業時間を延長するコストは、本来であれば他の顧客に転嫁したいところである。ところが、財布の紐が固い日本人はそれを許さない。よって、社員は低賃金で長時間働かされる。これが日本社会のおおよその構図である。

 上記の点を念頭に置いて、私が考える「働き方改革」の素案を披露したいと思う。まだ素案段階のため、施策間の整合性が取れていない箇所がある点はご容赦いただきたい。

 ①まずは、日本人が「便利すぎる社会」を捨てることである。24時間365日コンビニが開いていなくてもよいではないか?ネットで注文した商品が翌日に届かなくてもよいではないか?そもそも、今後日本の労働力人口が減少していくというのに、いつまでも今のような便利な社会を支えることは不可能である(河合雅司『未来の年表』〔講談社、2017年〕)。日本人は「ほどほど」の生活水準で満足すればよい。そのような社会的合意が成立すれば、一部の声の大きい顧客のために追加された機能やサービス、そして、それらにかかるコストが価格に転嫁できていない機能やサービスを企業側は思い切って削減できる。これは企業の収益向上につながる。

未来の年表 人口減少日本でこれから起きること (講談社現代新書)未来の年表 人口減少日本でこれから起きること (講談社現代新書)
河合 雅司

講談社 2017-06-14

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 その意識醸成を行う役目を担うのは、私は行政だと思っている。私は本ブログでしばしば日本の多重階層構造を「神⇒天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/NPO⇒学校⇒家庭」というラフなスケッチで描いてきた。行政府から市場/社会へと矢印が伸びる、つまり行政府が市場/社会に対して何かを命じるということは、自由市場の原則からすると普通は想定されない。だが、日本の場合はあり得る、いややる必要があると私は考える。行政は消費者に対して、良心的な市民として振る舞うよう働きかける。ドイツでは「社会的市場経済」という考え方が浸透しており、国家が市場に介入して、富の再分配や社会的公正の実現を目指している(ブログ別館「高松平藏『ドイツの地方都市はなぜクリエイティブなのか―質を高めるメカニズム』―日本の理想社会を一足先に実現しているドイツ?」を参照)。同じことを日本でも行うべきであろう。

 ②現在検討されている「高度プロフェッショナル制度」は、成果を客観的に測定し、それを給与に適切に反映できるという信念が前提にある。しかし、私はそもそもこの前提が誤っていると思う。私はこれまでにコンサルティングプロジェクトなどを通じて、成果を定量的に把握する方法を模索してきた。だが、どんなに精緻な制度にしても、完全に客観的な制度にはならないことに気づいた。精緻な制度にすればするほど複雑怪奇になり、年金制度のように誰にも理解できない代物になってしまう。それに、成果給制度は以下のような問いに答えることができない。

 ・ある社員のプロジェクトは短期的には芽が出なかったものの、引き継いだ後任の社員が5年後に大きな成果を出した。だが、その成果は最初の社員の取り組みに負うところが大きい場合、この成果を最初の社員と後任の社員の間でどのように分配すればよいのか?
 ・逆に、ある社員のプロジェクトが短期的に大成功したが、数年経って企業の屋台骨を揺るがしかねないほどの危険なプロジェクトだと判明した場合、最初の社員に支払った多額の給与から、企業の損失に応じて給与の一部を返還してもらうのか?
 ・イノベーションを促進するには、失敗にも報いることが重要である。では、失敗の価値をどのように算定するのか?また、失敗の価値に相当する給与は、その失敗から教訓を得て仕事を成功させた他の社員の給与から捻出することになるが、按分の割合はどうすればよいのか?

 上記のような問題は、給与を仕事に対する対価ととらえることに端を発している。だから、見方を変えて、給与を成果給ではなく生活給としてとらえ直すべきである。この点は、マルクスが特に重視していたことでもある(こう書くと私はリベラルに転向したのではと思われるかもしれないが・・・)。生活にかかる費用は年齢とともに増加するから、結局のところ最も公平な報酬制度とは年功制である、というのが現時点での私の結論である。これは、出光佐三がかつて出光興産で実施していたことでもある(出光佐三『人間尊重七十年』〔春秋社、2016年〕)。

人間尊重七十年人間尊重七十年
出光 佐三

春秋社 2016-03-10

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企業のサブ目的

 前述した日本の多重階層構造のラフなスケッチをもう少し詳細に書くと上図のようになる(以前の記事「【ドラッカー書評(再)】『断絶の時代―いま起こっていることの本質』―「にじみ絵型」の日本、「モザイク画型」のアメリカ」を参照)。私はこの図を用いて、上の階層への「下剋上」、下の階層への「下問」、水平方向の「コラボレーション」の重要性を説いてきた。

 企業はその活動を主に学校、家庭、取引先(上図からは抜けているので修正が必要だと気づいた)、株主、金融機関に依存している。下問とは、上の階層が下の階層に対し、「あなたが自らの目的を達成し、成功するために我々が支援できることはないか?」と問うことである。下問によって下の階層が成功すれば、それは上の階層にとってもプラスとなる。企業が家庭に対して下問するというのは、家庭の目的、すなわち家計を維持し、健康な労働力を企業に送り込み、子どもを生み育てるという目的を達成するために企業としてどんな支援ができるかと問うことである。そのためには最低限、生活費を保障することが絶対条件となる。

 ③以前の記事「DHBR2017年11月号『「出る杭」を伸ばす組織』―社員の能力・価値観を出発点とする戦略立案アプローチの必要性」でも書いたが、現在の戦略立案の定石では、まずは環境分析を通じて戦略機会を発見し、次にターゲット顧客、差別化要因、戦略目標を設定し、そしてそれらを実現するためのビジネスモデルやビジネスプロセスを設計して、必要な能力を持った社員をあてがうという流れになっている。ただ、この流れに従うと、新しい戦略にフィットしない社員は昇進のチャンスを絶たれ、最悪の場合はリストラされてしまう。私自身もこの定石にすっかり慣れきってしまっているのだが、そろそろ発想の転換が必要ではないかと感じている。

 ミドル、シニア社員が昇進の機会を絶たれ、リストラの恐怖におびえている企業ほど若者にとって魅力的でないものはない。若者には、「この会社で頑張っていれば昇進の可能性がある」と思わせなければならない。ということは、企業は原則として、社員全員を昇進させる必要がある。ここでも昇進の基準は「年齢」である。というのも、成果と同様に、能力も客観的に評価するのが困難だからである。社員がある年齢に到達したら、強制的に次のポストへと昇進させる。これは典型的な年功序列制である。企業は昇進した彼らのために仕事を創出するような戦略を構想しなければならない。私は、「仕事に人を割り当てる」という言説を信じてきたのだが、今後は「人に仕事に人を割り当てる」ことが重要になるであろう。恥ずかしながら、そのためのフレームワークを私はまだ持ち合わせていないため、急いで開発しなければならない。

 ただし、ここで企業は大きなチャレンジに直面することになる。以前の記事「【ドラッカー書評(再)】『現代の経営(下)』―「雇用の維持」は企業の社会的責任か?」で簡単に試算したところ、10年で上の階層に昇進する、1人の上司は10人の部下を持つ、各階層とも10年で3割が自然退職するという前提で計算すると、企業は10年間で社員数、売上高を少なくとも7倍にしなければならないことが判明した。それを可能にする戦略をあらゆる企業に要求するのはさすがに酷であろう。だから、先ほど原則として全員を昇進させるべきだと書いたが、実際にはミドル、シニア社員の一部を削減せざるを得ない。彼らを昇進できないまま企業にとどめておくのは、若手社員にとって害以外の何物でもない。彼らは若手社員のために道を開けなければならない。

 旧ブログの記事「高齢社会のビジネス生態系に関する一考―『「競争力再生」アメリカ経済の正念場(DHBR2012年6月号)』(1)(2)(3)」でも書いたが、日本の人口動態から見て、将来的には従来型のピラミッド組織に加えて、40代・50代を底辺とし、70代・80代を頂点とする第2のピラミッド組織が登場すると予想している。後者の組織は、ミドル、シニア人材の起業によって生まれる。そこで、既存の企業は、全ての社員にポストを用意できない代わりに、ミドル、シニア人材の起業を促進するインフラを整備する。具体的には、複数の企業が資金を出し合ってファンドを形成するのも1つである。また、こうした新興企業に転職するミドル、シニア人材向けの転職支援金を捻出する保険制度を構築してもよいだろう。

 ④最近、商工中金や神戸製鋼、日産自動車の不正が明るみになって大きな社会問題になった。これらの企業に共通するのは、「厳しいノルマ」が課せられていたということである。アメリカのイノベーティブな企業が大胆な目標を掲げる経営を行っていることに触発されて、日本企業も野心的な目標を設定しているようである。ところが、スタンフォード大学のケリー・マクゴニガルは、将来の目標と現実があまりにもかけ離れていると目標達成の意欲が減退すると警告している(以前の記事「ケリー・マクゴニガル『スタンフォードの自分を変える教室』―経営に活かせそうな6つの気づき(その1~3)(その4~6)」を参照)。

 また、野心的な目標が効果的なのは、企業が急成長しており、かつ経営資源に余裕がある場合であって、成長が鈍化しており、かつ経営資源が逼迫している時に野心的な目標を立てると組織が窒息するという研究もある(シム・B・シトキン、C・チェット・ミラー、ケリー・E・シー「身の丈に合わない方法では業績不振から抜け出せない ストレッチ目標で成功する企業 失敗する企業」〔『DHBR2017年9月号』〕)。

製品・サービスの4分類(①大まかな分類)

製品・サービスの4分類(②各象限の具体例)

 「【シリーズ】現代アメリカ企業戦略論」で用いた上図に従うと、アメリカ企業は左上の<象限③>に強い。この象限はいわゆるイノベーションであり、潜在的な需要がどの程度存在するのか事前に予測することが難しい。上手くいけば全世界を制覇することができるし、世界中の人に何度も繰り返し購入させる、あるいは新しいイノベーションを次々と購入させることができる(スマホのゲームに多額のお金を課金する人、映画を何回も見る人、書籍・音楽を大量に購入する人などがいる)。よって、イノベーターは野心的な目標を設定し、その実現に向かって驀進する。

 これに対して、日本企業が強いのは右下の<象限②>である。この象限は必需品であり、人口や世帯数によって市場規模を相当程度正確に予測することができる。また、競合他社の数からして、自社がどの程度のシェアを獲得できそうかという見込みも立つ。だから、野心的な目標よりも、現実的な目標を立てる方が賢明である。しかも、顧客のニーズが顕在化しているから、企業として当たり前のことを着実に実行していれば、結果は自ずとついてくる。よって、結果に焦点を置いたマネジメントではなく、プロセスに焦点を置いたマネジメントを実施するべきである。

 そもそも、日本人は野心的な目標を理想とすることに慣れていない。日本人は理想と現実という二項対立の扱いが下手であることは、以前の記事「イザヤ・ベンダサン(山本七平)『日本人と中国人』―「南京を総攻撃するも中国に土下座するも同じ」、他」でも書いた。山本七平は陸軍に所属していた時、現場を知らない上司から、軍の物品などの数を実際の数ではなく、上司が言った数で報告するように指示されたという。陸軍には「員数を合わせる」という言葉があった。山本はこうした陸軍の文化を「員数主義」と呼んだ。欧米人でさえ野心的な目標に対しては警戒感があるのだから、日本人は目標というものをもっと慎重に扱わなければならない。

 ⑤働き方改革によって労働時間が短くなった日本人は、単に消費活動に精を出せばよいというわけではない。ピーター・ドラッカーが指摘したように、知識労働者は高等教育に戻る必要がある。社会人が大学に行くことには2つの意味がある。1つ目は、日常業務を離れて新たな視点から知識を吸収することで、企業に戻った時により創造的な仕事を行うことが可能になるということである。もう1つは、先ほど示した企業から学校(大学)への下問の説明に従うと、新しい知の創造を目的としている大学に対して、企業の社員が現場の実践的な知をフィードバックすることで、大学の研究活動を刺激することができるということである。

 大学に戻る社会人が増えると、若者の高等教育の無償化の実現につながる。以前の記事「『正論』2017年9月号『戦後72年/誰も金正恩を止めない・・・』―日本が同じように統治したのに戦後の反応が異なる韓国と台湾、他」でも書いたように、2013年の調査によると、25歳以上の大学への入学者の割合は、OECD加盟国の平均が20.6%であるのに対し、日本はたった2.7%と非常に低い。OECD並みの水準とまではいかなくとも、仮に25歳以上の大学への入学率が2.3%増えて5%になったと仮定しよう。日本の労働力人口は2016年時点で6,648万人であるから、大学に入学する社会人は約153万人増える。社会人が大学を卒業するまでに要する年数を、若者と同じく4年とすると、毎年の社会人学生は約612万人増加することになる。彼らが負担する授業料を年間50万円に設定すれば、年間の授業料収入は約3兆円上乗せされ、高等教育の無償化に必要な財源とされる3.7兆円の大部分をカバーすることができる。




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