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和辻哲郎『日本倫理思想史(1)』―日本では神が「絶対的な無」として把握され、「公」が「私」を侵食すると危ない
『魂を伝承する(『致知』2014年11月号)』―愛国心とは愛憎ないまぜの感情

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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

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2016年06月20日

和辻哲郎『日本倫理思想史(1)』―日本では神が「絶対的な無」として把握され、「公」が「私」を侵食すると危ない


日本倫理思想史(一) (岩波文庫)日本倫理思想史(一) (岩波文庫)
和辻 哲郎

岩波書店 2011-04-16

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 キリスト教圏(とくにアメリカ)では、唯一絶対の神と個の人間が直線的に結ばれるのが理想である。他方、日本の場合は神と個人の間に様々な階層が介在し、全体として社会を安定させていると本ブログでは何度か書いてきた。非常に大雑把な整理であるが、日本においては「(神?)⇒天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/NPO⇒学校⇒家族⇒個人」という階層構造が成り立つ(昔の参考記事の中には、矢印が右向きではなく左向きになっているものもあるが、上の階層から下の階層への命令・情報の流れを考慮すると、右向きの矢印が正しい)。

 《参考記事》
 加茂利男他『現代政治学(有斐閣アルマ)』―「全体主義」と「民主主義」の間の「権威主義」ももっと評価すべきではないか?
 渋沢栄一、竹内均『渋沢栄一「論語」の読み方』―階層を増やそうとする日本、減らそうとするアメリカ
 竹内洋『社会学の名著30』―「内部指向型」のアメリカ、「他人指向型」の日本、他
 『一生一事一貫(『致知』2016年2月号)』―日本人は垂直、水平、時間の3軸で他者とつながる、他
 『コーポレートガバナンス(DHBR2016年3月号)』―長期志向であるためには短期志向でなければならない、他

 まず、神は天皇に対し、理想の国家を運営するよう命じる。天皇はその命を受けて、理想の国家にふさわしい理想の国民像を明らかにし、その実現を動機づけるルールを策定するよう立法府に命じる。立法府はその命を受けて法律を策定し、行政府に対して法律の運用を命ずる。行政府は市場/社会の成員に対し、策定された法律の枠内で、理想的な国民として振る舞うように命ずる。市場/社会の成員は、理想的な国民として生きる上で必要な製品・サービスを企業/NPOに要求する。企業/NPOは、その製品・サービスを提供する際に必要不可欠な人材を育成するよう、学校に命ずる。学校は、教育が滞りなく行われるよう、家族に対し子どもを健全な状態で学校に送り込むことを要請する。家族は、個人に自らの健康を維持するよう要求する。

 これは大まかな整理であって、実態はもっと複雑である。例えば、市場/社会は、その中で人々が倫理的・道徳的な国民として行動するよう、学校に対して適切な教育を要求する。企業/NPOは、その業務を円滑に遂行するために、家族に対して健康な社員や会員を企業/NPOに送り込むように要求する。こう書くと、憲法の国民主権とは全く違うとか、市場は自由主義であって行政の求めに応じて顧客が動くわけではないとか、学校は企業に仕える僕ではないといった様々な異論が出るだろう。しかし、日本の歴史を振り返ると、「(神?)⇒天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/NPO⇒学校⇒家族⇒個人」という構造の方が私は腑に落ちる。

 さて、ここから本書の内容に入るわけだが、和辻哲郎によれば、神と天皇の世界もまたいくつかの階層に分かれているのだという。
 以上によってわれわれは、神の意義のうちに3つの層を分かつことができる。一、天皇は天つ神の御子として神聖な権威を担っている神である。二、この神聖な権威の背後には皇祖神、天つ神としての神がある。それは天皇の尊貴性の根源である。三、雨の神、風の神のような自然を支配する神がある。
 天皇は天つ神の命令に従う。だから、天皇は自ら神として祀られると同時に、神を祀る存在でもある。しかし、天皇が祀るこの天つ神には1つ面白い特徴がある。それは、その正体が最初から明らかなのではなく、命令する段階になって初めて名前が判明するということである。
 この物語において注目すべきことは、神の命令によってかかる大事が決せられるのであるにかかわらず、その神が必ずしも皇祖神のみでなく、ここで初めて名の顕われるような神々だということである。しかもそれが何神の命であるかといいうことは、きくまではわからない。従って最初神の命令の発せられる時には、不定の神々の命令として人間に与えられる。
 端的に言ってしまえば、天皇はぼんやりと神の命令を聞いていることになる。「誰に言われたのかよく解らないが、何となく上からやれと言われたからやっている」という状態は、読者の皆様も勤め先などで経験したことがあると思う。この日本特有の命令系統の曖昧さの原点を、ここに見出すことができるような気がする。さて、前述のように神が3階層に分かれるだけでなく、天つ神の中もまた階層化している。すなわち、天つ神の間にも上下関係がある。では、最上位に立つ天つ神はどのように振る舞うのであろうか?和辻は次のように指摘する。
 イザナギ・イザナミの二神は、最初の国土創造に失敗したとき、天つ神の所に帰ってそれを報告し、再び天つ神の命を請うた。その時天つ神たちは、いかなる仕方で命令を与えたか。驚くべきことに彼らは、「フトマニにうらないて」指令を与えたのである。

 占卜によって知られるのは不定の神の意志であるが、天つ神にとっての不定の神とは何であるか。天つ神の背後にはもう神々はいない。しかもこれらの神々がなお占卜を用いるとすれば、この神々の背後になお何かがなくてはならぬ。それは神ではなくしていわば不定そのものである。すなわち、最後の天つ神たちさえも不定者の現われる通路であって究極者ではない。
 最上位の天つ神さえ、何者かよく解らないものの命令を聞いているのである。これを拡張すれば、その何者かよく解らないものもまた、おそらくさらに上位に位置するもっと何者かよく解らないものの命令を聞いているに違いない。つまり、日本の階層構造を上方へずっとたどって行っても、頂点は一向に見えない。一神教の世界であれば、頂点に立つのは神である。人間など自然界のあらゆる事物は、何者かを原因としそこから生まれる。その原因をずっとたどって行くと、最後は神に行き着く。その神だけは唯一、自分自身を原因として、無から有を創造することができる。だから、神は絶対無である。これが、西欧における神学の常識である。

 しかし、日本の場合、神は決して絶対無ではない。「あるのかないのか解らない」のである。この違いは非常に大きい。この「あるのかないのか解らない」という存在に、どのような名前をつければよいのか、今の私にはいい案が思い浮かばない。
 究極者は一切の有るところの神々の根源でありつつ、それ自身いかなる神でもない。言い換えれば、神々の根源は決して神として有るものにはならないところのもの、すなわち神聖なる「無」である。それは根源的な一者を対象的に把捉しなかったということを意味する。(中略)

 絶対者を一定の神として対象化することは、実は絶対者を限定することにほかならない。それに反して絶対者を無限に流動する神聖性の母胎としてあくまでも無限定にとどめたところに、原始人の率直な、私のない、天皇の大きさがある。
 起点が不定である、神聖な無であるということは、そこからありとあらゆるものが生じる可能性を秘めていることでもある。すなわち、日本という国は国の成り立ちからして、多様性を受け入れる器を持っていたと言える。もちろん、ミクロレベルで見れば宗教的な対立もあったものの、歴史全体を通して見ると、日本は総じて他の宗教に対して寛容であった。しばしば、日本は「単一民族のモノカルチャーの国」と言われるが、私はこの説には与しない(そもそも、日本は単一民族の国ではないし、単一民族として多くの人々が想像する日本人は、DNAを解析すると様々な人種が組み合わさった雑種であることが解っている)。

 多様性を受け入れるためには、異質な他者と共存を図らなければならない。異質な他者と出会うたびに戦闘を繰り返しているようでは、さすがに我が身が持たないであろう。和辻は、古代の日本における戦争について、ある特徴を見出している。
 しかるに記紀の物語る征服戦争は、多くの場合、敵の服従によって終わるものである。しかも、服従した敵は奴隷とせられるのではない。これをバビロニアやアッシリアのあの残虐をきわめた戦争と比較すれば、いうまでもないことであるが、ギリシアの古伝説に見られる殲滅戦争と比較してさえも、その特徴はきわめて明白であろう。従ってここには深刻な敵対感情や残虐な復讐は語られていない。
 出雲の国譲りが極めて平和的になされたことは有名である。当時の大和朝廷と出雲国の関係は、西洋であれば戦闘が起きても全く不思議ではない状態であった。ところが、出雲国からは武器が出土しておらず、記紀にも戦闘に関する記述はない。当時最強であった出雲国の併合でさえ”話し合い”によって行われたわけであるから、それよりも小国に対しては武力を用いる必要など全くなかった。日本という国は、各国の協議によって何となくでき上がったという、極めて不思議な国である(以前の記事「 竹田恒泰『日本人はなぜ日本のことを知らないのか』―よくも悪くも「何となく、何とかしてしまう」のが日本人」を参照)。

製品・サービスの4分類(修正)

 またこの図を使うことをご容赦いただきたい(図の説明は、以前の記事「森本あんり『反知性主義―アメリカが生んだ「熱病」の正体』―私のアメリカ企業戦略論は反知性主義で大体説明がついた、他」などを参照。繰り返しになるが、この図は未完成である)。

 アメリカ企業は左上の象限に強い。一方、日本企業が強いのは右下の象限であり、また左下の象限にも多くの企業が属する。左上の象限では、イノベーターが競合他社を徹底的に攻撃し、世界市場の制圧を目指す。これに対して、左下の象限では様々な業態の企業が手を組み、相乗効果で魅力を上げるという戦略がしばしば採用される。百貨店や商店街などはその典型である。最近は、ユニクロがビックカメラやニトリとコラボした店舗を出すなど、異業種の大企業同士の連携も見られる。また、例えばラーメン街のように、敢えて競合他社同士が密集するケースもある。各店舗が腕を競い合えば、結果的に顧客への価値が高まり、集客効果も期待できる。

 日本企業が強い右下の象限では、競合他社はライバルであると同時に、共同開発の重要なパートナーであることが多い。自動車業界はそれが顕著であり、各メーカーの関係を図示することが難しいぐらい、関係が複雑である。中小製造業は、それぞれ違う親会社向けに仕事をしていながら、稼働率を平準化するためにお互いに仕事を融通し合ったり、技術不足で悩んでいる他社に社員を派遣して仕事を手伝ったりすることがある。まだ十分に調べ切れていないが、右下の他の業界でも、競合他社同士の連携が見られるのではないかという仮説を持っている。

 以上のように、日本では異質(それが自分と競合する相手であっても)に対して寛容である。その起源は、和辻が指摘するように、記紀に求められるのかもしれない。もちろん、日本でも戦国時代はあったし、村八分のような排他的な行動があることは承知している。この点も含めて、全体としてどのように整合の取れた説明をするべきなのかは、私にとって今後の課題である。

 何となく上の階層からの命令に従い、異質の他者とも何となく共存している間は、日本は安泰である。ところが、階層構造に頂点を見出し、それを絶対視するようになると、日本は危ない。別の言い方をすれば、天皇を絶対視するようになると、赤に近い黄色信号が点る。そもそも日本という社会は、「私」を排除し「公」を尊重する社会であったと和辻は分析している。
 従って中央政府の官僚組織が不備である間は、かかる地位にある大臣大連の「私」が行なわれやすい。しかし臣連たちはこの種の政治上の「私」に対して非常に敏感であった。そこでこの弊を取り除くために、この種の「私」の根源である私有地私有民の廃止が要望されざるを得なかったのである。
 古代から長い時間を経て、徐々に「私」の領域が確保されてきたわけであるが、太平洋戦争の際には「公」が「私」を食いつぶしてしまった。いや、正確に言えば、「私」は「公」と等しいものとして「公」に包摂された。天皇を絶対視し、「公」=「私」となると、天皇=「公」=「私」という図式が成り立つ。すなわち、日本国民は皆等しく絶対的な存在となる。これはまさしく全体主義に他ならない。その結果が天皇万歳、一億総玉砕であった。

 その反省から、戦後は「私」が重視された。特に教育現場ではそれが顕著であったが、最近は行き過ぎた個人主義の弊害が指摘されている。欧米のような二項対立論ではなく、二項”混合”論を主張する私は、「私」の領域にもう一度「公」を取り入れる必要があると考えている。具体的には、家庭では道徳や倫理をしっかりと教育する、企業は経済的なニーズだけでなく社会的なニーズにも応えていく(今後日本で急増する高齢者が不自由なく生活するための製品・サービスを開発する、必需品が足りていない新興国で事業展開するなど)、といった具合である。

 公私混同という言葉には悪いイメージがあるが、批判されるのは「公」に「私」を持ち込むことである。逆に、「私」に「公」を持ち込む公私混同は、今後もっと推奨されるべきではなかろうか?

2014年11月20日

『魂を伝承する(『致知』2014年11月号)』―愛国心とは愛憎ないまぜの感情


致知2014年9月号魂を伝承する 致知2014年11月号

致知出版社 2014-11


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 現代を生きる我われに、日本の素晴らしさを尊び、後世に伝承していこうといった愛国心が必要です。この地球上にただ1つ、2千年以上も続いてきた他に類のない文明圏を守る意志を持ってほしい。僕が日本人として後進の方々に伝承していくべき魂があるとすれば、そこですね。(中略)

 私たちは戦前の誇り高い日本帝国を知っているし、日本に誇りを持つような教育も施されました。自分は日本の代表という自覚があり、日本人として品位のある生き方をしたいと思って生きてきた。(中略)ただ日本について敗戦後1か月か2か月には文化国家として日本を再建すると言い出したところにちょっと怪しいところがあった。やっぱり自分で自分の国を守ろうとしない人間は、きちんとした世界観を持てません。
(平川祐弘、渡部昇一「我ら日本の魂を伝承せん」)
 日本は敗戦後に自国の歴史を放棄させられ、自虐史観を押しつけられたと言われる。だから、右派の人々は、もっと愛国心を養うための教育をすべきだと主張する。この点には、私も総論レベルで賛成である。日本を愛せない人が、どうして日本に住み続けることができるだろうか?

 愛国心を養う教育とはどういうものなのかは、お隣の中国を見れば非常によく解る。中国では、国民に愛国心を植えつけることが教育目標の中に明記されている(日本の学習指導要領にあたるものとして、「愛国主義教育実施要綱」というものがある)。中国の教育の特徴は、(1)神話の強調、(2)選民意識の醸成、(3)トラウマの意識という3つに集約できる。

 (1)神話
 中国の神話は、「文明古国(太古以来の文明国)」、「礼儀之邦(礼節と儀礼の国家)」、「四大発明(古代中国による四大発明=製紙法、印刷術、羅針盤、火薬)」などといった4文字の慣用句で表現される。これらの慣用句は史実に基づくものもあるが、神話と結びついているケースもある。歴史を振り返れば、中国は数多くの重要な発明の地であった。その歴史の歩みの中で、科学や芸術が花開いた。したがって、中国人は自らの優れた文化的、道徳的気質を信じて疑わない。

 (2)選民意識
 「中国」という言葉自体が「中央、真ん中」の「王国、国家」という意味である。中国は「中華」(華=素晴らしい、繁栄した、の意)とも言われるが、中国人は自らを「華」、文化的・民族的なよそ者を「夷」(=野蛮な、の意)と呼んだ。中国は自らを世界の中心に配置し、周囲の異民族が中国文化と同化するよう働きかけた。アジアの歴史は、中国が周辺国といかにして文化的な師弟関係を結んでいったかの歴史であり、また、中国が自らの文明の普遍性を高めていった歴史でもある。

 (3)トラウマ
 中国にとって、1800年代半ばから1900年代半ばまでの期間は「恥辱の1世紀」である。中国人はこの期間を、自国が攻撃され、帝国主義者の手でバラバラに切り裂かれた時代として記憶に留めている。第1次・第2次アヘン戦争、日清戦争(中国では中日戦争)、義和団事件、満州事変、日中戦争(中国では抗日戦争)などは、中国人にとって「国恥」である。

 (※(1)~(3)の記述は、ワン・ジョン『中国の歴史認識はどう作られたのか』〔東洋経済新報社、2014年〕を参考にした)

中国の歴史認識はどう作られたのか中国の歴史認識はどう作られたのか
ワン ジョン 伊藤 真

東洋経済新報社 2014-05-16

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 神話はその国の歴史の起点となる固有の物語であり、史実に基づいていようがいまいが、他国がこれを否定することはできない。神話と選民意識は密接につながっている。自分たちの先祖をたどって行くと神話に行き着く。その神話は絶対的なものだから、神話から生まれた我々も絶対的な民族であると自信を持つようになる。これだけでも十分な愛国心教育なのだが、さらにトラウマを利用する。「我々はこんなにも素晴らしい民族だ。それを攻撃してきた彼らは絶対に許さない」と思わせる。敵を徹底的に貶めることで、相対的に自分たちの地位を高めるわけだ。

 こういう愛国心教育は、独裁国家の権力者が国民からの絶対的な支持を集めるための常套手段である。ところが、民主主義国家であるはずの韓国も、似たような愛国心教育を行っているらしい(以前の記事「鳥海靖『日・中・韓・露 歴史教科書はこんなに違う』―韓国の教科書は旧ソ連並みに社会主義的」を参照)。檀君の神話を信じ込ませ、朝鮮人が日本に高度な文明を伝えてあげたと民族的優位性を説き、民族的に劣位の日本人に植民支配されたことをトラウマとして強く認識させる。日本政府は韓国を政治的な価値観を供するパートナーと見なしているものの、韓国のことを調べれば調べるほど、実は共産主義国なのではないかと思えてくる。

 日本が手っ取り早く愛国主義的な教育をしたいのならば、中国や韓国に倣えばよい。『古事記』や『日本書紀』の神話を刷り込み、世界でただ1か国だけ、2000年以上も王家が続いている特別な国であることを意識させ、その特別な国を国際法違反の原子爆弾で攻撃したアメリカや、五族協和を目指した満州国の理念を頓挫させた中国を許しがたい敵として描けば効果的だろう。

 しかし、こういう愛国教育を行っている国は、だいたい対内的・対外的どちらの視点から見てもロクな国ではないということは、良識ある日本人ならすぐに気がつく。「自分大好き人間」を大量に育成すると、周囲に大きな迷惑がかかるだけなのである。そもそも愛とは、好きという感情が一方的に支配している状態ではない。よいところも悪いところもあることを認めながら、それでもやはり大切にしたいと思うのが愛である。家族愛はまさにその典型であろう。「愛は盲目」などと勝手に舞い上がっているうちは、まだ本当の愛ではない。

 日本の教育は、「日本人はこんなに悪い人でした」と教えることで、「自分大嫌い」人間を量産してきた。「自分大嫌い人間」は、「自分大好き人間」に比べると、内向的で周囲に害を及ぼさない分だけましかもしれない。しかし、自分大好き人間と同様に、健全な精神状態とは言い難い。従来の教育は、日本の悪いところばかりを教えすぎた。そこに日本の誇らしいところをうまく混合することで、多角的な視点から冷静に日本を愛せる国民を輩出すべきではないだろうか?




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