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頼住光子『道元―自己・時間・世界はどのように成立するのか』―道元の禅は絶対的な真理を追求しないから安心した
鈴木大拙『禅』―禅と全体主義―アメリカがU理論・マインドフルネスで禅に惹かれる理由が何となく解った

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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

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2017年05月24日

頼住光子『道元―自己・時間・世界はどのように成立するのか』―道元の禅は絶対的な真理を追求しないから安心した


道元―自己・時間・世界はどのように成立するのか (シリーズ・哲学のエッセンス)道元―自己・時間・世界はどのように成立するのか (シリーズ・哲学のエッセンス)
頼住 光子

日本放送出版協会 2005-11

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 以前の記事「鈴木大拙『禅』―禅と全体主義―アメリカがU理論・マインドフルネスで禅に惹かれる理由が何となく解った」で、鈴木大拙が欧米に紹介した禅は、全体主義と通じるところがあり、ひいては近年アメリカを中心にブームとなっているU理論やマインドフルネスにつながっている部分が大きいのではないかと書いた。

 私が考える全体主義を改めて簡単にまとめると以下のようになる。まず、人間の理性は唯一絶対の神と等しいという点から出発する。神が絶対無から絶対有を生み出すように、人間もまた絶対無から絶対有を生み出すことができる。神は自らが生み出した絶対有である宇宙に等しい。人間は神に等しいから、人間もまた宇宙に等しい。我々1人1人の中には、宇宙の全てが内蔵されている。よって、我々は信仰を通じて、絶対有である宇宙に触れることができる。つまり、神に触れられる。ここでポイントとなるのは、他者の力を借りなくてもよいという点である。全体主義者はしばしば連帯を説くが、実際には「トゥゲザー・アンド・アローン」(オルテガ)である。

 人間の理性は絶対的な神に等しいわけだから、人間は生まれながらにして完成している。よって、生まれた後に人間が下手に教育などを施して人間を改造しようとすることは否定される。人間にとっては、生まれたというその瞬間が全てである。つまり、現在が時間の全てを支配している。現在という1点でありながら全てである時間において、人間は革命を起こす。だが、現実的な問題として、永遠不滅の神と異なり、人間は死ぬ。死ぬことで絶対有から絶対無に帰す。しかしここで、絶対無は再び絶対有を生み出す源泉となる。つまり、絶対無⇒絶対有⇒絶対無という円環を形成する。これにより、人間は永遠に革命を続けることができる。これは、ニーチェの言葉を借りれば「永遠回帰」である(以前の記事「神崎繁『ニーチェ―どうして同情してはいけないのか』―ニーチェがナチスと結びつけられた理由が少し解った気がする、他」を参照)。

 道元の考え方も、上記の全体主義と共通する部分がある。まず、人間が宇宙を内包しているという点については、本書で次のように書かれている。
 「尽界(尽知)」(全世界)とは、まず、1つの世界として無文節かつ「無差別」な全体をさす「空そのもの」の世界である。(中略)その意味で、「一草一象」は、全体世界をみずからにおいて折り込み発現させているということができる。
 道元が現在という一瞬を重視する姿勢は、次の文章に表れている。
 道元は、現在のこの一瞬(而今)は、自己によって主体的に把捉されることで成り立つとする。この把捉点としての有時は、一定の方向へと流れる時間を超越したという意味において、非連続的なものである。そして、「今この一瞬」(而今)とは「空」を体得し、世界を現成させるその「一瞬」である。この瞬間は、「空」という無時間に立脚した時である。宗教哲学的な用語を使うならば、「永遠の今」ということもできよう。
 道元は、人間の死について、次のように考えている。
 死において個々人は意味も役割も失い、自己のアイデンティティーを喪失する。このことを直接的に受け止めるならば、現実①(※個々の事物が差別的に存在している世界)は存立を脅かされる。それ故に、現実①すなわち俗世は、たとえば、血統の無窮性や、国体の無窮性など、さまざまな神話によって、個人は死によって無に帰するのではなく、むしろ、個としての存在性を失うことによって永遠なるものに吸収され、それにより個々の死を越えて永遠性を帯びると主張する。
 人間が現在という1点において永遠に革命を起こす、つまり1人が1人でありながら全体を達成するという点については、本書の次の記述が対応する。
 真の主体性は、日常生活における自己同一的に完結した自己のレヴェルにおいてではなく、自と他が無文節な全体をなす「空そのもの」への自覚的還帰と、そこからの現成を通じて動的に保持されるものなのである。このような自覚点としての「有時」こそが、日常生活における自己完結性から解き放たれて、世界との一体性を回復する一瞬(而今)なのである。
 禅と言うと、師匠と弟子の間で繰り広げられる「禅問答」が有名である。我々は通常、禅問答という言葉を使って、「何を言っているのか、はたからは解らない問答」という意味を表す。そして、実際の禅問答は常人からすると、本当に理解不能なのである。鈴木大拙の『禅』にはたくさんの禅問答が収められているが、一部を紹介すると次のようなものがある。

禅 (ちくま文庫)禅 (ちくま文庫)
鈴木 大拙 工藤 澄子

筑摩書房 1987-09

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 僧「どうしたら、生と死のきずなから逃れることができましょうか」
 師匠「おまえはどこにいるのか」
 ある人「仏陀の根本の教えは何でしょうか」
 師匠「この扇子はよく風を呼んで涼しいわい」
 言葉の通常の意味だけでは理解することができない禅問答を読んで、私はクリプキの「グルー」の議論を想起した(以前の記事「飯田隆『クリプキ―ことばは意味をもてるか』―「まずは神と人間の完全性を想定し、そこから徐々に離れる」という思考法(1)(2)」を参照)。一見すると不可解な禅問答も、「グルー」の論法を使うと、意味が通じるようになるのかもしれない。いや、この「グルー」の議論を拡張すると、言葉が世界の意味を規定するという役割が放棄され、世界のあらゆる事象が人間の中にどっと流れ込むことになる。つまり、人間は無限の存在になる。そこに私は全体主義の端緒を見出して、恐れおののいてしまう。

 だが、道元の禅は、鈴木大拙が欧米に紹介した禅とは異なる点もあるというのが、本書を読んでの大きな発見であった。冒頭で、全体主義は人間の理性と唯一絶対の神を同一視すると書いたが、道元は絶対的な真理の存在を否定している。真理は1人1人が主体的に追求するものであると主張している。道元は、唯一絶対の神のような、本質的に固定的なものを立てない。
 本来的なもの、本質的なものを固定的に立てないという思考方法は、仏教的には「無自性―空」ということで表される。(中略)まず、「無自性」とは、文字通り「自性」がないということである。「自性」とは、変化するものの根底にあってつねに同一であり、固有のものであり続ける永遠不変の本質であり、他の何者にもよらずそれ自身によって存在する本体のことである。このような「自性」は、西洋哲学の専門用語では「実体」という。(中略)古代ギリシャ以来の西洋哲学の流れでは、「実体」は論理構造の核に位置する中心的概念であったのに対して、仏教の(とりわけ大乗仏教の)考え方によれば、このような「自性」(=実体)は基本的には否定される。
 全体主義では、1人1人の人間が皆絶対的な神に等しいから、他人の力を借りなくても絶対的な宇宙にアクセスできると書いたが、道元の禅は他者との相互依存性を強調する。他者との関係によって、他者を配列させることによって、自己の意味を表出させることを重視する。
 「縁起」とは、「因縁生起」を略した言葉で、事物事象が、互いに原因(因)や条件(縁)となり合い、複雑な関係を結びながら、相互相依しあって成り立っていることをいう。とくに大乗仏教では、「縁起」は「空」と同一視される。「空」とは「自性」を持たないという消極的意味と、「縁起」による事物事象の関係的成立という積極的意味の両面を兼ね備えているということができる。
 先ほど、禅問答で繰り広げられる言葉は、究極的には意味を放棄し、世界の事物事象を全て人間の中に流入させて人間を無限の存在たらしめるものだと書いた。これに対して、道元は言葉に積極的な役割を与えているという大きな違いがある。
 修行者は、「解脱」において「空」を体験するのであるが、その体験は体験のみで完結するわけではない。その体験は必ず意味化され言語化される必要がある。(中略)

 では、「脱落」体験を言語化、意味化することはなぜ必要なのだろうか。それは、世界を顕現させるためである。もし、言語化、意味化することがなかったならば、「空そのもの」「無そのもの」と出会った自己は、すべての意味を剝奪されたまま、混沌たる世界に拡散し、その中に溶解してしまうであろう。そこには無意味なカオスがただあるだけである。このような言語化、意味化によって、再び世界が立ち現されてくる。これを「現成」というのだ。
 冒頭で、全体主義的な発想が、現在流行りのU理論やマインドフルネスに受け継がれているのではないかと書いた(以前の記事「【現代アメリカ企業戦略論(4)】全体主義に回帰するアメリカ?」を参照)。U理論のベースとなる考え方を提供した物理学者のデイビッド・ボームは、世界でありとあらゆる深刻な問題が生じている原因を「言葉」に求めた。言葉は人間の都合によって世界を自由に分解する。その分解の方法や、言葉の意味の解釈をめぐって対立が発生する。そうした小さな齟齬の積み重ねが、グローバル規模の課題へとつながっているというわけだ。

 ボームはこうした課題を解決する方法として「ダイアローグ(対話)」を提唱し、その考え方はU理論にも受け継がれている。ダイアローグも言葉を使うものの、参加者は自由に発言することが許される。他の参加者はその発言を批判してはいけない。また、発言の意図を厳密に解釈しようとしてはいけない。とにかく、参加者が思いのたけを洗いざらい発言することに意味がある。すると、ある瞬間に参加者同士が連帯し、宇宙全体に触れることができるようになるのだという。ボームの言葉を借りれば、我々が普段目にしている顕然秩序の背後にあって、宇宙全体をつかさどる内蔵秩序と同化できるというわけだ。だが、このダイアローグは、先ほど述べた、言葉が意味を失って世界の全てを人間に流入させる禅問答と同じなのではないかという気がする。

 これに対して、道元は言葉を重視する。もちろん、言葉によって世界を切り取ることは、世界を固定化することでもある。しかし、世界の本質は流動的であるという道元の考えからすれば、言葉によって世界を固定することは許されない。よって、「空そのもの」を体験した者は、手を変え品を変え、様々な言葉で世界を語り続けなければならない。だから、禅問答は矛盾に満ち、時に自己否定を含むものになる。禅問答がはたから見て意味不明なのは、言葉の意味を失わせて世界の全てを人間に押し込めるためではなく、本質的に固定的ではないもの、「無自性」であるものを絶えず捕まえようとする不断の努力の結果である。

 全体主義においては、現在という一瞬が時間の全てを支配すると書いた。一方で、道元の場合は、単純な過去⇒現在⇒未来という時間の流れを否定し、現在を重視するという点では共通するものの、常に現在という一瞬が生じ続けるという点で異なる。
 仏道における、発心・修行・菩薩・涅槃の過程とは、本来的なる空―縁起を自覚し、その本来性を現実化すべく、一瞬、一瞬、「空」に立脚して世界を現成していく過程である。そして、そのような一瞬において、立ち現われてくる存在の絶対性について、道元は、「究尽(きわめつくす)」という言葉で表している。
 引用文にある「絶対性」とは、全体主義が想定する絶対性とは異なる。禅においては、本質的なものは本来的に不定であるから、一瞬、一瞬のうちに体得する絶対性は、その時において絶対性だと思えるものにすぎない。ある瞬間に獲得した絶対性は、次の瞬間には早くも否定され、別の絶対性へと至る。この一瞬、一瞬の営みを繰り返すのが禅である。ありていに言えば、絶対的な正解がない世界で常に最善を尽くすことであり、これこそ日本人的な生き方である。

2017年02月22日

鈴木大拙『禅』―禅と全体主義―アメリカがU理論・マインドフルネスで禅に惹かれる理由が何となく解った


禅 (ちくま文庫)禅 (ちくま文庫)
鈴木 大拙 工藤 澄子

筑摩書房 1987-09

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 足かけ約12年で記事の数が2,000本に到達しました(旧ブログ1,118本、現行ブログ679本、ブログ別館203本)。いつも読んでくださる皆様、本当にありがとうございます。1本あたりの文字数は時期によってバラバラなのですが、仮に平均2,000字/本とすると、約400万字書いた計算になります。原稿用紙に換算すれば約1万枚、原稿用紙1枚の厚さは約0.1㎜なので、積み上げると約1mに上ります。

 ただ、2,000本書いても自分で本当によく書けたと思う記事は数えるほどしかありません(涙)。右カラムの自己紹介欄に、モットーとして「実事求是」、「一貫性」と掲げていますが、間違ったことや矛盾したことを書いたかもしれません(何か所かは自覚症状あり)。作家の北方謙三氏は、20代の頃に原稿用紙1万枚分ぐらいの作品を書いたけれども、全部ボツにしたという話を『致知』のインタビュー記事で読んだことがあります。今の私の心境もそれに近いものがあります。本当の勝負はここからスタートです。次は4,000本を目指して精進したいと思います。
 ブログ別館の記事「『人を育てる(『致知』2016年12月号)』」で、アメリカで今流行りの「マインドフルネス」は禅の影響を受けていることに触れた。ここで私は、「本来の禅とは、絶対性や全体性の獲得を目指すものだったのであろうか?確かに禅には、静謐な空間で、他者との交わりを断って厳しい修練を積むというイメージがある。しかし、その修行の目的は、他者の異質性を認め、顔の見える他者と血の通った交流をじわじわと広め、さらにその関係を深化させることにあるのではないだろうか?」と書いた。そこで、禅について知るために本書を読んだ。本書は、宗教家である鈴木大拙が海外に禅を紹介したものである。本書を読んだ第一の感想は、「禅と全体主義は共通点が多い」ということであった。私の仮説はものの見事に打ち砕かれてしまった。

 私が理解する全体主義について、今一度整理しておきたいと思う(以前の記事「【現代アメリカ企業戦略論(1)】前提としての啓蒙主義、全体主義、社会主義」を参照)。全体主義は18世紀ヨーロッパの啓蒙主義の嫡子である。啓蒙主義においては、唯一絶対の神と人間の理性が同一化された。啓蒙主義は非合理的な宗教を排除したと説明されることが多いが、実際にはむしろ逆で、宗教と人間が深く結びついた。人間は唯一絶対で全体性を帯びた神に似せて創造されたのであるから、人間も神と同じ性質を有する。地球上には何十億という人間がいるが、皆唯一絶対の存在であり、全体である。すなわち一が全体に、全体が一に等しいことを意味する。

 一が全体に等しく、全体が一に等しい社会においては、私有財産は否定される。私のものとあなたのものという区別はなくなり、財産は全人類の共有物となる。また、一が全体に等しく、全体が一に等しい社会では、独裁と民主主義が両立する。というのも、1人の意見は全体の意見に等しいからである。全体の意見を抽出すれば民主主義的に見えるが、その全体の意見は結局のところ1人の意見と等しい。こうして、全体主義では共有財産制と独裁がその特徴となる。

 神は無から有を生み出す存在である。神と人間は等しいのであるから、人間もまた、無から有を生み出すことができる。唯一絶対の神と等しい人間は、生まれながらにして唯一絶対である。言い換えれば、生まれた時点で既に完成しており、革命は成就している。だから、教育によって人間の能力を伸ばそうとか変えようといった発想はない。むしろ、人間が下手に教育を施して、人間の完全無欠性が傷つけられることを恐れる。だから、全体主義社会においては、知識人や教育者が激しく迫害・弾圧される。全体主義では、生まれた時点という現在が時間軸の全てを支配する。現在という時間は有限であるが、同時に無限である。無限なる有限と言ってもよい。

 ところで、神と人間には決定的な違いがある。神は不滅であるが、人間は死ぬ。この点をどう考えればよいか?人間は死によって、生き残った者を現在という時間に固定する。そして、その固定をより強めるためには、人間は早く死んだ方がよい(以前の記事「神崎繁『ニーチェ―どうして同情してはいけないのか』―ニーチェがナチスと結びつけられた理由が少し解った気がする、他」を参照)。太平洋戦争で若者が天皇陛下万歳と叫びながら次々と特攻していったのも、この理屈で説明できる。山本七平はこれを「死の臨在」による生者への絶対的支配と呼んだ。死んだ者は無に帰すが、その無は再び有を生み出す源泉となる。つまり、無とは円周であり、円周上の一点において有という現在が出現し続ける。こうして、人間もまた神と同じく不滅となる。

 以上が私の全体主義に関する大まかな理解であるが、本書で説かれている禅とこの全体主義がいかに共通しているかを以下に示したいと思う。まず、唯一絶対の神と人間は等しいという点について、本書には次のように書かれている。
 「心単純な人々は、あたかも神は彼方にましまし、われわれは此方にいるのだと考える。そうではない。神とわたしとは、わたしが神を覚知する行為において一つである。」この事物の”絶対的一”に禅はその哲学の基礎を据える。
 禅にとっては、有限はすなわち無限である。時間はそのまま永遠である。人は神と別ではない。「アブラハムの存在した前にわたしはある。」さらにまた、神は無限の可能性、かぎりない自由、はてしない責任に、何の恐怖すべきものも認めない。禅は無限の可能性とともに動く。
 「禅問答」という言葉があるように、禅は答えのない問いを繰り返すイメージがある。ところが、著者によれば、問いというのは、問うものと問われるものを分ける行為、主体と客体を分ける行為であり、禅の本質ではないという。禅は主客二元論をはじめ、あらゆる二元論を認めない。禅は、世界を世界のまま受け止めることを目指す。これを「シューニヤター(空)」と呼ぶ。そして、シューニヤターは全世界であると同時に、世界を構成する個々の事物の中に存在する。つまり、全体が一であり、一が全体であることを意味する。
 相対の世界は、”シューニヤター”の上に、また、中にある。”シューニヤター”は、いわば全世界を包み、同時にそれはまた、世界に存在する一つ一つの事物の中にある。”シューニヤター”は、内在論でもなければ、超越論でもなく、もしこういうことが許されるなら、その両方である。
 禅を通じてシューニヤターを知覚する時、我々の中にある「潜在意識」が呼び起こされる。
 「潜在意識」もまたあらゆる形の神秘主義を蔵する倉であって、およそ潜在とか異常とか、霊魂とか心霊とかの名で呼ばれるものは、すべてこれに含まれる。自己の存在の本性を見究める力もまた、ここに隠されているかもしれない。そして、禅がわれわれの意識の中に目覚めさせるものも、それであるかもしれない。
 潜在意識という言葉は、U理論やマインドフルネスの下地となった、物理学者デイビッド・ボームの「内蔵秩序」という言葉を想起させる。ボームは、我々が通常意識する「顕在秩序」の背後に、一切を包み込む「内蔵秩序」があると主張した。我々は言葉や知識を用いて顕在秩序を理解しようとする。ところが、言葉や知識は世界を分断し、人々を対立へと陥れる。そこでボームは、人々が潜在意識のレベルで連帯する必要があると説いた(その手法として「ダイアローグ(対話)」を挙げた)。すると、人々は全世界を包む内蔵秩序に触れ、対立から変革へと向かうことができると言う。この考え方はまさに、U理論やマインドフルネスに受け継がれている。

 全体主義は現在を絶対化し、現在を無限なる有限と位置づけると書いた。これに関連する禅の言葉を本書の中からいくつも発見することができる。
 救いは有限そのものの中に求めねばならぬ、有限なるものを離れて無限なるものはない。もしおまえが何か超越的なものを求めるならば、それはおまえをこの相対の世界から切り離すであろう。
 有限は無限である。また無限は有限である。それは2つの別のものではない。われわれが、知性の上でそう考えさせられているだけである。
 かれは無限を円周とする円の中に生きる。だから、かれはどこにあっても、つねに実在の中心にいる。かれが実在そのものである。
 絶対の現在もまた然り。そして、”エカクシャナ”は絶対の現在であり、永遠の「今」である。かくて、禅は一刹那の中に成就すると言われるのである。
 禅は時間と歴史を越えるゆえに、それが認めるのは、はじめもなく、おわりもない生成の過程のみである。
 人間は無という円周の上に生きるのであるから、そこには始まりも終わりもない。円周上のただ1点において、一瞬だけ有(でありながら無限)が生成されるのみである。

 先ほど、禅には二元論がないと書いた。二元論は対立を生み出す。力に依存する。そうではなく、二元論を超越する愛を持つべきだと著者は述べている。だが私は、禅がこれほどまでに全体主義と共通することを知る時、むしろ恐れおののいてしまう。本ブログで繰り返し書いてきたように、二元論、二項対立こそ、人間が独善的にならないための知恵ではないかと私は考える。というのも、二項対立は自分と異なる他者の存在をまずは肯定するからである(以前の記事「【現代アメリカ企業戦略論(2)】アメリカによる啓蒙主義の修正とイノベーション」を参照)。

 禅は、インドで生まれた仏教が中国で変質・完成したものであると言う。インド人は超自然を認める。この点でインド人は空想的であり、実際に空想的な物語を描く。これに対して中国人は、どこまでも実際的である。孔子が「怪力乱神を語らず」と言ったように、超自然的なことには目を向けない。だから、中国人は、仏陀の額から光が出るなどといった物語を描くことはない。中国人は極めて実際的だが、逆説的なことに、実際的であるがゆえに知性を超えて直観で宇宙を把握することができる。逆に、空想的なインド人は、知性によって制限されている。

 中国人の思想は本当にとらえどころがない。仮に、禅が中国の思想を体現しているならば、中国には全体主義的な傾向があることになる(個人的には、全体主義=反共という点はあまり重要ではないと考える)。一方、大国である中国は、大国の流儀である二項対立的な発想に従う(以前の記事「岡本隆司『中国の論理―歴史から解き明かす』―大国中国は昔から変わらず二項対立を抱えている」を参照)。かと思えば、「中庸」という言葉があるように、二項”混合”的な考え方もする。二項”混合”は、日本のような小国の得意技である(以前の記事「『一生一事一貫(『致知』2016年2月号)』―日本人は垂直、水平、時間の3軸で他者とつながる、他」を参照)。

 U理論やマインドフルネスに傾倒するアメリカは、全体主義に向かっているのかもしれない(以前の記事「【現代アメリカ企業戦略論(4)】全体主義に回帰するアメリカ?」を参照)。同時に、中国も一党独裁を強め、言論の自由を制限し、三権分立を否定するなど、全体主義に傾きつつある。2つの大国が全体主義化する時、両国が手を結ぶことがあり得る。全体主義国家が結託する時、起きるのは戦争に他ならない。それも、全体主義国同士の戦争ではなく、全体主義国家と反全体主義国家との間の戦争である。これは、第2次世界大戦の歴史が示す通りである。




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