2013年03月05日
【ドラッカー書評(再)】『現代の経営(下)』―フレデリック・テイラー「科学的管理法」に対するドラッカー評
ドラッカー名著集3 現代の経営[下] P.F.ドラッカー ダイヤモンド社 2006-11-10 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
ドラッカーは「人と仕事のマネジメント」を論じるにあたって、既存の人事管理論や人間関係論をコテンパンに批判しているが(以前の記事「【ドラッカー書評(再)】『現代の経営(下)』―既存の人材マネジメントに対するドラッカーの不満が爆発している」を参照)、一方ではフレデリック・テイラーの「科学的管理法」を絶賛している。
事実上、科学的管理法は、人と仕事についての唯一の体系的な理念である。まったくのところ、それは、「フェデラリスト・ペーパーズ」以来西洋思想に対する最も強大にして不朽の貢献である。産業社会が存在し続けるかぎり、人の仕事は、体系的に研究し分析し、その最小単位を基礎として改善していくことができるという科学的管理法の洞察が見失われることはない。ただし、完全に「科学的管理法バンザイ」というわけでは決してない。ドラッカーは、科学的管理法には2つの盲点があったと指摘している。
科学的管理法の第一の盲点は、仕事は、最も単純な要素動作に分解しなければならないがゆえに、それら個々の要素動作の連鎖として仕事を組織し、しかも可能なかぎり一人の人間が一つの要素動作を行うように組織する必要があるという考えだった。
科学的管理法の第二の盲点は、「実行からの計画の分離」をその基本的な信条の一つとしていることにある。(中略)計画と実行が違うことを発見したことは、テイラーの最も価値ある洞察である。事前の計画が優れているほど仕事が容易になり、成果をあげるようになり、生産的になることを指摘したことは、ストップウォッチによる動作研究などよりも、アメリカの産業の興隆にはるかに大きな貢献となった。(中略)しかし、計画と実行の分離は、計画する者と実行する者とは別の人でなければならないということを意味はしない。この批判の意味するところを詳しく知りたいと思い、『科学的管理法』を読んでみた。
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まえがきに、『DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー』の編集長である岩崎卓也氏に対して、神戸大学大学院の加護野忠男教授が「最近、テイラーの『科学的管理法』を読み直したんだけれど、あれはよくできた人間観察の記録だね」と述べたエピソードが紹介されているのだが、確かにテイラーは、働く人のことをこれでもかというぐらいよく観察している。「銑鉄運び」や「シャベルすくい」という単純作業から「金属切削」といった複雑な作業まで、
・一連の作業を構成している要素作業は何か?
・要素作業をどのように標準化すればムダが省けるか?
・要素作業と道具をどのように組み合わせれば生産性が最も高まるか?
などといった問いに答えるため、工場の現場に張りついて何千回と実験を繰り返した様子が記録されている(テイラーは、こうした実験を通じて最適解を導く作業を、「科学を掘り下げる」と表現している)。金属切削の研究に至っては、26年もの時間を費やしているというから驚きだ。さらに、生産性と賃金の関係にも踏み込み、ノルマを達成した時にどのくらいの割増賃金を支払うと労働者にとって最も効果的なのか?といったことまで考察している。
だが、ドラッカーが第一の盲点として指摘したように、テイラーは要素作業=一人の作業範囲ととらえていた節がある。テイラーが科学的管理法を導入した工場では、銑鉄運びの担当者にはひたすら銑鉄運びを、シャベルすくいの担当者にはひたすらシャベルすくいをさせている。容易に想像がつくように、これではさすがに社員も飽きるだろう。「人間は成長を求める生物である」という本質が軽視されているような気がする。それどころか、
機械を用いた作業においては、ほぼ例外なくどの作業も「科学」の数々に支えられているが、その実作業に最も適した人間は教養あるいは知性が十分ではないため、同僚や上司の力添えがなければその科学を深く理解することはできないのだ。などと随所で述べており、現場の社員を卑下するエリート主義が見え隠れしている。
これに対してドラッカーは、人間の本質をとらえた上で、単に要素作業に分解して標準化するだけではなく、分解した要素作業を統合して、働く人にとって多様で挑戦的な仕事に組み立てる必要があるとした。もっとも、「テイラー自身は、仕事を統合する必要を理解していた可能性がある」とドラッカーがフォローしている場面があり、これはおそらく、テイラーが、
働き手は、進歩し続ける科学の下、指導者からの指示を受けながら仕事をすると、知的レベルは変わらなくても、より高度で興味深い仕事をし、利益にもより大きく貢献できるようになる。と述べた箇所を指していると思われる。しかし、テイラーのこの記述は、『科学的管理法』の最後の最後になってようやく出てくるものであり、知的水準の低い人が具体的にどうやって仕事の幅を広げていけばよいのか、その事例は残念ながら全く登場しない。
それまでは土をシャベルですくってどこかへ運ぶ、部材や道具を工場内の別の場所へ移すといった単純な仕事しかできなかった者の多くが、機械作業の手ほどきを受け、快適な環境、機械工にふさわしい多彩な作業、高い賃金を与えられる。ボール盤ぐらいしか扱えなかった低賃金の機械工や助手は、より複雑で賃金も高い旋盤や平削り盤などの作業を与えられ、熟練工や目端の利く人材は部門別職長や指導者になる。
ドラッカーが指摘する第二の盲点に関してだが、テイラーの科学的管理法の下では、作業手順に沿って命令を出す人と、その命令に従って作業をする人とが完全に分離される。命令を出す人は、時計と作業プランが書かれた紙を見ながら、「シャベルで土をすくえ」、「土を運べ」、「休め」(休憩のタイミングと時間も、生産性の最大化いう観点から科学的に最適化されており、作業プランに落とし込まれている)といった細かい命令を都度出していく。必然的にマネジメントの組織は分厚くなり、テイラーが科学的管理法を導入したベスレヘム・スチールという企業は、
時間研究を通じて作業の科学を導き出す担当、熟練者で構成される指南・助言役チーム、必要な道具を揃えて手入れをする道具担当、事前に作業プランを立てて時間の無駄が最小限になるように人材を適宜配置して、各人の賃金実績をつぶさに記録する事務担当などで構成されていた。という。しかしながら、命令に従って黙々と作業をするのでは、まるで機械のようである。人間には自ら考え、実行する力がある。そして、それこそが人間と機械を区別する能力の差である。だからドラッカーは、計画と実行を分離することに反対した。ベスレヘム・スチールの事例では、膨れ上がったマネジメント層の仕事を現場の社員が自分でできるようになれば、もっと生産性は上がるに違いない。ドラッカーが「経営管理者(エグゼクティブ)」という言葉で示したのは、計画から実行までを自らマネジメントする人材であった。
ただ、『科学的管理法』を一通り読んで思ったのは、いろいろ問題はあるにせよ、『科学的管理法』は間違いなく現代経営学の出発点であり、マネジメントの仕事とは何かを明らかにした最初の本であるということだ。マネジメントの仕事とは、大きくまとめれば次の5つに集約される。
(1)顧客価値を実現するための標準的な業務プロセス(=仕事の束)を定義すること。
(2)業務プロセスに投入する経営資源(ヒト、モノ、カネ、情報、知識)を調達すること。
(3)経営資源の質を上げ、生産性を高めること(特に人材育成が重要である)。
(4)経営資源の中で、唯一動機づけが必要な人材に対して、効果的な動機づけを行うこと。
(5)成果を常にモニタリングし、必要に応じて改善策を施すこと。
『科学的管理法』には、この全ての仕事が書かれている。そして、テイラー自身も再三念を押しているように、ストップウォッチを使った時間研究などの手法は些末な話であり、科学的管理法で本当に重要なのは、その根底にある「マネジメントのエッセンス」なのである。
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