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山本七平『日本人とアメリカ人』―アメリカをめぐる5つの疑問

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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

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2014年03月12日

山本七平『日本人とアメリカ人』―アメリカをめぐる5つの疑問


日本人とアメリカ人―日本はなぜ、敗れつづけるのか (ノンセレクト)日本人とアメリカ人―日本はなぜ、敗れつづけるのか (ノンセレクト)
山本 七平

祥伝社 2005-04

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 豊富な人脈を伝って多方面への取材を行い、鋭い切り口から質問を投げかけてアメリカの実像を浮かび上がらせようとする著者のジャーナリズムは、他のジャーナリストには見られない特異なものだ。ただ、本書の副題にある「日本はなぜ、敗れつづけるのか」という問いに対する直接の答えは希薄だったように思えるし、本書を読んだらアメリカのことがますますよく解らなくなってしまった(汗)。この本が書かれたのは、昭和天皇が1975年に訪米した頃のことなので、今のアメリカとは違う側面もあるのかもしれないが・・・。

 (1)アメリカの建国を、彼らは「人類最初の革命」と呼ぶ。革命によって、伝統や因習、社会悪を内包した石器時代以来の不合理な社会を捨てて、合理的組織としての人工的政府を作ったのだという。その根底にあるのは、18世紀的な”理性信仰”である。理性という合理性を、伝統や因習が阻んでいるから人間は苦しむ。人間は環境の動物、したがって人間が悪ければ「社会が悪い」のであり、その「悪い社会・環境」を捨て、それから解放されて理性に基づく合理的科学的社会組織を作れば、人間は幸福になる。これが、独立宣言以来200年の、彼らの国是である。

 しかし一方で、アメリカほど宗教に熱心な国もないだろう。著者によれば、成人人口の48~58%が毎週教会に足を運ぶという。各州が教育の内容を定めてもよいことになっているアメリカでは、ダーウィンの進化論がキリスト教の創造論に反するという理由で教えられていない州も存在する。アメリカ人の理性に照らし合わせると、宗教はどのように解釈されるのだろうか?伝統的な宗教は、理性信仰によって乗り越えられるべき対象ではなかったのだろうか?

 (2)著者によると、アメリカは空間しかない国、「空間的思考」しかない国である(逆に日本は、「歴史的伝承的思考」の国である)。アメリカ人は、アメリカという空間に存在するものはアメリカのものだと信じ、アメリカという空間で生まれた者はアメリカ人だと規定している。「あるもの」また「生まれた者」がどのような文化的伝承の下にあるかを一切問わないで、「アメリカ」とするのがその原則である。だから、ワシントンの十七通りにあるユダヤ教の会堂もイスラムセンターもともに、アメリカのものと考えられる。

 ところが、他国のこととなると事情は異なる。最も端的な例がイスラエルで、「イスラエル国という空間にあるものは全てイスラエルだと認めるか?」とアメリカ人に聞けば、Noという答えが返ってくる。確かに、エルサレムのオマールのモスクをイスラエルのものだと言えるユダヤ人はいない。では、なぜアメリカなら、ユダヤ教会堂もイスラムセンターもアメリカのものだと考えうるのだろうか?仮に、アメリカにエルサレムのオマールのモスクが存在していたら、それでもアメリカのものだと主張するのだろうか?(もっとも、アメリカがオマールのモスクを有するほど歴史の長い国であれば、空間的思考ではなく、歴史的伝承的思考に転じるのかもしれないが)

 (3)アメリカはルツボなのか、モザイクなのか?という議論がある。ルツボ派の考え方は、世界中から”自由の天地という名のルツボ”に集まった各人種・各民族が、そこでアメリカという理念を中心に融合し混血し、新しい別種の合金のような新文化を創造していくという考え方である。

 一方、モザイク派は、アメリカとは元来、アメリカという空間と合衆国憲法という大まかな枠組みがあるだけで、文化的には無色・無性格だと主張する。いわば表に出ないモザイクの土台のような存在で、その台上で各民族がそれぞれの伝承文化を、モザイクの一片一片が自分の色をそのまま発色するように、十分に自分の文化的特色を発揮すればよい、という考え方である。

 ここで不可解に思えるのは、ルツボ派とモザイク派のどちらに立つとしても、その立場が純粋に追求されれば、人種差別という問題は起きないのではないか?という点である。単一民族に近い日本から見ると、アメリカの人種差別問題は非常に理解しにくい。なぜ白人は黒人を差別したのだろうか?たまたま最初に入植したのが白人だったからであろうか?仮に白人以外の人種が入植していたら、その人種が優勢とされ、白人差別が行われたのだろうか?

 さらに不思議なことに、著者の体験によれば、アメリカで”有色(カラード)”と言う場合、アジア人は含まれないのだという。カラードはあくまでも黒人に限定されており、我々日本人は”アジア人”というカテゴリーに入れられる。この点を厳密に区別しなければならない理由とは一体何なのだろうか?日本人も排斥運動の被害にあったことがあるが、それ以上に”黒人だけは”白人が特別に敵視しなければならない存在だったのだろうか?

 (4)アメリカという形で統一された「伝統なき空間的モザイク」が組織として機能するように構成している枠組みは何なのか?それは端的に言えば、「憲法」であり、それに基づく「法規(ルール)」である。アメリカとはそれだけの国で、それ以外には何もない。アメリカはとにかく法だらけの国で、「石を投げたら弁護士に当たる」とまで言われる。まず合衆国憲法に始まり、州憲法、州法、市法、町法、村法から私的な法、いわば博物館法、店内法、家法とでも言うべきものまで、各人が勝手に制定している。そして、法がそれより上位の法と抵触すれば、弁護士の出番となる。

 私がアメリカの訴訟をつぶさに調べたわけではないので、確実な記述ではないかもしれないが、アメリカが訴訟大国といわれるほど日夜訴訟に明け暮れているということは、常に上位の法が下位の法からチャレンジを受けているということではないだろうか?そしてそれは、合衆国憲法も例外ではない。では、そんなに頻繁に下からの突き上げを食らう合衆国憲法が、果たしてアメリカの一番のよりどころと呼べるのだろうか?合衆国憲法は日本国憲法と異なり、頻繁に改憲されている。内容がコロコロと変わる合衆国憲法とは、結局のところ何なのだろうか?

 (5)著者によれば、アメリカ人は、歴史的必然を信じ、未来を確定したものと考え、その確定した未来で逆に現在を規定し、その確定未来へと進歩するように現在を改革するという生き方をしない。「今日が明日を規定する結果になる」という考え方はしても、「明日で今日を規定しよう」とは考えない。そして、こういう状態をもし混迷というなら、彼らは建国以来一貫して「混迷」を続けても、打って一丸となり、一つの大理想を目がけて突進することはなかった。と同時に、確定した未来を信じて突っ走り、それで自己を決定的に破滅させるような事件もなかった、という。

 この記述には正直戸惑った。私の理解しているアメリカ人像とちょっとかけ離れているからだ。壮大なビジョンを掲げ、そこに向かって邁進するのがアメリカ人だと思っていた。それが理性信仰の典型的な思考パターンである。アメリカは、国家全体としても、「自由な経済と民主主義を世界中に広める」という大理想を掲げている。そして、経済面では世界中を巻き込んだ巨大な金融システムを構築し、政治面では反民主主義国への軍事介入を行う。それが行き過ぎると金融危機を招き、国際社会の顰蹙を買ってしまい、アメリカのプレゼンスを下げてしまう。それが「自己を決定的に破滅させるような事件」なのではないか?という気がするのである。




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