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渋沢栄一、竹内均『渋沢栄一「論語」の読み方』―階層を増やそうとする日本、減らそうとするアメリカ
渋沢栄一、竹内均『渋沢栄一「論語」の読み方』―売り込まなければ売れない製品・サービスは失格かもしれない、他

プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

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2015年06月06日

渋沢栄一、竹内均『渋沢栄一「論語」の読み方』―階層を増やそうとする日本、減らそうとするアメリカ


渋沢栄一「論語」の読み方渋沢栄一「論語」の読み方
渋沢 栄一 竹内 均

三笠書房 2004-10

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 (前回の続き)

 (3)
 信の効用は、社会の進歩とともに、いよいよその価値を増して、その応用の範囲を拡張し、一人より一町村へ、一町村より一地方へ、一地方より一国へ、一国より全世界へと、信の威力は、国家的、世界的になった。
 世界人類のために尽くし、あるいは国家同胞のために尽くそうと思えば、まずその根源にさかのぼり、わが故郷を愛し、わが家を愛さなくてはならない。近きより始めて遠きに及ぼすのが自然の順序でもあり、人の常識でもあろう。
 日本が多層社会(階級社会ではない)であり、階層が多重化されているほど安定化する傾向にあることは、本ブログでも何度か触れた(「山本七平『山本七平の日本の歴史(上)』(2)―権力構造を多重化することで安定を図る日本人」、「室谷克実『呆韓論』―韓国の「階級社会」と日本の「階層社会」について」など)。

 個人は一人では生きて行けないため、家族の庇護を必要とする。家族は単独では家計を維持することができないため、学校に子どもを送り込んで基礎能力を習得させ、さらに学校から企業という生産の場に人材を供給する。企業は自らが存続するために市場を必要とする。市場は放っておくと暴走するため、社会による牽制を必要とする。社会はルールを運用する力が十分でないため、行政府を必要とする。行政府は、ルールの運用はできてもルールの形成力がないため、立法府を必要とする。そして、日本の場合は、全システムの頂点に天皇が存在する。

 こうして、個人⇒家族⇒学校⇒企業⇒市場⇒社会⇒行政府⇒立法府⇒天皇(⇒神?)という多重システムができ上がる。さらに、以前の記事「【ドラッカー書評(再)】『現代の経営(上)』―実はフラット化していなかった日本企業」で述べたように、企業という1つの階層をとって見ても、その内部は多重構造化している。よって、全体としては非常に重層的なシステムが形成されることとなる。下の階層が上の階層を敬うことが、孔子の言う「忠」や「孝」であり、その基本形は、家族内の長男や父親に対する敬意に求めることができる。

 一方、アメリカにおけるキリスト教の場合は、個人と神が直接つながることを理想とする。両者の間には、できるだけ他の組織や階層を入れないようにする。ほぼ無条件で両者の間に入ることができるのは、個人と神とを媒介する教会ぐらいである。通常、個人の権利を守るために国家や政府が必要とされるが、アメリカではその権力は大幅に制限される。新自由主義を掲げるアメリカが、いわゆる小さな政府を志向するのは偶然ではない。

 20世紀になって企業(特に大企業)が台頭すると、企業の正統性をめぐって論争が起きた。日本であれば、企業は人々の生活水準を引き上げ、人々の幸福に貢献するという当たり前の話が、アメリカでは長い間受け入れられなかった。アメリカでは毎年、政府と企業に対する信頼度の調査が実施されている。政府に対する信頼度はまだしも、企業に対する信頼度を調査するのは、日本では考えられないことだ。それだけ、アメリカ人は企業の権力を強く警戒している(※)。

 アメリカで聖書の創造論を信じる人々は、進化論を教える学校教育に反発して、家庭で独自に教育を行う。急進的な左派の人は、家族すら否定しようとする。親は子どもの自由を阻害するというのがその理由だ。日本では福島瑞穂氏がこの考え方に近い。家族制度に否定的な福島氏は事実婚を貫いており、さらに自分の子どもが18歳になった時には「家族解散式」をやると宣言していた。このように、キリスト教では、個人⇒(教会⇒)神というシンプルな構造を志向する。

 日本のシステムは、表面的には下の階層が盲目的に上の階層の権威に従属しており、自由が制限されている、あるいは自由が全くないように映る。しかし、実際にはそうではない。むしろ、上からの権力の影響を受けているからこそ、下の階層は自由に振る舞うことができる。日本的多重システムにおいては、上からの力が働くだけでなく、下から上に向かう力も存在する。これを社会学者の山本七平は「下剋上」と呼んだ(前述の「山本七平『山本七平の日本の歴史(上)』(2)―権力構造を多重化することで安定を図る日本人」を参照)。

 上の階層は、権威の上にあぐらをかいていてはならない。下の階層がもっと自由を発揮し、上の階層に対する成果を大きくすることができるように、下の階層に対して何ができるかと問う。言い換えれば、上の階層から下の階層に下りてくる。例えば、行政府は社会に対し、現実の世界で運用しやすいルールとは何かを問う。市場は企業に対し、企業活動に無理が生じないよう市場側で自制できることはないかと問う。学校は家庭に対し、家庭内のしつけをどうすれば支援できるかと問う。これを孔子の言葉を借りれば「下問」と呼ぶ。
 子貢問うて曰く、孔文子何を以てこれを文と謂うやと。 子曰く、敏にして学を好み、下問を恥じず。これを以てこれを文と謂うなり。〔公冶長〕

 (中略)下問を恥じずとは、ひらたくいえば、自分の知らないことは誰にでも尋ねるという意味にほかならない。こんなことはなんでもないようであるが、さて虚心坦懐に、知らざるを知らずとして、自分より下位の人に教えを求めるということは、実際容易にできるものでない。たいていの人は、知らざるを知らずとせず、知ったふりをする。下問を恥じない境地に達するのは、よほどえらい人でなければできないことである。
 以上、稚拙だが今持てる知識を最大限に動員して日本の社会構造を描写してみた。この縦に長く伸びた社会システムの詳細と、階層間の上下の力の作用を明らかにすることが、私の中長期的な課題である。ところで、『致知』2015年6月号を読んでいたら、日本は縦の関係が昔に比べて脆弱になっているという指摘があった。大げさだが、私の探求が、かつての日本にあった強い縦の関係を取り戻すことに少しでも貢献できればと考えている。
 親への「孝」や年長者への「弟」はいわば縦軸の関係です。(中略)「孝弟は仁を為すの本」とは孝弟という縦を立てることが「仁」、つまり人と人との横の繋がり「絆」をも強めるということにもなります。

 ところで、戦後教育の基本は民主主義、個人主義の名のもとに縦軸を断ち、すべてを横にすることを理想としました。現に占領軍の日本教育使節団員で高松宮の教育係を務めたオーティス・ケリーは『縦軸のない日本』という著書で、日本は縦軸が強すぎる、横軸を強くするようにということを述べています。縦を横にすることは、日本弱体化の一因にもなりました。
致知2015年4月号一天地を開く 致知2015年6月号

致知出版社 2015-06


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 《2016年2月2日追記》
 アメリカ合衆国憲法には法人に関する規定はない。しかし、1886年、私有財産の権利を強化するために、法人に自然人と同等の法による保護が認められた。これが決定的な転機になった。リンカーン大統領は、法人を非常に警戒していたという。「法人が王座に就き」、「一部の人に(富が)集中し・・・共和国が破壊されるのではないか」と恐れ、「神よ、私の不安が的外れなものであると立証してください」と祈った(ヘンリー・ミンツバーグ『私たちはどこまで資本主義に従うのか―市場経済には「第3の柱」が必要である』〔ダイヤモンド社、2015年〕)。


私たちはどこまで資本主義に従うのか―――市場経済には「第3の柱」が必要である私たちはどこまで資本主義に従うのか―――市場経済には「第3の柱」が必要である
ヘンリー・ミンツバーグ 池村 千秋

ダイヤモンド社 2015-12-11

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2015年06月05日

渋沢栄一、竹内均『渋沢栄一「論語」の読み方』―売り込まなければ売れない製品・サービスは失格かもしれない、他


渋沢栄一「論語」の読み方渋沢栄一「論語」の読み方
渋沢 栄一 竹内 均

三笠書房 2004-10

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 旧ブログの記事「論語が実学であることを身をもって証明した一冊-『渋沢栄一「論語」の読み方』」、「「個人的な怨讐」を超越した渋沢の精神力-『渋沢栄一「論語」の読み方』」で取り上げた本を約5年ぶりに読み返してみたら、色々な発見を得ることができた。

 (1)
 子曰く、人の己を知らざるを患えず、人を知らざるを患う。〔学而〕

 学問をするのは、自分の修養のためであって、人に知られるための虚栄心からやっているのではない。自分の学問が進んで人格がそなわってきたこを人が知ってくれなくても、心配することはない。自分が他人から認められないといってクヨクヨ思いわずらうより、他人の真価を見抜けない自分の低い能力を思いわずらう人になりたいものだ。
 陽明学者の安岡正篤は、「人を知らざるを患う」の「人」を、「他人」ではなく「自分」と解釈していることを以前の記事「安岡正篤『論語に学ぶ』―安岡流論語の解釈まとめ」で述べた。
 もっと突っ込んで考えると、「人が己を知ってくれようがくれまいが問題ではない、そもそも己が己を知らないことの方が問題だ」と解釈した方が、もっと切実に感じられる。案外人間というものは、自分自身を知らないものである。自分が自分を知らないのだから、人が自分を知らないのは当然である。したがって、問題は、まず己が己を知ることでなければならない、ということになる。
(「安岡正篤『論語に学ぶ』―安岡流論語の解釈まとめ」より)
 ただ、『論語』の別の箇所には、次のような文章もある。
 子曰く、位なきを患えず、立つ所以を患う。己を知ること莫きを患えず、知らるべきを為すを求むるなり。〔里仁〕
 この文章も踏まえて考えると、基本的な解釈としては、「他人が自分を知らないことを心配するのではなく、自分の方がもっと他人のことを理解し、他人が欲していることを施し、他人に認められるような能力を身につけよ」ということになるのだろうと思う。とはいえ、結局のところ、他者理解と自己理解はつながっているのもまた真理であると考える。

 人生とは、自己の人格の中に宿る神の全容を明らかにする旅である。キリスト教の場合は、唯一絶対の神を知覚するために、聖書の教えを守り、教会で祈りを捧げる。一方、多神教文化である日本においては、それぞれの人の中に異なる神が存在している。

 自らの中に宿る神を知るためには、自己の内面と対話をするのも一つの手だが、それ以上に他者と積極的に交わることが重要である。その他者は、自分とは異なる神を宿しているかもしれない。それでも構わない。いや、異なる神を宿しているからこそ、交流する意義がある。なぜならば、真の学習は、異質と出会うことで達成されるからだ。したがって、日本の場合は、他者理解と自己理解を切り離すことができない(以前の記事「岩田靖夫『ヨーロッパ思想入門』―キリスト教は他者への愛を説くのに、なぜかヨーロッパ思想は他者を疎外している気がする」を参照)。

 (2)
 子張、禄を干(もと)めんことを学ぶ。子曰く、多く聞きて疑わしきを闕(か)き、慎んで其の余を言う。則ち尤(とが)め寡(すくな)し。多く見て殆(あや)うきを闕き、慎んで其の余を行う。則ち悔(くい)寡し。言うて尤め寡く、行い悔寡ければ、禄その中に在り。〔為政〕

 子張が先生の孔子に、役人となって給料をもらう道を質問した。すると孔子はこう答えた。「役人になりたければ自ら修養して実力を充実せよ。その修養の方法は、多く聞いて広く道理を知っても、自分で確信できないことはひかえて、間違いないと信ずることだけを人に語るようにし、多く見て広く物事を知っても、大丈夫と思えない行為はやめて、道義に反しないと確信できることだけを行なえば、とがめられることなく、また自ら後悔することもない。

 こうして言動に悔いがなければ、世間の評判もよく、長上にも知られ、自分から売り込まなくても、必ず登用される。そうすれば給料は自然についてくる」
 私が持っている版の帯には、「孔子に学ぶ”月給を確実に上げる”秘訣!」とあり、「『論語』はそういう目的のために読む本なのだろうか?」と思いながらこの本を購入した記憶がある。その秘訣の一部に該当するのがこの引用文である。簡単に言えば、修練を通じて自己の価値を高めれば、自分から売り込まなくても、自然に他人から重宝されるようになる、という意味である。月給を上げるのは目的ではなく、あくまでも結果にすぎない。

 これを企業に当てはめて考えると、自社の製品・サービス、さらにはその製品・サービスを生み出す経営の仕組みを磨き続ければ、自然と顧客はついてくるのであって、顧客に対して必死に売り込まなければならないような製品・サービスは失格である、ということになるだろう。

 ピーター・ドラッカーは、「マーケティングの究極の目的は、販売活動をなくすことである」という名言を残している。私は、最初にこの言葉を目にした時、「顧客のニーズが高度化し、製品やサービスがますます複雑になっている現代においては、むしろ販売・営業活動が重要になるのではないか?」と短絡的に思っていた。つまり、売り込みは不可欠だと考えていたわけだ。

 だが、顧客に対して機能や効能をあれこれと説明しなければならないのは、やはり製品・サービスとしては不十分だと思い直した。顧客が抱える問題が高度化しているからといって、解決策である製品・サービスを複雑にしてしまうのは、問題に対する洞察が浅い証拠であり、企業側の甘えである。たとえ非常に厄介な難題であっても、しっかりと考え抜けば、逆説的だが解決策は意外なほどシンプルになることが多い(数学の世界ではそういうことがよくある)。それを解りやすい製品・サービスに落とし込めば、売り込まなくても自ずと顧客に受け入れられるはずだ。

 顧客に製品・サービスを売り込まないと言っても、自社に閉じこもって顧客のニーズを想像しながら製品・サービスを開発すればよいというわけではない。それどころか、積極的に顧客のところへ出向く必要がある。顧客は現在どんな製品・サービスを使い、何をしているのかをじっくりと観察する。また、顧客は何で困っているのかをじっくりと傾聴する。その内容を踏まえ、自社製品・サービスを販売したいという欲求を抑えて、客観的な立場から何かしらのアドバイスを行う。

 とはいえ、顧客はいきなり見ず知らずの人に自分の困りごとを話してはくれない。最初は1つか2つの簡単な話しかしてくれないだろう。それでも、その1つか2つの問題に対し、真摯に回答する。すると、顧客との間に少し信頼関係ができる。顧客は、次はもう少し難しい問題をこの営業担当者に相談してみようと考える。営業担当者は再び、顧客から提示された問題に丁寧に回答する。そうすれば、また少し信頼関係が厚くなる。これを繰り返すと、顧客は営業担当者のことを頼りになる相談相手と見なし、ようやく自分の悩みの”本丸”を打ち明けてくれるようになる。そこにたまたま自社の製品・サービスがあてはまれば、それを謙虚に勧めるのである。

 営業担当者は、何度も足繁く顧客の元へ通わなければならない。顧客の立場に立って考えると、自分の貴重な時間を割いて何度も営業担当者に会うわけだから、営業担当者は自分と会うだけの価値があると顧客に思ってもらう必要がある。そのためには、前述の努力を積み重ねるしかない。自社の売り込みが目的ではなく、単に顧客の話を聞きたい、そして何かアドバイスできることがあればしたいという目的で顧客とのアポが取れる営業担当者は、超一流だと思う。

 《参考記事》
 『速効!「営業」学(『週刊ダイヤモンド』2014年3月22日号)』―コンサルティング営業とはつまり御用聞き営業である
 『発想力(『致知』2014年12月号)』―「バッタ営業」でも「人間力営業」でもいいじゃないか?


 (続く)




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