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『致知』2017年9月号『閃き』―大きな声を出す経営で社員を健康に
『維新する(『致知』2017年8月号)』―デビュー25周年のMr.Childrenの歌詞を解剖する
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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京23区、神奈川県川崎市・横浜市を中心に活動する中小企業診断士・コンサルタント。

 専門領域は、(1)経営ビジョン・事業戦略の策定、(2)ビジョンや戦略とリンクした人材育成計画の立案・人事評価制度の構築、(3)人材育成計画に沿った教育研修プログラムの企画・開発。

 モットーは「日々改善、日々成長」、「実事求是」、「組織のためではなく知識のために働く」、「奇策は定石より先に立たず」、「一貫性(Consistency)」、「(無知の知ならぬ)無知の恥」

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 ブログタイトルに、oasisの往年の名曲『Whatever』を入れてみた。

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マネジメント・フロンティア
~終わりなき旅~


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こぼれ落ちたピース
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◆個人事務所「シャイン経営研究所」◆ シャイン経営研究所ロゴ


(一社)東京都中小診断士協会一般社団法人東京都中小企業診断士協会
(城北支部執行委員、青年部長、および国際部員を務めています)

NPOビジネスサポート特定非営利活動法人NPOビジネスサポート
(監事を務めています)

企業内診断士フォーラム(KSF)企業内診断士フォーラム
(独立診断士の立場から、企業内診断士の活動を応援しています)

Experian海外企業信用調査 海外企業信用調査(Experian)
(一緒にお仕事をさせていただいている「コンサルビューション株式会社」は、世界最大の信用調査会社Experianの正規代理店です)

【中小企業診断士は独学で取れる】中小企業診断士に独学で合格するなら「資格スクエア」中小企業診断士の安い通信講座なら「資格スクエア」
(以下の資格の講師をしています。
 ―ITパスポート
 ―情報セキュリティマネジメント
 ―経営学検定(初級・中級)
 ―中小企業診断士(企業経営理論、経営情報システム、中小企業経営・中小企業政策)
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2017年09月05日

『致知』2017年9月号『閃き』―大きな声を出す経営で社員を健康に


致知2017年9月号閃き 致知2017年9月号

致知出版社 2017-09


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 やや古い調査レポートになるが、独立行政法人 労働政策研究・研修機構の「職場におけるメンタルヘルスケア対策に関する調査」によると、16%弱の事業所でメンタルヘルスに問題を抱えている社員がおり、その人数は増加傾向にあるという。また、厚生労働省の「平成27年「労働安全衛生調査」(実態調査)」によれば、「メンタルヘルス不調により連続1か月以上休業または退職した労働者の状況」は、休業者が0.4%、退職者が0.2%であった。さらに、「現在の仕事や職業生活に関することで強い不安、悩み、ストレスになっていると感じる事柄がある労働者」の割合は55.7%と、平成25年調査より3.4%増加している。

 メンタルヘルス不調者が増加している要因は様々あるだろうが、個人的にはデスクワークが増えて、1人で黙々と仕事をする時間が長くなっていることが影響しているのではないかと思う。職場で言葉を発する機会が少なくなると、どうしても気分が憂鬱になるものである。よって、メンタルヘルス対策の第一歩としては、非常に凡庸な解決策だが、「職場で大きな声を出す機会を増やす」ことが有効であると考える。実際、「大声健康法」なるものも存在するそうだ。

 大声を出すと、身体に「オフ」の状態を作ることができる。大声によって心がすっきりするだけでなく、血行が良くなり、腹筋が収縮してお腹の働きもよくなる。すると、お腹と反対側の腰にもよい影響を与え、腰痛を和らげる効果もあるという。また、大声を出すと呼吸が深くなり、筋肉への血流も増加する。そして、ストレスホルモンのアンバランスさも低下し、ストレスが溜まりにくい身体になる。さらに、大声を出すと横隔膜の上下運動が激しく促進され、それに伴って胃や腸、肝臓などの内臓にマッサージ効果が起こって動きも血行もよくなり、身体も温まると言われている。

 大声健康法からはやや外れてしまうのだけれども、『致知』2017年9月号には、教育の現場に「速音読」を取り入れている教師の記事があった。
 速音読は、指定された範囲をできるだけ速く読む音読法ですが、速く読もうとする中で、素早く言葉のまとまりを掴むことができるようになり、また読む範囲の少し先を見る力もつきます。速く読めるようになると、普通の速さで読む時に余裕を持って音読できるようになりますし、脳科学的にも速音読は前頭前野を活性化させる度合いが高いそうで、短い時間で集中力や学習意欲を引き出せるのを感じています。
(山田将由「音読で子供たちの未来を開く」)
 大声健康法にも、ひょっとしたら脳を活性化させる効果があるのではないかと思う(そういう研究データをご存知の方がいらっしゃったら是非教えていただきたい)。かつて、日本の多くの企業では、朝礼で社員が皆揃って自社の企業理念を唱和する習慣があった。朝礼は企業理念を社員に浸透させ、社員の結束力を高めるのが主目的であるが、実は朝から全員で大きな声を出すことで、社員の脳や消化器の健康のために役立っていたのではないかと感じる。

 最近は、裁量労働制やフレックスタイム制の導入によって社員の出勤時間がバラバラになったこともあり、朝礼を行う企業が減少している。その影響かどうか解らないが、自社の経営理念を覚えていない人も増えている。先日も、ある研修で「自社の経営理念を覚えていますか?」と質問したら、誰も手が挙がらなかった。これは非常に残念なことである。難しいことかもしれないが、朝礼をもう一度復活させることは検討に値すると思う。朝礼では、経営理念を何度か繰り返し唱和するとよい。最初はゆっくりと読み上げ、経営理念に書かれた言葉の1つ1つの意味をかみしめる。そして、段々と唱和のスピードを上げ、脳の前頭前野を活性化させる。すると、社員は朝から経営理念を意識しながら全開モードで仕事に取り組むことができるだろう。

 朝礼はどちらかと言うと一方通行のコミュニケーションである。社員の健康をより高めるには双方向のコミュニケーションが効果的である。「コミュニケーション活発な人は健康度も高い かんぽ生命調査」によると、日常的な話ができる「知人・友人が11人以上いる」という人の53.5%が「現在、体調はよい状態である」、64.6%が「精神的な癒しやリラックスする時間を持つようにしている」と答えたのに対し、「知人・友人が0人」という人はそれぞれ36.5%、40.4%にとどまっている。知人・友人の数が多いほど、身体の健康だけでなく、心の健康への意識も高い。これは職場の人間関係においてもあてはまることだと思う。
 齋藤:最近、私が感じているのは、笑っている瞬間にアイデアが生まれることが非常に多い、ということです。昔、研究を1人でやっていた時はひたすら本を読んだり、思索に耽ったりしていたわけですが、いま学生と一緒にいる時は、とにかく爆笑できるくらいのものでなくては閃きは生まれないということを強く言うんです。それでニーチェの「祝祭的空間」という言葉にあやかって、それを授業でも実践しています。

 くだらない発言でも拍手をしハイタッチをしようと決めていて、どよめく練習までやるんですね。「おおーっ」って(笑)。誰が何を言っても盛り上がるように安全ネットを張った上で、私自身自分が思いついたことを喋り続け、彼らにもそれをやってもらう。
(川口淳一郎、齋藤孝、石黒浩「閃き脳をどう創るか」)
 こういうコミュニケーションは社員の心身を健康にするとともに、新しいアイデアを生み出すのに有益である。最近は、職場内にオープンスペースを設けて、社員のコミュニケーションの活性化を試みる企業が増えている。私はここで、2つのことに注意するべきだと思う。1つ目は、オープンスペースは誰でも自由に出入りできるものの、プライバシーは保護しなければならないということである。オープンスペースで話している内容が、外部で仕事をしている同僚に筒抜けであっては、突飛な意見を自由に言うのもはばかられる。もう1つは、いくら親しい同僚との間の会話であっても、また上司と部下という上下関係があるとしても、お互いに丁寧な日本語を使うべきだということである。粗雑な言葉遣いは知性を低下させ、ひいては心身の健康をかえって損なう。

 本号では、占部賢志氏が将棋の藤井聡太四段や卓球の張本智和選手などのインタビューに注目して、次のように述べている。
 中学生というと、中途半端な時期で影が薄かった。それが、ここにきて俄然注目されるようになったことは、いいことだと思いますよ。これだけ人気があるのは、彼らが以前のヒーローやヒロインに比べて言葉遣いが正しく、しかも内容も聞かせるものがあるでしょ。その点が際立っているからだと私は見ています。
(占部賢志「天晴れ中学生に拍手 「敬意」と「感恩」の教育」)
 確かに彼らは非凡な才能の持ち主である。だが、大人が中学生に負けているようでは恥ずかしい。何も高尚な言葉を使う必要はない。相手に敬意を払い、相手に対して解りやすい言葉を使って、大きな声ではっきりと語りかけることが重要である。相手のことを慮る気持ちもまた、心身を健康にするのにプラスではないかと考える。

 私は以前、中小企業向けの補助金事業の事務局員をしていたことがある。採択された中小企業について、補助金で何を購入したのか伝票類をチェックし、補助金を適正に支払うのが主な仕事である。事務局員は総勢60名ほどいたが、約6割が私と同じ中小企業診断士であった(残りの4割は大手企業のOBなど)。だが、大半が50~60代であり、私のような30代の人間はほとんどいなかった。50~60代の中小企業診断士には、大手企業出身者の人も多かった。大企業で経験を積んでいるのだからさぞ仕事もできるだろうと思いきや、中には中小企業の経営者に対して大声で乱暴な口を叩く人もいた。「こんな書類で補助金がもらえると思うなよ」、「この書類をこういうふうに直せと何回言ったら解るんだ」といった具合である。彼らはこんな態度で何十年も仕事をしてきたのかと驚くと同時に、彼らはきっと早死にするに違いないと思ったものである。

 社員の心身の健康を高めるために、大きな声で双方向のコミュニケーションをとる機会を設けようと言っても、いきなり実践するのは難しいかもしれない。そこで、取っ掛かりとして、「失敗分析」をお勧めする。どんな企業でも、製品開発や製造、マーケティングや営業で何らかの失敗をするものである。何か失敗が起きれば、関係者の間で原因を分析し、解決策を議論する。青森大学の男子新体操部で監督を務める中田吉光氏は次のように述べている。
 自分から発信する子は強いですね。人工知能が目覚ましい発達をしているような時代ですから、自分というものを持たない人間、それを発信しない人間は必要とされなくなると思うんです。ですから指示待ちも絶対に許さない。練習中に何か失敗をしたら、なぜ失敗したのか、じゃあどうすればいいのか、必ず本人に喋らせるなどして、少しでも発信する機会をつくるようにしているんです。
(中田吉光「男子新体操で人の心を揺さぶりたい」)
 ここでも、決して感情的になって乱暴な言葉を使ってはならない。また、失敗した人の人格を攻撃してもならない(日本人はよくこれをやりがちである)。失敗の原因を人に求めるのではなく、組織の制度や仕組みといったシステムに求めなければならない。こうした前向きなコミュニケーションをとることができれば、失敗からの立ち直りも早いであろう。

 私の前職の人事・組織コンサルティング&教育研修サービスのベンチャー企業は、業績が非常に悪かったのに、営業で失注してもその原因を全く分析していなかった。コンサルティングと自社のマーケティングを兼務していた私は、本来は営業会議に出席する権限を与えられていなかったのだが、社長にお願いして何度か営業会議に出席させてもらったことがある。すると、驚くべきことに、会議では営業担当者が手持ちの案件の進捗を淡々と報告するだけであった(以前の記事「【ベンチャー失敗の教訓(第28回)】営業で失注しても「敗因分析」をしない」を参照)。

 当時、前職の会社では、Salesforce.comを使って商談管理を行っていた。ITの管理も部分的に任されていた私は、営業担当者に失敗分析の意識を植えつけるために、システムで案件のステータスを失注に変更する際には、失注の理由を入力しなければ更新できないように仕様を変えたことがあった。しかし、今振り返ってみると浅はかな策だったと思う。システムに向かって1人で失敗の分析をすれば、余計に気分が落ち込むばかりである。やはり、会議の場で、まずは失注した営業担当者自身の口から失注の原因を発言させ、それに対して他の営業担当者がどのように考えるか意見を引き出し、参加者の見解を集約して受注確率を上げるための方策を建設的に議論できる方向へ持っていくべきだったと反省している。

 企業によっては、人間関係が非常にギスギスしていて、失敗分析を行おうものならば、失敗した人が周囲からつるし上げられてしまうことがあるかもしれない。社員の心身の健康が極度に損なわれた企業において、それでもなお大きな声でコミュニケーションをとり、社員の健康を取り戻そうとするならば、最後に残された手段は「挨拶」だと思う。出社したら「おはようございます」と言い、それを聞いた他の社員も「おはようございます」と言う。退社する時は「お先に失礼します」と言い、それを聞いた他の社員は「お疲れさまでした」と言う。挨拶は定型化されており、絶対に失敗がない。決められた言葉を元気よく発すれば、それだけでコミュニケーションが成立する。

 もちろん、コミュニケーションが機能不全に陥っている企業では、最初は挨拶すらまともに返ってこないだろう。それでも、企業のトップが率先して挨拶をする。これを最低でも2~3か月は続ける。心理学には「返報性の原理」というものがある。人は、相手から何かをしてもらうと、相手に対して見返りを与えたくなるという心理を説明したものである。社長から毎朝のように大きな声で挨拶をされる社員は、最初はうるさいと感じるかもしれないが、やがては返報性の原理に従って社長に挨拶を返さねばと思うようになる。こうして、社員が皆大きな声で挨拶をするようになれば、心身の健康の回復の糸口が見えてくるに違いない。


2017年08月01日

『維新する(『致知』2017年8月号)』―デビュー25周年のMr.Childrenの歌詞を解剖する


致知2017年8月号維新する 致知2017年8月号

致知出版社 2017-08


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 《参考記事》
 【感想】Mr.Children新曲「himawari」(映画『君の膵臓をたべたい』主題歌)の
 歌詞を解剖する


 今回の記事は『致知』の内容とはほとんど無関係に、今年デビュー25周年を迎え、私が愛してやまないMr.Childrenの歌詞について書くことをご容赦いただきたい。
 平凡な日常のように思えても、それは決して同じことの繰り返しではありません。私たちの心や魂にエネルギーを与えてくれるキラリと光る出来事は、少し意識さえすれば、人生のあらゆる場面に満ち満ちているのです。
(鈴木秀子「夢みたものはひとつの幸福 ねがつたものはひとつの愛」)
 Mr.Childrenもサザンオールスターズと同じく、人生の応援歌、恋愛の歌、社会風刺の歌など、様々なジャンルの曲を作ることができるバンドであった。「であった」と過去形で書いているのは、社会風刺の曲に関しては、Mr.Childrenはある時からぱったりと作らなくなったからだ。

 Mr.Childrenの社会風刺の曲と言えば、真っ先に思い出すのは「マシンガンをぶっ放せ」や「everybody goes~秩序のない現代にドロップキック」、「フラジャイル(「シーソーゲーム~勇敢な恋の歌」のカップリング)」、「So Let's Get Truth(アルバム『深海』収録)」、「傘の下の君に告ぐ(アルバム『BORELO』収録)」あたりである。ただ、社会風刺の曲はMr.Childrenのキャリアの初期に集中している。それ以降は数が減っていき、辛うじて2005年に発売された『Iラブ(※「ラブ」はハートマーク)YOU』に収録されている「ランニングハイ」や「跳べ」に社会風刺らしい歌詞が少し織り込まれた程度である。2007年に発売された『HOME』以降は、社会風刺の曲が姿を消し、僕の人生や君との愛を歌う曲に集中している。

 これにはいくつか理由があるだろう。あくまでも推測の域を出ないが、1つには、この頃から桜井和寿さんの精神状態が安定したこと、もう1つには、社会を批判することでお金を儲けることは、人の不幸を飯の種にしているようなものであり、それが許せなくなったということが挙げられるのではないかと思う。それよりも、ありふれた日常に目を向け、今自分が置かれている現状と対峙し、ちょっとした出来事がもたらす喜怒哀楽を素直に受け止めて、愛する君と一緒に生きる人生の意味をそこに見出していくという方向に転換した。2007年以降のMr.Childrenのテーマはこの1点に集中しており、この1点だけで2007年以降10年間も活動しているのである。

 渡辺和子氏の著書に『置かれた場所で咲きなさい』という本がある。タイトル通りの内容の本であり、人は必ずしも自分が望むような地位や役割を与えられるわけではない、それが仮に不遇に思えても、「神は決して、あなたの手に余る試練を与えない」のであって、微笑みと感謝の気持ちを持って無償の愛を相手に注げば、必ずその場所でその人なりの花を咲かせることができると書かれている。これは、ここ10年のMr.Childrenの歌詞の内容とぴったりと符合する。

置かれた場所で咲きなさい置かれた場所で咲きなさい
渡辺 和子

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 例えば、2015年のアルバム『REFLECTION』収録の「未完」では、「さぁ行こうか 常識という壁を越え/描くイメージはホームランボールの放物線/そのまま消えちゃうかもな/いいさ どのみちいつか骨になっちまう/思い通りに いかないことがほとんどで/無理に足掻けば囚われの身の動物園/いつか逃げ出してやるのにな/尖らせた八重歯 その日までしまう」と歌われている。「幻聴」の「向こうで手招くのは宝島などじゃなく/人懐っこくて 優しくて 温かな誰かの微笑み/遠くで すぐそばで 僕を呼ぶ声がする/そんな幻聴に 耳を澄まし追いかけるよ」という歌詞は、僕が目指しているのは宝島のような立派なものではないけれども、君の微笑みに呼応してこちらも微笑み返せば、明るい未来が見えるかもしれないと示唆している。

 Mr.Childrenが歌う愛も年々純化されているように感じる。初期のミスチルは、若者らしく欲望を抑えきれなかった「車の中でかくれてキスをしよう(アルバム『KIND OF LOVE』収録)」、歌の登場人物がダブル浮気をしていた「LOVE(アルバム『versus』収録)」、複雑な恋愛事情を歌った「ありふれたLove Story~男女問題はいつも面倒だ(アルバム『深海』収録)」などといった変化球をボンボン放っていた。ところが、2002年に発表された、その名もズバリのシングル「君が好き」あたりから、徐々に君への思いをストレートに表現するようになった。

 2012年の「常套句(アルバム『(an imitation)blood orange』収録)は「君に会いたい」と連呼しているし、前述の『REFLECTION』に収録されている「you make me happy」でも、趣味が自分とまるで違う君について「きみといるこの部屋が好き/きみといるこの暮らしが好き/You are the one. We are the one./今が好き」と包み隠さず歌っている。「運命」などは、40代後半に差し掛かったメンバーが歌うにはあまりにも純愛すぎて、聞いているこちら(聞いている私も30代中盤のおじさんなのだが)が恥ずかしくなりそうだった。

 今置かれている場所で、大切な人のために生きる―Mr.Childrenのここ10年のメッセージを端的にこう表すのであれば、私は少し反省しなければならないことがあると感じた。私は本ブログで、大雑把ではあるが日本の階層社会を「神⇒天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/NPO⇒学校⇒家庭」と描写し、天皇を除いた各階層の内部もまた、複数の階層に分かれていると書いてきた(天皇だけはお一人)。日本人はこの複雑な階層社会のどこかに位置づけられる。もちろん、ある人がある時は会社で働き、ある時は家庭で父親となるといった具合に、複数の役割を持つのが普通であるが、どんな人も主たる役割というものが決まっている。

 私は当初、日本人がこの階層社会の中を(神や天皇は例外として)自由に動き回り、適材適所に落ち着くと考えていた(以前の記事「室谷克実『呆韓論』―韓国の「階級社会」と日本の「階層社会」について」を参照)。だがその後、そこまでの自由は日本にはなくて、むしろ不合理な理由によって、適材とは思えない人材が特定の地位や役割を占めることが多いのではないかと思い始めた。日本では能力本位ではなく、徳があるとされる人が高い地位に就く傾向がある(旧ブログの記事「功ある者には禄を、徳ある者には地位を-『人事と出世の方程式』」を参照)。

 以前の記事「山本七平『山本七平の日本の歴史(下)』―「正統性」を論じる時に「名」と「実」を分けるのが日本人」でも書いたように、日本人は正統性を後から考える人種である。通常は、「その地位に就くのにふさわしい=正統性を持った人を選ぶ」のだが、日本人の場合は、先に人を選んで、「そうなってしまった以上は仕方がない。それをどうやって正統化するか」と考える。とはいえ、日本人は決して無能ではなく、以前の記事「『しなやかな交渉術(DHBR2016年5月号)』―「固定型」のアメリカ、「成長型」の日本、他」で書いたように「成長型」の人間であるから、地位や役割がその人を育てることも期待できる。ただ、本人が周りの期待通りに成長するかどうかはやってみないと解らず、運に委ねられている。よって、日本社会は能力面で見ると、整然と適材適所が実現されているわけではなく、非常にでこぼこの多い不平等社会である。

 その不平等を少しでも解消できるようにと、私が導入したのが垂直方向の「下剋上」と「下問」、水平方向の「コラボレーション」(これにも「下剋上」や「下問」のようにカッコいい日本語の名前をつけたいのだが、今のところ妙案がないため、「コラボレーション」としておく)である(以前の記事「【ドラッカー書評(再)】『断絶の時代―いま起こっていることの本質』―「にじみ絵型」の日本、「モザイク画型」のアメリカ」を参照)。これによって、各人は与えられた役割に閉じ込められず、縦横に”少し”はみ出すことで、能力を発揮できる自由と機会を増やすことができると考えた。この自由があるから日本は自由主義だと書いたこともあった(以前の記事「『首都の難問─どう解決するか(『世界』2016年11月号)』―日本は不平等だが自由な社会、他」を参照)。

 だが、最近の私はこの「下剋上」や「下問」、「コラボレーション」を強調しすぎていたというのが反省の内容である。「下剋上」や「下問」、「コラボレーション」をする前に、まずは本分を全うしなければならない。つまり、自分を真っ先に必要とする人のために愛を注ぐということである。たとえその相手が能力的に見て適材だとは思えないとしても、である。上司のために尽くす、顧客のために尽くす、家族のために尽くす。私は最後のことが最も大切だと思う。(特殊な事情を抱えた人もいるが、)家族としての役割を持たない人はほとんどいないからである。

 家族、特に愛する人のために愛を注ぐ。しかも、見返りを求める愛ではなく、無償の愛である。これが人間関係の基本である。昔、前職のベンチャー企業で、起業家として成功している人は、家族も大事にしているから成功したのか、家族を犠牲にして仕事に全てを注いだから成功したのかという議論をしたことがある。明確な結論は出なかったが、前職のグループ会社3社の社長は皆家族関係が崩壊しており(ある社長の息子は引きこもりのニートになり、ある社長は妻を捨ててキャバ嬢と再婚した。もう1人の社長はどうなったか忘れた)、かつ3社とも業績が劣悪であったため、やはり家族は大事にするべきではないかとの見解に至った。愛する人との関係を抜きにして、「下剋上」や「下問」、「コラボレーション」を論じることはできない。

 私は最近ブログで政治について論じることが増えた。これは「企業/NPO」という階層に位置する私からすると「市場/社会」、「行政府」を超えて「立法府」を論じていることになるため、3階級特進である。つまり、本分を明らかに超えている。そんなことを高尚ぶって論じる前に、愛する人との関係を本当に大切にしているのかというMr.Childrenの声が聞こえてきそうだ。

 先ほど、Mr.Childrenは社会風刺の曲を書くのを止めたと書いたが、別の言い方をすれば、自分の力ではどうしようもできないことには触れないということでもある。例えば、「空風の帰り道(「HERO」のカップリング)」には「昨夜見たテレビの中/病の子供が泣いていた/だからじゃないがこうしていられること/感謝をしなくちゃな」というくだりがある。また、「ひびき(「箒星」のカップリング)」には、「去年の誕生日 クラッカーを鳴らして/破裂する喜びに酔いしれていたけど/外を歩いたら銃声が聞こえる/あの場所じゃ その音は 悲しげに響くだろうな/君が好きで 君が好きで 涙がこぼれるんだよ/血生臭いニュース ひとまず引き出しにしまって/風のように 川のように 君と歩いていく」という歌詞がある。

 最初に聞いた時は冷たい言葉だと思ったが、実はそうではない。同情したとしても子どもの病が治るわけでもなく、かの地の戦争が止まるわけでもない。だとすれば、その同情には何の効果もなく、むしろ他人の不幸をだしにして、「自分たちはこんなひどい目に遭わなくてよかったね」と優越感に浸っていることになる。これは傲慢以外の何物でもない。自分の手の届かない他人の不幸などは見ずに、今自分の前にいる人をまずは愛せよというメッセージなのだと思う。

 愛する人との関係で言うと、Mr.Childrenの歌詞にはもう1つ興味深い特徴がある。普通、愛する人とは価値観や考え方が似通っていき、まるで2人で1つであるかのように溶け合うのが理想のように思える。だが、前述の「君が好き」には、こんな歌詞がある。「僕の手が君の涙拭えるとしたら/それは素敵だけど/君もまた僕と似たような/誰にも踏み込まれたくない/領域を隠し持っているんだろう」。愛する人同士であっても、相手に公開しない自分だけの部分を持つ。つまり、お互いに、相手とは決定的に違う部分がある。逆説的だが、違いがあるからこそ、相手を1人の人間として尊重できる。前掲の『置かれた場所で咲きなさい』にはこんな文章がある。
 「人格」である限りは、あなたと相手は違いますし、違っていていいのです。相手もあなたと同じ考えを持たないで当たり前。「君は君 我は我也 されど仲よき」という、武者小路実篤さんの言葉があったと思います。そういう気持ちが大事なのです。自分が一個の人格である時、初めて他人とも真の愛の関係に入れるのです。
 通常は、愛する人が自分と同じであってほしいと思いたくなる。だが、この考え方を拡張していくと、「人類を皆愛するべきだ」という宗教的な愛の観念と、「愛する人は皆自分と同じ考えであるべきだ」という2つが結びついて、人類は皆自分と同じ考えでなければならないという結論に至る。つまり、一が全体であり、全体が一であるという、私が本ブログで何度も恐れてきた全体主義につながってしまう。「つよがり(アルバム『Q』収録)」には「着かず離れずが恋の術でも/傍にいたいのよ」という歌詞がある。愛する相手のことを全て知る必要はない。ただそっとそばにいて、相手が自分と違う部分を持っていることを認め、それを尊重する。それが全体主義という虚構を回避し、真の愛の関係を築くことにつながる。


2017年07月05日

『師と弟子(『致知』2017年7月号)』―学校が企業への就職斡旋機関になったら教育は死ぬ、他


致知2017年7月号師と弟子 致知2017年7月号

致知出版社 2017-07


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 (1)『致知』2017年7月号の特集は「師と弟子」である。法然と親鸞、如浄と道元、細井平洲と上杉鷹山、賀茂真淵と本居宣長、佐久間象山と吉田松陰といった師弟関係が紹介されている。私の師匠はと言うと、残念ながら私は人間が浅いため、心の底から付き従おうと思えるようなリアルの師匠はいない。私が勝手に師と仰いでいるのはピーター・ドラッカーだけである。ドラッカーのように、歴史に関する深い造詣を持ち、経済、政治、社会、文化などを巨視的に眺めながら、企業や非営利組織のマネジメントを人間中心に解りやすく論じることが私の目標である。

 中小企業診断士の世界にはすごい人はいないのかと聞かれそうだが、これもまた残念ながら否と答えるしかない。「この人は非常に優秀である」という評判はほとんど聞かない。「あいつは仕事ができない」、「仕事の前に人間としてなっていない」といった悪評ばかりが私のところに集まってくる。吉川英治の「我以外皆我が師」という言葉を知って以来、私はどんな診断士からも何かしらを学ぼうと努めているものの、それでもやはり私自身の生来の完璧主義が邪魔をして相手のあら捜しをしてしまい、人間全体として尊敬できる人になかなかめぐり合えない。

 例えば、メールで長文を改行せずに送ってくるだけで、私は「この人は仕事ができないのだろう」と勘ぐってしまう。要点をきちんと整理して、相手に解りやすく伝えるという配慮ができない人だと思ってしまう。また、コンサルタントは文書が唯一の成果物であるのにもかかわらず、WordやExcel、Powerpointを使いこなせない診断士が多すぎる。私は、WordやPowerpointで、半角と全角の数字やカッコが混在しているだけでも許せない人間である。文書が上手に作成できない分を、しゃべりでごまかそうとする人も多い。そういう人の話はたいてい論理的にまとまりがなく、「それから・・・」、「あと1つ・・・」、「そういえば・・・」といった具合に、思いつきでどんどんと話が長くなっていく傾向がある。「診断士は時にしゃべりではったりをかますことも必要だ」と堂々と言う人もいるぐらいだから、困ったものである(身内の批判はこのくらいにしておこう)。

 (2)
 童門:松下村塾は松陰の叔父である久保五郎左衛門が経営していた頃は、読み書き算盤を教える実用塾でした。(中略)ところが、久保からこの塾を譲り受けた松陰は読み書き算盤など全く教えない。それよりも「目を開けて世間をよく見よう。毎日起こっている出来事をきちんと受け止めよう。その出来事と政治の関わり合いを深く考えよう」と説くんですね。(中略)松下村塾を就職斡旋学校と思っていた親からすれば、政治大学校になったのですから、泡喰っちゃった。松陰は危険な思想家だというので弟子を遠ざけてしまったことも確かです。この頃の松陰にとって弟子たちは、何かを教える相手ではなく、共に学び、共に行動する学友だったんです。
(童門冬二、中西輝政「歴史に学ぶ師と弟子の系譜」)
 私は本ブログで何度か、日本の多重社会構造を「神⇒天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/NPO⇒学校⇒家庭」というラフなスケッチで書いてきた。階層社会であるから、上の階層は自らが欲するものを下の階層に命じて提出させる。この考え方に従うと、私が「企業/NPO⇒学校」と書いている部分には、「企業やNPOが欲している実務的な人材を学校が教育して供給せよ」という意味が込められていると思われるかもしれない。

 しかし、私は決してそうとは考えていない。むしろ、学校はいかに「今すぐには役に立たないこと」を教えられるかが重要である。最近は大学への進学率が高まり、大学間で生徒の取り合いが激化しているため、他の大学と差別化するために就職・進路相談に力を入れ、就職率の高さを売りにしている大学が増えている。これは危険信号である。「今すぐに役立つこと」を教育するのは、大学よりも、学習と実践が密接にリンクしている企業やNPOの方が長けている。大学が企業やNPOと同じフィールドで勝負しても勝ち目はない。大学は、企業やNPOにはできない教育をするべきである。繰り返しになるが、「今すぐには役に立たないが、将来ひょっとしたら役に立つかもしれない知識」を教えることが大学の役目である。短期的な実用性とはかけ離れた知識をどれだけ教育・研究しているかが、大学の成熟度、さらにはその国の成熟度を表していると思う。

 そういう意味で、大学が教える一般教養(リベラルアーツ)は非常に重要である。一般教養は、企業やNPOに入りたての頃は全く役に立たない。むしろ邪魔ですらある。ところが、組織に入って何十年か経ち、人の上に立って組織をマネジメントするようになると、一般教養が必要になってくる。組織は社会の一市民として役割を全うする存在であるから、社会や倫理に関する深い理解が求められる。また、部下を動かしたり、顧客をはじめとする様々なステークホルダーと協力したりするためには、人間を洞察することも必要である。さらに、リーダーシップを発揮するには、自分の軸をはっきりとさせる必要があり、自分とは何者かという問いに答えなければならない。つまり、哲学的に思考しなければならない。そして、こうした社会観、倫理観、人間観、哲学的思考を支える大きな流れとして、歴史観を持つことも不可欠である。

 昔の経営者の文章と現在の経営者の文章を比較すると、一般教養の点で大きな差があるように感じられてならない。昔の経営者は、大きな世界観を持ち、歴史に学び、政治、経済、社会を大局的にとらえる視点を持っていた。その上で、崇高な社会的使命を掲げ、その使命を何としてでも達成するために、人をどのように育て、活かすかということに心を砕いていた。一方、現在の経営者は、経営コンサルタントがアメリカから持ち込んだ概念やフレームワークを使って語っているだけである。いや、概念やフレームワークに使われているのは経営者の方である。だから、文章を読んでいても迫力に欠ける。こういう経営者たちが、自分の在任中だけは何事もなく会社を経営しようと考えた結果、現在多くの日本企業が苦境に陥っているのではないかと思う。

 以上のような「企業/NPO⇒学校」の関係を、今度は「市場/社会⇒企業/NPO」にあてはめると、次のようなことが言えるのではないかと思う。通常、市場や社会は企業やNPOに対して、今抱えている経済的/社会的ニーズを充足する製品・サービスを提供することを要求する。企業/NPOはそのニーズを汲み取って、市場/社会に対して製品・サービスを提供する。しかし、これだけの関係では実は不十分であって、企業/NPOは「今すぐには役に立たないかもしれないが、将来ひょっとすると役に立つかもしれない」という付加価値をつけて製品・サービスを提供するのが望ましいのではないだろうか?
 山本:越後さん(※伊藤忠商事中興の祖と言われる越正一のこと)も快諾してくださったのですぐに向かったところ、トラック業界が求めている物とうちの商品ではかなりニーズに違いがあるということで、商談は成立しませんでした。後日、そのことを越後さんに報告に伺ったところ、「おまえ、それで帰ってきたんか。そんなもん、相手のニーズが合おうがどうかなんて関係あるかい。あんたがうちの商品をどう使うか考えてでも買えと言うてこい」って、もう一回行かされたんです。
(山本富造「教えずして教える 経営の師・越後正一の流儀」)
 これは極端で異質な例だが、私が言いたいのは、単に相手の短期的なニーズに合った製品・サービスを提供するのではなく、長期的・大局的な視点に立って、顧客がいつか気づくであろうニーズを先取りしておき、将来的に顧客がその機能の価値を認めて使ってくれることを期待して販売するべきではないか、ということである。これは、現代の大量生産・大量消費に対するアンチテーゼである。なぜなら、昔の陶磁器のように「使えば使うほど味が出てくる」ような製品・サービスを作るすることを意味するからである。耐久財の場合、製品の寿命を意図的に短くする計画的陳腐化ではなく、少なくとも製品の寿命を延ばすことが必要である。消費財の場合は、長期間使用・摂取することが顧客にとっての価値増大になるような製品設計をしなければならない。

 残念ながら、今の私にはこれといった具体的な方策がない。このような付加価値を実現する製品・サービス開発とは一体どのようなものなのか、今後の研究課題としたい。ただ1点、気をつけなければならないのは、将来ひょっとしたら役に立つかもしれない機能をつけ加えるべきだと言うと、日本企業ではすぐに技術者が競い合って、あれもこれもと機能を追加し、非常に使い勝手の悪い製品・サービスを作り上げてしまう。結果的に、そういう製品・サービスはすぐに顧客に捨てられる。これでは私が目指す企業と顧客の関係にはならない。こういう罠を避けながら、昔の陶磁器のような製品・サービスをどう開発すればよいのか、引き続き考察していきたい。

 (3)
 牧野:1日、2日でできるものじゃありませんからね。毎日仕事もしっかりこなしながら、睡眠時間を2、3時間くらいまで削って、大体40日間くらいかけて(※コンテストに出すケーキを)つくり上げていくわけでしょう。やっとできあがっても一瞬でバーン(※と比屋根会長に壊されるもの)だから、「ええっ!」と(笑)。私も若い頃はショックでした。
(比屋根毅、牧野眞一「我ら菓子づくりの道を極めん」)
 (※西田)王堂先生は日本春秋書芸院の総裁を務められ、当時全国の小中学校の習字の教科書をお一人で書かれるほど大変高名な方でした。(中略)「書に向かうことは、自分と対決することだ。上手でも下手でも、書の気持ちになって書け。余念を挟まず、上手に書こうとするな」これは先生がよくおっしゃっていました。それにお弟子さんが書かれた字を見て、すごい剣幕で「こんなのは字ではない。わしはそんなものを教えたことはない」と、バーンとおっ返されることも度々ありましたね。
(菅谷藍「本気になるから伝わるものがある」)
 上司が部下の成果物をバーンと壊すと、最近はすぐにパワハラだなどと騒がれるから、難しい世の中になってしまったものである。私は前職でコンサルティング&教育研修のベンチャー企業にいて、色々な大手コンサルティングファームの職場の話を聞いたが、たいていどのコンサルティングファームでも、マネジャーが若いコンサルタントの作成したPowerpointの資料を目の前で破り捨てるという事件が発生していた。ただ、部下の成果物を破り捨ててもなお尊敬されるマネジャーというのはいるもので、部下の成果物を破り捨てたがゆえに信頼関係が崩壊してしまうマネジャーとの間には何かしらの差があるようである。

 端的に言えば、部下のためを思って成果物を破り捨てるのか、ただただ自分の怒りに任せて成果物を破り捨てるのか、という違いである。部下のためを思って成果物を破り捨てるマネジャーは、その後のフォローもしっかりとしている。部下を飲みに誘って心理的なケアをし、どういうふうに仕事をすればよいのか具体的にアドバイスを与える。部下がやり直しで作成した成果物を、今度はじっくりと時間をかけて添削する。成果物の品質が要求水準を満たしたら、ご苦労様とねぎらう。こういうことが自然にできるマネジャーが望ましい。(1)とも関連するが、人間の感情の機微に敏感で、人間観を持って部下に接することのできるマネジャーがやはり尊敬される。

 稲盛和夫氏は、昔から役員の仕事をくそみそにこき下ろすことがあるらしい。それでも自分について来てくれる役員には感謝していた。ある時、稲盛氏は役員に対して、「何でいつも滅茶苦茶に叱っているのに自分について来てくれるのか?」と尋ねた。すると、役員は「どんなに怒られても、最後は稲盛さんが『ありがとう』と言ってくれるからです」と答えたそうである。もちろん、稲盛氏とそりが合わなくて辞めた役員も少なくないだろうが、稲盛氏が人間観を持って人間を大切にしたからこそ、経営チームが機能し、複数の企業で大きな成果を上げられたのだと思う。



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