2013年10月23日
森和朗『甦る自由の思想家鈴木正三』―個人優先・共同体優先のどちらから出発しても全体主義に行き着いてしまう?
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童門冬二氏の著書『鈴木正三 武将から禅僧へ』を読んで感じた3つの疑問―(1)自由の思想家でありながら、江戸時代の身分制度を固定的にしかとらえられなかったのはなぜか?(2)仏教とキリスト教の共存を認めず、仏教の教理による一方的なキリスト教の論破を試みたのはなぜか?(3)江戸幕府絶対主義に嫌気がさして出家したにもかかわらず、仏教を広めるために国家権力の力を借りようとしたのはなぜか?―に対する答えを求めてこの本を読んでみた。結論から言うと、満足した答えは得られなかった。(1)に関しては、
士農工商の身分制度がびくともしないことぐらい、正三は百も承知であったし、自分からびくつかせるつもりもなかった。この身分制度が固まってからまだ日も浅く、いまそれがぐらつきだしたらまた戦国の地獄に戻ってしまう。と、何とも歯切れが悪い。身分の自由という意味では、江戸時代よりも戦国時代の方がはるかに自由であった。しかし、戦国時代の地獄絵図をその眼に確かに焼きつけていた正三は、そんな不安定な自由よりも、身分制を通じて社会が安定に向かうことの方を望んだのかもしれない。結局のところ、正三が追い求めた自由とは、
しかし、正三はそれが盤石のものとも、永遠不変のものだとも思っていなかったかもしれない。それに、運用の仕方次第によっては、それはもっと堪えやすいものにできるし、いくらかは平等に近づけることができる。正三は夢に託して身分の逆転を語りながら、過分な年貢の取立てを緩和したり、身分の壁を超えて有能な人材を抜擢するなど、それをもっと融通のきくものにすることを示唆したかったようにも思える。
権力と対決し、あわよくば権力を奪い取ることに自由を見出すのではなく、権力とはほどほどに共存しながら、自分たちの共同体の中で仲間と打ち解けながら平穏に暮らすことであった。(3)に対する答えは、この文言に間接的に表れているように思える。正三の言う自由は、西欧の基本的人権が言うところの生来的な自由とは異なり、権力との共存や共同体における実践を通じて獲得される。そして著者は、これこそが日本人らしい自由であると指摘している。著者は、正三の著書『驢鞍橋』から次の文章を引用している。
それ人間といふは、自らを忘れて他を恵み、危ふきを救ひ窮まれるを助け、物ごとに情けを<先とし、憐む心あるを仁とすと云へり。慈悲正直にして、義を正すを人間と教え、さてまた、人の面をはって我が手柄とし、面がまちにて人を驚かし、我に劣るを賤しめ、及ばざるをそねみ、欲心我慢を専らとする者は、いかに形人間なりとも、これ畜生なり。よくよく言ひ聞かせよ。このように、自我を抑制して他者を尊重し、共同体を優先する自由を、著者は「共同体的報恩互酬主義」と呼ぶ。その対極にあるのが、西欧の「自己主張的個人主義」に基づく自由である。
私のような短絡的な脳しか持たない人間は、共同体重視と聞くとどうしても戦中の全体主義を連想してしまう。共同体優先を突き詰めれば、国家優先に行き着く。太平洋戦争末期、日本の劣勢が明らかだった状況下で、大本営は沖縄方面の航空作戦として天号作戦を発した。第2艦隊司令長官に着任した伊藤整一は、戦艦「大和」による天一号作戦参加を命じられた。その作戦は実質的な特攻作戦だったため、伊藤は強硬に反対した。ところが、連合艦隊参謀・草鹿龍之介中将の「一億総特攻の魁となって頂きたい」という一言であっさりと作戦を承諾してしまう。伊藤をたった一言で翻意させたこの言葉こそ、日本人の全体主義をよく表しているのではないか?
最近、安倍首相は、親・祖先に対する敬意と、自国の歴史・伝統・文化に対する敬意を重ね合わせ、地域における絆に支えられた家父長的共同体の再生を通じて、国家の統治能力の回復を目指している。そして、国家に対する信頼を取り戻し、国家を愛する心=愛国心を養うために教育改革に着手しており、これまでの自虐史観を克服する歴史教育や、個より公を優先するモラルの醸成を目的とした道徳教育を掲げ、自国に対する誇りを取り戻そうとしている。
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これを全体主義の復活だと危惧する声が国内外から上がっている。問題を複雑にしているのは、こうした全体主義的な考え方は、日本人らしい自由と親和性が高いという点だ。言い換えれば、日本人にとって”心地よい”のである。安倍政権に対する支持率が高水準で推移しているのは、アベノミクスに対する期待ではなく、安倍政権が日本人らしい自由を体現してくれると国民が夢想しているからではないだろうか?(私もその1人かもしれない)
共同体優先の考え方は、同レベル・同規模の共同体の間で利害対立が生じた時、双方の共同体を包含するより大きな共同体の目的を優先することで、問題を解決させる。いや、正確に言えば、問題を”見なかった”ことにする。大義名分を振りかざすなどというのは、この手の問題を解決(回避?)するための常套手段である。しかし、国家同士が対立した場合は、国家を超える共同体が存在しないため、解決策を提示することができない。
私は、「経路依存性」(path-dependency)を重視する立場からして、共同体を優先する日本人的な自由については、それが日本の歴史に根差したものであれば否定はしたくない。ただ、それを超える新しい自由観を模索しなければならない、とも思っている。
本書を読んで興味深かったのは、不思議なことに、西欧的な個人主義から出発しても、やはり同じように全体主義に行き着いてしまう、という点であった。キリスト教に裏打ちされた自由な個人は、自らの行為を絶対的な神の行為と同一視し、正当化する。著者は、政治学者ハンナ・アーレントの『全体主義の起源』に触れながら次のように述べている。やや長くなるが引用する。
アーレントによると、ヨーロッパ勢の帝国主義的な急膨張は優越した軍事力に先導されたものであるが、それに伴って工業製品の輸出や対外的な経済取引が拡大した結果、イギリスなどには使い切れないほどの資本が蓄積されてしまった。「この発展のいちばんの原因は、資本家という1つの小さな階級の存在であり、彼らの富が自国の社会構成の枠に収まりきれなくなり、過剰資本の有利な投資先を求めて彼らが貪欲な目で地球をくまなく探しまわったことである」アメリカは、自らが信奉する個人主義や市場原理主義を、国家の力を借りて他国にも押しつけ、グローバリゼーション(というか、アメリカ中心の世界)を実現しようとしている。そして、アメリカの意向に沿わない国は、武力をもって制裁する。これも立派な全体主義ではないだろうか?アメリカはかつて、日本・ドイツ・イタリアの全体主義に対抗し、自国の建国理念である自由の精神を守るために第2次世界大戦に参戦した。ところが、今や自国の建国理念を他国にも押し売りする全体主義国家になっているようなのである。しかも、神の行為にかなっているから正しい、と言われてしまうと、交渉の余地がなくなってしまうだけに厄介だ。
このような世界の植民地化の最大のスポンサーが国家であるのは言うまでもないが、暴力と征服が切り拓いていった道を金融投資が進んでいく一方で、輸出された資本の安全を確保するためにその道を国家権力が踏み固める事態となった。かくして、帝国主義国家の保護の下での富の自動的な増殖のメカニズムができあがったが、それが厖大な利子や配当を本国にもたらしたので、無制限な経済の拡張や私的な利益の追求が、あたかも国家的な正義であるかのごとく見なされるようになってしまった。
このおいしいパターンが現代のアメリカに受継がれて、政府の公認と暗黙の奨励の下に、投資銀行やヘッジファンドが思うままに投機的な利益を獲得しようとしたことが危機(=リーマンショック)の引き金となった、という発言もあった。