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プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京23区、神奈川県川崎市・横浜市を中心に活動する中小企業診断士・コンサルタント。

 専門領域は、(1)経営ビジョン・事業戦略の策定、(2)ビジョンや戦略とリンクした人材育成計画の立案・人事評価制度の構築、(3)人材育成計画に沿った教育研修プログラムの企画・開発。

 モットーは「日々改善、日々成長」、「実事求是」、「組織のためではなく知識のために働く」、「奇策は定石より先に立たず」、「一貫性(Consistency)」、「(無知の知ならぬ)無知の恥」

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 ブログタイトルに、oasisの往年の名曲『Whatever』を入れてみた。

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マネジメント・フロンティア
~終わりなき旅~


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◆個人事務所「シャイン経営研究所」◆ シャイン経営研究所ロゴ


(一社)東京都中小診断士協会一般社団法人東京都中小企業診断士協会
(城北支部執行委員、青年部長、および国際部員を務めています)

NPOビジネスサポート特定非営利活動法人NPOビジネスサポート
(監事を務めています)

企業内診断士フォーラム(KSF)企業内診断士フォーラム
(独立診断士の立場から、企業内診断士の活動を応援しています)

Experian海外企業信用調査 海外企業信用調査(Experian)
(一緒にお仕事をさせていただいている「コンサルビューション株式会社」は、世界最大の信用調査会社Experianの正規代理店です)

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(以下の資格の講師をしています。
 ―ITパスポート
 ―情報セキュリティマネジメント
 ―経営学検定(初級・中級)
 ―中小企業診断士(企業経営理論、経営情報システム、中小企業経営・中小企業政策)
 谷藤友彦と株式会社サイトビジット代表取締役・鬼頭政人氏の対談動画(1)(2)(3)
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2015年06月06日

渋沢栄一、竹内均『渋沢栄一「論語」の読み方』―階層を増やそうとする日本、減らそうとするアメリカ

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渋沢栄一「論語」の読み方渋沢栄一「論語」の読み方
渋沢 栄一 竹内 均

三笠書房 2004-10

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 (前回の続き)

 (3)
 信の効用は、社会の進歩とともに、いよいよその価値を増して、その応用の範囲を拡張し、一人より一町村へ、一町村より一地方へ、一地方より一国へ、一国より全世界へと、信の威力は、国家的、世界的になった。
 世界人類のために尽くし、あるいは国家同胞のために尽くそうと思えば、まずその根源にさかのぼり、わが故郷を愛し、わが家を愛さなくてはならない。近きより始めて遠きに及ぼすのが自然の順序でもあり、人の常識でもあろう。
 日本が多層社会(階級社会ではない)であり、階層が多重化されているほど安定化する傾向にあることは、本ブログでも何度か触れた(「山本七平『山本七平の日本の歴史(上)』(2)―権力構造を多重化することで安定を図る日本人」、「室谷克実『呆韓論』―韓国の「階級社会」と日本の「階層社会」について」など)。

 個人は一人では生きて行けないため、家族の庇護を必要とする。家族は単独では家計を維持することができないため、学校に子どもを送り込んで基礎能力を習得させ、さらに学校から企業という生産の場に人材を供給する。企業は自らが存続するために市場を必要とする。市場は放っておくと暴走するため、社会による牽制を必要とする。社会はルールを運用する力が十分でないため、行政府を必要とする。行政府は、ルールの運用はできてもルールの形成力がないため、立法府を必要とする。そして、日本の場合は、全システムの頂点に天皇が存在する。

 こうして、個人⇒家族⇒学校⇒企業⇒市場⇒社会⇒行政府⇒立法府⇒天皇(⇒神?)という多重システムができ上がる。さらに、以前の記事「【ドラッカー書評(再)】『現代の経営(上)』―実はフラット化していなかった日本企業」で述べたように、企業という1つの階層をとって見ても、その内部は多重構造化している。よって、全体としては非常に重層的なシステムが形成されることとなる。下の階層が上の階層を敬うことが、孔子の言う「忠」や「孝」であり、その基本形は、家族内の長男や父親に対する敬意に求めることができる。

 一方、アメリカにおけるキリスト教の場合は、個人と神が直接つながることを理想とする。両者の間には、できるだけ他の組織や階層を入れないようにする。ほぼ無条件で両者の間に入ることができるのは、個人と神とを媒介する教会ぐらいである。通常、個人の権利を守るために国家や政府が必要とされるが、アメリカではその権力は大幅に制限される。新自由主義を掲げるアメリカが、いわゆる小さな政府を志向するのは偶然ではない。

 20世紀になって企業(特に大企業)が台頭すると、企業の正統性をめぐって論争が起きた。日本であれば、企業は人々の生活水準を引き上げ、人々の幸福に貢献するという当たり前の話が、アメリカでは長い間受け入れられなかった。アメリカでは毎年、政府と企業に対する信頼度の調査が実施されている。政府に対する信頼度はまだしも、企業に対する信頼度を調査するのは、日本では考えられないことだ。それだけ、アメリカ人は企業の権力を強く警戒している(※)。

 アメリカで聖書の創造論を信じる人々は、進化論を教える学校教育に反発して、家庭で独自に教育を行う。急進的な左派の人は、家族すら否定しようとする。親は子どもの自由を阻害するというのがその理由だ。日本では福島瑞穂氏がこの考え方に近い。家族制度に否定的な福島氏は事実婚を貫いており、さらに自分の子どもが18歳になった時には「家族解散式」をやると宣言していた。このように、キリスト教では、個人⇒(教会⇒)神というシンプルな構造を志向する。

 日本のシステムは、表面的には下の階層が盲目的に上の階層の権威に従属しており、自由が制限されている、あるいは自由が全くないように映る。しかし、実際にはそうではない。むしろ、上からの権力の影響を受けているからこそ、下の階層は自由に振る舞うことができる。日本的多重システムにおいては、上からの力が働くだけでなく、下から上に向かう力も存在する。これを社会学者の山本七平は「下剋上」と呼んだ(前述の「山本七平『山本七平の日本の歴史(上)』(2)―権力構造を多重化することで安定を図る日本人」を参照)。

 上の階層は、権威の上にあぐらをかいていてはならない。下の階層がもっと自由を発揮し、上の階層に対する成果を大きくすることができるように、下の階層に対して何ができるかと問う。言い換えれば、上の階層から下の階層に下りてくる。例えば、行政府は社会に対し、現実の世界で運用しやすいルールとは何かを問う。市場は企業に対し、企業活動に無理が生じないよう市場側で自制できることはないかと問う。学校は家庭に対し、家庭内のしつけをどうすれば支援できるかと問う。これを孔子の言葉を借りれば「下問」と呼ぶ。
 子貢問うて曰く、孔文子何を以てこれを文と謂うやと。 子曰く、敏にして学を好み、下問を恥じず。これを以てこれを文と謂うなり。〔公冶長〕

 (中略)下問を恥じずとは、ひらたくいえば、自分の知らないことは誰にでも尋ねるという意味にほかならない。こんなことはなんでもないようであるが、さて虚心坦懐に、知らざるを知らずとして、自分より下位の人に教えを求めるということは、実際容易にできるものでない。たいていの人は、知らざるを知らずとせず、知ったふりをする。下問を恥じない境地に達するのは、よほどえらい人でなければできないことである。
 以上、稚拙だが今持てる知識を最大限に動員して日本の社会構造を描写してみた。この縦に長く伸びた社会システムの詳細と、階層間の上下の力の作用を明らかにすることが、私の中長期的な課題である。ところで、『致知』2015年6月号を読んでいたら、日本は縦の関係が昔に比べて脆弱になっているという指摘があった。大げさだが、私の探求が、かつての日本にあった強い縦の関係を取り戻すことに少しでも貢献できればと考えている。
 親への「孝」や年長者への「弟」はいわば縦軸の関係です。(中略)「孝弟は仁を為すの本」とは孝弟という縦を立てることが「仁」、つまり人と人との横の繋がり「絆」をも強めるということにもなります。

 ところで、戦後教育の基本は民主主義、個人主義の名のもとに縦軸を断ち、すべてを横にすることを理想としました。現に占領軍の日本教育使節団員で高松宮の教育係を務めたオーティス・ケリーは『縦軸のない日本』という著書で、日本は縦軸が強すぎる、横軸を強くするようにということを述べています。縦を横にすることは、日本弱体化の一因にもなりました。
致知2015年4月号一天地を開く 致知2015年6月号

致知出版社 2015-06


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 《2016年2月2日追記》
 アメリカ合衆国憲法には法人に関する規定はない。しかし、1886年、私有財産の権利を強化するために、法人に自然人と同等の法による保護が認められた。これが決定的な転機になった。リンカーン大統領は、法人を非常に警戒していたという。「法人が王座に就き」、「一部の人に(富が)集中し・・・共和国が破壊されるのではないか」と恐れ、「神よ、私の不安が的外れなものであると立証してください」と祈った(ヘンリー・ミンツバーグ『私たちはどこまで資本主義に従うのか―市場経済には「第3の柱」が必要である』〔ダイヤモンド社、2015年〕)。


私たちはどこまで資本主義に従うのか―――市場経済には「第3の柱」が必要である私たちはどこまで資本主義に従うのか―――市場経済には「第3の柱」が必要である
ヘンリー・ミンツバーグ 池村 千秋

ダイヤモンド社 2015-12-11

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2015年06月05日

渋沢栄一、竹内均『渋沢栄一「論語」の読み方』―売り込まなければ売れない製品・サービスは失格かもしれない、他

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渋沢栄一「論語」の読み方渋沢栄一「論語」の読み方
渋沢 栄一 竹内 均

三笠書房 2004-10

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 旧ブログの記事「論語が実学であることを身をもって証明した一冊-『渋沢栄一「論語」の読み方』」、「「個人的な怨讐」を超越した渋沢の精神力-『渋沢栄一「論語」の読み方』」で取り上げた本を約5年ぶりに読み返してみたら、色々な発見を得ることができた。

 (1)
 子曰く、人の己を知らざるを患えず、人を知らざるを患う。〔学而〕

 学問をするのは、自分の修養のためであって、人に知られるための虚栄心からやっているのではない。自分の学問が進んで人格がそなわってきたこを人が知ってくれなくても、心配することはない。自分が他人から認められないといってクヨクヨ思いわずらうより、他人の真価を見抜けない自分の低い能力を思いわずらう人になりたいものだ。
 陽明学者の安岡正篤は、「人を知らざるを患う」の「人」を、「他人」ではなく「自分」と解釈していることを以前の記事「安岡正篤『論語に学ぶ』―安岡流論語の解釈まとめ」で述べた。
 もっと突っ込んで考えると、「人が己を知ってくれようがくれまいが問題ではない、そもそも己が己を知らないことの方が問題だ」と解釈した方が、もっと切実に感じられる。案外人間というものは、自分自身を知らないものである。自分が自分を知らないのだから、人が自分を知らないのは当然である。したがって、問題は、まず己が己を知ることでなければならない、ということになる。
(「安岡正篤『論語に学ぶ』―安岡流論語の解釈まとめ」より)
 ただ、『論語』の別の箇所には、次のような文章もある。
 子曰く、位なきを患えず、立つ所以を患う。己を知ること莫きを患えず、知らるべきを為すを求むるなり。〔里仁〕
 この文章も踏まえて考えると、基本的な解釈としては、「他人が自分を知らないことを心配するのではなく、自分の方がもっと他人のことを理解し、他人が欲していることを施し、他人に認められるような能力を身につけよ」ということになるのだろうと思う。とはいえ、結局のところ、他者理解と自己理解はつながっているのもまた真理であると考える。

 人生とは、自己の人格の中に宿る神の全容を明らかにする旅である。キリスト教の場合は、唯一絶対の神を知覚するために、聖書の教えを守り、教会で祈りを捧げる。一方、多神教文化である日本においては、それぞれの人の中に異なる神が存在している。

 自らの中に宿る神を知るためには、自己の内面と対話をするのも一つの手だが、それ以上に他者と積極的に交わることが重要である。その他者は、自分とは異なる神を宿しているかもしれない。それでも構わない。いや、異なる神を宿しているからこそ、交流する意義がある。なぜならば、真の学習は、異質と出会うことで達成されるからだ。したがって、日本の場合は、他者理解と自己理解を切り離すことができない(以前の記事「岩田靖夫『ヨーロッパ思想入門』―キリスト教は他者への愛を説くのに、なぜかヨーロッパ思想は他者を疎外している気がする」を参照)。

 (2)
 子張、禄を干(もと)めんことを学ぶ。子曰く、多く聞きて疑わしきを闕(か)き、慎んで其の余を言う。則ち尤(とが)め寡(すくな)し。多く見て殆(あや)うきを闕き、慎んで其の余を行う。則ち悔(くい)寡し。言うて尤め寡く、行い悔寡ければ、禄その中に在り。〔為政〕

 子張が先生の孔子に、役人となって給料をもらう道を質問した。すると孔子はこう答えた。「役人になりたければ自ら修養して実力を充実せよ。その修養の方法は、多く聞いて広く道理を知っても、自分で確信できないことはひかえて、間違いないと信ずることだけを人に語るようにし、多く見て広く物事を知っても、大丈夫と思えない行為はやめて、道義に反しないと確信できることだけを行なえば、とがめられることなく、また自ら後悔することもない。

 こうして言動に悔いがなければ、世間の評判もよく、長上にも知られ、自分から売り込まなくても、必ず登用される。そうすれば給料は自然についてくる」
 私が持っている版の帯には、「孔子に学ぶ”月給を確実に上げる”秘訣!」とあり、「『論語』はそういう目的のために読む本なのだろうか?」と思いながらこの本を購入した記憶がある。その秘訣の一部に該当するのがこの引用文である。簡単に言えば、修練を通じて自己の価値を高めれば、自分から売り込まなくても、自然に他人から重宝されるようになる、という意味である。月給を上げるのは目的ではなく、あくまでも結果にすぎない。

 これを企業に当てはめて考えると、自社の製品・サービス、さらにはその製品・サービスを生み出す経営の仕組みを磨き続ければ、自然と顧客はついてくるのであって、顧客に対して必死に売り込まなければならないような製品・サービスは失格である、ということになるだろう。

 ピーター・ドラッカーは、「マーケティングの究極の目的は、販売活動をなくすことである」という名言を残している。私は、最初にこの言葉を目にした時、「顧客のニーズが高度化し、製品やサービスがますます複雑になっている現代においては、むしろ販売・営業活動が重要になるのではないか?」と短絡的に思っていた。つまり、売り込みは不可欠だと考えていたわけだ。

 だが、顧客に対して機能や効能をあれこれと説明しなければならないのは、やはり製品・サービスとしては不十分だと思い直した。顧客が抱える問題が高度化しているからといって、解決策である製品・サービスを複雑にしてしまうのは、問題に対する洞察が浅い証拠であり、企業側の甘えである。たとえ非常に厄介な難題であっても、しっかりと考え抜けば、逆説的だが解決策は意外なほどシンプルになることが多い(数学の世界ではそういうことがよくある)。それを解りやすい製品・サービスに落とし込めば、売り込まなくても自ずと顧客に受け入れられるはずだ。

 顧客に製品・サービスを売り込まないと言っても、自社に閉じこもって顧客のニーズを想像しながら製品・サービスを開発すればよいというわけではない。それどころか、積極的に顧客のところへ出向く必要がある。顧客は現在どんな製品・サービスを使い、何をしているのかをじっくりと観察する。また、顧客は何で困っているのかをじっくりと傾聴する。その内容を踏まえ、自社製品・サービスを販売したいという欲求を抑えて、客観的な立場から何かしらのアドバイスを行う。

 とはいえ、顧客はいきなり見ず知らずの人に自分の困りごとを話してはくれない。最初は1つか2つの簡単な話しかしてくれないだろう。それでも、その1つか2つの問題に対し、真摯に回答する。すると、顧客との間に少し信頼関係ができる。顧客は、次はもう少し難しい問題をこの営業担当者に相談してみようと考える。営業担当者は再び、顧客から提示された問題に丁寧に回答する。そうすれば、また少し信頼関係が厚くなる。これを繰り返すと、顧客は営業担当者のことを頼りになる相談相手と見なし、ようやく自分の悩みの”本丸”を打ち明けてくれるようになる。そこにたまたま自社の製品・サービスがあてはまれば、それを謙虚に勧めるのである。

 営業担当者は、何度も足繁く顧客の元へ通わなければならない。顧客の立場に立って考えると、自分の貴重な時間を割いて何度も営業担当者に会うわけだから、営業担当者は自分と会うだけの価値があると顧客に思ってもらう必要がある。そのためには、前述の努力を積み重ねるしかない。自社の売り込みが目的ではなく、単に顧客の話を聞きたい、そして何かアドバイスできることがあればしたいという目的で顧客とのアポが取れる営業担当者は、超一流だと思う。

 《参考記事》
 『速効!「営業」学(『週刊ダイヤモンド』2014年3月22日号)』―コンサルティング営業とはつまり御用聞き営業である
 『発想力(『致知』2014年12月号)』―「バッタ営業」でも「人間力営業」でもいいじゃないか?


 (続く)

2014年04月17日

小川榮太郎『国家の命運―安倍政権奇跡のドキュメント』―日本は「仁」の精神で世界の均衡を実現する国家

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国家の命運 安倍政権 奇跡のドキュメント国家の命運 安倍政権 奇跡のドキュメント
小川 榮太郎

幻冬舎 2013-06-14

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 前著『約束の日 安倍晋三試論』に続く小川榮太郎氏の最新作。解散を先延ばしにする野田前総理の国会での所信表明を「亡国」と酷評し、挑発を続ける中国に対し弱腰の姿勢を見せる岡田前副総理を「万死に値する」と斬り捨てるなど、民主党への”死体蹴り”は容赦なく続けられる。その文章には、骨肉をどんなに切り刻んでも足りないというぐらいの激しい憎悪がにじみ出ている。そんな国難に際して、まるで天命に導かれるようにして安倍総理が誕生したと、2012年の総裁選、そして衆院総選挙の裏話をドラマティックに描き出している。その中には、政治評論家の故三宅久之氏との知られざる交流も含まれる。

 本書の最後では、安倍総理が世界に対して発信した「日本の戦略的ポジショニング」に言及されていて非常に興味深い。
 安全保障も含め、世界の新たなルールの作り手、海洋という新時代の可能性への水先案内人、そして民主主義や法の支配という価値観による世界秩序の再整理を担うという国家的な野心は、明確に示されたのである。

 これを安倍の個人的な野望だと評するのは間違っている。日本の国力の衰退と国際環境の厳しさを考えた時、逆に我が国はここまで強く、己の国際的なポジションを再定義し直し、それに向けて一丸となってチャレンジしようとしない限り、最早活路はない。
 企業に戦略が必要であるのと同様に、政治にも戦略が必要である。そして、政治的戦略とは、他国とのパワーバランスの中で、自国が自らの強みを活かしながらどのようなポジショニングを取るのかを定めることである。

 日本の強みとは何か?それは、『論語』にある「仁」の精神ではないかと思う。仁とは、簡単に言えば思いやりであり、他人の幸福を祈ることである。そして、日本で仁の精神を最も体現している存在として「天皇」がいらっしゃる。東日本大震災3周年追悼式で、天皇陛下は「被災した人々の上には、今も様々な苦労があることと察しています。この人々の健康が守られ、どうか、希望を失うことなく、これからを過ごしていかれるよう、永きにわたって国民皆が心をひとつにして寄り添っていくことが大切と思います」とおっしゃった。まさに仁の精神の表れである。

 日本国憲法には、天皇は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」であると定められている。天皇が象徴している日本国および日本国民とは一体何なのかを一言で答えるならば、このような仁の精神であろう。さらに、大日本帝国憲法にまで遡って見てみると、第1条「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」の「統治ス」の部分は、原案では「治(しら)す」となっていた。「しらす」とは、『古事記』や『日本書紀』に出てくる言葉であり、「天皇が広く国の事情をお知りになることで、自然と国が一つに束ねられること」を意味する。つまり、仁である。

 仁のあるところには、自ずと信頼が生まれる。そして「信」こそ、孔子が政治において最も重要な要素として挙げたものである。
 子貢、政を問う。子曰わく、食を足し兵を足し、民をしてこれを信ぜしむ。子貢が曰わく、必ず已むを得ずして去らば、斯の三者に於て何れをか先きにせん。曰わく、兵を去らん。曰わく、必ず已むを得ずして去らば、斯の二者に於て何ずれをか先きにせん。曰わく、食を去らん。古より皆死あり、民は信なくんば立たず。

【現代語訳】
 子貢が政治について尋ねた。孔子は、「食糧を行き渡らせること、軍備を整えること、人々との信頼を築くことだ」と答えた。子貢は、「どうしても3つのうち1つを犠牲にしなければならないとしたら、どれを犠牲にしますか?」と尋ねたところ、孔子は「軍備を犠牲にする」と答えた。子貢はさらに、「どうしても残り2つのうち1つを犠牲にしなければならないとしたら、どちらを犠牲にしますか?」と尋ねたところ、孔子は「次は食糧だ。昔から人の死は避けられないものだが、信頼がなければ人間社会は成立しない」と答えた。
 日本は世界で唯一、万世一系の国王=天皇が未だに存在する稀有な国家である。日本がこれほどまでに連続した歴史を維持することができたのは、仁や信といった政治の本質を体現し続けてきたからに違いない。その強みを、国際政治の舞台でも積極的に発揮しなければならない。

 アメリカはグローバリゼーションという名のアメリカナイゼーションを世界中で進めている。中国は軍事費を毎年10%以上増加させており、太古からの理想である中華思想の実現を目指している。ロシアは、ギリシャ正教の教えに基づいて世界の覇権を狙っている。中東のイスラム原理主義者は、反米の姿勢を強めている。これらの国々が衝突するその中心に、日本という国家は存在している。日本は、対立の中に身を置いて、仁の精神で世界の均衡を導かなければならない。

 世界各国が軍事力を増強している中で、仁や信といった精神面に訴える政治はあまりにも弱いと批判されるかもしれない。しかし日本は、アメリカの政治学者ジョセフ・ナイが「ソフト・パワー」という概念を持ち出すよりもずっと前から、ソフト・パワー中心の外交を展開し、世界中から高く評価されてきた。イギリスの公共放送局BBCが毎年行っている「世界によい影響/悪い影響与えている国」の調査によると、2012年は日本が「世界によい影響を与えている国」で1位となった。

 ハード・パワーに頼る政治は、力で相手を押さえつければよいので、ある意味では簡単である。だが、別の言い方をすれば非常に短期的・短絡的な発想であり、相手の遺恨を残しやすい。長い目で見れば、その遺恨が別の政治的課題を発生させるだろう。これに対して、ソフト・パワー中心の政治は、人間の心と心を通じ合わせる必要がある。よって、時間がかかるし非常に難しい。だが、幸いにも日本はそういう政治に長けているのである。今こそ仁の精神でリーダーシップを発揮することが、日本の戦略的ポジショニングとなるのではないか?

 《2016年3月13日追記》
 参考までに。この記事を書いて以来、本ブログでは、アメリカ、ドイツ、ロシア、中国といった大国が二項対立的な発想をする一方で、大国に挟まれた日本のような小国は、対立する双方のいいところどりをして二項混合的な発想をするのが生き残りの道であると書いてきた。
 国際的な場でこのように存在感を示せていない日本であるが、そんな場で求められている新たな役割がある。それは、平和思考で調和を尊ぶ日本的な特徴を生かして、特定の国家間で真っ向から利害が対立しているような問題に対して、第三者的な態度で仲介をし、調停をするというメディエーターとなることだ。
ケースで学ぶ異文化コミュニケーション―誤解・失敗・すれ違い (有斐閣選書)ケースで学ぶ異文化コミュニケーション―誤解・失敗・すれ違い (有斐閣選書)
久米 昭元 長谷川 典子

有斐閣 2007-09-25

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 よく知られているように、アメリカは訴訟大国である。アメリカの民事訴訟件数は年間約1,800万件であり、日本の7倍以上である。アメリカの人口(3億1,890万人)は日本の人口(1億2,681万人)の約2.5倍であるから、人口10万人あたりの訴訟件数で見ると、アメリカは日本の約17.5倍となる(ただし、アメリカの判決率は僅か3.3%であり、日本の47.4%に比べて低い点は注目に値する。これは、アメリカにおいては、裁判の途中で和解に至るケースが多いためである)。

 紛争を解決する手段としては、裁判のほかにADR(Alternative(Appropriate) Dispute Resolution:裁判外紛争解決手続)がある。やや古いデータではあるが、ADRの件数を日米で比較してみると、1999年の年間ADR受理件数は、日本が約26万件であるのに対し、アメリカは約17万件である(首相官邸「主なADRの利用状況(諸外国比較)」より)。日米の人口の差を考慮すると、日本のADRの件数はアメリカの約3.7倍である。

 アメリカでは弁護士の数も多いことから、まずは訴訟を起こして対立に持ち込む。その後は交渉によって、被告側が「このぐらいの金額は取りたい」と考えるラインと、原告側が「ここまでの金額ならば支払える」と考えるラインを近づけていく。両者のラインが一致すれば和解が成立する。ただ、和解とは言うものの、和解金は法外な金額になることもあり、決して痛み分けという形にはならない。あくまでも勝ち負けがはっきりするのがアメリカの特徴である。

 一方、日本の場合は、訴訟に対する心理的ハードルが高いことから、まずは調停が選択されることが多い(と、私が大学生の時に法社会学の講義で習った)。調停では、一方を完全な悪者にはしない。双方に多少の非があったことを認め合い、今後どのような関係を築くのかを協議して、円満な解決に至る。そのプロセスは二項対立ではなく二項混合であると言える。引用文にあったメディエーターに期待される役割とは、この二項混合を促すことではないだろうか?

 《2016年3月27日追記》
 リチャード・E・ニスベット『木を見る西洋人森を見る東洋人―思考の違いはいかにして生まれるか』(ダイヤモンド社、2004年)より、西洋とアジアの紛争解決の方法の違いに関する記述を引用する。本書では、西洋人は交渉の場において、選択肢を二者択一で「選ぶ」のに対し、アジア人は両者の主張を「合わせる」とも書かれている。
 争いのための文章技法の形式は、アジアの法律にも欠けている。西洋の法律のほとんどの部分を占めているのは敵対する者どうしの争いに関するものだが、それらはアジアでは見出されない。もっと典型的なことに、アジアの論争者たちは問題の解決を仲裁人に委ねる。仲裁人に課せられているのは公正な判断ではなく、敵対する者たちの主張の「中庸」を探して憎しみを軽減することである。アジア人には普遍的な原則によって法律上の紛争に対する解決策を見出そうという考えはない。それどころか、抽象的で型どおりの西洋流の正義は、融通がきかなくて冷酷なものだと考える傾向がある。
木を見る西洋人 森を見る東洋人思考の違いはいかにして生まれるか木を見る西洋人 森を見る東洋人思考の違いはいかにして生まれるか
リチャード・E・ニスベット 村本 由紀子

ダイヤモンド社 2004-06-04

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