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安岡正篤『活字活眼』―U理論では他者の存在がないがしろにされている気がする?
安岡正篤『論語に学ぶ』―安岡流論語の解釈まとめ

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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

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2014年04月17日

小川榮太郎『国家の命運―安倍政権奇跡のドキュメント』―日本は「仁」の精神で世界の均衡を実現する国家


国家の命運 安倍政権 奇跡のドキュメント国家の命運 安倍政権 奇跡のドキュメント
小川 榮太郎

幻冬舎 2013-06-14

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 前著『約束の日 安倍晋三試論』に続く小川榮太郎氏の最新作。解散を先延ばしにする野田前総理の国会での所信表明を「亡国」と酷評し、挑発を続ける中国に対し弱腰の姿勢を見せる岡田前副総理を「万死に値する」と斬り捨てるなど、民主党への”死体蹴り”は容赦なく続けられる。その文章には、骨肉をどんなに切り刻んでも足りないというぐらいの激しい憎悪がにじみ出ている。そんな国難に際して、まるで天命に導かれるようにして安倍総理が誕生したと、2012年の総裁選、そして衆院総選挙の裏話をドラマティックに描き出している。その中には、政治評論家の故三宅久之氏との知られざる交流も含まれる。

 本書の最後では、安倍総理が世界に対して発信した「日本の戦略的ポジショニング」に言及されていて非常に興味深い。
 安全保障も含め、世界の新たなルールの作り手、海洋という新時代の可能性への水先案内人、そして民主主義や法の支配という価値観による世界秩序の再整理を担うという国家的な野心は、明確に示されたのである。

 これを安倍の個人的な野望だと評するのは間違っている。日本の国力の衰退と国際環境の厳しさを考えた時、逆に我が国はここまで強く、己の国際的なポジションを再定義し直し、それに向けて一丸となってチャレンジしようとしない限り、最早活路はない。
 企業に戦略が必要であるのと同様に、政治にも戦略が必要である。そして、政治的戦略とは、他国とのパワーバランスの中で、自国が自らの強みを活かしながらどのようなポジショニングを取るのかを定めることである。

 日本の強みとは何か?それは、『論語』にある「仁」の精神ではないかと思う。仁とは、簡単に言えば思いやりであり、他人の幸福を祈ることである。そして、日本で仁の精神を最も体現している存在として「天皇」がいらっしゃる。東日本大震災3周年追悼式で、天皇陛下は「被災した人々の上には、今も様々な苦労があることと察しています。この人々の健康が守られ、どうか、希望を失うことなく、これからを過ごしていかれるよう、永きにわたって国民皆が心をひとつにして寄り添っていくことが大切と思います」とおっしゃった。まさに仁の精神の表れである。

 日本国憲法には、天皇は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」であると定められている。天皇が象徴している日本国および日本国民とは一体何なのかを一言で答えるならば、このような仁の精神であろう。さらに、大日本帝国憲法にまで遡って見てみると、第1条「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」の「統治ス」の部分は、原案では「治(しら)す」となっていた。「しらす」とは、『古事記』や『日本書紀』に出てくる言葉であり、「天皇が広く国の事情をお知りになることで、自然と国が一つに束ねられること」を意味する。つまり、仁である。

 仁のあるところには、自ずと信頼が生まれる。そして「信」こそ、孔子が政治において最も重要な要素として挙げたものである。
 子貢、政を問う。子曰わく、食を足し兵を足し、民をしてこれを信ぜしむ。子貢が曰わく、必ず已むを得ずして去らば、斯の三者に於て何れをか先きにせん。曰わく、兵を去らん。曰わく、必ず已むを得ずして去らば、斯の二者に於て何ずれをか先きにせん。曰わく、食を去らん。古より皆死あり、民は信なくんば立たず。

【現代語訳】
 子貢が政治について尋ねた。孔子は、「食糧を行き渡らせること、軍備を整えること、人々との信頼を築くことだ」と答えた。子貢は、「どうしても3つのうち1つを犠牲にしなければならないとしたら、どれを犠牲にしますか?」と尋ねたところ、孔子は「軍備を犠牲にする」と答えた。子貢はさらに、「どうしても残り2つのうち1つを犠牲にしなければならないとしたら、どちらを犠牲にしますか?」と尋ねたところ、孔子は「次は食糧だ。昔から人の死は避けられないものだが、信頼がなければ人間社会は成立しない」と答えた。
 日本は世界で唯一、万世一系の国王=天皇が未だに存在する稀有な国家である。日本がこれほどまでに連続した歴史を維持することができたのは、仁や信といった政治の本質を体現し続けてきたからに違いない。その強みを、国際政治の舞台でも積極的に発揮しなければならない。

 アメリカはグローバリゼーションという名のアメリカナイゼーションを世界中で進めている。中国は軍事費を毎年10%以上増加させており、太古からの理想である中華思想の実現を目指している。ロシアは、ギリシャ正教の教えに基づいて世界の覇権を狙っている。中東のイスラム原理主義者は、反米の姿勢を強めている。これらの国々が衝突するその中心に、日本という国家は存在している。日本は、対立の中に身を置いて、仁の精神で世界の均衡を導かなければならない。

 世界各国が軍事力を増強している中で、仁や信といった精神面に訴える政治はあまりにも弱いと批判されるかもしれない。しかし日本は、アメリカの政治学者ジョセフ・ナイが「ソフト・パワー」という概念を持ち出すよりもずっと前から、ソフト・パワー中心の外交を展開し、世界中から高く評価されてきた。イギリスの公共放送局BBCが毎年行っている「世界によい影響/悪い影響与えている国」の調査によると、2012年は日本が「世界によい影響を与えている国」で1位となった。

 ハード・パワーに頼る政治は、力で相手を押さえつければよいので、ある意味では簡単である。だが、別の言い方をすれば非常に短期的・短絡的な発想であり、相手の遺恨を残しやすい。長い目で見れば、その遺恨が別の政治的課題を発生させるだろう。これに対して、ソフト・パワー中心の政治は、人間の心と心を通じ合わせる必要がある。よって、時間がかかるし非常に難しい。だが、幸いにも日本はそういう政治に長けているのである。今こそ仁の精神でリーダーシップを発揮することが、日本の戦略的ポジショニングとなるのではないか?

 《2016年3月13日追記》
 参考までに。この記事を書いて以来、本ブログでは、アメリカ、ドイツ、ロシア、中国といった大国が二項対立的な発想をする一方で、大国に挟まれた日本のような小国は、対立する双方のいいところどりをして二項混合的な発想をするのが生き残りの道であると書いてきた。
 国際的な場でこのように存在感を示せていない日本であるが、そんな場で求められている新たな役割がある。それは、平和思考で調和を尊ぶ日本的な特徴を生かして、特定の国家間で真っ向から利害が対立しているような問題に対して、第三者的な態度で仲介をし、調停をするというメディエーターとなることだ。
ケースで学ぶ異文化コミュニケーション―誤解・失敗・すれ違い (有斐閣選書)ケースで学ぶ異文化コミュニケーション―誤解・失敗・すれ違い (有斐閣選書)
久米 昭元 長谷川 典子

有斐閣 2007-09-25

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 よく知られているように、アメリカは訴訟大国である。アメリカの民事訴訟件数は年間約1,800万件であり、日本の7倍以上である。アメリカの人口(3億1,890万人)は日本の人口(1億2,681万人)の約2.5倍であるから、人口10万人あたりの訴訟件数で見ると、アメリカは日本の約17.5倍となる(ただし、アメリカの判決率は僅か3.3%であり、日本の47.4%に比べて低い点は注目に値する。これは、アメリカにおいては、裁判の途中で和解に至るケースが多いためである)。

 紛争を解決する手段としては、裁判のほかにADR(Alternative(Appropriate) Dispute Resolution:裁判外紛争解決手続)がある。やや古いデータではあるが、ADRの件数を日米で比較してみると、1999年の年間ADR受理件数は、日本が約26万件であるのに対し、アメリカは約17万件である(首相官邸「主なADRの利用状況(諸外国比較)」より)。日米の人口の差を考慮すると、日本のADRの件数はアメリカの約3.7倍である。

 アメリカでは弁護士の数も多いことから、まずは訴訟を起こして対立に持ち込む。その後は交渉によって、被告側が「このぐらいの金額は取りたい」と考えるラインと、原告側が「ここまでの金額ならば支払える」と考えるラインを近づけていく。両者のラインが一致すれば和解が成立する。ただ、和解とは言うものの、和解金は法外な金額になることもあり、決して痛み分けという形にはならない。あくまでも勝ち負けがはっきりするのがアメリカの特徴である。

 一方、日本の場合は、訴訟に対する心理的ハードルが高いことから、まずは調停が選択されることが多い(と、私が大学生の時に法社会学の講義で習った)。調停では、一方を完全な悪者にはしない。双方に多少の非があったことを認め合い、今後どのような関係を築くのかを協議して、円満な解決に至る。そのプロセスは二項対立ではなく二項混合であると言える。引用文にあったメディエーターに期待される役割とは、この二項混合を促すことではないだろうか?

 《2016年3月27日追記》
 リチャード・E・ニスベット『木を見る西洋人森を見る東洋人―思考の違いはいかにして生まれるか』(ダイヤモンド社、2004年)より、西洋とアジアの紛争解決の方法の違いに関する記述を引用する。本書では、西洋人は交渉の場において、選択肢を二者択一で「選ぶ」のに対し、アジア人は両者の主張を「合わせる」とも書かれている。
 争いのための文章技法の形式は、アジアの法律にも欠けている。西洋の法律のほとんどの部分を占めているのは敵対する者どうしの争いに関するものだが、それらはアジアでは見出されない。もっと典型的なことに、アジアの論争者たちは問題の解決を仲裁人に委ねる。仲裁人に課せられているのは公正な判断ではなく、敵対する者たちの主張の「中庸」を探して憎しみを軽減することである。アジア人には普遍的な原則によって法律上の紛争に対する解決策を見出そうという考えはない。それどころか、抽象的で型どおりの西洋流の正義は、融通がきかなくて冷酷なものだと考える傾向がある。
木を見る西洋人 森を見る東洋人思考の違いはいかにして生まれるか木を見る西洋人 森を見る東洋人思考の違いはいかにして生まれるか
リチャード・E・ニスベット 村本 由紀子

ダイヤモンド社 2004-06-04

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2014年01月14日

安岡正篤『活字活眼』―U理論では他者の存在がないがしろにされている気がする?


[新装版]活眼 活学(PHP文庫)[新装版]活眼 活学(PHP文庫)
安岡 正篤

PHP研究所 2007-05-22

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U理論――過去や偏見にとらわれず、本当に必要な「変化」を生み出す技術U理論――過去や偏見にとらわれず、本当に必要な「変化」を生み出す技術
C オットー シャーマー C Otto Scharmer 中土井 僚

英治出版 2010-11-16

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 陽明学者である安岡正篤の本から、オットー シャーマーの『U理論』のことを考えてみるという、もはや誰に向けて書いているのか解らないようなこと(汗)を書いてみようと思う。安岡正篤の思想も、私なりに煎じ詰めてみれば、「自分自身=部分のことをよく知れば、天=全体を知ることができる」という一点に集約されるように感じる。安岡が好んで引用する『孟子』の「君子は必ず自ら反(かえ)る」という言葉に、安岡の思想の本質が表れている。
 あるものが独自に存在すると同時に、また全体の部分として存在する。その円満無礙(むげ)な一致を表現して自と分を合わせて「自分」という。我々は自分を知り、自分を尽くせばよいのであります。
 諸君もよく御承知の(※無知な私は知らなかったのだが・・・)「万世の為に太平を開く」(終戦の詔勅中の一句)という言葉は、張横渠の有名な立言、即ち「天地の為に心を立つ。生民の為に命を立つ。往聖の為に絶学を継ぐ(往聖は一に去聖)。万世の為に太平を開く」の結語です。

 「天地の為に心を立つ」。言い換えれば、人間は心というものを立派に造り上げるということが、人の為であると同時に天地の為だ。実は天地が心というものを創造したのだ。(中略)人間が心を持っておる。人間が心の世界を開くということは、これは天地の仕事なんだ。人間が天地に代わって行なうことである。天地の努力を継承することである。(中略)

 そうして、「生民のために命を立つ」。命とはいわゆる運命・立命の命です。生きとし生ける民、生きとし生ける人間は、それぞれ天という絶対者・創造者の営みを内具している、それを命というわけです。それを各自立派に遂行させ発揮させる。それにはどうしても、代々の聖賢(往聖・去聖)が遺して今や中絶しておるところの学問―絶学、それを継承し興起しなければならない。往聖の為に絶学を継ぐ。そうしてこそ初めて万世の為に太平を開くことができるのだ。
 中国古典における天と心の関係が、キリスト教における神と人間の関係に酷似していること、また両者に共通する「全体―部分」の集合論的関係が、オットー・シャーマーらのU理論とも共通していることは、以前の記事「安岡正篤『知命と立命―人間学講話』―中国の「天」と日本の「仏」の違い」でも述べた。U理論では、「場」に集合した人々が、自らの偏見や誤った価値観を手放すと、私と他者という物質的な壁が崩れ、潜在意識のレベルにおいて人々は一つになる。そして、我々の中に本質的に内在している絶対的な宇宙=全体にアクセスすることが可能となり、新しい未来へ向けて歩み出すことができる、とされる。

 《参考》オットー・シャーマー『U理論』のレビュー記事
 オットー・シャーマー『U理論』―デイビッド・ボームの「内蔵秩序」を知らないとこの本の理解は難しい
 オットー・シャーマー『U理論』―古い手法を完全否定するな、古い手法は新しい手法を始動させるトリガーとして機能する
 オットー・シャーマー『U理論』―人間は本当に過去と決別すべきなのだろうか?
 《参考の参考》
 内田樹『日本辺境論』―U理論の宇宙観に対する違和感の原因が少し解った

 だが実は、U理論では「他者」の役割が積極的に評価されていないような気がする。いわんや、キリスト教や中国古典においてをや、である。私の理解不足かもしれないが、U理論においては、他者は私という部分が宇宙という全体を獲得するための”触媒”にすぎない印象を受ける。というのも、個人の中に全体が内包されているのであれば、理論的には、他者の力を借りなくても、個人が直接的に全体を認識することが可能であるからだ。もちろん、U理論の実践者は、「他者がいるからこそ、『Uプロセス』を加速できる」と反論するに違いない。だが、他者がUプロセスを加速させるだけの存在であれば、まさしく化学反応における”触媒”そのものである。

 U理論の構築に大きく貢献した一人であるジョセフ・ジャウォースキーは、旅先で動物を見ながら宇宙を体感する経験をしたことを著書の中で述べている。つまり、宇宙を悟るのに他者は必ずしも必要ではない(もっとも、その動物の中にも全体が包摂されており、ジャウォースキーが全体を見るためには動物の存在が不可欠であった、という解釈もできるのかもしれないが)。

シンクロニシティ[増補改訂版]――未来をつくるリーダーシップシンクロニシティ[増補改訂版]――未来をつくるリーダーシップ
ジョセフ・ジャウォースキー Joseph Jaworski 金井 壽宏

英治出版 2013-02-22

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源泉――知を創造するリーダーシップ源泉――知を創造するリーダーシップ
ジョセフ ジャウォースキー Joseph Jaworski 金井 壽宏

英治出版 2013-02-22

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 非常に乱暴な言い方かもしれないが、U理論の実践の場に集まった人たちは、各々が自分の中に確かに存在するはずの根源的な宇宙を探り当てるため、お互いを利用し合っている。そこには、相手を道具的存在とみなす優越感がはたらいている。そして、めでたく全体に到達できた者は、それができなかった者と違い、唯一無二の宇宙から選ばれた者であるという選民意識を抱くことになる。これが果たして新しいリーダーシップの姿なのだろうか?

 日本のリーダーシップ観は、これとはかなり異なる。多神(仏)教である日本においては、絶対的な存在というものを認めない。つまり、絶対的な解というものは存在しない。我々の心の中には、様々な神や仏が宿っている。私に宿っている神は、あなたに宿っている神と異なるかもしれない。いや、異なることの方が普通である。だから、絶対的な解(それはビジョンと呼ばれ、強烈なビジョンを持ったリーダーにはカリスマ性があると言われる)を引っさげて、人々に追従を強要するようなリーダーシップは日本では成立しない。たとえ、誰かが何か素晴らしい解を思いついたとしても、それは”当座”の解にすぎない。

 カリスマ性のあるリーダーは、宇宙のお墨つきをもらっているから力強く、自信に満ち溢れている。これに対して、当座の解しか持たない日本のリーダーは、どこかおどおどしている。日本のリーダーが当座の解の質を高め、人々の支持を得るための方法はただ1つ、人々の間に分け入って、対話を重ねることである。簡単に言えば、「私はこう思うが、あなたはどう思うか?」という問いを多方面に投げかけることである。日本のリーダーが、しばしばきょろきょろしている、相手のご機嫌をうかがっているように見えるのはそのためである。

 日本のリーダーは、自分の心の中にある神仏を相手の前に提示し、相手の心の中から神仏を表出させる。そして、神仏同士の対話を通じて、当座の解をちょっとだけ改善させる。その後、また別の人に対して自分の神仏を提示し、相手の神仏と対話させて、当座の解をまたちょっとだけ修正する。この繰り返しである。

 カリスマリーダーについては、リーダーとフォロワーが厳格に分かれる。リーダーのビジョンは絶対的な根拠を持っているから、リーダーに意見することは慎まれる。これに対し、日本型リーダーでは、リーダーが人々の方に近づいていくから、メンバーとの距離が非常に近い。また、神仏の対話の場面では、お互いの神仏の間に上下、貴賤の関係がないため、時にリーダーとフォロワーが入れ替わる。いや、リーダーとフォロワーという区分さえないのかもしれない。カリスマ型のリーダーシップは個人に宿るのに対し、日本型のリーダーシップは集団に宿る。

 日本型リーダーの場合、リーダーがどんなに対話を重ねても、当座の解が絶対的な解になることはない。なぜならば、唯一無二の絶対的な解というものを宗教的に否定しているからである。かりそめの方向性で満足しながら、少しずつ変化をしていくのが日本人である。そして、いつもきょろきょろしながら、それでも昨日よりは今日、今日よりは明日といった具合に、よい方向へと向かっていくことを「道」と呼ぶ。道とは、ゴールなき変化である。

 安岡正篤は、『論語』の「子曰く、 人の己を知らざるを 患(うれ)へず、己、人を知らざるを患ふ」という一文について、「『人が己を知ってくれようがくれまいが問題ではない、そもそも己が己を知らないことの方が問題だ』と解釈した方が、もっと切実に感じられる」と述べている(以前の記事「安岡正篤『論語に学ぶ』―安岡流論語の解釈まとめ」を参照)。己を知るとは、天を知ることであり、それが不十分であることを孔子は嘆いているのだ、というのが安岡の解釈である。これは、中国古典における天と個人の関係からすれば、非常に納得感がある。

 だが、日本的価値観から解釈するならば、この一文は原文のまま理解した方がよい。つまり、「私が他人のことをまだ十分に理解していないことが問題だ」というわけである。中国各地を歩き回り、多くの人に教えを説いた孔子であるが、その教えは未だ完成していない。なぜならば、孔子の思想は、他者の中にある様々な天によって試され、批判され、修正されることが足りていないからだ。だから、もっと人々の中に深く入り込んで、他者のことを理解しなければならない。私はそういう決意の一文であると解釈する。

2013年12月24日

安岡正篤『論語に学ぶ』―安岡流論語の解釈まとめ


論語に学ぶ (PHP文庫)論語に学ぶ (PHP文庫)
安岡 正篤

PHP研究所 2002-10

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 陽明学者・安岡正篤が『論語』の読み方を解りやすく解説した一冊。通り一遍の解釈なら今やWebでも調べられる時代だから、安岡流の独自の解釈が施されている部分をまとめてみた。
 子曰く、民は之を由(よ)らしむべし。之を知らしむべからず。(泰伯)
 《よくある誤解》
 「民衆というのは、服従させておけばよいのであって、知らせてはいけない。知恵をつけてはいけない」と誤解されることが多い。そして、孔子はおよそ非民主的な人間で、封建制度の代弁者に過ぎないという、余計な注釈までついていることがある。

 《安岡流の解釈》
 「民は之を由らしむべし」とは、先ずもって民衆を信頼させよ、政治というもの、政治家というものは何よりも民衆の信頼が第一だという意味であり、この場合の「べし」は「・・・せしめよ」という命令のべしである。また、「之を知らしむべからず」の「べし」は。可能・不可能のべしで、知らせることはできない、理解させることは難しい、という意味である。

 民衆というものはみな、自己自身の欲望だの、目先の利害などにとらわれて、本質的なことや遠大なことは解らない。個々の利害を離れた全体というようなことは考えない。したがって、それを理解させることはほとんど不可能に近い。できるだけ理解させるようにしなければならないことは言うまでもないけれども、それはできない相談である。

 そこで、とりあえず民衆が、何だかよく解らぬけれども、あの人の言うことだから間違いなかろう、自分はあの人を信頼してついて行くのだというふうに持っていくのが政治である。この一文は、政治家に与えられた教訓であって、決して民衆に加えた批評ではない。

 孟武伯孝を問ふ。子曰く、父母は唯(た)だ其の疾を之憂ふ。(為政)
 《通常の解釈》
 孟武伯が孝とはどういうことですかと尋ねたところ、孔子がいうには、「父母はただ子どもの病気のことだけを心配する」 だから、子どもは自分が病気にならないように注意しなければならない、という意味である。あるいは、「父母は唯だ其の疾を之れ憂へしめよ」と読むこともある。この場合、「父母には病気のことだけで心配をかけよ」、つまり子どもはやむを得ず病気になることはあっても、それ以外のことで心配をかけてはならない、という意味になる。

 《安岡流の解釈》
 孟武伯ともあろうような堂々たる人間に対する答えとしては、少々幼稚すぎる。随分色々な注を読んでみたが、どうもしっくりするものがない。ところが、『呂氏春秋』の注を見ると、「疾」は「争ふ」に同じとある。近頃の子どもは、ことあるごとに反抗して、親の言うことを素直に聞かないので、随分悩んでおられる方が多い。疾を憂うとはそのことを言っている。つまり、親子の断絶を憂うるのである。これなら孝の答えにぴったりである。

 子曰く、 人の己を知らざるを 患(うれ)へず、己、人を知らざるを患ふ。(学而)
 《通常の解釈》
 孔子先生がおっしゃった。「他人が自分を知ってくれないということはどうでもよい。そもそも自分が他人を知らないことが問題である」と。優れた思想を持ちながら、なかなか世の政治家に用いられることがない孔子に向かって弟子が心中を尋ねたところ、このような答えが返ってきたという。つまり、政治家に自分の評判が及んでいないことが問題なのではなく、自分の修練がまだまだ足りないことが問題なのだ、という謙遜の答えである。

 《安岡流の解釈》
 もっと突っ込んで考えると、「人が己を知ってくれようがくれまいが問題ではない、そもそも己が己を知らないことの方が問題だ」と解釈した方が、もっと切実に感じられる。案外人間というものは、自分自身を知らないものである。自分が自分を知らないのだから、人が自分を知らないのは当然である。したがって、問題は、まず己が己を知ることでなければならない、ということになる。

 子曰く、苟(いやしく)も仁に志せば、悪(にく)むこと無きなり。(里仁)
 《通常の解釈》
 普通は悪むをあしきと読んで、いやしくも仁を志せば、悪いことはなくなる、という解釈になる。

 《安岡流の解釈》
 悪むは退ける、拒否するの意味であり、「仁に志せば、人の言うことをあれもいけない、これもいけない、というふうに退けることをしなくなる」と解釈する方がよい。仁は色々な意味に用いられているが、最もよく『論語』に出てくるのは、天地が万物を生成化育するように、我々が事物に対して、どこまでもよくあれかしと祈る温かい心、尽くす心を指す場合である。したがって、仁に志すようになれば、何事によらずそのものと一つになって、それを育てていく気持ちが起こってくる。

 斉の景公、孔子を待って曰く、季氏の若(ごと)きは則ち吾れ能はず、季孟の間を以て之を待せん。曰く、吾れ老いたり、用うること能はざるなり。孔子行(さ)る。(微子)
 《通常の解釈》
 斉の景公が孔子を待遇するのに、「魯の国の三卿の中でも貴い上卿の季氏と同じような待遇はできないが、季氏と下卿の孟氏との中間の待遇をいたしましょう」と言った。そして、「私ももう年を取った。到底あなたを用いることはできない」と言ったので、孔子は斉を去った(いかにも待遇が不満で、孔子が去ったかのような解釈である)。

 《安岡流の解釈》
 当時、景公を補佐した人に、晏子という名宰相がいる。晏子が孔子を用いることにあまり賛成ではなかったため、景公もその心を察して、孔子を尊敬しているけれども、それほど立ち入って話をしなくなった。それで孔子も諦めて、斉を去ったと推定される。

 だが、もう少しよく考えると、晏子という人は己の利益などを考えて反対するような人ではない。いつの時代でもそうだが、人を用いようとする場合には、必ず反対者がいる。斉においても、もちろん反対者がいたに違いない。そういう連中が、晏子が孔子を用いるのに進んで賛成ではないのを知って、それを利用して、いかにも晏子が孔子を排斥したようにしてしまった、というのが真相であろうと思われる。そのあたりの事情は、『晏子春秋』からうかがい知ることができる。

 子曰く、甯武子、邦(くに)に道有れば則ち知、邦に道無ければ則ち愚。其の知及ぶべきなり、其の愚及ぶべからざるなり。(公冶長)
 《よくある誤解》
 甯武子は春秋初期の人で、衛の国の大夫である。現代語に訳すと、「甯武子は、国に道がある時は智を発揮し、国に道がない時は愚になった。その智は真似することができるが、その愚は到底真似ることができない」となるが、これを「その馬鹿さ加減が話にならない」と解して、甯武子に対する批判だととらえているケースが見られる。

 《安岡流の解釈》
 これは讃嘆の言葉である。「邦に道無ければ則ち愚」は、「国家が乱れている時こそ愚直であるべきだ」と解釈するのがふさわしい。知―頭がよい、気が利くということは五十歩百歩で、真似できないことはない、学んで至り得ぬことではない。けれども、人間というものは、なかなか愚―馬鹿にはなれぬものである。甯武子は、人が真似できない馬鹿になれた人だというわけだ。

 「馬鹿殿」という言葉は、本来は賛辞である。殿様は、内には世話の焼ける領民と大勢の厄介な家来を抱え、外には幕府という絶対権力者を戴いて、一日として心の休まる時がない。下手をすると、いつ取り潰されるか解らない。そういう内外の苦境の中にあって、殿様としてやっていくには、利口になってはいけない。解っても解らぬような顔をして、馬鹿にならないと務まらない。

 子貢、問うて曰く、賜(し)や何如(いかん)。子曰く、女(なんじ)は器なり。曰く、何の器ぞや。曰く、瑚連(これん)なり。(公冶長)
 《一般的な解釈》
 子貢がこう言って尋ねた。「賜、つまり私などはどうでしょうか」、「お前は器だ」、「何の器ですか」、「国家の大事な祭祀に用いる立派な器だ(国家の大事な仕事に従事させることのできる立派な人物だとの意)」

 《安岡流の解釈》
 子貢は他人の批評をするのが好きな人物であったから、自分の評価も気になるわけだ。本文では子貢がたいそう褒められているように見えるが、実は、未だ至らざることに対して孔子が戒めている。器は用途によって限定されている。瑚連であろうが、茶碗であろうが、またそれがいかに立派であろうが、便利であろうが、どこまでも器であって、無限ではなく、自由ではない。

 これに対して道は、無限性、自由性を持っている。したがって、道に達した人は、何に使うという限定がない。非常に自由自在で、何でもできる。こういう人を道人と言う。本文は、子貢は立派な器であるが、まだ道には達していない、ということを孔子が言っているわけだ。




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