2016年02月10日
山本七平『一下級将校の見た帝国陸軍』―日本型組織の悪しき面が露呈した帝国陸軍
一下級将校の見た帝国陸軍 (文春文庫) 山本 七平 文藝春秋 1987-08 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
太平洋戦争における日本軍の評価は右派と左派で完全に分かれる。右派は、日本が帝国主義や白人至上主義に挑戦し、大東亜共栄圏という構想を掲げて、東南アジア諸国を列強の植民地支配から解放したと評価する。一方の左派は、日本軍は東南アジアから列強を追い出した後も、欧米諸国と同じように暴力で支配したことを批判する。加えて、中国の南京大虐殺や朝鮮半島の従軍慰安婦を持ち出して、日本はアジア全体に対する謝罪がまだ足りないと主張する。
本書の著者である山本七平は、陸軍の下級将校として戦場に赴いた経験がある(戦闘シーンもリアルに描写されている)。その山本は次のように述べている。
”解放者”日本軍が、なぜ、それ以前の植民地宗主国より嫌われたのか。それは動物的攻撃性があるだけで、具体的に、どういう組織でどんな秩序を立てるつもりなのか、言葉で説明することがだれにもできなかったからである。
あの船内ですでにそれを読んでいた石塚中尉は、その日記に次のように記している。「六月九日(曇後細雨)五時、爆雷攻撃開始、敵潜一撃沈の勝報に接す・・・比島情報綴を借りて一読するに建国直後の満州と同様各地に反日匪賊の多いのに驚く。内地では比島は日本占領後平和な国となっていると思っていただけに、思いもよらぬ情報なり・・・」山本は、日本にはフィリピン統治の意思がなかったのではないかと分析している。おそらく、他の国も同じだろう。戦時中、日本人は「アジアは一つ」と言っていたが、そのアジアが具体的にどのようなものなのか、誰一人解っていなかった。だから、実際には「アジアはなかった」のである。私はやや保守寄りの立場なのだが、同じ保守派の山本の告白は少々意外であった。
(※)ただ、この手の回想は、どれが本物でどれが偽物なのか見分けることが難しい。慰安婦にインタビューしてまとめられたとされる吉田調書ですら、結局は偽物であった。だから、相矛盾する情報であっても幅広く頭に入れ、事実(と思われること)を1つずつ拾いながら、あの戦争で何が起きていたのか、最も納得感のあるストーリーを自分で構築するしかなさそうだ。
山本は、もし日本が本気でアジアを解放したければ、イギリスに倣うべきだったと指摘する。
だが本当にそう信じているなら、二個師団を残さず、全部撤退してすべてを比島政府にまかせ、文官の”弁務官”を置いておけばよいはずである。そして、この政府に日米間の中立を表明させ、比島全域を戦闘区域から除外しておけば、これは歴史に残る「大政略」であり、おそらくわれわれは、変わらざる友邦を獲得できたであろうし、また兵力の転用集中においても有用であったろう。これはいわばイギリス式行き方である。イギリスの植民地支配は特徴がある。それは、植民地のトップを必ず現地の人間にすることである。現地の人間の掌握術は、現地の人間が一番よく理解しているからだ。イギリス人は、本国から植民地をコントロールする。近年、企業経営において「ガバナンス」という言葉が用いられる場面が増えたが、ガバナンスの起源はこれである。一方の日本は、支配地域にいつまでも日本人を配置する。現地を日本化するには最も効率的である反面、現地の反発を招きやすい。
日本のこうした伝統は、日本企業が海外に進出する際にも表れる。欧米の企業が海外に進出すると、現地子会社のトップはほぼ例外なく現地人になる。成果主義を導入し、努力すればトップになれるという道を示すことで、現地社員のモチベーションを上げる。ところが、日本企業の海外子会社のトップには、本社から日本人が送り込まれてくる。そのトップは頑張って日本的経営なるものを海外子会社に浸透させようとするものの、キャリアパスにガラスの天井があると感じた現地社員は、日本人トップに忠誠心を示さず、短期間で転職してしまう。
以前の記事「『一生一事一貫(『致知』2016年2月号)』―日本人は垂直、水平、時間の3軸で他者とつながる、他」で、日本の組織は垂直、水平方向のつながりに加えて、時間軸でもつながっていると書いた。垂直方向のつながりとは、組織内で言えば階層間のつながり、業界全体に視野を広げれば、製造業・建設業などの多重下請構造、多段階流通構造を指す。水平方向のつながりとは、同じ階層に属する他のプレイヤーとのつながりである。組織内であれば同期同士のつながりや部門間連携、業界全体で見れば競合他社などとの協調を指す。時間軸のつながりとは、過去から受け継いだものを未来へと引き渡すという形でつながっている、という意味である。
日本型組織(ここでは企業とする)が上手く機能する条件としては、以下の3つが挙げられる。
①組織のトップは、適度に顧客と接触し、顧客ニーズの変化を察知する。その変化が経営にもたらす意味を洞察し、部下に従来の仕事のやり方を改めるよう指示する。ただし、トップがあまり頻繁に現場に出向いて顧客と会ってはならない。顧客接点は第一義的には現場社員の仕事である。トップは現場の仕事を奪ってはならない。トップはできるだけ現場に権限を委譲し、現場で何か問題が起きたら責任を背負う立場でなければならない(以前の記事「『リーダーシップの神髄(『致知』2016年1月号)』―リーダーはもっと読書をして机上の空論を作ればいい」を参照)。
②日本型組織は垂直方向の階層組織であり、上の階層から下の階層に順番に命令が下ることで動く。だが、下の階層は、上の階層からの命令が曖昧であったり、自らが現場で集めた情報に照らし合わせると異なる見解を導くことができそうな場合には、上の階層に意見することが許される。これを山本は「下剋上」と呼んだ。ただし、歴史上の下剋上は下の階層が上の階層に取って代わるのに対し、企業内の下剋上は階層構造を温存する。
下の階層が意見をするのは、上司を蹴飛ばすためではない。①とも関連するが、日本企業は出世するほど権限が制限され、責任ばかりが重くなる。だから、下の階層は下の階層にとどまったままでいた方が、自分のアイデアを自由に実行する余地を獲得できる(以前の記事「山本七平『帝王学―「貞観政要」の読み方』―階層社会における「下剋上」と「下問」」を参照)。
③日本型組織は水平方向のつながりも強固である。日本企業は競合他社の事例を集めるのが大好きだ。新しい機械やソリューションを導入する際には、「競合他社が導入しているならば我が社も導入しよう」と考える。そして、機械やソリューションの提供企業も、(もちろん企業秘密は守るが、)導入実績の情報をオープンにする。GEが他の企業のベストプラクティスを研究して自社に適用することをベンチマークと呼んだが、日本では横のつながりのおかげで、ベンチマークが当然のように行われている(だから、どの企業も似たような製品・サービスになりがちだ)。
また、企業内に目を向けると、新入社員が同時に入社して同期社員となり、配属先がバラバラになった後も、時々集まって情報交換するのは日本ならではの慣行である。さらに、日本では人事ローテーションが定期的に行われる。これはゼネラリスト育成が目的ではあるが、他部署の社員がやってくることで、元いた部署と新しい部署とのつながりが生じるという別の側面もある。
日産でカルロス・ゴーン氏がCEO就任直後に導入した「クロス・ファンクショナル・チーム(CFT)」は注目度が高かった。まだ十分に調べ切れていないのだが、実は日産がCFTを設置するよりもずっと前から、日本企業では部門間の壁を取り払った連携が盛んだったと推測する。欧米企業は機能別に専門化するため、タコツボ化するのが普通である。だから、部門間の壁を壊す取り組みには、わざわざCFTという名前をつけなければならなかった。ところが、日本ではそれが至極当然のように行われていたから、特に名前をつける必要もなかったのだろう。
以上のように、各個人が垂直、水平、時間軸で複雑に結びつき合うことで、現在から未来へと漸次的に変化を遂げるのが日本型組織の特徴である。強力なリーダーシップを発揮して一方向に爆走することはないため、アメリカのイノベーティブな企業に比べると非常に地味である。それでも、日本型組織が環境変化にもまれながらしぶとく生き抜くために身につけた知恵である。
ところが、往々にして強みは弱みに転じる。本書を読むと、帝国陸軍の失敗がいくつか見えてくる。まず、組織のトップが現場に足を運ばず、過去のやり方に頑なにこだわった。陸軍では、日露戦争の勝利が忘れられず、ロシアと戦う時の戦術ばかりを訓練していたという。
だがこれは、当時の時点で、すでに20数年前の技術である。しかも、完全な平坦地であるロシアの平原で威力を発揮した技術、光学兵器の活用はジャングルでは不可能のはず。いやその前に、その測地を活用できる重砲群が日本にあるのか?一個大隊欠の一個連隊なら、もっと小規模な大隊射撃が限度ではないのか。これも遠い将来のための教育なのか。とすると帝国陸軍の砲兵は、遠い将来に25年前のドイツ軍に追いつくことを目標にしているのか―。だが、上からの命令はどう考えても現実に適合しない。下剋上が機能する組織なら上司に物申すことも許されるだろう。しかし、当時の陸軍にはそのような雰囲気がなかった。相矛盾する命令と現実を天秤にかけ、命令が絶対的に正しいのだとすれば、現実を命令に合わせて歪曲するしかない。陸軍は一般の企業が在庫の棚卸をするのと同様、定期的に物品の数をチェックしていた。これを員数と呼ぶが、員数に固執する陸軍の体質を山本は「員数主義」と名づけた。
それは当然に「員数が合わなければ処罰」から「員数さえ合っていれば不問」へと進む。従って「員数を合わす」ためには何でもやる。「紛失(なくなり)ました」という言葉は日本軍にはない。この言葉を口にした瞬間、「バカヤロー、員数をつけてこい」という言葉が、ビンタとともにはねかえってくる。こうなると、現場の人間は上の者の言うことをロクに聞かなくなる。ここで登場するのが参謀である。参謀は、軍規で指揮命令権がないと定められているにもかかわらず、公式の指揮命令系統を離れて、勝手に命令をし始める。これを山本は「私物命令」と呼んだ。しかも、当の本人は後になって、「そんな命令を出した覚えはない」と白を切る。そんないい加減な命令だから、現場にとって無茶苦茶な内容であったのだろう。本書では辻政信の私物命令が取り上げられているが、辻はインパール作戦を大失敗させた張本人である。
いったい、こういう人たちが常に保持ししつづけ得た”力”の謎は何であろうか。それは一言でいえば、ある種の虚構の世界に人びとを導き入れ、それを現実だと信じ込ませる不思議な演出力である。そしてその演出力を可能にしているものが(中略)”気魄”という奇妙な言葉である。司令官の命令は上手くいかない。参謀の私物命令もダメ。それでも、何か命令を出さなければ陸軍が動かない。追い込まれた参謀が発する命令は、「何とかしろ」であろう。それを”気魄”を持って現場の人間に迫るのである。ただ、「何とかしろ」と言われている間は、まだ現場の人間に考える余地がわずかに残っているからましなのかもしれない。組織が本当に追い詰められると、「絶対にやってはいけない」とされていることを、大転換させて「やれ」と命じるようになる。
「戦闘機の援護なく戦艦を出撃させてはならない」と言いつつ、なぜ戦艦大和を出撃させたのか。「相手の重砲群の破滅しない限り突撃をさせてはならない、それでは墓穴にとびこむだけだ」と言いつつ、なぜ裸戦車を突入させたのか。「砲兵は測地に基づく統一使用で集中的に活用しなければ無力である」と口がすっぱくなるほど言っておいて、なぜ、観測機材を失い、砲弾をろくに持てぬ砲兵に、人力曳行で三百キロの転進を命じたのか。地獄の行進に耐え抜いて現地に到達したとて「無力」ではないか。無力と自ら断言した、無力にきまっているそのことを、なぜ、やらせた。私は特攻隊について何かを論じるほどのものを持っていないのだが、特攻隊もやはり「絶対にやってはならない」ことではなかっただろうか?戦争の目的は「自軍の被害を最小限に抑えつつ、相手に勝利すること」である。それなのに、自軍の被害を自ら増やしながら相手に立ち向かっていくという戦略に、果たしてどれほどの可能性があったのだろうか?
山本は、日本軍における死は生者を規定し、絶対的に支配するものだと述べている。
この「死の臨在」による生者への絶対的支配という思想は、日本陸軍の生まれる以前から、日本の思想の中に根強く流れており、それは常に、日本的ファシズムの温床となりうるであろう。先ほど、日本人は時間軸でつながっていると書いた。日本人は過去と未来の両方とつながることで、自らの有限性を意識し、謙虚になり、相対的に把握することが可能となる。我々は先代から不十分なものを受け継ぎ、不十分なままに死んでいき、将来の世代に不十分なものを受け渡す。日本人はこうして歴史的に連鎖している。これは歴史が長い国の特権である。
ところが、自ら死を選ぶということは、過去からの継承、将来への相続の流れがまだ不十分であるにもかかわらず、もはやそれが十分であるかのように自己決定して、時間軸から強制的に独立することである。彼は不十分なものを自らの力で十分(完全)なものとしたという点で、その死は絶対的である。彼に続く人は、「志半ばで死んだ彼のために」と誓ってこれからの人生を歩むだろう。だが、実際のところ、死んだ彼は志を全うしたのであり、全てを後世に託して死んだのである。だから、死は生者を絶対的に支配する。これが日本的ファシズムの精神的構造である。