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山本七平『日本人とユダヤ人』―人間本位の「日本教」という宗教
『寧静致遠(『致知』2017年6月号)』―日本が編み出した水平・垂直方向の「二項混合」について
鈴木大拙『禅』―禅と全体主義―アメリカがU理論・マインドフルネスで禅に惹かれる理由が何となく解った

プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

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2017年06月07日

山本七平『日本人とユダヤ人』―人間本位の「日本教」という宗教


日本人とユダヤ人 (角川oneテーマ21 (A-32))日本人とユダヤ人 (角川oneテーマ21 (A-32))
山本 七平

角川書店 2004-05

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 本書が最初に出版された時、著者名はイザヤ・ベンダサンとなっていたが、実はこれは山本七平のペンネームである。本書の中に何度か登場する「山本書店の店主」とは、出版社を経営していた山本自身のことである。私が読んだ本では、著者名が山本七平に改められていた。山本七平は、神戸市の山本通りで、木綿針を中国に輸出していたユダヤ人小貿易業者の家に生まれたユダヤ系日本人だと称している。その山本が、ユダヤ人と日本人を比較した1冊である。

 ユダヤ人と日本人に共通するのは、「満場一致であっても正しいとは考えない」という点である。しかし、その理由は両者で大きく異なる。ユダヤ人の場合は、満場一致は無効と見なす。ユダヤ人は、その決定が正しいならば反対者が必ずいるはずで、全員一致は偏見か興奮の結果、または外部からの圧力以外にはありえないため、その決定は無効であると考える。こうした考え方の根底には、正に対しては必ず反があるという二項対立的な発想がある。二項対立的な発想は、彼らの言語体系にも影響を及ぼしている。すなわち、彼らが扱う言葉には、両極端の意味を持つものが少なくない。彼らの二項対立的な発想は、西欧で一般的となり、現代の大国(アメリカ、ドイツ、中国、ロシア)でも常識と化している(以前の記事「『寧静致遠(『致知』2017年6月号)』―日本が編み出した水平・垂直方向の「二項混合」について」を参照)。

 一方、日本の場合は事情が異なる。日本では、満場一致の決議であっても、その議決者を完全に拘束せず、国権の最高機関と定められた国会の法律でさえ、100%国民に施行されるとは限らない。だからと言って、日本が無法地帯に陥っているわけではない。ここに日本独特の「法外の法」があり、「満場一致の議決も法外の法を無視することを得ず」という不文律がある。よって、裁判では「法」と「法外の法」の両方が勘案されて、情状酌量がなされた人間味あふれる判決が下される。この法外の法を知らない外国人が日本人と契約を結ぶ際には苦労する。

 元来、法律というものは、言葉によって厳格に記述されたものである。だとすると、「法外の法」がある日本語はいい加減だということになりそうだが、山本に言わせれば決してそうではない。むしろ山本は、日本語は完璧であると指摘する。日本語は他の言語に比べて言葉の数が豊富であり、かつ、1つの言葉の範囲が狭い。1つの言葉が両極端の意味を持つということがまずない。日本人は、意味を狭められた抽象的な言葉を自由自在に使いこなして、具体的な結論を出すことができる。いや、結論が「出る」と言った方が正しい。算術的に結論が出るさまを、山本は日本人が得意とする算盤に例えている。暗算をする時には頭の中に算盤を思い浮かべる。最初の頃は頭の中の算盤の珠を意識的に動かさないと計算できない。だが、暗算が上達すると、算盤の珠を無意識のうちに操ることが可能となる。その結果、答えが自然と「出る」のである。

 「法外の法」があるということは、「言外の言」、「理外の理」が存在することを意味する。山本はこの3つを「日本教」という宗教の特徴だと主張する。しばしば日本人は無宗教だと言われるが、山本の目から見ると、日本には厳然たる「日本教」という宗教が存在する。そして、日本人とは日本教徒のことであり、ここでは国籍は関係ないと言う。仮にフランス人が日本国籍を取得しても、それだけでは周囲から日本人と認められない。その元フランス人日本人は、日本教に”改宗”して初めて日本人と見なされる。この日本教における最高の価値とは「人間」である。
 「人間性の豊かな」「人間ができている」「本当に人間らしい」とかいう言葉、またこの逆の「人間とは思えない」「全く非人間的だ」「人間って、そんなもんじゃない」「人間性を無視している」という言葉、さらに「人間不在の政治」「人間f材の教育」「人間不在の組織」という言葉、この、どこにでも出てくるジョーカーのような「人間」という言葉の意味する内容すなわち定義が、実は、日本における最高の法であり、これに違反する決定はすべて、まるで違憲の法律のように棄却されてしまうのである。
 日本教においては、最後は「人間らしいかどうか」が判断基準となる。山本は、日本教の考えがよく表れている書物として『日暮硯』を挙げる。江戸中期、信州松代藩の家老・恩田木工が、窮乏に陥った藩財政の改革に成功した事蹟を筆録した書である。恩田木工は、税金を前納した者、税金をまだ納めていない者、脱税した者、役人に賄賂を贈った者などを全て平等に扱い、改革を進めた。『日暮硯』を読んだ外国人は、「日本の律法は一体どうなっているのか?」と一様に首をかしげたそうだ。だが、恩田木工が優先したのは、財政難で荒廃している藩における人間関係の回復であった。これこそが、日本教的生き方である。

 最後は人間関係がカギを握る―これは日本人が作成する契約書にも表れている。日本の契約書の最後には、必ず次の条文がある。「その他本契約に定めのない事項について疑義が生じた時は、双方誠意をもってその解決にあたるものとする」。契約に関しては、新興国でよく見られる人治主義(「俺が言ったことが正しいルールだ」)と、欧米の法治主義(明文化されたルールが全てである)という2つの立場がある。日本人の契約書は、決まりごとを文言で明記しておきながら、最後は人間同士の話し合いで折り合いをつけるというものである。これは、人治主義と法治主義の「二項混合」と言える。前述の通り、欧米人はこの二項混合に困惑するのである。

 「法外の法」、「言外の言」、「理外の理」ということは、法律、言葉、道理をはみ出していく法律、言葉、道理が存在することを意味する。しかし、このはみ出した法律、言葉、道理は決して、元の法律、言葉、道理を否定するのではない。聖書のヨハネの福音書の冒頭には「はじめにロゴス(言葉)あり」という有名な言葉があるが、山本に言わせると、日本の場合は、「はじめに言外あり、言外は言葉とともにあり、言葉は言外なりき」という言葉が冒頭に来るという。ここでは言葉と言外という対立・矛盾が何の問題もなく同居し、全体を構成している。この世界観は、以前の記事以前の記事「『寧静致遠(『致知』2017年6月号)』―日本が編み出した水平・垂直方向の「二項混合」について」で修正した鈴木大拙の世界観に通じるところがある。

 ただ、山本が言う日本教には、1つ弱点があると思う。山本は、日本教の根底には、「人間とは、こうすれば、必ず相手もこうするものだ」という確固たる信念があると言う。これは、自分がよいと思うことは、相手も必ず実践してくれるという発想であり、実は自己本位になっている。日本人が自分の価値観を相手に押しつけて失敗した例は、満州経営の失敗や、太平洋戦争で日本兵がアジアの植民地から反発を食らったことを挙げれば十分だろう。「自分のことはさておき、相手の利益になることは何か?」を考えることが、真に人間本位の日本教であると言える。

 ここからは私の個人的な体験談。私は以前、ある中小企業向け補助金事業の事務局員を務めていた。補助事業に採択された中小企業が、補助金を適正な目的のために使用しているかを様々な伝票類から確認するという事務作業がメインであった。補助金は国民の税金が財源であるから、適正に投入しなければならない。よって、補助金の要件は厳格に定められている。私も分厚い冊子を何冊も渡された。だが、これは建前であって、実は補助金のルールをよく読み込むと、グレーな部分が結構たくさんある。典型的なのは「○○等」、「その他○○」という表現を使い、どういうふうにでも解釈できる道を作ってしまうことである。

 真面目な事務局員は、曖昧な言葉を厳格に解釈して、ルールを複雑化する傾向があった。おそらく彼らの心の中には、「補助金による不正を防がねば」という気持ちがあったのだろう。一方、事務局長レベルと話をすると、「ここは幅広く解釈してOKにしよう」という結論になることが多かった。事務局長レベルの人たちは、「明らかな不正でない限り、補助金をできるだけ満額中小企業に受け取ってもらう」という考え方で動いていたと思う。我々事務局が担当する中小企業は、既に採択された、すなわち一度審査で合格になった企業である。中小企業は、「採択された以上、補助金を受け取る権利がある」と思っている。だから、事務局はあまりやかましく言わずに補助金を支払うのが人間の情というものであろう。これも日本教の一例かもしれない。

 私自身も、事務局長レベルの人たちと近い考え方で仕事をしていた。我々事務局員がどんなに真面目に仕事をしても、所詮補助金は補助金であり、世間には政治家が人気取りのために行うバラマキにしか映らない。だとすれば、よほどの不義理がない限り、いっそのこと盛大にばらまいてお金を循環させた方が、世のため人のためになるというのが私の考えであった。幸い、私が200社ぐらい担当した中で、明らかな不正を働いている企業は1社もなかった。むしろ、前述のようにルールを厳格に解釈する厳しい事務局員に限って、明らかな不正を働いている中小企業に当たることが多く、中小企業とよくトラブルを起こしていた記憶がある。

2017年06月05日

『寧静致遠(『致知』2017年6月号)』―日本が編み出した水平・垂直方向の「二項混合」について


致知2017年6月号寧静致遠 致知2017年6月号

致知出版社 2017-06


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 特集タイトルの「寧静致遠」とは、誠実でコツコツした努力を続けないと、遠くにある目的に到達することはできないという意味である。諸葛孔明が自分の子どもに遺した言葉に、「淡泊にあらざればもって志を明らかにするなく、寧静にあらざればもって遠きを致すなし」(私利私欲におぼれることなく淡泊でなければ志を持続させることができない。ゆったりと落ち着いた状況にないと遠大な境地に達することはできない)とあるそうだ。
 岡村:私たちの社会は一人ひとりの集まりですが、全体を数として見るのではなく、一人を見ることが同質のすべての人を見ることに繋がるという発想が東洋にはあったわけです。ですから、西洋でいう宗教という言葉自体が東洋には必要なかったのかもしれません。
(岡村美穂子、上田閑照「鈴木大拙が歩いた道」)
 鈴木大拙の「1が全体であり、全体が1である」という考え方は、全体主義に通じる危険性があるのではないかということを以前の記事「鈴木大拙『禅』―禅と全体主義―アメリカがU理論・マインドフルネスで禅に惹かれる理由が何となく解った」で書いた。
 岡村:人間は他の生物と比べて一足先に意識が変化しました。そこで何が起きたかというと、物事を主観と客観に分けて捉えるようになったんです。(中略)半面、自我をも発達させてしまったことで「自分はあなたじゃない」「あなたは自分ではない」という分離を生んでしまったんです。(中略)そこに生じるのが対立であり競争であり戦争です。
(同上)
 「1が全体であり、全体が1である」社会は、私とあなたという区分がない社会である。さらに言えば、この考え方の根底には汎神論(一切の存在は神であり、神と世界とは一体である)があり、その神は唯一絶対であるという前提がある。我々は皆、生まれながらにして絶対的な神と等しい完全な存在である。そこには、自分とは異なる他者の存在を容認する余地はない。

 私は、これを修正したのが「二項対立」という発想であると考えている。世の中の全ての事象を対立構造で把握する。確かに両者は激しく衝突し、引用文にあるように時に戦争にまで至るが、少なくとも、自分とは異なる立場を取る者が存在することを是認している。こうした修正に関しては、以前の記事「【現代アメリカ企業戦略論(2)】アメリカによる啓蒙主義の修正とイノベーション」で書いた。そして、現代の大国はおしなべて二項対立的な発想をする。この点については以下の参考記事を参照していただきたい。引用文にある岡村氏は、2つ目の引用文が1つ目の引用文より進んだ考え方だとしているが(そして、それが鈴木大拙の言う禅の思想だとしているが)、私は逆に、2つ目の引用文の方が進んでいるのではないかと感じる。

 《参考記事》
 アメリカの「二項対立」的発想に関する整理(試論)
 岡本隆司『中国の論理―歴史から解き明かす』―大国中国は昔から変わらず二項対立を抱えている

 ただし、二項対立的な発想ができるのは大国に限定される。二項対立は非常に大きなエネルギーを扱うことになるため、日本のような小国では手に負えない。そこで日本人が編み出したのが「二項混合」という手法である。これにより、対立する二項のエネルギーを減殺する(以前の記事「山本七平『存亡の条件』―日本に「対立概念」を持ち込むと日本が崩壊するかもしれない」、「齋藤純一『公共性』―二項「対立」のアメリカ、二項「混合」の日本」を参照)。

 二項混合には、水平方向の混合と垂直方向の混合の2種類がある。まずは、水平方向の今号から説明したい。水平方向の混合にはいくつかのレベルがある。最もプリミティブな混合は、対立する2つの事柄について、ある時は一方を用い、別の時はもう一方を用いるという使い分けをすることである。経営で言えば、マーケティングとイノベーション、マネジメントとリーダーシップは対立関係にある。アメリカのビジネスでは、マーケティング部門とイノベーション部門(R&D部門)は激しくいがみ合い、変革に挑戦するリーダーは既成勢力のマネジャーから猛烈な反発を食らうというストーリーがしばしば描かれる。日本の場合は、マーケティングとイノベーション、マネジメントとリーダーシップの「スイッチを切り替える」ことで、対立を回避しようとする。

 2段階目の混合は、スイッチの切り替えの頻度を上げることである。以前の記事「『構造転換の全社戦略(『一橋ビジネスレビュー』2016年WIN.64巻3号)』―家電業界は繊維業界に学んで構造転換できるか?、他」で、野中郁次郎氏の知識創造理論はマインドフルネスやU理論に触れたことがないと書いた。野中氏のSECIモデルでは、SECIのサイクルを回す中で、主観と客観、物質と精神、身体と心、感覚と論理、個人と集合、部分と全体、過去と未来、形式知と暗黙知といった対立軸の間を頻繁に移動する。例えるならば、対立する二項の間で高速の反復横跳び運動をするようなものである。運動者は一種の酩酊状態に陥る。主観の中に客観を見、物質の中に精神を見る(あるいはそれらの逆)といった現象が生じる。

 3段階目の混合は、対立する二項を文字通り混ぜ合わせて、新しい事象を創造することである。政治の世界では、一方に独裁政治、もう一方に民主主義政治がある。日本の政治は両者の混合型である。すなわち、自民党が戦後のほとんどの期間において政権を握っていながら、自民党の内部が多様な派閥に分かれていることで、疑似的に多党制の民主主義が実現されていた(この点、小泉純一郎氏が派閥をぶっ壊してしまい、現在の自民党が派閥の弱い一党独裁のようになっている点が心配である)。また、経済の世界では、一方に資本主義、もう一方に社会主義がある。日本の戦後の高度経済成長は、日本株式会社とも呼ばれたように、国家が自由な市場経済や企業活動を牽引するという特殊型で成し遂げられたものであった。

 4段階目の混合は、もはや対立を二項に限定しない。多神教の影響を受けている日本人は、物事には様々な見方があることを知っている。そして、それぞれのいいところを都合よく取捨選択する。ここまで来ると、もはや二項混合ではなく多項混合である。明治時代の日本はまさに多項混合で近代社会を作り上げた。法律、金融、通信、軍隊など様々な社会制度は、ヨーロッパ諸国の制度のちゃんぽんである。私は、このちゃんぽん戦略こそが、日本が対立する大国の間に身を置きつつ、周囲の小国と連携しながら自国を守る術であると考えている(以前の記事「千野境子『日本はASEANとどう付き合うか―米中攻防時代の新戦略』―日本はASEANの「ちゃんぽん戦略」に学ぶことができる」を参照)。

 ここで、私が思い描いていた鈴木大拙の世界観について、少し修正しなければならないと思うようになった。「1が全体であり、全体が1である」という世界には、名前がない。名前をつけようがない。どんなに言葉を尽くしても、神が放つ強烈な輝きによって言葉は意味を失う。だからこそ、全体主義は恐ろしい。だが、鈴木大拙は、西洋に禅を紹介した書物の中でこう述べている。
 「花紅にあらず、柳緑にあらず。」―これも禅のもっともよく知られた言葉の一つであるが、「柳は緑、花は紅」という肯定と、同じものと考えられている。これを論理的な方式に書き直せば、「AはAであって、同時に非Aである(A is at once A and not-A.)」となろう。そうなると、われはわれであって、しかも、なんじがわれである。
禅 (ちくま文庫)禅 (ちくま文庫)
鈴木 大拙 工藤 澄子

筑摩書房 1987-09

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 つまり、対立や矛盾が平然と存在するのが禅における全体である。禅に対する私の理解がまだ十分に追いついていないのだが、禅には二項混合的な発想があるのかもしれない。その複雑な世界を、修行者はあらゆる角度から考察する。彼らが語る言葉には矛盾や否定が多く含まれる。一般人には意味不明に聞こえる。だから、禅問答などと呼ばれる。以前の記事「鈴木大拙『禅』―禅と全体主義―アメリカがU理論・マインドフルネスで禅に惹かれる理由が何となく解った」では、禅問答では言葉が表面的な意味を失って意味を無制限に拡散させているから、全体主義につながっていると書いてしまった。しかし、禅問答は混合的な世界を複眼的に描写しようとする修行者の苦労の跡であると解釈するのが公平な見方ではないかと考えるようになった。

 日本では、水平方向の二項混合だけでなく、垂直方向にも二項混合が見られる。通常、階層社会においては、上の階層と下の階層は対立関係でとらえられることが多い。ところが、日本の場合、下の階層が上の階層の権限を侵食し、より大きな影響力を行使することがある。ただし、ここで重要なのは、下の階層は決して上の階層を打倒しようとはしないということである。こうした現象を、山本七平は「下剋上」と呼んだ(一般的な意味での下剋上とは違うので注意が必要である)。マルクス社会主義が唱えた階級闘争とは異なる。

 日本の歴史を振り返ると、下の階層が上の階層の権限を侵食するという例は数多く見られる。平安時代の摂関政治は、藤原家が摂政・関白という地位を利用して強い政治力を発揮した現象である。日本で長く続いた朝幕二元支配は、幕府(武士)が天皇の執政権の大部分を担ったものである。その幕府の中でも下剋上が起きたことがある。鎌倉時代には、将軍の力が弱く、代わりに執権である北条氏が実権を握っていた。明治時代に入ると、大日本帝国憲法によって天皇に強大な行政権が与えられるようになったが、内閣総理大臣(実は帝国憲法に定めがない)の任命は、天皇の下にいる元老(これも帝国憲法に定めがない)の助言に従って行われていた。

 私は、究極の二項混合は、神仏習合であると思う(以前の記事「義江彰夫『神仏習合』―神仏習合は日本的な二項「混合」の象徴」を参照)。大陸から仏教が伝わった頃、信仰の内容がはっきりしない神祇信仰は、教義が明確な仏教に比べると圧倒的に不利であるように見えた。事実、日本の八百万の神々は、様々な仏が化身として日本の地に現れた権現であるとする本地垂迹説が唱えられたり、日本書紀に登場する神々が仏の名前によって書き換えられたりもした。ところが、仏教はついに神社を破壊しなかったし、天皇から祭祀の機能を取り上げることもなかった。明治時代に入って廃仏毀釈が起き、神道と仏教が分離して現在に至るものの、初詣は神社で、葬式はお寺で行うという習慣の中に、弱い神仏習合が見られると言えるのかもしれない。

 下の階層が1つ上の階層に対して下剋上するだけではなく、2つ以上上の階層に対して下剋上をする場合もある。本ブログで何度も書いているように、(非常にラフなスケッチだが)日本社会は「神⇒天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/NPO⇒学校⇒家族」という多重階層構造になっている。ここで、企業は単に顧客の要望に忠実に従うだけでなく、「お客様はもっとこうした方がよい」と提案することがある。これが1つ目の下剋上である。さらに進んだ企業は、市場に対して公正な資源配分を命ずる行政府に対して、「もっとこういうルールにした方が、市場が効果的に機能する」と提案する。いわば、企業による二階級特進である。ヤフーには政策企画部という部門があり、行政に対して様々な提案を行っていると『正論』2017年6月号に書かれていた。

正論2017年6月号正論2017年6月号

日本工業新聞社 2017-05-01

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 企業の内部には、経営陣⇒部長⇒課長⇒係長⇒現場社員といった階層構造がある。論理的に言えば、市場の大まかなニーズを経営陣が把握し、それを部長⇒課長⇒係長⇒現場社員の順に具体化して、製品・サービスを製造・提供する。ここで、下剋上が進んだ企業では、顧客と直に接する現場社員が上司である係長、課長、部長、経営陣の意向をすっ飛ばして、自らの判断で製品・サービスを提供することがある。二階級特進どころか、三階級、四階級特進である。こういう企業では、現場に対して大幅な権限移譲がされている。私は、時にこのような下剋上が起きる企業こそが強い企業だと思う。逆に、弱い企業というのは、担当者と話をしても、いつも「上と相談してからでないと回答できない」と言われてしまうような動きの鈍い企業である。

2017年02月22日

鈴木大拙『禅』―禅と全体主義―アメリカがU理論・マインドフルネスで禅に惹かれる理由が何となく解った


禅 (ちくま文庫)禅 (ちくま文庫)
鈴木 大拙 工藤 澄子

筑摩書房 1987-09

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 足かけ約12年で記事の数が2,000本に到達しました(旧ブログ1,118本、現行ブログ679本、ブログ別館203本)。いつも読んでくださる皆様、本当にありがとうございます。1本あたりの文字数は時期によってバラバラなのですが、仮に平均2,000字/本とすると、約400万字書いた計算になります。原稿用紙に換算すれば約1万枚、原稿用紙1枚の厚さは約0.1㎜なので、積み上げると約1mに上ります。

 ただ、2,000本書いても自分で本当によく書けたと思う記事は数えるほどしかありません(涙)。右カラムの自己紹介欄に、モットーとして「実事求是」、「一貫性」と掲げていますが、間違ったことや矛盾したことを書いたかもしれません(何か所かは自覚症状あり)。作家の北方謙三氏は、20代の頃に原稿用紙1万枚分ぐらいの作品を書いたけれども、全部ボツにしたという話を『致知』のインタビュー記事で読んだことがあります。今の私の心境もそれに近いものがあります。本当の勝負はここからスタートです。次は4,000本を目指して精進したいと思います。
 ブログ別館の記事「『人を育てる(『致知』2016年12月号)』」で、アメリカで今流行りの「マインドフルネス」は禅の影響を受けていることに触れた。ここで私は、「本来の禅とは、絶対性や全体性の獲得を目指すものだったのであろうか?確かに禅には、静謐な空間で、他者との交わりを断って厳しい修練を積むというイメージがある。しかし、その修行の目的は、他者の異質性を認め、顔の見える他者と血の通った交流をじわじわと広め、さらにその関係を深化させることにあるのではないだろうか?」と書いた。そこで、禅について知るために本書を読んだ。本書は、宗教家である鈴木大拙が海外に禅を紹介したものである。本書を読んだ第一の感想は、「禅と全体主義は共通点が多い」ということであった。私の仮説はものの見事に打ち砕かれてしまった。

 私が理解する全体主義について、今一度整理しておきたいと思う(以前の記事「【現代アメリカ企業戦略論(1)】前提としての啓蒙主義、全体主義、社会主義」を参照)。全体主義は18世紀ヨーロッパの啓蒙主義の嫡子である。啓蒙主義においては、唯一絶対の神と人間の理性が同一化された。啓蒙主義は非合理的な宗教を排除したと説明されることが多いが、実際にはむしろ逆で、宗教と人間が深く結びついた。人間は唯一絶対で全体性を帯びた神に似せて創造されたのであるから、人間も神と同じ性質を有する。地球上には何十億という人間がいるが、皆唯一絶対の存在であり、全体である。すなわち一が全体に、全体が一に等しいことを意味する。

 一が全体に等しく、全体が一に等しい社会においては、私有財産は否定される。私のものとあなたのものという区別はなくなり、財産は全人類の共有物となる。また、一が全体に等しく、全体が一に等しい社会では、独裁と民主主義が両立する。というのも、1人の意見は全体の意見に等しいからである。全体の意見を抽出すれば民主主義的に見えるが、その全体の意見は結局のところ1人の意見と等しい。こうして、全体主義では共有財産制と独裁がその特徴となる。

 神は無から有を生み出す存在である。神と人間は等しいのであるから、人間もまた、無から有を生み出すことができる。唯一絶対の神と等しい人間は、生まれながらにして唯一絶対である。言い換えれば、生まれた時点で既に完成しており、革命は成就している。だから、教育によって人間の能力を伸ばそうとか変えようといった発想はない。むしろ、人間が下手に教育を施して、人間の完全無欠性が傷つけられることを恐れる。だから、全体主義社会においては、知識人や教育者が激しく迫害・弾圧される。全体主義では、生まれた時点という現在が時間軸の全てを支配する。現在という時間は有限であるが、同時に無限である。無限なる有限と言ってもよい。

 ところで、神と人間には決定的な違いがある。神は不滅であるが、人間は死ぬ。この点をどう考えればよいか?人間は死によって、生き残った者を現在という時間に固定する。そして、その固定をより強めるためには、人間は早く死んだ方がよい(以前の記事「神崎繁『ニーチェ―どうして同情してはいけないのか』―ニーチェがナチスと結びつけられた理由が少し解った気がする、他」を参照)。太平洋戦争で若者が天皇陛下万歳と叫びながら次々と特攻していったのも、この理屈で説明できる。山本七平はこれを「死の臨在」による生者への絶対的支配と呼んだ。死んだ者は無に帰すが、その無は再び有を生み出す源泉となる。つまり、無とは円周であり、円周上の一点において有という現在が出現し続ける。こうして、人間もまた神と同じく不滅となる。

 以上が私の全体主義に関する大まかな理解であるが、本書で説かれている禅とこの全体主義がいかに共通しているかを以下に示したいと思う。まず、唯一絶対の神と人間は等しいという点について、本書には次のように書かれている。
 「心単純な人々は、あたかも神は彼方にましまし、われわれは此方にいるのだと考える。そうではない。神とわたしとは、わたしが神を覚知する行為において一つである。」この事物の”絶対的一”に禅はその哲学の基礎を据える。
 禅にとっては、有限はすなわち無限である。時間はそのまま永遠である。人は神と別ではない。「アブラハムの存在した前にわたしはある。」さらにまた、神は無限の可能性、かぎりない自由、はてしない責任に、何の恐怖すべきものも認めない。禅は無限の可能性とともに動く。
 「禅問答」という言葉があるように、禅は答えのない問いを繰り返すイメージがある。ところが、著者によれば、問いというのは、問うものと問われるものを分ける行為、主体と客体を分ける行為であり、禅の本質ではないという。禅は主客二元論をはじめ、あらゆる二元論を認めない。禅は、世界を世界のまま受け止めることを目指す。これを「シューニヤター(空)」と呼ぶ。そして、シューニヤターは全世界であると同時に、世界を構成する個々の事物の中に存在する。つまり、全体が一であり、一が全体であることを意味する。
 相対の世界は、”シューニヤター”の上に、また、中にある。”シューニヤター”は、いわば全世界を包み、同時にそれはまた、世界に存在する一つ一つの事物の中にある。”シューニヤター”は、内在論でもなければ、超越論でもなく、もしこういうことが許されるなら、その両方である。
 禅を通じてシューニヤターを知覚する時、我々の中にある「潜在意識」が呼び起こされる。
 「潜在意識」もまたあらゆる形の神秘主義を蔵する倉であって、およそ潜在とか異常とか、霊魂とか心霊とかの名で呼ばれるものは、すべてこれに含まれる。自己の存在の本性を見究める力もまた、ここに隠されているかもしれない。そして、禅がわれわれの意識の中に目覚めさせるものも、それであるかもしれない。
 潜在意識という言葉は、U理論やマインドフルネスの下地となった、物理学者デイビッド・ボームの「内蔵秩序」という言葉を想起させる。ボームは、我々が通常意識する「顕在秩序」の背後に、一切を包み込む「内蔵秩序」があると主張した。我々は言葉や知識を用いて顕在秩序を理解しようとする。ところが、言葉や知識は世界を分断し、人々を対立へと陥れる。そこでボームは、人々が潜在意識のレベルで連帯する必要があると説いた(その手法として「ダイアローグ(対話)」を挙げた)。すると、人々は全世界を包む内蔵秩序に触れ、対立から変革へと向かうことができると言う。この考え方はまさに、U理論やマインドフルネスに受け継がれている。

 全体主義は現在を絶対化し、現在を無限なる有限と位置づけると書いた。これに関連する禅の言葉を本書の中からいくつも発見することができる。
 救いは有限そのものの中に求めねばならぬ、有限なるものを離れて無限なるものはない。もしおまえが何か超越的なものを求めるならば、それはおまえをこの相対の世界から切り離すであろう。
 有限は無限である。また無限は有限である。それは2つの別のものではない。われわれが、知性の上でそう考えさせられているだけである。
 かれは無限を円周とする円の中に生きる。だから、かれはどこにあっても、つねに実在の中心にいる。かれが実在そのものである。
 絶対の現在もまた然り。そして、”エカクシャナ”は絶対の現在であり、永遠の「今」である。かくて、禅は一刹那の中に成就すると言われるのである。
 禅は時間と歴史を越えるゆえに、それが認めるのは、はじめもなく、おわりもない生成の過程のみである。
 人間は無という円周の上に生きるのであるから、そこには始まりも終わりもない。円周上のただ1点において、一瞬だけ有(でありながら無限)が生成されるのみである。

 先ほど、禅には二元論がないと書いた。二元論は対立を生み出す。力に依存する。そうではなく、二元論を超越する愛を持つべきだと著者は述べている。だが私は、禅がこれほどまでに全体主義と共通することを知る時、むしろ恐れおののいてしまう。本ブログで繰り返し書いてきたように、二元論、二項対立こそ、人間が独善的にならないための知恵ではないかと私は考える。というのも、二項対立は自分と異なる他者の存在をまずは肯定するからである(以前の記事「【現代アメリカ企業戦略論(2)】アメリカによる啓蒙主義の修正とイノベーション」を参照)。

 禅は、インドで生まれた仏教が中国で変質・完成したものであると言う。インド人は超自然を認める。この点でインド人は空想的であり、実際に空想的な物語を描く。これに対して中国人は、どこまでも実際的である。孔子が「怪力乱神を語らず」と言ったように、超自然的なことには目を向けない。だから、中国人は、仏陀の額から光が出るなどといった物語を描くことはない。中国人は極めて実際的だが、逆説的なことに、実際的であるがゆえに知性を超えて直観で宇宙を把握することができる。逆に、空想的なインド人は、知性によって制限されている。

 中国人の思想は本当にとらえどころがない。仮に、禅が中国の思想を体現しているならば、中国には全体主義的な傾向があることになる(個人的には、全体主義=反共という点はあまり重要ではないと考える)。一方、大国である中国は、大国の流儀である二項対立的な発想に従う(以前の記事「岡本隆司『中国の論理―歴史から解き明かす』―大国中国は昔から変わらず二項対立を抱えている」を参照)。かと思えば、「中庸」という言葉があるように、二項”混合”的な考え方もする。二項”混合”は、日本のような小国の得意技である(以前の記事「『一生一事一貫(『致知』2016年2月号)』―日本人は垂直、水平、時間の3軸で他者とつながる、他」を参照)。

 U理論やマインドフルネスに傾倒するアメリカは、全体主義に向かっているのかもしれない(以前の記事「【現代アメリカ企業戦略論(4)】全体主義に回帰するアメリカ?」を参照)。同時に、中国も一党独裁を強め、言論の自由を制限し、三権分立を否定するなど、全体主義に傾きつつある。2つの大国が全体主義化する時、両国が手を結ぶことがあり得る。全体主義国家が結託する時、起きるのは戦争に他ならない。それも、全体主義国同士の戦争ではなく、全体主義国家と反全体主義国家との間の戦争である。これは、第2次世界大戦の歴史が示す通りである。




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