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『テレビに未来はあるか(『世界』2016年5月号)』―北朝鮮に関して報道されない不都合な真実(推測)、他
『法治崩壊─新しいデモクラシーは立ち上がるか(『世界』2015年11月号)』

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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京23区、神奈川県川崎市・横浜市を中心に活動する中小企業診断士・コンサルタント。

 専門領域は、(1)経営ビジョン・事業戦略の策定、(2)ビジョンや戦略とリンクした人材育成計画の立案・人事評価制度の構築、(3)人材育成計画に沿った教育研修プログラムの企画・開発。

 モットーは「日々改善、日々成長」、「実事求是」、「組織のためではなく知識のために働く」、「奇策は定石より先に立たず」、「一貫性(Consistency)」、「(無知の知ならぬ)無知の恥」

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 ブログタイトルに、oasisの往年の名曲『Whatever』を入れてみた。

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2016年07月14日

『躍進トランプと嫌われるメディア(『正論』2016年7月号)』―ファイティングポーズを見せながら平和主義を守った安倍総理という策士、他


正論2016年7月号正論2016年7月号

日本工業新聞社 2016-06-01

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 (1)
 天皇家は、権力を志向せず、祈りに専念されるやうになつた。その過程で祈りの道が特に自覚されたのは元寇の時でした。これらを通じて、日本の深い宗教性、それも排他的な一神教ではなく、誰ともぶつからず、祈りを通じて自然、先祖、神社の祭神と繋がり、さうした祈りが同時に国を守る祈りともなるといふ非常にユニークな日本独自の神の道が拓かれます。(中略)

 かうして歴史的に形成された天皇の制度は、非合理的な時代遅れどころか、風通しのよい自由社会を維持する上で、世界史上でも稀な程、有効な手立てと言つていい。
(小川榮太郎「亡国前夜或いは自由の喪失」)
 以前の記事「和辻哲郎『日本倫理思想史(1)』―日本では神が「絶対的な無」として把握され、「公」が「私」を侵食すると危ない」では、日本は神を頂点とし、その次に天皇を配置する超多重構造であると書いた。また、別の記事「『一生一事一貫(『致知』2016年2月号)』―日本人は垂直、水平、時間の3軸で他者とつながる、他」では、前述の垂直的な多重構造の他に、同一の階層内における水平方向の協業と、過去から未来への伝統の受け渡しという2軸を加えることによって、日本が時空を超えて非常に複雑な「網」を形成していることを指摘した。

 一見すると、日本人は縦にも横にも制約を受け、さらに伝統という縛りを受ける不自由な存在のように見える。ところが、引用文にある通り、日本人はこの構造の中にある時こそ最も自由であり、結果的に社会全体が安定化する。現在の日本は、基本的人権を普遍的価値と見なしているが、個人的には天賦人権論なるものに疑問を感じる時がある。日本人が自由であるのは、生まれながらにしてではなく、上記の社会構造に埋め込まれた時である。つまり、日本人の自由は外発的・後天的なのである。この辺りを論理的にどう説明するかが今後の私の課題である。

 小川榮太郎氏は別の記事で、日本の社会構造は多様性に対して寛容であるとも述べている。そして、その象徴が天皇という存在であるという。冒頭で紹介した以前の記事の中で書いた、非常にラフな日本の多重構造「(神?)⇒天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/NPO⇒学校⇒家族⇒個人」を見てみると、確かに天皇以外は多様なプレイヤーに満ちている。ところが、天皇だけは万世一系である。天皇は1人しかいらっしゃらないのに、どうして社会は多様性を確保することができるのか?天皇制における血縁主義は、社会の多様性をどのように担保しているのか?こういった疑問にも私は答えていかなければならない。

 (2)
 北朝鮮は4月15日、IRBMムスダンを発射した。発射は失敗に終わったが、日本の安全保障上、死活的な意味を持つ。(中略)(ムスダンは)グアムなどに着弾する蓋然性があり、それを日本政府が「存立危機事態」と認定すれば、いわゆる集団的自衛権の限定的な行使(防衛出動による武力行使)も可能となる。今回は空中爆発し、新法制の出番はなかったが、法的には初の適用となる可能性があった。その事実が持つ意味は重い。だが「憲法違反」「解釈改憲」と批判してきた護憲派メディアを含め、以上の点を新聞もテレビも追及しなかった。
(潮匡人「「第四権力」の転落」 そして誰もマスコミを信じなくなった」)
 私もこのことには全く気づいていなかった。というのも、4月14日と16日には熊本大震災が発生し、そちらに注意が向いていたためである。ただ、引用文にあるように、仮にムスダンがグアムに着弾しても、「存立危機事態」と認定することは非常に困難であろうと考える。

 存立危機事態とは、「日本と密接な関係にある他国が武力攻撃され、『日本の存立が脅かされる明白な危険』がある事態」と定義されている。「日本の存立が脅かされる明白な危険」とは、経済的なダメージだけでは不十分とされる。かつての日本は、アメリカから経済封鎖を受けて太平洋戦争に突入していったが、今回の安保法制の下ではそのようなことは認められない。実際、イランがホルムズ海峡を封鎖して日本に石油が入ってこなくなったとしても、それだけをもってイランを攻撃することはできないと政府は答弁している。

 「日本の存立が脅かされる明白な危険」とは、日本の領土、領空、領海が脅かされ、それによって多数の日本国民の生命に危険が及ぶ可能性がある場合に限定される。この段階で初めて集団的自衛権が行使できるというわけだが、この場合の集団的自衛権はほとんど個別的自衛権に等しい。だから、日本が言う集団的自衛権は、国際通念としての集団的自衛権と異なり、個別的自衛権に毛の生えた程度でしかない。毛の生えた程度とはつまり、次のようなことである。

 例えば、日本の領海を巡回中のアメリカ艦隊が中国から砲撃されたとする。中国の砲撃が続けば、日本の存立が脅かされる。こういう場合、従来の個別的自衛権に基づいて、自衛隊は中国に攻撃ができる。しかし、日本がわざわざ自衛隊を出動させて中国を攻撃するよりも、攻撃を受けているアメリカ艦隊の近くにいる自衛隊がアメリカ艦隊に武器を供給し、彼らに中国を攻撃させた方が即効性がある。集団的自衛権(による後方支援)はそれを可能にする。

 安保法制反対派は、集団的自衛権よりも、「重要影響事態における後方支援」に強く反対している。重要影響事態の定義が広がり、自衛隊が戦争に巻き込まれるリスクが高くなるというわけである。ところが、法律の構成を見ると、どうやら簡単には後方支援ができないようになっている。安倍首相はシームレスな防衛を目標としたが、実際には相も変わらずぶつ切り状態だというのだ。これは安保法制を推進した右派だけでなく、反対派の左派も指摘していることである。

 一例を挙げると、自衛隊が後方支援を行う際は、国会の事前承認が必要である。重要影響事態とは、「放っておいたら日本への武力攻撃の恐れがあるなど、日本の平和と安全に重要な影響を与える状況」である。日本が危険にさらされる可能性は、存立危機事態に比べると低い。しかし、実際に戦闘が行われている現場は生きるか死ぬかの世界で、時々刻々と戦況が変化する。そんな状態で、国会が後方支援の計画を長々と審議し、仮に可決されたとしても、その頃には計画が通用しないほどに局面が変化しているに違いない。従来の非戦闘地域における後方支援は、時間をかけて審議すればよかった。だが、重要影響事態においてはそうはいかない。

 《2016年9月14日追記》
 安保法制の具体的な「穴」については、「『天皇陛下「譲位の御意向」に思う/憲法改正の秋、他(『正論』2016年9月号)』―日本の安保法制は穴だらけ、他」にまとめておいた。


 私の見解には大いに批判があるだろうが、私は安倍総理を相当な策士だと考えている。日本の戦略的地位の向上を求めるアメリカと、年々軍事力を増強し続ける中国に対して、「いざとなれば日本だって立ち上がる準備はあるんだぞ」というファイティングポーズは見せた。だが、蓋を開けてみると、複雑怪奇なルールで自らを縛り、結局は今までと大して変わらない(今までよりも制約が強い?)状態にした。結果的に、日本の平和主義は守られた。国防という最重要にして最難関の問題をこのような形で決着させられたのは、安倍総理以外にいなかったであろう。

 (3)
 ドイツで今から30年前の1980年代、ナチズムと共産主義をめぐって「歴史家論争」という大論争が繰り広げられたことがあった。この論争での重要な焦点は、ナチズムと共産主義が全体主義という点では同じではないかということだった。特にエルンスト・ノルテや、フランス人で共産主義から転向したフランソワ・フュレらは、思想的脅威、謀略的手法、極端な軍事力重視と共にはなはだしい人命軽視という武断的な姿勢も含めて共産主義から影響を受けたのがナチズムであり、ナチズムと共産主義は双子の関係、少なくとも「シャム双生児」の関係にあると提起した。
(中西輝政「共産主義と日米戦争―ソ連と尾崎がやったこと(上)」)
 私の理解不足もあるのかもしれないが、以前の記事「【ドラッカー書評(再)】『産業人の未来』―人間は不完全だから自由を手にすることができる」で書いた通り、私の中ではナチスと共産主義は同じ全体主義である。極右のナチスと極左の共産主義は、唯一絶対の神しか認めず、人間は神に似せて創造された完全な理性を持つ存在であるという前提から出発している点で共通する(もっとも、本来の共産主義は無神論なので、私の考え方にはまだ大きな穴が開いたままなのだが)。だから、両者は親和性が高い。本号には、「ナチスの権力掌握に「協力」した共産党 憲法「緊急事態条項」批判論の虚妄(中)」(福井義高)という記事も収録されていた。

 私は、神も人間もどちらも不完全な存在と見なす日本の考え方が、最も平和的、寛容、柔軟であると信じている(冒頭で紹介した小川榮太郎氏の考えの影響も受けている)。ところが、世界の宗教人口を見ると、キリスト教とイスラームで半分以上を占める。彼らに神の不完全性を理解させることはまず不可能であろう。だから、人間がいかに不完全な存在であるかを認めさせることが、全体主義が世界を恐怖の底に突き落とすのを防ぐことにつながると考えられる。

 いや、「認めさせる」という表現は、あまりに傲慢で不適切だったかもしれない。「認めさせる」ということは、「人間が不完全である」というロジックが完全であることを前提としており、自家撞着に陥っている。我々は彼らに対し、「人間は不完全である」と訴え続ける。彼らが我々の考えを100%理解しなくてもよい。ただ何となく、「そう言われてみると、確かに人間は不完全なのかもしれない」と感じ、彼らなりの方法で我々の主張を咀嚼してくれればそれでよい。


2016年05月17日

『テレビに未来はあるか(『世界』2016年5月号)』―北朝鮮に関して報道されない不都合な真実(推測)、他


世界 2016年 05 月号 [雑誌]世界 2016年 05 月号 [雑誌]

岩波書店 2016-04-08

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 (前回の続き)

 (4)
 長谷部:少なくとも自衛隊の設立以降は、日本が直接攻撃を受けたときには必要な範囲内で最小限の武力を行使する個別的自衛権は行使できるとしています。

 ただ、憲法9条がある以上は、他国が武力を受けたときにまで報復の対象を広げる集団的自衛権は認められないとしています。集団的自衛権を行使するのであれば、憲法9条の改正を行うことがまずは必要である。これは、何度も政府によって説明されてきた解釈です。
(長谷部恭男、石川健治「立憲主義のエッセンス」)
 「他国が武力を受けたときにまで報復の対象を広げる集団的自衛権」という説明は正確ではない。個別的自衛権であれ、集団的自衛権であれ、「報復」つまり武力復仇は国際法上認められない(ブログ別館の記事「『論客58人に聞く 初の憲法改正へ、これが焦点だ/北の非道と恫喝は決して許さない/福島第一原発事故から5年(『正論』2016年4月号)』」を参照)。最近、北朝鮮が日本海に向けてミサイルを何発か撃ち込んでいるが、仮にミサイル1発が日本本土を直撃したとしても、日本はその後に北朝鮮に向けてミサイルを発射することはできない。北朝鮮がミサイルを発射し続けている状況で、防衛のために武力を行使することが自衛権である。

 北朝鮮の意図を正しく報じているメディアは少ないように思える。北朝鮮は、現存する5つの共産主義国(中国、北朝鮮、ラオス、ベトナム、キューバ。何と、5か国中4か国は東アジアに存在する!)のうち、未だに社会主義の実現を本気で信じている。まずは、資本主義国=韓国を倒して、朝鮮半島を統一する。本当は中国がその役割を担うべきだが、中国が変質=資本主義化したため、社会主義化を実行できるのは北朝鮮だけだと思い込んでいる。北朝鮮はアメリカを牽制し、アメリカの介入を防ぐために、アメリカ本土まで届く大陸間弾道ミサイルを開発している。

 北朝鮮による拉致事件についても、メディアの情報は十分ではない。単なる拉致事件がこれほど長い間解決されないのはあまりにも不自然である。つまり、単なる拉致事件ではないのだ。単刀直入に言えば、拉致事件は北朝鮮による日本国家転覆戦略の一環である。北朝鮮は日本人を北朝鮮に連行し、社会主義の思想を徹底的に叩き込む。その後、日本に帰して、日本国内での革命活動に従事させる。これが北朝鮮のプランであった。北朝鮮が拉致被害者を頑なに日本へ帰さないのは、日本に帰すと北朝鮮の計画が全てばれてしまうためだ。

 だから、北朝鮮としては、拉致被害者を何とかして死んだことにしたいわけだ。遺骨の偽造を本気で研究しているのもそのためである。この辺りが正確に報じられないのは、在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総連)からメディアに対して圧力がかかっているためではないかと感じさせる。

 (5)
 つまり、戦場体験者のビデオを撮影する、映像に残すことが戦場体験の継承ではないし、書き残した資料を収集するだけでもなく、それを私たちが生きているその中でどのように生かしていくか、未来にどうつなげていくか、それが本当の意味での「受け継ぐ」ということではないかと思います。要するに、それは私たち一人ひとりがどのような未来を望むかによるのです。そのためには、まずは過去のリアルな戦場を知ることです。過去を知らずして、現在も未来も語れません。
(遠藤美幸「戦場の体験をなぜ聞くのか」)
 以前の記事「岡真理『記憶/物語』―本当に悲惨な記憶は物語として<共有>できず<分有>するのみ」でも書いたが、戦争のような悲惨な体験は、その記憶を全て正確に伝えようとすると、かえって前に進めなくなると書いた。中国・韓国との間で抱えている歴史問題を見れば解るように、ある歴史的事実が本当に真実なのかどうかをめぐっては、どうしても泥沼の論争になる。歴史学者であれば、真実を突き止めるのが責務であろう。しかし、一般の人々は未来に向かって歩いていかなければならない。したがって、いつまでも争いを続けるわけにはいかない。日本は中国・韓国とどのような未来を生きるのかを議論する必要がある。

 ただし、「『そのためには』、まずは過去のリアルな戦場を知る」べきだというのはやや引っかかる。繰り返しになるが、過去をリアルにとらえることにこだわりすぎると、未来の創造的なデザインが難しくなる。未来のデザインに「あたって」過去を参照することはあるかもしれないが、未来のデザインの「ために」過去を参照するのではない。未来のデザインは過去の把握に先行する。

 以前の記事「E・H・カー『歴史とは何か』―日本の歴史教科書は偏った価値がだいぶ抜けたが、その代わりに無味乾燥になった」で、「歴史というのは、歴史家がその歴史を研究しているところの思想が歴史家の心のうちに再現したものである」という言葉を紹介した。歴史家がある事実に注目する時、完全なる客観性を持って事実を拾い上げているわけではない。歴史家は、内面に抱く思想という基準によって取捨選択を行っている。そして、その思想とは、歴史家個人の動機だけではなく、その時の社会的な文脈に大きく影響される。

 社会的な文脈とは、その社会では何が望ましくて何が望ましくないのか?その社会をどのような方向に持って行きたいのか?という志向、価値判断である。その社会的な文脈というレンズを通して過去を見た時に、どのような物語が紡ぎ出されるのか、それが歴史である。だから、歴史とは書かれた人の物語ではなく、書いた人の物語なのである(したがって、時代や社会情勢が変われば、全く異なる歴史ができ上がるのは何ら不思議ではない)。

 中国・韓国との関係に話を戻せば、中国・韓国と日本との関係では何を重視するのか?何を善とし何を悪とするのか?という社会的な文脈において、まずは合意形成をするべきである。しかる後に、その基準に照らし合わせて、これまでに論争を生んだ様々な歴史的事実を解釈すると、どのようなことが言えるのか?と問う。そうすれば、従来のような重箱の隅をつつくような細かい議論で袋小路に入り込まずに、もっと大局的かつ建設的な議論が可能となるように思える。

 今年1月に天皇・皇后両陛下がフィリピンを訪問された際、「これでフィリピンでの戦闘が風化されずに済む」と現地の人が語ったという記事を読んだ。両陛下のご訪問は、風化への抵抗であったということだ。逆に言えば、レイテ島の戦いなどは風化しつつあり、それはすなわち、日本とフィリピンが戦後本当に十分な関係を構築できたのか?という問いを投げかけているように思う。

 フィリピンは概して親日的であるとされる。しかし、日本とフィリピンが国際社会の諸問題、外交、経済、社会福祉、教育、環境、人権などの分野でどのような関係を構築すべきか、きちんと答えられる人は少ないに違いない(恥ずかしながら、私も答えられない)。こうした未来志向の欠如ゆえに、未来から過去を見つめ直す機会が失われ、過去が風化してしまうのだろう。


2015年11月24日

『法治崩壊─新しいデモクラシーは立ち上がるか(『世界』2015年11月号)』


世界 2015年 11 月号 [雑誌]世界 2015年 11 月号 [雑誌]

岩波書店 2015-10-08

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 翁長知事は在沖米軍基地について、沖縄が自ら土地を提供したのではなく、戦後、米軍の強制接収によってできたものであること、国土面積の0.6%の沖縄に在日米軍用施設の73.8%が存在すること、戦後70年間、米軍基地から派生する事件・事故や環境問題が県民生活に大きな影響を与え続けていることを指摘し、沖縄の自己決定権と人権が侵害されていると強調した。
(潮平芳和「翁長沖縄県知事の国連演説―世界に問うた日米の不正義」)
 冒頭のこの記事を読んでいきなり卒倒しそうになった。「沖縄県民の自己決定権」ではなく、「沖縄の自己決定権」となっていたからである。私が大学時代に教科書として使った初宿正典教授の『憲法〈2〉基本権』によれば、自己決定権は「個人が自律的人格の主体として、自己にかかわる私的な事柄について公権力によって干渉されずに自ら決定し行動しうる権利」と定義されている。言うまでもなく、自己決定権は個人の権利であり、地方自治体に付与されたものではない。

 自己決定権が問題になるのは、自殺、尊厳死、安楽死、リプロダクション(避妊や妊娠中絶など)のように、個人が生命を自由に処分できるかどうかをめぐってである。また、子どもの権利と関連して、校則で生徒の髪型(丸刈りなど)や服装を強制できるか?バイク免許の取得禁止やバイクでの登校禁止を定めることができるか?といった点が議論される。仮に、「沖縄県民の自己決定権」が侵害されているとしても、一体何が侵害されていると主張しているのか不明である。

憲法〈2〉基本権 (法学叢書)憲法〈2〉基本権 (法学叢書)
初宿 正典

成文堂 2010-10

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 何でもかんでもすぐに権利を持ち出し、その概念を無尽蔵に拡張していこうとする左派の論理には、時々ついて行けなくなる。まして、個人の権利を地方自治体の権利(?)に援用するのは私の理解を超えている。憲法9条の拡大解釈には反対し、憲法を守れと強弁するのに、人権については自由に内容を操作するのは、いかにもご都合主義ではないだろうか?

 辺野古移設問題を憲法の枠組みで論じるならば、95条が妥当である。95条は「一の地方公共団体のみに適用される特別法は、法律の定めるところにより、その地方公共団体の住民の投票においてその過半数の同意を得なければ、国会は、これを制定することができない」と定めている。辺野古移転が95条の住民投票の要件に該当するか否かを議論すればよい。
 先日、元文部官僚でゆとり教育の推進者と言われた寺脇研氏と話した時、SEALDsはゆとり教育の成果だと誇っていた。確かに、正解を覚えこむのではなく、自分で問いを立てつつ自分で考え、権威に臆せず自分の意見を言うという態度を身に着けた若者が増えたということである。
(山口二郎「”不断の努力”がデモクラシーを進化させる」)
 寺脇研氏の名前を久しぶりに見た(旧ブログの記事「「ミスター文部省」寺脇氏の理想と現実のギャップが垣間見えた―『それでも、ゆとり教育は間違っていない』」で一度だけ取り上げた)。私は、SEALDsこそ「憲法9条の平和主義は絶対に正しいのだ」という正解を覚えこんでいるだけではないかと思う。彼らは国際政治の力学をどこまで考え抜いているだろうか?

 現代の世界は、アメリカ、中国、ロシア、(ドイツを中心とする)欧州という4つの大国が覇権争いをしている。それ以外の小国は、悲しいが4大国に利用される宿命にある。日本も決して例外ではない。小国は4大国の対立構造を注意深く読み解き、生き残りをかけてどの大国の側につくのか(どの大国に利用されるのか)を決めなければならない。加えて、大国との関係を深化させるために、周辺の小国(日本の場合は韓国やASEAN諸国など)とも連携する必要がある。

 事態を複雑にしているのは、4大国は常に敵対関係にあるわけではなく、例えば政治では対立するが経済では協力するといった具合に、局面に応じて態度を細かく変えている点である。大国の戦略が複雑であるから、それに影響される小国の戦略も複雑にならざるを得ない。その小国の戦略の文脈において、今回の安保法制が妥当なのかどうかを議論する必要がある。

 SEALDsがこのような点をどこまで真剣に考えているのか、どうも判然としない。「戦後日本は平和主義で世界に貢献してきた」などという主張は、日本がアメリカの核の傘で守られてきたこと、その核がロシアにとっての抑止力になっていたことを無視した平和ボケ発言である。
 小田川:国会前でコールされた、「憲法違反の法案は認めない」、「立憲主義をこわすな」、「民主主義を取り戻せ」といった声が、野党に結束してほしいという参加者の総意を示すものだったと思います。(中略)
 福山:今回の運動に参加した人々や団体、みんなが統一署名に取り組めば2000万とか3000万という署名も不可能ではない。
(福山真劫、高田健、小田川義和「連帯を拡げ、共闘を次のステージへ」)
 朝日新聞が9月19、20日に行った全国世論調査によれば、内閣支持率は、支持35(36)、不支持45(42)(単位はパーセント、カッコ内は9月12、13日の調査)と、不支持が大きい状態が続いている。しかし、政党支持率を見ると、自民36(33)、民主10(10)、維新2(2)、公明3(3)、共産4(4)と、野党の支持率は変化していない。
(山口二郎「”不断の努力”がデモクラシーを進化させる」)
 安保法制反対派は、全国各地で巻き起こるデモ・集会の様子を伝える。それだけ反対運動が全国に広がっているのであれば、内閣支持率や自民党支持率は急落しなければおかしい。ところが、実際には数ポイントの下落という軽傷で済んでいる。民主主義を重視する左派は、世論調査に国民の声が最もよく反映されていると言う。だとすれば、支持率が微減だったということこそが民意であり、全国で反対派が蜂起しているというのは、左派が作り上げた虚構にすぎない。

 旧ソ連には「扇動」を学問化し、運動家に教育する国家機関があった。その機関で教えられていたのは、「ウソであっても繰り返し主張すれば真理になる」ということである。安保法制をめぐる左派の動きを見ていると、まさに旧ソ連の扇動が想起される。
 湯浅誠氏が民主党政権時代に、自らの経験をもとに社会が主で政治は客と言ったことがあったが、安保法案反対運動を通して私もそのことを痛感した。
(山口二郎「”不断の努力”がデモクラシーを進化させる」)
 湯浅誠氏は、2008年末に東京都・日比谷公園で行われたイベント「年越し派遣村」の村長を務めた社会運動家である。「国民の声が大切だ」という立場を突き詰めていくと、社会=主、政治
=客という図式に行き着くのだろう。別の言い方をすれば、社会は政治にとってお客様なのだから、政治は社会の言うことを聞くべきだ、ということになる。企業経営における顧客第一、顧客中心主義、顧客資本主義の影響を見て取ることもできる。

 だが、顧客中心主義は、企業経営という狭い領域においてのみ成り立つことである点を左派は忘れている。思想家の内田樹氏は、病院が顧客中心主義を打ち出した結果、無理難題を突きつける患者、他の患者に迷惑をかける患者が増えて、医療現場が荒廃したと指摘した。内田氏の主張について、病院を学校、患者を生徒に置き換えれば、現在の学級崩壊を説明できる。

 政治と社会の関係は、政治=主、社会=従である。もちろん、社会は政治に完全に従属するわけではなく、政治に対して影響力を発揮することもある。しかし、決して社会が政治より上に立つわけではない。我々国民は、生まれると国家から資源を与えられ、一生を通じて資源を有効活用し、死ぬ時にはより価値の高い状態で資源を国家に戻す責務を負っている(その反対給付として、諸々の権利が保障される)。国民の側から国家に対し声を上げるのは、政治による資源の配分が不公平である時、資源の有効活用・価値向上を阻害する政治的な要因がある時である。この点を無視して、社会が上に立って政治に何でも要求できるなどとすれば、政治は衰退する。
 日本は、安保法制成立前までは可能であった、日本を攻撃してくる国の戦闘機に補給する後方支援国に対して個別的自衛権の行使をできず、補給路を断てないため、攻撃をされ続け、究極的には自国を守れない。今国会で個別的自衛権の範囲がきわめて限定されてしまった。
(倉持麟太郎「政府答弁が描き出したトンデモ「我が国防衛」」)
 左派の安保法制批判は、もっぱら「日本が戦争に巻き込まれる」というものである。これに対して上記の記事では、今回の安保法制によって実は日本の自衛権が制限されてしまい、国防が弱体化すると指摘しており、興味深かった。安倍政権が、「後方支援を行う国に対して日本は個別的自衛権を行使できない」と方針転換したのは、日本が後方支援を行う可能性を残すためである。仮に日本が後方支援国に対し個別的自衛権を行使できるという態度を保ち続ければ、日本が逆に後方支援国に回った際、日本は被攻撃国の個別的自衛権の対象となってしまう。

 以前、「「集団的自衛権」についての私見」という記事を書いたが、改めて今回の安保法制の意義を考えてみると、こういうことではないだろうか?日本近海を巡回するアメリカ海軍艦艇が中国から攻撃されたとする。日本に対する直接的な武力攻撃ではないが、放っておけば日本本土の攻撃につながる場合は存立危機事態に該当し、日本は集団的自衛権を発揮して中国を攻撃する。ただ、これはアメリカを守るためというよりも、日本を守るためであるから、集団的自衛権という名前は適切ではなく、個別的自衛権の行使条件が広がったととらえるべきだろう。

 上記の場合において、日本が直接中国を攻撃するのも1つだが、別の選択肢として、近辺にあるアメリカ海軍艦艇を日本が後方支援し、アメリカ海軍艦艇を通じて中国を攻撃する、という手もある。おそらく、こちらの方が作戦としては現実性が高い。従来の法律では、このケースで日本がアメリカを後方支援することは不可能であった。今回の安保法制では「存立危機事態における後方支援」という枠組みで、アメリカ海軍艦艇に武器や燃料を供給できるようになる。
 「自立した理性的な市民」が社会契約によって政府(主権国家)を樹立するという主流派の政治モデルに対しては、有力な反批判もある。つまり、主権国家―戦争する国家―の担い手として「自立した理性的な市民」という虚構が考案されたのであり、この「市民」は「自立」していない女性・若者・労働者・少数民族などを抑圧しており、「理性」以外の人間の営み―戦争で亡くなった者を悼み、「誰の子どもも殺させない」と誓うこと、搾取や理不尽な差別への怒りと抵抗など―を抑圧しているという反論である。
(進藤兵「私は新しい種類の政治に票を投じたのだ」)
 スコットランドナショナリズムのように、世界のいたるところでナショナリズム復活の動きがあります。これは、デジタル革命によってもたらされた制御困難なコスモポリタンな世界が私たちにある種の負荷をもたらし、それがアイデンティティの不安をかき立てることに由来している面があります。私はそれを「コスモポリタン・オーバーロード」と呼びます。
(アンソニー・ギデンズ「「第三の道」以後の社会民主主義と世界を語る」)
 これはまるでマッチポンプだ。「自立した理性的な市民」を持ち出したのは啓蒙主義左派である。その一方で、左派が「自立した理性的な市民」なる概念を作り上げたがために、女性・若者・労働者・少数民族など、その概念からこぼれ落ちる人たちが生じてしまったわけである。差別撤廃運動は左派の十八番であるが、その原因は左派にあるという点に、左派は気づいていない。

 「コスモポリタニズム(世界市民主義)」は、太古の昔から左派が掲げてきたスローガンである。彼らにとって国家は悪であり、国家を取り払って世界が連帯することが目標である。ところが、いざデジタル革命によって世界がつながると、アイデンティティが不安に陥り、ナショナリズムが復活していると批判する。左派のお望み通りのコスモポリタニズムが実現しようとしているのに、直前になってやっぱり嫌だと駄々をこねているようなものである。



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