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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都豊島区を拠点に、東京23区で活動する中小企業診断士(コンサルタント・トレーナー)。ほとんど書評ブログ。たまにモノローグ。

 中長期的な研究分野は、
 ①日本の精神、歴史、伝統、文化に根差した戦略論を構築すること。
 ②高齢社会における新しいマネジメント(特に人材マネジメント)のあり方を確立すること。
 ③20世紀の日本企業の経営に大きな影響を与えたピーター・ドラッカーの著書を、21世紀という新しい時代の文脈の中で再解釈すること。
 ④日本人の精神の養分となっている中国古典を読み解き、21世紀の日本人が生きるための指針を導くこと。
 ⑤激動の多元的な国際社会の中で、日本のあるべき政治的ポジショニングを模索すること。

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 ブログタイトルに、oasisの往年の名曲『Whatever』を入れてみた。

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2018年01月25日

『世界』2018年1月号『民主政治の混迷と「安倍改憲」/性暴力と日本社会』―「安保法制は海外での武力行使を可能にする」はミスリード、他


世界 2018年 01 月号 [雑誌]世界 2018年 01 月号 [雑誌]

岩波書店 2017-12-08

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 (1)本号でトランプ大統領とロシアとの関係について取り上げられていたが、本当のことは私にはよく解らない。ロシアがトランプ氏を大統領にすることでどのような国益の実現を狙ったのかは不明である。ただ、トランプ氏が大統領に選出された過程を見ると、以前の記事「【シリーズ】現代アメリカ企業戦略論」で書いた、アメリカのイノベーション創出プロセスと非常に酷似していると感じる。まず、トランプ氏自身が正しい人物であることを唯一絶対の神と約束(契約)する。そして、国民の支持を集める、言い換えれば契約の正しさを人々に信じ込ませるために、あの手この手を使ってプロモーションを仕掛ける。

 その情報は真実なくてもよい。トランプ氏が神のお墨つきを受けた正しい人物だと思わせることが重要である。今回の大統領選ではロシアからアメリカに向けて大規模なサイバー攻撃があったとされるが、そのかなりの部分はアメリカの激戦区に向けられていたそうだ。そして、そのサイバー攻撃を担っていたのが、マケドニアの人々であったことが明らかにされている。マケドニアでは工業が衰退し、若者の失業率が上昇していた。Web上にトランプ氏を支持する(ポスト)真実を投稿するだけで、簡単にお金を稼ぐことができる。マケドニアの若者がこれに飛びつかないわけがなかった(吉見俊哉「トランプのアメリカに住む 第1回 ポスト真実の地政学」より)。

 イノベーションにおけるプロモーションがそうであるように、トランプ氏のプロモーションも国民の嗜好を強引に転換させようとする強硬なものである。だから、当然のことながらトランプ氏に反発する人々が出てくる。トランプ氏は彼らを敵と見なし、徹底的に攻撃する。以前の記事「『組織の本音(DHBR2016年7月号)』―イノベーションにおける二項対立、他」でも書いたように、ここに二項対立が出現する。トランプ氏にとっての敵はヒラリー・クリントン氏である。公開討論において、ヒラリー氏が理路整然と政策を語ったのに対し、トランプ氏はヒラリー氏のメール疑惑を執拗に攻撃し、さらに人格批判まで行った。この場合、真実がどうであるかよりも、相手にいかにクリティカルなダメージを与えられるかの方が重視される。こうしてヒラリー氏に打ち勝ったトランプ氏が晴れて大統領になったというわけである。

 トランプ大統領は、アメリカ流のイノベーションの産物であると言えよう。今回の大統領選の直後には、アメリカ国民が分断され、深刻な亀裂が残ったと報じられた。しかし、本ブログでしばしば書いているように、大国というのは本質的に二項対立的な発想をする国である。だから、どういうメカニズムによるものかは私もまだ十分に明らかにできていないが、アメリカは今回の大統領選で生じた二項対立に今後も上手に対処していくものと思われる。

 (2)
 わが国に対する武力攻撃を排除するための必要最小限度の実力を備えることは、9条第2項が禁じる戦力を持つことではないとしてきた。つまり、自衛隊が「戦力」でないのは、それが専守防衛の実力組織であり(安保法制が施行されるまでは)他国の軍隊のように集団的自衛権に基づき海外で武力行使をすることがないからであった。(中略)しかし、安保法制の施行によって、自衛隊が限定的とはいえ海外でも武力行使ができるようになった現在、それが「戦力」に当たらないことを憲法上「はっきりと分かりやすく」表現することは、必ずしも容易ではなくなった。
(阪田雅裕「憲法9条改正の論点 自衛隊の明記は可能か」)
 私の読み方が悪いのかもしれないが、安保法制や憲法改正をめぐる左派の記事を読んでいると、「現行憲法の自衛隊は専守防衛の実力であり武力行使ができないが、安保法制によって海外における武力行使が可能になった。ここで憲法に自衛隊を明記すると、武力行使が明文によって正当化される。その結果、自衛隊が海外での戦争に巻き込まれる」といった論理を展開しているように感じる。ここでまず注意すべきは、現行憲法の下でも、そして安保法制がなくても、9条第1項の武力行使の禁止に反して、武力行使が限定的に認められているという点である。

 防衛省のHPには次のように書かれている。
 憲法第9条はその文言からすると、国際関係における「武力の行使」を一切禁じているように見えますが、憲法前文で確認している「国民の平和的生存権」や憲法第13条が「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」は国政の上で最大の尊重を必要とする旨定めている趣旨を踏まえて考えると、憲法第9条が、わが国が自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛の措置を採ることを禁じているとは到底解されません。

 一方、この自衛の措置は、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置として初めて容認されるものであり、そのための必要最小限度の「武力の行使」は許容されます。これが、憲法第9条のもとで例外的に許容される「武力の行使」について、従来から政府が一貫して表明してきた見解の根幹、いわば基本的な論理であり、1972(昭和47)年10月14日に参議院決算委員会に対し政府から提出された資料「集団的自衛権と憲法との関係」に明確に示されているところです。
 つまり、自衛権の範囲で武力行使は肯定されているというわけである。そして、武力行使の3要件として、従来は、①我が国に対する急迫不正の侵害があること、②これを排除するために他の適当な手段がないこと、③必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと、が定められていた。この3要件を修正したのが安保法制であり、それによると、武力行使の新3要件は、①我が国に対する武力攻撃が発生したこと、または我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること、②これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないこと、③必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと、とされている。

 ちなみに、通常の集団的自衛権が同盟国に対する攻撃から同盟国を守ることを目的としているのに対し、安保法制で認められた集団的自衛権は、同盟国に対する攻撃から我が国を守ることを目的としているという点で、個別的自衛権の延長線上にあるものだと私はとらえている。さらにつけ加えると、この集団的自衛権は、実際には「使えない」代物であると私には映る。

 2014年5月28日付毎日新聞「安保法制:与党協議 提示された15事例 集団的自衛権が過半数」で紹介された15事例のうち、集団的自衛権の行使に該当するのは事例8~15の8つであるが、集団的自衛権の行使には全て国会の同意が必要とされている。例えば、事例11「米国に向け日本上空を横切る弾道ミサイルの迎撃」については、仮に北朝鮮がアメリカに向けてICBMを発射した場合、日本の上空に達するのはわずか5分程度である。その間に国会を召集し、集団的自衛権の行使の同意を取りつけ、ミサイルを迎撃するのは不可能である。

 また、安倍首相が頻繁にパネルを使って説明した事例8「邦人を乗せた米輸送艦の防護」についても、戦闘地では刻々と危険が増大しており、迅速に邦人を国外に退避させなければならないのに、のうのうと国会を召集しているようでは、結局のところ自衛隊は役に立たない。個人的に、安保法制はアメリカとの同盟・協力関係に対する日本のコミットメントを示す程度の役割しか果たしていないと思う(以前の記事「『躍進トランプと嫌われるメディア(『正論』2016年7月号)』―ファイティングポーズを見せながら平和主義を守った安倍総理という策士、他」を参照)。

 話を憲法改正に戻そう。私は、自衛隊を憲法に明記するべきだと考える。どの国も、自国の領土・領海・領空と国民を防衛してくれる軍隊には最大限の敬意が払われている。日本の自衛隊を海外の軍隊と同列に扱うことには異論もあるだろうが、少なくとも現に日本と日本人を守ってくれている自衛隊のことが憲法からすっぽりと抜け落ちているのは、自衛隊に対する重大な差別である。この異常事態を一刻も早く解決しなければならない。では、具体的にどう憲法に規定すればよいか?以前の記事「『致知』2018年2月号『活機応変』―小国は国内を長期にわたって分裂させてはならない。特に日本の場合は。」でも書いたように、論理的に考えれば交戦権まで否定した9条第2項を削除して新たに自衛隊を規定するのが筋である。だが、交戦権の否定は国民の反対に遭う可能性が高いため、安倍首相が提示した9条第3項加憲が無難であると考える。

 ここで問題になるのは、交戦権が否定された自衛権にどこまでの武力行使が可能かということである。自衛権の歴史を紐解いてみると、1837年のカロライン号事件に行き着く。カロライン号事件とは、イギリス領カナダで起きた反乱に際して、反乱軍がアメリカ合衆国船籍のカロライン号を用いて人員物資の運搬を行ったため、イギリス海軍がアメリカ領内でこの船を破壊した事件である。アメリカ側からの抗議に対し、イギリス側は、自衛権の行使であると主張した。アメリカ側は、国務長官ダニエル・ウェブスターが、自衛権の行使を正当化するためには「即座に、圧倒的で、手段選択の余地がない」ことが必要だと主張し、本件に関しこれらの要件が満たされていることについての証明を求めた。この自衛権行使に関する要件は「ウェブスター見解」と呼ばれる。

 現在、国際的には、「ウェブスター見解」において表明された自衛権正当化の要件である「即座に、圧倒的で、手段選択の余地がない」ことを基礎に、その発動と限界に関する要件が次の3つにまとめられている。つまり、①急迫不正の侵害があること(急迫性、違法性)、②他にこれを排除して、国を防衛する手段がないこと(必要性)、③必要な限度にとどめること(相当性、均衡性)の3つである。日本の武力行使の3要件も新3要件もこれに従っている。だがここで私は、ウェブスター見解にある「圧倒的で」という文言に着目したい。

 以前の記事「『正論』2018年1月号『非礼国家 韓国の自壊/「立憲民主」という虚構』―日本の左翼の欺瞞」でも書いたように、専守防衛に徹し、必要最小限度の武力行使のみを行うだけでは抑止力にならない。自衛権は国内法の正当防衛とは完全にイコールではない。正当防衛であれば、殴りかかってきた相手を殴り返したらそれで事が収まるかもしれない。しかし、国家間の紛争となると、相手は軍事資源が尽きるまで際限なく攻撃をしてくる可能性がある。それに対して必要最小限度の武力行使でちまちまと対抗していてはやがて限界が来る。相手が3発撃ってきたら3発撃ち返すのではなく、5発でも6発でも撃ち返す覚悟があることを示すことが抑止力になる。実際、現在の日本の軍事費は世界で第8位と大規模であり、国土の狭さを考えれば、必要最小限度の規模を明らかに超えている。憲法改正はこの実態も踏まえる必要がある。

 私の考えはこうである。まず、9条第3項として、「前項(=第2項)の規定は、自衛のための実力組織の保持を妨げるものではない」という規定を置く。自衛隊という名称は将来的に変わる可能性もあるため、憲法には書かず、「自衛のための実力組織」という表現にとどめる。また、様々な論者の改憲案を見ていると、「自衛のための『必要最小限度の』実力組織」という文言が使われていることが多いが、前述のように必要最小限度では抑止力にならず、また実態として現在の自衛隊の実力が必要最小限度を超えているので、そのような縛りはかけない。

 そして、武力行使について混乱を来す第1項も修正する。「武力による威嚇又は武力の行使」と言う文言を削除し、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」とする。このように規定すると、「交戦権にまでは至らず、かつ抑止力として最大限の自衛権の行使とは具体的にどの程度の武力行使を指すのか?」が争点となるが、この点は今後の憲法解釈に委ねる。

 (3)日本では、自民党に有利だと言われる選挙制度を修正すると、かえって自民党を利するという不思議な現象が起きる。以前の記事「『世界』2017年12月号『「政治の軸」再編の行方―検証 2017年総選挙』―「希望の党」敗北の原因は「排除」発言ではない、他」では、中選挙区制から小選挙区比例代表制への移行が自民党の一強をさらに加速化させたことを述べた。2017年に行われた衆議院議員総選挙は、選挙権が20歳以上から18歳以上に引き下げられてから初めて行われた選挙であったが、10代は自民党への投票率が高かった。しかし、元々選挙権の年齢の引き下げを強く希望していたのは旧民主党である。

 だが、10代の政治意識は必ずしも成熟しているとは言えない。選挙後に行われた調査で、各政党のスタンスが保守と革新のどちらであるかを年齢階層別に尋ねたものがあるが、これによると、10代~20代は、自民党や維新こそが革新的であり、民進党や社民・共産党は保守であると認識している(BUSINESS INSIDER「「自民党こそリベラルで革新的」―20代の「保守・リベラル」観はこんなに変わってきている」〔2017年10月31日〕。本号でも小熊英二「「3:2:5」の構図 日本の得票構造と「ブロック帰属意識」」で本調査に言及している箇所がある)。保守と革新(リベラル)の違いを正しく認識していない日本の若者像が浮かび上がってくる。

 こう書くと、「では、若者に対して政治教育を実施しよう」という意見が出てくる。選挙年齢が引き下げられた際、学校での政治教育の必要性が主張されたこともあった。しかし、選挙年齢が20歳以上であった時代には政治教育など議論の遡上にも上らなかったのに、選挙年齢が18歳に引き下げられた途端に政治教育が登場するのはおかしい(以前の記事「『震災から5年「集中復興期間」の後で/日本にはなぜ死刑がありつづけるのか(『世界』2016年3月号)』―「主権者教育」は子どもをバカにしている、他」を参照)。選挙権が与えられるということは、その年齢になって政治意識が成熟し、政治的な判断ができるようになったと見なされることである。そして、その政治意識は、教育ではなく、若者が日頃接触する様々な情報によって自然と醸成される。

 現在の10代はインターネットから多くの情報を得ている。しかし、仮にインターネットの影響力が強いのであれば、ネトウヨが跋扈しているWeb上の世界に感化されて、10代の意識は自民=保守、それも強烈な保守に振れるはずである。それとは正反対の結果になっているということは、私は依然としてマスメディアの影響力が強いためだと考える。10代の政治意識が混乱しているのは、各政党が保守や革新に関する党としての考えを適切に発信せず、またマスメディアもそれを適切に報じていない点に負うところが大きいと思う。政党とマスメディアの責任は重い(もちろん、自民党もその責任を逃れられるわけではない)。

 (4)金鐘哲「韓国「ロウソク革命」の中で 小田実太後10年に寄せて」は、韓国が日本の民主政治に説教を垂れているようで、読んでいていい気がしなかった。著者はまずこう述べる。
 韓国の歴代軍事政権や守旧政権も定期的に選挙を行い、形式的に議会制を維持しました。日本を長期的に支配してきた自民党政権や今日の安倍政権もそうで、またいわゆる民主主義の模範国家といわれる米国の政治も選挙と議会政治をしていますが、その民主主義は見かけだけという現実がますます明確になっています。
 つまり、形式としての民主主義ではなく、その実質が問われなければならないとしている。ところが、著者は日本の民主主義がいわゆる下からの革命を経験していないことを問題視し、逆に韓国のロウソク革命が下からの革命、しかも無血革命を実現したことを賞賛している。
 普段はどんなに苦痛や不満があってもじっとそれに耐えていますが、決定的な瞬間にはためらうことなく抵抗的な行動に打って出るのが、韓国近代の民衆運動史の大きな特徴になってきました。そうしなければ、支配勢力は少しも譲歩しないし、奴隷的な生活を強要される状況は少しも変わらないことを、韓国人は長年にわたる王朝時代と植民地時代、そして独裁政権時代を通じて痛感してきたからです。李承晩の独裁政権に対抗して決起した1960年4月の経験、1980年の光州民主抗争、そして軍部独裁政権を終わらせた1987年6月抗争は、そうした抵抗運動の大きなな流れを形成してきた代表的な事例です。今回の「ロウソク革命」も結局、その抵抗運動の延長線上で展開された闘争であったことはあえて説明するまでもありません。
 ここで著者は、民主主義は下からの革命という形式を取らなければ獲得できないという形式論に陥っており、先ほどの主張と矛盾する。そもそも、1987年の6・29民主化宣言によってようやく民主主義が実現した”急造”民主主義国家に、明治時代の自由民権運動から大正デモクラシーを経て日本国憲法に民主主義が定着した歴史を持つ日本のことを批判されたくない。それに、民主主義とは権力を一部の限定された人間に集中させないための仕組みであるにもかかわらず、韓国では民主主義によって選ばれた大統領がほぼ例外なく権力に溺れ、失脚している。その韓国に、一体日本の民主主義をとやかく言う資格があるだろうか?

 ロウソク革命に関するレポートを読むと、革命の中核を担っていたのは親北派の活動家であるとされている。近年の韓国は左傾化が進んでおり、それが文在寅というウルトラ親北派の大統領の誕生として結実した。現在、アメリカは中国と協力して北朝鮮の非核化を進めている。アメリカと中国の関係は、対立もあれば協力もあるという非常に複雑な関係であるが、私は、北朝鮮問題を機に米中が手を握るのを恐れている。そして、北朝鮮が非核化し、中国が北朝鮮に傀儡政権を打ち立てれば、韓国は喜んで北朝鮮と統合するであろう。すると、日本は米中と朝鮮半島の国に囲まれるという危機に陥る。そうなった場合、日本がどうすればよいか、私には妙案がない。もしかすると、ロシアと手を結ぶという選択肢が浮上するのかもしれない。


2016年07月14日

『躍進トランプと嫌われるメディア(『正論』2016年7月号)』―ファイティングポーズを見せながら平和主義を守った安倍総理という策士、他


正論2016年7月号正論2016年7月号

日本工業新聞社 2016-06-01

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 (1)
 天皇家は、権力を志向せず、祈りに専念されるやうになつた。その過程で祈りの道が特に自覚されたのは元寇の時でした。これらを通じて、日本の深い宗教性、それも排他的な一神教ではなく、誰ともぶつからず、祈りを通じて自然、先祖、神社の祭神と繋がり、さうした祈りが同時に国を守る祈りともなるといふ非常にユニークな日本独自の神の道が拓かれます。(中略)

 かうして歴史的に形成された天皇の制度は、非合理的な時代遅れどころか、風通しのよい自由社会を維持する上で、世界史上でも稀な程、有効な手立てと言つていい。
(小川榮太郎「亡国前夜或いは自由の喪失」)
 以前の記事「和辻哲郎『日本倫理思想史(1)』―日本では神が「絶対的な無」として把握され、「公」が「私」を侵食すると危ない」では、日本は神を頂点とし、その次に天皇を配置する超多重構造であると書いた。また、別の記事「『一生一事一貫(『致知』2016年2月号)』―日本人は垂直、水平、時間の3軸で他者とつながる、他」では、前述の垂直的な多重構造の他に、同一の階層内における水平方向の協業と、過去から未来への伝統の受け渡しという2軸を加えることによって、日本が時空を超えて非常に複雑な「網」を形成していることを指摘した。

 一見すると、日本人は縦にも横にも制約を受け、さらに伝統という縛りを受ける不自由な存在のように見える。ところが、引用文にある通り、日本人はこの構造の中にある時こそ最も自由であり、結果的に社会全体が安定化する。現在の日本は、基本的人権を普遍的価値と見なしているが、個人的には天賦人権論なるものに疑問を感じる時がある。日本人が自由であるのは、生まれながらにしてではなく、上記の社会構造に埋め込まれた時である。つまり、日本人の自由は外発的・後天的なのである。この辺りを論理的にどう説明するかが今後の私の課題である。

 小川榮太郎氏は別の記事で、日本の社会構造は多様性に対して寛容であるとも述べている。そして、その象徴が天皇という存在であるという。冒頭で紹介した以前の記事の中で書いた、非常にラフな日本の多重構造「(神?)⇒天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/NPO⇒学校⇒家族⇒個人」を見てみると、確かに天皇以外は多様なプレイヤーに満ちている。ところが、天皇だけは万世一系である。天皇は1人しかいらっしゃらないのに、どうして社会は多様性を確保することができるのか?天皇制における血縁主義は、社会の多様性をどのように担保しているのか?こういった疑問にも私は答えていかなければならない。

 (2)
 北朝鮮は4月15日、IRBMムスダンを発射した。発射は失敗に終わったが、日本の安全保障上、死活的な意味を持つ。(中略)(ムスダンは)グアムなどに着弾する蓋然性があり、それを日本政府が「存立危機事態」と認定すれば、いわゆる集団的自衛権の限定的な行使(防衛出動による武力行使)も可能となる。今回は空中爆発し、新法制の出番はなかったが、法的には初の適用となる可能性があった。その事実が持つ意味は重い。だが「憲法違反」「解釈改憲」と批判してきた護憲派メディアを含め、以上の点を新聞もテレビも追及しなかった。
(潮匡人「「第四権力」の転落」 そして誰もマスコミを信じなくなった」)
 私もこのことには全く気づいていなかった。というのも、4月14日と16日には熊本大震災が発生し、そちらに注意が向いていたためである。ただ、引用文にあるように、仮にムスダンがグアムに着弾しても、「存立危機事態」と認定することは非常に困難であろうと考える。

 存立危機事態とは、「日本と密接な関係にある他国が武力攻撃され、『日本の存立が脅かされる明白な危険』がある事態」と定義されている。「日本の存立が脅かされる明白な危険」とは、経済的なダメージだけでは不十分とされる。かつての日本は、アメリカから経済封鎖を受けて太平洋戦争に突入していったが、今回の安保法制の下ではそのようなことは認められない。実際、イランがホルムズ海峡を封鎖して日本に石油が入ってこなくなったとしても、それだけをもってイランを攻撃することはできないと政府は答弁している。

 「日本の存立が脅かされる明白な危険」とは、日本の領土、領空、領海が脅かされ、それによって多数の日本国民の生命に危険が及ぶ可能性がある場合に限定される。この段階で初めて集団的自衛権が行使できるというわけだが、この場合の集団的自衛権はほとんど個別的自衛権に等しい。だから、日本が言う集団的自衛権は、国際通念としての集団的自衛権と異なり、個別的自衛権に毛の生えた程度でしかない。毛の生えた程度とはつまり、次のようなことである。

 例えば、日本の領海を巡回中のアメリカ艦隊が中国から砲撃されたとする。中国の砲撃が続けば、日本の存立が脅かされる。こういう場合、従来の個別的自衛権に基づいて、自衛隊は中国に攻撃ができる。しかし、日本がわざわざ自衛隊を出動させて中国を攻撃するよりも、攻撃を受けているアメリカ艦隊の近くにいる自衛隊がアメリカ艦隊に武器を供給し、彼らに中国を攻撃させた方が即効性がある。集団的自衛権(による後方支援)はそれを可能にする。

 安保法制反対派は、集団的自衛権よりも、「重要影響事態における後方支援」に強く反対している。重要影響事態の定義が広がり、自衛隊が戦争に巻き込まれるリスクが高くなるというわけである。ところが、法律の構成を見ると、どうやら簡単には後方支援ができないようになっている。安倍首相はシームレスな防衛を目標としたが、実際には相も変わらずぶつ切り状態だというのだ。これは安保法制を推進した右派だけでなく、反対派の左派も指摘していることである。

 一例を挙げると、自衛隊が後方支援を行う際は、国会の事前承認が必要である。重要影響事態とは、「放っておいたら日本への武力攻撃の恐れがあるなど、日本の平和と安全に重要な影響を与える状況」である。日本が危険にさらされる可能性は、存立危機事態に比べると低い。しかし、実際に戦闘が行われている現場は生きるか死ぬかの世界で、時々刻々と戦況が変化する。そんな状態で、国会が後方支援の計画を長々と審議し、仮に可決されたとしても、その頃には計画が通用しないほどに局面が変化しているに違いない。従来の非戦闘地域における後方支援は、時間をかけて審議すればよかった。だが、重要影響事態においてはそうはいかない。

 《2016年9月14日追記》
 安保法制の具体的な「穴」については、「『天皇陛下「譲位の御意向」に思う/憲法改正の秋、他(『正論』2016年9月号)』―日本の安保法制は穴だらけ、他」にまとめておいた。


 私の見解には大いに批判があるだろうが、私は安倍総理を相当な策士だと考えている。日本の戦略的地位の向上を求めるアメリカと、年々軍事力を増強し続ける中国に対して、「いざとなれば日本だって立ち上がる準備はあるんだぞ」というファイティングポーズは見せた。だが、蓋を開けてみると、複雑怪奇なルールで自らを縛り、結局は今までと大して変わらない(今までよりも制約が強い?)状態にした。結果的に、日本の平和主義は守られた。国防という最重要にして最難関の問題をこのような形で決着させられたのは、安倍総理以外にいなかったであろう。

 (3)
 ドイツで今から30年前の1980年代、ナチズムと共産主義をめぐって「歴史家論争」という大論争が繰り広げられたことがあった。この論争での重要な焦点は、ナチズムと共産主義が全体主義という点では同じではないかということだった。特にエルンスト・ノルテや、フランス人で共産主義から転向したフランソワ・フュレらは、思想的脅威、謀略的手法、極端な軍事力重視と共にはなはだしい人命軽視という武断的な姿勢も含めて共産主義から影響を受けたのがナチズムであり、ナチズムと共産主義は双子の関係、少なくとも「シャム双生児」の関係にあると提起した。
(中西輝政「共産主義と日米戦争―ソ連と尾崎がやったこと(上)」)
 私の理解不足もあるのかもしれないが、以前の記事「【ドラッカー書評(再)】『産業人の未来』―人間は不完全だから自由を手にすることができる」で書いた通り、私の中ではナチスと共産主義は同じ全体主義である。極右のナチスと極左の共産主義は、唯一絶対の神しか認めず、人間は神に似せて創造された完全な理性を持つ存在であるという前提から出発している点で共通する(もっとも、本来の共産主義は無神論なので、私の考え方にはまだ大きな穴が開いたままなのだが)。だから、両者は親和性が高い。本号には、「ナチスの権力掌握に「協力」した共産党 憲法「緊急事態条項」批判論の虚妄(中)」(福井義高)という記事も収録されていた。

 私は、神も人間もどちらも不完全な存在と見なす日本の考え方が、最も平和的、寛容、柔軟であると信じている(冒頭で紹介した小川榮太郎氏の考えの影響も受けている)。ところが、世界の宗教人口を見ると、キリスト教とイスラームで半分以上を占める。彼らに神の不完全性を理解させることはまず不可能であろう。だから、人間がいかに不完全な存在であるかを認めさせることが、全体主義が世界を恐怖の底に突き落とすのを防ぐことにつながると考えられる。

 いや、「認めさせる」という表現は、あまりに傲慢で不適切だったかもしれない。「認めさせる」ということは、「人間が不完全である」というロジックが完全であることを前提としており、自家撞着に陥っている。我々は彼らに対し、「人間は不完全である」と訴え続ける。彼らが我々の考えを100%理解しなくてもよい。ただ何となく、「そう言われてみると、確かに人間は不完全なのかもしれない」と感じ、彼らなりの方法で我々の主張を咀嚼してくれればそれでよい。


2016年05月17日

『テレビに未来はあるか(『世界』2016年5月号)』―北朝鮮に関して報道されない不都合な真実(推測)、他


世界 2016年 05 月号 [雑誌]世界 2016年 05 月号 [雑誌]

岩波書店 2016-04-08

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 (前回の続き)

 (4)
 長谷部:少なくとも自衛隊の設立以降は、日本が直接攻撃を受けたときには必要な範囲内で最小限の武力を行使する個別的自衛権は行使できるとしています。

 ただ、憲法9条がある以上は、他国が武力を受けたときにまで報復の対象を広げる集団的自衛権は認められないとしています。集団的自衛権を行使するのであれば、憲法9条の改正を行うことがまずは必要である。これは、何度も政府によって説明されてきた解釈です。
(長谷部恭男、石川健治「立憲主義のエッセンス」)
 「他国が武力を受けたときにまで報復の対象を広げる集団的自衛権」という説明は正確ではない。個別的自衛権であれ、集団的自衛権であれ、「報復」つまり武力復仇は国際法上認められない(ブログ別館の記事「『論客58人に聞く 初の憲法改正へ、これが焦点だ/北の非道と恫喝は決して許さない/福島第一原発事故から5年(『正論』2016年4月号)』」を参照)。最近、北朝鮮が日本海に向けてミサイルを何発か撃ち込んでいるが、仮にミサイル1発が日本本土を直撃したとしても、日本はその後に北朝鮮に向けてミサイルを発射することはできない。北朝鮮がミサイルを発射し続けている状況で、防衛のために武力を行使することが自衛権である。

 北朝鮮の意図を正しく報じているメディアは少ないように思える。北朝鮮は、現存する5つの共産主義国(中国、北朝鮮、ラオス、ベトナム、キューバ。何と、5か国中4か国は東アジアに存在する!)のうち、未だに社会主義の実現を本気で信じている。まずは、資本主義国=韓国を倒して、朝鮮半島を統一する。本当は中国がその役割を担うべきだが、中国が変質=資本主義化したため、社会主義化を実行できるのは北朝鮮だけだと思い込んでいる。北朝鮮はアメリカを牽制し、アメリカの介入を防ぐために、アメリカ本土まで届く大陸間弾道ミサイルを開発している。

 北朝鮮による拉致事件についても、メディアの情報は十分ではない。単なる拉致事件がこれほど長い間解決されないのはあまりにも不自然である。つまり、単なる拉致事件ではないのだ。単刀直入に言えば、拉致事件は北朝鮮による日本国家転覆戦略の一環である。北朝鮮は日本人を北朝鮮に連行し、社会主義の思想を徹底的に叩き込む。その後、日本に帰して、日本国内での革命活動に従事させる。これが北朝鮮のプランであった。北朝鮮が拉致被害者を頑なに日本へ帰さないのは、日本に帰すと北朝鮮の計画が全てばれてしまうためだ。

 だから、北朝鮮としては、拉致被害者を何とかして死んだことにしたいわけだ。遺骨の偽造を本気で研究しているのもそのためである。この辺りが正確に報じられないのは、在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総連)からメディアに対して圧力がかかっているためではないかと感じさせる。

 (5)
 つまり、戦場体験者のビデオを撮影する、映像に残すことが戦場体験の継承ではないし、書き残した資料を収集するだけでもなく、それを私たちが生きているその中でどのように生かしていくか、未来にどうつなげていくか、それが本当の意味での「受け継ぐ」ということではないかと思います。要するに、それは私たち一人ひとりがどのような未来を望むかによるのです。そのためには、まずは過去のリアルな戦場を知ることです。過去を知らずして、現在も未来も語れません。
(遠藤美幸「戦場の体験をなぜ聞くのか」)
 以前の記事「岡真理『記憶/物語』―本当に悲惨な記憶は物語として<共有>できず<分有>するのみ」でも書いたが、戦争のような悲惨な体験は、その記憶を全て正確に伝えようとすると、かえって前に進めなくなると書いた。中国・韓国との間で抱えている歴史問題を見れば解るように、ある歴史的事実が本当に真実なのかどうかをめぐっては、どうしても泥沼の論争になる。歴史学者であれば、真実を突き止めるのが責務であろう。しかし、一般の人々は未来に向かって歩いていかなければならない。したがって、いつまでも争いを続けるわけにはいかない。日本は中国・韓国とどのような未来を生きるのかを議論する必要がある。

 ただし、「『そのためには』、まずは過去のリアルな戦場を知る」べきだというのはやや引っかかる。繰り返しになるが、過去をリアルにとらえることにこだわりすぎると、未来の創造的なデザインが難しくなる。未来のデザインに「あたって」過去を参照することはあるかもしれないが、未来のデザインの「ために」過去を参照するのではない。未来のデザインは過去の把握に先行する。

 以前の記事「E・H・カー『歴史とは何か』―日本の歴史教科書は偏った価値がだいぶ抜けたが、その代わりに無味乾燥になった」で、「歴史というのは、歴史家がその歴史を研究しているところの思想が歴史家の心のうちに再現したものである」という言葉を紹介した。歴史家がある事実に注目する時、完全なる客観性を持って事実を拾い上げているわけではない。歴史家は、内面に抱く思想という基準によって取捨選択を行っている。そして、その思想とは、歴史家個人の動機だけではなく、その時の社会的な文脈に大きく影響される。

 社会的な文脈とは、その社会では何が望ましくて何が望ましくないのか?その社会をどのような方向に持って行きたいのか?という志向、価値判断である。その社会的な文脈というレンズを通して過去を見た時に、どのような物語が紡ぎ出されるのか、それが歴史である。だから、歴史とは書かれた人の物語ではなく、書いた人の物語なのである(したがって、時代や社会情勢が変われば、全く異なる歴史ができ上がるのは何ら不思議ではない)。

 中国・韓国との関係に話を戻せば、中国・韓国と日本との関係では何を重視するのか?何を善とし何を悪とするのか?という社会的な文脈において、まずは合意形成をするべきである。しかる後に、その基準に照らし合わせて、これまでに論争を生んだ様々な歴史的事実を解釈すると、どのようなことが言えるのか?と問う。そうすれば、従来のような重箱の隅をつつくような細かい議論で袋小路に入り込まずに、もっと大局的かつ建設的な議論が可能となるように思える。

 今年1月に天皇・皇后両陛下がフィリピンを訪問された際、「これでフィリピンでの戦闘が風化されずに済む」と現地の人が語ったという記事を読んだ。両陛下のご訪問は、風化への抵抗であったということだ。逆に言えば、レイテ島の戦いなどは風化しつつあり、それはすなわち、日本とフィリピンが戦後本当に十分な関係を構築できたのか?という問いを投げかけているように思う。

 フィリピンは概して親日的であるとされる。しかし、日本とフィリピンが国際社会の諸問題、外交、経済、社会福祉、教育、環境、人権などの分野でどのような関係を構築すべきか、きちんと答えられる人は少ないに違いない(恥ずかしながら、私も答えられない)。こうした未来志向の欠如ゆえに、未来から過去を見つめ直す機会が失われ、過去が風化してしまうのだろう。



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