2015年11月24日
『法治崩壊─新しいデモクラシーは立ち上がるか(『世界』2015年11月号)』
世界 2015年 11 月号 [雑誌] 岩波書店 2015-10-08 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
翁長知事は在沖米軍基地について、沖縄が自ら土地を提供したのではなく、戦後、米軍の強制接収によってできたものであること、国土面積の0.6%の沖縄に在日米軍用施設の73.8%が存在すること、戦後70年間、米軍基地から派生する事件・事故や環境問題が県民生活に大きな影響を与え続けていることを指摘し、沖縄の自己決定権と人権が侵害されていると強調した。冒頭のこの記事を読んでいきなり卒倒しそうになった。「沖縄県民の自己決定権」ではなく、「沖縄の自己決定権」となっていたからである。私が大学時代に教科書として使った初宿正典教授の『憲法〈2〉基本権』によれば、自己決定権は「個人が自律的人格の主体として、自己にかかわる私的な事柄について公権力によって干渉されずに自ら決定し行動しうる権利」と定義されている。言うまでもなく、自己決定権は個人の権利であり、地方自治体に付与されたものではない。
(潮平芳和「翁長沖縄県知事の国連演説―世界に問うた日米の不正義」)
自己決定権が問題になるのは、自殺、尊厳死、安楽死、リプロダクション(避妊や妊娠中絶など)のように、個人が生命を自由に処分できるかどうかをめぐってである。また、子どもの権利と関連して、校則で生徒の髪型(丸刈りなど)や服装を強制できるか?バイク免許の取得禁止やバイクでの登校禁止を定めることができるか?といった点が議論される。仮に、「沖縄県民の自己決定権」が侵害されているとしても、一体何が侵害されていると主張しているのか不明である。
憲法〈2〉基本権 (法学叢書) 初宿 正典 成文堂 2010-10 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
何でもかんでもすぐに権利を持ち出し、その概念を無尽蔵に拡張していこうとする左派の論理には、時々ついて行けなくなる。まして、個人の権利を地方自治体の権利(?)に援用するのは私の理解を超えている。憲法9条の拡大解釈には反対し、憲法を守れと強弁するのに、人権については自由に内容を操作するのは、いかにもご都合主義ではないだろうか?
辺野古移設問題を憲法の枠組みで論じるならば、95条が妥当である。95条は「一の地方公共団体のみに適用される特別法は、法律の定めるところにより、その地方公共団体の住民の投票においてその過半数の同意を得なければ、国会は、これを制定することができない」と定めている。辺野古移転が95条の住民投票の要件に該当するか否かを議論すればよい。
先日、元文部官僚でゆとり教育の推進者と言われた寺脇研氏と話した時、SEALDsはゆとり教育の成果だと誇っていた。確かに、正解を覚えこむのではなく、自分で問いを立てつつ自分で考え、権威に臆せず自分の意見を言うという態度を身に着けた若者が増えたということである。寺脇研氏の名前を久しぶりに見た(旧ブログの記事「「ミスター文部省」寺脇氏の理想と現実のギャップが垣間見えた―『それでも、ゆとり教育は間違っていない』」で一度だけ取り上げた)。私は、SEALDsこそ「憲法9条の平和主義は絶対に正しいのだ」という正解を覚えこんでいるだけではないかと思う。彼らは国際政治の力学をどこまで考え抜いているだろうか?
(山口二郎「”不断の努力”がデモクラシーを進化させる」)
現代の世界は、アメリカ、中国、ロシア、(ドイツを中心とする)欧州という4つの大国が覇権争いをしている。それ以外の小国は、悲しいが4大国に利用される宿命にある。日本も決して例外ではない。小国は4大国の対立構造を注意深く読み解き、生き残りをかけてどの大国の側につくのか(どの大国に利用されるのか)を決めなければならない。加えて、大国との関係を深化させるために、周辺の小国(日本の場合は韓国やASEAN諸国など)とも連携する必要がある。
事態を複雑にしているのは、4大国は常に敵対関係にあるわけではなく、例えば政治では対立するが経済では協力するといった具合に、局面に応じて態度を細かく変えている点である。大国の戦略が複雑であるから、それに影響される小国の戦略も複雑にならざるを得ない。その小国の戦略の文脈において、今回の安保法制が妥当なのかどうかを議論する必要がある。
SEALDsがこのような点をどこまで真剣に考えているのか、どうも判然としない。「戦後日本は平和主義で世界に貢献してきた」などという主張は、日本がアメリカの核の傘で守られてきたこと、その核がロシアにとっての抑止力になっていたことを無視した平和ボケ発言である。
小田川:国会前でコールされた、「憲法違反の法案は認めない」、「立憲主義をこわすな」、「民主主義を取り戻せ」といった声が、野党に結束してほしいという参加者の総意を示すものだったと思います。(中略)
福山:今回の運動に参加した人々や団体、みんなが統一署名に取り組めば2000万とか3000万という署名も不可能ではない。
(福山真劫、高田健、小田川義和「連帯を拡げ、共闘を次のステージへ」)
朝日新聞が9月19、20日に行った全国世論調査によれば、内閣支持率は、支持35(36)、不支持45(42)(単位はパーセント、カッコ内は9月12、13日の調査)と、不支持が大きい状態が続いている。しかし、政党支持率を見ると、自民36(33)、民主10(10)、維新2(2)、公明3(3)、共産4(4)と、野党の支持率は変化していない。安保法制反対派は、全国各地で巻き起こるデモ・集会の様子を伝える。それだけ反対運動が全国に広がっているのであれば、内閣支持率や自民党支持率は急落しなければおかしい。ところが、実際には数ポイントの下落という軽傷で済んでいる。民主主義を重視する左派は、世論調査に国民の声が最もよく反映されていると言う。だとすれば、支持率が微減だったということこそが民意であり、全国で反対派が蜂起しているというのは、左派が作り上げた虚構にすぎない。
(山口二郎「”不断の努力”がデモクラシーを進化させる」)
旧ソ連には「扇動」を学問化し、運動家に教育する国家機関があった。その機関で教えられていたのは、「ウソであっても繰り返し主張すれば真理になる」ということである。安保法制をめぐる左派の動きを見ていると、まさに旧ソ連の扇動が想起される。
湯浅誠氏が民主党政権時代に、自らの経験をもとに社会が主で政治は客と言ったことがあったが、安保法案反対運動を通して私もそのことを痛感した。湯浅誠氏は、2008年末に東京都・日比谷公園で行われたイベント「年越し派遣村」の村長を務めた社会運動家である。「国民の声が大切だ」という立場を突き詰めていくと、社会=主、政治
(山口二郎「”不断の努力”がデモクラシーを進化させる」)
=客という図式に行き着くのだろう。別の言い方をすれば、社会は政治にとってお客様なのだから、政治は社会の言うことを聞くべきだ、ということになる。企業経営における顧客第一、顧客中心主義、顧客資本主義の影響を見て取ることもできる。
だが、顧客中心主義は、企業経営という狭い領域においてのみ成り立つことである点を左派は忘れている。思想家の内田樹氏は、病院が顧客中心主義を打ち出した結果、無理難題を突きつける患者、他の患者に迷惑をかける患者が増えて、医療現場が荒廃したと指摘した。内田氏の主張について、病院を学校、患者を生徒に置き換えれば、現在の学級崩壊を説明できる。
政治と社会の関係は、政治=主、社会=従である。もちろん、社会は政治に完全に従属するわけではなく、政治に対して影響力を発揮することもある。しかし、決して社会が政治より上に立つわけではない。我々国民は、生まれると国家から資源を与えられ、一生を通じて資源を有効活用し、死ぬ時にはより価値の高い状態で資源を国家に戻す責務を負っている(その反対給付として、諸々の権利が保障される)。国民の側から国家に対し声を上げるのは、政治による資源の配分が不公平である時、資源の有効活用・価値向上を阻害する政治的な要因がある時である。この点を無視して、社会が上に立って政治に何でも要求できるなどとすれば、政治は衰退する。
日本は、安保法制成立前までは可能であった、日本を攻撃してくる国の戦闘機に補給する後方支援国に対して個別的自衛権の行使をできず、補給路を断てないため、攻撃をされ続け、究極的には自国を守れない。今国会で個別的自衛権の範囲がきわめて限定されてしまった。左派の安保法制批判は、もっぱら「日本が戦争に巻き込まれる」というものである。これに対して上記の記事では、今回の安保法制によって実は日本の自衛権が制限されてしまい、国防が弱体化すると指摘しており、興味深かった。安倍政権が、「後方支援を行う国に対して日本は個別的自衛権を行使できない」と方針転換したのは、日本が後方支援を行う可能性を残すためである。仮に日本が後方支援国に対し個別的自衛権を行使できるという態度を保ち続ければ、日本が逆に後方支援国に回った際、日本は被攻撃国の個別的自衛権の対象となってしまう。
(倉持麟太郎「政府答弁が描き出したトンデモ「我が国防衛」」)
以前、「「集団的自衛権」についての私見」という記事を書いたが、改めて今回の安保法制の意義を考えてみると、こういうことではないだろうか?日本近海を巡回するアメリカ海軍艦艇が中国から攻撃されたとする。日本に対する直接的な武力攻撃ではないが、放っておけば日本本土の攻撃につながる場合は存立危機事態に該当し、日本は集団的自衛権を発揮して中国を攻撃する。ただ、これはアメリカを守るためというよりも、日本を守るためであるから、集団的自衛権という名前は適切ではなく、個別的自衛権の行使条件が広がったととらえるべきだろう。
上記の場合において、日本が直接中国を攻撃するのも1つだが、別の選択肢として、近辺にあるアメリカ海軍艦艇を日本が後方支援し、アメリカ海軍艦艇を通じて中国を攻撃する、という手もある。おそらく、こちらの方が作戦としては現実性が高い。従来の法律では、このケースで日本がアメリカを後方支援することは不可能であった。今回の安保法制では「存立危機事態における後方支援」という枠組みで、アメリカ海軍艦艇に武器や燃料を供給できるようになる。
「自立した理性的な市民」が社会契約によって政府(主権国家)を樹立するという主流派の政治モデルに対しては、有力な反批判もある。つまり、主権国家―戦争する国家―の担い手として「自立した理性的な市民」という虚構が考案されたのであり、この「市民」は「自立」していない女性・若者・労働者・少数民族などを抑圧しており、「理性」以外の人間の営み―戦争で亡くなった者を悼み、「誰の子どもも殺させない」と誓うこと、搾取や理不尽な差別への怒りと抵抗など―を抑圧しているという反論である。
(進藤兵「私は新しい種類の政治に票を投じたのだ」)
スコットランドナショナリズムのように、世界のいたるところでナショナリズム復活の動きがあります。これは、デジタル革命によってもたらされた制御困難なコスモポリタンな世界が私たちにある種の負荷をもたらし、それがアイデンティティの不安をかき立てることに由来している面があります。私はそれを「コスモポリタン・オーバーロード」と呼びます。これはまるでマッチポンプだ。「自立した理性的な市民」を持ち出したのは啓蒙主義左派である。その一方で、左派が「自立した理性的な市民」なる概念を作り上げたがために、女性・若者・労働者・少数民族など、その概念からこぼれ落ちる人たちが生じてしまったわけである。差別撤廃運動は左派の十八番であるが、その原因は左派にあるという点に、左派は気づいていない。
(アンソニー・ギデンズ「「第三の道」以後の社会民主主義と世界を語る」)
「コスモポリタニズム(世界市民主義)」は、太古の昔から左派が掲げてきたスローガンである。彼らにとって国家は悪であり、国家を取り払って世界が連帯することが目標である。ところが、いざデジタル革命によって世界がつながると、アイデンティティが不安に陥り、ナショナリズムが復活していると批判する。左派のお望み通りのコスモポリタニズムが実現しようとしているのに、直前になってやっぱり嫌だと駄々をこねているようなものである。