2013年11月08日
安岡正篤『運命を創る(人間学講話)』―人間観察法メモ書き
運命を創る (人間学講話) 安岡 正篤 プレジデント社 1985-11 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
本書の中に、東洋に古くから伝わる人間観察法として「八観法」と「六験法」が紹介されていたので、メモ書きとして残しておく。
八観察法―ダイナミックな人物観察法
一、通ずれば、その礼するところを観る。
少し自己がうまくいきだした時に、どういうものを尊重するか。金か位か、知識か、技術か、何かといういいことを観るのです。
二、貴ければ、その挙ぐるところを見る。
地位が上がるにつれて、その登用する人間を見て、その人物が解るというものです。
三、富めば、その養うところを見る。
たいていは金ができると何を養いだすか。これは誰にも分かりよいことです。たいていは着物を買う、家を建てる、骨董品を集める―決まりきっています。
四、聴けば、その行うところを観る。
聴けば、いかに知行が合一するか、あるいは矛盾するかを観る。なかなか実行となると難しいものです。
五、止まれば、その好むところを観る。
この「止まる」は俗に言う「板についてくる」の意です。
六、習えば、その言うところを観る。
習熟すれば、その人の言うところを観る。話を聞けば、(学問がどの程度身についているか)その人の人物・心境がよく分かる。
七、貧すれば、その受けざるところを観る。
貧乏するとなんでも欲しがるというような人間は駄目です。
八、窮すれば、そのなさざるところを観る。
人間は窮すれば何でもやる、恥も外聞もかまっておられぬ、というふうになりやすい。
六験法―感情を刺激して人を観察する法この本では取り上げられていなかったが、私は孔子の「三段階観察法」が気に入っている。
一、之を喜ばしめて、以てその守を験す。
喜びというものは、我々の最も本能的な快感であります。人間は嬉しくなると羽目を外す。しかし我々には、外してならぬ枠がある。それが守です。ところが、いい気になって軽々しくこの枠を外すと乱れてしまう。
二、之を楽しましめて、以てその僻を験す。
喜びの本能に理性が伴うと、これを楽と申します。人は公正を失って偏ると物事がうまくいかない。僻する人間はいろいろのことに障害が多いものであります。
三、これを怒らしめて、以てその節を験す。
怒りというものは、非常に破壊力を持っておる。感情の爆発ですから、それをぐっとこらえる節制力を持っているのは頼もしい人物です。
四、これを懼(おそ)れしめて、以てその独を験す。
この「独」とは絶対性・主体性・独立性を意味する言葉で、単なる多に対する孤独の独ではない。
五、これを苦しましめて、以てその志を験す。
苦しくなると理想を捨ててすぐに妥協するような人間は当てになりません。
六、これを哀(かな)しましめて、以てその人を験す。
悲哀はその人柄全体をよく表します。
子曰く、その以(な)す所を視(み)、その由る所を観(み)、その安んずる所を察すれば、人焉んぞ■(かく)さんや。人焉んぞ■(かく)さんや。〔為政〕(※■はリンクを参照)明治時代を代表する実業家・渋沢栄一は、終生『論語』を離さず、「『論語』で事業を経営してみせる」とまで言ったそうだが、その渋沢はこの文章について次のような説明を行っている。
まず第一に、その人の外面に現れた行為の善悪正邪を視る。第二に、その人のその行為の動機は何であるかをとくと観きわめ、第三に、さらに一歩を進めてその人の行為の落ち着くところはどこか、その人は何に満足して生きているかを察知すれば、必ずその人の真の性質が明らかになるもので、いかにその人が隠しても隠しきれるものではない。
外面に現れた行為が正しく見えても、その行為の動機が正しくなければ、その人はけっして正しい人物とはいえない。また、外面に現れた行為も正しく、その動機も精神もまた正しいからといって、もしその安んじるところが飽食・暖衣・気楽に暮らすというのでは、その人はある誘惑によっては意外な悪をなすこともあろう。
(竹内均編『渋沢栄一「論語」の読み方』〔三笠書房、2004年〕)
渋沢栄一「論語」の読み方 渋沢 栄一 竹内 均 三笠書房 2004-10 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
私自身は、この「視・観・察」の人間観察法を、次のように解釈している。
・視る=その人の「能力」を視る。その人の強みや得意分野は何か?
・観る=その人が仕事をする上で拠り所としている「価値観」を観る。
・察する=その人の「基本的欲求」を察する。究極のところ、何のために仕事をしているのか?
企業が人材を採用する際には、面接でこの3つを見抜くとよいと思う。最初に掲げた「能力」の有無を調べるのは当然のことなので、細かく説明はしない。ただ、能力に関しては、「能力がある人」と「熱意がある人」のどちらを採用すべきか?という議論がある。能力は簡単には習得できないのに対し、熱意は企業側の働きかけによっていかようにも”操作”できる。よって、私ならば、熱意がある人よりも、能力がある人を優先する(旧ブログの記事「「やりたいこと」と「得意なこと」のどちらを優先すればいいんだろう?―『リーダーへの旅路』」を参照)。
どんなに熱意が高くても、能力が足りなければ思うような成果が上げられず、次第にモチベーションを失っていくものだ(そんな社員を、私は前職の会社でたくさん見てきた)。能力も熱意もない人ほど扱いにくい社員はいない。逆に、最初はそれほど熱意が高くなくても、ある程度の能力があれば、一定の成果を上げられる。すると、仕事の達成感によって徐々にモチベーションが向上する。彼らに対して、上司が賞賛したり、もっとやりがいのある仕事を与えたりしてうまく動機づけを行えば、彼らは能力と熱意の両方を兼ね備えたハイパフォーマーになるだろう。
ただし、能力が高くても、組織の価値観に合致しない人は採用してはならない。組織としてどうしても譲れないルールに反する人を採用すると、日常的に周囲の社員と対立を繰り返すようになり、社内の雰囲気が台無しになる。例えば、情報共有とオープンな議論をモットーとする企業において、あるマネジャーが重要な情報を囲い込んでしまい、密室会議を繰り返すようになれば、周囲の社員は不信感を募らせるに違いない。価値観をめぐる対立で、組織のスピードが落ちていく様子を、私は前職の会社で嫌というほど経験した(以前の記事「【ベンチャー失敗の教訓(第37回)】最初に「バスに乗る人」を決めなかったがゆえの歪み」を参照)。
GEでは、前CEOのジャック・ウェルチの下で、「スピード、シンプルさ、自信」といった基本的な価値観が定められた。そして、人事評価制度を大幅に変更し、どんなに能力が高くても、GEの価値観に合わないマネジャーは解雇することにした(旧ブログの記事「「できるヤツでも組織の価値観に合わなければクビ」のGE流」を参照)。
最後に、その人の基本的欲求を察する。能力と価値観の観察は「どうやって(How)」仕事をしているのかを尋ねるのに対し、基本的欲求の観察は「何のために(Why)」仕事をしているのかを問う。ある人事担当者から聞いた話だが、求職者の中に、素晴らしい経歴の持ち主で、自社でどんな仕事をしたいか、ビジョンを熱く語ってくれた人がいたという。役員による最終面接で、役員は給与の金額を提示した。役員は、「業界水準から見ると低い額だが、それでもよいか?」と尋ねた。すると、彼は顔を曇らせ、「この金額では厳しいです」と答えた。その答えに役員は大いに憤り、「君はわが社で仕事がしたいのではない。ただ、お金がほしいだけだ」と叱責した。
もちろん、生きていくためにはお金が必要だから、お金のために働くというのは間違ってはいない。しかし、それだけではあまりにも寂しい。世俗的な欲を超えて、もう一歩踏み込んだ、深い欲求を持つべきだ。私はなぜこの世に生まれたのか?私は社会にどんな貢献をすることを求められているのか?一言で言えば、アイデンティティに関する問いである。人は、一生を捧げてもよいと思える使命を持つ時、強くなれる。お金や地位や名誉は、使命を達成するために甚大な努力をしたご褒美の一部にすぎない。社会が富を増大したそのおこぼれを得たにすぎない。