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鈴木大拙『禅』―禅と全体主義―アメリカがU理論・マインドフルネスで禅に惹かれる理由が何となく解った
【現代アメリカ企業戦略論(4)】全体主義に回帰するアメリカ?
安岡正篤『活字活眼』―U理論では他者の存在がないがしろにされている気がする?

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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京23区、神奈川県川崎市・横浜市を中心に活動する中小企業診断士・コンサルタント。

 専門領域は、(1)経営ビジョン・事業戦略の策定、(2)ビジョンや戦略とリンクした人材育成計画の立案・人事評価制度の構築、(3)人材育成計画に沿った教育研修プログラムの企画・開発。

 モットーは「日々改善、日々成長」、「実事求是」、「組織のためではなく知識のために働く」、「奇策は定石より先に立たず」、「一貫性(Consistency)」、「(無知の知ならぬ)無知の恥」

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 ブログタイトルに、oasisの往年の名曲『Whatever』を入れてみた。

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2017年02月22日

鈴木大拙『禅』―禅と全体主義―アメリカがU理論・マインドフルネスで禅に惹かれる理由が何となく解った


禅 (ちくま文庫)禅 (ちくま文庫)
鈴木 大拙 工藤 澄子

筑摩書房 1987-09

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 足かけ約12年で記事の数が2,000本に到達しました(旧ブログ1,118本、現行ブログ679本、ブログ別館203本)。いつも読んでくださる皆様、本当にありがとうございます。1本あたりの文字数は時期によってバラバラなのですが、仮に平均2,000字/本とすると、約400万字書いた計算になります。原稿用紙に換算すれば約1万枚、原稿用紙1枚の厚さは約0.1㎜なので、積み上げると約1mに上ります。

 ただ、2,000本書いても自分で本当によく書けたと思う記事は数えるほどしかありません(涙)。右カラムの自己紹介欄に、モットーとして「実事求是」、「一貫性」と掲げていますが、間違ったことや矛盾したことを書いたかもしれません(何か所かは自覚症状あり)。作家の北方謙三氏は、20代の頃に原稿用紙1万枚分ぐらいの作品を書いたけれども、全部ボツにしたという話を『致知』のインタビュー記事で読んだことがあります。今の私の心境もそれに近いものがあります。本当の勝負はここからスタートです。次は4,000本を目指して精進したいと思います。
 ブログ別館の記事「『人を育てる(『致知』2016年12月号)』」で、アメリカで今流行りの「マインドフルネス」は禅の影響を受けていることに触れた。ここで私は、「本来の禅とは、絶対性や全体性の獲得を目指すものだったのであろうか?確かに禅には、静謐な空間で、他者との交わりを断って厳しい修練を積むというイメージがある。しかし、その修行の目的は、他者の異質性を認め、顔の見える他者と血の通った交流をじわじわと広め、さらにその関係を深化させることにあるのではないだろうか?」と書いた。そこで、禅について知るために本書を読んだ。本書は、宗教家である鈴木大拙が海外に禅を紹介したものである。本書を読んだ第一の感想は、「禅と全体主義は共通点が多い」ということであった。私の仮説はものの見事に打ち砕かれてしまった。

 私が理解する全体主義について、今一度整理しておきたいと思う(以前の記事「【現代アメリカ企業戦略論(1)】前提としての啓蒙主義、全体主義、社会主義」を参照)。全体主義は18世紀ヨーロッパの啓蒙主義の嫡子である。啓蒙主義においては、唯一絶対の神と人間の理性が同一化された。啓蒙主義は非合理的な宗教を排除したと説明されることが多いが、実際にはむしろ逆で、宗教と人間が深く結びついた。人間は唯一絶対で全体性を帯びた神に似せて創造されたのであるから、人間も神と同じ性質を有する。地球上には何十億という人間がいるが、皆唯一絶対の存在であり、全体である。すなわち一が全体に、全体が一に等しいことを意味する。

 一が全体に等しく、全体が一に等しい社会においては、私有財産は否定される。私のものとあなたのものという区別はなくなり、財産は全人類の共有物となる。また、一が全体に等しく、全体が一に等しい社会では、独裁と民主主義が両立する。というのも、1人の意見は全体の意見に等しいからである。全体の意見を抽出すれば民主主義的に見えるが、その全体の意見は結局のところ1人の意見と等しい。こうして、全体主義では共有財産制と独裁がその特徴となる。

 神は無から有を生み出す存在である。神と人間は等しいのであるから、人間もまた、無から有を生み出すことができる。唯一絶対の神と等しい人間は、生まれながらにして唯一絶対である。言い換えれば、生まれた時点で既に完成しており、革命は成就している。だから、教育によって人間の能力を伸ばそうとか変えようといった発想はない。むしろ、人間が下手に教育を施して、人間の完全無欠性が傷つけられることを恐れる。だから、全体主義社会においては、知識人や教育者が激しく迫害・弾圧される。全体主義では、生まれた時点という現在が時間軸の全てを支配する。現在という時間は有限であるが、同時に無限である。無限なる有限と言ってもよい。

 ところで、神と人間には決定的な違いがある。神は不滅であるが、人間は死ぬ。この点をどう考えればよいか?人間は死によって、生き残った者を現在という時間に固定する。そして、その固定をより強めるためには、人間は早く死んだ方がよい(以前の記事「神崎繁『ニーチェ―どうして同情してはいけないのか』―ニーチェがナチスと結びつけられた理由が少し解った気がする、他」を参照)。太平洋戦争で若者が天皇陛下万歳と叫びながら次々と特攻していったのも、この理屈で説明できる。山本七平はこれを「死の臨在」による生者への絶対的支配と呼んだ。死んだ者は無に帰すが、その無は再び有を生み出す源泉となる。つまり、無とは円周であり、円周上の一点において有という現在が出現し続ける。こうして、人間もまた神と同じく不滅となる。

 以上が私の全体主義に関する大まかな理解であるが、本書で説かれている禅とこの全体主義がいかに共通しているかを以下に示したいと思う。まず、唯一絶対の神と人間は等しいという点について、本書には次のように書かれている。
 「心単純な人々は、あたかも神は彼方にましまし、われわれは此方にいるのだと考える。そうではない。神とわたしとは、わたしが神を覚知する行為において一つである。」この事物の”絶対的一”に禅はその哲学の基礎を据える。
 禅にとっては、有限はすなわち無限である。時間はそのまま永遠である。人は神と別ではない。「アブラハムの存在した前にわたしはある。」さらにまた、神は無限の可能性、かぎりない自由、はてしない責任に、何の恐怖すべきものも認めない。禅は無限の可能性とともに動く。
 「禅問答」という言葉があるように、禅は答えのない問いを繰り返すイメージがある。ところが、著者によれば、問いというのは、問うものと問われるものを分ける行為、主体と客体を分ける行為であり、禅の本質ではないという。禅は主客二元論をはじめ、あらゆる二元論を認めない。禅は、世界を世界のまま受け止めることを目指す。これを「シューニヤター(空)」と呼ぶ。そして、シューニヤターは全世界であると同時に、世界を構成する個々の事物の中に存在する。つまり、全体が一であり、一が全体であることを意味する。
 相対の世界は、”シューニヤター”の上に、また、中にある。”シューニヤター”は、いわば全世界を包み、同時にそれはまた、世界に存在する一つ一つの事物の中にある。”シューニヤター”は、内在論でもなければ、超越論でもなく、もしこういうことが許されるなら、その両方である。
 禅を通じてシューニヤターを知覚する時、我々の中にある「潜在意識」が呼び起こされる。
 「潜在意識」もまたあらゆる形の神秘主義を蔵する倉であって、およそ潜在とか異常とか、霊魂とか心霊とかの名で呼ばれるものは、すべてこれに含まれる。自己の存在の本性を見究める力もまた、ここに隠されているかもしれない。そして、禅がわれわれの意識の中に目覚めさせるものも、それであるかもしれない。
 潜在意識という言葉は、U理論やマインドフルネスの下地となった、物理学者デイビッド・ボームの「内蔵秩序」という言葉を想起させる。ボームは、我々が通常意識する「顕在秩序」の背後に、一切を包み込む「内蔵秩序」があると主張した。我々は言葉や知識を用いて顕在秩序を理解しようとする。ところが、言葉や知識は世界を分断し、人々を対立へと陥れる。そこでボームは、人々が潜在意識のレベルで連帯する必要があると説いた(その手法として「ダイアローグ(対話)」を挙げた)。すると、人々は全世界を包む内蔵秩序に触れ、対立から変革へと向かうことができると言う。この考え方はまさに、U理論やマインドフルネスに受け継がれている。

 全体主義は現在を絶対化し、現在を無限なる有限と位置づけると書いた。これに関連する禅の言葉を本書の中からいくつも発見することができる。
 救いは有限そのものの中に求めねばならぬ、有限なるものを離れて無限なるものはない。もしおまえが何か超越的なものを求めるならば、それはおまえをこの相対の世界から切り離すであろう。
 有限は無限である。また無限は有限である。それは2つの別のものではない。われわれが、知性の上でそう考えさせられているだけである。
 かれは無限を円周とする円の中に生きる。だから、かれはどこにあっても、つねに実在の中心にいる。かれが実在そのものである。
 絶対の現在もまた然り。そして、”エカクシャナ”は絶対の現在であり、永遠の「今」である。かくて、禅は一刹那の中に成就すると言われるのである。
 禅は時間と歴史を越えるゆえに、それが認めるのは、はじめもなく、おわりもない生成の過程のみである。
 人間は無という円周の上に生きるのであるから、そこには始まりも終わりもない。円周上のただ1点において、一瞬だけ有(でありながら無限)が生成されるのみである。

 先ほど、禅には二元論がないと書いた。二元論は対立を生み出す。力に依存する。そうではなく、二元論を超越する愛を持つべきだと著者は述べている。だが私は、禅がこれほどまでに全体主義と共通することを知る時、むしろ恐れおののいてしまう。本ブログで繰り返し書いてきたように、二元論、二項対立こそ、人間が独善的にならないための知恵ではないかと私は考える。というのも、二項対立は自分と異なる他者の存在をまずは肯定するからである(以前の記事「【現代アメリカ企業戦略論(2)】アメリカによる啓蒙主義の修正とイノベーション」を参照)。

 禅は、インドで生まれた仏教が中国で変質・完成したものであると言う。インド人は超自然を認める。この点でインド人は空想的であり、実際に空想的な物語を描く。これに対して中国人は、どこまでも実際的である。孔子が「怪力乱神を語らず」と言ったように、超自然的なことには目を向けない。だから、中国人は、仏陀の額から光が出るなどといった物語を描くことはない。中国人は極めて実際的だが、逆説的なことに、実際的であるがゆえに知性を超えて直観で宇宙を把握することができる。逆に、空想的なインド人は、知性によって制限されている。

 中国人の思想は本当にとらえどころがない。仮に、禅が中国の思想を体現しているならば、中国には全体主義的な傾向があることになる(個人的には、全体主義=反共という点はあまり重要ではないと考える)。一方、大国である中国は、大国の流儀である二項対立的な発想に従う(以前の記事「岡本隆司『中国の論理―歴史から解き明かす』―大国中国は昔から変わらず二項対立を抱えている」を参照)。かと思えば、「中庸」という言葉があるように、二項”混合”的な考え方もする。二項”混合”は、日本のような小国の得意技である(以前の記事「『一生一事一貫(『致知』2016年2月号)』―日本人は垂直、水平、時間の3軸で他者とつながる、他」を参照)。

 U理論やマインドフルネスに傾倒するアメリカは、全体主義に向かっているのかもしれない(以前の記事「【現代アメリカ企業戦略論(4)】全体主義に回帰するアメリカ?」を参照)。同時に、中国も一党独裁を強め、言論の自由を制限し、三権分立を否定するなど、全体主義に傾きつつある。2つの大国が全体主義化する時、両国が手を結ぶことがあり得る。全体主義国家が結託する時、起きるのは戦争に他ならない。それも、全体主義国同士の戦争ではなく、全体主義国家と反全体主義国家との間の戦争である。これは、第2次世界大戦の歴史が示す通りである。


2017年01月25日

【現代アメリカ企業戦略論(4)】全体主義に回帰するアメリカ?


アメリカ

 前回の記事「【現代アメリカ企業戦略論(3)】アメリカのイノベーションの過程と特徴」の続き。アメリカは唯一絶対性の神=人間の理性という啓蒙主義的な世界観に3つの修正を加えることで、独自のイノベーションを可能にした。その3つとは、①現在から未来への時間の流れを肯定し、人間の自由意思によって望ましいビジョンを設定することを可能にしたこと、②二項対立の考え方を導入して他者の存在を肯定したこと、それによって自己のアイデンティティをより強固なものとしたこと、③連邦制に代表されるように、神と人間の間に一定の階層構造が介入することを認め、その階層性がイノベーションを全世界に迅速に普及(=エバンジェリストによる布教)させるのに役立つようにしたこと、の3つである。

 これらの修正によって、アメリカは多様なイノベーションを創造することに成功したほぼ唯一の国になることができた。しかし、近年のアメリカには、啓蒙主義的な全体主義に回帰しているのではないかと思わせるような動きが見られる。その代表例が、「学習する組織」を理論化したことで知られるピーター・センゲらが提唱している「U理論」である。U理論の内容を端的にまとめると、「我々の意識が『源泉(ソース)』とつながることで、未来が自ずと見えてくる」ということである。「源泉(ソース)」は「宇宙」と読み替えてもよい。また、「今の中の私(I-in-me)」という真正の自己を発見することが未来の創造につながる、という表現も見られる。

 U理論の本質を理解するには、物理学者デイビッド・ボームが提唱した「内蔵秩序」という概念を知っておく必要がある。内蔵秩序とは、平たく言えば「宇宙」、「全体」であり、我々が普段目にする世界=「顕前秩序」を生み出す源泉である。内蔵秩序は精神と物質の区別すらない「統合」された理想的な世界であるのに対し、顕前秩序は近代的、デカルト的な「分析」が支配する世界であり、精神と物質は分離され、さらに社会は人間の諸活動によって細分化されている。

 ボームは、人間は誰でも顕然秩序を超えて内蔵秩序につながることができると主張した。我々が意識のレベルを上げて内蔵秩序へアクセスする時、自分と他者という境界が崩れ、「我々は皆一体である」という感覚が得られる。すると、顕前秩序で起きている様々な問題を解決へと導く革新的な方向性を、内蔵秩序が「教えてくれる」。この境地に至るための一連のアプローチを、ボームは「ダイアローグ(対話)」というコンセプトでまとめた。ボームは、現実世界=顕然秩序で起きている様々な対立―アカデミックの世界で起きている専門分野の細分化の問題や、宗教・民族の対立など―が、ダイアローグによって解決に向かうことを期待していた。

 ボームの内蔵秩序というコンセプトは、「宇宙」や「源泉(ソース)」という言葉となってU理論に受け継がれている。U理論では、「宇宙は私であり、私は宇宙である」という等式が成立する。すなわち、私は宇宙とつながることが可能であり、私が宇宙とつながれば、宇宙が変革の道筋を指示してくれる、という関係が成り立つわけだ。と同時に、宇宙=私であるから、宇宙とつながることは、結局のところ私を再発見することに等しい。U理論で「今の中の私(I-in-me)」という言葉が使われるのは、こうした背景があるためである。

 個々の人間が「今、ここ」という瞬間にフォーカスして意識のレベルを上げれば、他者の意識とつながることが可能となり、ひいては絶対的な宇宙全体と一体化するというのは、まさしく全体主義そのものである。そして、逆説的だが、U理論では実は他者の存在はそれほど重視されていないと感じる。この点は、以前の記事で、全体主義が連帯の重要性を強調しながら、実際には個々の人間は孤立している(オルテガの言う「トゥゲザー・アンド・アローン」)と書いたことに通じる。

 U理論においては、他者は私という部分が宇宙という全体を獲得するための「潤滑油」にすぎない。というのも、個人の中に全体が内包されているのであれば、理論的には、他者の力を借りなくても、個人が直接的に全体を認識することが可能であるからだ。もちろん、U理論の実践者は、「他者がいるからこそ、『Uプロセス』を加速できる」と反論するに違いない。だが、他者がUプロセスを加速させるだけの存在であれば、まさしく化学反応における「潤滑油」そのものである。U理論の構築に大きく貢献した一人であるジョセフ・ジャウォースキーは、旅先で動物を見ながら宇宙を体感する経験をしたことを著書『源泉―知を創造するリーダーシップ』の中で振り返っている。つまり、宇宙を悟るのに他者は必ずしも必須ではない。

源泉――知を創造するリーダーシップ源泉――知を創造するリーダーシップ
ジョセフ ジャウォースキー Joseph Jaworski 金井 壽宏

英治出版 2013-02-22

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 現在、アメリカでは「マインドフルネス」が流行しているという。マインドフルネスとは、光よりも早く駆けめぐる人間の頭の中の思考を止めることである。吸う息、吐く息だけに、「今、ここ」という瞬間だけに意識を集中しながら、一切の妄想から離れる訓練をする。すると、私の意識が宇宙全体とつながり、新しい未来が出現するという。これは、U理論と全く同じ考え方である。そして、U理論と同様、他者との関係は一旦脇に置いて、個人が絶対的な宇宙と直接につながることを目指している。それでいながら、個人が宇宙とつながれば、他者ともつながることができ、そこから変革が自ずと発生すると考える。これは全体主義に他ならない。

 マインドフルネスに注力している企業としては、グーグル、フェイスブック、ゴールドマン・サックス、IBMなどが挙げられる。これらの企業はアメリカ的なイノベーションで十分に成果を上げていながら、なおそれに飽き足らないようである。イノベーションは、以前の記事でも述べた通り他者の存在を必要としており、その意味で相対主義的である。ところが、グーグルなどは他者の存在を駆逐して絶対的な神になろうとしている。IoT(Internet of Things)に莫大な投資をし、世界中のあらゆるモノをインターネットでつないで支配するという試みには、もはや他者が介在する余地はなく、グーグルが神になるのだという決意が表れていると言えるかもしれない。

 マインドフルネスは日本の禅の影響を受けているという。私は禅について無知なので明確なことは言えないのだが、本来の禅とは、絶対性や全体性の獲得を目指すものではないと思う。確かに禅には、静謐な空間で、他者との交わりを断って厳しい修練を積むというイメージがある。しかし、その修行の目的は、研ぎ澄まされた精神をもって他者の異質性を認め、顔の見える他者と血の通った交流をじわじわと広め、さらにその関係を深化させることにあるような気がする。

 「個人の意識が全体の意識へと昇華されていく」という点で思い起こされるのが、野中郁次郎氏の「知識創造理論」である。有名な「SECIモデル」の出発点にあたる「共同化(Socialization)」というフェーズでは、特定の個人が有する暗黙知を組織の他のメンバーと共有し、暗黙知を伝搬させる。この時に必要なのが、現象学で言うところの「相互主観性」である。相互主観性とは、複数の主観がそれぞれの独自性を維持したまま、共同で築き上げる「われわれ(we)」の「共同主観」すなわち「共観」である。つまり、相互に他者の主観と全人格的に向き合い、受け入れ合い、共感し合う時に成立する、自己を超える「われわれ」の主観である。

 野中氏は、リーダーは実践知(フロネシス)を追求すべきだと言う。実践知とは、「共通善を志向し、個別具体のコンテクストや関係性のただ中で、その都度適時適切な判断と行動が取れる、身体性を伴う実践的な知性」と定義される。共通善を追求するとあるが、これは決して唯一絶対の神になるとか、宇宙性を獲得するといった意味合いではない。むしろ、個別具体の文脈で「ちょうど」の解を見つける能力であり、個別と普遍、細部と大局を往還しつつ、熟慮に基づく合理性とその場の即興性を両立させる能力である(野中郁次郎「知的機動力を錬磨する―暗黙知、相互主観性、自律分散リーダーシップ」〔『一橋ビジネスレビュー』2016年WIN.64巻3号)』〕)。

一橋ビジネスレビュー 2016年WIN.64巻3号一橋ビジネスレビュー 2016年WIN.64巻3号
一橋大学イノベーション研究センター

東洋経済新報社 2016-12-09

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 U理論・マインドフルネスと知識創造理論は、一見似ているようで実際には全く異なる。U理論・マインドフルネスは全体主義と同じく、現在という1点に集中し、唯一絶対の神性を実現する。いずれも他者との連帯を説くが、他者はあくまでも潤滑油であって、絶対性、全体性を獲得する必須条件ではない。絶対性、全体性を獲得する時、私と他者の境界線は崩れて全体に統合される。端的に言い換えれば、1がすなわち全体と等しくなる。

 これに対して知識創造理論は、共通善を目指しつつも、個別具体的なコンテクストに即して最善の解を即興で創造するものであり、その解は現在からちょっと先の未来に向けて投影されている。つまり、現在から未来へと流れる時間が存在する。また、その解を導く上で他者の存在は絶対に不可欠である。解が導かれる時、自己と他者の主観は相互に交流するが、自己と他者の境界が完全に消えることはなく、相互のアイデンティティは保持・尊重される。全体主義では1がすなわち全体と等しくなれば革命は成就するが、知識創造理論では、変化し続ける現状に合わせて次々と最善解を創出しなければならない。

 両者にはこのように決定的な違いがある。野中氏が(少なくとも私が野中氏の論文などを読む限りでは)U理論やマインドフルネスに触れたことがないのは、決して偶然ではないと思う。アメリカ企業がU理論やマインドフルネスに傾く時、これらの理論が未来の変革を唱えながら、実際には現在という1点に押しとどめられ、進歩が止まり、排他的な全体主義に陥り、多様なイノベーションの芽が摘まれてしまうのではないかと心配している。


 (※1)以前の記事「内田樹『日本辺境論』―U理論の宇宙観に対する違和感の原因が少し解った」、「オットー・シャーマー『U理論』―デイビッド・ボームの「内蔵秩序」を知らないとこの本の理解は難しい」、「安岡正篤『活字活眼』―U理論では他者の存在がないがしろにされている気がする?」では、U理論がキリスト教に通じ、さらにはアメリカ的なリーダーシップに通底すると書いたが、この認識は改めなければならないと思う。本文で述べたように、U理論は全体主義と通底している。そして、伝統的なキリスト教と、アメリカのリーダーシップやイノベーションを基礎づけるキリスト教とは異なることも押さえておく必要があると考えるようになった。

 (※2)ブログ別館の記事「『人を育てる(『致知』2016年12月号)』」の内容も、同様の理由で改めなければならないと考えているところである。


2014年01月14日

安岡正篤『活字活眼』―U理論では他者の存在がないがしろにされている気がする?


[新装版]活眼 活学(PHP文庫)[新装版]活眼 活学(PHP文庫)
安岡 正篤

PHP研究所 2007-05-22

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U理論――過去や偏見にとらわれず、本当に必要な「変化」を生み出す技術U理論――過去や偏見にとらわれず、本当に必要な「変化」を生み出す技術
C オットー シャーマー C Otto Scharmer 中土井 僚

英治出版 2010-11-16

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 陽明学者である安岡正篤の本から、オットー シャーマーの『U理論』のことを考えてみるという、もはや誰に向けて書いているのか解らないようなこと(汗)を書いてみようと思う。安岡正篤の思想も、私なりに煎じ詰めてみれば、「自分自身=部分のことをよく知れば、天=全体を知ることができる」という一点に集約されるように感じる。安岡が好んで引用する『孟子』の「君子は必ず自ら反(かえ)る」という言葉に、安岡の思想の本質が表れている。
 あるものが独自に存在すると同時に、また全体の部分として存在する。その円満無礙(むげ)な一致を表現して自と分を合わせて「自分」という。我々は自分を知り、自分を尽くせばよいのであります。
 諸君もよく御承知の(※無知な私は知らなかったのだが・・・)「万世の為に太平を開く」(終戦の詔勅中の一句)という言葉は、張横渠の有名な立言、即ち「天地の為に心を立つ。生民の為に命を立つ。往聖の為に絶学を継ぐ(往聖は一に去聖)。万世の為に太平を開く」の結語です。

 「天地の為に心を立つ」。言い換えれば、人間は心というものを立派に造り上げるということが、人の為であると同時に天地の為だ。実は天地が心というものを創造したのだ。(中略)人間が心を持っておる。人間が心の世界を開くということは、これは天地の仕事なんだ。人間が天地に代わって行なうことである。天地の努力を継承することである。(中略)

 そうして、「生民のために命を立つ」。命とはいわゆる運命・立命の命です。生きとし生ける民、生きとし生ける人間は、それぞれ天という絶対者・創造者の営みを内具している、それを命というわけです。それを各自立派に遂行させ発揮させる。それにはどうしても、代々の聖賢(往聖・去聖)が遺して今や中絶しておるところの学問―絶学、それを継承し興起しなければならない。往聖の為に絶学を継ぐ。そうしてこそ初めて万世の為に太平を開くことができるのだ。
 中国古典における天と心の関係が、キリスト教における神と人間の関係に酷似していること、また両者に共通する「全体―部分」の集合論的関係が、オットー・シャーマーらのU理論とも共通していることは、以前の記事「安岡正篤『知命と立命―人間学講話』―中国の「天」と日本の「仏」の違い」でも述べた。U理論では、「場」に集合した人々が、自らの偏見や誤った価値観を手放すと、私と他者という物質的な壁が崩れ、潜在意識のレベルにおいて人々は一つになる。そして、我々の中に本質的に内在している絶対的な宇宙=全体にアクセスすることが可能となり、新しい未来へ向けて歩み出すことができる、とされる。

 《参考》オットー・シャーマー『U理論』のレビュー記事
 オットー・シャーマー『U理論』―デイビッド・ボームの「内蔵秩序」を知らないとこの本の理解は難しい
 オットー・シャーマー『U理論』―古い手法を完全否定するな、古い手法は新しい手法を始動させるトリガーとして機能する
 オットー・シャーマー『U理論』―人間は本当に過去と決別すべきなのだろうか?
 《参考の参考》
 内田樹『日本辺境論』―U理論の宇宙観に対する違和感の原因が少し解った

 だが実は、U理論では「他者」の役割があまり積極的に評価されていないような気がする。いわんや、キリスト教や中国古典においてをや、である。私の理解不足のせいかもしれないが、U理論においては、他者は私という部分が宇宙という全体を獲得するための”触媒”にすぎない印象を受ける。というのも、個人の中に全体が内包されているのであれば、理論的には、他者の力を借りなくても、個人が直接的に全体を認識することが可能であるからだ。もちろん、U理論の実践者は、「他者がいるからこそ、『Uプロセス』を加速できる」と反論するに違いない。だが、他者がUプロセスを加速させるだけの存在であれば、まさしく化学反応における”触媒”そのものである。

 U理論の構築に大きく貢献した一人であるジョセフ・ジャウォースキーは、旅先で動物を見ながら宇宙を体感する経験をしたことを著書の中で述べている。つまり、宇宙を悟るのに他者は必ずしも必要ではない(もっとも、その動物の中にも全体が包摂されており、ジャウォースキーが全体を見るためには動物の存在が不可欠であった、という解釈もできるのかもしれないが)。

シンクロニシティ[増補改訂版]――未来をつくるリーダーシップシンクロニシティ[増補改訂版]――未来をつくるリーダーシップ
ジョセフ・ジャウォースキー Joseph Jaworski 金井 壽宏

英治出版 2013-02-22

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源泉――知を創造するリーダーシップ源泉――知を創造するリーダーシップ
ジョセフ ジャウォースキー Joseph Jaworski 金井 壽宏

英治出版 2013-02-22

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 非常に乱暴な言い方かもしれないが、U理論の実践の場に集まった人たちは、各々が自分の中に確かに存在するはずの根源的な宇宙を探り当てるため、お互いを利用し合っている。そこには、相手を道具的存在とみなす優越感がはたらいている。そして、めでたく全体に到達できた者は、それができなかった者と違い、唯一無二の宇宙から選ばれた者であるという選民意識を抱くことになる。これが果たして新しいリーダーシップの姿なのだろうか?

 日本のリーダーシップ観は、これとはかなり異なる。多神(仏)教である日本においては、絶対的な存在というものを認めない。つまり、絶対的な解というものは存在しない。我々の心の中には、様々な神や仏が宿っている。私に宿っている神は、あなたに宿っている神と異なるかもしれない。いや、異なることの方が普通である。だから、絶対的な解(それはビジョンと呼ばれ、強烈なビジョンを持ったリーダーにはカリスマ性があると言われる)を引っさげて、人々に追従を強要するようなリーダーシップは日本では成立しない。たとえ、誰かが何か素晴らしい解を思いついたとしても、それは”当座”の解にすぎない。

 カリスマ性のあるリーダーは、宇宙のお墨つきをもらっているから力強く、自信に満ち溢れている。これに対して、当座の解しか持たない日本のリーダーは、どこかおどおどしている。日本のリーダーが当座の解の質を高め、人々の支持を得るための方法はただ1つ、人々の間に分け入って、対話を重ねることである。簡単に言えば、「私はこう思うが、あなたはどう思うか?」という問いを多方面に投げかけることである。日本のリーダーが、しばしばきょろきょろしている、相手のご機嫌をうかがっているように見えるのはそのためである。

 日本のリーダーは、自分の心の中にある神仏を相手の前に提示し、相手の心の中から神仏を表出させる。そして、神仏同士の対話を通じて、当座の解をちょっとだけ改善させる。その後、また別の人に対して自分の神仏を提示し、相手の神仏と対話させて、当座の解をまたちょっとだけ修正する。この繰り返しである。

 カリスマリーダーについては、リーダーとフォロワーが厳格に分かれる。リーダーのビジョンは絶対的な根拠を持っているから、リーダーに意見することは慎まれる。これに対し、日本型リーダーでは、リーダーが人々の方に近づいていくから、メンバーとの距離が非常に近い。また、神仏の対話の場面では、お互いの神仏の間に上下、貴賤の関係がないため、時にリーダーとフォロワーが入れ替わる。いや、リーダーとフォロワーという区分さえないのかもしれない。カリスマ型のリーダーシップは個人に宿るのに対し、日本型のリーダーシップは集団に宿る。

 日本型リーダーの場合、リーダーがどんなに対話を重ねても、当座の解が絶対的な解になることはない。なぜならば、唯一無二の絶対的な解というものを宗教的に否定しているからである。かりそめの方向性で満足しながら、少しずつ変化をしていくのが日本人である。そして、いつもきょろきょろしながら、それでも昨日よりは今日、今日よりは明日といった具合に、よい方向へと向かっていくことを「道」と呼ぶ。道とは、ゴールなき変化である。

 安岡正篤は、『論語』の「子曰く、 人の己を知らざるを 患(うれ)へず、己、人を知らざるを患ふ」という一文について、「『人が己を知ってくれようがくれまいが問題ではない、そもそも己が己を知らないことの方が問題だ』と解釈した方が、もっと切実に感じられる」と述べている(以前の記事「安岡正篤『論語に学ぶ』―安岡流論語の解釈まとめ」を参照)。己を知るとは、天を知ることであり、それが不十分であることを孔子は嘆いているのだ、というのが安岡の解釈である。これは、中国古典における天と個人の関係からすれば、非常に納得感がある。

 だが、日本的価値観から解釈するならば、この一文は原文のまま理解した方がよい。つまり、「私が他人のことをまだ十分に理解していないことが問題だ」というわけである。中国各地を歩き回り、多くの人に教えを説いた孔子であるが、その教えは未だ完成していない。なぜならば、孔子の思想は、他者の中にある様々な天によって試され、批判され、修正されることが足りていないからだ。だから、もっと人々の中に深く入り込んで、他者のことを理解しなければならない。私はそういう決意の一文であると解釈する。



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